■君も納得・マリヤ崇敬の間違い■
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馮玉祥が北西軍閥の頃に人づてに聞いた話から。
(よく調べないと記憶間違いでデマになっています)
チベットとモンゴル族の問題話。
ラマ教の伝播は性病による民族絶滅政策に見える事。
チベットのポタラ宮での性病蔓延はタントラ思想(男女の性愛)の実践が原因。
ラマ僧は9歳ぐらいの尼すら昼から欲情して犯し性病をうつしていたそうである。
この尼から他のラマ僧に性病がうつり
モンゴルから来たラマ僧にうつり
モンゴルのラマ僧からモンゴルの女性に感染し
モンゴル男性に感染したという。
この性病の蔓延から一時期モンゴル民族は2千人から9百万にまで減少したそうである。
馮玉祥の聞いた話はここで終わり。つづきがあります。 明朝の中国人は、元王朝のモンゴル人が占領地で強姦を平気でする野蛮人として酷評していた。
満州人はこの話を明王朝の歴史書から知り、酷過ぎる記述に対し改定していたそうである。
その満州人は漢人を避けて、モンゴル人と交友を深めていた。
満州(マンチュ)族の名は文殊(もんじゅ)から来ている。
建州女直(けんしゅうジュルチン)族が満州族の元の名である。
女直の名は南宋・金王朝の時の女真から来ており
金の時代は海西女真のワンヤン(完顔)・アグダによりひらかれた。
この完顔部の遊牧民に北宋の皇帝は拉致されていた時期があった。
ワンヤンが糾合した女真族の華北の金王朝は蒙古人によって滅ぼされる。
時代はかわり清王朝の時期は満州族と蒙古族は共同して
熱河地方(万里の長城の山海関から遼西までの地域)の承徳に
ポタラ宮と同じつくりの宗教宮殿を建立し
満州族と蒙古族はココで交流を深めていた。
清朝と蒙古の記事はここで終わり。 袁世凱は満州王朝(清朝)は滅ぼし
中華民国の初代大総統となった。
その後に溥儀から禅譲を受け中華帝国の皇帝になったが
袁世凱の部下達は自分達が大総統になる可能性がなくなり
第3革命に応じ帝政に反対をした為に
袁は帝位を退き、病没した。
袁世凱の後半生に当たる時期は
北洋軍閥政権の中華民国で
日本に対華21か条要求を突きつけられた時期。
対華21か条要求の中身の中心は
日本が英米側で第一次世界大戦に参戦したので
山東省のドイツ軍を降伏させ、ドイツ本国も敗戦したから
山東省のドイツ権益を、日本に譲渡させる内容であった。 その後
袁世凱が育成した西洋式軍隊は
馮国章(ひょう・こくしょう、正確には章の漢字は王ヘン)と
段祺瑞(だん・きずい)の
2大人物により袁世凱の死去後に分かれる。
馮国章は直隷派(直隷省は北京を含む今の河北省)と呼ばれ英米の借款を財源とする派閥。
段祺瑞は安徽派(段は安徽省の出身で安福倶楽部)と呼ばれ日本の借款を財源とする派閥。
馮国章の後継に呉ハイフ将軍が直隷派を受け継ぐが
呉将軍は自身を革命将軍と人に呼ばせながら
2・7惨案とよばれる労働者のデモの弾圧を起こし
現在の中国共産党から反革命分子とされている。
2大派閥は
1920年に安直戦争を起こし、段祺瑞の安徽派の軍隊が内戦で直隷派の軍に破れ
北洋軍閥の北京政府の国会議員で段祺瑞に贈賄されていた安福倶楽部が解散となる。
魯迅の生まれ育った時期の中国の話である。精神勝利法の阿Q正伝の著作で知られる。
魯迅は後の東北大学に留学していた。感情(ガンチン)が支配する時代とされる。 北洋軍閥の北京政府と国会議員団は評判の悪い政府で政権で
地方の軍閥の中には10年分の税金を一時(いっとき)に徴収したりする地域があった。
地方の軍閥は税金徴収の時に
兵に三日の自由行動を認める(放火・強姦・殺人・略奪など)と言って
脅したりもした。
その為、民団・商団は、自衛の為の武力を持った。
この頃の中国は酷(ひど)く治安の悪い時期であった。
日本側は軍閥崩れの馬賊を土匪(どひ)と呼び、共産軍を共匪(きょうひ)と呼んだ。 呉ハイフ将軍は曹コンという人物を大総統にと援助していたが
曹は賄選総統(わいせんソウトウ)と呼ばれ
賄賂で議員を買収し、北京政府の最後の中華民国大総統に選ばれた。
曹コンが大総統の時に、1924年の第二次奉直戦争になった。
直隷派の呉将軍は、馮玉祥将軍に奉天派に寝返られ、北京を攻撃され
曹は大総統を辞任し、この政治空白の時に南北会議が招集された。
この会議の時に孫文は亡くなった。革命は未だならず。と語ったという。 北京政府の中華民国大総統は袁世凱の後に
黎元洪(レイ・ゲンコウ)将軍という
辛亥革命の時に湖北の新軍の将軍が、大総統に当選した事がある。
実は黎将軍は人気のあった人物であったが清朝側に立っていた。
黎将軍は湖北の新軍の青年将校に囲まれ銃を突きつけられて
辛亥革命の代表将軍(謀反人)にされた経緯があり
大総統になった時にその権限で復讐をし青年将校達を虐殺した人物である。
袁世凱から曹コンの時までの北京政府は北洋軍閥の時期と呼ばれるが
北洋とは淮河(ホワイがわ)より北の地域を指し
北洋海軍の管轄地域を指す。
反対に広東を拠点とする南洋海軍の地域もある。
南洋海軍はベトナムを争う清仏戦争(1885年)で壊滅する。
清朝の時期には北洋大臣の席があったが、これを袁世凱が占めていて
北洋海軍は朝鮮を争う日清戦争(1894−95年)で壊滅する。 日清戦争の講和会議に前後して康有為の一派が科挙試験の時に
日本を大陸の内部におびき出し持久戦争をして日本に勝とうという
運動を起こしたが清朝には認められず、まず変法運動を進める事となった。
変法派は戊戌の政変を起こされ失敗し、ついで義和団の乱となる。
日清戦争の後、袁世凱は西洋式軍隊の育成を山東省でした。
その時に義和団の反乱が起きて、袁世凱は人体実験の弾圧をして
義和団の拳法にたよる西太后では西洋や日本に負けるので
義和団の乱の時は清朝軍を助けなかった。 広東ヤクザは三合会という名で知られ
ヤクザは麻薬取引(アヘン窟の経営)をしている。
イギリスがアヘン戦争をして麻薬売りで儲け、その上
アメリカの西部開発の苦力(クーリー)として人身売買をしていた。
日本も上海の杜月笙(ト・ゲッショウ)というヤクザの親分を介(かい)し
アヘン密売をして中国人を駄目にし日本側の軍費を稼いでいた。
日本側の麻薬密売は
興亜院という組織で行い
北京語がペラペラで上海訛りが上手(うま)かった
里見甫(さとみ・はじめ)が
杜月笙の青幇(チンバン・中国のヤクザ組織の一名称)との仲介していた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています