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2002年(主日A年) 5月19日 聖霊降臨の主日
使 2:1〜11 Iコリ 12:3〜13 ヨハ 20:19〜23
使徒言行録における聖霊降臨の物語りは、そこから使徒たちによる福音宣教が始まり、教会が生まれて成長して行った出発点の位置を占めています。
この日、使徒たちは 「聖霊に満たされ、“霊” が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使 v.4) のでした。
使 v.1 と 使 v.4 の 「一同」 は 使 v.6 の 「使徒たち」 のことであり、使 v.11 の 「彼ら」 も同様であって、初代教会の宣教は使徒たちに由来するものでありました。
現代に至るまで代々の教会は、この使徒たちに由来する福音の宣教を受け継ぎまた伝えることによって、教会であり続けて来たのだということを想起しましょう。
使徒たちに 「神の偉大な業」(使 v.11) を語らせたのは、聖霊の導きでありました。
この使徒たちの宣教の継続によって、初代教会は誕生し、成長し、前進して行ったのでした。
その宣教はいつも悔い改めと罪の赦しの洗礼の奨め、聖霊を受けること(使 2:38)、そして神の国の祝福の約束 (使 :26) で結ばれていました。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日A年) 5月11日 聖霊降臨の主日
使 2:1〜11 Iコリ 12:3〜13 ヨハ 20:19〜23
「すると、一同は聖霊に満たされ、 “霊” が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」(使 v.4)
この 「一同」 は 使 v.1 の 「一同」 と同じもので、それは使徒たちのことであるのが 使 v.6 と 使 v.11 から分かります。
そして、彼らが話した内容は 「神の偉大な業」(使 v.11)、すなわちキリストの福音でありました。
歴史の教会は、使徒たちが伝えたキリストの福音の宣教を正しく受け継ぐために、キリストの三つの職という教理を聖書から導き出しました。
それは、キリストが預言者であり、祭司であり、王であるというものです。
この三つの職は相互に密接に結びついているのですが、近代の神学はこのうちキリストが王であることを軽視ないし否定する傾向がありました。
この神学の世界で起こったことが、一世紀遅れて現代の教会に訪れている ・・・・・ それほど神学界と教会の歩みの間には時間的ズレがある ・・・・・ ように見えます。
イエスは死に勝利して復活し、王として神の右に上げられ、宣教する使徒たちに聖霊を注がれました。
イエスは今や宇宙の支配者であって、天と地の一切の権能を授かり(マタ 28:18)、すべてを支配する教会の頭であって(エフェ 1:20-23)、栄光に輝いて再び来られます(マコ 8:38, 13:26)。
五旬祭の日以来、このような宇宙的な王であるキリストの福音が、使徒たちによって宣べ伝えられたことを聖書は伝えているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日A年) 5月11日 聖霊降臨の主日
使 2:1〜11 Iコリ 12:3〜13 ヨハ 20:19〜23
教会の過去の歴史を振り返ると、一方ではキリストの祭司としての職だけを偏って強調することによって、敬虔主義と神秘主義に陥り、他方では預言者としての職だけを偏って強調することによって、道徳主義と合理主義に陥って来た実例を見ることが出来ます。
そして私たちの教会も、そのいずれかに近いのです。
20世紀の二つの世界大戦の間に、神学界はキリストの王としての職を再発見する方向に進みました。
聖書はそれ自身の前提の上に立って読まれなければならないということが、次第に理解されるようになったのです。
使徒たちが宣べ伝えた福音が、現代の教会にとっても神のことばであると、再認識されたのです。
しかし教会の実際の歩みは、まだそこに達していないか、あるいはやっとこれから始まるところであるように見えます。
第二バチカン公会議で始まった刷新は、まだ教会では僅かな前進しか見られず、大多数の信者は宇宙的な王であるキリストの福音を信じることも理解することもしていません。
神学界と教会の歩みの間には、それほどの時間的ズレがあるのです。
「聖霊によらなければ、だれも “イエスは主である” とは言えないのです。」(Iコリ v.3)
使徒たちとは無関係に、使徒たちの伝えた福音から離れては、教会にも一人一人の信者にも “霊の働きが現れる”(Iコリ v.7) ことはないのです。
聖霊の働きは、敬虔主義や道徳主義が生み出す人間的なパワーとは別のものです。
使徒たちが宣教したのは、預言者であり、祭司であり、王であるキリストの福音でした。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2002年(主日A年) 5月26日 三位一体の主日
出 34:4〜9 IIコリ 13:11〜13 ヨハ 3:16〜18
「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。 確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」(出 v.9)
父なる神がその 「好意」 によって御子を遣わしてくださったので、「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦され」(エフェ 1:7)、「あなたの嗣業」 の民、すなわち 「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人」(ロマ 8:17) となりました。
実にモーセの神は、私たちの主イエス・キリストの父なる神と同じ方であり、出エジプト記に記された神の救済史は、教会を通して今も進められているのです。
三位一体の神秘を祝うことは、キリストによって実現される神の秘められた計画 (エフェ 3:3-4) を賛美することに他なりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日A年) 5月18日 三位一体の主日
出 34:4〜9 IIコリ 13:11〜13 ヨハ 3:16〜18
神がモーセを通してシナイでイスラエルに律法を授けられたという伝承は、恐らく古代イスラエルの新年祭における朗唱に起源するものと考えられています。
私たちが旧約聖書で読むシナイ伝承の断片は、かつて祭祀伝説というかたちで伝えられて来たものなのです。
私たちの典礼で聖書が朗読されるように、古代のイスラエルの祭祀でも朗唱されたであろう伝承の断片を、今朝私たちは読んでいるのです。
イスラエルの祭りでこの伝承が朗唱されるとき、神が自ら臨んで語られるという信仰体験が、そしてその神へのモーセの嘆願が彼ら自身の祈りになるという場面が、生き生きと目に浮かぶようではありませんか。
古代のイスラエルの典礼において、神がその民を訪れてくださるという主題がいかに生々しいものであったかを、今朝のテキストは示しています。
この主題が詩文として伝えられているものの例は、詩篇の中に数多く見出される他、申 33:2-4 や、士師記5章のデボラの歌、ハバクク3章 などがあります。
この信仰によって、彼らは 「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る」 と歌いました(ハバ 3:18)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2011年(主日A年) 6月19日 三位一体の主日
出 34:4〜9 IIコリ 13:11〜13 ヨハ 3:16〜18
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ v.16)
人にはだれでも幾分かの宗教心があって、漠然とではありますが神概念を持っているものです(ロマ 1:19 参照)。
そして私たちのように、いわば最近ほんの一世紀ほどの間にキリスト教に触れた異邦人出身者は、聖書や教会の教えによって自分の神知識や神理解を豊かにすることが出来たという、たいへん中途半端な思い上がりに安住してしまうのです。
しかし、教会が使徒継承によって保持し伝えて来た福音と神理解は、聖伝と聖書という “教会に託された神のことばの聖なる委託物”(神の啓示に関する教義憲章 10) を通してだけ教えられているのです。
なぜなら “自然の人 (生まれながらの人)” にとっては、神やキリストについての話を聞いても、それを多くの神々の一つのようにしか理解出来ないからです。
“過去にはいろいろな形で先祖たちに語られたが、この終わりの時代には御子によって私たちに語られた神”(ヘブ1:1-2) 以外の他のどんな神も、教会が受け継いで宣べ伝えて来た神とは別物なのです。
教会の信仰は、その死と復活によって私たちの罪を赦し、御国の民を贖ってくださったキリストの歴史的出来事に根拠を持ち、私たちの間に宿って今もその救いの御業を続けておられる聖霊への信仰であり、これらすべては神から出ていることを宣言して来ました。
私たちは、古代教会が多くの戦いを経て、このような神の啓示の総括的表現として定式化した三位一体の教えを、喜びをもって学びましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2005年(主日A年) 5月29日 キリストの聖体
申 8:2〜3,14〜16 Iコリ 10:16〜17 ヨハ 6:51〜58
確かにイスラエルの先祖は荒れ野の40年の旅で、天からのパンを食べたのに死んでしまいました。
しかしそれは、神がイスラエルを御自分の民として訓練するためであったと、申命記は語っています。
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申 v.3)
まず 申 v.1 で主に聞き従うことへの招きが語られ、それに続いて 申 v.2 で40年の荒れ野の旅を思い起こすように命じられています。
なぜなら40年の荒れ野の旅の訓練を通して、神はイスラエルの民が従順であるかどうかを知ろうとされたからでありました。
先祖が食べたマナは、神の摂理の古典的象徴と理解されています。
イスラエルはこの体験を通して、人はパンすなわち物質的なものだけで生きるのではなくて、主の口から出るすべての言葉によって生きることを学びました。
人はその人生も成長も着る物も健康も、霊的な糧と共に、すべて神に依存した存在であることを思い起こしなさいと、申命記は語ったのです。
物質的に豊かになったとき、「主を忘れることのないように、注意しなさい」(申 vv.11,14)、「あなたは “自分の力と手の働きで、この富を築いた” などと考えてはならない」(申 v.17) とは、それが自らを神とする主への反逆と理解されたからでありました。
これらすべてが、キリストのいけにえの奉献であるミサの理解に固く結びついている背景です。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日A年) 5月25日 キリストの聖体
申 8:2-3,14-16 Iコリ 10:16〜17 ヨハ 6:51〜58
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申 v.3)
この 「主の口から出るすべての言葉」 とは、律法のことだと旧約のイスラエルは考えていました。
しかし 「キリストは、律法の終わり (テロス) となられた」(口語訳 ロマ 10:4) のです。
新共同訳聖書はこれを 「律法の目標」 と訳出し、フランシスコ会の聖書は訳注で 「律法を完成する」 と説明しています。
それは、ヨハネ福音書が 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 と、イエス・キリストの受肉の出来事を説明している通りです(1:14)。
この 「言」 を、フランシスコ会の聖書が 「御言葉」 と訳しているのは、示唆に富んでいます。
このようなわけで、私たち会衆が共にミサをささげるとき、「キリストは常に自分の教会と共に、特に典礼行為に現存している」(典礼憲章 7) のであり、
そこでは御言葉となられたキリストが食され、心は恩恵に満たされて、神の国の民である共同体がその旅路の力を得るのです。
教皇ヨハネ・パウロ二世が回勅の中で、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です」 と語られたのは、ほんの7年前のことでした。
今年もキリストの聖体の祭日を祝う全世界の教会の上に、神が知恵と啓示との霊を与えて信者の心の目を開いてくださいますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2014年(主日A年) 6月22日 キリストの聖体
申 8:2-3,14b-16a Iコリ 10:16〜17 ヨハ 6:51〜58
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。 人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申 v.3)
世俗の人は、世の中から苦しみや飢えを無くすることが、人類の課題であると考えます。
少しだけ信心深い人は、そのためには “神の言葉” に耳を傾けることが有益であると主張します。
そこにある前提は、歴史を造り出すのは人類であるという理解です。
しかし聖書が語っている神は、御自分の民を苦しめ、飢えさせることも、そして人は神の言葉によって生きることを知らせるためにマナ (思いがけない出来事) を食べさせることもされる方であります。
神は歴史の主であって、御言葉によって世界は造られ、神の言葉によって歴史は導かれるのです(詩 33:6,9)。
しかもその歴史は、究極的には終末の裁きと神の国の完成に向かって行く救済史でありますから、「言葉を侮る者は滅ぼされ、戒めを敬う者は報われる」(箴 13:13) のです。
私たち教会が “共にミサをささげる共同体” であるということは、神の言葉を、神が与えられる苦しみや飢えと共に受けることであって、そのようにして歴史の完成者である “わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいる” のです。
「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25) キリストを忘れて(申 8:14a)、
人間が自分たちの能力と努力によって歴史に善い方向性を与えることが出来、その目的のために都合よく利用できるものが “神の言葉” であるなどと錯覚してはなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2005年(主日A年) 6月19日 年間第12主日
エレ 20:10〜13 ロマ 5:12〜15 マタ 10:26〜33
使徒たちや教師たちに語っておられる復活の主の宣教命令 (マタ 28:20) を、初代教会がいかに生き生きと聞いていたかを、私たちはこのテキストから理解します。
それは過去のイエスの説教の思い出ではなくて、現在の生きた語りかけであり、しかも語っておられる方は死者の中から復活して教会の宣教と共におられる天上のキリストだからです。
現代の私たちにとってと同様に、初代教会のキリスト者にとっても、十字架の福音は決して分かり易い常識的な教えではありませんでした。
キリストの救いは 「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(Iコリ 1:23) でありますが、救われた人々の体験では、隠されているものを知り(マタ v.26)、暗闇で語られているものを聞く (マタ v.27) ようにして得た福音でありました。
神が受肉して人となり、私たちの罪のために死んで復活し、神の右に上げられてそこから聖霊を地上の教会に注ぎ、終わりの日の再臨を待っておられるという事実があればこそ、
「恐れるな」(マタ vv.28,31) という語りかけは今もキリストの福音の宣教者にとっての力強い慰めなのです。
私たちにとってキリストは伝説の人でも、伝説を元に書かれた小説の中の登場人物でもなくて、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(黙 1:4) であればこそ、私たち自らがキリストの側に立つかどうかが決定的な意味を持つのです。
そのような信仰的な決断を伴わない単なる慣習としての宗教、人生の節目を飾る偽りの気慰めとしての宗教行事が、いかに歴史の教会で容認されて来たかを私たちは知っています。
それは 「神のことばの食卓の富を豊かに与える」(典礼憲章 51) 務めを教会が怠って来たからでありました。
しかし主は生きておられます。
このキリストは 「御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために (終末の日に) 現れてくださるのです。」(ヘブ 9:28)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日A年) 6月22日 年間第12主日
エレ 20:10〜13 ロマ 5:12〜15 マタ 10:26〜33
エレミヤの初期の預言は、エレ 7章 および 26章 に記録されています。
彼は先ず、当時の異教化し、迷信化した神殿中心の宗教に反対して、“ヤーウェに聞き従え” と叫びました。
そして続いて、ヤーウェは御自分の言葉に従わず、その呼びかけに答えないイスラエルの罪のゆえに、“この神殿はシロのようになり(滅ぼされ)、この都は荒れ果てて、住む者もなくなる” と語ったのです。
エレミヤは、祭司と職業預言者たち、また民衆から大いなる迫害を受けました。
彼がどれほど悩み、さらに迫害者たちへの復讐をすら願ったことか。
その嘆きが、エレ 20:7-18 に残されているのです。
「確かに、主がわたしを遣わし、これらのすべての言葉をお前たちの耳に告げさせられたのだ」(エレ 26:15) と宣言するエレミヤは、自分の訴えをヤーウェにうち明け、ヤーウェに任せるしかありませんでした。
使徒たちから伝えられた勝利者キリストに関する福音を、現代の教会が語ることも、またそれに耳を傾けることもしていないという実態を、神はいつまでも見過ごされはしないことでしょう。
聖書と聖伝を通して私たちに語っている方は、神なのです。
教会の教導職や指導者たちだけではなくて、その会衆一同に向かって、“この御聖堂はシロのようになり(滅ぼされ)、そのミサは荒れ果てて、住む者もなくなる” と、神はエレミヤの言葉を用いて警告しておられます。
「一人の (アダムの) 罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の (キリストの) 正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになった」(ロマ 5:18)、
その 「一人の人イエス・キリストの恵みの賜物」(ロマ 5:15) が豊かに注がれることを願って、私たちは各自、心を改めて、自ら聖書に親しもうではありませんか(神の啓示に関する教義憲章 25 参照)。
・・・・・ 以下、本文参照。
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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