【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践11 [転載禁止]©2ch.net
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践10
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1417423646/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体がありますし、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 過去ログ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践10
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1417423646/
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践9
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1349862691/
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践 8
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1291713057/
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践7
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1278592304/
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践6
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1263304731/
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践5.1
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1252905094/
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践5
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1252766603/
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践4
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1246462603/
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践3
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1240833857/
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践2
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1236216089/
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践1
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1233305128/ 31 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/04 19:01
目に見える物質世界は、遊園地の迷路にも似ております。
高い壁で区切られた複雑な迷路は、その中で迷う人間にとっては、
一見脱出不可能にも見えます。
しかし、もし高いところにのぼって、
真上から迷路を眺めることができればどうみえるでしょうか?
ゴールまでの抜け道はいとも簡単に見つかってしまいます。
丁度迷路の真上から眺めることが瞑想をし、
超感覚をそなえることにあてはまります。
五感を遮断したときに、貴方自身が普段意識できない
超感覚的意識が表層意識に現われはじめるのです。
それは、普段貴方が意識しない血液の流れや内臓器官、ミクロの細胞組織まで
正確に活動させ維持させている力であり、それは、天空に広がる惑星をも
動かす力と同質ものです。その想像を絶する精密で、強力な力と貴方の意識が
同化したときに、すべてのことが可能となります。イエスは聖書の中で、
この偉大なる力のことをこう表現しました。
「もし貴方たちがその気にさえなれば、あの山をも動かすことができるだろう」
ーー聖書 マルコ伝
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
シバ命講話集より 7 :聖人シバ命オーム・マニペーメ・フーム(-m-):01/12/02 19:13
低級な動物霊波を放つカルトの人々よ
怒り、憎しみ、嫉妬心、邪心に満ちた人々よ
他人に迷惑をかけるのはおやめなさい
貴方たちは、こうやって自分のカルマを自ら作り出しているのが
まだ理解できないのですか?
他人を愛し、尽くしなさい
決して、罵倒中傷してはなりません
あなた方が人を罵倒したときに、それは自らに向かって
罵倒していることを理解するのです
天の父よ、彼らを許したまえ
彼らは今自分がなにをしているのか分かっていないのです
彼らが幸せでありますように・・・
人類が平和でありますように
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
慈愛の化身 シバ命より 10 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/02 19:45
いかにすばらしいものがあっても、それをとらえる側の性質が
ひずんでいれば、そこから何も学ぶことはありません
それは、歪んだ心の持ち主は、
すべてのものが歪んでみえるからに他なりません
剣の道において、無我の境地にたっした剣豪宮本武蔵は
こういいました。「我以外は皆師である」
賢人は、すべてのものから、何かを学ぼうとします
この世で起こるすべてのことは、学びの機会ととらえ
謙虚にそれを得ようと努力精進するからです。
考え方を変えなさい、全てのものから学ぶ謙虚な気持ちを忘れないように
しなさい。そうすれば、あなたの人生は、その瞬間から
一瞬一瞬が尊いものへと変わることでしょう。
精進しなさい。常に謙虚であることを忘れないように努力しなさい。
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
シバ命 霊的指針 15 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/03 08:31
>哲亜鈴様へ
あなたが綺麗な衣服でいくら着飾っても、
たとえ、体中を宝石でちりばめたとしても、貴方の心の中が
憎しみ、怒り、嫉妬心、妬みなどの邪悪な心に満たされていては
少しも魅力はありません。
なぜなら人の魅力というものは、
魂の内奥から湧き出てくるものであるからです
もしあなたの心の内面が愛と勇気と優しさに満ちたものであるなら
例え、外見でボロを身にまとっていても、貴方の周りには
まるで磁石にひきよせられるかのように
自然に人が集まり、あなたに魅了されるようになるでしょう
心の汚れを消しさる努力をしなさい
貴方の魂を磨きなさい
そうすれば、貴方の日々の生活がもっと充実した
楽しく活動的なものになるにちがいありません
幸せでいなさい幸せでいなさい(^^)
オーム・マニペーメ・フーム(−m−)
シヴァの化身★聖人シバ命の霊的指針より 19 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/04 18:52
何時の時代でも真理は一つしか存在しません
何時の時代のどのような聖者も
たった一つの真理を説いてきたのです
真理には宗教という垣根など存在しません
歴史上の全ての賢人は同じ真理を説いてきました
賢人たちはそれぞれの言葉の裏側にある共通の本質を観ようとしますが
本質を見抜けぬ愚かな人間は、表現上の言葉の違いに左右されて
「宗教」という垣根で分類してしまうのです。
瞑想に精進して、本質を観る目を養いなさい
そうすれば、すべての宗教は同じことを言っていること悟るはずです
どんな宗教にも目新しいものなど何一つありません
すべては共通するたった一つの真理を説いているのです
感覚器官を制御し
瞑想してそれを感じ取りなさい。
五感が捉える迷いに惑わされないように
常に注意を払いなさい・・・
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
シバ命金言集より 21 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/04 18:53
あなたがたは、あまりにも理屈で物事を考えすぎる
しかし理屈で物事を考え続ける限り真理は見えてきません。
たとえば、ある流行の店の料理があって、
どうしても食べたいのだが食べられない
そこで食べたことのある人に対して、上記のような質問をするとしよう
「うまい料理で有名なあの店の料理は、
端的にいうとどのような味なのでしょうか?」
あなたがもし、その料理を食べた人間であれば、何と答えるのでしょうか?
甘くて、しつこくなく、後味がよくて、あっさりしてて、隠し味がぴりりと
きいて、こくがありなどなど・・・・
たとえ100の言葉をならべてみたところで、
その料理の味を説明することはできますまい。
例え、たくさんのその料理を解説した本を読んだとしても
少しもその料理についての味を理解することはできないでしょう
丁度真理を説明するというのは、そのようなものです。
たとえ、何百冊の宗教書を読破しても、
あなたはそれを悟ることができないでしょう。
それどころか、ますます迷いが深まるばかりです。ましてや
端的に言うとどのようなものかといわれて、何と答えることができましょう
貴方は今そのような質問を私に投げかけているのです。
味わいなさい、それが真理を探究する唯一の道です
瞑想しなさい、それが真理を味わう唯一の道です。
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
シバ命金言集より 22 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/04 18:54
その昔、仏陀が布教の旅の途中、ある町に滞在していたときのことです。
ブッダを怨む者が、先回りして、町中に仏陀たちの悪口を言いふらしたのです。
その結果、弟子たちが托鉢に出かけても、何ももらうことができないだけで
なく、どこへ行っても口汚く罵られるばかりになってしまいました。
困り果てた弟子のひとりが、仏陀にこう言いました。
「世尊よ、こんな町にいることはありません。早く別の町へ行きましょう」
するとブッダは、
「だが、もし次の町もこのようだったらどうするのだ」
と逆に問いかけたのです。
「それでは、また次の町へ行けばいいでしょう」
弟子が答えると、仏陀は、こんなふうに諭したそうです。
「それでは、どこまで行っても同じことになるではないか。
私は、辛い目や苦しい目に合うときには、それを十分に味わってみて、そ
れから次の町へ行くことが大切だと思うのだ。
どのような苦痛や中傷、または快楽や虚栄などに動かされないことこそが、
仏の心ではないだろうか。
これらのことは、すぐに通りすぎるものであるし、そこから本当の強さと
いうものを学ぶことができるのだろう」
シバ命の金言集より 24 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/04 18:56
もし、子供が火遊びしたいという欲求を抱き
子供自らの理性やそれまでの経験を総動員して、
「火遊びをすることは自分には価値があることだ」
と判断し、それを実践しようとしたとする。
しかしそれを見ていた子供より、より高次の判断が
できる親が子供の火遊びを怒って止めた場合、
子供は、なぜ自分がしたいことを親がとめるのか
理解に苦しむことでしょう。
しかし人生経験を積み重ねて、火遊びは危険なものであることを
判断できる年頃になったときに、子供はなぜ自分が小さな頃
火遊びをしようとすると親に怒られたのかを理解しはじめます。
小さな子供が理性や経験を総動員したとしても、
真理に基づいた判断ができないことはいうまでもありません。
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
シバ命金言集より 25 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/04 18:56
しかし、子供と親の思考がつながっていて、お互いに考えを直接
テレパシーのように交信できたとしたらどうでしょうか?
子供は瞬時に親の立場になって、親の思考と同化し、自分自身の未熟な
経験や理性を超えた、親と同じレベルの高次の判断をくだすようになります。
丁度それを貴方の話であてはめた場合、瞑想という作業がそれに値します。
瞑想によって、高次の存在とつながれるようになるために、
自分の理性や経験を超えた判断がくだせるようになるのです。
そしてそのことが本当のことであるかどうかは、瞑想してみることによって
実際に体験できます。世界中のほとんどの宗教的な教義は、
ただその教義を信じるように説きます。
しかし真理は、強制的に信じるものではなく、実際に体験して、
それが真理であることを悟るものなのです。、
ですから、宇宙を支配する至高なる存在は、我々に人生という経験の場を
与えているのです。実際に体験してみて、それが真実であるか否かを試して
みるのです。そうするとあなたの中にあるより高次な存在が
あるときは、内的意識のひらめきよって、
またあるときは、外的現象によって、貴方を導くことになるでしょう。
まさに貴方の人生の経験となって、ありとあらゆるところにそれは現象として現われはじめます。
瞑想を味わいなさい。そうすれば、あなたは真理を味わうことができるでしょう。
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
シバ命説法集より 25 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/04 18:56
しかし、子供と親の思考がつながっていて、お互いに考えを直接
テレパシーのように交信できたとしたらどうでしょうか?
子供は瞬時に親の立場になって、親の思考と同化し、自分自身の未熟な
経験や理性を超えた、親と同じレベルの高次の判断をくだすようになります。
丁度それを貴方の話であてはめた場合、瞑想という作業がそれに値します。
瞑想によって、高次の存在とつながれるようになるために、
自分の理性や経験を超えた判断がくだせるようになるのです。
そしてそのことが本当のことであるかどうかは、瞑想してみることによって
実際に体験できます。世界中のほとんどの宗教的な教義は、
ただその教義を信じるように説きます。
しかし真理は、強制的に信じるものではなく、実際に体験して、
それが真理であることを悟るものなのです。、
ですから、宇宙を支配する至高なる存在は、我々に人生という経験の場を
与えているのです。実際に体験してみて、それが真実であるか否かを試して
みるのです。そうするとあなたの中にあるより高次な存在が
あるときは、内的意識のひらめきよって、
またあるときは、外的現象によって、貴方を導くことになるでしょう。
まさに貴方の人生の経験となって、ありとあらゆるところにそれは現象として現われはじめます。
瞑想を味わいなさい。そうすれば、あなたは真理を味わうことができるでしょう。
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
シバ命説法集より 26 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/04 18:57
感覚器官いわゆる五感で捉えれるものに
真理はありません。
みるもの、聞こえるもの、触れるものに惑わされてはなりません
それらは、皆幻影でしかありません。
幻影を捉える感覚器官を遮断してみなさい
そうすると、それまで、あなたが経験しなかった
超感覚が次第に内的意識に現われることでしょう
瞑想に励みなさい、そして真理を実体験してみなさい
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
シバ命金言集 28 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/04 18:59
あなたが外的なもの、すなわち感覚器官である五感を通じて得た情報に
左右されつづけている限り、行き着く先は、失望のみです。
丁度それは砂漠の中で、オアシスの蜃気楼を追いかけることとよく似ています。
いけどもいけども真理は遠のくばかりです。
実体のありもしない映画のスクリーンやテレビのブラウン管の中に
実物が存在していると思い込みスクリーンをなでまわしたり、
テレビの中を除いたりしても、何もみつかるはずはありません。
指導者とはその人物に準備ができれば、至高の存在が与えてくれるものであり
準備の整っていないものが、無理やり捜し求めるものではありません。
この全宇宙の至高の存在は、貴方が心配しようがしまいが、酸素をあたえ
細胞を活動させ、寝ている時間でさえも休みなく、すべてのものを
維持してくれています。貴方が望もうと望むまいと、はじめから必要なもの
すべては用意してくださっているのです。至高の存在はなにも人間のみから
あなたを指導するのではありません。あるときは、人生の体験から、あるときは
書物から、あるときは、人間以外の様々な生き物や無機物でさえも、
すべてのものを使って貴方を聖なる方向へ導こうとしています。
至高の存在は、様々な人間のタイプにあわせて、その人の一番納得しやすい
やり方で、導いてくれるのです。至高の存在のみちびきは
人間の思考の範囲を遥かに超えています。あなたが瞑想を実践をすればするほど、
そしてそれが深まれば深まるほどに、この世の隠された秘密を
少しづつ解き明かしてくれることになるでしょう。
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
シバ命説法集より もし本気で貴方がとりくめば、ほんの数ヶ月もしないうちに、この恐るべき
瞑想の力を自分自身で体験できることになります。
瞑想は小手先の技法などではありません。正座や蓮華座で普通に長時間
静寂の中で座れるようになれば、すぐにでもこの力が体験できるように
なるはずです。たしかに様々なテクニックもなくはないですが、それは
貴方さえその準備が整えば、大いなる力があらゆる手段を使い
あなたに完全なタイミングをもって与えてくれるはずです。
本気で求めなさい。そうすれば、至高の存在は、
本当の貴方の力に気づかせてくれるはずです。
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
シバ命講話集より 37 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/04 19:05
カルマの精算に不平不満を言っているうちは、いつまでも同じ不幸を
繰り返すだけです
あなたがたが受けている、不幸、災難をプラスに捉えなさい
人に中傷をされることによって、自分が少しでも人にやさしくなれる
人に罵られることによって、よりいっそう自らが努力する起爆剤にも
変化します。それを不幸と受け取るか成長のためのチャンスと捉えるか
は、あなた次第なのです。心を高めて、あらゆる物事に動揺しないように
しなさい。この世に無駄なことなど何一つ存在しないのです
精進しなさい。常に霊的努力を怠らないように励みなさい
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
シバ命 霊的指針より 44 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/04 19:10
>言葉が毒矢のようにつきささり、ときには、ちょとした一言
おっしゃるとおり言葉はきっかけぐらいにはなります
しかしそれ以上のものにはなりません。
料理を食べることにたとえると、言葉による表現は、
匂いをかぐ程度です。たしかに匂いにつられて興味を注いだり
しますが、食べるに至ることは、絶対にありません
同じように、言葉の表現とはそのようなものなのです。
歴史上あらゆる賢人がといた教義がこれはど多くの宗派にわかれたのは
一つは言葉のとらえ方の分裂にほかなりません
言葉は真理を歪める原因となるものです
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
シヴァの化身★聖人シバ命 禅の世界には公案といって、師匠が問い掛けた一つの質問を
ひたすら座禅することによって、その答えを悟ることを修行させられます
この考えは、世界中の書物を教義とする宗教にくらべて、かなり本質を
ついているといえるでしょう。
何ヶ月も同じ質問を自分の内的意識に問い掛けることにより、
心の内奥から真理を引き出す訓練をするのです。
もしその問い掛けた質問の答えが悟れなくても、師匠は答えを教えません
答えは、暦的悟りの段階によって違いがあり、何が正しいというものはないのです
それどころか、その答えを言葉にした瞬間に
受け取る側で本質を曲げてしまう可能性があるからです
釈迦の教えも、キリストの教えも、書物にしたのは、本人の死後何百年も
経過してからのことです。霊的に発達した賢人たちは、いずれも
自分の教えを書物にしてしまうことの危険性を悟っていたのです
教義や言葉として残されている賢人たちの知識などは、
興味をもたすきっかけ作りでしかありません
内的意識へ問いかける意外に、真理を悟る方法はありません
霊的な釈迦やイエスの銅像がなぜ目を閉じて、手を合わせているのか
考えてみなさい。内的意識に神経を集中することが、
すべてのはじまりなのです
オーム・マニペーメ・フーム(-m-)
シヴァの化身★聖人シバ命 22 :シヴァの化身☆聖人シバ命オーム(-m-):01/12/04 18:54
その昔、仏陀が布教の旅の途中、ある町に滞在していたときのことです。
ブッダを怨む者が、先回りして、町中に仏陀たちの悪口を言いふらしたのです。
その結果、弟子たちが托鉢に出かけても、何ももらうことができないだけで
なく、どこへ行っても口汚く罵られるばかりになってしまいました。
困り果てた弟子のひとりが、仏陀にこう言いました。
「世尊よ、こんな町にいることはありません。早く別の町へ行きましょう」
するとブッダは、
「だが、もし次の町もこのようだったらどうするのだ」
と逆に問いかけたのです。
「それでは、また次の町へ行けばいいでしょう」
弟子が答えると、仏陀は、こんなふうに諭したそうです。
「それでは、どこまで行っても同じことになるではないか。
私は、辛い目や苦しい目に合うときには、それを十分に味わってみて、そ
れから次の町へ行くことが大切だと思うのだ。
どのような苦痛や中傷、または快楽や虚栄などに動かされないことこそが、
仏の心ではないだろうか。
これらのことは、すぐに通りすぎるものであるし、そこから本当の強さと
いうものを学ぶことができるのだろう」
シバ命の金言集より 【これは意外】瞑想が躁病やうつ病の引き金になる可能性ありと専門家が警鐘
ttp://irorio.jp/sousuke/20150526/232000/ 世界一の智慧者を自称する香具師発見(画像あり)
Arahant☆Oseki@Globe
http://twilog.org/ototachibanana/2 カルシュームを取るだけでは骨は強くならない。
それと同様に瞑想だけでは人の心は腐る。坊主がよい例だ。糞坊主だらけではないか?
ブッダの教え tamasic
Syllabification: ta·mas·ic
Pronunciation: /təˈmasik/
http://www.oxforddictionaries.com/definition/english/tamasic
(In Ayurveda) denoting a class of foods that are
dry, old, foul, or unpalatable, and are thought to
promote pessimism, ignorance, laziness, criminal tendencies,
and doubt. Compare rajasic, sattvic.
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<翻訳>
オックスフォード大辞典より
タマシックとは?
アーユルヴェーダで食品の分類をあらわす語句
乾燥した、古い、汚い、あるいは口に合わないもの。
悲観、無知、怠惰、犯罪的傾向を促進する食品
ーーーーーーーーーーーーーー
タマシックフード
肉、魚、アルコール全般、加工食品(加工肉、パスタ、スナック菓子等)
発酵食品、乳製品等
※肉、魚はそれらを殺した直後に食べるわけではなく
一般的に腐敗させてから(=熟成)食べることはあまり知られていない。
肉や魚は、ラジャシック(刺激物)であり、タマシックでもある。 韓国ソウル市が学校や公共施設で「肉なしベジタリアンデー」を導入
http://veggiemonday.japanteam.net/news.htm#30
ソウルではすでに、150の学校や施設が、月曜日にベジタリアンメニューを
提供しています。
キャンペーン事務局がソウル市長と会談したところ、
ソウル市長は、この「肉なし月曜日運動」への参加施設を、
150から300に拡大していきたいと、
たいへん意欲的に取り組まれているとのこと。 そんなことよりおまいら!
海栗飼ってるボンボボボンがイラスト化されたぞw
http://twitpic.com/29ojzc 釈迦はもうおまいりはしてはいけません!
釈迦は修行中に1つの大きな勘違い失敗をしたそうです。
こいつは姦淫を当時他の宗派が硬く禁じてるのを自分にも取り入れようとした時、捉え間違いをしています。
他の宗派が性行為を禁じてたのは、原始時代の人間達では用扱えない、まずい方へ行く方が圧倒的多い落ちだった
ということでした。ところが彼はそれそのものが汚らわしいと言われてる表面だけを捉えその因縁を全て切って
しまったのです。他の西洋などの宗派は表面上は汚らわしいと言ってても禁止していた本来の理由が違うので
現代では裏で?分別して開放するほうに向かってるとの情報がありました。
これを知った釈迦は、それならこっちもと、共感するスタジオMAXの内O順久に憑依などしてアダルト作品を作り
ド失敗しました。
で、おもしろくない釈迦は内Oを使って他の成功してる者たちをつぶしにかかったりもしました。おかげで死人
や廃人もでています。
それではあきたらず、ストレス解消半分に宮崎勤や酒鬼薔薇聖斗に憑依か支持し連続猟奇殺人を起こしています。
そして再び内Oにもどり、「ほらみろっ!!あんまりそそるようなもの作ると影響されてあのような事件起こす者が
出るんだぞ!」と表面からは自分の失敗を正当化して他はけなす惑わしをしました。
酒鬼薔薇聖斗も最近本を出したり、ホームページなどを開設して自分の悪事を正当化し他はけなす惑わしを
やっています。ただの惑わしではありません、釈迦、釈迦系の術まで入っているかもしれません。
気持ち悪いといいながらも裏でついつられて画像などをコレクションした人も多いのでは?気をつけてください! 因縁を切り修行を積み悟りを開いてブッダになれば聖者になり安住の地に?どこがだ!?と言いたい。現に開祖の
こいつ自体がひどく醜い嫉妬にくるってもがき苦しみバカな言動を連続してやってるとの情報がこのようにあります。
だいたい釈迦が悟りを開く前にブッダになった人など方法記録を残してなかっただけで、実は幾人もいます。
結局、仏教の行はあまりにも悪因縁が込み入ってどうにもならなくなった時の1つの整理法だと考えるべきでしょう。
やり方を誤れば釈迦のように“ただのダメ人間”なってくだけ、あるいは凶悪犯になってしまいます。
釈迦は長いこと人類をだまし悪行やってきたのがばれて抹消対象となっています。
だから、仏教の僧や人々は方法を一部注意して持ってくるのはいいでしょうが、釈迦や不動などを唱えてはいけません。
プチ業などで行く宿坊などもそうすべきです。また、禅宗等にある「釈迦が現れたら釈迦を切り・・」という言葉
などは今こそ本当の意味で実践すべき時です。 日本の糞仏教は教えは滅茶苦茶だし
出家すら受け付けてくれないし
結局ミャンマーに出家するにも色々な苦労が掛かる
出家するのも大変だなぁ・・・ここまで大変だとは思わなかった >>43
>日本の糞仏教は教えは滅茶苦茶だし
所詮、宗教なんだからある観点からしたら滅茶苦茶に見えるのは当然。
釈迦の教えつーか原始仏典もフツーに読めば、電波ゆんゆんだぜ。
異教徒や仏教文化圏外から見れば尚更そうでしょ。
>出家すら受け付けてくれないし
いや、仏教徒でもない俺でも出家の仕方、いくつか知ってるんだが。
そこらの寺に行って出家させてくれって文化的に違うから無理でしょ。
在家におんぶにだっこのテーラワーダの出家と違い、葬儀法事屋の
日本の坊主は出家を簡単に養えないんじゃないか。
>結局ミャンマーに出家するにも色々な苦労が掛かる
>出家するのも大変だなぁ・・・ここまで大変だとは思わなかった
やる気、なさすぎでしょ。
金も気力もないなら仏縁がなかったということで諦めたらいい。 正直、お金の心配がいらないくらいの状況なら出家しやすいのかな
お釈迦様の時代も「資産家」(成功した新興商人)あたりが出家する
パターンが少なくないみたいだ。 スマナサーラや西澤卓美や地橋某や藤本晃などテーラワーダを
金儲けに利用する連中のおかげで勘違いしやすいが、出家は スマナサーラや西澤卓美や地橋某や藤本晃などテーラワーダを
金儲けに利用する連中のおかげで勘違いしやすいが、出家は
金に関わることができないから、ものすごい覚悟がいるよ。 >>43
関東在住の20代の者です。
私も出家したいと考えております。
情報交換したいと思います。
出家はほんとうに最近考えたばかりで何も知りませんが。 >>45
>やる気、なさすぎでしょ。
>金も気力もないなら仏縁がなかったということで諦めたらいい。
出家するのにやる気が必要かどうかはわかりません。
一緒に戒律を守り高め合える集団や環境を求めています。
一応、1〜6までのチャクラは開いております。
神通力を得るための方法もなんとなく。
ただ環境が。。 チャクラが開いたって、誰だって開いてるっつーの。
チャクラの大きさ、強さに個人差があるだけで。
他人より開いていたらとっくに、ひとかどの人物になってるよ。 仏陀の教えを真面目にやって、ストレスがたまり早死にする、在家の女性。
それに対し、自分がやりたくない戒律は破ってよい僧侶。
えらそうにご高説、演説、お説教。悪口も言い放題だ。
こんなナマケモノの法話を聞いて瞑想に全力投入とかしてはいけない。
自分の家族、自分の人生、趣味、おいしいもの、旅行、映画、運動!
慈しみになんか基づかなくても、人と人はコミュニケーションをしている。
生きているだけで、誰とも関われってない人はいない。
何度、瞑想指導をうけようが 法話を聞きに行こうが
人間同士としてコミュニケーションをはかれないのがスマサナーラ。
金をまきあげる対象、自分が実行してないお説教をたれるだけですむ相手。
そういう風に見下しているんだよ。 スマナサーラが、在家の人生にアドバイスするだって?お笑いだね。
13歳からサティアンで洗脳されて育ってきた純粋培養だぜ?
そんな人生経験もないし、とにかくセンスがない。
地図と地形が食い違っていたら、地形をなおすようなトウヘンボクだよ!
人間が、そんな経典にあるとおりの半で押したような反応するかよ!!!
どうしてスマの弟子はあんなに太ってるんだ?相撲取りみたいのがいるだろう。
食いすぎなんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
なにが解脱にいたるため、身体を維持する適量を観察してたベます、だよ。
肉体労働でもあるまいに、普通の体格の人の3から5倍は食ってるだろう。
植えている人、苦しんでいる人の気持がそれでわかるのかよ。金玉フヤケ野郎!!!””” 努力してないヤツほど、他人に頑張らせようとするんだよ。
偉大な師匠だと勘違いして、人生を浪費しちゃだめた。
あんなやつに心酔して時間を無駄にしちゃだめだ。
金は自分で稼ぐものだ、口先でスピリチュアル詐欺やって食ってるような奴に
指導うけるいわれはねえんだよ。仕事なんかしらねえぜ。スマは。
あのクソ協会でいちばん偉くなっちまったんだから、誰からも駄目だししてもらえないんだよ。
お金で悩んでる人、独立して仕事してもいい。
あんなバカどもでもやってるんだ。
人間関係で悩んでる人、テラワダ協会を見たらいい。相談に来た人を見下して馬鹿にして、あまつさえ
指導者がいたらない人間をなおしてあげているつもりで生きてもいいんだ。
そちゃ、気分がいいだろうよ。
あんなカンタンな汚い生き様でゆるされるなら、誰もなやまねえよ。そうだろ? 宗教は奴隷学で
今日も熱狂信者一人作るに他人三人は関連死してる 朝日カルチャーでは、ババアのマンコなめんばかりに愛想いいんだよ、スマは。
興味を持ってゴータミー精舎にいってみろよ。急に師匠ヅラして高圧的になる。
自分の心をなおぜとかいって まともな会話にもならねえ。
指導がめんどくせえなら、布教すんじゃねえよ!!!!!!!!!!!!!
布教と宣伝ばっかり熱心にかけずりまわりやがって あれで仕事できてるつもりだよ。
ココロが清浄になる実技、仏教なんてなにひとつ伝わってねえよ。
できている人間に、会ったことない。
スマがだらしねえなら、周りにいる人間が親切に成長していてもいいが
そんなやつも 一般社会よりやたら数が少ない。
何も宗教やってない人間は、もっともっと優しいよ。助け合っているよ。
バカじゃねえのか。俗世間で修行しなおしてこい、バカ面さらして布教してねえでよ!!!! >>51
ありがとうございます。そうなのですね。
チャクラの大きさ、強さというのは弱くなってしまう事ってあるのでしょうか?
チャクラの強い人は常に激しく振動していたりするのですか?
それとも開いた時だけ振動するだけだったりするのですか? チャクラに拘るのはもう辞めるべき
大事なのは、全ての人の望み「幸せになること」ただ1つ
そうだろう? >>58
いったいあなたは誰なんですか・・?ブッダですか? 色々やったけど最終的に原始仏教の道しかないと分かった
結局この世界で完全に幸せに成る道は初めから1つしかなかった 誰もいない山で飢え死にしようと考えているのですが悪い事なのでしょうか・・ http://blog.livedoor.jp/satoutesurou/信者のお金、戦争反しかもスマも意見言えない税に黙ってたら、その内タイへーか http://blog.livedoor.jp/satoutesurou/精神障害者だって人間だテーラワーダ協会を私物化するな反政府活動家が警察に泣きつくな あらゆる責任は私にあるだから人間の尊厳と正当なる権利は自ら勝ち取るhttp://wwwjtheravadanetsatoutesuroushibuykusyogaisyaombudsman0000.dreamlog.jp/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:c70c250dd91bb29f505857436e0bc8bd) ゴエンカ式のゴエンカ氏ってどういう人なんでしょう。この人だけ、どうもいまいちわからなくて。
強いていうなら実業家になるんでしょうか?宗教家って感じではないですよね。
あと、そもそもの仏教の目的って何なんでしょう。出家?? 最近はアマテラスやアマテラスの所の特に“ヤタガラス”や“天狗”のあるいは別の“孔子やその残党”(孔子は相手にはごちゃごちゃおしつけるくせに
自分は不動と組んで何度も裏切り泥棒などをやってるようなゴミでした)
の悪行言動をきっかけにして釈迦のもと10代弟子の一人マハーカッシャパなどと組み
そこへ不動、キリスト、ユダヤ教、釈迦、フリーメーソンらやそれらの残党が便乗して悪事を数々やってることが多い!
こいつらがイスラム教にまで隠れ潜んで悪さをやってる事もあります。
それをどかそう潰そうとすると様々な仕掛けで邪魔してくることもあるので
上のただしい神仏グループに頼むなりなんなりして注意してかかることでしょう。
とことん入れ替え弁償にして抹消しきらなければいけません。
だから唱えてはいけません!となえるとひどい目にヤタガラスなどからあうどころか正しい神からも一緒に罰を受けます。
それにかしずかいてる霊媒師などもついていってはいけません。
うまくいかないことなどがあってこいつらをつい唱えたくなったら、騙されずそこを変わりに降三世明王や大元帥明王などを唱えて
「ヤタガラスらはよくも何万年と我々を騙す他しやがったなっ!!取られたものは取り返し、植えつけられたものは植えつけ返すっ!!」
という入れ替え弁償を強く念じて、さらに「ヤタガラスらは毒殺でも何でもされて全次元から完全抹消されよっ!!」と念じ唱えてください。
降三世明王の真言ーノウマク シッチリアジビギャナン サラバタタギャタナン アンビラジビラジマカシャギャラバジリ
サタサタサラテーサラテー タライタライ ビダマニサンバンジャニ タラマチ シッタギリヤタランソワカ
オンソンバニソンバウンバザラウンパッタ
大元帥明王の真言ータリツ タボリツ パラボリツ シャヤンメイ シャヤンメイ タララサンタン ラエンビソワカ >ゴエンカ式のゴエンカ氏ってどういう人なんでしょう。
ttp://www.horakuji.hello-net.info/dhyana/sikan/samatha_vipassana.htm
ご参考までに(すでに知っていたらご容赦!) チャクラやオカルトはテーラワーダ仏教とは関係ないと思ってました。
理由もなく仏教は好きですが日本では宗派がありすぎてそもそも何が仏教なのかすらつかめません。
アルボムッレ・スマナサーラ氏の方法を本で知り、なるほどと思いましたが、
瞑想に参加するとそんなに問題点があるのですか? 自分に会う人と会わない人があります
合わなければやめればよいのですけど 商売人で破戒僧のスマナサーラがダメなら極左活動家佐藤哲朗、
佐藤哲朗がダメなら、仏教商人の西澤さんやさんや地橋ナンタラが
いるし他にも同じような有象無象がいるから安心していいよ。 ヴィパッサナ-スレなくなってるのかぁ。。。。
避難所とかあったりするの? 少なくとも日本の大乗仏教よりはテーラワーダのほうが説得力あるよなー、と思う。
テーラワーダがもっと広まって、日本の仏教も少し危機感を持ってほしいと思う。 テーラワーダはどの国でもカルト。それは原始仏典がカルトだから。
日本の大乗は習俗。誰も教義なんて気にしていない。 昔とあるマハシ系のヴィパッサナー団体に行ったけどその当時は
心のあり方がテーマになっていてね。瞑想しても
心の反応が変わらないと何も意味がないという指導だった。
それ以外に道はないような感じでね。非常に圧迫感があった。
感想を言うときも健康食品のレビューにあちがちな「〜のおかげで
○○になれました。感謝しています。」などと団体主に好まれる感想でないと
全否定されたりね。 その時の気分やマイブームで指導内容が変わるところも団体によっては
あるってこと知らなかったからね。瞑想業界に限らず何処の業界でもある話。
ただワンマンで精神支配しようとしてもカルトと変わらないんだよね。
その人はただ厚意でやっていたのだろうけど厳しさを履き違えてるんだよね。
自分の教え方がその人にとってどうなのか?合っているのかそういうことを
指導者自身が自問自答していくことも瞑想に限らずスポーツでも学んでいくべきことだと思う。 そんな私を救ったのは心と体は心身一如という考え。
心の反応が変わらないときは徹底して座る方法がある。
名著ミャンマーの瞑想法では飾り気なくそのまま教えている。
座ることで自ら学んでいく。誰かに人生相談するのではなく
座禅によって解決していく。こういう方法もあると私は思っています。 マハーシって、何を参考に瞑想法作ったんだろうね。
元ネタだと当人が主張する仏典とは毛色が違うし。
セミナー商法とは親和的でスマナサーラのとこに入信した
バカどもも、やたら指導者になりたがっていたらしいね。 悟りって何なんでしょうか。指導者になるってこと?
指導者になることがゴールその1なんでしょうか? 私もいつも疑問に思っていました。
「悟り」がそんなに素晴らしいものなら、途中で指導者などにならずに、そのまま
阿羅漢になるまで修行を続ければいいのにと。なぜか、瞑想指導できるくらいに瞑想
が上達した時点で、指導者に転じてしまう方が多いように思います。
まあ、真に阿羅漢を目指して修行を継続している方は、そもそも表舞台には出てこな
いでしょうから、そういう真摯な修行者もどこかにいらっしゃるとは思いたいですが。。 >>94
世界No.1マジシャン遠藤大河さんの究極のテーブルマジックvol.A[
https://www.youtube.com/watch?v=g6sudUcNjnE
修行から帰って来ました☆
http://ameblo.jp/endotaiga/
表舞台に実はたくさんの素晴らしい人たちはいると思います。 セロのマジック
https://www.youtube.com/watch?v=9oULp8xDuXQ
神足通 機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。
「一から多に、多から一となれる」
「姿を現したり、隠したりできる」
「塀や、城壁や、山を通り抜けられる」
「大地に潜ったり、浮かび上がったりできる」
「鳥のように空を飛び歩ける」
「月や太陽をさわったりなでたりできる」
「梵天の世界にも到達できる」 なんかよく知らんが、寺和田瞑想やるなら、普通に、例えば臨済宗の寺に行って座禅したらと思います。
臨済禅は「いまここ」がキーワード、「数息観」が有名らしいです。 >>92
「大念住経」でしょ
立っているとき、「私は立っている」と知る
長く息を吸っていれば「私は長く息を吸っている」と知る
みたいなの
後はラベリングの有無だけ スマ長老が昔苫米地英人と対談したそうだが
本にはならなかった?ようだが
<苫米地>
本当にそういう分け方をするのがいいのか別として。
小乗は「自分が悟ればいいや」って。自分の幸せのためにやってるのが小乗仏教。
でも、大乗は他人のために役に立つことをやってれば大乗でしょ?
だから、上座部仏教のスマナサーラさんっていう有名な長老と対談したときに、
「今日からあなたは自分を大乗仏教って言いなさい!」って、
僕、言ったくらいなのね。
そのスマナサーラさんは「うーん、そうだね」とかって言ってたっていうね。
それは、ホームページの中に上座部仏教って書いてあるけど。“上座部”って偉そうじゃん?
「それより、あんたたちがやってることが大乗でしょ!」って言ったの。
だって、わざわざスリランカから日本に来たってことは人の役に立つために
やってきたんだから。大乗じゃん? 続き
>お釈迦さんの仏教を教えてるってことは、最初から全部大乗なわけだから。お釈迦さんがスクっと立ち上がって説法を解いたわけだから。
>大乗でしょ?
こんなんで言いくるめられるってヤバいでしょ。
ディベートの技術なのかなんなのかしらないけど落とし穴に誘導されて
見事に嵌められちゃった感じ。苫米地が作ったみえみえの罠にホイホイ
ついて誘導されちゃうとかどういうこと? 大乗小乗って大乗仏教側が作った概念なんだからそれを
受け入れてしまったら誘導されてしまうのは当たり前なんだよね。 誹謗中傷とかじゃなくてさ。苫米地みたいな俗物に負けないでほしいって話。 スマナサーラのような苫米地を遥かに凌駕する俗物の話題に
思い付きを書き込んで何レスも消費しないでください。
>>1のテンプレにあるようにスレ違いです。
>※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、
>日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘について
>だらだら語る場ではありません。 >>102
「うーん、そうだね」だから話を合わせてるだけで主張に同意してるわけじゃないでしょ
だいじょぶ、だいじょぶ 他のお祈りとか妄想とかと次元が違います、2500年たっても真の科学が、世界でこれしか知られてないとは不思議です。
心理科学であるブッダの言われる「法」が広まりますように。
ただし今の社会の現状だと、幼少からよっぽど頭がいいか、挫折して立ち上がる人以外気づかないかとも思う。 >>108教会の関係者でありませんが、出来ないことを請け負う義務はありません、当然のことを言っただけです。
他人のことを非難する前に、妄想壁のある人を相手に自分ができるのか、あくまでも無限の義務はないんです。 「関東超巨大地震シュミレーション」
関東で超巨大地震がおこり、富士山が噴火(ふんか)する!!
地面が液状化する!!
主婦がムリに、ガスを消そうとしてヤケドする。
(ゆれがおさまってからガスは、消しましょう)
サラリーマンが、机に、かくれて、ゆれがおさまるのをまつ!!
サラリーマンが、会社に、おいていた、「運動靴」で帰宅する!!
(会社に「チョコレート」と「カンパン」と「カンヅメ」がおいてある)
サラリーマンと労働者が、いっせいに帰宅し、道が混雑する!!
あちこちで火の手があがり、関東で「大火災」がおこる!!
「火の竜巻」がおこる・・・「火の竜巻」が自分の方向に向かってきたら
「横」方向に逃げろ・・・神が逃げさせるのだ・・・
公園で野宿・・・家から食料や毛布を調達する!!
「黒い雨」が降ってくる!!
マンションの屋上の貯水槽(ちょすいそう)から水をくんでくる!!
「ろ過装置」・・ペットボトルを逆さにして、太いほうをハサミで切り
布を何重にもしきつめる・・・切り取ったほうから
よごれた水を少しづついれ、水をキレイに「ろ過」する・・・
4日目・・空から公園に「神の軍団」が救助に、やってくる!!
神が関東を復興させるのだ・・・神がそうさせる・・ >>109
>>108同様、お前も意味不明だよ。他人にわかるように書けよ。 >>97
原始仏教で数息観という瞑想法がある。
日本の臨済宗でも数息観を教えている。
ここで私は「原始仏教の数息観」と「臨済宗の数息観」を
同じものと早合点し臨済宗の寺に習いに行った。
以後思いを込めて熱心に修行したが中々上手く行かない。
やがて挫折しミャンマーの修行僧に会いに行った。
彼に臨済禅の数息観の概要を説明すると、そこにある欠点を説明された。
それが合理的なので私はそれを受け入れた。 臨済の様に「吐く息を長くする」とか「吐く息は意識しないで吸う息だけを
意識する」と指導する団体、麻原やヨガの様に「吸った息を止める=クンバカ」
など呼吸を意図的に制御する教えがあるが、仏教の瞑想ではその様に呼吸を
意図的に制御する事は決してない。
私も臨済の悪習のせいか力んで吐息を長くしようという癖が中々抜けなかった。
初心の方は決して臨済などの悪習に決して染まらないで欲しいと願うばかりです。 マハーシが自律訓練法あたりを参考に作った新瞑想法でもやったらいいよ。 山下さんの「本当の自分とつながる瞑想入門」の星一つレビューに
内情詳しい人が書き込んでいて、読んでいてああ最近もやっぱそうかと納得してしまった。
最近のことはまではあまり感知していなかったが、
おととしくらいまでの様子からするとあのレビュー的外れではない。 >>115
むしろ長息の強制こそ自律訓練法じゃないのか >>117
じゃあ、年代順に禅に自律訓練法が影響を受けてマハーシが
自律訓練法に影響を受けたってことでいいんじゃねーか(笑) >>114
臨済宗は仏教よりヨガに近いですよね。
わたしも少しだけ習いに行きました。 マハーシの瞑想法は自律訓練法を参考にしたとは初めて聞きました。根拠はあるのでしょうか?
私は、20世紀初期のミングンセヤドーの瞑想法から進展したものだと思っていたのですが。
いずれにしても、ミャンマーの瞑想法の主流の多くはビルマ独立前後の仏教興隆運動の流れから
盛んになったものであるとは思いますけど。 破戒偽坊主が、事務局長なら、もうダメでしょうが。
http://wwwjtheravadanetsatoutesuroushibuykusyogaisyaombudsman0000.dreamlog.jp/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:c70c250dd91bb29f505857436e0bc8bd) 【ネット】かつての存在感を失った「2ちゃんねる」、ユーザーの減少・高齢化などで斜陽化★11
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160211-00000014-it_nlab-sci
ここの板でいうと菜食とか、事務長粘着とかも要因か。 >>120
いや、単にマハーシがネタ元として挙げる経典とマハシ式が
似ても似つかない代物でどちらかと言えば自律訓練法に近い
という程度の話だと思うよ。 ヤフー知恵袋ではテーラワーダに関する質問をすると盛り上がる、ってか荒れる傾向にあるね >>120
ないよ
コーサッラ西澤氏もミャンマーではまともな大長老ならマハシ式を問題視しないと言ってたね 120です。
>125,>127
回答どうもです。やはり根拠ないようですね。 >>127
それ単に、西澤さんの飯の種の一つだからじゃねぇの。
マハシの真贋は別にして。
若しくは自分のやってきたことが無意味だと思いたくないだけでは。
えらく、ブログで火病起こしてたじゃん。マハシは仏説だって。
まともな大長老って誰よ。在家で仏教にぶらさがって生きてる
西澤さんに、とやかく評価する権利があるのはスマナサーラのような
似非出家の破戒僧ぐらいじゃないか。 ★ いよいよです! バカには理解できないでしょうが、マイトレーヤが姿を現します、日本のテレビ番組に! ★
[1862]「年金の 減額もあり得る」と安倍首相が国会答弁で認めた。投稿者:副島隆彦
伊藤隆敏が、インフレターゲット(インフレ目標値)政策の推進者であり、命名者でもある。竹中平蔵は、その次だ。
全部で、130兆円しかない(最大時141兆円だった)年金資金の運用資金は、アメリカ株と、アメリカ国債を買っている分でも大損も、含めての大損だ。
私は前著で、GPIFの運用者が、ひとりで数千億円とかの運用失敗を出して、電車に飛び込む、という事態が地よく予測できる、と書いた。
安倍晋三とその子分たちは、(GPIFの資金運用者は、昨日、年収2千万ではなり手がない、ということで、新規の人材募集時の提示年収を、3千万円に増やしたようだ 。
「日経平均16,000円は死守せよ。これは至上命令だ」となって今、現場は、精神状態がおかしくなっているはずだ。
年金受給者たち(65歳から上)の年金が、たとえば月に22万円もらっていた人が、今年は、21万円、とかにどんどん減額されている。
この真実も、誰も書かない。テレビ、新聞は、報道しない。くだらない事件ばかりに、国民の関心を逸(そ)らさせる、という悪質な手口を使っている。
↓ はい、次こうなるwww安部が自殺ぶっこくぞ(笑)ワクワク
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
数年前に4万円近くだった日本の株価が今では2万円以下になっています。 今後これは1万円位まで下がるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻します。
それが最終的な暴落であることがはっきりするや否や、マイトレーヤは出現するでしょう。彼は「匿名」で働いております。
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。株式市場の崩壊は必然的に多くの失業者を出すでしょう。
新しい政権は国民の意志を反映します。食物と住宅、健康と教育、最後に防衛です。国民の意志を裏切ると、自殺につながる。 ←アベノジサツwww飯ウマー テーラワーダって悟った人はいますか?
ごく少数しか知りません。
一方、禅やノンデュアリティでは「悟った」と宣言する人は、わりといます。
悟ったかどうかもわからないテーラワーダって、やる価値があるんですかね?
伝統的に正しいと思っているだけなのでは? とりあえずアーナパーナ瞑想してます。
なかなか集中できません。 >>132
まずは1から8まで数を数えるやり方でやってみるよろし。
やり方が分からなければ、菩提樹文庫のアナパナ入門を読むよろし。 晩飯はセブンの鯖味噌と納豆ごはんとカット野菜のサラダ >>131 サマタ瞑想と御釈迦様が悟ったヴィパッサナーの違いがあります。
あなたが聞いたのはサマタ瞑想のほうです。
133の方も同じく。
大乗と上座部の違いは、御釈迦様の教えを忠実に伝えるか、哲学的議論に陥ったり御利益宗教に落ちるかの違いもあります、人の役に立つかどうかでは屁理屈で結果を見れば〜、です。。 一体どんな救いを得られてるのか聞いた方が布教にはなるよね
選択の自由てやつ? 戒定慧の三学における定がサマタ、慧がヴィパッサナ。
止観にける止がサマタ、観がヴィパッサナ。 ヴィパッサナーとは、原語でいうと vi(明確に)passati(気づく)ということ。
明確にみるためには集中力が要る。
その集中力を養うのがサマタ冥想。八正道においては正定にあたる。
アナパナは大念住経の出入息の部に明確に仏説として説かれているし
出入息念経にも説かれている。
マハシでお腹の膨らみ縮みを見るのと大きな違いはない。 >>133はヴィパッサナー瞑想に導くためのアーナパーナ瞑想なんですけどねぇ ブッダの教えは修行して自己鍛錬しろってことなんだよ
瞑想だの座禅だのお寺で修行したりして自らの精神を鍛えることで自分自身で自分を浄化していくことが大事だといってるんだよ ヴィパッサナー瞑想は今や科学的に精神安定効果があることが認められてきているからね。
ヴィパッサナー瞑想は西洋ではマインドフルネスといわれ、脳科学者が研究対象にしたり、心理治療に浸かったりしてる。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00N3QXE3I/
かのGoogleでも採用していると本にあるね。
http://www.amazon.co.jp/dp/4865640177/ つまり、「救い」とは求めるものではなく、自ら行うものなんですよ。 145.
ブッダの教えと修行、瞑想、坐禅とかの分離ができないことは限界である。
それを修行バカと言う。 仏陀が実在した証拠すらないのに、仏陀の教えがどうのとしか言えないカルト脳 まあ、ブッダダーサとかアーチャン・カヴェサコなどはヴィパッサナーを用いず(否定的ですらあった)、ひたすらアーナパーナで行ったからねえ。
アーナパーナを正しく実践するなら、アーナパーナ自体がサマタであり、ヴィパッサナーであり四念処を完成できるという。
またグラナタナ長老などは明確にステップ化した方法論を指導したし、いろいろですな。 いずれにしてもごちゃごちゃ言って何も実践しない奴は何も成し得ないただのうんちくオタクなだけ 何を目的にするかですよねぇ神秘体験なのか知識というか知恵なのか? ゴエンカ式、
マハシ式、
パオ式、
チャルーン・サティ式、
アーナパーナ式、
どの道を歩もうと良いと思います。
要は自身が歩んでいる道以外の道を否定したり、攻撃したりしないこと。
開いた姿勢でいることが肝要ではないかと。 大念住経の日本語訳でてるんだから読んだらええと思うのよ。
○○式っていう違いは、実際には同じお経の別の行をやってるだけでしかないことがわかるでしょう。 >>131を見て思ったんですが、
マハーシ派でもパオ派でもなんでもいいですが、今の上座部仏教で阿羅漢だと自称してる方はいるのでしょうか?
認められたということでもいいですが。
別に煽りではないのですが、釈迦の時代も阿羅漢と認められた方がいたのだから、
今も自称する方や認められた方がいるのかなと思いまして。
修行を修めたみたいな言い方は聞きますが、阿羅漢だ、みたいな言い方は聞きませんが何か理由があるのでしょうか?
もしいるのでしたら何という方かもお聞きしたいです。 >>157
阿羅漢に限らず、外部に向かって自分が悟ったとか解脱したとか
宣言してはいけないという戒律がパーティモッカの中にあります。 >>158
ありがとうございます。
そうなんですか。
では外部に対してではなく内部では誰々がどの段階にいるようなことは明確にされているということなんでしょうか。
阿羅漢の方もいらっしゃるんですかね? >>159
具足戒を受けた者、つまり227の戒律を守って世俗を離れて生活している
出家修行者同士の間では、そういった情報が共有されているかもしれません。 外からはなんとも言えないってことですかね。
悟ったなら釈迦のように自分から言っても問題ない気もしますが。
釈迦も大っぴらには言わなかったってことなんでしょうか。
ありがとうございました。 如来が悟ったと宣言することは獅子吼といわれるんじゃありませんでしたか。
原始仏教の時代にどうだったか知りませんが、テーラワーダ仏教の戒律では
たとえ阿羅漢でも宣言することは禁じられています。
パーティモッカも日本語訳が出ているので、ご自身で確認できると思います。 要は、テーラワーダで修行してて悟れるのか、解脱できるのかという疑念ですよね。
その問いは、テーラワーダがブッダ由来の三宝であるかどうかという問いに置き換えられると思います。
テーラワーダの教えと修行法と、それを行うサンガは三宝なのか。
本物なのかと。
法の六徳に、来たれ見よとあるので、見たらよいのではないでしょうか。 私は大悟したと宣言する人間は胡散臭いとしか思えないし
そんなのその人の徳と智慧から察するものだと思ってたけど
宣言の有無を気にする人もいるのね
あんまり仏教では問題にならないポイントのような気がするけど
スピ界隈とかだとホットな話題なのかしら >>163
いろいろ詳しい方のようなのでお聞きしますが、
具体的に言うと、涅槃の説明がマハーシ派とパオ派で違うということで、それはどうしてなんだろうと思ったってのがあるんですよね。
マハーシ派では涅槃の間は知覚がない、意識がない、涅槃を出てから涅槃だったとわかる、
パオ派では涅槃の間も涅槃だと意識?があるみたいな。
自分は本やネットから学んでるだけなので間違ってたらすみませんが。
そういう説明の違いはなんなんだろう、派が違って実践方法が違うのもわかるのですが、
涅槃がどういうものかは悟った人なら同じ説明になってもいいのでは、と思いまして。
何か知ってることがあればおしえていただければありがたいです。
あとは、修行の身なら自分の境地を語って執着を作ってもしょうがないですけど、
悟ったなら何も執着もないだろうし、別にいいのでは、という素朴な疑問があります。
それはまあサンガに余計な議論などを持ち込まないという対外的なことなんですかね。
戒律が出来てるならそれを守るだけでしょうし。 横だけど
ニー仏さんと山下さんのPodcastの話だよね?
>悟った人なら同じ説明になってもいいのでは
ニー仏さんも言ってたじゃん、「体験が違うから」だよ
誰が悟ってるかは不明 あとは自分のメソッドを信じて修行するしかない >>166
Podcastの話もそうですし、涅槃に関しては前から気になっていたんですよね。
釈迦は寝ている間も意識があったような記述がありますし、
仏教ではなくアドヴァイタですが、熟睡の間も意識があるとか、逆に、熟睡の間は知覚対象がないので何もないとか、
涅槃も含めて知覚対象の有無と意識がどうであるのか、どうなんだろうと思ってました。
涅槃はわかりませんが、熟睡は毎晩してますから、できることもあるかな、と。
「体験が違うから」と言われればそうかなとしか言えませんが、もう少しいろいろお聞きしたいですね。
修行するしかない、自分の修行でわかるしかないというのは大前提でその通りだと思います。 色界禅ひとつにしたって体験の深さ広さにはかなり個人差がありますからね。
サマディの質も違えば、深さも違うしで。
涅槃の解釈については、まずは経典に遺された仏説を抑えておくぐらいしか
対処法が思いつきません。 パオだろうとマハシだろうと、パーリ経典準拠を謳っている以上は
大念処経に沿って修行している。はず。 つまり、鬼和尚の話は欠陥で、わかりやすく言うと、不完全なのじゃ 0374 名無しさん@京都板じゃないよ 2016/03/14 09:36:39
汚教を垂れ流す臭教
惨美化を垂れ流す臭教
歌劇波を垂れ流す臭教
ああ、呆れた存在、臭教
叩いて遊ぼう、臭教 >>167
スシーマ経と言うのを探して良く読んでみるといいよ。
比丘たちは「智慧によって解脱した」とちゃんと明言している。
その意味が分からなかったスシーマは釈尊から先ず直々にこう教えてもらうんだ。
「お前が知ろうと知るまいと、先ず法に住する智慧があり、そして涅槃に向かう智慧があるのだ」
これを教わっても当然理解出来ないスシーマは更に教えを請う。
釈尊はその請いに問答をもって確認させた。
五蘊は無常である事を、五蘊は苦である事を、
無常にして苦であるこれらの事柄は『これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない』
と問答を以って確認させた訳です。
そうして色受想行識への拘りから遠離し、遠離したら離貪し、離貪して解脱し、解脱したという知があって
「生まれることは尽きた。梵行は完成した。為すべきことは為した。さらにこのようになることはない」
と知る訳です。
そのあとに十二因縁の逆観を一緒に確認し、各種神通をスシーマが体験及び知覚したか確認し
どの神通も知らずにどの神通の体験もせず、五蘊の遠離と利貪と解脱とを知って
因縁の逆観で還滅を果たして、何も拘らずに今ここでこれを知り今解説している、
これをどう思うか?となる訳です。
智慧によって解脱して下さい。
お祈りしてますよ。 智慧とはなにか。
どうしたら智慧を以て諸行の無常、苦、無我をみることができるのか。
ふつうに見ることと何がどう違うのか。
悟りの智慧とは哲学的思考のことなのか。 >>168
色界禅は主客があって主観による違いがありそうですが、涅槃は主客もないので同じような表現になりそうだと思ったのですが。
でも語るときには一人の肉体を通して語るので違いがでるのかもしれないですね。
>>172
読んでみたいと思います。
ありがとうございました。 >>174
戒定慧があってから慧ですか?
おかしいですよね、慧が二重になるなんて
正しく言うなら
戒定慧は三学を意味して、
戒学=身口意の業を止め律する事を修める
定学=心の散乱を鎮め、禅定を調えて集中する事を修める
慧学=煩悩の惑いを破って一切の真実相を見極めることを修める
と言う仏道修行の必須事項「三学」を言うんですよ
戒学はそのまま律蔵が教えてる事
定学はそのまま経蔵が教えてる事
慧学はそのまま論蔵が教えてる事
現代ではこの三つがそれぞれ相当します
論蔵は在世の頃には無かったので、殆どが経だけでも成り立ちます >>178
うん、そうかなとは思ったけどね
文字で伝えるのが掲示板文化なんだから難しいよね
で、定あって至るのは智慧って言うより正確には慧ね、慧
そうでなきゃ三学は戒定智ってなってた筈で、敢えて慧になってる所が重要なんだな
慧は重要なんだけど、慧を見つけねば行けないんだけど
その為に智を使って見つける訳
で、慧の重要さを識る訳
智は毎日使ってんのよ、気付いてないだけでね 智って何の事だよ?
って人は、毎日ラベリングを何の為にやってるのか再考してくださいね
サティって何の事だか思い出してくださいね そこまで拘るんならパーリ語で言ってくれないと漢語だけで表現されても・・・ あのさ。
ぶっちゃけこれ、マハシ対パオの水面下の戦いだよね(笑) マハーシ長老も定がないと悟れないと言ってるけどね
対立するとしたら刹那定をどう解釈するかであって 悟りって永続的なものなんでしょうか?
仏陀の教えで人は本当に幸せに一生を終えられると思いますか? ヴィパッサナーやるときはパオだってマハシだって刹那定ですよね。
言葉によるラベリングはまだ補助輪なのに、それがヴィパッサナーだと
思ってる人がいて、しかもサマディというものがオカルトの類だとでも
思ってる風な人がいて、それがちょっと問題だとは思ってましたけどね。 本当にサティがあれば、言葉によるラベリングは遅すぎて間に合わないでしょう。 マハシではこう言うやり方、パオではこう言うやり方って方針はいい、別にそれは良いんだ
でも双方仏教なんだよね、それなら中道が基本なんだから、見解を立てて断定すると中道じゃなくなるよね
そこに気付けないならサティを使いこなせてないよね
そのままじゃ待ち行く人達の日常の気付きのまま、それって世俗だよね 中論では
22.16 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。 (如来の考察)
とある
では世間とは何か?
別章では世間を輪廻と言うものもある
釈尊の言う輪廻の代表格は十二支縁起であろう
十二支縁起に順観する時、人は気付いて次へ縁起し続ける
十二支縁起に逆観する時には、人は気付いて還滅せしむる
この様に、世間の中にあって人は気付きを気付きとして使って輪廻する、それが世間と言えよう
この世間は気付きが無くては世間足り得ないし、気付き無く世間は成り立たない
それを支える気付きこそ世間なのであり、その世間の本性が気付きなのだと言えよう
22.16 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。
如来の本性は世間の本性なのだから、世間の本性も如来の本性も気付きなのであろう
サティが人を救い、ダメにもする
ダメになるのが気付きであり、救うのは如来であろう
悟りよ、幸あれ >>186
>本当にサティがあれば、言葉によるラベリングは遅すぎて間に合わないでしょう。
実際のサティは第一義なので、それを言語に直して読み上げてラベリングに至っていると言えよう
故に、上記の論はある意味間違っていないと言えよう
本来のサティは良くも悪くも無く、言語及び思考を超えて先にあると言えよう
この気付きに気付けないままでは、そのサティは世間の輪廻のままと言えよう
ラベリングの効用は諸君の方が長けている筈であろうから今更言うまでもないが
確認の為に書き加えて於くなら、サマタを調える為の「的」の様なものと言えよう
ラベリング自体をヴィパッサナーだと思っていたなら、この際改めるべきであろう
ヴィパッサナーで行ずる観察の対象は、観察対象に対する観察ではなく
観察する為のサティ、つまり仮に対象を指す気付き自体を観察して証すのであると言えよう
つまり、月を指す指に於ける月や指を気付くこの気付きこそが重要だと見破るのである
と如来は是の如く説き給う >>158
しかし、それをいいことに、悟っているのかいないのか、はっきりしない人が多い。
これじゃあ、一種の詐欺じゃないかな。
言葉は悪いが。
パーティモッカで「悟った」ということが禁止されているなら、
せめて悟っていない比丘は、「私は悟っていません」と言ってもらいたい。
周囲が「あの人は悟っている『らしい』」といっている噂を、
それとなく利用しているなら、よくないことですしね。
テーラワーダの比丘の皆さんは、悟っていなければ「私は悟っていません」と
言っていただきたいですね。 >>164
それが、禅の世界にはいまして。
大悟したと宣誓する方は、禅にはおられます。
今も。 仏法僧の僧はサンガですから、帰依の対象は比丘個人ではないじゃありませんか。
在家の人に多いんですけど、特定のカリスマ比丘を祭り上げて、その個人に信仰の
是非を依存するというのは、本来の三宝帰依のあり方とは少しずれていると思います。 個人で帰依の対象になっている(三宝となっている)のは、如来だけのはずです。 165-20.アーナンダよ、およそ誰であれ、今あるいは私の死後に、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、
法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず住するものたち、およそ誰であれ学びを欲するものたちは、
吾が最上の比丘たちとなることでしょう
世の人は誤解しがちだが、この経で言う所の「自己」とは自己の何を指してるのか。
「法」とはどの法を指しているのか、ここ重要。
それを州(拠り所)としそれに帰依して行きなさいとのお教えだ。
仏道は内道だから外には道を求めない、ここが中々解って頂けない。
世の勘違いな輩はここを「自分と何かを拠り所にして信じればいいんだな」と考え信じ込む。
それじゃ単なる自己中だろと苦言を禁じえない。 165-14.ではアーナンダよ、いかに比丘は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住するのでしょうか。
165-15.アーナンダよ、ここなる比丘が、身に対して、身を観察するものとして住し、熱心なる正知具念のものとして、世における貪求と憂悩を調伏します。(身念処)
165-16.アーナンダよ、ここなる比丘が、諸々の受に対して、受を観察するものとして住し、熱心なる正知具念のものとして、世における貪求と憂悩を調伏します。(受念処)
165-17.アーナンダよ、ここなる比丘が、心に対して、心を観察するものとして住し、熱心なる正知具念のものとして、世における貪求と憂悩を調伏します。(心念処)
165-18.アーナンダよ、ここなる比丘が、諸法に対して、法を観察するものとして住し、熱心なる正知具念のものとして、世における貪求と憂悩を調伏します。(法念処)
165-19.アーナンダよ、じつにこのように、比丘は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住するのです。 この自州法州と自帰依法帰依と四念処とは具体的な方法を教示されてんだよね。
仏道修行の殆ど全ての方法がここに凝縮されているとさえ言っても過言ではない。
これを行ない続ける限りに於いて、解脱されない訳は無いとも言える。
問題は、不立文字教外別伝の核心がいつの事かをいつ気付くか?○○○。! こいつらスリランカ、タイ、ミャンマーの仏教がもたらした惨禍に
ついてどう合理化してんだろう。
どうせ下らない屁理屈でお茶を濁すんだろうが。 破戒はいいんだけど
日本のお坊さんには仏法への信をもって欲しい(宗派的な上っ面の”信仰”じゃなく)
あと倶舎か唯識くらい勉強して、輪廻転生ってなんですか?業ってなんですか?等の質問にも正面から答えられる学識が 破戒僧と言うけれど正確には日本の坊主の格好をしている連中は
ほぼ全てまず、正規に(釈尊が定めた方法によって)受戒していない。
故に仏教(釈尊の弟子)僧では無い。だから破戒僧でもない。
紛らわしく破戒僧などと言わずにそろそろハッキリと僧侶コスプレと
言ったらどうかね? セックス一つ我慢出来ない根性無しの成り済まし偽坊主を拝んでいる
頭のおかしい一般日本人の気が知れない。 >>201
童貞にとってはセッ○スを我慢することなんて当たり前だからな 童貞であろうがなかろうがセックスを我慢すること=禁欲する事は
それ程難しい事ではないが、また、簡単な事でもない。
まともな仏教者なら月に4回程ある布薩日に布薩戒(八斎戒)を守る。
八斎戒の場合は不邪淫戒ではなく不淫戒だから当然在家でも禁欲しな
ければならない。
釈尊の弟子である本物の修行僧は毎日不淫戒を守る。
戒を破れば即破門であり、釈尊の弟子ではなくなる。それだけの事だ。
この23日は満月=布薩日である。 ちゅうか人間も生物だったら異性に惹かれるのは極々当たり前だろ
それを煩悩を掻き立てるからとして異性と交わらないようにするのが聖者としての在り方というのがおかしいんだよ
聖者だったら結婚して子供を作っても尚、人格的に尊敬でき、理想模範となる生活をしてこそ他の人の手本ともなる
シャカ(当時のバラモン僧もそうだったかもしれないしカトリックの神父なんかもだが)の作った具足戒が生き物として人間として不自然過ぎるんだよ
はっきり言えばサンガは浮浪者と同じ
浮浪者も捨てるものがないので何の執着もない、あるいは悟りきれてないサンガよりも悟っているかもしれない、執着を捨てるという部分ではな
サンガは瞑想という修行があるのとより大群で群れるのと偉そうなのが浮浪者との違い >>204
だから、世間と出世間の違いが分かってないからそういう答えになるんだと思うよ。
世間の価値観が間違ってるとか悪いとか言うつもりはない。
でもね、解脱は出世間だから。
出家は出世間を目指してする行為だし。 もっと簡単に言うと、
解脱なんてないと思ってるから、そういう考え方になる。
解脱は“人間として”不自然どころか、欲界そのものからの脱出だからね。 我が身、この肉体が自己だと思ってるでしょう(有身見)。
その段階で考える正しい仏法というのは、頭で考えたものでしかない。
ところが世界の実相、特に心の実相というのは、人間が頭で考えるようにはなっていない。
たとえば、人間は体験の範囲と思考の範囲で考えると、この地球が平らであると感じる。
ところが観察すると丸い。
観察してみた時にはじめて丸いことがわかる。
肉体が自己の本体ではないことも、見てはじめてわかる。
異性に惹かれ、子をなして欲界で肉の身体を維持することは、前提として有身見のうえに
なりたっている。
解脱を目指す修行者は、この前提に立っていない。
ことなる前提に立っている。
ことなる前提の上に立っているから、何が正しいかの判断も違ってくる。
それだけのこと。 肉の身体は生老病死の支配下にあって、そこから逃れることはできない。 >>207
>異性に惹かれ、子をなして欲界で肉の身体を維持することは、前提として有身見のうえに
ほうほう、では交尾をするあらゆる生き物は欲界の中にいるのか
交尾は自然の摂理だと思っていたが煩悩なんだね
初めて知ったよ 「そんなこと言ったって、お前も人間だろう」
と思うかもしれない。
その通りなのだが、人間なのはこの肉体であって、またその肉体に対応する心(欲界心)
であって、正定に入ってこの欲界を越えた認識が生じている時、そこに「わたし」はいない。
少なくとも、欲界の肉体に生じている「わたし」という意識はない。
禅について話す時、
その「わたし」ではない時の認識を、正定から出てきた時に再び動き始めた「わたし」が
思い起こして、それについて話す。
肉の身体が、肉の身体でないものについて話す。
だから聞いた人は???となる。
なので普通、修行者は瞑想の中身を話したがらない。
瞑想の先生も自分で経験してみなさいと指導する。
仏教の真実は、思考による理解によってではなく、経験的覚知によってしか伝わらない
ので、そうした経験に至っていない人が、瞑想修行者について迂闊な判断をするのは
ちょっと控えた方がよい。 しかし、その瞑想の中身を、できるだけ言語化するようにしたほうがいいでしょう。
比喩を用いて、ある程度できるのではないですかね。
この努力をサボっているから、誤解もされる。
一人タカをくくって超然としているのはいかに。 そしてまた、こうした事情を利用(悪用?)して偉そうにふんぞり返る
勘違い出家者がいることも事実ではあるのだが。
ダンマパダの中で釈尊は、偉そうな比丘のことも、それを非難する者も
両方を諫めていらっしゃる。 それと、正定に入っているときだけでなく、普段の状態が大切。
有身見は、正定に入っているときに切れているのではなく、
普段から有身見が無いのが、本当に有身見が切れたことを指すのでは?
有身見が切れたなら、誰もがわかるのでしょう。
有身見が切れていないから、誤解もされる。 >>211
師弟関係のなかではやってますけど、一般に向けて話すのは難しいのではないでしょうか。
まず宗教っていう時点でひとつ壁があるし、正定の正しい中身について具体的に話せば
オカルト扱い間違いなしだと思います。 >>214
匿名でもよいので、現代は、説明したふおがいいと思います。
その言語化されたものをヒントに、手掛かりにする人も出てくると思うからですね。
昔は、言語化できる語彙や表現が乏しかったと考えることもできます。
しかし現代は、心理学やスピリチュアルなど、表現できる言葉や概念そのものが増えています。
古い時代の考えや慣習に、いたずらに従うのではなく、今の時代にあったやり方を打ち出していくのは大切だと思います。 ぜひご自身で瞑想センターに行って修行して下さい、というのが私の立場です。
しかし、>>215 さんの言われるようなことも価値があると思います。
世間における善があって、これはこれで素晴らしい。
出世間はもっと素晴らしい。それは世間の善と悪を共に捨て去る。 動物の交尾はおそらくかなり自然に行われてるが人間の交尾はストレスの解消とか退屈だからとか他者に対しての自分の存在を確認するためとかにしてるでしょ
他に興味あることがあったらそっちに目が行って性欲なんて二の次になるのがその証拠
その程度のこと自然でも本能でもない
ただの娯楽
純粋に他の原因からでなくただ性欲のみがわいてるならそれは自然な性欲かもしれんけど
自分でいろいろ試して何が自然(本来のもの)かわかっていかないと人間はもう麻痺して何が自然か不自然な欲求かわからなくなってるよ >>217
だから性欲の一切を煩悩として異性と交わらないのも不自然極まりないだろうよ
聖者ならまず普通に結婚して浮気もせず幸せな家庭を築いて衆生の手本となる生き方をしないと
サンガのやってることは人間でもないし生物でもないんだよ
でも腹が減ったら食わねばならないから托鉢にいく
在家には托鉢をするのは善行だと洗脳する
はっきり言ってサンガの道を極めていくというのは、聖者という職業で食っていく道を極めていくだけ
君達が世間道といってる一般人が勤勉に働いて多くの人から時には怒られ時には褒められながら人として成長し、社会や顧客のニーズに応えることで社会貢献し、子育てからも逃げずに子も成して一人前に育てる、そちらの方が托鉢と瞑想、たまに説法だけしている者よりも遥かに尊い
ま、あんたらはそんな世間道に憧れながらも逃げてるようにしかみえん
ま、不自然な出世間道を歩みたいなら歩めばよい
でもそのために出家する意欲も意志もないのが本当だろ? せやね。
確かに、エロイもんを考えたり、エロ動画見たり画像見たりもしなければ性欲は断てると思いますし・・ >>218
>でもそのために出家する意欲も意志もないのが本当だろ?
そういう人は多いだろうけど、本当に出家してる人もいる。
日本人ではほんの数人程度。 尊い生き方は天に至る道だが、それも六道輪廻なんだよね。 >>218
異性を避けるのは不自然だけど何が自然か不自然かわかるまで修行としてするならそれもいいんじゃない?
食欲が異常になってたら一回小食なり断食して自分に必要な食の量を調べるでしょ
まあ自分の体をリセットする実験だね
衆生の手本は衆生自身が考えるのがいいんじゃないの?
上が手本示して下が従っちゃう構図だとただの洗脳だしね 人として立派に生きるんだっていうなら、そうすれば良いじゃない。
解脱するんだっていう人は、それとは別の価値判断の尺度に従っている。 >>220-223
で君達出家する意欲や意志はあるの?
本気で解脱したいならそうしなよ ふつうは出家でもしないとサマディーに入れるようなところまで深く集中できない。
あまり思い詰めず、一時出家でもいいから出家修行生活というものを経験してみると良いと思う。 一生出家しているんだと言って外国で出家した人たちのほとんどは数ヶ月で帰ってしまう。
長くいる人は、短期のリトリートを何度か繰り返した後、実情を踏まえたうえで準備してから出家する。 出家できるならするといいよね
自分は一時期老人ばかりの過疎村で親の介護だけして暮らしてたから俗世から離れた状態はある程度わかる
当時はまだ若くて辛かったけどおかげでいろんな欲も落ちたし振り返るといい修行になったと思う
俗世のことに興味薄れてきたら出家しどきなんだろうね 砂の城 歴史の波にさらわれて 栄枯盛衰また繰り返し
いくら地位を築き財を蓄えようとも 形有るものは時の流れとともに滅びゆく定め
一時的に繁栄を極めたところで所詮その栄華は陽炎の如く虚しきもの
その儚くも不毛な生々流転の繰り返しに心の底から嫌気が差したときに 酔いが醒めるのだろうね >>226
下手に現代の俗にまみれた葬式仏教(サラリーマン)に出家したところで 悟れはしないだろうよ
図書館に通い勉強して山籠りでもして心身を鍛えたほうが余程健全だ ゴエンカ氏のところってゴエンカ氏亡くなったわけだけど、それ以前と以後で変わりはないものなの?
ていうか、指導者が他にいるのだよね?
いまいち仕組みがわからない >>231
教えは正統で正しくとも、運営陣等が必ずしも清い人とは限りません。彼らは仏教ではなく、あくまで運営、教団維持のプロですから。
国外の宗派は分かりませんが支部競争(ノルマ有り)がある、奇跡(ご利益)を売りにする、信者集めにこだわり強制勧誘させる、布施の多少でランク分け、退会したら罰が下る、外部を卑しき者とし、他の教義では地獄に落ちる云々の脅し文句等の特徴が見られたら近づかないことですね。 瞑想の危険性
http://tensei.nanaki.biz/qki.html
瞑想に興味をもつ時点で、内向きな傾向(陰的な傾向)も持ち合わせている・・と言えるかもしれません。
例えば、いつも‘陽’気で、外で遊びまわっている陽平君は、瞑想をしよう!なんて発想すら、出てこないことでしょう。
内向きな傾向(陰的な傾向)を持ち合わせている人が、瞑想に取り組み始めることで、さらに意識が内に向かい始めると、
現実世界(陽の世界)への注意や興味や関心が薄れ、通常の日常生活が手抜きになってしまう場合もあるのかもしれません。
また、ヨーガ(ヨガ)では、現実世界のことを{迷いの世界・マーヤ}と呼んで、究極の目標を迷いの世界から抜け出すこととする場合もあるようです。
そうなれば、現実世界での日常生活に支障が出てきそうですね。だから修行者は世捨て人となりやすいイメージがあるのでしょうか。
瞑想の危険性
http://fmtbank.seesaa.net/s/article/393380313.html
やはり人間は一人でいると、自分だけで世界を作り上げ、孤立化しやすく、
だからこそ、瞑想よりも大事なのは、ガンガンに外に出て声をかけていって、
自分の妄想や固まったエゴをぶっ壊し、開き直ることです。固定したものは、
活力をなくしウツに陥りますから、その前に、自ら死に、再生していくのです。
そうした激しい「動」の修行があってこそ、「静」なる行の瞑想が役立ちます。 タイの上座部こそ欲界だろう
みんな出家するならタイにしろよ
三宝帰依が徹底してるから僧侶は大事にされる、托鉢と瞑想だけしてれば良い、このスレの住民が大好きな原始仏典もパーリ語で学べる
そんな温い世界こそ欲界と言わずに何と言おうw
間違っても永平寺とかで修行しようとするな
滅茶厳しいし、先輩僧のかわいがりも凄いからな
強い精神力がないと途中で逃げ出すよ
><<二年間のタイ留学は失敗であった。
>第一の理由は、タイ仏教と秀嶺の目指す道との違いであったといえよう。
>それは彼の描く大乗仏教の求道者の姿と、タイの伝統的仏教、坐禅を中心とする上座部仏教の生き方との隔へだたりである。
>バンコックでも有数の裕福なワット・パクナーム寺院での生活は申し分なかった。
>申し分がなさすぎるくらいである。
>これまで自活しながら勉強してきた秀嶺にはあまりに生温なまぬるいものに思えた。
>僧である間は生活の心配は何一つなかった。
>国の保護とタイ社会、民衆の仏教徒に対する深い信仰と手厚い供養を受け、仏教の素養を身につけ、
>瞑想だけをしていれば後は何もしなくていい生活は、彼の肌には合わなかった。
>暇過ぎたのである。
>そこに魅力的な中国人娘が現れ恋仲になり、他にもグラマーなタイ女性に恋慕されたりと、あっという間に、“色情因縁しきじょういんねん”の渦に巻き込まれてしまった。(略)
>といっても、女に溺れてばかりいたわけではない。
>パーリ語(南方仏教語。紀元前三世紀頃、北インドから西インドにかけてほぼ形成された)を修得し、原始仏教の経典に直接近づくことができるようになった。
>そしてタイ禅、特にワット・パクナーム寺に伝わるパクナーム禅をマスターし、タイでならどこでもパクナーム禅を教えることのできる資格をタイ最高位の僧から認可された。
>何年いても資格が取得できない僧が大勢いる中で、外国人留学生としては破格のことだと称賛された。
>秀嶺師によると、バクナーム禅を習得すると、自分の腹部に白く光る球を見いだすという。
>高尾山の山本秀順貫首からは帰国をすすめられたが、破門を願い出て、逃げるようにして、
>タイで知った日本山妙法寺という教団を唯一の頼りにインドに向う。1967年32歳の時である。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~thaishun/zazen16.html 最近はアマテラスやアマテラスの所の特に“ヤタガラス”や“天狗”のあるいは別の“孔子やその残党”(孔子は相手にはごちゃごちゃおしつけるくせに
自分は不動と組んで何度も裏切り泥棒などをやってるようなゴミでした)
の悪行言動をきっかけにして釈迦のもと10代弟子の一人マハーカッシャパなどと組み
そこへ不動、キリスト、ユダヤ教、釈迦、フリーメーソンらやそれらの残党が便乗して悪事を数々やってることが多い!
こいつらがイスラム教にまで隠れ潜んで悪さをやってる事もあります。
それをどかそう潰そうとすると様々な仕掛けで邪魔してくることもあるので
上のただしい神仏グループに頼むなりなんなりして注意してかかることでしょう。
とことん入れ替え弁償にして抹消しきらなければいけません。
何を勘違いしたか、かまってほしいから、助けてほしいからと悪さをしてくる物がいますが(それもウソくさいが)それならとっとと心のそこから
改宗すればいい。そんな悪さをしてくるようならそこから上の神仏によりひどい目にあい抹消されるでしょう。
だから唱えてはいけません!となえるとひどい目にヤタガラスなどからあうどころか正しい神からも一緒に罰を受けます。
それにかしずかいてる霊媒師などもついていってはいけません。どちらも最悪一緒に最も苦しむ方法で抹消されるでしょう。 >>233
いや、分からないんだったら説教すべきじゃないよ >>236
ワット・パクナムってあの「タンマカーイ」?
そこ日本でいう創価学会みたいなとこでしょ >>238
この手の問題に関して、どうしてそういうことを言ったのか、理由を聞いてみようっていう態度の人は少ないんだよね。
まず人の話を聞こうとする人が少ない。
仏教が正しいとしても、それに関わっているのはあくまで人間なんだってことを忘れちゃいけない。 たぶん、カベサコさんの時もそうだったろう。
側近がまず先に問題に気づいていただろうけど、問題に気づいた側近の方が悪者扱いされてたはず。 >>240
いやだから自分はビルマの森林寺院もそうなの?って話をしてるんだよ
タイがどうとかは知らんしカベサコさんがどうとかどうでもいい
上座部=完全クリーンじゃないなんてわかり切ってるんだからさ カベサコさんはちゃんと還俗してから正式に結婚したわけだから、むしろちゃんとしてると思うけどね。結果的には。 大乗は自称仏教の非仏説。テーラワーダはどこもカルト。
宗教ってこんなんばっか。 自分の外にあるものに依存しすぎ。
正しい人があらわれたら、自分も正しいことをします、って思ってるんでしょう。
あと56億7千万−2559年待たないと、そんなチャンスこないわ。 弥勒菩薩は古アーリア人が信仰していたミトラ教
(ゾロアスター教→ユダヤ教→キリスト教・イスラム教、バラモン教→仏教・ジャイナ教・ヒンズー教、ギリシャローマ神話のルーツになった宗教)
のミトラ神の化身だから、弥勒菩薩の出現でアーリア人の宗教は弥勒教としてまた一つに戻るよ。
醜い宗教戦争はそれまで続くよ。 >>246
テーラワーダって、どこもカルトなの?
パオもそう?
こりゃ大変だ。 大乗は仏教で無いだなんて、そりゃ文献主義とか原理主義になり過ぎ。
初期仏教に欠陥があったから、大乗仏教が興たことがわかります。
これはブッダの教えに欠陥があったのではなく、
伝承されているパーリ経典に大変な欠陥があるということです。 >>250
パーリ経典に欠陥があったんなら、龍樹は何を根拠にしたんだ?
有部も龍樹も初期経典からの伝承で成り立ってたんだぜ? >>251
釈迦がいた証拠もないしパーリがポンコツなのも仕方ないでしょ。
得体の知れない奴が作ったんだから。 仏典を読む際には、そこで説かれている法が
対機説法か、それとも普遍的な真理が説かれているのかを理解することと
もうひとつは、その法を現実に照らし合わせてみて
真理かどうかを見る必要がある。
現実に照らし合わせてみて、理解できない場合は
それを鵜呑みにせず、疑問は疑問として保留し
機会があれば、詳しい人に聞いてみるとか
あるいはもっと修行して理解できるまでになるよう努力するか。
法を学んでも、鵜呑みにせず、法にもとずいて思索し
納得してから実践するということが大事だと思う。 >
「自分を変える気づきの瞑想法」:オメーが変われ
「怒らないこと」:オメーが常に怒っている
「心は病気」:オメーが病気
「人づきあいの処方箋」:オメーがコミュ障
「苦しみをなくすこと」:オメーがコンプレックスに苦しんでいる
「あべこべ感覚」:オメーのおつむがあべこべ
「的中する生き方」:オメーの存在が的外れ
「欲張らないこと」:オメーが欲張りさん
「ひとりで生きるということ」:頼むから独りになってくれ
「やめたいことはやめられる」:オメーがやめられない
「執着の捨て方」:オメーが執着している
「老いを自由に生きる」:オメーは老害
「妬まない生き方」:オメーは日本を妬んでいる
「無知の壁」:オメーが世間知らず
「バカの理由」:オメーがバカなのを悟れ
「ブッダの経営論」:企業経験も無い癖にどの面下げてほざくだよ
「1ってなに?」:おれに気安く語りかけるな!
「心に怒りの火をつけない」:オメーの心が炎上中
「ついに悟りをひらく」:オメーには永遠に無理
「結局は自分のことを何もしらない」:オメーが霊長類人科最強
「忘れる練習」:ちっちゃいことも忘れられないオメーときたら
「ブッダの道の歩き方」:オメーは迷子になっている
「生きる勉強」:オメーがまず人間として生きなさい
「何が平和を壊すのか」:オメーが壊す
「意のままに生きられる」:と迷惑です
「ヴィパッサナー瞑想教えとその方法」:オメーがマスター出来てねー
「なぜ、悩む」:オメーがいるから
「ブッダが幸せを説く」:オメーは説けない
「賢い人、愚かな人」:オメーは100パー愚か
「こういう大人になってはいけない」:マジ、オメーみたいにはなりたくない
「ありのままの自分」:でいられては困る 聞いた教えが正しいのかどうかに迷う場合、
少なくともちゃんとやってる仏教徒なら四大教法くらい知ってるもんだが。 >>251
ってかニカーヤ
長部 34経
中部 152経
相応部 2872経
増支部 2308経
小部 12経
これだけの膨大な量が第一結集の時から編纂されたと考える方がおかしいだろう
対機説法か普遍的な真理を語っているのかの判別ではなく、後からどんどんと足されていき、また第一結集で合唱されたことも文字化されるまで改ざんがあったと考えた方が、釈尊の発言矛盾の説明がつくよ 時間と金に余裕のあるインテリか、ホームレスすれすれの貧乏人
どこも二極化が進むが、テーラワーダ仏教はまだましなほうなのだろうか >>257
似た様な内容の経がダブってその数でしょう。
そして「間違わない方が不自然」と考えるそれは常識ですよね。
仏法は道理を説く訳ですから、常識は通用しませんよ。
数が増えてったのは同じ様な内容が他にも有り、且つ間違ってなかったから足しただけでしょう。
今みたいに文字化されてなかった時代は、一日の多くを経の合唱を瞑想の足しにしてたとも聞きます。
記憶と命を掛けた伝承ですから常識じゃ考えられないかと思われます。
しかも大人数でそれをやるんですから、勝手な改ざんは不可能でしょう。 >>260
第一結集で集まった500人の比丘はパーリ語なる西インドの言葉を喋る人だったんですか? >>261
一つの言語に統一しないなら何のための合誦なのか
みんなで唱えるときに「でんがな〜」、「だがや〜」、「だぞなもし〜」とか言ってたのですか
日本人だったら自分の言語に近縁の標準語も喋れるからそれに合わせますな 内容を確定したら各々のお国言葉で保存すれば良いわけで 290 名前:神も仏も名無しさん :2015/10/19(月) 11:12:14.00 ID:lmff1MCq
>>289
南伝は、最初に経典がスリランカにもたらされた時、シンハラ語訳(スリランカ語)
しているからね。
5Cにブッダゴーサが出て、高級文字であったサンスクリット語化された
大乗に対抗して、古い文字と言われていたバーリ語に再翻訳したわけで
バーリ語訳自体が一種の信仰的プロパガンダだものね。
351 名前:禿 [hagetoran] :2015/10/21(水) 07:55:42.04 ID:1FDXypEd
1.そもそも原始仏教なんて残ってないでしょ。
2.伝説に拠れば最初の100余年は口承で継承されてきたし
3.テキスト化される前の経典の分類法は九分教/十二部経だし
4.あるのは部派の経典(五ニカーヤ/四阿含)と大乗経典
5.初期大乗経典は釈滅後500年頃に成立した新時代゛の経典だし
6.部派の経典の成立も大乗経典と同じ頃だ。
7.しかもパーリ経典ときたら、一旦シンハラ(スリランカの古語)訳され
8.紀元後5c頃に部派原理主義のブッダゴーサが対大乗対策でパーリ語訳したものだ
9しかるに南伝部派仏教も北伝大乗も紀元前後に興隆した仏像や仏塔を崇拝する
(原始仏教は仏像や仏塔を信仰しない) 263 名前:神も仏も名無しさん :2015/10/18(日) 00:14:27.09 ID:V6orhYyN
いちおは、上座部の考えが釈迦の教えに近いと言われているが
真実は誰にもわからん。日本の近代史の人物ですら、謎が
多いのに。坂本龍馬ですら、謎が多いのに。
286 名前:神も仏も名無しさん :2015/10/19(月) 10:02:13.44 ID:lmff1MCq
>>263
言われてないよ。
大乗経典が仏滅後500年後成立と知った明治時代の近代仏学が
では、上座部が釈尊に近いのではないかと短絡したのと
南伝仏教が自己宣伝しているだけだよ。
ところがその後の研究で、南伝パーリも漢訳阿含経も仏滅後500年の成立
だとわかった。経典数やテキストからパーリより漢訳が古いということも
わかっている。 なるほどハ゛ーリ語については勉強不足だったなあ 迂闊 途中でハ゜ーリになってるけど突っ込まれてググったのかな(w >>264-265
その通り。
日本に来ているテーラワーダ仏教協会のプロパガンダに、
日本人は乗せられ過ぎ。
それに付け加えれば、第二結集のときに、第一結集になかったパーリ経典が、
かなり追加されていることを、故水野弘玄氏は指摘している。
テーラワーダで悟った人もいれば、禅で悟った人もいる。
ヒンドゥで悟った人もいる。
パーリ経典だからどうのこうのとこだわるのは、どうかなと思う。
一つの選択肢であり、一つの道というように、大きな枠でとらえたほうがいいと思う。 サマディには邪定というのもある。
数あるサマディのなかで、九次第定を正定と定めているわけ。 もう何やっても豊かにならないから、という諦めの行く先でここに辿り着いた人が多そう
特に若い人たちはそんな印象
社会全体の欲が萎めば、もう少し居心地のいい世の中になるのでしょうか
でも結局はアメリカの植民地状態に変わりはないので、大して変わらなさそう
個人ができるのは何があろうと動じないことだけ お釈迦様の教えを信仰している方たちへ質問
どんなお仕事をされていますか?
どんな仕事につくのが適切だと思いますか? 釈尊の伝導の範囲は東はアンガ国チャンパーから西はヴァツサ国カウシャーンビーまで。
カウシャーンビーからパーリ語のルーツになったと言われるインド中西部のウッジャイン(アヴァンティ国の首都)までは滅茶遠いよ。
もっとも、十大弟子の一人、説法第一のプンナは西海岸のスナーパランタまで布教に行ったとされてるけどね(500人の弟子を得て1年後に没したそうな
カウシャーンビーはプラヤーガ(ガンジス川沿いの都市)の本当すぐ西、この地図には載ってないけど。
https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024010062.jpg 欲が少なくなれば、人のためにって慈愛が芽生えてくると思う >>273
試しにSSRIって抗鬱剤を飲んでごらん
欲がなくなり物事にも動じなくなる代わりに何もかもがどうでもよくなり無気力になるぞ 無気力で怠惰なことを無欲と言っているわけではないのだが、仏教徒自身、
修行の始めの段階ではそのことを明確に区別できていないことはあり得る。
しかし、仏教そのものが無気力なのではない。
釈尊の生涯の足跡は、そのことを最もはっきりと物語っている。
修行者が離欲のために正しく精進している時、心は充実感に満たされている。 >>274
え、いや・・自分は人よりも欲は少ないし・・w
社会全体の欲が悲惨だから憂いてる >>276
仏道をならふといふは、自己をならふ也、自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり。
萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。 >>276
五〇 他人の過失を見るなかれ。他人のしたことしなかったことを見るな。ただ自分のしたことしなかったことだけを見よ。 >>278
自分は>>270へのレスとして社会の欲が少なくなればいいよねぇと嘆いているのであって、
実際のところ社会がどうなろうとも自分はどうでもいいと思ってる。 社会は解脱しようとも、したいとも思ってないからな。 諦めてたらそこで終わってしまいます。
私達の体には久遠の仏に植え付けられた仏種が宿されてるんですよ。
それに気がつかないと、いつまでたっても生死、煩悩の迷いから抜け出せません。
「人は至高の存在の可能性を秘めている」、つまり人は生まれながらに菩薩であり、仏であります。
あなたは、大丈夫。あなたは、何も悪くない。悪いところがあるとしたら、『自分は完全である』ということに気づいていないことだけです。 瞑想じゃないけど、座禅してて体がフワフワ浮いているような体から魂が抜けていくような、言葉では説明できない感覚になる時がたまにあるけど
これ何?。上座部仏教の坊さんって、ひょっとして毎日こんな感じなのかな?。意識はあるけど、体から魂が抜けるような感覚なんだよね。 指導してくれるお坊さんとかに相談してる?なんか心配だな >>282
瞑想を指導してくれる先生おるなら、先生に聞くのが一番いい。
たぶん、それは気にせずただひたすら瞑想対象に集中するように言われると思うけど。 アナパナなら出入息が集中の対象だから、
痒いんですけど → 出入息に集中してください
痛いんですけど → 出入息に集中してください
なんか光がみえました → 出入息に集中してください
気持ちよくなってきました → 出入息に集中してください
家族の問題が気になります → 出入息に集中してください
身体を壊しました → 出入息に集中してください
神秘体験らしきものをしました → 出入息に集中してください
みたいな感じだけど。
ただ、病気や怪我は、瞑想するまえに治療しとくのが前提。 >>285
笑ったw
全部一境性で片付くのに気付けないのがダメで
最後はその一境性すら手放されるとこまで全然行ってない話しなんだよな 新スレが建ちました。
坐禅と見性第108章 英国倫敦てイエスズメが居なくなったのは何故か [無断転載禁止]©2ch.net
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1459175595/ >>244
ここに出てくるパクナム寺は、ダンマカーイ派のそれと考えていい。
この文章↓からしてもダンマカーイのメソッドのまんま。サバイサバーイ
「バクナーム禅を習得すると、自分の腹部に白く光る球を見いだすという」 >>253
>あるいはもっと修行して理解できるまでになるよう努力するか。
>法を学んでも、鵜呑みにせず、法にもとずいて思索し
>納得してから実践するということが大事だと思う。
>>253 さんの見解は正しいですね。
多くの経典の教えの深浅はさまざまです。
対機説法の浅い教えもあります。
真の経典であるかどうかの判断は、修行者一人一人の体験に依る以外にはありません。
ただ、真理の体験には普遍性がありますから、ある個人だけに真理を顕現させるような経典
はありません。相性というものもある為に一つの経典が全ての修行者に真理を体験させてくれる
訳ではありませんが、本物の経典というものは多くの修行者に同じ真理を体験させてくれるものす。 くれるものす。 ・・・ (×)
くれるものです。・・・ (○) 君達一体何のために瞑想してるの?
散歩して外に出て歩いてもセロトニンやドーパミンが出るし、様々な刺激も得られて心身がリフレッシュする、その方が健康的だが 脳みそと神経伝達物質から心が生じていると思ってるでしょう。
心が動くから脳が動くとは思ってないでしょう。 それは色受想行識の考えだけど
脳が死んだらその五蘊も働かなくなるよ 考えても分からない。
思考の前提に、自分が経験できる範囲内で理解できることがあって、
思考はそこから外に出られないから。
思考の限界は、あらかじめ肉体に規定されている。
犬や猫が、犬や猫のようにしか考えられないのと一緒。
瞑想だけがその限界から外に抜け出す方法。 人間が頭で考えても、人間が理解できる範囲内の思考にしかならない。
悟りはそういうのじゃない。 皆さんやはり床で寝て、テレビはニュース以外見ず、映画や音楽や絵の鑑賞せず、肉は食わずって生活をされているのですか? 床で寝てる テレビはニュースも見ない 鑑賞はわりとしてる 肉は牛は食べない豚鳥魚はたまに
出家してるわけでもないし自分からそうしてきたわけでもないけどだんだん好みがそうなってきた 布団で寝て、テレビは興味のあるバラエティは見る、鑑賞はあまりせず、肉は牛は嫌だけど鶏肉は食いまくる、
最近は透明なモヤ(オーラが見えてくる前兆?)が見えてくるようにはなった。
水風呂や瞑想などの修行はしている。 >>165
阿羅漢同士で涅槃の体験がそこまで違うなら、結局個人の神秘体験の延長線上としか思えないな。
真理だと信仰しろっていうなら、他の宗教とどう違うのか。 言葉で説明できないものを説明するから、表現が違ってしまうんじゃないかな。
だって、涅槃は不生不滅でしょう。
不生の側面だけを語れば、まるで断見のように聞こえなくもないし、
不滅の側面だけを語れば、まるで常見のように聞こえるだろうし。
言葉は逐次処理だから、一個ずつしか描写できないので、言語表現の限界も
考慮しておく必要はあると思うよ。 パオの説明によれば、
有分心に落ちて気絶している状態を、涅槃だと勘違いする瞑想修行者は多いらしいが。
たぶん論争になるのであまり突っ込まない方がいい。 本当に涅槃に到達したなら、悟りの階梯に応じて十結が無くなっているはずなので
そっちで判断した方が確実かもしれない。 預流果に達した時点で信と帰依に加えて戒律も確立するから、
戒律の遵守状況をみれば悟ってるか、悟ってないか分かるはず。
注意点としては、人前では守ってるけど、隠れて破ってる人もいること。
そういうのは、身のこなしや声のトーンなんかにも現れるから、いくら隠して
ても分かっちゃうけどね。
よく集中して、よく観察することが大事。 個人的な意見を書かせてもらうと、
気付きの連続の延長線上にサマディがあるでしょう。
そこからさらに涅槃に至ったとして、そこで突然気絶するというのは
ちょっと想像できない。
認識するというと、ふつうは主体が客体を認識するという、分別思考の
ことを想定すると思うのだけど、自我が消えてしまった状態では
無分別の認識というのがあるんだよね。
なので、涅槃を認識するというのは、その点を考慮すると別におかしくはない。 調和が取れるとエネルギーに満ち溢れ時間は消えます
意識すればすぐ戻れます
釈迦の八正道の教えは完璧であり世に尊い宝です 釈迦の十大弟子や弟子たちは菩薩となられたのでしょうか? 菩薩とはどのような人がなったのですか?
菩薩と釈迦の弟子と如来とか仏とかの区別がいまいちわからん ミャンマー人の寄付率はアメリカと同率で世界1だそうです。
軍人と同数の僧侶30万人をお布施で賄うのだから膨大の金額になる。
僧侶の生活だけではなく、僧院や仏塔等の施設建設費も全てお布施で賄われるのだ。
市民の中には自分の食べ物が不足していてもお布施をする人もいる。
ある高僧が他人からお金を借りてまでお布施をするなとお説教をしたこともあるほどだ。
多くの仏教徒はお布施をしなければ来世が怖いとの強迫観念が強いのではなかろうか。
ある僧院が経営している孤児院に寄付を依頼したら、
裕福層の一人は僧侶や仏教施設へのお布施はするが孤児院への寄付はしないと言ったそうです。
現世で仏教の五戒を破ってもお布施をすればその悪いことを僧侶がすべて解決してくれるので、
来世は安心だと信じ込んでいるらしい。
恐ろしいまでの信仰心、これがミャンマー。 お釈迦様に乳がゆを与えた人だったり、お釈迦様の父だったりは死後、天上界への生まれが約束されるとブッダが言われたように
徳の高い人にお布施をした方が自分に返ってくる徳も高くなるのではないかと >>319
それは財布に10円玉一つしかない状況で
お賽銭を阿弥陀如来と観音菩薩と不動明王のどの賽銭箱に入れようかと悩むのと一緒や [拡散希望!]
参考になりそうなURL送っておきます
電磁波による拷問と性犯罪
http://denjiha.main.jp/higai/archives/category/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E
公共問題市民調査委員会
http://masaru-kunimoto.com/
この方たちは集団訴訟の会を立ち上げてマスコミに記事にしてもらう事を目的に集団訴訟を被害者でしようという試みを持っている方達です
訴訟は50人集めてしようという事なのですが50人で訴訟をすると記事に書けるそうです
記事には原発問題を取り上げてテク犯被害を受ける様になった大沼安史さんらが取り上げて下さるそうです
大沼安史さんがテク犯に遭っているという記事
http://ameblo.jp/hilooooooooooooo/entry-11526674165.html
大沼安史の個人新聞
http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/4/index.html
この方たちは電話相談等も受け付けている様で電話番号を載せている方達は電話かけ放題の契約をしていますのでこちらから電話して本人にかけ直してくれと頼むとかけ直してくれます
音声送信被害等を受けている「電磁波による拷問と性犯罪」の記事の水上さんは年金暮らしなので時間には余裕があるそうで被害内容の話等を聞いてくださると思います
もう一人の電磁波犯罪には遭っていない国本さんという方は電磁波犯罪をしっかり理解されている方で年金暮らしの方なので長電話も大丈夫です
大沼さんはこちらのページからメールを受け付けておられる様です
http://onuma.cocolog-nifty.com/about.html
電話をかけたい場合は人によってはメールで電話番号を訊くと教えてくれると思います
この文章を見られた方は全文コピーをしてできるだけ多くの知り合いの被害者の方等にメールを送るなり被害者ブログに書き込むなりしていただければ大変有難いです
もし大勢の方に送る事が出来なければまだこの文章に触れていない知り合いの被害者に少しでも全文コピーで送っていただけるとその方が次の何人かの方に繋いで頂ける場合があり結果として大勢の方に見て頂く事が出来るはずです
ご協力よろしくお願い致します 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:f70dfdc711a7c6ae6accccb939f27fbf) 不断不常の「中道」とは何か。
人間は霊魂と身体(物質)を生きているのだから、
「霊的なことばかりに没頭するのではなく、身体の世話もしなければならない」
ということでしょうね。
そういった意味で、信者の布施に頼って生活する仏教の在り方は疑問です。
十一献金で生活しているキリスト教の神父や牧師も同じ。
どんな人であっても、世間で働けるうちは働くべきなのだと思います。
僧侶にしても、神父や牧師にしても、
お金が貰える方に心が向い、媚びへつらい、ウソをつき始めるのです。
世の中で誰が一番堕落するかと言えば、
仏教の僧侶とか、キリスト教の神父とか牧師になるでしょうね。
彼らは因果な商売をやっているのです。 >>323
上座部的な考えをすれば、賽銭箱に投じたお金はそのまま寺院への寄進となる。
寺院への寄進は在家信者にとっては最大の功徳の一つだから意味があるどころではない。
大乗仏教的には、お賽銭はお布施の一種だから、六波羅蜜の布施波羅蜜となる。
布施波羅蜜は持たざる者は笑顔とか真心とかを他者に与えるだけでも行となるとされるので、例え10円でもお布施をすることは、苦を滅する道諦となる。
お賽銭を投じてお祈りするときは、一方的に願をかけるのではなく、○○に頑張るので見守って下さい、という形にすると良いと思う。
まさか諸仏に対して嘘はつけないので、○○に頑張ると言った言葉には責任を持たなければいけない。
誠心誠意頑張ったら仏もちゃんと賽銭に報いてくれるだろう。 >>322
お釈迦様の説いた中道は、「極端な苦行をしなくてもかまわない(したほうがいいけど)」だと思ってます。
生命力の強さとは=魂の強さです。
堂入り(7日間飲まず食わず眠らず)等の苦行を行った人たちはさすがに神通力の何かを得ているでしょう。
それでも「毎日を一生懸命に生きたらいい」としか言いません。神通力には一切触れません。
お釈迦様も「前にも後にも私以上に苦行を行ったものはいないだろう」「私以上に努力をした者はいないだろう
と語っています。
それは「苦行は辛いから今世で解脱をしなくても、数度の転生を繰り返して解脱をすればいいのだろう」とそう説いているのだと思います。
7日間も眠らずの生活をできますか、一般人には無理です。徐々に徐々に魂を強くしていけば可能だとは思いますが短期間で高みを目指すのは想像以上に苦しいです。
つまりそういうことです。 >>324
ありがとうございます。
やはり人のために何かをすることはとても良い事なんですね。
願いをかけるのはダメなのですね・・ >>325
違うだろう。
出家などして世俗から離れてるフリして信者のお布施に依存して生きてるよりは
普通に働いてた方がよほど心身の修行になるということだろう。
霊的なことばかり没頭しても霊的な世界でしか達成しうるものはない。
それは人間として不変的な真理なのか、ということだ。
瞑想などは世俗的な生活をする上でのアシストとして使うべきなのだよ本来は。 日本仏教は商売とか批判されるけど、東南アジアみたいに国や国民ぐるみで保護されてないから
しょうがない部分もあると思うわ。
葬式で金取らなきゃどうやって暮らせないだろと。 なんで台湾やチベットでは国民ぐるみで支持されてると思う? 仏典をつぎはぎした人生論じゃなくてダルマをしっかり説いてるからだと俺は思ってる 業報・輪廻・三帰依とかそういう基本的なことね
戒律守るのもそこから出てくることのはず チベット密教って中国共産党に骨抜きにされてるし、ダライ・ラマは亡命してるし、パンチェン・ラマは中国の傀儡だしでどうなの?
秘密集会タントラは魅力的だがww ああ、チベットってのはチベット亡命政府(=インド)のことね
本土だと色達県とかどうなんだろうね 「聖教新聞を取れば功徳がある。しかもたくさん取るほど大きな功徳がある。しかし、取るのを止めれば罰があたる」
創価学会とテーラワーダ仏教って在家信者への洗脳方が似てるよな
人の心の弱いところに突け込む辺りが >>339
洗脳というよりタンブン思想は、古来からあって続いているものだからね。
信仰深い大衆は、どこの国にもいる。 ひふみ 日月神示 上,下,富士,天,地 SAKURAKOinTOKYO ? 1/173 本の動画
https://www.youtube.com/watch?v=zdprWmlWA-Y&list=PLGDyrdEALuvki7qwuwLS_Lu3hdNKp3FDm [Wisdom Teachings of the Buddha] The Dhammapada, Audiobook - 2:22:58
https://www.youtube.com/watch?v=_DkWIQ5pp_w
The Tibetan Book of the Dead (Audiobook) [HD] - 2:43:17
https://www.youtube.com/watch?v=E1MZwriqVvw 【不安障害治癒】「無我」の教え【仏教】 [無断転載禁止]©2ch.net・
http://wktk.2ch.net/test/read.cgi/mental/1450077984/
574 名前:優しい名無しさん [sage] :2016/04/23(土) 18:39:03.78 ID:PphzVr6B
まあ
思考や情報より動くこと、経験することが大事ってのも一つの普遍的真理だろう。
百聞は一見にしかず
書を捨て街へ出よ
案ずるより生むが易し
家の中で一人仏教書を読み続けたり、瞑想したり。
それを何年何十年も・・
それである時から悟り、無我の初歩の世界を体得体験すると、
神経症、対人恐怖が「消える」・・
そんなことが有り得るのか。
有り得たとしてそれは普遍的真理なのか・・
単純に慣れとか行動とか一般論としての自我の在り方とか
そういうほうが実際的だろう。
(脳の病気レベルで起きてるような不安障害はまた別の話 アナパナやると気分が悪くなるんですが、カシナとかやってる人いますか? >>343
君は能書きだけが一人前なだけで、ホントのところの実際の意味が分かってない
だから実践が気付きと伴われて為されてる事が理解できてない 158: 名無しさん@京都板じゃないよ 2014/02/24(月) 04:23:08.23
上座部が自浄されてる??
女かこったり、私服肥やしたり、権威をワイロで買ったり、そんなの横行。
隣の花はなんとやらで、幻想抱きすぎな人がいるようだが、それは危険だぜ?
日本の仏教はダメだ!と自称ヒマラヤで修行した!という麻原にコロっといった単純バカがようけいたじゃん?
南伝諸国の仏教って、結局、僧侶がバラモン化していった時代のインド仏教の生き残りだから
僧侶を現人神としてご利益ご利益で拝む対象にしてんだよね。
北伝が仏像を拝んで民衆がご利益ご利益言ってるのと同じようにね。
有名僧侶のブロマイドがご利益あるつって高額で売れたり、仏像の代わりになってるだけで
やっぱり民衆は現世利益で拝む対象探してるだけ。
仏像は自分じゃ動けないが、人間の僧侶は、そりゃあゼニ稼ぎに自分から立ち回る奴も多いわな。
そういう意味じゃ生きた人間崇拝はよりタチ悪いよ。
http://xn--v8j8f.com/archives/12014039.html [Wisdom Teachings of the Buddha] The Dhammapada, Audiobook - 2:22:58
https://www.youtube.com/watch?v=_DkWIQ5pp_w
The Tibetan Book of the Dead (Audiobook) [HD] - 2:43:17
https://www.youtube.com/watch?v=E1MZwriqVvw
Tibetan Healing Sounds #1 -11 hours - Tibetan bowls - 50本の動画
https://www.youtube.com/watch?v=Q5dU6serXkg&list=RDQ5dU6serXkg#t=0 >>347
> 346は一体何に気づいたんだい?
その質問は正しくないね
一体何「が」気付いたのか?と尋ねるべきかと思われる
つっても、サティを「何」と尋ねるのは愚問だよね 瞑想って夢と現実の境界線が無くなってく作業な気がしてきた 気付きに思考を挟んじゃダメでしょう
正念正知の正見こそが如実知見の実相なんですから >>352
>>346
>だから実践が気付きと伴われて為されてる事が理解できてない >>353
まだわからないんてすか?
見られただけのものは見られただけのものとして
疑ったり考えたりしちゃダメでしょ このスレの住民は昔だったらオウム真理教に入信してるような者ばかりだな
マスメディアによりオウム真理教出家者が理系の高学歴者ばかりで構成されていたかのようなイメージで報道されたが、
多くの宗教団体にありがちなことだが、実際は社会で普通に生きてゆくことに疑問を感じたり社会に居場所をなくした人たちや、
DV被害者、被虐待児、精神疾患、発達障害、パーソナリティ障害を持つものなども多く、こうした社会的弱者の受け皿にもなっていた[5]。 ゴータマ・ブッダという人の言説そのものに興味があるんであって、
宗教嫌いや無宗教の人たちが宗教をどう見ているかということは
わりとどうでもいいのよね。
もともと話が合うわけないんだし。 宗教に関わる人たちの判断にも、無宗教の人たちの判断にも、
それぞれの判断には前提というものがあって、その前提が違うから
両者が同じように理性的に考えたとしても、異なる結論がでてくるわけ。
どこが一番違うかというと、精神現象に対する認識が一番違う。と思う。
無宗教の人たちは、精神現象とは脳内現象であって、精神はそのすべてが
脳に包摂されると考えている。
その前提に立つ限り、肉体の死は精神の消滅を意味する。
そして宗教的価値観のほとんどすべては、脳内妄想か、よくておとぎ話でしか
ないということになる。
従って、宗教的なものに価値を見いださない。
しかし、脳内現象というのは物理現象なんですね。
精神現象ではない。
昔からそうだろうけど、多くの人はそこが分かっていない。 もっと簡単に言うと、無宗教の人たちは
精神現象とは物理現象だと思っている。
このふたつの違いが分かっていない。
近代科学が科学的だと考えている立場も、全てではないにしろ、そのほとんどが
還元主義といって、物理的に存在していないものは存在していないという立場に
立っている。
物理的に存在していないものは、物理的には存在していない。
それは確かにそうなのだが、精神現象は物理現象ではない。
精神現象は精神的に存在しているのであって、もともとからして物理的には存在
していない。
精神は物質ではない。
昔は多くの人たち地球は平らだと思っていた。
そのことと同様、多くの人間にとって、この当たり前のことが分からない。
瞑想だけがその真実を見いだす手立てになる。
なぜなら、瞑想は精神の観察だから。
脳内物質を観察しても、精神は観察できない。
脳内物質は物質であって、精神ではないから。
科学的な態度とは何か。
それは観察することのはず。 いまだに還元主義的な立場が科学的だと思っているなら、自らが考える科学的見方というものが
本当に科学的なのかどうか、そろそろ見直してみるべきだと思う。
厳密に還元主義に立つと、精神は存在していないということになる。 もうやんないけど、哲学って頭で考えてものを言うでしょう。
瞑想は観察だから、本当は哲学とは違うんだよね。
ものごとの真相って、人間が頭で考えてわかることじゃない。
地球が丸いのだって、考えてそうなったわけじゃないでしょう。
見たら丸いから丸いとなった。
それが観察。 仏教批判のほとんどは哲学的思弁から生じてきてるんだけど
仏教の依って立つ土台は哲学じゃなくて観察だから、はじまる前から
話が噛み合ってない。 哲学は思弁だけじゃないし仏教教理も思弁でできた部分は大きいのでは。 思考体系の前提に関しては、だいたい上記のことが言えると思う。 >>364
>瞑想は観察だから、本当は哲学とは違うんだよね。
君は瞑想も瞑想に因る観察も出来てないな
だから何も気付けて居ない
知識に頼って思量するのは瞑想でも観察でもない
そう言うのを如来は妄想と説く
君は瞑想ゴッコを頑張ってるだけなんだろう
それではいくら頑張っても如実(如来)を観ないし気付けないだろう
悪い事は言わない、知識を手放したら良いと思われるが如何かな? >ゴータマ・ブッダという人の言説そのものに興味があるんであって
私もブッダの言説や弟子たちの言説には興味がある(原始仏教)。
現在の仏教は >>368
判断の前提に思い込みと決めつけがある。 >>370
それは ID:KtqhnEoC に言うべきだろう
見たまま読んだままの事実を書いたまでですよ
ときに、何の為に瞑想を行なうと思ってますか?
これがわかってない人は ID:KtqhnEoCの様にダラダラ愚痴を行なってしまう訳です ここに既に居るのに問いを選んで答えないのは誰の教えなんでしょうね。
釈尊の流れを汲むものなら、問いを選ぶ真似などしないでしょう。
解るものには応え、知らないものは知らないと言うでしょう。
それとも、三回尋ねなければ応えないアレの真似でしょうかw 道元の三度か
釈尊はその人の態度によっては聞き答えをするなって言ってるな 止みなん。>>375。復説くべからず。
所以は何ん瞑想にて成就したまえる所は。第一希有。難解の法なり。
唯佛と與佛と。乃し能く。諸法の実相を。究尽したまえり。 不浄の者は説法を聞くことも許されないとかあったそうですし 禅定にあるならそんな疑念も無いでしょう。
みんなちゃんとラベリングしながら書き込んでますか?
実践って大事ですよね。
正念正知を如実知見出来てますか?
その為のヴィパッサナーなんですよ。
御託ばっかり頼ってるといつまでも如来を観ませんよ。 ヴィパッサナーやったって異論や疑念が出るのはパオとマハシの涅槃論争で証明済み。 三角形のピラミッド階層の下層の人たち同士は争う。
上層のひとたち同士は、どこが違って、どこが同じか見えてきてるから争わない。
僧院の中の出家僧なんかは、パオとマハシ、両者の違いが表面的であることを知っている。 布教師はしゃべりまくる。
某坊さんと、最近でてきた某坊さんもよくしゃべる。 マハーカルナー禅師は正統なパオだけどそこら辺はバランスいい
個人の考え方にもよるのでは 大事な事を見逃して居ないだろうか?
瞑想とは瞑想と言う作法を調えて行っている時だけが瞑想と呼べるのかどうか。
行住坐臥全てが仏道であり、正念正知は行住坐臥のどこに於いても欠かせない事だろう。
無心とは迷妄から離脱した状態を言うのであるから、経典にもこの様にある。
874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。──このように理解した者の形態は消滅する。
どこのどいつが音を聞く瞬間に、一考してからでなければ聞こえないアホが居るだろうか。
それは眼に於いても鼻に於いても、六根全てに言える事だろう。
この事実こそが涅槃=無心の現われなのだと気付く為の瞑想作法なのに
諸兄は日ごろ、一体どこをよそ見しているのだろうか。 他人の過失を見るなかれ。他人のした事としなかった事を見るな。ただ自分のした事としなかったことだけを見よ。
同じことでも、私はこうやってますという言い方をする人と、みんなはこうやってないという言い方をする人がいるね よそ見していると書くと必ず反論が起こる。
どこを観れば如来を観るのかを迷っているからだろう。
既に観ているのに気付けていない事は自覚されている模様だ。
見られただけのものは見られただけのものである。
受想行識も復是の如しと知るべきだと説かれる。 >>384
結局個人の考え方の問題で、修行は人間の個性に影響を与えない感じだな。
多少冷静にする程度。 >>387
なんと素晴らしい。
コテを付けて頂けませんか? パオは先にサマディに入って、それからヴィパッサナーして悟ろうとする。
マハーシは先に預流果に悟って、それからサマディに入って、残りの悟りの階梯を上がろうとする。
そんだけの違いだと思うが。
預流果になれば五蓋が弱くなってるから、サマディにも入りやすいだろうしな。
どっちでも自分にあった方で修行すればいいと思うのだが。 スマナサーラ氏の本、音声等と自分の体験でしか仏教を
知らないんですが、
スマ氏の方法であっても、慈悲の瞑想のようなサマタの
瞑想をおろそかにしないほうがいいように思います。
(必ずしも、禅定がヴィパッサナーより先かは、
自分には分かりません)
あと、自分的には、お腹の膨らみ凹みの前段階のような
扱いに感じる、手を上げます上げます、、下げます下げます、、
が一番効果を感じました。
以上、個人的な感想ばかりでした。 分かる
手の上げ下げは集中力が出るからね
暇と疲れない鉄の腕があるなら上げ下げだけでも良いのかも(笑) サーリプッタさんが言った、――
九六二 心を安定させ気を落ちつけている賢者は、どのような学修を受けて、自分の汚れを吹き去るのですか?――譬えば鍛冶工が銀の垢を吹き去るように。」
九六三 師(ブッダ)は答えた、
「サーリプッタよ、世を厭い、人なき所に坐臥し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。
九六四 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻(あぶ)と蚊(か)と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。
九六五 異なった他の教えを奉ずる輩をも恐れてはならない。――たといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。――また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。
九六六 病いにかかり、餓えに襲われても、また寒冷や酷暑をも堪え忍ぶべきである。かの<家なき人>は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をもって、堅固に努力をなすべきである。
九六七 盗みを行なってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。
九六八 怒りと高慢とに支配されるな。それらの眼を堀つくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりとうち克つべきである。
九六九 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危機にうち勝て。奥まった土地に臥す不快に耐えよ。
九七〇 すなわち『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『(昨夜は)わたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』――家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ。
九七一 適当な時に食物と衣服を得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ。かれは衣食に関しては恣(ほしいまま)ならず、謹んで村を歩み、罵られてもあらあらしいことばを発してはならない。
九七二 眼を下に向けて、うろつき廻ることなく、瞑想に専念して、大いにめざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。
九七三 他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。
九七四 またさらに、世間には五つの塵垢がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する貪欲を抑制せよ。
九七五 修行僧は、よく気をつけて、心もすっかり解脱して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。かれは適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」
――と師(ブッダ)はいわれた。 >>392
レスうれしいです。(^_^)
腕の上げ下げについて見た限り誰も触れていなかったので。
そうですね、集中できますね。
集中力+感覚の観察がいいんでしょうね。
立ちます、座りますだと、ゆっくりやる気になれません。 テーラワーダ仏教そのものは素晴らしいし、本当のテーラワーダ仏教はアーチャン・チャーやスリ・ダンマナンダ長老に見られるように、決して他宗教や他宗のことを不必要に罵ったり否定したりしない。
しかし、最近、日本の中のあるテーラワーダ仏教の団体の人は、ことさら他宗や他宗教に対して悪口や否定をする傾向があるようである。
一知半解からそのような、仏教に照らしてみても誤った行為をする前に、まずはこの文章を熟読して、そのような過ちを未然に防いで欲しいと思う。】
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/touch/20120227/1330303443 本当にテーラワーダ信じているならこんなとこでくすぶってないで
潔く出家して、出家の戒律守って修行に専心しろよ。
屁理屈こねて中途半端な状態を、正当化せずによ。 >>395
>『浄土門嫌いなテーラヴァーダ応対マニュアル(3)一世界一仏について』
ここが間違ってるな。
世界をどう解釈しようが如来は如来でしかなく、釈迦だの阿弥陀だのの名称は
便宜上人が後世に付け加えて言い表しただけの仮設に過ぎない。
如来は本来世間と同一なんだから釈迦や阿弥陀や多宝や薬師や大日その他に限らない。 実際のテーラワーダ仏教の国をみてみれば分かることだが、仏教徒の大多数は在家の優婆夷、優婆塞なのだ。
解脱しようとするなら出家した方がいいが、解脱しようと思ってない人が在家として仏教を信奉するのは自然なあり方だ。 大乗に維摩居士というのがおられるように
原始仏典にもチッタ居士という在家の預流者が説かれている
(というより維摩居士が後なんだが) 出家とは生きながらに死ぬ事 by瀬戸内寂聴
それはともかく、本来の出家の意義は維摩経の通りかと言える。
「それは違う」と比丘がもし言い張るなら、その比丘は有身見すら解脱で来てないと言えよう。 浄土門について言うならば、浄土門自体は間違っていない。
問題なのは浄土門を殊更に擁護して、他門を排他する連中と言えよう。
もちろん、浄土門を排他する連中もこれは同じ事が言えよう。
「絶対他力」とは有身見を解脱出来なきゃ出来ない芸当。
釈尊は最初から大乗しかお説きになられていないのだから、極端に依る必要もなかろう。 スマの「お釈迦様直伝の教え!」がうんざりする気持ちもわからんでもない。
ブッダゴーサ直伝の教え!にしとけばいいのにw
藤本がお釈迦様はパーリ語語ってたとか言ってるけど、阿弥陀仏信仰が別の信仰に変わっただけ。 それ全部テーラワーダのごく一般的な伝統説ですわ
スマ長老だけが言ってるんじゃない スマ師がイマイチなのは般若心経にケチつけた事かな。
あの人の宗派では所謂大乗般若の立場は異端になるから、って事らしいが
少なくとも釈尊は異端だの邪義だのと頭ごなしに叱りつける事はされてない。
そもそも在世当時の仏教は世間では異端の新興宗教だった訳で
スマさんは少し、伝統に固執し過ぎてる感が否めない。
判断の基準はカーラーマスッタに明記されてるのだから、それに照らすと
菩薩が阿羅漢に説いてるシーンが冒頭の心経も、教義的には筋は通ってるのだから別段何も問題無い事になろう。
何故なら、スマ師の系譜は本来小乗仏教と呼ばれた流れでは無かった訳で
二通り認められてる上座部の、実はこの部分が本当の問題だった事の方が大問題かと言えよう。
スマ師の系譜は、般若心経の異端性よりもっと重大な、上座部だけど上座部じゃない問題。 >当時の仏教は世間では異端の新興宗教
その新興宗教A(ニカーヤ・阿含)の体系内では新興宗教B(大乗)は異端でしかないので
世間では同じ新興宗教だからAはBを受け入れよというのは何の意味もなさない
釈尊がサーティ比丘の邪義を叱りつけられた話は超々々有名
カーラーマ経には「〜だからといって受け入れるなかれ」としか説かれていないのでこれは経典の判断基準ではない
預流道ですらない凡夫にすぎない菩薩が、無学の阿羅漢に説法するのはまず設定として有り得ない
まさに釈迦に説法
空即是色、空不異行などの論理的に破綻を来した文言、四諦・十二縁起の無を説く般若心経は、経と律に照らして問題外の内容
そして上座部が上座部たる由縁の一部は聖典範囲の確定なので
正統な上座部であればあるほど現行パーリ三蔵以外に権威を認めないので般若心経が受け入れられるはずがない
むしろ上座部の比丘が般若心経を受け入れれば、それこそが上座部だけど上座部じゃない異端となる >>398
輪廻と解脱を信じていないんだな。
屁理屈こねて中途半端な状態を正当化する典型例。
>>405
>そして上座部が上座部たる由縁
戒律的に言えば破戒僧スマナサーラなんて論外だという話ですね。 >輪廻と解脱を信じていないんだな。
なんか、為にする詭弁だなコレ
>戒律的に言えば破戒僧スマナサーラなんて論外だという話ですね。
長老の破戒ってなに? >>405
>釈尊がサーティ比丘の邪義を叱りつけられた話は超々々有名
大愛尽経では叱ってる訳じゃないんだけどね。
識が生存から生存へ移転するとは、釈尊がそういう風には教えなかったよねって諭してるだけ。
縁に依らずに識が起こる(移転する)なんて、面等向かってれば諭されて当然。
>カーラーマ経には「〜だからといって受け入れるなかれ」としか説かれていないのでこれは経典の判断基準ではない
受け入れるなかれとは、列挙された以外に判断基準点があるって事を教えてるんだよ。
君はその経の列挙を用いないで、真実が分かるかな?
私は簡単だったけどね。
>預流道ですらない凡夫にすぎない菩薩が、無学の阿羅漢に説法するのはまず設定として有り得ないまさに釈迦に説法
教条主義(ドグマティズム)は既に仏法じゃないよね。
バーヒヤは外道の分際で、飯際の釈尊を捉まえて説法を請いて、たった一言簡単に説かれただけで解脱したよね。
テーラワーダの作法に依らないでみれば、預流向・果なんか甘えだよ。
>空即是色、空不異行などの論理的に破綻を来した文言、四諦・十二縁起の無を説く般若心経は、経と律に照らして問題外の内容
涅槃には一切の戯論が有り得ないんだから、世俗諦たる四諦・十二因縁も悟りも有り得ない、と分からない君はまだまだだね。
>正統な上座部であればあるほど現行パーリ三蔵以外に権威を認めないので般若心経が受け入れられるはずがない
お釈迦様は権威を認めず、経を文書化するんでもその土地・風土に合わせた平易な言葉を使う様に許されたよね。
仏法に権威があると思ってるんでしょうか。
それは邪見ですし戯論ですし妄想に過ぎませんよ。
>むしろ上座部の比丘が般若心経を受け入れれば、それこそが上座部だけど上座部じゃない異端となる
本来の上座部ってはるか昔、根本分裂の時にフェードアウトしてるんですよ。
今の上座部は後から名乗り出た所謂「成り金」に過ぎません。
良く調べてみてくださいね。
君はそのままじゃ単なる上座部カルト宗教の信者で、仏法者とは言えませんよ。 >>405
君の問題点として言うならば、今の君の直面してるのは「名称と形態(ナーマルーパ)」の真実を悟る事だね。
これが君は曖昧なままだから、目の前の真実を観ずに、よそ見に耽ってると言えるよ。
名称と形態との真実が悟れてないから「色即是空」はともかく、「空即是色」に難癖が出ちゃうのさ。
そういう意味ではスマさんも、或いはヤヴァいのかもしれないよ。
迷いの視点が色即是空、だからそれは大抵の人が簡単な説明で直ぐ理解出来る。
ところが空即是色は、深く考えてしまうと「動物は犬である」的な愚考を妄想して混乱してしまう訳。
つまり、空即是色は「迷いの凡夫」の視点じゃ意味不明で当たり前で
君もスマさんもケチつけるのは当然って言えば当然なのさ。
君は良いとしても、スマさんは拙い筈なんだけどね。
私はそれでも赦すよ。 >>405
ああ、名称と形態を悟るのもすっ飛ばして後回しで良いかもです。
君は先ず、無明を明かす(解明する)のが一番早道でしょう。
四諦を弁えていないのが無明だ、と言うのは間違ってませんが、日常に引き当ててみて
それで無明が具体的に理解できますか?
もっともっと身近な現実が無明なんですが、それを今の君は分かってるでしょうか。
無明って日ごろの自分達の一体何の事を具体的に言い当ててると君は考えますか?
物凄く単純で簡単な事なんですが、人はこの無明を軽んじて見過ごしてしまい
よそ見し放題だから涅槃も分からず如来も観ないのだ、と如来は説きます。
四如意足を怠らない様にしてみてくださいね。 >>408
>大愛尽経では叱ってる訳じゃないんだけどね。
「moghapurisa(愚か者よ)、あなたは、いったい誰に私がそのような法を示したと了知しているのですか。」
「moghapurisa(愚か者よ)、様々な法門によって、私は〈識〉を縁起するものとして説いたのではありませんでしたか。
縁による以外には〈識〉の発生はない、と』。」
>真実が分かるかな?私は簡単だったけどね。
まあ頓智話は他所で悟りスレででもやるべきですな
>バーヒヤは外道の分際で、飯際の釈尊を捉まえて説法を請いて
あえて言えばバーヒヤが釈尊に説法するような変な状況が般若心経ですよ
>涅槃には一切の戯論が有り得ないんだから
空性=涅槃というのは大乗の説にすぎない。
しかも、一切の戲論がないならなおさら空即是色と説くのは不合理
色即是空で止まってないといけない
>お釈迦様は権威を認めず、経を文書化するんでもその土地・風土に合わせた平易な言葉を使う様に許されたよね。
言語の問題じゃない
パーリ語で示されてようが、アルダ・マーガディーで伝持されてようが、今の三蔵でブッダの言葉はすべてであると
ある時点で確定したのが分別説部 >>411
>「moghapurisa(愚か者よ)、あなたは、いったい誰に私がそのような法を示したと了知しているのですか。」
>「moghapurisa(愚か者よ)、様々な法門によって、私は〈識〉を縁起するものとして説いたのではありませんでしたか。
>縁による以外には〈識〉の発生はない、と』。」
これを叱ってると看做すのは如来への誹謗と思われますね。
諭しと叱りとは、如来に於いては異なる所作と言えるでしょう。
まあ、「やさしくお叱りになられた」と言う事で矛を収めましょうか。
>しかも、一切の戲論がないならなおさら空即是色と説くのは不合理 色即是空で止まってないといけない
世俗諦とは往々にしてそう言うものでしょう。
人が説く言葉には限界がありますから。
色即是空が凡夫の視点、空即是色は如来の視点、と考察されたら良いのではないかと。
世間と如来とは異ならないんですよ。
君は如来を他人事と看ていますよね。
それじゃダメだと思われます。
>パーリ語で示されてようが、アルダ・マーガディーで伝持されてようが、今の三蔵でブッダの言葉はすべてであるとある時点で確定したのが分別説部
ほう。つまり如来は死んだと言う訳ですね。
「これ以外は認めない」をやらかしたら、それは有部の始まりですよと。 話してることは智慧と言うより空理空論。
心も解脱してないし、慈悲もない。
黙っていた方がずっとマシなレヴェル。 例えば、色蘊(物質的なもの)の代表として、眼前に瓶があると仮定しよう。
私たちがその瓶を認識するときは、「この瓶をこの瓶たらしめている本質的なものが、この瓶それ自体の側にある」と自然に思い込んでいる。これが、凡夫の習慣的な実体視の心だ。
しかしながら、その「本質的なもの」を徹底的に追求してゆくとと、結局は何一つ「これだ」と掴めるものがない。それゆえに、「色は空である」ということになる。
けれどもこのとき、最初に認識していた瓶自体が存在しないのかといえば、そうではない。空であるところの瓶は、確かに眼前に存在する。だから、「〔瓶の〕空性は色である」と説かれているのだ。
http://rdor-sems.jp/index.php?%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%A8%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C >>407
>なんか、為にする詭弁だなコレ
なんか、為にする詭弁だなコレ
>長老の破戒ってなに?
上座部の戒律も知らないんだな >>417
飛行機などの楽な乗り物は乗れない
現金は触れては行けない
屋根のある所に一泊以上滞在出来ない
在家とお経を唱えてはならない
食事に呼ばれるのと托鉢以外で食事を得てはならない
所持品は勿論、三衣一鉢爪楊枝だけ つまり、スマ師は日本では破戒しちゃうので、出国前に捨戒してきている
事実上の比丘コスプレ爺ってこと
戒壇建立は日本の法人格取得要件の為のもので、あまり意味がない
釈迦の時代にそもそも戒壇が無い なお、さとりや智慧や浄らかさは伝統や格式や見た目やハッタリじゃ得られない
勿論経典や法話からも得られない
冷暖自知故に ウ・ジョーティカ師によれば、潜在的ブッダ(菩薩)は16智の11番目で自然にとまるとか
書いてたから、テーラワーダ僧でも大乗志向の人間がいるとは理解してるんだろうな。
なら大乗も認めていいと思うんだけどね。
どうせチベット仏教に議論術で勝てるか疑問だし。
今後世界の仏教をリードする国になるだろうアメリカは、在家主義の融和大乗主義になるだろうし。 >>421
波羅提木叉を読んでみればいい
そもそも托鉢しなくても食っていける時点で波羅提木叉の伝統は途絶えてる
それなのに「うちこそが正統」と言い切ってる訳だから、そんなのは正伝の仏法と大した違いはない
正伝の仏法の側は摂受も説くので本来から同門に敵が居ない
それを踏まえて、敵を作ってプロパガンダ始めた上座部をどう考えるかは課題だろう
釈尊が言ったのは「俺の教えこそが最高」なんじゃなくて
如来は一度も間違った事を説法してなかった、って事を伝えてた訳で
上座部を志向するものはオウムと何が違うか、脚下照顧すべきかと思われる つまり捨戒してるなんて事実はないってことか
嘘はいかんでしょ
>そもそも托鉢しなくても食っていける時点で波羅提木叉の伝統は途絶えてる
デーヴァダッタじゃないんだから 如来になる最高の悟りというものは、全ての人々を救い、導こうという菩薩の行いによらなければ得ることはできません。
この世は人間同士の繋がりで成り立っているのですから、テーラワーダのように自分一人だけの悟りを目指した修行だけでは仏になれないのです。
それは、喩えて言えばこういうことです。
世にも珍しい宝物を求めて、探検家の一団が険しい山道を旅していました。
道をよく知っている先達がみんなを励ましながら進んでいきます。
しかし、あまりにも長く危険な道なので、一団の人々は疲れ果て弱気になってしまい、「もうこれ以上は歩けない、引き返そう」と言いだしました。
あとどの位辛抱して歩けば、どんなに素晴らしい宝物を得ることが出来るかを知り尽くしている先達は一策を講じます。
先達は神通力で、彼らの前に壮麗な城を出現させ、その中の宴会場には山海の珍味を用意しました。
探検家の一団は、手足を伸ばして飲みかつ食べて英気を養いました。
一団が充分に休んで元気が回復したのを見て、先達は言いました。
「さあ、もう一息です。今皆さんが休んだお城は、私が皆さんを休ませるために創った幻のお城だったのです。
あと一頑張りで宝の山です。さあ、行きましょう!」
この先達こそ世尊です。
仏道を極める道は遠い。
息切れがして、苦しさのあまり今にも挫折しそうな者にはテーラワーダの教えを説いて一休みさせ、
新たに菩薩行という真実の教えを説いて悟りの境地に案内するのです。 >>424
>つまり捨戒してるなんて事実はないってことか
>嘘はいかんでしょ
逆ですよ
伝統とか正統とか言うのが事実でも何でもないって事です
眼を覚ましましょう
仏法で唯一無二なのは阿耨多羅三藐三菩提だけですよ
それ以外の事は、上座部だろうがスマ師の言葉だろうが流通分に過ぎないんですよ
拘る方がどうかしてます >>425
>如来になる最高の悟りというものは、
如来になる、と言うのがそもそも間違いかと言えるでしょう
如来無ければあなたは何も出来ないし、釈尊も何も気付けなかったでしょう
世間の究極は如来の究極と微々たる違いも無いんですよ
よそ見してちゃダメでしょう >>424
あと、捨戒しないとお金触れないのは事実だし
飛行機も、波羅提木叉に変更が無いなら乗れません
波羅提木叉に変更の事実があって改定されてるなら
伝統とか正統とかは問えないって話なんですよ
釈尊の教えってそんな伝統みたいなのは拘らないものだったでしょう
誰の教えなんですか、これが正統だなんて言ってるのは >>427
>よそ見してちゃダメでしょう
道元禅師は在家はどんなに修行しようとしても出家には敵わないのだから、仏道を修めるなら出家せよといってますね(出家功徳)。
http://www.dogen-shobogenzo.com/syukkekudoku1.html
あなたもよそ見をせずに出家されてるのですよね?
どこかの禅寺のお坊さんでしょうか?
まさか在家の身でありながら仏道について講釈垂れてるわけじゃないですよね? >>429
何を以って出家とするのかに因りますよね
頭丸めて寺に入ってそれで本当に出家なんですかね
維摩経なんかでは違った事が出家だと言ってますよね
そもそも何を「家」と看做して、そこから出るとするのか
君は有身見、断ててませんね
それで楯突くとは良い度胸だと思われますよ
そう言うのがテーラワーダの作法なんでしょうかね
家を出るのが出家だと決め付けてるのはオウムと変わりませんよね >>431
>何を以って出家とするのかに因りますよね
だから丁寧に出家功徳のリンクを貼ったのに。
最初のページを読むだけで分かるでしょう。
で、あなたは坊さんなのですか? >>432
>だから丁寧に出家功徳のリンクを貼ったのに。
そのページには「在家では不可能」とは断定してませんよね
良く読みましたか?
拘ったら中道に反しますよ?オウムは中道じゃないからおkですか?
>で、あなたは坊さんなのですか?
それが君の解脱の何に役立ちますかね
どっちだって君の解脱には影響しませんよね
自分の足元を良く見てください、よそ見してないで >>433
出家功徳の要領を全く弁えてない発言ですね
最初のページを見ただけでは分からず屁理屈を捏ねるなら、次のページの冒頭、
>また次に、出家して戒を修めれば、無量の善き生活法のすべてを具足して満たすことができる。
>このために、在家の人たちは是非出家して その戒を受けるようにしなさい。
はい、道元の言葉を聞いて「是非出家してその戒を受けるようにしたら」どうでしょうか?
道元のいうことに拘らないというならそれでもOKですが、
それならあなたが講釈垂れてるあなた流の仏道のことにも何も拘らなくて構わないですね?
>自分の足元を良く見てください、よそ見してないで
そういうことにも拘らなくてOKですよねww
(しかし、こういう時だけ道元の言葉を流用するんですねw) 禅寺の座禅会に出席してる程度で覚ったようなことをいうから 禅寺の坐禅会に出席してる程度で覚っちゃ駄目なのかよw
坐禅してる真最中って身口意の三密を坐禅に預けちゃってるから出家と同じだろ
脚下照顧の脚下ってそこの事だろ、そこに本来の面目とか一無為の真人とかを見ろって事なんだろ
簡単な話なのに難しく考えるアホに点ける薬ってホントにねえ罠w >また次に、出家して戒を修めれば、無量の善き生活法のすべてを具足して満たすことができる。
座禅中は三学の一つ、戒学を身で修めてる罠
同時に定学も慧学も修めてる罠、気付いてない奴多いけど
修証一如ってつまりそう言う事言う訳で、聞いても分からない奴は
仕方ないから寺へ実際に入って実践しろって話なんだよな
坐禅会で悟る奴は悟っちまうもんだよ
要は強烈な執着を持ってなきゃ解くものが少ないんで直ぐ覚る
出来ない奴が嫉妬して「出家第一」的な事を言い出すんだな
仏道修行って行住坐臥の日常全てなんだぜ
寺の生活だけが仏道って訳じゃない
だから典座って言う飯炊きだけを行なう修行僧も居る訳で
覚るのは座禅だけに限らないし、出家は出家だけに限らない
わかんないんだろうなw どうしてそう思う?
書くに任せた出任せ書いてるかも知れないぜ?
鵜呑みにしないほうがいいよ 悟ってるって言うなら悟ってるでいい
悟ってないって言うなら悟ってないでいい
他人が悟ってるかどうかなんてどうでもいい >>438
「聖教の中には、在家のままで仏になるという説もありますが、これは仏祖の正しく伝えた教えではありません。
また女身のままで仏になるという説もありますが、これもまた仏祖の正しく伝えた教えではありません。
仏祖の正しく伝えてきた教えは、出家して仏になるということです。」
「出家しないことは、誰が見苦しい事としないでしょうか。誰が愚かの至りとしないでしょうか。」 「聖教ノナカニ在家成仏ノ説アレド、正伝ニアラズ。女身成仏ノ説アレド、マタコレ正伝ニアラズ。仏祖正伝スルハ、出家成仏ナリ。」 出家の対象となる家って、つまるところは拠り所の事で
それは家屋の家と言うよりも「我・我所」への執着の事でしょう
だから有身見を断たねば成らないんでしょう
出なきゃならないのは家屋ではなくて「我執」だよ
でなきゃ「仏法は無我にて候」がいつまでも成り立たない
それなのに出家出家とやたらと家出に拘るのは、オウムの十八番だったよね ちゃんと言ってるじゃん
尊者曰く、「汝 身の出家なりや、心の出家なりや。」 答えて曰く、「我 出家を求むるは身心の為に非ず。」 尊者曰く、「身心の為にせず、復誰か出家する。」
http://www.dogen-shobogenzo.com/syukkekudoku16.html
心身の出家って無我なる事実を弁えるって意味でしょうよ 道元は病気だからとか言い訳せず、財産を処分してからと言い訳せず、直ちに何もかも捨てて出家せよと言っている。
本当に禅宗信じているならこんなとこでくすぶってないで
潔く出家して、出家の戒律守って修行に専心しろよ。
屁理屈こねて中途半端な状態を、正当化せずによ。 この分だと『袈裟功徳』も読んだことないんだなw
それでキャッカショーコー、キャッカショーコーいってたのはどっちがオウムなんでしょーねw >>448
だーかーらーw
出家の概念を君は間違えてるんだってよ
インド直伝釈尊直伝の出家って意味なら、カースト制度に逆らっての出家が本義なんだよ
ここは日本なのね、乞食行為は法律でするのもさせるのも禁止されてるのよ
で、野宿暮らしも表向きは禁止されてんのよ
そんで屋根が有って雨風凌げる僧房に暮らしてて、それで家に住んでないと言える出家なのかな?
今の日本で厳格な出家なんて意味がないのよ
本来の出家は心身からの出家が本義なんだよ
つまり、自己はトコトン無我なり、を弁える事が出家になるんだよ
それは釈尊の頃から変わってないのよ >>449
永平寺って最低年数一年なの知ってるかな?
それはご住職候補さんの養成講座に過ぎないんだよね
道元師の頃と今とじゃ出家の意義が変わってんのよ、表向きはね >>450
道元は乞食行為がどうこうじゃなく出家じゃないと仏道を成就できないから出家せよと言ってるの。
学道の人は後日を持ツて行道せんと思ふ事なかれ
(正法眼蔵随聞記)
http://izlpha.blog.fc2.com/blog-entry-23.html >>452
じゃあさ、心身の出家って何?何の事?
家も財産も自分の事一切も拘りを捨てるって事なんじゃないの?
ちがうのかなあ?
俺はそう教わったけどねえw
出家舐めんなよ >>451
「我・我所」への執着とか悟りすましてたやつが何を言ってるの?
一年なんて生ぬるいこと言ってないで一生を仏道に捧げれば? まー、座禅会に出席して座禅するのは大いに結構だけどさ、
印可を受けてるわけでもなんでもない一在家が上から目線で
仏道を実践して修学してますみたいなことは言わないこと。 バカじゃねえの。
釈迦は誰に印可されたんだよ。
悟りは無師独悟って道理位知っとけアホ。
他人様が悟らせてくれんじゃねえだろ。
冷暖自知なんだからな。 IDコロコロ変えて両舌撒き散らすのって破戒だよね。 >>453
我我所にあらざれば、諸仏の法なるべし。
ただこれ諸仏の常法なり。
諸仏の常法なるがゆゑに、我我所にあらず、身心にあらざるなり。
三界のかたをひとしくするところにあらず。
かくのごとくなるがゆゑに、出家これ最上の法なり。
【現代語訳】
出家が私や私の所有物のためでなければ、それは諸仏の法です。
もっぱらこれが諸仏の不変の法なのです。
諸仏の不変の法なので、私や私の所有物のためでなく、身や心のためでもないのです。
世間でこの法と肩を並べるものはありません。
このような理由で出家は最上の法と言うのです。 テーラワーダ仏教では、以下のように言っています。
本当にいいのは、怒らない方法を探すのではなくて、ただ怒らないことです。人を殺したり、殴ったり、批判したりとい... #知恵袋_
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10158912090 >生物の特徴の一つは、
>それぞれの個体が種と呼ばれるグループを形成していることである。
>種の違いを認識し学名をつけるのが分類という作業である。
>現在分類されている種だけで200万といわれるが、
>未知の生物種は1千万とも1億ともいわれている。
テーラワーダ仏教では前世の業に応じて輪廻転生したときに何に生まれるか決まり、
人間以外にもこうした畜生、生き物に生まれ変わるとされてるようだが、
高貴な人間に生まれるのか貧しい家庭に生まれるのか、
あるいはライオンに生まれるのか馬や鹿や兎に生まれるのか、
あるいはミジンコに生まれるのかミドリムシに生まれるのか、
あるいはバッタに生まれるのか蜘蛛に生まれるのか、
その転生先を決めるのは誰が決めるの?
梵天が来世への裁判官? 何に生まれるって断定して説かれてたっけ?
再び母胎に入る・入らないとは説かれてるけど。
虫けらに生まれると思うならそうなんでしょ。
不一不異なんだし、何でも御座れ。 >>468
貪瞋痴の不善の心に相応しい身体を自分で得るってことじゃないのかぬ
畜生は痴根心とか
>>469
(´・ω・`)つ『大縁経』
「アーナンダよ、深遠であるこの縁起は、深遠に見えるのだ。
アーナンダよ、この法を悟らず理解しない、このような人々は、糸のもつれから生まれ、
腫れ物に覆われた中から生まれ、ムンジャ草やバッバジャ草の中で生存し、
苦界や悪趣や地獄や輪廻を超えでることがないのである」 テーラワーダでカルマについて解説したものに依れば、
>転生先を決める
審判者らしき者が居る訳ではなく、naturalに作用するとあります。 創価学会などは未だに「不動明王を唱えて守ってもらえ!」などと馬鹿なことをやってますが、
不動明王は何万年と人類及び神仏や霊界をだましてきました。最近、イスラム教にも不動やその残党が紛れ込んでる
との情報がありました。
四八方の宗派、バラバラの霊媒師達が裏でさんざん言ってる他様々な所から入ってきた情報を載せます。
不動明王(別名シヴァ)は最も悪い奴です。長いこと人類や他の神を騙してきたのがばれて上神仏界で抹消されています。
今後、こいつを唱えると一緒に罪に問われ悲惨な目に会います。ひどく醜い嫉妬とひがみにこりかたまったやつです。
不動(シヴァ)はスサノオノ(転生体は阿含宗の桐山)とグルになり、ハープ(フリーメソン、イルミナティーの一派)を
操って、東大震災を起こしています。で表面からは鎮魂除災の護摩木をかかせ自分の所へ勧誘しようとしました。
先程も述べてますが、仏教の方法、この場合阿含経でしたがそれは単なる1つの方法の話です。使う奴が誤れば
このようにとんでもないことになってしまいます。まるで原子爆弾のスイッチをその辺の野ざるに持たせるとこうなる
といういい例です。
また最近御嶽山が噴火しましたが、この件も含めて長年の悪行がばれていよいよ毒殺他されそうになった不動が最後の
悪あがきをしたと言われています。不動をお参りしていた者によく「家のは赤不動だから大丈夫、白不動だから大丈夫・・」
などと言うのがいますが、それは赤、青、黄、白といろいろあるでしょう。しかし全て百面相でごまかしただけの黒不動です。
騙されてはいけません。
ここへ、釈迦、アマテラス、ヤタガラス、そしてキリストなども便乗して地震を起こしていました。みんな総か脱退すべき! >>470
>「アーナンダよ、深遠であるこの縁起は、深遠に見えるのだ。
>アーナンダよ、この法を悟らず理解しない、このような人々は、糸のもつれから生まれ、
>腫れ物に覆われた中から生まれ、ムンジャ草やバッバジャ草の中で生存し、
>苦界や悪趣や地獄や輪廻を超えでることがないのである」
良く読まなきゃ、先入観を外してね。
君が誰々から転生して今があって、次は何の誰々と言われるものにうまれる
とは言ってないでしょ。
糸のもつれとか腫れ物に覆われた中、ってのは無明の事を言ってるんだよ。
ムンジャ草やらバッバジャ草やらは、菩提を目指さないその他大勢の一般ピープルの事。
つまり、仏道に気付いてないこの世界のその他大勢の中に生まれて育って
「苦界や悪趣や地獄や輪廻を超えでることがない」って言われてるんだよ。
それはどう言う人の事かってのが、「この(縁起の)法を悟らず理解しない、このような人々」
がそうだと教えてるんだよ。
外道の言う輪廻転生の誤謬を捨てなよいい加減さ。
誰が誰に生まれ変わるんじゃないよ、無我なんだから誰もへったくれも無いでしょ。 >>473
ガチガチの予断をもって
経典をつまみ食いしてるとこういう半端な理解になるのか 俺を批判しても悟った事にはならないよ。
仏法は理解するものじゃないし、理解の限度を超えてるのが仏法なんだからね。
毎日毎瞬、どこ見てるのかが問われるのが仏法。
他人を批判する前に、テメーの目先がどこ向いてるのかに集中すべきなのではないかと。
禅定が乱れてんじゃね? >仏法は理解するものじゃないし、理解の限度を超えてるのが仏法なんだからね。
2chで説法する前に、テメーの目先がどこ向いてるのかに集中すべきなのではないかと。
とか言って見る 説法は世間の衆生の為にされるものだろ。
2chは世間じゃねーのかよw
ホントに視野狭窄なバカが多いな。 ご自身で完全に体得したことを衆生の為に説法してくださっている方でしたら、ありがとうございます
まだ体得してないことを説法している方でしたら、衆生のことよりご自身の修行をして下さいませ https://career.nikkei.co.jp/agent/
悟りには上には上があるらしい^ ^ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) (1)信という財、
(2)戒という財、
(3)恥〔を知る思い〕(慚)、
(4)〔良心の〕咎め(愧)という財、
(5)所聞(学識)という財と、
(6)施与と、
(7)まさに、知慧(般若・慧)という第七の財。
彼に、これらの財が存するなら、〔彼が〕女であれ、あるいは、男であれ、
彼のことを、〔賢者たちは〕「貧ならざる者」と言う。
彼の生は、無駄ではない。
それゆえに、思慮ある者は、覚者たちの教えを思念しつつ、
信と、戒と、〔心の〕清らかさ、法(真理)の見[まなざし]に、専念するように。
(増支部) 上の⑴〜⑺の内、
⑴信⑵戒⑸所聞⑹施与⑺知慧については
天隨念(devatānussati)の内容と一致している。 あのなあおい
ぶっきょーっていうのはなあ
自分の意志で環境に合わせて行動し発言するっちゅーことなんやで
そんだけの話しなのにごにょごにょ言うから分からんようになるんや わしは仏教のことはブッダに聞くから、お前はお前のマイ仏教を勝手にやれ。 >仏法は理解するものじゃないし
これ上座部的には完璧に悪解だろ。
理解こそが仏教の本質で理解してないのに行してても意味ないから
どちらが欠けてもダメ 理解→瞑想→智慧→悟り→解脱
知識や思考による理解は大事だけど、それは基礎。
理解が全部じゃないでしょう。
瞑想して初めて智慧のレベルで分かるようになってくる。 ヴィパッサナーの十六観智の一番最初が名色識別智だけど、その智慧はありますか。
脳みそが心だと思ってませんか。脳みそは身体ですよ。
悟りの一番最初の段階、預流果。
預流果で有身見が消えますが、この身体が自分というものの本体だと感じていませんか。
スッタニパータの蛇の章に、蛇の脱皮の話がありますが、意味不明なんじゃありませんか。
それらの智慧は、頭で考えてわかるわけじゃーないですよ。 そういう徳のある方は、それでいいんじゃないの。
わしは無理。 ブッダが説かれる法を生で直接聞けるような境涯なら、他に何もいらんな。 >>485
戒禁取見って邪見もあってね
理解より正知具念が仏法の大事でしょ
念は執着以前の事だから、理解への固執の汚染にも染まらない >>490
ブッダは常に君の眼前で説法してるじゃないか
法をみるものはブッダをみる、ブッダをみるものは法をみる 涅槃の説明聞くと、アドヴァイタ系のいう真我とほとんど同じに見える。 >>494
始まりがなく、終わりがない、生じず、滅しないのだそうだよ。
仏教徒なら脊髄反射するな、恥ずかしいから。 中村元訳のダンマパダとスッタニパータ買ってきた
楽しみ >>495
>始まりがなく、終わりがない、生じず、滅しない
じゃあ、変化しないってことは真我ってのは何も認識しないんだな
眼などの感覚器官は外部情報によって変化することでものごとを認識しているからな
常住なる真我ってのは石ころみたいに何も認識できないだろ >>497
涅槃は不生不滅。
始まりがなく、終わりがなく、生じず、滅しないのだそうだよ。
あなたまだ仏教を知識で学んで頭で考えてる段階でしょう。
瞑想で達する智慧は分からないんだから、知ったようなことはいわない方がいい。
自分にはまだ(仏教について)知らないことがある、自分はまだ悟っていないのだから
本当の意味での真髄はまだ知らない。
そういう自覚が大事。
無智の智は大事。 2chに覚者はいないでしょ
少なくとも他人から請われるのでもないかぎりこんな所で説法はしない
悟りかぶって他人に説教する人は十中八九、野狐禅の徒 解脱するまでのあいだに瞑想修行を通して開発する智慧の段階がいくつもあるでしょう。
仏陀の禅定の境地、九次第定のうち想受滅を除く八つの禅定は、古代インド宗教のものと同じ。
これは仏典にもそう書かれている。
マハシ系の人でも、マハシ・サヤドーのテキストを見れば十六の観智がちゃんと解説されてる。
藤本晃氏の論文なんかも読んでみると良いと思う。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/53/2/53_2_891/_article/-char/ja/
仏教徒の私からすると、(ヨーガ本来の意味における)真我とは、おそらくは無色界のことで、
仏教の涅槃ではないだろうと推測しているものの、ヨーガの人たちが真我と(仏教の)涅槃を
同一視したがるのも、ある程度理解できる。
わたしも10年くらい前まで頭ごなしに否定していた方だが 仏陀はこうおっしゃっている。
初転法輪においては「不死の門は開かれた」。
「滅において解脱している者たち、彼の者たちは死を捨てた者たちである」
頭だけで滅と無我を理解したつもりの人がよく陥りがちなミスなのだが、
仏教は常見でないと同時に、また断見でもないのです。 教学だけやってて瞑想してない人が多いでしょう。
瞑想してください。 あと、真我(アートマン)と個我(アッタ)は別ね。
ヨギがアートマンの話をしている時、不勉強な(かつ瞑想修行がある程度以上進んでいない)
仏教徒は、不死の個我(アッタ)のことと混同している場合が多い。 ラマナ・マハルシあたりが言ってる真我は仏教徒が言うところのアートマンだのブラフマンだのではなく何だとも定義できない不滅のものみたいだけどね
仏教徒からしてみれば真我だのアートマンだの○○と名前で語った時点でそれは涅槃ではない、悟りではないって言いたくなるのはわかるけど
無我非我の論争も含めてあまり言葉の領域でこだわりを持たないほうがいいとは思う 不滅なるもの(それが涅槃と同義だとして)をアートマン(我)という「私」というニュアンスの濃いラベルで呼んでる以上
常見と言われたり、仏教とは違うと言われるのは当たり前じゃないの?
こっちこそ言いたいのは非我とか有身見、我慢とか
私、自己、自我についてここまでネガティブな言葉の多い仏教の中でどうしてそこまで我とか真我にこだわるの?
ストレートに真我を認めてくれるヴェーダーンタの人たちと一緒にいればいいじゃないか その通りですね。
仏教教理は途方も無い間違いをしていますね。
ブッダが真我の意味で言っているところもすべて個我として解釈してしまっている。
文字だけで解釈するから、こうした愚を犯すのでしょう。 「アートマン=我」って間違いなんだけどなあ・・・
自我(アハンカーラ)と真我(アートマン)の区別は最低限してほしい。 >>506
求めてないよ。
他宗教(特にヨーガ)にたいする仏教徒のスタンスのことを言ってるだけ。
批判するなら、少なくと批判する対象をも知っていないといけない。 地球が丸いのか平面なのか、観測によって確かめるでしょう。
理論と(実験)観測。
それが科学的態度。
同様に、輪廻なるものがどういうものかも観測を通して自分で確かめるんだよ。
(観)瞑想とは精神現象を対象とした観測だから。
頭で考えるのではなくて、観て確かめる。
天文学などの物理科学同様、精神現象の実相というのは、人間が頭で考えてわかることではない。
観測によって観ることを通して初めて知られる。 解釈云々は頭で考えてるでしょう。
言葉で知識として学ぶ段階では、先入観なしにブッダが言ったことを言ったとおりに受け止めておいて
自分の頭で考えたあれこれの解釈は仮の理解だと思っておいた方がよい。 精神現象を対象とした観測が、客観的であるための必要条件が止観の止、サマタ瞑想だから。
観瞑想が、主観的な思い込みや妄想、夢や幻覚でないことが保障されるのは、サマタ瞑想が成功してから。
なぜなら、妄想が止まって、なおかつ明瞭な認識作用だけがあるという状態では、妄想はできないし夢は見ないから。 輪廻とか解脱とか悟りというのは、精神現象であって物理現象ではない。
従って物理的な証拠というのは元々ない。
輪廻というものが精神現象として本当にあったとしても、それを他人に
証明してあげることはできない。
少なくとも、物質的な証拠として提示することはできない。
近代科学の証明とは、物理的な実在を観測によって確かめた時にはじめて
証明されたとする(物質)還元主義であるから、この枠組みにおいては
いかなる宗教的真理も証明することはできない。
もともとできない。
もともとそういう性質のものであるから、各々が瞑想を通して確かめる以外には
本当のことを知るすべはない。
本を読んでみて、仮にそこに本当のことが書いてあっても、どうせ信じやしないでしょう。 パオ問答集とか見ると、親殺しでものすごい輪廻の苦しみを繰り返すとか書いてあって、
それ自然現象なの?とは思う。 輪廻の繰り返しがとてつもない苦だということは、
他ならぬお釈迦さまご自身が初転法輪で四諦を説かれたその時から
ずーっと言ってる。
聞いてる方が聞いてないだけ。
というか、輪廻なんてあるかないか分からないから、人間理性という枠組み
で考えている限りは、ないものとしてしか認識できないし、それは仕方ない。
だからこそ八正道が必要なわけだから。 人間って、特に現代の先進国の教育を受けた、理性的で常識的な人たちは
理性的に考えて顛倒夢想にハマってる。
そこに罠がある。 人間(肉体自己)を出発点として世界を認識しようと考えてるでしょ。
人間を始め欲界の生き物は、身体の構造からしてそういう風にしか認識も思考もできない。
でも、世界がはじめにあって、肉体自己はその端っこに生じては消えていく末端の泡沫なのよね。
本当は主客が逆なのね。
精神現象と肉体の主従関係や、包摂関係(肉体が精神のすべてを包含しているか、その逆か、
あるいは同じ大きさか)や、いろんなものの認識が逆さま。
それが「常識的な理性」の状態。 >>498
>涅槃は不生不滅。
>始まりがなく、終わりがなく、生じず、滅しないのだそうだよ。
頭で理解してるんじゃないなら、そんな聞いた風な事言ってないで
どうして涅槃は始まりが無く終わりが無く生じず滅しないのか解説頼むよw
で、それはどこの事なのかも具体的に頼むよ
これ分かってないと五蘊皆空なんて理解を超えてるだろうし
諸行無常も諸法無我も解説できない筈だよ >>516
君の仏教理解はおかしいよね
輪廻があるかないか分からない?
じゃあ何で十二支縁起は説かれたのかな?
どうせ言うなら
四諦八正道十二因縁は一まとめで言うべきだと思うよw >>518
仏教はそんな事を問題にしてないよ
視点がぜんぜん間違ってるね、君は
何故仏教以外の異教を外道と言うのか調べてみてさ
では仏教は何道なのかを探ってみたら良い 私以外の人間は誰も分かっていない
わかろうとしているだけだ >>521
三昧に入れる人は輪廻を自分で観て確かめるので、あるかないか知ってる。
入れない人にとっては、あるのかないのか分からない。 同じ仏教徒でも、ある人は輪廻(転生)などないと思っている人たちがいる。
その人と同じ宗派や流派に属する人でも、瞑想修行が進んでいる人たちは
輪廻はあるという。
あるいは沈黙を保つ(話すと色々面倒な問題がおこる)。
輪廻はないと言い張っていた前者も、瞑想修行が進むと、やっぱりあったと
言い出す。 >>522
いまの日本仏教の人たちって、ほとんど誰も三昧に入れないでしょ。
入れるのは、海外で出家した一部の帰国組ぐらいで。
三昧に入った時、実感として欲界レベルの自我は止まるから、実感として
自分を始点とした認識や思考から離れることができるんだよ。
自我を離れた視点とは何だろうかな、って頭で考えて言ってるわけではない。
それを自分の言葉で表現した。
だからこそオリジナルの表現になる。
普通は話さない。 輪廻があるとわかるって自分や他人の過去生がわかるいわゆる三明みたいなことですか?
そういうのはかなり上の三昧に入れないとわからなそうだけど
三昧にもいろいろあると思いますけどどのあたりの三昧に入れると輪廻があるってわかるんですか?
○○の三昧に入ると輪廻がわかるみたいな具体的な三昧の説明ってあるんですか? 三味に入れる入れない?霊能者かどうかってこと?
ってか霊能力者の人達の説法が聞きたいよね 頭でっかちな(知的な発言?)言い合いは興味がないし読まないようにしてる
無駄な思考やお喋りはエネルギーを漏らすだけだと最近感じた。
無口でコミュニケーションを取らない人に天才が多いのもそれなんだなって。 >>527
しかし釈迦が十二因縁を確認したのは五比丘のところへ向かう道すがらの歩いてる最中www
三昧?
三昧も大事だけど、呆けてばかりじゃ駄目なんだよw
>>530
それはそうと三昧を語る君がそもそも三昧を知らないと言うオチw
欲界とかそんな聞いた風な話はどうでも良いのさ
先ず自分に何が起きてるのか、それ知るほうが解明の道だろ
君は君の正体を証明出来るのかな?
出来るなら俺を証明してみてくれ >>534
ありがとうございます
ただサンガ出版の沙門果経を以前読みましたがあまり具体的な記述には感じなかったんですよね 八正道の正定がサンマー・サマーディ。
つまり正しい三昧。 正精進、正念、正定の順で瞑想が深まる。
正念(サンマー・サティ)の極致が正定(サンマー・サマーディ)。 最近、凡夫目線で物事を見るのと、仏目線で物事を見るという
その違いだけでいい気がしてきた >>539
正しく集中して気付くのが正しい見解
念と定と見解は日常使ってるだろ
では、何をもって正しいとするかが問われる 一境性は共一切心心所だから定はあるでしょ
正定はないかもしれないけど >>533
やっぱり念のエネルギーってあるんだ・・怖ぇってのが第一観だわ・・ >>547
そこで更にお金は煩悩の象徴であり虚妄であり
また通過価値も無常であるので
お金には実体はない
まで悟りを深めればもう一段高い世界にいられるね 従って、金持ち騙してポアするぞ
金持ち騙してポアするぞ
金持ち騙してポアするぞ
金持ち騙してポアするぞ
悪趣をポアするぞ
身ぐるみ剥がしてポアするぞ
身ぐるみ剥がしてポアするぞ
身ぐるみ剥がしてポアするぞ
身ぐるみはぎ取ることに対して、躊躇するということは、その魂の本当の幸せを願ってないということだ。
つまり、その魂が泣こうがわめこうが、最高の転生をさせるためには、すべてを奪い尽くすしかないんだ。
したがって、
すべてのワークは救済である
すべてのワークは救済である
すべてのワークは救済である
さあ、アクショープヤの実践を行なうぞ アクショープヤの実践を行なうぞ
アクショープヤの実践を行なうぞ
この世の中を法則の世界にするために、悪趣をポワするんだ
徹底的に悪趣をポワするぞ
徹底的に悪趣をポワするぞ
悪趣をポワするぞ
徹底的に悪趣をポワするぞ
すべては結果である すべては結果である
強い、最高の心を持って、
そして救済を成し遂げるぞ 救済を成し遂げるぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ
これこそがアモーガシッデイの修行である
これこそがアモーガシッディの修行である
これこそがアモーガシッディの修行である
すべてのワークは救済である
金持ち騙してポアするぞ
悪趣をポアするぞ
悪趣を地獄に叩き落とすぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ 素敵なメンズがみんなでお祭りを開催♪
URL貼れないから
メーンズガーデン ってググってみて
※正しいサイト名は英語 8年2月には「取調官の言葉の意味そのものを全く理解しない(中略)、音としてすら認識しなかったとしたら(中略)、一切の苦しみから解放されることになる。これが解脱です」(麻原彰晃)とのメッセージを発し、逮捕された幹部を黙秘に転じさせた。(産経新聞)
滅苦の真髄です。 麻原は痴呆。
悟りは気付きの延長線上。
解脱はさらにその先。 >>542
集中しなきゃ何事も上手く運ばないだろ
禅定ってのは平たく言えば集中してるその様の事を言ってるんだよ
坐禅や瞑想はそれを解り易く単純にしてあるだけ
ほかの事を拒絶していないんだからな
禅定解脱三昧は極めて日常に行なってる所作の事なんだよ
それなのに通常、人はブッダがわからない
釈迦は確かに代表格だろうけど、それだけがブッダだと思い込んでる
目の前にあるのに全然気付かない
中論に曰く
諸法の実相は、心行言語断じて、無生亦た無滅、寂滅なること涅槃の如し
また経集に曰く
「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。
──このように理解した者の形態は消滅する。 」 何だかな、IMEの調子が悪いな
>ほかの事を拒絶していないんだからな
正しくは「ほかの事を拒絶して「しない(行なわない)」んだからな」 もう一つ
「目の前」と言われて眼の外の景色を探してはならない
それで見つけようとするのが外道
「目の前」って本当はどこの事を仏教では言うのか、良く観察してほしい 行住坐臥における身受心法
身受心法において苦集滅道を観ずる
おなじだよ。
小乗も大乗もない
仏教は仏教 そういうことですな。
それを、どっかのスマなんとかという人が、
テーラワーダ原理主義を言い出したものだから、ややこしくなった。 >>556
それやったら所知障がなくなって一切智が得られるの? 分別がない涅槃において、如来と阿羅漢の違いがあるのかどうか。
すごい個人とすごくない個人の違いというのは、三界世間から物事を見た場合の見え方でしょう。
とりわけ、欲六界の個我からみた場合の視点でしょう。
なんで釈尊が弟子たちを涅槃に導いたのか。 >>557
問題の時間軸をさらに前までさかのぼれば、
大乗仏教側が、釈尊の仏教を小乗と蔑んだりしていた歴史もあるし。
どっちもどっちかなと思う。 >>560
>釈尊の仏教を小乗と蔑んだりしていた
ダウト
釈尊の一代聖教に三世実有法体恒有なる邪義を練りこんで流通させようとしたのは誰か?
現行テーラワーダは上記の邪義は構えてないのは理解されてるが、大乗を異端視している為に
十把一絡げで小乗と看做されているのが実情と居えよう
赤い衣の連中は、例えば中論が正しい事を知っている・理解出来ている
それでも異端視しているのは、般若波羅蜜の意味が分かってないからと言わざるを得まい このスレで、真面目に仏教を学びたい人は要注意
このスレにはオウムの残党がテーラワーダのフリして知ったかを語っている節がある
本当に学びたい人には大乗も小乗も関係ない話なのに、やたらと対立的発言を持ち出す者
こういう連中が一番なにも分かってないのだからオウムの残党かその類と言えよう
彼らは何故仏教が分裂したのかを知らんのだから仕方がない 逆。
オウムを批判しているテーラワーダがいるだけ。
テーラワーダは宗教殺人を認めないが、オウムは宗教上の教義として
殺人を通した宗教的救済というものを最高の奥義として信奉している。
また、オウムの教義は小乗、大乗、密教をそれぞれ基礎、中級、上級と
位置づけており、”小乗仏教”を肯定的にみている。
加えて、オウムはテーラワーダの教学に疎い。
従って、こうした構造からみても、テーラワーダ信者がオウム信者を批判
することはあり得ても、その逆はない。 自己紹介?
馬鹿なこと言っちゃ駄目だよw
大体、小乗と言われた人々は既に消滅して残ってない事実を知らない人が
今更小乗小乗と騒いでるんだろう
>大乗仏教側が、釈尊の仏教を小乗と蔑んだりしていた歴史
なんて言う人が居る自体、勉強不足も甚だしいと言わざるを得ない
例えば龍樹は、それまでに伝承されて来た経典から大悟への道を至ってる訳で
決して伝わって来た如説を小乗と言っていた訳ではない、と言う事実は知らねばなるまい >>564
随分詳しいじゃないか
尻尾が出てるよ?w 龍樹菩薩と仏陀釈迦牟尼。
菩薩と如来。
どちらが上かといったら仏陀だと思いますよ。
菩薩道を否定するつもりはないにしても、
いまの日本で大乗仏教を自認する人々のおかしいところは、色々と目につきます。
だからそこ求心力を失って、スマナサーラさんに
そういう批判を受けたことに腹が立つからといって、相手をオウム呼ばわりすれば
すべてが解決するわけではないと思いますよ。 >>567
じゃあ仏陀って具体的に何?
平等が仏教の本旨なのに上だの下だのと何故言うのかな?
そして、対象はオウムなんじゃなく「オウムの残党」とちゃんと言ってるがな
仏道修行者の積もりなら、自身が説く言葉の機微にもう少しサティを利かせたらどうかと問う
スマさんだって見方を変えればカルトに近い
何故かと言えば、自灯明法灯明に反して人に依るからと言えよう
それと、マハシ系とパオ系とで意見が割れてる現状も解決できないのだから
大乗の求心力が云々とか減った暮れも無いと言えよう >>565
唯識派の仏典にテーラワーダのことが書いてあるから
大乗はテーラワーダのことも小乗と呼んでた歴史があるのよ
「テーラワーダは小乗じゃない」を言い出したの協会の佐藤さんだと思うが、かれ知らなかっただけじゃないかな >>569
唯識派の何に分別説部の事が書かれてるのかな?
現在のテーラワーダの源流は、根本分裂した時の上座部から見て異端だった側の分別説部だろ
だから現在の上座部は小乗じゃないと言う人も居るんだろ
知らないのは寧ろ君の方なんじゃないのかな 所謂小乗仏教として批判され駆逐されたのは上座部ではないんだよ
本来の意味でも上座部以前の根本分裂の原因は、戒律の解釈を巡って起こったものと言われ
これを起点に小乗と言われた訳では決してない
小乗とは「小さいのりもの」と言う意味を言ってるのであり、個人の悟りを重視して
専ら教学の研究に専心して衆生済度は等閑になってしまったとある部派を指して言われた
その部派こそ説一切有部なのであり、この有部と現在の上座部とは
阿毘達磨論が異なる時点で別の部派と看做せ、本来小乗仏教と呼ばれた
説一切有部の影響を持たない現行テーラワーダとは別問題と知らねば
愚の骨頂と言わざるを得ないだろう 纏めようか
本来最初に言われた根本分裂時の上座部とそれ以外とでは
戒律を適宜変更するのは仏意に背くとした上座部と、適宜時代や習慣や地域性も考慮すべきとしたその他
とで分裂の原因になった、これが根本分裂と言われている
この時はまだ、小乗だの大乗だのと、悟りや救済に付いての考え方までは言われていなかった
大乗小乗の区別が言われ始めるのは、ほぼ龍樹が有部の論陣を論破した頃と符合する
経典の多くが有部の書写し所伝したものが有ったため、これに起因して大乗経典が新たに創作されるまでになる
個人的に思うのは、所伝の三蔵は間違った記述など無いとされ得る仏説なので
それはそれでちゃんと踏まえて、経典として今に伝わる大乗経典は、二段下げの
論蔵とみなして読むと、色々帳尻が合う
龍樹でさえ、あの難解な中論の下敷きにスッタニパータを据えて論じている訳で
これからの時代に大乗だの小乗だのと言う下らない区別はナンセンスだと俺は考える >>573
上座部経なる記述でそう思ったのかな?
そんな経典は実在してないだろ
その論文にも「発趣論」のことだろうと触れている
それはひょっとしたら分裂間もない頃の、消え行く定めだった側の経論などの事だろう
まだ納得できないのかい?
小乗と言われて論破されたのは説一切有部の事なんだよ >>574
>上座部経なる記述でそう思ったのかな?
論文ちゃんと読まずに脊髄反射でレスしちゃったか
>小乗と言われて論破されたのは説一切有部の事なんだよ
せやな( ・`ω・´) >>575
瑜伽行唯識学派が中観派の後になるから何とも言えんな
赤銅鍱部も知られてなかった訳じゃないだろう >>573にあげられている論文だとこのあたりか
>『成唯識論』によれば「上座部經」に説かれているとされるが、
>現存のパーリのニカーヤには見つからない。
う〜ん、現在に続く上座部仏教と一緒にしてしまうのはどうかな・・・ >>577
ちゃうちゃう『顕識論』のあたりが決定的なんよ
「他毘梨(sthavira)部(vada)名有分識」ってとこ 有分心について具体的にのべていて、異熟心で無記であるとして
かなり分別説部(無畏山寺派)に近接してる
現在の大寺派はそれらの教学の発展形なのは間違いない >>578
了解です。ここらへんですね。
T1618_.31.0881a03: 不失名隨。隨最後顯故名得也。若是他毘梨
T1618_.31.0881a04: 部。名有分識有者三有。即三界也。亦有七有。 大乗も小乗もないなんてのはスマ一派にまず言ってやれば。 っていうか、
日本仏教、腐敗してるんじゃね
っていうのが批判の骨子だろ。
大乗とかじゃなくて。 日本の仏教は、明治の廃仏毀釈と神仏分離令、それと戦後の農地改革によって大打撃を受けたね。
これが日本の仏教を衰退させた最大の原因。
大乗の教えがどうのこうのというのは関係ないよ。
タイもミャンマーも、日本のように仏教や寺院を保護しなくなれば、衰退するよ。
そんなもんさ。 従って、金持ち騙してポアするぞ
金持ち騙してポアするぞ
金持ち騙してポアするぞ
金持ち騙してポアするぞ
悪趣をポアするぞ
身ぐるみ剥がしてポアするぞ
身ぐるみ剥がしてポアするぞ
身ぐるみ剥がしてポアするぞ
身ぐるみはぎ取ることに対して、躊躇するということは、その魂の本当の幸せを願ってないということだ。
つまり、その魂が泣こうがわめこうが、最高の転生をさせるためには、すべてを奪い尽くすしかないんだ。
したがって、
すべてのワークは救済である
すべてのワークは救済である
すべてのワークは救済である
さあ、アクショープヤの実践を行なうぞ アクショープヤの実践を行なうぞ
アクショープヤの実践を行なうぞ
この世の中を法則の世界にするために、悪趣をポワするんだ
徹底的に悪趣をポワするぞ
徹底的に悪趣をポワするぞ
悪趣をポワするぞ
徹底的に悪趣をポワするぞ
すべては結果である すべては結果である
強い、最高の心を持って、
そして救済を成し遂げるぞ 救済を成し遂げるぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ
これこそがアモーガシッデイの修行である
これこそがアモーガシッディの修行である
これこそがアモーガシッディの修行である
すべてのワークは救済である
金持ち騙してポアするぞ
悪趣をポアするぞ
悪趣を地獄に叩き落とすぞ
救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ 生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 『宗教とは、信者に掟を守ることを約束させるのです。真理などありません。』
『仏教とはそうではなく、真理を探究したものです。だから、仏教が真理です。』
中杉弘のブログより。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/ 釈迦はもうとっくにブッダじゃない!長いことやったりだましてきた悪行がバレ
抹消対象となっている。おまいりしてると一緒に処罰され最悪抹消されるだろう。 在家の発言は宗教を混乱させるだけ。後世の在家に迷惑かけるよ。 まったくだ、もってきていいのは阿含教など一部の方法論だけですね。 先日所の番組で高野山をとりあげていたが、みんなわかってないが、大日如来は
おまいりしてもいいが、不動は今はおまいりしてはいけない。より不幸になるか、
救われたと思っていても、実は本当はそうなるうんめいじゃもともとなかったやつを、
あらかじめ悪くなるよう仕向け、後から取り払ってるだけ。不動は何万年と人類をだましばれて
今や、上の神仏界では毒殺される運命にある。おまいりなどしてると一緒に処罰される。 >>591
発言は、お経のコピペ以外にやることがなくなるな。
まぁ、その方がましかも知れないが。 いくら在家が混乱したとしても真実は変わらないのです。 安部が釈迦の生まれ変わりなら一切支持してはいけません。
安部はフリーメーソンの言いなりで動いています。
釈迦はもうおまいりはしてはいけません!醜いひがみ嫉妬でかたまっています。ナウマンゾウのうんこみたく
自分も周りもダメにしていってしまいます。
釈迦は修行中に1つの大きな勘違い失敗をしたそうです。
こいつは姦淫を当時他の宗派が硬く禁じてるのを自分にも取り入れようとした時、捉え間違いをしています。
他の宗派が性行為を禁じてたのは、原始時代の人間達では用扱えない、まずい方へ行く方が圧倒的多い落ちだった
ということでした。ところが彼はそれそのものが汚らわしいと言われてる表面だけを捉えその因縁を全て切って
しまったのです。他の西洋などの宗派は表面上は汚らわしいと言ってても禁止していた本来の理由が違うので
現代では裏で?分別して開放するほうに向かってるとの情報がありました。
これを知った釈迦は、それならこっちもと、共感するスタジオMAXの内O順久に憑依などしてアダルト作品を作り
ド失敗しました。
で、おもしろくない釈迦は内Oを使って他の成功してる者たちをつぶしにかかったりもしました。おかげで死人
や廃人もでています。釈迦はきれいでもなんでもありません。穢れてる上にインポです。その上ホモと言う説もあります。
それではあきたらず、ストレス解消半分に宮崎勤や酒鬼薔薇聖斗に憑依か支持し連続猟奇殺人を起こしています。
そして再び内Oにもどり、「ほらみろっ!!あんまりそそるようなもの作ると影響されてあのような事件起こす者が
出るんだぞ!」と表面からは自分の失敗を正当化して他はけなす惑わしをしました。
酒鬼薔薇聖斗も最近本を出したり、ホームページなどを開設して自分の悪事を正当化し他はけなす惑わしを
やっています。ただの惑わしではありません、釈迦、釈迦系の術まで入っているかもしれません。
気持ち悪いといいながらも裏でついつられて画像などをコレクションした人も多いのでは?気をつけてください! 法蓮のいOかは他より高い金とって依頼した結果はほとんどださない。しかもだいぶ前から病気で結果を出してもいないのに出したと言う妄想にやられ
勝手に言ってるだけ。こんな所へ行ってはいけない。お金を病気の患者に恵んでるというよりはドブにすてるようなもん。弁償取る以外行くべきではない。 【奇跡の脳】脳科学者ジル・ボルト・テイラーの悟り体験 http://goo.gl/VifUuy マハーカルナー禅師の法話会行ってみたいけど地方住みにはキツいね >>596
亀レスですが、在家は勝鬘経にある「十の大きな誓い」と「三大願」を実践すると良いと思います。
この実践により如来蔵(仏性)が目覚めて仏となるとされています。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E9%AC%98%E7%B5%8C
ただ、十の大きな誓いでも9番目の誓いの実践は現代では難しいですし、何より差別に繋がるので控えるべきですが。 > 8.世尊よ、今後、私は身寄りのないもの、牢につながれたもの、捕縛されたもの、
>病気で苦しむもの、思い悩むもの、貧しきもの、困窮者、大厄にあった衆生たちを見たならば、
>彼らを助けずには、一歩たりとも見捨てて行ってしまったりいたしません。
>世尊よ、私がそのような苦しみに悩む衆生たちを見たならば、それらの苦しみから逃れさせるために、
>財産の蓄えをもって(彼らの救助を)成就してのちはじめて、私は身を引くでしょう。
>世尊よ、この第八の誓いを、私は菩提の座に到達するまで厳守します。
これ面白いね キリスト教みたいだけど
アビダンマに無理やり関連付けると施所成の「作務」(veyyaavacca)の善業事になるかな 世の中にはたちの悪い人が多いし助けないほうがいい人のが多い気がする
一番大切なことは関わらないことだと思ってる たちの悪い人を助けたところでいいことが起こる・・?
恩を仇で返されて逆に自分が傷ついてばかりですので・・ 心の時代 NHK ティクナットハンの再放送してたわ。
日曜朝五時にもっかいやるみたい ティクナットハンって法話読んでもよく分からなかった ヴィパッサナー瞑想って言葉の響きが日本語にそぐわない
表記だけでもビッパッサナー瞑想にすべきだった
そうすればカルト臭がやや薄まる 仏教がカルトなんじゃなくて、人間の常識がまだまだ迷信だらけなだけ。 ざっと通して見てみたが
春から初夏にかけて
参禅しただけで悟った気になってしまった
増上慢の「なんちゃって覚者さん」が随分暴れてたんだねえw 歴史に拘る小物ばっかw
入る価値ないわww
バカの年よりばっか
プチホトケ洗脳されたジジィの集まりw >>615 なんだって歴史の産物ですよ。歴史をなめてはいけません。 >>616
近代科学の観察対象は主に物質、または物理現象でしょう。
仏教の観察対象は主に精神、または精神現象ですから、取り扱う対象が違います。
現代科学の価値観は、この世で豊かに幸せに暮らしていくことを目的として、科学を
その目的のために応用していきます。
仏教はこの世の生老病死から逃れることを目的として、精神の観察、および観察に
よる洞察にもとづく反応を選択していきます。
一般常識的な科学と仏教とでは、取り扱う対象も違えば、目的も違うのです。 経典に書かれた内容の是非を問う方法にも誤解があります。
文献学的に研究することによって答えにたどり着けると思っているようですが、それが間違いです。
本当の答えは瞑想によって確かめるものです。
たとえ話でひとつ例を挙げましょう。
天文学の文献があったとして、たとえば金星に衛生がひとつあると書かれていたとしましょう。
これが正しいかどうか確認するのに、文献を調べるのが良いでしょうか。
望遠鏡で金星自体を観察して確かめるのが良いでしょうか。
仏典の記述が正しいかどうか、瞑想実践者は観察によって確かめる人たちです。
文献学も悪いとは言いませんが、観察・観測がないと科学的とはいえません。
科学的であることの定義が、論理と観測(実験)だからです。 >>618は>>616のリンク先に書いてある内容の反論にはなってないな
リンク先のタイトルだけ目にして勝手に内容を想像して自説(スマナサーラの受け売り?)を書いただけと思われる 頭で考えた仏教は、人間の思考の産物だから間違えるよ。 ...黒や赤、そして深緑といった色がヴィパッサナー修行の助けにならないと
聞きました。...
#ヴィパッサナー #色
#黒 #赤 #深緑 とあるテラワダ系hatenaブログ、無許可でに講演文字起こしてるけど
小分けにして毎日更新って、あれたぶんアフィリエイトだよね
https://www.bengo4.com/houmu/17/n_556/ >>627
無許可ってのはなんでわかった?
たしかに承諾を得てる旨の文は、どっこにも見当たらないけど。 許可を得てる旨記すのは常識でしょ
その手順を踏んでないってことはお察し 悟りは大疑問に対する答えである。
それは体験の問題ではない。
それは修行の問題ではない。
早く宿題をやれよ。 たとえば、こんな可愛い美少女が鼻フックで調教されたら、完
全に“M”になってしまうでしょうね。
でも、一つ注意が必要でしょう。鼻フックは、可愛い美少女の
お顔に装着して初めて意味があるものでしょうね。不細工な女
の子を鼻フックで、ブタ鼻さんにしても興覚めなだけですもの
ね。…でもレイちゃんは美少女ですから、本人も鼻フックで
“M”に調教されてしまったのだと、わたしは思います。 >>629
引用でもないし。無承諾、勝手にということになると著作権侵害グレー。
細かいこと言うと盗みになるよね。
おおやけに「戒」を... しばらくご自分の修行に専念したい、みたいな話は伝え聞いたが。 阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課
二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪 「アマゾン多過ぎ」ヤマトドライバーから悲鳴続出、「利便性」が生んだ過酷な実態
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161228-00005530-bengocom-soci
daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1482930661/
どっかの日記で、布施アマギフ推してたな 初詣は不動関係の神社、仏閣は絶対行ってはいけません!こいつは嫉妬とひがみ
でできているので、みんなつぶしあい、引きづり落としあいになりダメにされます。
からかわれてバカにされるめにひどくあいます。
わかりやすく言うとオーム真理教と同じです。いくなら月読関係の神社などにしましょう。 >>630
答えがあるかぎり疑問があるだろう。
どっちも無いのだ。
どっちも無いなら
それら無数のあれになるには「どうしたらいいのですか?」という過去でつくられた人もいない。
だが、君らは伝統を勉強して悟るには「どうしたらいいのですか?」と言い続けるし、
悟るにはこうしたらいいですよとグルや教祖が答えをもってくるよ。
何千年もそれら過去の繰り返しだ。 君ら疑問って何個あるんだ?
無数に人間いても
「あれになるには、どうしたらいいのですか?」これ一個だけなのでは? マハーカルナー禅師の原始仏教トークに行ってきました
濃い内容すぎて驚きました
地方でもメールで瞑想の直接指導してくれるみたいだから、教学も大事だけど行ってみた方がいいよ
他には水源禅師と山下良道さんがパオ・メソッドを終了している本物の仏様だから あ、そうか何回かウポーサタ瞑想会とか行かないと行けないのか…厳しいなぁ ヴィパサナーは岡田式静座法と組み合わせて認識するが判断せずとやってた時は効果あったが純粋にやるとうつ病が悪化した。注意を神経症的にするのが離れなくなる。副作用なしは全くの嘘っぱちだったよ それと自分のようなうつ病患者に差別的な事を言ってるとなんかの書き込みにあったが!事実だとすれば仏教でもなんでもないただの戦争好きなシンハラナショナリズムの派生物だ! 前からの疑問で愚問なのかもしれませんが
不殺生戒と不偸盗戒の間に
「他人を傷つけ苦しめる事をしない」という戒が
単独で存在すると思うのですが
何故無いのでしょうか? ひたすら枯坐黙照してそれに満足していたのでは、一生を無駄についやすというものであり、
仏道に大いに違反するばかりか、世俗の仕事もろくにできぬであろう。
役人が仕事をほったらかし、武士が武術の稽古も忘れ、
農、工、商がそれぞれ仕事をほったらかして枯坐黙照しているならば、国はかならず滅びるであろうし、
そんな禅はそれこそ不祥の大兆であると言われるだろう。 在家より出家の方がよいとか、街中より山中静寂の方が工夫が進むというものではない。
もし一人で万人と戦うような気力で工夫するならば、修行の場所を選ぶことはない。
寺であっても家であっても同じことである。
もし出家し寺に入らなければ見道はないというのならば、君主であれ臣下であれ、だれも見道の望みはないことになってしまおう。 勤めを怠り、どうかすると病と称して退隠したいなどとも考える。
そんな心がけでもって、いくら静かなところで精錬刻苦し、たとえ妄念がなくなったように思えても、
肝胆がそこなわれ、そのためにいつもおどおどし、 ほんのささいなことにも驚くような始末で、
まさかの時になったら、大将どころか一兵卒としても、 何の役にも立たぬであろう。
まことに亡国の徒ではある。 パーリ仏典、瞑想に基づいたテーラワーダ仏教の世界
っていうサイト見たんだけど、赤字のとこ名誉棄損とか
だいじょうぶか 日本はスマナサーラを筆頭に戒律を捨てた俗人が上座部を教えてる時点で異常 >>652
ですね。在家に瞑想を指導すること自体が
完成された手法ではなく、いまだ過渡期であると思います。 >>650
死に際、EO氏への感謝とかがなかったのは
同一なのは、既知として解釈しろってことだったのかな。 >>653-655
スッタニパータ 耕作者バーラドヴァージャ経 テーラワーダじゃなくて釈迦生存時の釈迦の教団の話だけど
500人の阿羅漢はもう悟りを得て今生ですることもなくなってたのに毎日何してたの?
托鉢と瞑想、たまに新弟子や在家に説法する程度? 自我が輪廻するので自我が自分だという立場ではあるとも言えるし、自分が自我だというのは無明で実際は無我だという意味ではないです その、自我が自分だという立場からみての輪廻ですが、
無明でいる現在、肉体の死後に別の肉体に同じ自我で生まれ変わることがあるのかと。
もちろん記憶はないだろうけど。 記憶は無いけど瞑想中に見る事が多いということ。
夢眠状態(瞑想状態)でみる映像というものは、かつて自分が経験したものが想起すると考えた昔のインド人は考えた訳。 そもそも自我とは何であるかという定義に関わるのでむずかしいけど、生きている間も自我は生じ滅しを繰り返している
寝ると一度自我はシャットアウトされるけど起きれば自分が続いてると思う
自我は記憶から成り立っている部分もあるので、生きていても記憶を失うと一度死んだように自分が誰なのかわからなくなるが、
それでも自分はいるし、まわりから見ればその人は続いてるということになる
そして記憶を取り戻すと自分が続いていたと思うようになる
死ねばふつう記憶はなくなるけど悟れば過去生も思い出せるという ちなみに記憶をなくして性格もかわるケースってあるらしいね
元々の性格でなく経験から作られた性格は記憶がなくなればそれだけでリセットされるのかもしれない >>664
うーん、それでは夢の光景を前世と信じるのとかわらないなあ
>>666
輪廻する主体はないけど、自我は解脱しない限り死後も続くことを「心相続」って
いうんだっけ。それってただの思いつきの信仰なのか、それとも仏教眼層の経験即から
導かれたものなのだろうか
悟ると過去生を思い出せるのだろうか
禅やテーラワーダでもそういう人がいたのかな もちろん思いつき信仰なわけがないんだよね
在家向けの最も基本的な五戒のひとつ「嘘をつかない」
すら守れないで輪廻は適当に考えました、は成り立たない。 本人たちは嘘ついてるつもりはなくても仏陀の真意とズレてる可能性はあると思うけどね
仏陀も対機説法したり比喩つかってしゃべったりしてたしテーラワーダの中でも経典の解釈に異論がでたりもするんでしょ
自分は自我の輪廻はだいたい言われてるようなかたちであるとは思うけども それは普通のこと、仏教徒でも
分かってる人はまずいない、でもいる 瞑想が進んでくると確かに何らかの光景 しかもいつも同じような人が出現するヴィジョンが見えることがある
ただ前世という固定概念があるのでそう思ってしまうのか 例えば別次元の自分とコンタクトできるという固定概念だったとしたら そう解釈するだろうと思う わからないものはそのままにしておくのが無難 止観の禅修行がある程度進んでくると、自分で色々分かってくるよ。
瞑想修行は、八正道のうち正定にあたる部分に相当するけど、ここを
ちゃんとやる人が本当に少ない。
やれば分かる。
お釈迦さまがお話しされたことは、全部言葉の意味通り、そのまま
素直に受け止めておけば、それが正解。 そうなんだよね 大悟とか解脱の境地は勿論わからないんだけど その前段階の色んな現象 体験はわかることが結構ある 名称と形態の問題も理性でもわかるんだけど
深く実感として 自分で迷いを作り出してた ただの言葉 概念に過ぎなかったって ズシンとくるのは瞑想が進んだ後だわ
急にまたは緩やかに勝手に変わっていってしまう サマディを否定する人もいるようだが、それは間違いですな。
いい加減な風説に騙されてはいけないね。 >>674
理屈ではなく、実践から来る実感として、あなたの体験の延長線上に輪廻も腑に落ちるということでしょうか?
正直死んで終わり(一般的な意味で)で、輪廻も解脱もないのなら、修行も意味のないものに思える。
鈴木大拙の言葉に「一生では足りぬ」というのがあって、そうだよなあ、一生しかないのなら、ちょっとなあ、と
思ってしまう。 仏教は刹那滅なんだから、一瞬一瞬輪廻してると言える これって時間とは何かという大変な問題を含んでいるように思えるんです。
マクダガートの時間論などが有名なんですが マインドフルネスで認知が広まったのもあるが、
会場にしつけのできてない、話も理解できない年の子供を連れてほぼ野放しにし
場の環境を悪くする親がみられるようになった。
板東英二、新幹線で泣く子の親に 「デッキくらい行ったら」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170323-00000005-jct-soci
uch***** |2017/03/25 13:39
泣き止まずことが出来ないのなら、そういう場所へ行かないこと。
新幹線も飛行機もレストランも。赤ん坊なんかどうせ覚えてないんだから
親のエゴでしかない。自分は子供が大きくなるまで我慢したぞ。 >>676
例えば 何かが手に入らないことに拘っていたとして >>682
例えば何かが手に入らないことに拘っていたとして それだけなら何か胸がゾワゾワするとか 気分が落ち着かないで済むのに
努力が足りない 運命で縁が無いんだ ずる賢いやつのせいで...と色々思考が暴れ回る
理性でも勿論この仕組みはわかるけど ズシンとくると 拘る事から離れよう となる >>676
輪廻転生についてはあんまり興味がないからそれらしい体験が勝手に起こっても 昨日面白い夢をみたんだよ と同じ程度の認識しかないな〜
当然 深い実感を伴うそういうことが起こる事が過去の目覚めた人に起こった事例は知っているけれど 勝手に起こるだろうからどうしようもないからね〜 瞑想の究極は、瞑想者自身が瞑想を通して輪廻を実体験すること。
そして輪廻の実体験というのは他人の過去生の映像を見るという物ではなくて、
瞑想者が瞑想を通して生→死→再生をまさに実体験すること。
だからこそ、一切見者や観照者なんて概念が出てくる。 >>685
追記
この生→死→再生というのは地獄や天国に行くいうような話でない >676
私は嫌で嫌で堪らない フェラーリも乗った 女も抱いた 信用も得た 思いつくことほぼ全部やった それなのに なんだ この虚しさは... 全然満たされない
これがあと40年50年続くのか.... このしっくりこない感じ 若い頃から何かがおかしいと感じてきた感覚 今すぐ解決したい >>687
渇愛ってやつですね。
欲は満たされることは無く自分が苦しみます。
欲は叶えるものじゃなくて、捨てるものというのが仏教の教えですね。 >>675
マハシ式も初禅に相当する刹那定を得て五蓋を鎮めないと真のヴィパッサナーにならないからなあ
観を先行させて止が後で獲得される道なだけで マハシ式の導入部分で観だと言っているのは、七清浄に対応させると戒清浄の部分だと思うよ。
戒における、六根清浄のところ。
呼称の問題でしかないけどね。 厳密には、戒清浄→心清浄→見清浄と進んで、名色の分別ができるようになってからがヴィパッサナーのはずだから、
名色の分別ができていないうちは、厳密にはまだヴィパッサナーではない。 森林派の出家僧は、そこのところはちゃんとやってる。
一方で、在家が在家のまま出家のまねをして挫折していく姿も見てきた。
なので、森林派のようにきちんとサマディに入ってから修行を進めるのは
理想的ではあるけれども、万人に勧めようとしても無理があるとは思う。
マハシ式なら、在家でもヴィパッサナーやってる気分にひたりつつ、戒清浄の
修行ができるので、それはそれで良いとは思う。 根気よく続けてサティが連続していくようになれば、サマディに入れることもある。 >>690
一応、注釈書では定の伴わないヴィパッサナーもdubbala vipassanaaと呼ばれてるけどね
無常を随念して刹那定に行くから戒清浄ではないと思うな
戒清浄はあらゆる瞑想の根本にあるから、満たしているのはすべてのメソッドに共通だと思うけど、
心清浄は微妙だと思う
でないと乾観者(sukkha vipassaka)を説くテーラワーダの伝統に反することになるから 座る瞑想で五蓋を完全停止できないのに、動きながらできるわけないと思うわ。 でもアーナンダ長老は横になろうとした動作の瞬間に阿羅漢になったってのがテーラワーダ説だからね 確かアーナンダ長老は結集の前日まで阿羅漢ではなくとも、預流果ではあったわけでしょ?
預流果に達していて、出家していて、しかも釈尊直々の教化であれば、四禅を修めていないとは考えづらい。
預流果に達した段階で五蓋は弱まっているので、在家が苦心しても禅定に入れないのとは事情が違うはず。 横になるまでの一瞬で預流果から阿羅漢果ということは、すでに四禅を修めて
観禅では行捨智まで達していたものと推測しています。 間違えた。
預流果なら道智も果智も備えていたはず。
で、預流果でもなかったなら、行捨智までだったのだろう、というただの推測です。 マハシ式しか知らない人たちは、ちゃんと大念処経も読んで欲しい。
日本国内だけの事情なのか知らんが、他の流派が間違ってると思ってる人が多すぎる。
在家向けのメソッドを基準に、出家向けのやり方を批評されても、おっとっとてな感じになる。 >>697
>預流果に達した段階で五蓋は弱まっているので
どういう理論か分からないけど預流果は三結を断ずるだけでしょ
五蓋を弱めるんじゃなくて近行定以上で鎮伏させないといけないわけで
動作中に定がないなら観はむりでしょ
これはパオ禅師もいってること
>>700
自分は他のメソッド、たとえばパオが間違ってるなんて一言もいってないけど
あなたがマハシやってる日本人ははヴィパッサナーを誤解してるし大念処経も読んでないって思い込んでるだけじゃないの? >>701
有身見がなくなったら、自我執着がまるごと弱まるから、当然の帰結として五蓋も弱くなるはずだよ。
後者については、マハシ式を批評するつもりはさらさら無くて、マハシ式だけを信奉する人のなかには、そういう人は事実多いと思う。 預流果に至って一来果を目指す段階でも、なおサマタ瞑想を忌避する理由はなにもない。
間違いなく涅槃に向かっていくことは確定している。 だーからー五蓋を心清浄で機能停止にしないとヴィパッサナーにならんじゃろうが 純観行者で預流果まで行く人がいるって聞いたもんで、その立場の人たちに理解を示したつもりなのです。
個人的には心清浄なしでは、預流果まですら無理だと思ってるけども。 預流果って、そんなに甘くないはずなんだよね。
戒律守って瞑想してれば、まぁ準預流果的な・・・じゃないからね。
預流果だからね。 >>705
>純観行者で預流果まで行く人がいるって聞いたもんで、その立場の人たちに理解を示したつもりなのです。
「無学(阿羅漢)という宝にも二種類ある。乾観行者と止行者である。」
asekharatanampi duvidhaM sukkhavipassakasamathayAnikavasena.
(クッダカパータ註 パラマッタジョーティカー Pj. I, 178) その乾観行というやつで預流果までいったら、止行者に切り替えれば良い。
なぜなら、預流果の聖者はすでに禅定に入りやすくなってるはずだから。
というのが、上の発言 >>703 の趣旨。 預流果とか一来果とか ぐちゃぐちゃ言う前に、
本当の『阿羅漢果』は何処にいる?
現在、居るのなら教えて欲しい。 正体暴いてやる。
要するに文献の中にしか居らんだろう。
一生、文献解釈学をやっておれ。
あほくさいお話だ。 預流果の条件の一つで、瞑想中に自分が消えるってのを経験しなきゃいけないみたいだけど、深い瞑想できる人って結構経験してるんじゃないの?どんな感覚なんだろ 預流果でなくとも、五蓋が消えれば自我を形作っている枠組みも消えちゃうよ。
あくまで欲界レベルの自我の話だけど。 解脱したわけでも、悟ったわけでもないので
思考が動き始め、五感が動き始めると、また自我意識に戻ってしまうけどね。 >>710
>正体暴いてやる。
アホか、こんなところに書けないわ。
>居るのなら教えて欲しい。
三宝に帰依していれば、サンガで見いだせるはずだから
自分で探しにいって下さい。 「沙門果経」って本、ヴィパッサナー瞑想と
どういう関係があるの? どちらも四諦のことを別の角度から話しているんだろうと思います。
前者はその効能、後者はそのやり方。
出家の果報とは八正道(つまり道諦)の果報。
道諦(八正道)の果報とは、究極的には滅諦(つまり涅槃)。
そしてヴィパッサナーとは八正道の修道。
特に八正道における智慧に相当する正見と正思惟の部分。
そして正見とは四諦そのもののことらしい。 ヴィパッサナーによって、苦諦と集諦を直接的体験智として知ることになるんでしょうね。(生滅随感智ほか) >>711
それなのかどうかわからないけど 瞑想初めて10分ぐらいであたかも寝てる時のような状態が30分 何もかもが真っ暗 でも予定通時間にちゃんと覚醒する
もう一つは花なら花 テレビならテレビだけに世界がなって自分が消える こっちは数度だけの経験だけど >>719
なにもかも真っ暗ってわかるってことはその寝てるような状態の間も何らかの知覚なり観察なりがあるんですか?
その状態に関してよければもう少し詳しく聞きたいです
その状態の詳細や、その状態の入り方や、コツなど >>720
その時にはもちろん意識も無いよ よく電車で意識なくなっても降りる駅 手前で測ったように勝手に目が覚めるでしょ? アナウンスもないのに それと似ている 悲しくないのに涙が池のように出て溜まる
脱力 10回ぐらいの深呼吸 ゆっくり 体が痛くない姿勢 必要であれば暗くする ぐらいかな? 対した瞑想ではない 多分 >>721
ありがとうございます
ちなみにそれが眠り(例えば瞑想中眠くなってうっかり寝てしまった時)と違うのはどういう点なのですか?
寝ている状態とは違うんですよね?
大した瞑想ではないとおっしゃってますが、マハーシ式の説明では涅槃に入ってるときと同じような状態だと思いましたよ
自分はそれほど詳しくないのでなんとも言えないですが 横からだが
滅尽定に入っているか心が有分に落ちてる(=眠ってる)だけ
まあ間違いなく後者 まず初禅で喜悦感が生じるからここを自覚しないってのはありえないしね
そこから段階を踏んで喜悦感が消えて、それから空無辺、識無辺、無所有、非想非非想に行くわけで >>722
うーん サマタ ヴィパサナするようになって寝てる 起きてるって定義がわからなくなったよ 一度は公園でもの凄く強固な只管打坐の姿勢で瞑想してたけど
警官が1分ぐらい肩を叩き続けて声かけてたらしく 死んでると思ってビックリした って笑われた ただ全然気がつかなかった 瞑想法について仏典に書いてあることを信じてなければこんなレスは続かんよな
やっぱり仏教は宗教であって哲学ではないよな >>722
上の方々は詳しそうだし 俺は無宗派だからただの体験談程度としておいて下さい ここは多分 凄く緻密だし先輩覚者も多く排出してそうだから良い思う ただ方法が正しいから毎年数人 数十人目覚めた人を排出する組織は無いらしい
結局は才能 食らいつく根性 病的な探究心ってことだろう 頑張りましょう お互い >>726
宗教臭さってのはわかるんだけど 瞑想ほど実際やって見て ワォ!マジかよ?俺?!って体験できるのも珍しいと思うよ サマタでもヴィパサナでも凄く面白いことが起こる
仏典に自分で確かめられる方法って書いてあるのがよくわかる 当時の人も興奮 心から納得したんだろうな と共感するよ >>722
連投すいません...これだけ...
普通の寝ている状態との違いを強いて挙げれば 瞑想の当初 初めて真っ暗になった時は40分ぐらいだったけど 次の日に何故か全身の筋肉痛で2〜3日歩けないぐらいになったってことかな
座ってただけで何で全身????足じゃなくて????って 昔の思い出w 無宗派ということだけど師事してる人はいるのかな
もしいないんだったらパオでもマハシでもちゃんとした師匠を探した方がもっと瞑想が進むし
これから先、魔境に陥ったりする危険もないと思うよ
なんかレスみててこれから先が心配になったので >>725>>729
なるほどありがとうございます
>>719の世界が消えるというのも禅宗の見性体験などのときに起きたりする状態と同じですし、
真っ暗なのもかなり深い瞑想状態だと思いますよ
自分もあなたほどではないですが、自分なりにいろいろ瞑想体験ありますし、
あなたの書込みからかなり進んでる方ではないかと判断して質問したわけです
ちなみに寝てる起きてるって定義がわからなくなったというのはどういう感じですか?
心と身体が寝てても(止まっていても)意識は起きているときのままつづいてるというような感じですか?
そういう方は魔境に落ちるような段階ではなく相当進んでる方だと個人的に思います
よければ起きてるときから寝るときの境目がどうなのか、寝てる間どういう感じか、
何かしら知覚や意識のようなものがあるのかなど、おしえていただけますか? >>731
てっきり初心の方が紛れ込まれてるんだと
失礼しました 寝ている起きてるというのはヴィパサナが進んでいた時に寝起きの瞬間 気づきを多く体験したからです 寝てる間もしてたのかよ....って 起きた瞬間気づきの言葉を声に出してることもありました
夢見の技法 半覚醒 右目を閉じると夢で左目を閉じると現実で 的な体験はありません >>732
いえいえ初心といえば初心です
なるほどそういう意味なのですね
修行が進んでる方の話を聞きますと、夢見てもいつも覚醒夢になってるとか、寝てても意識があるなど多いので、
参考にしたいと思いお聞きしました
寝起きの気づきってありますね
寝てる間も夢で瞑想してたり夢の中で今までわからなかった自己のことがわかって解決したようなことが自分もありました
ありがとうございました ワンギーサ師が還俗してて、しかもSRKWブッダとかいうネット上の自称ブッダのファンになっててびっくりした:(;゙゚'ω゚'): 西澤先生もそうだし、どうして、還俗しちゃうんだろう。日本だとテーラワーダのやり方では
食っていけないのかなぁ。ある程度まで行くと、壁が見えちゃうんだろうか? 比丘戒を守る生活=お布施で成り立つ生活だから、日本でそのままのスタイルは無理。 比丘戒を保つサンガを日本に根付かせるということは、
サンガを支える在家集団を根付かせることと1セットで
はじめて成り立つ。 インド文化圏は、もともと出家修行者を尊敬する文化的風土がある。
一方、中国以東の儒教文化圏では、社会に奉仕する人が尊敬の対象であって、
出家というライフスタイルはむしろ軽蔑の対象とされがち。 >>736
文化的に仏教への信仰が薄いからじゃないかな
ビルマとかタイのバリバリ上座部文化の出身者なら子供のころからブッダがヒーローって頭の中に染み付いてるから
比丘として生きていくことに違和感がないんだろう
西澤先生はクリシュナムルティとかラマナ・マハリシとか精神世界系を放浪して仏教にたどり着いた人っぽいし >>738
在家信者の数と質、厚みが必要なんですね
>>739
だから中国で禅僧が作務に従事して自給自足をするスタイルが出来たのかな 一乗真実、久遠実成
南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 一乗真実、久遠実成
南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 色々やってアーナパーナ・サティに戻ってきた。
頭が楽になったし、心が安らいだ。 色々とはどのような瞑想をされたのでしょう
まあアーナパーナいいですよね >>745
御寺で指導を受けた瞑想法からネットなどで見かけた瞑想法まで数種類ですね。
(その瞑想法が合っている人達もいるとは思いますが)
基本を大切にしたいと思ってアーナパーナ・サティに戻ってきたら、
辛かった過去を思い出しても、また呼吸にもどるとその辛さが、
呼吸によって撫でられて癒えていく感じなんですよね。
終えた後に改めてビックリしました。
でも、これらのその時の副産物と思って追わないようにします。
呼吸に気付き続けるのはなかなか難しいけど、じっくり取り組んでいきたいです。 訂正
× これらの
○ これらは
その他読みにくい文章ですみません。 昨日のID:2AAFi4yRです。
ぼかして書いてたけど、同じ様なところで躓いた人がいるかもしれないから、敢えて書きますね。
身体の感覚を感じるタイプの瞑想と慈悲の瞑想、ヨガのアーサナとプラーナヤーマやってました。
プラーナヤーマはダーガとナーディショーダナのコンボ。
ナーディショーダナは良かったけど、ダーガは胸廓のあたりに緊張があると胸が痛くなりました。
筋肉の事も踏まえてアーサナの順序を組み立てられる講師の元で指導を受けたいと思いました。
さて、身体の感覚を感じる瞑想ですが、私は却って身体の内側からの痛みが増し、呼吸も荒くなり動悸に襲われるようになりました。
長いと感じることもなく30〜35分くらいの瞑想ができたのに、10分も出来なくなりました。
瞑想中に手が暴れて膝を叩き続けたりするようにもなりました。
アーナパーナ・サティに帰ったら、そのような事もなく、
思いされた辛い記憶や身体の痛みを呼吸が撫でてくれるようで、動悸や呼吸が荒くなること、手の暴れも起こらなくなりました。
まだ15分でリハビリ中ですけどね。
皮肉なことに、アーナパーナ・サティに戻ってから、
却って身体の内側からの炭酸のようなシュワシュワしたような感覚を感じ取れるようになりました。
これはあくまで私のケースです。
もしかしたら、アーナパーナ・サティに帰った方が良い人もいるかもしれないと思って書きました。
身体の感覚を感じる瞑想は否定しません。
それが合っていて深いところにいける人達もまたいると思っています。 >>748
炭酸のような はお腹のあたりでしたか? 胸のあたりでしたか? 私は最初はお腹 停滞期があった後 胸辺りがシュワシュワ ポコポコなりました 面白いですよね
やっぱり共通した変化が起こるんですね〜 >>749
私も胸のあたりからでした。
そして広がっていく感じでした。 >>750
ありがとうございます 私は体の特定部位 チャクラが近いですが そこを意識しながら自分を観察する方法でした お答えありがとうございました! >>751
いえいえ。
瞑想やっていると色々ありますよね。
751さんの瞑想が捗りますように。 魔仏説 『阿含手品密教オカルト経』
解脱供養インチキ霊視五人衆品第一
『是くの如く我れ聞けり。
一時、桐御陀仏、ニセ祇園精舎に住して、 五人の偽比丘と倶なりき。
爾の時、桐仏 未曾有の桐仏の教えを説き給へり。
阿含手品密教オカルト宗「解脱供養インチキ霊視」の術と 言えるを説きたもう。
五人の偽比丘衆よ、あきらかに聞け。我れ生存時も滅度の後も
東京 京都に於いて、阿含手品密教オカルト銭儲け宗を興起せん。
これ阿含手品密教オカルト宗と言う。洗脳信者を誑惑、
善男善女を悩乱せしめん。
ここに我が崩門中、最上の一法あり。如何が一法と為すや。
それ銭儲け、ボロ儲けの術なり。
祟り派と称する派の説を 変造加工して、脅すの詐術なり。
いわゆる低級霊、霊障説く、憑依の霊、因縁霊、背後霊、
浮遊霊、地縛霊、不成仏霊、霊障のホトケ、 水子霊、動物霊などを
説き是くの如くの霊、人にとり憑いて祟りし、障礙を為すと説き、
その霊障を除かずんば、横変死、病気、事故、など諸々の不慮のことあると説く。是く大衆を脅迫す。
その手口のこと、霊障商法、霊感商法と言う。
さらに方便をめぐらして、解脱供養の成仏の阿呆を説くべし。
この成仏呆はインチキ偽とは言えども、洗脳信者大衆は
迷妄の故に、桐仏霊力を求め 信を起こすなり。
我れ命終後は、汝ら五人のニセ比丘を五人衆と定め、
我が呆門中の最上の法を相続すと宣説すべし。
霊視成さざるを成すと言い、霊視出来ざるを可といい、
我れ桐御陀仏在世から、術を為せりと。
また、手品超能力の焚き火も摩訶不思議のものと宣伝して行い、
軽慮の人を騙し、 妄信の人に出金させるネタとして
演出すべし。 焚き火で霊障すべて成仏し、すべては
桐御陀仏がニセ涅槃界より引導し給えりと説け。
汝らニセ比丘五人は、「霊視五人衆」と変化(へんげ)して、
ニセ真理の将軍長官に仕え 方便に従うべし。
その要諦は「霊視五人衆」の相承なるべし。
偽比丘らよ、是の「霊視五人衆」らをして集金末法を推進すべし。
この時、偽比丘大衆、桐仏の所説を聞きて、大いに歓喜し、
インチキ梵行を狂信受 奉行せり。
魔仏説『阿含手品密教オカルト経』
解脱供養インチキ霊視五人衆品第一 畢わりぬ 魔仏説 『阿含手品密教オカルト経』
輪廻転生迷走崩 偽シュダオン功徳品第一
『是くの如く我れ聞けり。
一時、桐御陀仏、ニセ祇園精舎に住して、 諸々の大衆と倶なりき。
爾の時、桐仏 未曾有の桐仏の教えを説き給へり。
阿含手品密教オカルト宗「輪廻転生迷走崩 偽シュダオン功徳」と 言えるを説きたもう。
諸々の大衆よ、あきらかに聞け。我れ生存時も滅度の後も
東京 京都に於いて、阿含手品密教オカルト宗を興起せん。
洗脳信者を誑惑、 善男善女を悩乱せしめん。
ここに我が崩門中、最上の迷走崩あり。如何が一法と為すや。
それ「輪廻転生迷走崩」偽シュダオンの功徳なり。
輪廻転生迷走崩に依りて、来世の自在を得られると説く欲煽り
の詐術なり。
いわゆる来世にシュダオンの聖者になると説き、さらには
美男美女に生まれることが自由自在に出来るという。
すべて方便にして、脅しの逆の手口なり。この法と脅しの方便は
車の両輪の如し。この両輪あるゆえに阿含手品密教トリック教の
財政は円滑にゆくなり。これ桐仏供養の第一にして、この功徳で
大衆は成仏すると思い込むこと、これ偽比丘の似非戒なり。 似非律なり。
輪廻転生迷走崩のこと、これ桐仏独自に偽法にして
諸々の大衆には、三途を免れる便法と説け。
阿含手品密教トリック宗を離れなば死後には、
浮遊霊、地縛霊、不成仏霊、霊障のホトケになり、
来世は、横変死、病気、事故など諸々の不慮のことあると説く。
その手口のこと、ご利益信仰、霊障商法、霊感商法と言う。
さらに方便をめぐらして財施の偽功徳を説くべし。
洗脳信者大衆は迷妄の故に、是の桐魔仏説の輪廻転生功徳に
信を起こすなり。
我れ桐魔仏 命終後は、この欲煽り法を相続すべし。
シュダオン成さざるを成すと言い、来世に美男美女に
成らざるを可といい、 偽シュダオンの功徳、
来世美男美女身獲得の功徳を捏造して説くなり。
桐仏滅後は、桐魔仏が涅槃界より守護すといい、
ニセ真理の将軍長官に仕え 方便に従う
この時、諸々の大衆、桐魔仏の所説を聞きて、大いに歓喜し、
インチキ梵行を狂信受 奉行せり。
魔仏説『阿含手品密教オカルト経』
輪廻転生迷走崩 偽シュダオン功徳品第一 畢わりぬ なんちゃら宗とかじゃなくて、
東南アジアで出家して、具足戒を受けている上座部の僧侶のもとで修行してますよ。
東南アジアの上座部で出家した日本人僧侶が主宰している瞑想会が結構ありますから。
なんちゃら宗じゃなくて、具足戒を受けている上座部の僧侶から指導受けている人も増えてきてますよ。 ブッダの本読んだんですけど、「自我じゃなく自己を愛せ」っていうのがわかりません
自我と自己は別物なのはわかったんですが自己をどうやって愛せばいいのでしょうか スピ系で(どの段階かは不明だけれど)悟ると
笑いが出るなどと書かれてるのを読んだことがあるけど、
そういうものかな?そうだと思いますか?
どうも複数の人が言ってるらしい。
自分がいない瞬間を体験すると、怖くならないんですかね?
数年前に体験したと思うけど、そのとき怖かったんですが。 上の757について、
そのスピ系の悟り=自分がいない瞬間を体験
と、等号で結べるわけではないので、関連こそあれ別の
疑問です。何かご存知でしたら教えてくださると嬉しいです。 >>756
自己が自我のせいで窮屈に不自由にされているとすれば、自我を静めていくことが自己を愛することになるのではないでしょうか
あるいは自分が何からも自我からも自由であることを愛することができれば、自由であろうと思っていければ、
自己を愛していることになるかもしれないなと思います >>757
自分が誰なのか何なのかわかってないところで、その答えが出るので、笑う人は笑うと思いますよ
あるいは、今までなんでどうでもいいことで悩んでたんだろうとか、全てどうでもいいんだとか、
そういう自由な感覚にびっくりして、笑ったりするんじゃないでしょうか
自分が怖くなる人は、自我がなくなることをその自我自体が恐れてるんでしょうね
自我にとって自我がなくなることは死ぬことですから
自我に執着する自我がまだあるということだと思います
自分にとって邪魔でいなくなってほしい自分がいなくなったと思う人は笑うと思います
自分にとってまだ在ってほしい自分がいなくなったと思う人は怖くなるでしょうね
自分にとってどの自分がいなくなるかでいろいろ違うんじゃないでしょうか >>760
レス、説明ありがとうございます。
非常に納得しました。腑に落ちました。
本当にありがとうございます。 >>759
ありがとうございます
自我(身心)は認識対象だから 761自己レスです。
説明 → ご説明
に訂正します。ごめんなさい。 誤送信
自我(身心)は認識対象だからこれを乱されないようにすることが認識する側=自己を愛するということに繋がるということでしょうか >>757
俺はそんなに怖くなかった
ああ、自分がいないっていうのはこんなに安楽なんだな
こんなラクなキモチのまま消滅するのもいいのかもなって思った
でもこれ瞑想してなくても「自分がいない」状態になる人とかいるらしいからね >>764
そんなとこですかねえ
「自己を愛する」ということがわからないということは、
「自己」や「愛する」ということがどういうことか本当にはわかってないということだと思いますので、
「自己」や「愛する」ということが何であるのかを本当に理解しようとしていれば、
それがいまの時点で自己を愛する(愛そうとしている)ことになるんじゃないかと思います
俗な言い方ですが、自分(自分の内面)にただ誠実に向き合っていればいいんじゃないですかねえ
そうすれば自我が何なのかわかってきて、自己も何なのかわかってくるんじゃないでしょうか >>765
やっぱ自分は自分がいなくなるのが怖いんだなぁと改めて
認識。。。実際、そのあと、普通に肉体的に死ぬかもと
感じたときも、怖かったですし…。レスありがとうです。 単純に「自己を愛する」ということであるならば、
小部経典「ウダーナ 五.ソーナ長老の章 1.王」に
「心して至るところを遍歴したが、どこにも自分より可愛いものには出会わなかった。
この自分が可愛いということは他の人々にとってもそれぞれ同様である。だから、
自分を愛するものは他を傷つけてはならない、と。」とあり、
相応部経典には
「もしも自分を愛しいものだと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。」と
あります。(岩波文庫 神々との対話 第V篇コーサラ第1章第四節 愛しき者 p.163〜)
ならば布施をする事も五戒を守る事も自分を悪に結び付けないで善に結び付ける事だから
「自己を愛する」こととなります。 >>770
四念処と四念処を行じる自分とされている。 ブッダの実践心理学シリーズって
何であんなに高いの? 読む価値ある? kindleUnlmitedの無料体験で6巻まで0\で読めるよ >>772
スマ長老の説法部分が面白い。肝心なアビダンマの説明は、そこまでの瞑想体験が
無いため、はっきりって、そうなってるの?としか言えない。 >>770
整えられた心が覚りに向かうとき、次第次第に功徳が積まれ、因縁を生じたならば解脱が起こる。このとき、心が心を滅し、仏となる。これが覚りの真実であり、この心が心を滅して仏となるという事実が、この世の最高の不可思議である。
このように、覚りは最初から最後まで各自のことがらであり、この道にはいかなる超越的存在をも仮定する必要が無い。また、このとき修行者は自分ならざるなにものにも依拠してはならない。ゆえに、これを「自灯明」と称する。
また、覚りの機縁となる法の句(善知識)は、この世には本来存在せず、因縁によって時として世に出現する。それが法(ダルマ)の顕れであり、この世の灯明となるものである。
けだし、この法(ダルマ)の顕れが人を覚らせるものとなるからである。この真実ゆえに「法燈明」と称する。
修行者は、自灯明を信じて自らの修行を進め、また法(ダルマ)が灯明として世に出現するさまを目撃し、その真相を理解しなければならない。
それ以外のことによっては、人は覚る(=解脱する)ことは出来ないからである。
*** 自己がいないなら、生きるとか死ぬとか関係が無くなる >>775
解説ありがとうございます
そのお名前は悟った方ですよね?
悟ると宿命通、天眼通、漏尽通の三明が得られるというのは事実でしょうか
寝ている間、夢は見ず、起きているときと同じように意識があるというのは事実でしょうか >>777
覚った(=解脱した)時、同時に次の3つの智(三種の明知)を生じます。ただし、世間一般にある三明の説明とは違っているかも知れません。
漏尽通:自分が、間違いなく覚りの境地に至ったのだということを如実に知ることを漏尽通と言います。たとえば、大人が自分が大人であることを完全に了知しているようなものです。
宿命通:自分にとっての善知識が誰であったのかを如実に知ることを宿命通と言います。つまり、自分が覚りの境地に至る際に認知した「法の句」が、誰が放ったものであったかということについてはっきりと思いだし、その人とは確かな宿命(因縁)があったのだと知るのです。
天眼通:この世に目を背けるべき対象がまったく無くなったことを実感することを天眼通と言います。すなわち、この世のすべてのものを公平・平等に、毛嫌いすることなく見つめることができる。
寝ているとき、夢は普通に見ます。多いときには6つほど。普通は、毎日2〜3ほどの夢を見ます。ただし、これは人によって違いがあるかも知れません。
*** 778.
776.
覚った、解脱した、ということは自分、自己が無い、ということである。
その表現方法が多彩でありえる。 >>778
解説ありがとうございます
一般的に言われている三明と大分違うんですね。
ちなみに感情や感覚は悟った後どうなるのですか?
例えば怒りや悲しみは、悟ればもう生じないという説と、
生じるけれど心身に生じているとわかるだけで自分は心身から離れている、という説などよく耳にしますが。
天眼通の解説からすると、生じるけれど他のすべてのもと公平に同じになるような感じでしょうか。
夢を見る場合もあるんですね。
でも見た夢の数を憶えているということは一般人の夢の見方とは違うようですね。 >>780
いわゆる貪瞋痴は、戒定慧に転じ(貪→戒 貪→定 痴→慧)、感覚は通常通り残るが、識別作用(二の矢)は滅することになります。
*** >>782
つい先日先生のことを知りました 修行の書を読ませて頂き 特に修行者の心構え チェック方法には大きく勇気付けられました 有難うございます ヴィバッサナー瞑想で検索していたらこちらの瞑想会がヒットしたのですが
掲示板の違うスレを見てみたら、指導者に難ありなのですか??
へたにこちらの精舎で瞑想を習うより、本でやっても同じですかね? あ、すいません
1に>日本テーラワーダ仏教協会について語るところではない
と書かれていたのを失念していました。
皆さんはどこでテーラワーダ仏教の瞑想を習われているのですか?? 自分の場合は、本とネットの記事です。
ただ、一回だけ初心者指導に参加したことがあります。
一概には勿論言えませんが、瞑想を覚えようという人の中で
やってみるとモチベーションが高まるという人もいると思います。
また、"間合い"のようなものは本より分かるかもしれません。
個人的には、自分が参加した所の指導者の長老の、
"歩く瞑想"のお手本、お姿を見れたのが一番よかったです。 ありがとうございます。本とネットで行っていますが、自分だけでわかっている気になっていないかだけが少し気がかりでした
(それもサティすればいいのでしょうが)
瞑想会を見つけたのですが、その指導者が口汚いとか言われているとそういう方に指導を受けるのもちょっとなと感じます。
テーラワーダに限らず、ヴィバッサナーやマインドフルネスで探してみます。 本やネットでは何か気になることがあるようでしたら、
実際に指導の会に参加するのはきっとプラスになると思います。
いい出会い、収穫があるといいですね。 >>786
あちこちの瞑想会と合宿に参加して、比べながら自分に合うところを見つけました。 豆知識
mindfulness は、パーリ語 sati の英訳で、いま日本では「気づき」と訳されている。
が、sati は何かにハッと気づくことを意味する言葉ではなく、
何かを心に留めておくこと、注意していることを意味する言葉である
(注意した結果何かに気づくこともあるかもしれないが、言葉の意味としては異なる)。
漢訳は「念」。
具体的に何にどう注意を向ければ正しい念を獲得できるかは「四念処」として説かれている。
その四念処のなかに自分の呼吸を観察することも含まれている。
つまり、いまマインドフルネスの名で流行している瞑想法は、
本来的な意味での mindfulness = sati を会得する方法のごく一部に過ぎない。
テーラワーダ仏教を世界に広めた一派も当然そんなことは知ってたと思うが、
自己啓発セミナーや心理セラピーのニーズに合わせて、
かなり簡素化しちゃったんだと思う。 しかしこの気がついているというのが
とんでもなく大きな意味をもっていたなんて こころおだやかにニャるゆるねこ×ブッダの言葉 (インプレスカレンダー2018)
アルボムッレ・スマナサーラ (監修), 小川晃代 (写真), 湯沢祐介 (写真)
直々の商品じゃないにせよ
この商品を、協会HPのトップ2番目に載せてくるって、
どうなってんだここ? 余談ですがフリーメーソン(イルミナティー)は絶対お参りしたりついてっちゃ駄目です。
やつらはひがみの不動(シヴァ)のかたわれでそれも悪さがまったく逆に出たものです。
ひどい差別社会ばかりになります。 >>778
三明以外の三通は
実際のニルバーナからはどう定義されるのですか? 「真木はその14日のうちに、『視聴率3・8%。こんなに視聴率が低いから是非、ドラマを見てください』と
つぶやいてしまったんです。そもそも視聴率の数字は、ビデオリサーチが管理し契約会社だけに配布する“資産”でもある。
それを何の断りもなく勝手に、視聴率データを個人のツイッターで公表してしまったから、マズいのひと言」(関係者)
hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1503196483/ 在日の新ビジネス ワンステップスクール伊藤学校
校長 廣岡政幸
> ご自身が在日韓国人であることを隠すことなくはっきりと明言されました
> 嘘だと思われるのでしたら廣岡政幸さんにお会いする機会があったときに伺ってみると良いです
815 :名無し専門学校:2017/04/23(日) 15:41:19.44
ネットの廣岡信者の主張を見ると、確かに無職/ニート/ひきこもり(ネトウヨ)
に対する、強い憎しみがあるみたい。言葉では更正を願ってるようだけど、
子供を入れたらいじめで殺されそう。
> 773 :名無し専門学校:2017/04/09(日) 12:54:01.39
> > 602 :名無し専門学校:2017/02/04(土) 05:45:15.08
> > ネトウヨ=無職・ニート・ひきこもり=社会悪
> > だから俺達は悪くない
> > みたいな論理破綻した在日論はよくネットで見かけるけど・・・
>
> その在日の妄想を正当化するための広告塔として
> 祭り上げられたピエロが廣岡政幸 801のままで止まっているのも...と思ってカキコ >>797
逝去された7/19日前後に今まで見た事のなかった彼(ウ・アローカさん)のYou tube動画
を10本見てた。(何となく元日本仏教の僧侶であった事とあの風貌に何か胡散臭いものを
感じたのか何故か私はこれまでは敬遠してた)その7月末にネットの情報で逝去を知った。
動画の内容はマハーシ<<<パオというか、サマタの基礎の上にヴィパッサナーを強調
されていた。
私は「清浄道論」を頼りに、トボトボと瞑想の真似事を長くして来てたから「我が意を
得たり」という感じで期待してたんだが...ちょっと残念な気もします。
............8月29日上弦布薩日に しかしパオを修了したという人は胡散臭い人がなぜか多いね
鈴木さんとマハーカルナー禅師はまともと思いたいが、
マハーカルナー師は明らかにパオの看板はずしてるのにそのことを公表しないのは・・・疑念を持たざるを得ない 比丘尼は滅んで現在は存在しないと考えられているが仮に存在していた頃であっても
比丘尼の守るべき八重法(八敬法):
(一)百歳の尼僧でも、今日出家したばかりの新しい修行僧に対しでも敬意を払うこと。
(二)尼僧は修行僧のいないところに住んではならない。
(三)尼僧は、半月ごとに修行僧からウポーサタ(布薩)と教誡をうけること。
(四)尼僧は、安居の最後の日に、修行僧及び尼僧の二つの教団に対して、自恣をなさねばならな
いこと。
(五)尼僧がこれらの条件を破った場合は、尼僧と修行僧の両教団のために、半月の間マーナッタ
を行わねばならない。
(六)沙弥尼が不殺生、不偸盗、不婬、不妄語、不飲酒、非時食の六戒を守ったら、尼僧として、
両教団に対して願いを出すこと。
(七)尼僧は決して修行僧をののしってはならない。
(八)修行僧に対して尼僧は、文句をいえないが、修行僧は尼僧に関していえる。
なのである。にも拘らず、比丘尼ですらない者が比丘に対して如何なものか...
............9月6日満月布薩日に 131無名さん2017/10/08(日) 10:49:10.32>>133
>>130
曲と曲の合間で客が連れてきた赤ちゃんが泣いたりやんだりを繰り返してたんだけど、
それまでほとんどしゃべってなかった山本さんが
赤ちゃんが泣きだすたびに「お母さん、ちょっと外連れてった方がいいんじゃないの?」とやんわり注意してた。
132無名さん2017/10/08(日) 11:48:31.31
流石山本精一
なあなあで済まそうとするヌルいミュージシャンとは違うわw
133無名さん2017/10/08(日) 14:19:43.48
>>131
おおサンクス
まあ他のお客さん的には注意してくれたほうがありがたいよね 人間の心の動きというのは止まることはないし、様々な妄想ばかりしていて、脳紳胞には暇というものがありません。ですから疲れて疲れて、いつでも眠たいのです。
一方、ちゃんとヴイパッサナーでものごとを確認しておくと、疲れがないのです。
ですから眠気は消えるのです。だから少ない努力でたくさん仕事ができます。そのような人には、からだの休みをとることは必要ですけれども、こころの休みは必要ありません。
からだの休みをとることは、上手にできればとても簡単です。横になって、からだを観察すると、ぱっとからだの機能が止まってしまいます。
からだの機能が止まっても、頭はものすごく元気に活動しているのです。そういうことで、睡眠時間が少なくなる可能性もあります。昔々のお坊さま達は睡眠時間は短かったですね。
お釈迦さまは眠ることに対してけっこういろいろとおっしゃっていますからね。
よく寝たりすると厳しく怒られるんですよ。ですから眠くなるのは最初だけ、つまり煩悩がたくさんある間だけなのです。
煩悩の活動が少なくなってくると、睡眠時間が短くなります。 在家できちんと五戒を守っても、
日々貪瞋痴にまみれる毎日に感じます。
在家で悟ることはやはり不可能なのでしょうか? 修行者が未経験の、また、理解も出来ない悟りについて困るよりは、具体的に理解できる自分の心にある煩悩(汚れ)を取り除くことに専念するのです。
悟りというものを視野に入れなくても、sati の実践を続ければ、心が成長していくことは確実です。
「解脱」とは、言葉の範囲で語れるものではありません。
一切の概念の次元を飛び越えることで成立つものです。
「悟りとは、このようなものではないか」と、考えたりイメージを作ったりすることは良くないのです。
俗世間の思考のレベルで考えたりイメージを作ったりする悟りが、もう一つの妄想概念に過ぎないのです。
解脱を目指す人が、悟りではなく具体的に自分の心にある汚れを見るのです。
生まれてくる貪瞋痴を、観察するのです。なぜ貪瞋痴が現れるかとその過程も、発見できるようにさらに鋭く観察 (sati ) するのです。
集中力が十分強化してきたところで、全ての現象が瞬間瞬間現れては消えて行くことに気付くのです。
悟りが起きる為の条件が全て揃うまで、根気良く、この気付きの実践を続けるのです。
毎日1時間以上歩く実践をして下さい。 坐る冥想実践も、1時間程出来ればありがたいのです。
個人の能力の「差」というものがありますので、皆に同じ時間ということにはなりません。 瞑想をしていて自我がふっと消えて楽になるとき、
ああ自我がないってのは楽なものだな。
死がこの状態なら死というのも悪いものじゃないのではと感じます。
こういうのは邪見なんでしょうか? その感覚(楽)を確認しなければなりません。
いつでも何か確認し続けることです。静かだなという自分を確認することでもいいですし、あるいはからだ全体を感じてみるのもひとつです。
からだ全体を感じながら、言葉で「感じてます」「感じてます」とサティする。静かで気持ちがいいからと、ほっとしてはいけないのです。
何も特別に確認するものはないと思うようならからだを全体的に感じてみてください。
たとえば「膨らみ、縮み」でも、からだ全体に膨らみ縮みを感じてみると、膨らむ場合はからだ全体に変化が起こりますから、状態がより静かになってくると、そういうものも見えてくるのです。
そのうちにまた別の感覚、たとえばどこかに小さな痛みを感じるならばまたそちらを確認する、そういうふうにやってみてください。
常に何かを確認するという状態が必要なのです。
私の人生のなかで、一番充実していて、瞬間でも苦しみを味あわなかった時間があったかと聞かれれば、それは道場にいた何日間かだけなんですね。
修行していた時だけなのです。生きるということはこれほど楽で楽しいものかと感じる時間です。
それを終えて社会に戻ったら、戦いだらけなんですね。人々の煩悩の渦巻くなかで、いろいろなことをして生きていかなければならない。
嫉妬する人に限って、あなたは嫉妬しているのだと言ってくるし、怒る人に限って、あなたはよく怒る人だと私に言う。
それを私が認めなければならないようなことになるのです。いいえ違いますと言えば、怒る人はさらに怒るわけです。
社会に生きていれば、そんなことが普通で結構大変なのです(笑)。
ともかく仏道というのは、瞬間瞬間、楽しいものなのです。修行自体は、苦しいはずがないのです。
それを何とか発見していただきたいのです。「幸福」というのは「明日」得るものではなくて「今」得るものなのです。 M禅師が戒律違反で会が中止とあった。
具体的に何をしたのかが掲載されておらず、一方的にHPに書いてあるだけ。
もしかすると、取り巻きが厳しい戒律チェッカーだったんじゃないのかな?
戒律も厳しくあてはめてしまうと、スッタニパータに出てくるコーカリアのようになってしまう。
ちなみに戒律チェッカーだったコーカリアは亡くなって地獄へ行った。
事実をきちんと公開してくだされ。 パーラージカだからなあ…
チェックの厳しさの問題じゃないだろう 世の中では、五戒を守らない人は、それを守る人と比べられないほど多いのです。
お釈迦様のたとえを借りるならば、五戒を守る人が「一握りの土」であり、守らない人が「大地の土」のようなものです。
この人々とぶつからないように、調和を守って生きるために、守る人が知恵を絞らなくてはならないのです。
仏教は、知恵を開発するために実践するものですので、五戒を守ることも知恵の開発の基礎とならなくてはならないのです。
知恵の基礎になるならば、五戒は、一般道徳の次元を越えて、本当の仏教の戒になります。
ただがんばって苦労して、守るだけだったら、他人より、すぐれた「モラルのある人」になるだけです。
ですから、他人からいつも離れて逃げることは、あまり認めることはできません。
五戒を守る人は、他人のこともその尺度で見て、「私は五戒を守っている。この人は守っていません」と判断したがります。
これは、自分が他人より優れているという優越感を招きます。この優越感は差別意識であって傲慢です。煩悩です。心の汚れです。
心の汚れを落とす目的で仏教徒になって、逆に、汚れをつけてしまうことは、あまりにも矛盾です。
他人の行為、行動は、どうであろうとも、他人に対しては、差別感が心の中に生まれないように、常に「気づく」べきです。
形だけの戒律は、性格的に頑固であるならば、簡単に守れます。あまり自慢になりませんね…。
形式的に戒めを守るよりも、平等の心(差別意識のない心=upekkha-)を持つことの方が優れています。 パーラージカといえば淫・盗・殺・妄
M禅師の法話は以前何回か聞いたが至極全うで自分の境地や神通は語っていなかったしサンガの和を乱している様子はなかった
殺人なら警察沙汰のはずだが報道はない
とすると淫か盗かね
事実かハメられたか
そんな人物には見えなかったがまあオレの目なんかそんなもんだってことだろうw 「盗」と仮定して、豪華なものを好む方ではなかったように思うので、該当しにくいかなと。
「淫」と仮定して、禅定の方が快感が大きいのではないかと思うので、あるのかなと。 なさげだなと思いながらも、疑念がうっすら残りつづけるのが辛い。 事実確認をしてから判断するのが、理性的な態度というものでしょう。
袈裟を着ているから比丘というわけではないし、
袈裟を着ていないから悪人ということでもありません。 セクハラに関していえば、被害女性の証言と、その他の物証があれば、すべての証明は終了です。
事実関係は、時間と共に明らかになってくるはずです。 ちなみに被害を受けた女性信者の数は、一人ではありません。ここ数年で複数です。
ちょっと触っただけとか、そういうレベルでもありません。
具体的には言えませんが、事態はもっと先に進んでいますし、さらにもう一段階、二段階と
先に進展してしまって、すでに取り返しのつかないインパクトを被害女性の人生にもたらしています。
事が表沙汰になるまでに、長い長い潜伏期間も経て、ようやくいま表沙汰になってきただけです。 なんか変だな。
オウムが入り込んで禅師をハメようとしているとか、
悪意ある魂胆を感じるわ。 袈裟を着て、お釈迦さまの権威も笠に着て悪質なパワハラやセクハラをする人を見つけた時、
それはいけませんよと諭すこと。
これは、仏教に対する信頼を損なう行いでしょうか。
三宝への冒涜を意味するのでしょうか。
思い込みで判断する前に、まず事実確認を先にしてください。
そして冷静になってよく考えてください。 事実確認をすれば、誰が嘘をついているのかは白日の下にさらされることとなります。
事実確認さえせずに判断するとしたら、その姿勢、その態度こそが問題ではありませんか。 >>828
その発言は、
「貴方が事実を知っている」ということと同義なのですが、
貴方は当事者ですか?
それとも、当事者から直接事情を聴取された方ですか? >>824 それは禅師のせいにして話しているだけということではなくて、
ちゃんと裏はとれてるのですか。
中の人っぽいので、正確なところを教えて頂きたく。 被害というのが本当なら、きちんと手口ややり方を公表して、同じような被害者が出ないようにすべきじゃないのかな。 要は、疑いの目が向けられない立場を悪用した行為なわけですが、
疑いの目が向けられない立場というのは、盲従する人たちがいて
はじめて成り立つものでもあると思いますよ。 性的なサービスをさせていたと。そういうことを言いたいのだろうか。
前、日曜に参加したことあるけど、絶対に付き人?が側にいる感じだった気がするが。 >>832
あなた本当に関係者?
もしスタッフでまだマハーカルナー法友会のHPの制御をもってるのなら、トリップ使えばスタッフであることの証明は出来るけどそこまでする気ある?
もし本物のスタッフでないか、そこまでしないなら、匿名性の高い環境で多くを語らない方が良いのでは?
この件が本当なら被害者女性が公に語ってくれるかどうかに掛かってるんだから
俺はそれを待って判断するよ
みんな判断しかねて色々言ってるだけで、結局は事実が出てくるのを待つしかないと思ってるんじゃないかな 裁判ではっきり答えがでるでしょう。
他者に頼らず 自己を拠り所とし
法を拠り所にせよ…お釈迦さまの
最後の言葉です! 裁判なんてあるのか?
なんというか、今回の嫌疑が掛かっていることが信じられないような人だったからこそ、
事実についてきちんと知っておきたい感が強い。
仏教、テーラワーダが好きなのに、不信についてなってしまいそうだ。 ×不信についてなって
○不信になって
信心が消えそうで、指がちょいブルブルくるような新境だったりするw もうダメだなw
×新境
○心境
漢字すらちゃんと変換確認できてないw 仕事で話していた内容そのものに嘘はないと思う。
ただ、表裏のある人ではありますね。
プライベートの顔は、仕事の顔とは別人です。
普段の生活で、どこかのサンガに所属しているわけでもないし。
帰依処はブッダ、ダンマ、サンガですよね。
特定の個人じゃないはずです。
しっかりして下さい。 いやいや、もう僧なるものが不信になりそうなのですよw
プライベートは違うとか。
それが本当になら、そうかもしれないと思えるくらいの説明が欲しい。
そうでないと、何もかもが信じられなくなりそうだ。そのくらい、立派で理想のイメージだったよ、俺にはw >>840
はいはい、落ち着いてw
自灯明 法灯明ですよ。 厳しいことを言うが、日本で在家生活を送っているのだから、
もともと出家の定義には当てはまってはいないのでは。 もう人物は見ないで耳だけ貸せと。
あ〜、政治家ぐらいに思っておけばいいのか。
どこか虚しい風が胸をふきぬけるけど、これが自灯明、法灯明なのかも。
少し心整理してみますわw 時間薬、 無常…… 最近 マハーカルナー禅師の事を知ったのですが、そもそもパオ日本分院がどのような経緯で 個人的な会に変わったのでしょうか?瞑想を習いに行こうかと迷っていましたが 信頼できる集まりなのかどうかが分かりませんでした。 信じてこの人のようにまっすぐ歩もうと思ったその自分の気持ちに間違いは無いんだから、良いんじゃないすかね
そうじゃなくて何があってもこの人について行こうって思っちゃうと他灯明?なだけで >>844
去年の途中までは、パオ森林僧院日本道場という名前だったはずですよね。かつて出版されたサンガジャパンの別冊にもその名前で掲載されていました。 >>846
そうなのですね!
なぜ 変更があったのか
きちんと 説明があれば
良かったですね〜 >>844
実はそこが謎に包まれてる
何の公式表明も無い
去年の年末くらいだったかなパオ森林僧院日本支部からマハーカルナー法友会になったの >>847
私は会に行ったことはなくて、そのサンガジャパン別冊のほかにはmk4u.infoのウェブサイトしか見ていませんでしたが、会の名前が変わった理由の説明は見つけられませんでしたね。これは何だろうと気にはなっていました。 当事者双方に公開質問状を送ってみるというのも、ひとつの手ではあるかも知れませんね。
そこに自ずと透明性の程度が現れてくるでしょう。 証言や物証が出てこないと確証は無いわけだが
いまだにHPが戻らないということは現場のスタッフ全員が禅師を見限ったってことだろ
これは相当のことだよ >>848
去年の後半だったと思います。正確な記憶はないですが。
私は会に行ったことがないので、もし会で名称変更の理由の公式発表がすでにあったのなら、会に参加してない私が知らないだけなんですけど、
本当に公式発表が無いのだとすると、情報の出し方というものが釈然としないですね。今回のことも少しそういう趣きがあります(ただし事実なら「告発者」のプライバシーに抵触するので、公開できる情報が簡素なものだけになるのは理解できますが)。 Wikipedia仕事早いw
早速今回の件が反映されてる
マハーカルナー傳修院ってのができるみたい >>851
そうです。
ですから、「クーデター」ではないですね。
「クーデター」という単語を用いるのは、言葉による印象操作です。 >>848
それはちょうど参加したとき聞けたよ。
たしか、パオ森林僧院と、法友会をきちんと分けたくて、
別途、ダンマに関するサイトをつくるという話だった。現時点で存在してないけど。 >>842
ちょっと心整理してみると、
たしかに「比丘 」とは言ってなくて、「禅師」なんだなと。
じゃあ禅師なら何が違うんだという話もあるが、
そこはオブラート包んで優しくいこうという感じなのかもしれない。日本万歳。 >>855
たしかに、サンガジャパン別冊1でも、パオ森林僧院日本道場という名前だけが載っているわけではなくて、
連絡先としてはマハーカルナー法友会という名前でメルアドが載っていますね。
それだけ見ると、別々の組織としてあったんだな、という感じはします。
会に出てないので憶測ですけど。 >>857
ただ、すごい急に変更してて、
会場の参加者がざわついてたのはあった。
本当のところ、別の理由があるんじゃないかというような空気漂ってたよ。 >>839>>842
で、結局、
貴方は、事実確認できてるの?できてないの? >>828 >>858
説明にもし納得ができなければ、その場にいた人は戸惑いますよね。
サンガジャパン別冊1を持っている人は、そこに載っているプロフィールと、最近や今後のプロフィールを見比べることができると思います。公刊された本の中ではあれが一番詳しいかと思いますね。サンガジャパンも全てを読んではいませんが。 >>856
パーリ語名の後ろに「禅師」と付ける名乗り方(呼び方?)もあるんですね。正式なものかどうかは知りませんが、他のかたはだいたい、○○長老か○○比丘という形だと思うので。
漢字で書いた名前の後ろに禅師と付ける方は沢山おられるでしょうけれど。 禅師の言うことを法に照らして納得していた人はあまり動揺はないだろうが
禅師「を」信じてついてってた人は納得できないだろうなあ
後者だと今まで費やした時間が全部サンクコストになっちゃうもの
これほど自灯明法灯明という言葉が重いとは 罵詈雑言が書き込まれることもなく、
炎上もなく、まるで御葬式のような静けさが漂うような感じは、
さすがに禅師という感じはする。
表面だけみてやれれば、完璧な先生でいてくれるだろうから、事実がどうだろうが、会場にいけば幸せな修行?ができるのかもしれない気がしてきた。 Acariyaというのは必ずしも比丘を意味するわけではないみたいですね。これを見ると。→ https://dhammawiki.com/index.php?title=Acariya
Wikipediaではその言葉を名前に含めていますけれど、それは僧侶の名乗りとして普通のことなんでしょうか?上座部では。
比丘戒を受けたなら、名乗りにbhikkuというのが含まれていてもいいと思うのですが、そちらは含まれていないんですね、Wikipediaでは。Wikipediaが正確かどうかはともかく。 在家の人々のセックスについて、仏教では特に何もいっていませ。
よこしまな行為はするなといっているだけです。仏教で性行為をどう見ているかといえば、子孫を作る行為なのです。
愉しむための行為ではないのです。性行為が楽しみであるのは、DNAの働きです。
子孫を作り育てるというのは大変な苦労なのです。ですから何の楽しみもないと、作らないおそれがありますね。
それでちょっとした「あめ玉」を与えたわけです。しかし、もらうあめ玉よりは、その後すべき仕事の方が何十倦も大きいのです。
夫婦が一生仲良くして、子供が独立するまでがんばるということは大変なことなのです。そこまで親には責任があります。
そんなわけで、仏教ではフリーセックスは禁じられています。法的にきちんとした自分の相手でなければ性行為はしてはいけないことになっています。
そこで夫婦が仲良くして、子供をちゃんと育てることは、仏教では一つの善行為だといっています。
ただし冥想中は、セクシュアルなことは邪魔になるんですね。
瞑想とはものにとらわれない別世界を作るものであり、セックスというのはものすごく相手にとらわれる行為です。
そのときには徹底的に外の世界に支配されてしまうのです。ですから出家者には男女関係は禁じられています。 ものにとらわれない自分の心を守るために、行動としての、男女関係が禁じられているというわけではありません。
行動として男女関係を持たないことはそれほど難しいことではありません。大事なのは行動よりも心の状態です。
相手と関係を持たなくても、欲のあるまま戒律を一生懸命守ろうとするあまり、女性の姿が目に入っただけでもかえって心が汚れ、
どんどんコントロールできなくなって精神的な病気になってしまう恐れもあるのです。
だいたいやるなといったら余計やりたくなってしまうのが「心」というものです。
そのように当然起こってくるであろう精神的な問題も、仏教では計算済みです。
たとえば男性の出家者が女性の信者に説法を頼まれても、密室では決して話してはならない、
もう一人、大人の男性がいなければならないといったさまざまな戒律が厳しく定められています。
女性に触れたら毒蛇に触れたように感じなさい、女性の声を心地よいと聞くのではなく災いの元だと
思って聞きなさいなどの話もあります。
一瞬ぎょっとするようなこれらの教えも女性を馬鹿する観点で作られたきまりではなくすべて、
心を守り、修行の成功を目指すためなのです。
女性の出家者についても、性に関しては男性の出家者と同じように厳しい戒律が定められています。 とにかく事実が知りたいw
貶すとか中傷するとかじゃなくて、
自身の思い込みを解消して、見解を正し、現実に向かい合うために。 >>865
その辺はよくは分からないが、マハーカルナー禅師に限っていえば、法友会の瞑想会では禅師か先生のどちらかでしか呼ばれてなかったと思う。
自分も最初は違和感あったが、瞑想の先生ということでそうしているかなと。 暗黙の前提として、比丘として振る舞っていたし、みんなもそういう風に認識していたでしょう。
だからこそお布施も奉仕も、比丘に対する時の作法を持って行っていたわけだし、受ける方もそういう風に振る舞っていたはずです。 比丘だと思ってスタッフは仕えていた。
しかし、そうではなくて、プライベートは自由な感じだった。
ちょっと自由過ぎて、実際は許容の限度を超えていたが、
最近まで明るみにでておらず、明るみにでると、それは法友会の活動をすみやかに停止することを決断させるレベルだった。
事実がどうかは分からないが、表面的に見えている事態としてはこういう感じかな。 >>869
呼び方は、呼びかける人の判断で色々な呼び方がありえると思うんですが、正式な名前となると、
1つだけに決まるのではないかと思うんですよね(詳しくは知らないのですが)。
その正式な比丘名が、もしもどこにも公開されてないとなると、それはそれで不思議です。 事実は不明なものの、あくまで男女関係の問題が今回の原因なら、
女性はあまり近づくべきじゃなくて、男は別に平気ということか。比丘であることさえ期待しなければ。 とはいえ、好みの問題もあるだろうから、
厳密には若めの好みのタイプの女性は近づくなというところかなw 日曜瞑想会には何度かお邪魔していた者です。
今回の件に関して、法友会からメールも貰ってます。
内容は他言無用とのことで明かせませんが。
法友会のスタッフの方々は、修行歴もあり、人格も立派な方々です。
スタッフの方々のご尽力により、瞑想会は毎回滞りなく開催されていた事を知っています。
今回の騒動は情報が余りにも少ないため私も正直混乱しています。
だからこそこういった所で情報を得ようとしているのですが。
しかし、改めて思うのはこういった時にこそ普段の行いが試されるという事ではないでしょうか。
無用な誹謗中傷は控え、憶測で妄想を回転させることなく、続報を待ちたいと思います。
皆様に心の平安がありますよう。 思うに、
比丘だと思っていたのに違った、
比丘じゃないのに布施などを受けるとことに
納得がいかないということがあるなら、
ちゃんと法友会のページに、スタッフとしての考えとして書いたほうがいいんじゃなかろうか。
今の状態だと、なぜスタッフが皆投げ出してしまったのか、
説明として不十分に感じる。
参加者は、スタッフを信頼して通っていただろうから、
もっと言葉があってもいいんじゃなかろうかと。
また、禅師へのメッセージが込められた行為だったら尚更、ちゃんと伝えた方がいいんじゃないかな。
長年の信頼を裏切ったという事実がもしあるなら、全部コンテンツ消した気持ちも分からなく無い。 Twitterみると、いま、修行者名簿をみて、
一件一件メールを送られてると書いてる。
一方的に消してしまったなら、その意図が伝わってなかったとしてら、
スタッフも辛いかもしれないけど、それはお互いに辛いことになってるんじゃないかって。
みんな幸せになって欲しいから、
ちゃんと、伝えて、伝わって欲しいように思う。 お釈迦さまなら どのような対応をしたのだろうか?…マハーカルナー禅師の現在のツイッターを見る限り やたらと言葉が多いような気がしてならない…(完全に被害者で管理責任などはどのように感じているのでしょう)
スタッフの書き込みとご本人の書き込みがあり違和感を覚える。 言葉少ないよりも、多い方がいいと俺は思うよ。言葉すくなかったら何にも分からないから。
少なくとも、禅師に、
修行者を育てる熱意は感じてたし、
今のTwitterみても、その熱意は伝わる。
でも、たぶん今回の一件が何によるものなのか
分からないから、混乱してる部分もあるんじゃないかと思う。
今まで為していない悪を為さない。
既に為した悪行為を繰り返さない。
今までに為していない善を行う。
既に為した善を増大させる。
うろ覚えであれだけどw
今回の一件について、どういう風に対処されるべきかを冷静に考えて、
そうなるように仕向けてくれると有り難いなと思う。 しかし「新しい次元の修行があなた達を待っています」って殺し文句だなw
ものすごく相手を理解していて、どう言えば食いつくかを熟知している感が否めないw オレ修行者登録してたからスタッフからのメールの内容は知ってるけど
被害女性のすでに苦しい状況を考えて、情報源の特定を避けるためにあえて淫・盗・殺・妄どれとも定まらないようにするような事が書かれてた
まあそれは分かる
でもこの場でスタッフらしき人物が淫だって言ってしまったら、もう全部の情報を公開して対決するしか道は無くなるんじゃないか?
そんな事できるのか?
被害女性の立場に寄り添うなら下手なことは言えないはず
だからここにいるスタッフらしき人も、本物のスタッフじゃなくて、一修行者が義憤で先走って余計な事まで言っている可能性を捨てられない 事実確認が先。
判断は後。
あれこれ考えているのはぜんぶ推測=妄想。 ではクーデター説もありということだな。
スタッフが結託しての完全な自作自演。
ま、その方が正直言うとありがたいよw 被害女性、事実なら警察行けよと。
マハーカルナー禅師には本当に迷惑な話だったw >>885
まあそれは強者の論理だけどな
普通行けないだろ
普通に考えたら合意の状況なわけだから行き損だ >>882
責任ある立場なら、2chで真偽不明の「戒律違反疑惑の内幕」のようなものを公言するだけで済むはずがないですよね。会の参加者に向けてやるべきことがあるでしょうから。 >>877
比丘でない人が「布施」を受けるのが戒律違反になるのかどうかは知らないのですが、
師がじつは比丘でないとしても、
師の教えを受ける人たちがそれを問題視せず納得して容認しているなら、
その当事者どうしでは、とりあえず問題ではないですよね。外部からの批判はありえるでしょうけど。 セクハラ狂言をスタッフが真面目に受け止めたのもあるんじゃないのかな。
本格的な上座部仏教を潰すための大乗仏教系教団の刺客だったら闇が深そうだわ。
変な憶測を広めないためにも、ダンマリ決め込んでいないで、
事実や問題をある程度明らかにしないと。
山奥にある隔離された所じゃないし、ネットが普及した情報社会の中にあるわけなので、
社会性を踏まえた対応をしないと。
これじゃあ世間知らずの子どもの集まりに思われますぞ。
特にスタッフの対応がまずいですなあ。
パーリ仏典に忠実な原理主義者の行き着く姿も感じられて、
現実にうまく対応と適応ができていない様子。
これでは世間からも不安視されていつかバッシングされるようになりますよ。
マスコミにかぎつけられたら格好の餌食になりますな。
なんだかなあと思いますね。 >>888
激しく同意w だからこそ、何がスタッフをここまでの行動に走らせたのか、きちんと説明すべきと思う。
やってないことの証明は難しいし、実際問題できないとサスペンスで言っていたwww
「やった」って言うなら、それ相応の証明、説明がないと。 そもそも、もとから本当に比丘でないとか、昔は比丘だったけど今は還俗しているとかだったら、
そういう人が、比丘が守るべきとされている戒律を破ることは「罪」なのか? という、
問題も起こってくるのでは?
道徳的な善悪とは別に、「戒律違反にあてはまる罪か?」という。 >>891
そうなんだよな。
「根拠のない誹謗中傷」とあって、
「事実無根の誹謗中傷」とはない。 裁判所に、被害者の証言と共に証拠が提出されれば、そこではじめて公表できる形式
で事実関係がまとまるでしょう。
関係者以外は、それまで待つしかないでしょう。 >>889
> 本格的な上座部仏教を潰すための大乗仏教系教団の刺客だったら闇が深そうだわ。
それは推測としては面白いけど、やるならテーラワーダ協会の方じゃね?w >>893
裁判って誰がやるの?
禅師のは、ただの脅しじゃないかと思うけど。 厳密には比丘じゃないから戒律違反では裁けない
状況から合意ありと見なされちゃうから裁判にもできない
これは…自分がスタッフだったら悩むなあ… >>895
ああそうか
禅師の方から裁判起こしてもらえば解決なのかw 師の人柄を慕ってきた人には瑣末なことかもしれないですが、
パオメソッド修了という師のプロフィール(サンガジャパン別冊1の361頁にそう書いてあって、mk4u.infoのかつてのコンテツにもそう書いてあったと思う)について気になることは、
もしもパオメソッドの修了のためには比丘になっていなければいけないという制度だった場合には、
比丘でない人が「修了」することは論理的にはありえないということになりますから、
師が比丘であるかないかという問題は、そこのところに関わってきます。
修了したあとで還俗したのならともかく。
パオメソッドの修了のためには比丘にならなければいけないのか。
比丘であると認められていた人の名簿がミャンマーのパオ僧院にあるなら、そこに師は載っているのか。
載っているなら、師が比丘になったタイミングと「修了」のタイミングはどちらが先か。
修了者の名簿がミャンマーのパオ僧院にあるのかどうか。あるなら、師はそこに載っているか。
こういったことは、ミャンマーのパオ僧院の事務局に問い合わせれば、記録に照らして明確に分かるでしょうから、
「非公開の場で誰それに○○をした」といったような、記録の残りにくいタイプの事案よりはずっと調べやすいと思います。
公開の場での師の人柄だけでなく、パオメソッド修了という師のプロフィールも重視して指導者選びをしてきた方は、
こちらのほうは気にならないでしょうか。 >>898
よく分からないけど、禅師の知識や瞑想の指導力は疑う余地もなく素晴らしいと感じた。パオどうのとか、比丘かどうかどか、正直どうでもいい感じがしたよw どうしてもすっきりした解決が今すぐ欲しくなっちゃうね
それが自分の弱さだとわかっていても 状況を双方からみると、
禅師にすれば、どこかに首謀者がいて、首謀者から派遣?された誰かにスタッフはそそのかされたと思っている。
首謀者を確認したいけれど、それにはスタッフに、「第三者」が誰なのかを確認し、その人々をそそのかした人を特定せねばならない。
スタッフにすれば、第三者は庇うべき人間であるので伝えられない。
更に、スタッフ以外の人間には箝口令を敷くよう「第三者」は仕向け(首謀者の言うままにやった)、首謀者は情報が全く出ないようにした。
誰かが描いたシナリオなら、本当によく描けているw まあ陰謀論だからそれ考えるの最後だけどw
どちらも悪くなかった!という解決を求めたい気持ちはわかる これだけ情報がないと何も考えようがないが、
スタッフは、誰から話があったかを特定せずに、ホームページにあるようにボカした形で禅師に確認すれば良かったのに、なぜそれをしなかったのだろう、というのが最後の疑問かなw
それを行っていれば、ただの第三者からの伝聞にはならなかったのに。 >>899
人柄に惹かれるというのは分かります。
この師のことに限らず一般論として。
ただ、もしもですが、パオメソッド修了という公表されたプロフィールに嘘があった場合には、
宗教者としての経歴に嘘があることになり、
それは、戒律違反かどうかという問題とはまた別に、
人としての信用問題になりうるものでしょう。
要するに、喋っていることを信用してよいのかどうかという、
問題がつきまとうことになる。 >>906
どうなんだろう、俺はそこまでの疑いはないなw
禅師の話は、ガチの仏教で、スマナサーラ長老の話に似た感じだったもので。 個人的には計算高い目つき。演技くさいしゃべり方などで人としては信用に足らぬと判断した。 >>907
会で師に直接お会いになっている参加者が、師の人柄や指導者としての振る舞いをみたうえで信用するのは尤もだと思います。 禅師の話を聞いていて眠くなった。抑揚がない機械的な口調で
心が入ってない言葉だからか。
話してることはまともだけど、それだったら自分で経典読んだほうがいいかなと思いました。
セクハラされたなら、ダライラマ法王事務所に訴えると、事実関係を調べたうえで
「クロ」なら法王事務所のサイトで「要注意人物」として公開されます。 >>908
たしか、何かの経典の中で、話をするときは始めも中程も終わりもよく、ゆっくりと語るようにといった話があるので、それを忠実に行った結果、演技に映るのかもしれないw 初期仏教を学びたいが、信頼できる師を教えてください(^^) 会に出ているとスタッフの方々と直に話すし誠実さとダンマを追求する熱意も知ってるからね
あの人達が一人残らず結託してでっち上げで禅師をハメるとは考えられないな
会に行ったこと無い人から見ると禅師の言葉しか響かないんだろうけど >>913
本当にそうなのですか?
少なくとスタッフが行った行動は大人げない。
世間知らず過ぎます。
企業でいえば危機管理対応がまったくできていません。
真面目であろうがなんだろうが、社会常識の欠落さを感じさせます。
この調子ではパナウェーブの白装束断やオウムのように、
独りよがりの正しさに酔いしれた仏教マニアの集いにしか思われませんよ。
ひいては、これが上座部仏教や真摯な修行者への
悪いイメージを作るあげることに加担してしまうでしょう。
言葉は悪いが学者バカと同じ。
これだけネットが発達している社会。
もっと適切な対応をしないと炎上は広がります。 まあ、今この瞬間も、mk4u.infoの管理人と会の参加者との間で、
メールのやりとりが活発になされてると思いますが、
そういうやりとりは、会の参加者を一堂に会して、
可能な範囲で「疑惑」の詳細を情報公開する、
その後の会のあり方を皆で協議して決める、
といった対応のほうが良かったのではないか
とは思いますね。
外部から見ていると。 >>914
対応の良い悪いと、つまり能力の話と
どちらが真実を語っているかは別です
私が言っているのは、スタッフ個人個人は誠実な方であるということと、
あの全員が結託してでっち上げの相談をするシーンが想像できないという事ですよ
繰り返しますが、社会的能力の有無と真偽は別です >>916
>社会的能力の有無と真偽は別です
それはその通りです。 >>915
活動停止の連絡後、少なくとも俺にはそういうやりとりはない。
会場で知り合った人にメールしてみたが、返答もなしw
何なんだとしか言いようがないwww
Twitterみても、様子見な感じばかりだが。 袈裟を着た状態で嘘をつく人がいた場合、
証拠と証言を公開できる形式に整える前に、公の場で話すと
袈裟の権威で無批判に信じてしまう人が一定数出てしまうので、
それは被害者にとっても、その支援者にとっても不利でしょう。
「クーデターの首謀者」、「謗法の悪」としてラベリングされてしまいますし、
そういう信頼をくじかれた状態で業務なり、連絡なりをしなければならなくなる。
苦渋の決断ではあったと思います。 サンガというのがコを重んじる組織なら、
今回の活動停止決定がどんな合議を経ているのか(いないのか)といったことは、
関係者なら気になるんじゃないでしょうか。 一度でも比丘が参集してパーティモッカを行っているところを見たり、聞いたりしたことがありますか。
ないはずです。 >>921
「法友会」自体はサンガと呼べるものではないのですか? 在家の集団は、サンガに該当するのでしょうか。
在家の集団が無価値と言っているわけではありません。 >>925
律に定められた厳格な定義に照らして、法友会がサンガにあたるかどうかは、私はわかりません。
律の規定を厳格にあてはめず、広義に「仏教を学ぶ者の集団」といった意味でサンガと呼ぶことは可能では?
ただ、その場合は、合議制がゆきとどいていなくても律違反とはならないのかもしれませんね。 今の状態だと、少なくともスタッフの行動が幼稚すぎて、信じるには値しないと感じてしまう。これじゃぁ夜逃げも同然。
かといって、モヤモヤしたまま、禅師の新しい会に行くのも心が晴れない。
なにせ初日から当初予定されていた御布施のイベントだからなw >>916
> 繰り返しますが、社会的能力の有無と真偽は別です
そういう反応が独りよがりということ。
たぶんあなたに言っても通じないでしょう。
なぜならあなたも経典の文言や教えにとらわれているからです。 >>919
袈裟を着て嘘をつく、ということの重さが分かります。 説明聞くなら初日だろうが、そこに行けるほど心が固まらないw 話を聞くなら、双方から聞くのが理性的かつ公平な態度というものではないかと思います。 >>931
そのとおりです。正当な理由がないのに質問に答えない、といったことを続ける側こそが怪しまれてしまうでしょう。一般的には。 スタッフが既に逃げているというか、きちんと説明に出てこない時点で、相当怪しいとみることも出来るなw
禅師はメールで質問を受け付けてる。 お釈迦さまの法輪をまわせるのは自分(たち)だけで、他の長老、他の流派、他の部派は
すべて下っ端の雑魚だ、というような態度に強い我執を感じます。 >>928
いやいやいやw
経典の話とか全然してないじゃないですか
どうしちゃったんですか急に
能力と真偽は別って普通に理解できる話ですよね? >>935
そんな印象、俺はないな。
どちらかというと、それってスマナサーラ長老の方に当てはまりがいい気がするよw 正法に出会えた喜びがある時、その反動で、自覚的にせよ、無自覚的にせよ
他の流派や部派がかすんで見える経験は、多くの方がされていると思います。
誰しもが通る道なのでしょうが、それは正法が悪いのではなくて、正法に対峙する
人間の側の未熟さが問題なのだと思います。 たとえ正法に出会ったとしても、宗教と人間にまつわる問題がなくなったわけではないということでしょう。 一応初日に説明聞きに行くかと漠然と思ってたけど
独りよがりだとか経典の教えに捕らわれてるとか
ドン引きだわ
こんな団体だったか、ここ >>940
いや、端からみてて、話が噛み合ってないから
ちょっと違った人達が合流してきたのかもしれないw 日蓮系は、いまが末法という立場だから
正法があることが前提の話はでてこないでしょう。 思考パターンがそっち系だと思うよ、印象だけど。
フレームワークがあって、とにかくそれに文字通り当てはめてる感じ。
なんか昔、日蓮系の新興宗教に勧誘されたとき、まさにこんな感じだったwww 自力と他力は、完全に突き抜けると、どのみち同じところに出るので
実は両方とも正しい。 智慧がない人には自力の道は無理だろうけれども、
智慧のない人は信で突き抜けると、いずれ智慧に達する。
と思う。 修行を完成し、悟りを開いた聖者に明確に見える特色は、徹底的に落ち着いていることです。
悟りというのは、悟った人にしかわからないものですが、「この方は完全に落ち着いているのだ」ということだけは誰にでもよく理解できます。
あわただしい世の中で、常にあらゆる問題の網に引っかかる生活のなかで、よくもそんなに落ち着いていられるものだと不思議に思うほど落ち着いています。
聖者はどういう心をもって生きておられるのでしょうか。
心の中にはポジティブな欲のエネルギーも、ネガティブな怒りのエネルギーも消えています。心に欲があるといろいろなことをしたがります。
すべてを手に入れたくなります。怒りがあるとき、いやなものすべてを壊したり否定したくなります。両者ともよく動きますが、心の気付きは
まったくありません。ただ感情に酔ってしまって、何かをいい加減に無責任にやっているだけです。
聖者はすべてを「今の瞬間」にしぼります。ものを客観的にありのまま見ますが、欲や怒りの感情では見ません。心に妄想がないから、
ものはしっかり見られます。したがって、しっかりと自信をもって行動できます。
今の瞬間にやらねばならないことだけ確実に完全に行いますが、それを過去の妄想に邪魔されて混乱することはありません。
未来に対する希望という妄想にも行動を侵されることがありません。
普通の人は目的があって行動しますから、今の瞬間の行動はこれからの目的達成のための準備のようなものと感じますから、
集中力は今やっていることではなくまだ実現していない将来の目的に向かっています。
死ぬまで将来のために準備するのであって、明るく今を生きているのだという実感を体験することはできません。
その人には今の瞬間にやっていることはそれほど大事ではありません。結果的には人生は中途半端なものになっています。
それが苦しみを生み出す原因です。将来実現するべき目的がありますから落ち着くことは不可能です。
聖者の心には「生きる目的」という苦しみの原因はないのです。 やっぱ少なくとも禅師のところで学んでないよな。
情報も出てこないし、
ここは瞑想してkusalaにして初日どうするか考えるかなw 今の瞬間だけを充実させ至福感を感じ、完全に生きているということができないのは心の問題です。欲と怒りの感情が生まれるのは「私が」というエゴがあるからです。
それは巨大な妄想です。エゴイストは行勤する前も行動するときも、何でも比べてみます。いいか悪いか、損か得か、みんなやっているかいないか、褒められるかけなされるかなど、
きりがなくなります。
心のこの働きを仏教では mâna(慢)といいます。エゴを捨てれば mâna は消えます。それは何が悪いのかと思うかもしれませんが、人間の苦しみの原因を究明すると
すべてが mâna に基づいていることを発見できます。社会や人が気になる、自信がなくなる、自信過剰になる、今まで(過去)の生き方を悩む、将来が気になるなどのすべてが、
何かと、自分というエゴを比べることから現われる現象です。
聖者は真理を体験しているので、エゴという妄想概念は消えています。心は自由で、活発です。
悩むことは何もない。徹底的に落ち着いています。我々と同じく社会に生きていますから、
病気になることや親しい人に死なれること、天災に遭うこと、他人から誹誇中傷されることはありますが、
エゴがないのですから、そのようなことで悩むことはまったくありません。
大地のように、山のように落ち着いています。心が濁っておらず、巨大な湖のようです。
身口意の行為はとてつもなく落ち着いて平安で美しいものです。
どんな状況のなかでも、聖者が生きている姿を見ると、それに惹かれない者はありません。
どんなに混乱している人も、聖者を見るだけで落ちつきます。
この混乱の社会に必要なのは、ひとりでも、真理に目覚めた人の存在です。
一般の人が聖者を発見する方法は、いるだけで周りの人々を落ちつかせるほどの落ちつきの威力です。
“村にせよ、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい” どういったら良いのか。
パーリ三蔵の (C) が、まるで特定の個人に帰属しているかのように思っていませんか。
もともと誰が説いたものでしたか。 >>949
はじめまして、失礼ですがスマナサーラ長老様でしょうか? >>898
サンガジャパンvol.20の142頁によると、1997年にスリランカの大長老ピヤッダシ師から比丘戒を受けたとありますね。
その僧籍が今も残っているか(有効かどうか)、
調べる方法が無いではないと思います。 冷静に考えて、
自分のスキャンダルがもし事実なら、詳しく語ることなく、サッと流して、明るい未来を強調し、場にいる人を誉め、気分を高揚させることに注力するのではないかと思う。
初日に参加して、どのくらいの時間、スキャンダルの問題の話に時間を割くかで、真偽のほどは意外と分かってしまうかもしれない。 更に言えば、
Twitterで「古いHP」から「おどろおどろしいバイブレーションを感じる」などと、感覚的なコメントで近寄ることを止めているが、
もし内容が事実と異なるならば、
「事実と異なるから見なくてよい」と言えばいいだけの話。
あの歯切れのよい、無駄のない禅師らしくないコメントと言わざるを得ない。
もしこのまま事実を明確に否定するコメントを出さないならば、クロである可能性が濃厚とみる。あくまで俺の結論だがw >>953
はい、まあ何か読んだもので不快になるのは、ある意味自分の責任ですから、それはいいですよ
でもあなたちょっと怖いですよ、心配
普段の自分を思い返してみて、他人が自分と違う推測を述べたからって…自分らしくないなって感じたりしませんか?
失礼ながら、心の中でいろんなものがごっちゃになって怒りのぶつけ先を探してる感あります
冷静にね >>954
たぶん 禅師もしくは スタッフがこの投稿を読んでますから 戦略たてているのではないでしょうか…どちらが真実だとしてもね >>957
そうですね。しっかりと説明を聞きたいところです。
もしご覧になっていらっしゃるならば、
もう一点、不思議な点があって、この背景を考えると一つのストーリーが見えてしまうので、
是非、説明をお願いしたいw
新しい会を立ち上げる前に、
なぜスタッフとの間での対話をもって
疑いを晴らそうとなされなかったのか。
お願いします。 一つのというよりも、複数のストーリーが見えるのだが、
どれも余りよくなくてw
ちゃんとした説明が欲しい。 運営スタッフは複数筋から被害相談を受けていて、証拠も揃っているのに
当のご本人は嘘を貫き通す決意が固く、その姿勢を一切崩さない。
嘘の付き方にも特徴があって、事実を切り貼りするかたちの嘘が多い。
発言のひと言ひと言は事実だが、全体としては嘘の印象を与えるという
印象操作を多用します。
しかも、被害女性とは個人的な人間関係があるため、公の場から離れた
ところで女性に対して口止めを計ります。。
そういう状況ですから、話し合いにはならないでしょう。 ダライラマ法王事務所に連絡すれば、事実確認が取れれば「要注意人物」として
インターネットで世界中に知れわたっちゃいますよ。
過去に日本人の老師や、チベットのリンポチェが上がってました。
仏教指導者の女性に対する性的破戒には断固とした姿勢をとられていますね。 女性への口止め工作が一番警戒されるべきポイントと思われます。 >>960
その「嘘の付き方」についてよくは知らないが、
宝経には以下のようにある。
四諦を如実に観ぜし仙人(預流果)は、
……(途中略)
身、口、意にて悪を犯すことになりとても、
彼はそれを隠蔽すること能わず。
知見に達した者は隠蔽すること能わずと言わるるなり。
此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。
此の真実により、幸いあらんことを。
俺は、禅師の話からみて、預流果以上はいってるんじゃないかと思ってる。
「隠蔽すること能わず」、明確な嘘は付けないんじゃないかと推察する。 >>960
そういう大事なことこそHPに掲載すべきですよ。 法友会のスタッフの方々は、皆さま誠実に、一所懸命にダンマの修行をなさる方々で、禅師を心から信じてサポートしてきたことと思います。
今回の件ですが、スタッフの方々はダンマに従い最善の判断をなさったことでしょう。詳細な説明の不足に皆さまの疑問、不満が生まれることも承知のはずです。
しかしそれすらやむ負えない。要するに、それだけの想像を絶する大問題があったということです。公表できる事実が揃うまで、私たち部外者は見守るのみです。
私たちの知りたいという欲求が、誰かを傷つけることになるかも知れない。それだけは知っておいて下さい。スタッフの一部の方も勝手に情報を流さないようお願いします。 預流果だというなら預流果でも構わないのですが、被害の訴えに関しては
証拠と事実に基づいて、是々非々の対応がなされるべきでしょう。 >>960
とはいえ、その「証拠」をみていないから
話が本当かどうかは保留だが。
やはり、そんなことをする人物とはみえないものでw >>966
×やむ負えない
⚪やむを得ない
×スタッフの一部の方
⚪スタッフ以外の一部の方 >>969
スタッフが騙された可能性もあるのだから、
スタッフのことを全面肯定して述べるのもどうかと思うよ。
一切、証拠をみていないのだからw 最後の肝心な部分を間違えました…。
スタッフ以外の修行者の方、法友会HP以上の情報を流さない方が良いと思いますよ。ご考慮のほどお願いいたします。 スタッフが狂言に振り回された可能性もあるね。
あとスタッフも被害女性も結託した一味で、
オウム残党やアーレフの工作員という路線はないのかなw
尊師のお株を禅師に持っていかられると困るので、
禅師をハメて陥らせたというストーリーなら別の意味で不気味ですな。
ま、いずれにしてもきちんと説明してくださいね。 >要するに、それだけの想像を絶する大問題があったということです。
分かりました。 一応真面目な修行者なのでw
さっさとニッバーナ入り致したく。
このようなザワザワが起こらないことを願っています。 法友会の全員が加入しているメーリングリストがあって、メンバーなら誰でもがそこにメールを送信できるという状態にはなっていなかったことが伺われますね。ここを読んでいると。
メーリングリストがないからいけないと言いたいわけではないですが。 >>973
あくまで推測です。
誤解を招く言い方をして申し訳ありません。 で、>>828は、
自分も事実確認できていないのに判断してる同じ穴の狢だったてことね。
ID:v/7Hl+Sh = ID:iLVYt0Aj っぽいけど。
で、>>961さんは、証拠に基づいて判断して、ここに書き込んでいる、とw 事実確認が先であるという指摘が主なメッセージです。
しかし、事実確認そのものは公の場で行うものであって、匿名掲示板にそれを求めるのはナンセンスというものでしょう。 師匠が悟っているかどうかは誰でも気になる問題です。
先ず、第三者に識別出来ないと思います。
思考パターンと判断基準が一般の人と違いますが、普通の生活では第三者にまったく気がつかないように生活するのです。
知りたがる方がもし仏教をかなり詳しく勉強して理解しているならば、なんとなく推測だけ出来る可能性があります。
しかしその場合でも厳密な判断能力をもっていないと、鋭い人でないと誤解で終わります。
仏教について感動ばかりする人であるならばまた無理です。反発意識をもっている人にもできないのです。
悟り、解脱とは自我意識=(私がいると言う自覚)は現象であると経験することです。
解脱した人にとっては「私が悟りました」と言うことさえも成り立たないのです。 ですから悟りを開いてない、一般の方には自分の心の状態を言いません。同じレベルの人々は互いによく知っています。
一般のレベルで知り得る方法は比較してみることです。そのとき「煩悩」の概念を使用します。
煩悩のことは悟らなくても皆にあることだから理解できるでしょう。貪り、怒り、嫉妬、憎しみ、悩み、
愚かさなどがあるかないかは調べれば良いのです。 そのときでも貪りだ、怒りだ、と誤解してしまうこともよくあります。
例えば叱ったとしましょう。怒りで叱るのは普通のことです。悟った人も相手が叱らないと
真剣に励まない性格であるならば「叱る」しか方法がなくなるのです。ですから、「人を叱った。怒りがある」と決めたら間違いになります。
ただ単に他人のことを一々知りたがる性格の人が自分を調べていると分かったら(そのようなことは悟りの人に簡単にばれます。)
そんな場合は煩悩がないことを気付かれないようにするのです。
本当のことを言うと、悟りを開いてこころを平安にした方は「私が悟ったと」自分の立場を認めて欲しくて馬鹿なことを言わないが、
論理的に具体的にこころの状態を堂々と他人に説法をすることによって(悟っているか)判断できるのです。ですが、第三者が全く気がつかないのです。
そもそも悟りや解脱は第三者に関係のない話です。 苦をなくすために真剣に修行する人のみが、それを気にするのです。
しかし、その人に本当に必要なことは誰が悟っているかいないかではなく、正しい修行方法です。 サダーパリブータ菩薩を、ご存知でしょうか。
自身はどんなに軽んじられ、蔑まれても、決して他の人を、他の生命を、軽んじなかった菩薩です。
もし、禅師が、ダンマに熱過ぎる今まで通り潔白な方であるとしたら、もちろん尊敬しますが、もし、そうでなければ。そうでなかったとしても、決して軽んじてはならないのです。
なぜならば、自分の中にすべてがあり、その自分の中にある禅師のイメージを、蔑むだけに他ならないからです。世界は自分自身です。
人もない、動物もない、空っぽがみえるでしょうか。
人生など最初からなかったのだという真実に対する気付きが、ありますれば。
何も起こっていないのです。
これこそが、欲と怒りを離れ、善からも離れる出世間の中道です。
この人を、バッデーカラッタの人といいます。常不軽、サダーパリブータの人でもよいです。
真夏の日に、板橋区まで、アビダンマ講座に通った日々が懐かしい。
主人公
顔晴ろふ あ
でも
四悪手だとかわしにはよーわからん。
原始仏教戦士でないのでねわしわ。
そんなものないでしょう。
白隠禅師坐禅和讃にも、悪趣いずこにありぬべき、寂滅現前する故に、となとな。
ばかじゃないの?
妄想の世界は。
これだから仏教徒嫌い。
ブッダダンマサンガに至る道の山は、ブッダダンマサンガである。
ブッダダンマサンガが心から抜け落ちれば、本当の仏教に出会う。。
もー知らん。
まあーがんばってくれ。みんな。誇りもて。 お釈迦様が、いる。
いや、いた。
それだけでしょう。
お腹いっぱいです たとえ各々の部派が方便に過ぎないとしても、
やっぱり、他人が乗ってる乗り物を壊しちゃまずいのではないか。 事実確認できるようになるのを待つのはいいんだけど、出来るようになるのかね?
オレは無理だと思ってるんだけど
だって被害女性にとってそう言う事実を公開したり対決するのは大変なハードルでしょ
普通に考えて絶対無理というか、もし公にするとしたら、大変な勇気だよ >>986
もっと根本的なことをいえば、「被害者」が「女性」であることの「証拠」もまだ公表されていないはずですよね。
「被害者が公表をためらうような被害である」かどうかすら、今は明白ではないでしょう。なぜなら、mk4u.infoにはその通りに書いてあるわけではないのですから。 まあオレはもう事実確認するまでもなくて
禅師から案内が来てマハーカルナー傳修院のHPを読んだ時に
すーっと正解が見えたっていうか、気持ちは決まっちゃったので、どうでもいいんですが。
でも修行者登録してた皆さん本当にショック受けてますかね?平気なんじゃないの?
オレ全然無いというか、「あー、アビダンマの話を聞けるとこ無くなっちゃったなあ」くらいで、
正直、行きつけのレストランが1軒潰れてまたしばらく自炊(自灯明)か、くらいの感じでしかないですよ。 >>987
>もっと根本的なことをいえば、「被害者」が「女性」であることの「証拠」もまだ公表されていないはずですよね。
あー、そっか。そうですね。
ごめんなさい。瞑想会常連メンバーだけに来てるメールの内容で分かる話でした。 https://twitter.com/Mahakaruna00/status/926806086497198080
「自分は被害者です」と名乗りうる人物が本当にいるなら、このツイートのような言い方はとても支持できませんね。
これでは「『加害者』が『被害者』を祝福する」という意味になってしまうから。
「祝福されて再度迎え入れられるべき人」としてしか認めない、つまり「被害者性は認めない」と言っているのと同じことではないですか、これは。
仏教徒であるからといって、ある出来事の意味づけを「仏教的な意味づけ」だけに絞る必要はないと思いますよ。
このTwitterアカウントが師ご本人かどうかという問題はありますが。 >>989
そうですか。
>瞑想会常連メンバーだけに来てるメールの内容で分かる話
「そういうメールが本当に来ている」ということの「証拠」も確認しがたいのが、こういう匿名掲示板の危ういところですね(989さんを批判しているわけではありません)。 宗教体験 学ぶ→ 宗教体験と続けていたことが問題なのかもねえ。 >>992
そうですよね。
私もこの場でメールの情報を公開することが不適切であることは分かってたんですが、
ちょい前まですっかり前提になって話が進んでたので。
本当に不用意でした。だからごめんなさいです。 以前には悪い行ないをした人でも、
のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。
ーー雲を離れた月のように。
(真理のことば 第13章「世の中」より)
みずから悪をなすならば、みずから汚れ、
みずから悪をならないならば、みずから浄まる。
浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。
人は他人を浄めることができない。
(真理のことば 断言12章「自己」より)
考え方はみな違うと思うけど、
俺は少なくとも「師」として受け入れる以上、仏教者としての姿勢は求めたいと思ってる。
ただダンマを学ぶだけか、瞑想を学ぶだけならどうでもいいが、
俺の中では、仏教の教えに沿うことが「主」で、生活は「従」なイメージなので(あくまでイメージねw)
指導者に、「自己を正してから他人を正す」ことは求めてしまうかな。 誤字が二カ所あったので訂正。すみませぬ。
みずから悪をなすならば、みずから汚れ、
みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。
浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。
人は他人を浄めることができない。
(真理のことば 第12章「自己」より) HPの他者批判の一方的な書き込み。
善からぬ波動が伝わりました。
禅師のアルカイックスマイルの裏には攻撃的な面もあるようですね。 >>995
>指導者に、「自己を正してから他人を正す」ことは求めてしまうかな。
ですよね
オレもあの傳修院のHP読んで正解が一つに絞られた瞬間にすっと冷めましたからね このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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