ナマポのナマポによるナマポのための遊び場 Part36 [無断転載禁止]©2ch.net
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荒らしてるねコピペ大魔王矛先
早くワタナベのジュースの素のコピペ貼ってよ 1お疲れ様です
刑務所 正社員 生活保護
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労働時間 8時間厳守 10時間以上 働く必要がない
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通勤手段 徒歩数分 満員電車1時間 通勤する必要がない
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朝食 食う 食えない日がある 好きなものを食える
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昼食 食う 食えない日がある 好きなものを食える
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夕食 食う 食えない日がある 好きなものを食える
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夕食後 テレビや読書など自由 仕事 自由(酒もパチンコも可)
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残業 全くない ない日がない 全くない
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残業代 残業がないから無い 残業があっても無い 残業がないから無い
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休憩 午前午後それぞれ15分 上司次第 24時間365日
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土日祝 確実に休み 働くこともある 24時間365日
------------------------------------------------------------------
年数 刑罰に応じる 会社が必要とする期間 もらい放題
------------------------------------------------------------------ 働かなかったら賞金 →生活保護
働いたら罰金 →所得税
買ったら罰金 →消費税
貰ったら罰金 →贈与税
継いだら罰金 →相続税
あげたら罰金 →贈与税
起業しても罰金 →法人税
乗ったら罰金 →自動車税・ガソリン税
入ったら罰金 →入浴税
飲んだら罰金 →酒税
吸ったら罰金 →タバコ税
持ったら罰金 →固定資産税
住んでも罰金 →住民税
若いと罰金 →年金
老けても罰金 →介護保険料
老いたら罰金 →後期高齢者
死んだら罰金 →相続税
生きたら罰金 →住民税
働いたら【負け】だよな・・・やっぱりwww
そこらじゅうに貼って生活保護を無くしましょう
他にも罰金あったら追加お願いします。 ,. - ─── - 、
/ , `ヽ.
/〃//,. ,ィl/|l ト、 !、 、 ヽ
ー'´| | l |1 | !l. l| ! | l.|ヽ ! !、 ', ここのおばちゃんたちだけ
YレV!ヒエ「! |l.「_ト!Ll」| l l l どうちてはたらかなくっていいの?
! lハイJ | ´|_jヽ. リ,! ! l. l | あたちもしょうらいこのひとたちみたいに
|l |l.} ー , L _,ハl.lトl l. | l はたらかなくっていいのかな?
|l ilト、 n '' ,1l|ィ| |l l |
_ 二,ニ^tュ--ェ_t1」l.|l !リ|_lノ
r7´ f r┐| 〔/ミヽ>,-、 ̄´
Y ー个‐'t ハ-、_'ゝ、
ヽ ._・ rく ̄ヽト-'丿 ヽ l
/ (・__,)ゝi┬'´ハ` '`|
|ヽ, イ ノ┴くヽヽ、 /
`´ ゝ┬ヘ`ヽ | `ー‐1
ゝノ-‐^ー'一''丶 ヽ ヽ
ト、_ `ーァ'¨不ヽ
| | 「 ̄「 ̄l ̄ト、,イトヒi′
l l. l l ! !└' l |
└ L 」_,|__l_l.__L.l′
| | | |
l l ! !
l l. l l
ト--┤ !--‐1
f‐t央j. ト央ァヘ
| 甘l、 / 甘 |
l ,.-‐ヽ レ'⌒ヽ/
`く.__ ノ ゝ--‐′
人は成長しているのよ
昔のおばちゃんだけ悪い見本なのょ
良い子だから昔の人のマネなんて絶対にしちゃだめなのよ
でないと、あなたまでこんなのになっちゃうのよ __ __
/ ◎ \ / ◎ \ .O―〜,
ヽニニニノ ヽニニニノ . || ●:|
|(●) (●) /(●) (●)\ ||―〜'
/ノ| (__人__) | /^):::⌒(__人__)⌒:: ヽ
/^/ .| `⌒´ | / / | `⌒´ |
( ' ̄ ヽ _/ヽ ( ' ̄\ _/
 ̄ ̄| = V // | |  ̄ ̄| = ̄ // | |
| // | | | // | |
イエッサー!僕の趣味はマスタべっす!オナニ最高ッス
http://i.imgur.com/pkAK1jJ.jpg
http://i.imgur.com/LwJFrP6.png
http://i.imgur.com/0rCDFyc.png
http://i.imgur.com/pp6Qdej.png ひじきって、もう販売やめた方がいいよなw
採集してる漁師たちも、商売変えた方がいい。
「ひじきには全く鉄分は入ってなかった」
鉄分があって体によいというのは嘘で、
実は鍋やフライパンの鉄分だった。というニュースは
2016年の衝撃事件だったと、伊集院光もとり挙げていた。
その上、ヒ素が多いとか、もう最悪じゃんかw 荒らしてるねコピペ大魔王矛先
早くワタナベのジュースの素のコピペ貼ってよ >>18
意味深過ぎて…w
>>19
うまかったよ!
おにぎりは高菜と梅しかなくて高菜にしたけど、散らばってひどい目にあった(。>д<)
ス きゅうちゃん屋形の悪口いって矛先に媚売らなくていいの? >>32
燃料くれよ、さっきまで意識すらなかったんだからさ
目の前で嫌な事あったらガンガン出てくるけど、あいつ身も削らないし きゅうちゃん屋形の悪口いって矛先に媚売らなくていいの? きゅうちゃん屋形の悪口いって矛先に媚売らなくていいの? 荒らしてるねコピペ大魔王矛先
早くワタナベのジュースの素のコピペ貼ってよ 荒らしてるねコピペ大魔王矛先
早くワタナベのジュースの素のコピペ貼ってよ 荒らしてるねコピペ大魔王矛先
早くワタナベのジュースの素のコピペ貼ってよ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 >>21
それは良かったウチの方にもあるかな探してみるかな 荒らしてるねコピペ大魔王矛先
早くワタナベのジュースの素のコピペ貼ってよ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 >>59
ホント1日に行った方がいいと思う
特盛でもいいくらい
屋形が言うようにサイドメニューはいらないと思うわ
それなら帰りにお土産買った方がいいかもw
てか、コピペ持ってこられたな 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 ここは名無しさんがせっかく立ててくれたスレなんだから埋めるなよ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ポコサキの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたポコサキのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ポコサキのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたポコサキのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このポコサキのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のポコサキのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ポコサキには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ポコサキのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた矛先製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った矛先製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、矛先製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ポコサキの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたポコサキのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ポコサキのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたポコサキのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このポコサキのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のポコサキのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ポコサキには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ポコサキのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた矛先製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った矛先製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、矛先製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ポコサキの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたポコサキのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ポコサキのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたポコサキのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このポコサキのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のポコサキのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ポコサキには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ポコサキのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた矛先製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った矛先製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、矛先製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ポコサキの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたポコサキのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ポコサキのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたポコサキのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このポコサキのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のポコサキのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ポコサキには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ポコサキのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた矛先製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った矛先製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、矛先製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ポコサキの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたポコサキのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ポコサキのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたポコサキのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このポコサキのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のポコサキのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ポコサキには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ポコサキのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた矛先製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った矛先製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、矛先製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ポコサキの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたポコサキのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ポコサキのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたポコサキのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このポコサキのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のポコサキのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ポコサキには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ポコサキのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた矛先製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った矛先製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、矛先製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 >>117
本家と改変の方が遅いからそのセットかも
ただその相方がどういう人間なのかよく分かってないんだよな 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 でもさ、今回乞食猿がスイッチ入る場面なかったんだよな 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 >>135
重量的には何発ぐらいで埋まるんだろう? 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 >>171
いつも空スレで俺が埋める時は130くらい 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 >>185
そうだね、なんかペース遅いけどさ
>>188
そそ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています