【歌唱力】水原 弘【最強】 [無断転載禁止]©2ch.net
俺の場合アースの琺瑯看板のイメージが本当に強烈だな今でも。 あの看板、田舎の方に行くといまだにあるからスゴいよね。
由美かおるや官公学生服の看板と一緒に貼られている。
子どもの頃、近所にあの看板があったんだが、それが水原弘だとはまだ知らなかったし、そのときにはすでにこの世の人ではなかった事を最近になって知った。 今も田舎の方の子どもたちはあの看板を見て、俺の子どもの時と同じく「何このオッサンw」と
思ってるんだろうなw
そしてそれが日本で最初にレコード大賞を取った水原弘という歌手だと説明できる大人さえも
もうほとんど居ないんだろうね。
40年も前に他界してるのに今も看板として田舎で生き続ける不思議な水原弘w へんな女というへんな歌唄うへんな歌手
「みずはらひろしぃ〜」クスクス( *´艸`) 水原弘は映画俳優でもあったんだよね。
水原弘の映画見てみたいな。 デイリーモーションで水原弘の歌いっぱいありますから聴いてみてください。
「黒い花びら」「黒い落ち葉」「黄昏のビギン」「君こそ我が命」など水原さん本人の曲のみならず
「白い花咲く頃」「逢わずに愛して」「マイウェイ」など
他の歌手の曲もカバーしています。素晴らしい歌唱力です。 もう本人は40年も前にこの世にいないというのに看板だけは生き残っている、
ヘンな歌手、水原弘w へんな女、久々に聞いたら、ずいぶんグレードの高いコミックソングだな。
今から50年近く前の曲だとは到底思えない。
知らない若い人に聞かせたら、まだ最近の曲だと思うだろうね。 黒い貝殻 耳に押しあて
波に聞く 夏の思い出 悲しい
嗚呼 嗚呼 嗚呼 嗚呼
嗚呼 嗚呼 嗚呼 嗚呼
冬の海に泣く 俺
砂浜に 涙のあと 黒い落ち葉が 夜の銀座を〜↑
風に吹かれる 暗い街角〜↓ >>9
「悪名波止場」
1978年は激動の年だった
水原は病気で、田宮二郎は自殺で逝き
勝新太郎と青山ミチは薬物で逮捕され
脇には藤田まことも出演していた
みんな、静かに散った今は亡いあの人たち 子どもながらに田宮二郎の自殺は覚えてるわ。
猟銃で自殺したとかショッキングな見出しで、毎日ワイドショーでやっていた。
あのタイムショックのハンサムなオジサンが何で自殺したのか子どもながらに謎だった。 >>18
教えていただき、ありがとうございます。
水原さん、亡くなる寸前まで仕事頑張ってたのに無念だったでしょうね。 誰にも渡せる愛じゃない
あなたのすべてが好きだから >>1
ニューバランス(スポーツシューズメーカー)が不倫&被害者女性イジメのベッキーを起用
http://www.oricon.co...p/news/2094062/full/
2017-07-13 10:53
タレントのベッキー(33)が13日、都内で行われたニューバランス2017秋冬アパレル広告キャンペーン『#進化する個性』新作ビジュアルお披露目プレス発表会に出席。
15日から開始される同キャンペーンの広告キャラクターに起用されたベッキーは「すっごくうれしい」と目を輝かせた。
他人の家庭を破壊、一般人女性を芸能事務所ぐるみでイジメぬいたベッキーをニューバランスがCMに起用。
ニューバランスはイジメと不倫を容認する企業?
健全なスポーツのイメージとは真逆なドロドロ不貞ベッキー http://bookjapan.jp/search/review/200907/okazaki_takeshi_02/review.html
そして、最後に坪内の父親(坪内嘉雄)が興行師だったころ、水原と酒席を共にすると、甘いもの好きの息子(つまり坪内祐三)のために、
自由が丘「トップ」でケーキをお土産に買ってくれたとエピソードを披瀝し、
「その“水原弘のオムレツケーキ”は少年時代の私の楽しみの一つだった」と締める。
水原の陰惨な生涯が、ここで少しまろやかに明るく照らされるのだ。 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47179?page=5
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47179?page=6
ある年の年末。紅白歌合戦のリハーサル時の出来事です。
私は当時付き人をしていた水原弘(1959年、第1回日本レコード大賞受賞。'65年に暴力団による花札賭博に関与したことが発覚して芸能界追放。
'67年にカムバックし、紅白歌合戦には通算10回出演した)について楽屋に行きました。楽屋に入った水原が、
「こら! てめえら何その気になってやがる! この方々が立っているのが見えねえのか!」と一喝しました。
(以下略)
https://taishu.jp/detail/20399/
そんな勝新、裕次郎、ひばりは、よく一緒に飲んでいたという。当時を知る俳優のなべおさみさんが懐かしげに、こう語ってくれた。
「私は若い頃、水原弘の付き人をやっていたんですけど、彼の飲み仲間が、勝新太郎さん、石原裕次郎さん、美空ひばりさんでした」
(以下略) http://ameblo.jp/lm089622/theme3-10000765797.html
http://ameblo.jp/lm089622/theme3-10000765797.html
テネシー・ワルツでバンド・チェンジをすると、直ぐに水原弘さんがブランデー・グラスを片手にステージにやって来た。
他のお客さんたちは、一体これから何が始まるんだろうってなもんで、皆固唾を飲んで見守っている。
「やあ、よろしくです。2,3曲歌わせてもらいますわ」
ドスの利いた低音でそう言うと、水原さんは順番に僕達に頭を下げた。
一瞬目が合うと、そのあまりの眼光の鋭さに僕なんて思わず「怖ぇ〜」なんて後ずさりしちまうほどの迫力ってもんだったのさ。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) http://www.offshot.jp/30th/3017.html
水原ひろしさん
と言えば第一回レコード大賞を受賞された凄く怖いという印象の方でした。
その水原さんと東芝の番組で北海道へご一緒させて頂いた時でした。
旅の途中の飛行機の中でも少しお話しをさせて頂いたのですが、とにかく礼儀に厳しい方で
その事を得々とお話しされていました。そして札幌市民会館楽屋での出来事・・・
僕等と赤い鳥、そして水原さんが同じ楽屋で、水原さんの音合わせの最中に楽屋では赤い鳥
がミニコンサートばりにビートルズの唄などを大きな声で歌っていたんです。
やがて水原さんが帰ってきました、僕等は尾藤イサオという恩師から芸能界のしきたりや
礼儀などを徹底的に叩き込まれていましたので、散らかっている楽屋の整理に入りました。
しかし、赤い鳥のメンバーはそういう事を口うるさく言ってくれる先輩がいなかったのでしょう、
楽しそうに止めなかったんですよ。そうしたら、
水原さんが・・・ド迫力ある一言「皆の場だからコンサートは終わり」・・・く〜・・格好良かった!!
男はああじゃないといけないと心から思いましたっけ。 URLはれないので、『自惚れや、たまのらくがき、五七五』というブログより
どうでもイ〜ラストアーカイブス その353「中村主水」
シビレたといえば、魅惑の歌声。いつか聴いた、オリジナルを水原弘さんが歌った「黄昏のビギン」がどれだけ良かったことか。
歌う前に藤田さん、自らのMC…
「『てなもんや〜』が終わったと同時に私の人気も落ちました。
ちょうど、笑福亭仁鶴さん、桂三枝さん、横山やすしさん、西川きよしさんといった、吉本の若い人が出て来たころです。
そのころ私は、テレビから消え、ちょうど地方のキャバレーなんかを歌で回っていたんですが、
そのときに、水原弘さんに、『まこちゃん、この楽譜使いなよ』って、おミズ(水原弘)が自分のレパートリーの楽譜をコピーしてくれたんです。
楽譜と言えば歌手の命ですよ。にも関わらず、嬉しくってねぇ。
そうして私が、おミズの曲を地方のキャバレーで歌っていたときに、放送局から『今度、こういう時代劇の主人公に』とお誘いを受けたのが、『必殺〜』でした。
だから、おミズは『てなもんや』から『必殺』を繋いでくれた、恩人なんですよ 尾藤イサオ
当初は人気絶頂の「水原弘」のバンドホーイ兼前座歌手として活動していたが、
渡辺プロと提携していた「大橋プロ」の「ブルー・コメッツ」の専属ボーカル「鹿内孝」が独立したのを期にボーカリストとして迎え入れられた。
1981年1月サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバルで黒い花びらをカバー http://www.bigcosmic.com/board/s/board.cgi?id=marsh2&start=108&log=ON&cnt=10
平凡パンチ」の杉上さんという編集者に銀座のスナックに案内された。
そのスナックのカウンターに長良さんと水原さんがいた。
紹介されたまではよかったが、そこに来ていた客と水原さんが揉めることになる。
店の外に出ての殴り合い。
長良さんも止めなかったし、杉上さんもオレも知らん振り。 URLはれないので、『健之くん応援委員会』というブログより
いい歌でした!!「忘れていいの」BS♪
以前、NHKのラジオ「ミュージックメモリー」という番組の中で、作曲家の平尾昌晃さんがおっしゃっていた言葉が印象に残っているのですが、そ
れは、歌手の水原弘さんや、当時彼のマネージャーだった長良じゅんさん(お二人とも、既に故人となってしまわれましたが)のお話をされる中で、
1973年頃に、平尾さん作曲で、水原弘さんが歌った「雪国」というワルツの話が出て、
きっと当時、水原弘さんも見事な歌いぶりだったのでしょう、
「男がうっとりするのが、歌謡曲なんですよ〜」と、感に堪えてたように語っておられたくだりでした。 http://kimono-hirasawa.way-nifty.com/kimono/2012/05/post-dab4.html
頂点からすべり落ちるような
低迷のスランプが
山田にも水原さんにもやって来た
暗く切ない日々 水原さんは
荒れようもない辛そうな表情で
呷るように酒を飲んでいた
・・・
ある晩 旧友の藤本君と
浅草のバーに出掛けた
新東宝の女優さんだったママの
長良夫人から「オミヤゲーっ」と
手渡された
小さな山葵漬けの箱の上に
《 君こそ我が命 水原弘 》と
サインがしてあった http://minkara.carview.co.jp/userid/2125116/blog/36001926/
自身が書いた「明日に吠えろ」という本の中で歌は絶対に馴れで歌ってはいけない。
レッスンに始まり、お客の前ではもちろん
どんなときでもベストを尽くす心掛けが
必要でプロとしてのマナーであり
夢を求めているお客に対する礼儀だと
書いてありましてこの方は本物のプロ歌手
なんだと思いました。 http://ameblo.jp/counselors/entry-11241048573.html
「お水が俺のところに来て三年目に紅白に出たんだけど、それまでの大晦日は二人で浅草のスナックで飲みながら紅白を見てたんだ。
お水の先輩や後輩が画面に出ているわけ。いつか、あの場所に戻ろうなあ…って励ましあってね。
6年ぶりに紅白に出た年は二人で抱き合って泣いたなあ。
お水は照れ屋だから声を押し殺して泣いているわけ。
あいつの涙が俺のズボンの太ももにポタリポタリと落ちるんだ。
今もあのぬくもりは忘れないよ」 「どこまで太るんだろうか?と心配な時期があった」「米のご飯を止めて良かった」とインタビューに答えていた。 http://www.tojsiab.com/play/TltHjBcg-5M
1971(S46)年の暮れか 1972(S47)年の新春の日曜日のことだった。
テレビを点けると水原弘が譜面を片手に歌っている。 https://hmstokyo.jimdo.com/
講師紹介:柳 久万(やなぎ ひさかず)東京都出身
18歳でビクターレコードより”しん&ブルーキャロット”でレコードデビュー。
同バンド解散後、水原弘の専属バンド”久保 弘&ニュージョーズを皮切りに http://isaosuzuki.jp/history/episode06.html
その当時、水原弘も平尾昌晃のボウヤみたいなものだったけど、凄い歌唱力だった。
彼の歌はジャズではないけど、ジャンルが違っても素晴らしかった。
「ブルーソックス」も僕が作ったグループだ。
そこで森山加代子、水原弘の前座みたいな物だったけど。
当時、客で「ちょっと歌わせてくれよ〜」「ジェニージェニー歌わせてよ〜」とうるさい若者がいた。
水原が「おまさん歌わせてやろうか?」、僕は「いいよ」と言った。
(あいつは優しいから)
それが、何と驚くなかれ、あのジェリー藤尾だったのであ〜る。 http://blog.goo.ne.jp/8823blue/e/9428b0ecf22c7d68dfbc6f1a0b48e921
水原弘はテレビドラマや映画に本人役で登場することもありましたが、存在感が強かったです。
実は昔、新幹線の中で本人を見かけましたが、取り巻き連中と楽しそうにしていながら、スタアの威厳が周囲に伝わっていました。 http://miyearnzzlabo.com/archives/24871
(玉袋筋太郎)まあでも、天下のスターのね、水原弘さんの付き人から始まり、あれも、この本で読んだんですけど。お金がね、手を四本出して、4万円だと思ったら4千円だったっていうエピソード。
(小林悠)その、月収がね。『4』って出されたから。
(なべおさみ)4千5百円ですから。アパートの・・・
(小林悠)家賃が。
(玉袋筋太郎)(笑) 第1回日本レコード大賞を受賞した知らせを聞いた新人歌手、水原弘の放った有名な 言葉です。 「レコード大賞? なんだい、それ」
http://www.tapthepop.net/extra/52867
中村八大と永六輔のコンビが誕生した記念すべき処女作「黒い花びら」
http://www.tapthepop.net/song/48457
ちあきなおみのヴォーカルと服部隆之のアレンジによって奇跡的によみがえった「黄昏のビギン」
http://www.tapthepop.net/song/9275 http://www.tontonclub.com/visit/walk/06/
後藤
それは「日比谷イン」というナイトクラブでしょ。良くジャムセッションをしてましたね。ス
テージの前にダンスフロアーがあって、踊れるようになっていた。今の松本楼も米軍に接収されていた。
五十嵐
そんなこともあったね。
後藤
確か澤田駿吾さんのバンドが出ていて、チェンジバンドがハワイアンでした。水原弘が出ていたのを覚えているわ。
原田
水原弘はそれから歌謡曲の世界に行って、「黒い花びら」で第1回の日本レコード大賞を取って、スターになってしまった。 福井県鯖江市の西山公園のウクレレ地蔵
http://www.geocities.jp/shinfuji_jp/jizou.html
水原弘さんはNUA掲示版に岩本さんが書かれているように、山口銀次とルアナ・ハワイアンズの歌手としてデビューし、
その後歌謡曲の歌手に転進した方で、当時はハワイアン出身の歌謡曲歌手は大変たくさん居たようです。
古い話ですが、今は形骸化してしまった「日本レコード大賞」の第1回大賞を「黒い花びら」で受賞した歌手水原弘さんはわが国音楽史を飾る人物でした。 http://yapou.club/archives/710
康 もちろん。当時彼が銀座で一番可愛がっていたのが歌手の水原弘。
『黒い花びら』で一世を風靡したばかりのころですよ。
それで、勝ちゃんの場合、飲むと言っても一軒では済まないわけだから。
最初水原弘と2人で飲んでても、4、5軒はしごするうちに20人、30人になっちゃう。
もう誰が誰だかわからないわけですよ。
それで最後はラテンクォーターに行って飲むわけでしょ? http://to-ryo.com/menu01/2012/06/-2274-50-4542.html
初めて会ったのは45年前の昭和42年、水原弘が「君こそわが命」でカムバックした時で、兄事した名和治良プロデューサーの仕事だった。
僕は水戸のキャバレーで水原の心底を見定め、惹句の「三千万円作戦」を作ってお先棒をかついだ。
そこから長い親交を得た歌手水原、作曲者猪俣公章、作詞の川内康範、制作の名和ちゃん、宣伝の田村広治…と関係者を一人ずつ見送ったが、
まさか長良氏と、ハワイで客死というこういう形で別れることになろうとは…。 URLはれないので、『ピアノは語る グラスは微笑む』というブログより
「ラソンブル」でライブ演奏
ドラマーの白鳥洋一さんは85歳、現役最年長と思われます。
ブルーソックス(水原弘バンド)の初代ドラマーで後にはリーダーも務めました。 https://ameblo.jp/canbe888/entry-12049456535.html
その後全く売れない時期が3年ほどあって、バンマスのダニー飯田さんと、水原弘さんと
佐野さんの三人で第一回目のウエスタンカーニバルを見に行った時に、
あまりに盛り上がる状況を目の前にした水原さんが、今までハワイアンのバンドだったのに、
「これからはロカビリーだ!」とみんなを説得したんですって。 https://news.infoseek.co.jp/article/cyzo_20140721_558901/
映画の撮影で京都に滞在した水原弘と勝新太郎。
総理大臣の月給が25万円だった当時、祇園に繰り出した2人はなんと1カ月で120万円も酒に費やしてしまったのだ。
もちろん、所属する渡辺プロダクションの社長・渡辺晋から叱責を食らうのはなべの仕事だ。
また、若き日の石原裕次郎、美空ひばり、勝新太郎、水原弘の4人が一堂に会し、夕方6時から朝7時まで新橋で毎晩飲み明かすという、
今では考えられない宴会が行われていた。この席にも、なべは付き人として毎晩同席していたのだ。 酒場・田賀
http://blog.livedoor.jp/kimlucky/archives/50493514.html
田賀のマスターは以前に何度か勝さん関連の番組でTVに出たり映ったりしたことのある方で、
元々はサックス奏者で水原弘さんと興行で回ったり、赤坂「ニューラテンクウォーター」をハコに演奏してたり、という方です。
【勝さんと田宮二郎さん】
『悪名』シリーズで共演してた頃の話。プライドが高くてすぐ天狗になってしまう癖のある田宮さんに対し、
勝さんは何度か堪忍袋の緒が切れて破門・絶縁を言い渡したことがあるそうで、
そういうときに田宮さんは勝さんの親友の水原弘さんに泣きつくように「なんとか言ってとりもって下さいよ」と頼み込むものの、
おミズさんも「俺からは..言えないなぁ」というやり取りで夜は更けていったと。
http://blog.excite.co.jp/nagatomo/m2008-06-01/14/
ご主人はもともとバンドマスターで、今の若者は知らないだろうが「水原弘」のバンマスだった人なんですよ。
http://oguchan.net/bz/bz7.html http://boutyoutei.webcrow.jp/rou1.html
「52年10月15日、ホテルニューオータニのレストランで、筆者は水原に会った。
あいかわらず向う意気は強いが、疲れのにじんだ表情で、皮膚も黄色っぽい。
アルコールを禁じられているのに、ワインを口にしつつ、『それにしても高利の金は恐ろしい。しかしオレなんかはまだいいんだ。
たとえ芸能界の第一線から消えても、ヤクザの掌の上に乗っけられて、借金の肩がわりにカラダを担保に取られるよりはましだよ』」
(水原弘−−「タレント残酷物語」)
「昭和53年7月5日午前7時28分、水原弘は死んだ」
「肝硬変による食堂静脈瘤破裂、すさまじい吐血をくり返した挙句の、無惨な末期であった。
その前年の10月15日に、ホテル・ニューオータニで会った時、死相がすでにあらわれていた」(「タレント残酷物語」)
「最後に会ったとき、水原はしみじみと私にいった。『すくなくとも俺は、他人には金をもうけさせたよなあ、労さん(と彼は私を呼ぶ)』
『休めっていうけど、休んだらかえって俺はゼンマイがきれてしまうような、そんな気がするんだ。
歌いつづけていないと、落伍してしまうんじゃないかと、不安になっちまう。そいつが労さん、タレントの業っていうやつだろう?』」
「馬鹿をいえ、もうとっくに落伍している。1周遅れてトップになることだって、と私はいいかけてやめた。
水原はしんじつ淋しい、すがりつくような眼をしていたから」
「わかれぎわに、勘定を自分でしようとする水原に、『きょうは取材だよ、こちらで払うのが筋というものだろう』と制止すると、人
なつこい笑顔になって、『そんなことをすると、いまに水原弘になっちまうぞ』」(「タレント残酷物語」) http://www.m-tigers.net/koyuroku/n1101.html
並木輝男
1938年11月15日生まれ。東京都出身。1957年に阪神入り
人付き合いは幅広い。芸能界にも顔が利いた。
レコード大賞歌手の水原弘(故人)さん、クラリネット奏者の鈴木章治さん(故人)らと、同席して杯をかわせたのも並木さんの顔。
同氏が結婚式を挙げた時の媒酌人は、勝新太郎(故人)さん、中村玉緒さん夫婦だったが、
このお二人の結婚式に、『枯れ木も山の賑わい』で出席させていただいたのも並木さんからのお誘いがあったから。
あの豪華な披露宴には目を丸くした記憶がある。 http://t-muroi.net/publics/index/20/
金が人と街を駆け抜けた―金融業界、一匹狼の足跡 単行本 -- 2006/7
室井 忠道 (著)
16話
* 『第一回レコード大賞「黒い花びら」・水原弘さんのこと』 http://archives.mag2.com/0001369693/20111206231415000.html
水原弘さんはこの年(昭和33年)春のウエスタンカーニバルではパラダイスキングのメインボーカルとして
「国境の南」というスタンダード曲を歌いながらステージを左から右へ横切って行きましたがその歌声と姿がものすごくカッコ良かったのです
そんな中ある日水原さんが新しいバンド「ブルーソックス」を作った事を知り渋谷に聴きに行きました
まだ中1で一人では入れて貰えないので母親について行って貰いました
この日のステージの事は母親も覚えているそうですが水原さんが声をかけてくれました
そうして忘れられないのがこの日水原弘さんとその時デビューしたばかりのジェリー藤尾さんが掛け合いでリトル・リチャードのレディテディを歌った事です
まだ白人音楽のウエスタンが主流の時代に黒人のR&Bやロックを積極的に取り入れて
「黒いフィーリングを持つ歌手」と呼ばれた水原弘さんは翌昭和34年に「黒い花びら」で第一回のレコード大賞をとりました 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:7bff9ed63942b4cd01610d20b2c06e65) 1998(平成10)年度 渡辺プロダクション創立40周年記念碑的社史
「抱えきれない夢〜渡辺プロ40年史〜」
弟3章 106頁
www.watanabeforum.com/publication/40th/pdf/wbp04.pdf
16/17 http://www.yuiyuidori.net/iryou-fukusi/kumiaiho/2012/115/115_01.html
――思い出に残るエピソードなんかもお聞きしたいですね。
元倉● 入職した翌年に、北九州健和総合病院に内科の研修に行ったんですが、
ここで初めて、洗面器いっぱいに血を吐くというのがどういうものかを経験しました。
ここは労働者の町で、酒の飲み過ぎで肝硬変の人が多くて、食道静脈瘤が破裂すると、大量の血を吐くんです。
ちょうど水原弘がコンサート公演で来ていて、肝硬変で吐血して、健和総合病院に入院してきました。
夜にもう1回吐血したため、鼻からバルーンのついたチューブを挿入して止血する方法があるんですが、主治医と一緒にそれを水原弘にしたことがあります。だけど、大出血すると、あの頃はそれ以上やれることがなくて、結局、その後に病院で亡くなりました。 http://indy.main.jp/fc/monologue/2007/3/13.html
何でも、生前の水原に最後に取材したのが大下英治さんなのだそうで、
水原に「今、いい歌手は誰だと思う?」と尋ねられた大下さんは、「五木ひろしはどうか?」と窺いを立てます。
それを聞いた水原は、即座に「ダメだ」といいます。
なぜダメか。
「アレ(=五木)はココ(=喉)で歌っている。オレ(=水原)はココ(=胸=ハート)で歌っている」
と死期が迫った真っ青な顔の水原は、自分の胸板を叩いていったといいます。 http://kitagawarecord.co.jp/moriyamakayoko.html
(
ぢゅん)そんな時、新潟のキャバレーで歌っていた森山さんの楽屋に『君こそ我が命』でカムバックした水原弘さんが突然訪れたとか。
(森 山)そうです。私のステージを見て『もう一度勝負しろ。俺を見ろ』と言ってくれました。もう、嬉しくて涙が出てきました。 http://rockcandy1013.blog.shinobi.jp/tokusatsu/entry_1153
やはり自伝の中で特に印象に残ってるのは、
歌手・水原弘さんの付き人時代の話から仮面ライダーアマゾン出演までのエピソード。
この辺の話は他のインタビュー記事でも読めますが、自伝では更に詳細に書かれています。
役者を目指して上京し、運良く日活の研究生になったものの、
勉強嫌いでサボってばかりだった岡崎さん。
そんな岡崎さんを歌の力で改心させたのが、水原弘さん。
私が生まれる前の歌手なので、全然知らなかったのですが、
第1回日本レコード大賞受賞者なだけに素晴らしい歌手だったのでしょう。
その素晴らしさが、文面からひしひしと伝わってしました。
付き人時代では、水原弘さんを御大と呼び、心から慕っていたようです。 http://hayashiharuto.blog.jp/archives/67095984.html
巡業先で受賞の知らせを聞いた水原が電話口で涙を流した話は、第1回受賞の時のリアクションと対比されて興味深いが、
カムバックに至るまでの水原の壮絶な闘いを知っている親友の森聖二は、「黒い花びら」はカバーするが「君こそわが命」はカバーできないと語る。 http://ameblo.jp/tabiwa-utazure/entry-11731747870.html
当時「東芝歌のプレゼント」と言う番組があって、水原さんがホストをしていました。
初めてその番組に出てから、水原さんがとても優しくしてくれました。
その後からいつも赤坂のクラブで飲ませて頂きました!!
その席にはいつも、ロスプリの森聖二さんなどもおりました。
http://ameblo.jp/lospriwa5nin/entry-12297006526.html
森さんは水原弘が大好きだったということで、自宅も近くに引っ越したということです。 https://entertainmentstation.jp/60524
中村八大から「黒い花びら」の相談を受けた長田は、「ビクターのフランク永井なら10万枚はいくよ」と言った。
中村八大は自分がオーディションして選んだ水原弘のしゃがれたハスキーな低音のおかげで、
「今までにないセンスの曲ができた」と自信を持っていたので、彼が歌うのがベストだと考えた。
そこで東芝レコードに自分の思いを伝えるとともに、日本の新しい音楽を作っていきたいとアピールすることにしたのだ。 http://kobe-kobecco.com/archives/12556
―元々は何故、水原弘さんの付き人に?
山下 中学生のころ、難波の大劇(大阪劇場)で水原弘さんのショーを見ました。
水原さんは、楽器は弾きませんからマラカスを持って歌います。
バックでバンドが演奏するのですが、そこからGS(グループサウンズ)「ザ・スウィング・ウェスト」が誕生します。
僕は「エエなあ」と思うようになり、何度か通ううちに水原さんから「なんでこの世界に憧れているのか?」と聞かれ、「好きやからです」と答えました。 http://hakodate.dreamlog.jp/archives/919969.html
故 函館出身歌手 長瀬晴美
はるみさんは、水原弘さんのボーヤ、ジュニアはドラムの、チコ菊池さんのボーヤ経験があり、
ボーヤ仲間らのネットワークがあるみたいです。
赤坂で仕事中(作曲家猪俣公章先生の経営)、水原弘さん(御大)が来て席に呼ばれ、レミーマルタン御馳走になりましたよ。
後から、知りましたが猪俣公章先生と水原弘さんとは切っても切れない恩義理の関係でした。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:c70c250dd91bb29f505857436e0bc8bd) https://tabepro.jp/954
楽器をやり始めたのは、「水原弘とブルーソックス・オーケストラ」に入ってから。
本当はドラム志望だったんだけど、なぜかラテン打楽器のコンガで。
当時の日本にコンガをやっている人は少なかったから、師匠なんて当然いない。
パーカッションのライブを聴きに行ったりして、独学でワザを盗みながら覚えていったんだ。 http://himahima1.cocolog-nifty.com/in/2012/01/post-7640.html
歌い終わった永六輔が、水原弘(1978死亡)について「若い人を先に送るって辛いですね。
水原弘、坂本九、え、生きていたっけ」坂本九はジョークです。
この時、彼まだ元気でしたから。客席から笑い声が。 https://twitter.com/s_hakase/status/288801037043781632
【意外な話】坂本龍一教授が自分で歌えるカラオケは水原弘「黒い花びら」とユーミンの「あの日に帰りたい」という話。 http://blog.goo.ne.jp/motoyam9/e/68a0a941572516077246ed9ff1c85ed2
私がまだ3〜4歳の頃、近くのスーパーに水原弘が来た。
レコードを買ったらサインをしてくれると言うので
母親に連れられて行ったら
「ボク、大きくなるんだよ」と頭をポンポンと撫でられた
覚えがある。 http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/#akashia
60年安保の初めにあたる昭和34、5年のデモ隊は水原弘が歌った「黒い花びら」が 愛唱歌だった。
第一回レコード大賞(昭和34年)受賞曲だが、白い雪を踏みしめてキャンパスを歩きながら「黒い花びらとは妙な取り合わせだなあ」と思った。 https://twitter.com/31104423/status/836733005959815169
水原が自分のことを「田宮」と呼び捨てにすることが許せなかった。
田宮は水原のことを「水原さん」と呼んでいたからだ。
ある時、飲み屋で水原弘にあった田宮は、意を決して「お水!」と水原に声をかけてみた。
すると水原は、ギロッと田宮を睨んだ。
小心な田宮は、途端に萎縮して「お……お水をください…」 と言い直したという。
http://summaars.net/akumyohatoba.html
ある日、俺の特集を週刊誌が組むっていう時に、田宮二郎がおみずのところへ来て、
「ねえ、おみず。勝新の特集の記事。あれに何かしゃべるの?」って言った。おみずが、
「あっ。お前、今、勝新って言ったな」「いや、俺、勝新って言ってないよ。勝さんって言ったんだよ」
おみず自身が、「あの田宮は、最初『水原さん』、それから『おみずさん』、最後に『おみず』になりやがったから。
あんなやつはいねえ」ってよくこぼしていた。 http://iprood.co.jp/blog/?p=187
歌手になりたくて、
笠置シヅ子>>の付き人をしていて、
第一回レコード大賞受賞の水原弘>>に
かわいがってもらっていたという。
神戸の某有名組織の三代目さん>>に
おまえはええ男やと言われ、
熱烈にスカウトされたが断ったという。 http://watv.easymyweb.jp/member/ta5927/default.asp?c_id=2123&kpage=29
尺八の有名プロの西村実さんは美空ひばりさんの尺八演者だったが
「あの方は色々な方に付いて行っちゃう。それで、美空ひばりさんの尺八演者に私(ポップス尺八・奏者、昌平)が抜擢された。
水原弘さんなんかも私。
水原弘さんはコンサートが終ると必ずクラブへ行く。
当時のお金で一晩に20万も30万も使う。
給料が1万円の時代です。
坊やだった私は飲まないがスッテンテン。 https://twitter.com/masatango1962/status/670564372255744001
安奈淳「黄昏のビギン」アレンジは東京キューバンの貫田さん。この道50年近く。
ピアノは水原弘のバックもしていたテディ池谷さん。 昭和53年7月5日西日本新聞朝刊
http://i.imgur.com/djqO5Tk.jpg
3時のあなた「悲運水原弘が危篤に」など https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/postseven/entertainment/postseven-562371
2人は池袋に音楽喫茶「パラダイス」を開く。
京子によれば、店名はハワイアンの歌手で、一家と付き合いのあった灰田勝彦の歌のタイトルから取った。
店にはハナ肇が通いつめ、ミッキー・カーチスや水原弘など、昭和の名歌手たちもアルバイトで歌いにきた。 http://www.happon.com/fujimoto/novel18.html
いつだったか、どっかのテレビ局の喫茶店で、彼と僕がコーヒーを呑んでいると、水原弘さんが同じテーブルに座った。
例の如くスマイリさんは、「この人はいいんだよ」と彼にいったら、水原さんはブスッとした顔で「しってらーい」といった。 国立国会図書館サーチ
http://iss.ndl.go.jp/books?ar=4e1f&any=%E6%B0%B4%E5%8E%9F%E5%BC%98
明日に吠える
水原弘 著
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001305233-00
出版社 都の森出版社
出版年 1973
大きさ、容量等 222p ; 19cm
価格 750円 (税込)
JP番号 75077984 おミズが存命なら、どんな歌手になっていたか気になる http://pahko.jp/mash1/pahkocity/jiden/j_works/j34.htm
このアパート福寿荘は木造モルタル2階建てというやつで、玄関で靴を脱ぐ形式のものである。
このアパートの私が寝起きしていた部屋には、 流し時代の水原弘が住んでいたという。 http://torasnack.seesaa.net/article/402226131.html
特にサンボアは中村八大カルテットが専属で、その意味でも有名なお店でした。
其の縁で勝新太郎や水原ひろしもよく顔をだしていました。 http://d.hatena.ne.jp/taka_fan/20070209#1171018849
好きなお酒が祟り42才という若さで亡くなりましたけど、
当時(昭和53年)葬儀の模様がワイドショー『3時に会いましょう』(野村泰治さんが司会を務められていましたね)で放送 さよなら映画、また近いうちに 単行本 -- 1997/10/1
田山 力哉 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4873762065
映画界の害虫よ去れ!死を賭して闘った評論家田山力哉の魂魄の著作集。映画界を震撼させたキネマ旬報の辛口コラム、映画祭の華・カンヌレポート、
傑作実名小説『水原弘』『渥美清』、蔵原惟繕、深作欣二、黒木和雄、篠田正浩、降旗康男、ジェームス三木、菅原文太、原田芳雄、岩下志麻らが無頼派評論家・田山力哉を偲ぶ。
『レコード大賞 水原弘の死』 http://www.littlejohn.jp/hidaka_goro_show/kotobano_vitamin05.05.07.htm
「新吾おまえオレの事思い出しただろ?」ってから、
「私は仕事するたんびに、これは勝新太郎恩師に、喜んでもらえるだろうか?少なくとも恥かいてないだろうか?と、思ってました」と
「そうだろ?思い出したろ?オレもサインのたんびに思い出した」
座頭市のサインは私が考えたんですよ。
「だから、オレは何万枚サインしてるかわかんないから、何万回もおまえを思い出した。
新吾な!裕次郎も死んだ。水原弘も死んだけど、オレはよく思い出す。思い出したときにそいつは生きてるんだよ!
で、傍に居るんだよ!おまえはオレを思い出したろ?だからオレはおまえの傍にいつも居たよ!オレはおまえを思い出したよ!
だからおまえはオレの傍に居たよ!だから30年こうやってったって、なぁんにも久しぶりじゃないじゃないか!」こうおっしゃった。 http://1000ya.isis.ne.jp/1111.html
やがてNET(現テレビ朝日)でADのアルバイトをするようになる村松は、
そのころ一斉にデビューしてきたジェリー藤尾、渡辺とも子、森山加代子とともに、廊下を歩いてきた水原弘を見た。
思ったより背が高くて、思ったより足が短く、思ったより腰と尻がぽっちゃりしていた。
http://www.books-ruhe.co.jp/kako/2001/01/kuroihanabira.htm
http://moon.ap.teacup.com/chijin/1187.html
たしか、水原の債鬼は、芸能界専門の高利貸しだったが、その背後に芸能プロダクションや興行師も噛んでいて、
彼らの手の内で馬車馬のように働かせられ、命金を絞りとられていたという内容でした。
後に、亡くなる前、重病の水原はもう声が出ず、舞台袖で影武者が歌い、口パクをしていたという噂も流れました。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) http://www.geocities.jp/smjx1969/a.htm
植松孝夫(うえまつ たかお)ts 1947年4月16日東京生まれ
水原弘ブルーソックス
http://www.geocities.jp/smjx1969/ta.htm
ダン池田(だん いけだ)leader 1935年4月11日中国京城生まれ
水原弘とブルーソックス http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/bf085052267f3e72ccb0db287c4afd6a
あるとき僕は、親戚の人たちに連れられて「水原弘ショー」を見に行った。
その舞台で水原弘から「間もなくデビューする可愛い女の子をご紹介しましょう」と紹介されてステージに現れたのが森山加代子であった。 https://allabout.co.jp/gm/gc/447387/all/
それでも、石川氏は誇りをもって仕事をこなし、口癖は、「おれは、レコ大3回とった」でした。(日本レコード大賞。
石川氏はバックのドラマーとして、第1回の水原弘「黒い花びら」第10回黛ジュン「天使の誘惑」第13回尾崎紀世彦「また逢う日まで」を務めていた) http://kei561208.hatenablog.jp/entry/2016/08/04/111710
1959年には「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞。しかし第1回とあり、今の華やかなものではなく、
永 「局の前の喫茶店の2階で授賞式があった。コーヒーが出てるだけ」
外山「レコード大賞の1回目は」
吾郎「授賞式がステージじゃなくてカフェ。なんかゴルフのコンペみたな感じだね」
永 「今だからレコード大賞って分かるけど、1回目は誰も何だかわからない」
外山「1回目は永さんが、作詞なさった“黒い花びら”、水原弘さんの。が、受賞したんですよね」
永 「そう」
外山「1回目はそうですよね」 http://www.geocities.jp/fujiskre/kca7.html
1959(昭和34)12月15日、当時赤坂にあった日本コロムビアで日本作曲家協会制定の
第1回日本レコード大賞の最終審査が行なわれ、水原弘の歌う「黒い花びら」が受賞作品に決まった。
当時の日本作曲家協会の会長は古賀政男。この賞は、レコード歌曲の向上と発展を目的として
制定されたものだったが、当時は一般の関心がうすく、12月27日(日)の午後に文京公会堂で
開催された受賞発表会には観客もまばらだったため、止む無く会場の外を通りがかる人に頼んで
観客になってもらったというエピソードも伝えられている。
受賞した「黒い花びら」は、永六輔作詞、中村八大作曲によるもので、同年7月に公開の東宝映画
「青春を賭けろ」の主題歌として製作されたもの。当初はこの映画の主演だった俳優の夏木陽介に
歌わせる予定だったが、楽曲がむずかしいことから歌手が歌うことになり、当時まだ新人だった
水原弘に白羽の矢がたった。
作詞の永六輔、作曲の中村八大、共に歌謡界ではまだ名前の知られていない時代、新人歌手の水原弘、
そして、レコード業界では新興だった東芝レコードから発売された「黒い花びら」が、レコード大賞の
最初の受賞曲だった。
東芝レコードは現・東芝EMI、旧・東芝音楽工業。1955(昭和30)年9月から電機メーカー
東京芝浦電気(東芝)の中の音楽ソフト部門としてレコードを発売しており、このヒットが出た翌年の
1960(昭和35)年10月から東芝音楽工業として独立した。 水原弘さんに関する多くの貴重なエピソードありがとございます。 https://blogs.yahoo.co.jp/maruru39/24235805.html
2005年の12月12日に「きよしとこの夜」(NHK)にゲスト出演してくださったときに、
藤田さんが水原弘さんと親友だったことを、私は初めて知りました。
そして、その時、水原弘さんが大好きで、よく一緒に歌った歌として「愛の渚」を歌ってくださり、とても感動した記憶があります。 http://www.freeml.com/bl/5447934/21035/
上岡龍太郎さんの話によると水原弘さんにこの問題を確認したことがあるそうです。
「ウパウパ チンチン」なのか?「ウパウパ ティンティン」なのか?どっちなんでしょうか?と聞いたところ、
水原弘さんは「チンチン」だと言った。
http://www.hisakawa.net/papepo/89_d_133.html
http://www.hisakawa.net/papepo/90_d_186.html
水原弘さんの晩年もまるで美空ひばり。 健和総合病院
http://www.kenwakai.gr.jp/grp/history.html
1972(昭和47) 新中原病院開設(以下財団法人健和会による)
1975(昭和50) 新中原病院 総合病院化、健和総合病院に改称
2003(平成15) 戸畑けんわ病院開設(旧健和会中原病院新築・移転) これってありうることなんですか?どういうことだろう
https://plaza.rakuten.co.jp/s201945/diary/201607140000/
1971年 もんたよしのりソロ歌手としてデビュー
1978年7月5日水原弘死去
1979年 東京での活動に限界を感じ実家の神戸へ戻るも、音楽活動をあきらめきれず作曲活動を続ける
1980年 自身最後のチャンスとの決意で「もんた&ブラザーズ」として再デビューし、「ダンシング・オールナイト」をリリース
http://www.uta-net.com/user/sakushika/101_200/132.html
Q:プロ、初作品について
A:そんな中、当時、デビュー曲を模索していたもんた&ブラザースのために書いた「ダンシング・オールナイト」「ジャーニー」が作詞家としてのデビューです。 https://www.nishinippon.co.jp/feature/kayouibun/article/16628/
俊二はキャバレー「月世界」のビッグバンドのバンマスであり、プロダクションの代表であり、渡辺プロの九州支社長でもあった。
歌謡ショーだけでなくプロレス興行も引き受けていた。一俊は小学校時代に自宅へ多彩な来客があったことを覚えている。
歌手の水原弘、フランク永井…。 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/08jasrac/kouki/06/kougi06.htm
第1回にレコード大賞を取った水原弘が泣きながらステージで歌った映像を、僕は子ども心に覚えています。
テレビ中継は3、4年後からだったそうですので数年後に映したのでしょうけれど、その『黒い花びら』という曲は子どもでも歌っていました。
そのほうの女の方が捨てられたみたいな話ですが、それを子どもが歌っているんです。
「♪あの人は帰らない」と歌っていた時代でした。
だからその頃はアメリカに追いつけというような感じで発足したのでしょうか。 勝新秘録 わが師、わがオヤジ勝新太郎
アンディ松本
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4781615473
水原弘に手形の裏書を頼まれて、サインをしたのは良いのですが、さらに自分の手形まで押し、
これまた経済音痴の水原を驚かせた、というようなお話もあります。 http://tvmania.futoka.jp/?p=5428
1972年12月10日 第33回衆院選
00:10-03:30
FNN開票速報 歌でつづる戦後選挙史
水原弘ほか http://www.abegeorge.net/essay/131128.html
あれは借金だらけになった水原弘が、横浜のハコで唄っていた頃だから、昭和44年の暮だ。
水原弘は、俺が青山でやっていた「ロブロイ」のお客でもあった。
低音の魅力で一世を風靡した大歌手に恥を掻かせたくなかった俺は、
子分も連れず自分で運転して横浜のキャバレーまで行ったのだが、楽屋で見た光景に胸が詰まった。
俺より先に楽屋に来ていた金貸しに、口から出任せの言い逃れやカラ約束を言いたてる様子が哀れで、
俺は無利子で用立てた集金をする気も失せてしまった。
その当時の俺はマスコミの言う暴力団で、正確に身分を名乗れば、
二卒会(ニビキカイ)小金井一家新宿東貸し元、矢島武信舎弟、安部直也ということになる。 http://www.1242.com/kuro/index.cgi?line=12
まずは、水原弘さんの「黒い花びら」。僕は水原さんとは二回ほどお茶を飲んだことがありますが、とっても男らしい素敵な方です。 https://plaza.rakuten.co.jp/92153/diary/200801130000/
ベラミは京都にあった高級ナイトクラブの一つです。
あの頃の水原弘は芸能界の寵児で、"おミズ"と呼ばれるままに豪遊を重ねていました。
ベラミには歌手としてお客としてよく来ていました。
黒い服装が良く似合い、あの低音の魅力が忘れられない歌手の一人でした。 http://miyako-creative.com/discograpy/liner-notes/tasogare-no-bigin
私と水原弘さんとの出会いは大変古いのです。
父が水原弘さんと親友だったこともあり、幼い頃から大変可愛がっていただきました。
いつも「これお嬢ちゃんに」と、たくさんのお菓子やお人形を持たせてくださり、TVでみる少し強面の影のある姿とは違う、やさしいおじさまでした。 http://www.kitahara-mirei.com/profile.html
美空ひばりに憧れ、16歳の頃より浜松市の佐伯一郎に師事する。
高校卒業後上京し、浜口庫之輔・大本恭敬・ヘンリー倉田等に師事しながら銀座のクラブで歌っているところを水原弘に認められ、
昭和45年東芝レコードより『ざんげの値打もない』の大ヒットで数々の賞を獲得し衝撃のデビューを飾る。 http://www2062uh.さくら.ne.jp/sp/relay/81-2.html
−−日野さんがミュージシャンとして活動し始めたのは中学を出てすぐだったんですか?
日野:そうですね。
僕は花村菊江、野村雪子、曽根史朗、そういう人たちの歌謡曲の伴奏を町内会のコンサートで吹いていましたから、
中学のときには新宿の「リド」っていうキャバレーに毎日行っていたんです。
上手くは吹けないけど一応お金はもらっていました。
そして卒業と同時に厚木の米軍キャンプで水原弘の伴奏をやっていたバンドに入りました。 http://to-ryo.com/menu01/2010/08/741.html
宿舎でパンツ一枚の水原と世間話、客席がらがらのキャバレーで歌う姿を見たあと、
「帰るよ」
と楽屋に声をかけたら、
「うん、東京へ戻ったら一杯やろう。悪いけど俺んちでいいだろ?」
返事の声が本音っぽかった。 「白い花が咲く頃」など水原弘がカバーした曲は、本家より上手ですね。
まるで、違いますね。 懐メロのように感動的にお金持ちになれるのはなぜ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
THL6L https://textream.yahoo.co.jp/message/1835049/i9c0na4ada4ha47a4ka4da4a4a4fa1aaa1aaa1aa/1/39201
長良会長は水原弘さんの連帯保証人として多額の借金を負ってらしてて、
印刷会社の廣済堂(の社長)が手を差し伸べてくれて、グループ傘下の廣済堂プロダクションになり、
きよしくんがデビューする前年にやっと長良プロダクションとして独立したという経緯がありました。 東海林修先生とシャボン玉ホリデー
http://peanuts2.さくら.ne.jp/omotya/shoji036.html おミズが「ダニー飯田とパラダイスキング」に在籍していた当時をメンバーだった佐野修さんが「ヤクザっぽくて、きっぷもよかったから、メンバーは次郎長と呼んでいた」と語っています。 おミズが「ダニー飯田とパラダイスキング」に在籍していた当時をメンバーだった佐野修さんが「ヤクザっぽくて、きっぷもよかったから、メンバーは次郎長と呼んでいた」と語っています。
板復帰(OK!:Gather .dat file OK:moving DAT 594 -> 588:Get subject.txt OK:Check subject.txt 594 -> 592:Overwrite OK)1.01, 0.94, 0.89
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age subject:601 dat:597 rebuild OK! ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。☆
そのためには、公的年金と生活保護を段階的に廃止して、
満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば
財源的に可能です。頒布も含め、よろしくお願い致します。
板復帰(OK!:Gather .dat file OK:moving DAT 601 -> 595:Get subject.txt OK:Check subject.txt 601 -> 601:Overwrite OK)0.96, 1.02, 1.03
age subject:601 dat:595 rebuild OK!
板復帰(OK!:Gather .dat file OK:moving DAT 604 -> 598:Get subject.txt OK:Check subject.txt 604 -> 604:Overwrite OK)1.39, 1.28, 1.34
age subject:604 dat:598 rebuild OK!
板復帰(OK!:Gather .dat file OK:moving DAT 605 -> 598:Get subject.txt OK:Check subject.txt 605 -> 605:Overwrite OK)1.08, 1.05, 0.97
age subject:605 dat:598 rebuild OK! >>文字から受ける雰囲気だと29は激怒して叱りつける、>>31は毅然と注意してる雰囲気
年齢的に丸くなったのか、相手がアマチュアバンド出身っぽい赤い鳥だったからなのか? 昨日の第60回レコード大賞で「黒い花びら」の映像が流れていませんでした
40回記念の頃は流れていたんだけど・・・
板復帰(OK!:Gather .dat file OK:moving DAT 607 -> 600:Get subject.txt OK:Check subject.txt 607 -> 607:Overwrite OK)0.85, 0.62, 0.59
age subject:607 dat:600 rebuild OK!
板復帰(OK!:Gather .dat file OK:moving DAT 607 -> 600:Get subject.txt OK:Check subject.txt 607 -> 607:Overwrite OK)1.06, 1.12, 1.00
age subject:607 dat:600 rebuild OK! デビュー曲の「黒い花びら」がちゃんとステレオ録音されてた
当時としては珍しいことだ >>112
時系列が変ですね
歌手か曲かどれかが記憶違いなのか?
板復帰(OK!:Gather .dat file OK:moving DAT 609 -> 603:Get subject.txt OK:Check subject.txt 609 -> 609:Overwrite OK)1.36, 1.48, 1.48
age subject:609 dat:603 rebuild OK! >>128
いや、それはない。
オミズはうまいが、本家にはかなわない なにこの神スレ。
水原のエピでいっぱい。
やばすwww 真ん中に産まれちゃ困るじゃない〜か〜
今ならトランスジェンダーの団体からクレームがついてNG 星野陽平『芸能人はなぜ干されるのか』 78ページ
水原弘がマナセ→ナベに移籍したのは引き抜きだって書いてある
『水原は会社設立までという口実でマネジメントを渡辺プロに委託したが、半年も経たないうちに渡辺プロに所属することになった。
身内からタレントを引き抜いた晋に対し、曲直瀬正雄は「あの泥棒野郎!」と激怒した』 僕が小さかった頃に亡くなられたのでリアルでは見ていません。
お袋がこの方のファンでよく話を聞いてましたが。
話で聞いてたよりもかなり気の毒な死に方をされたようなので。
今でもお水の曲を聴くとしんみりします。 体の悪いお水さんを食い物にして無理やり働かせていた人達が憎いです。
いつの世も反社集団は許せません。 オリコン創設前 昭和42年3月の某チャート
1.君こそわが命(水原弘)
2.今夜は踊ろう(荒木一郎)
3.こぼれ花(石原裕次郎)
4.女の波止場(森進一)
5.夜霧よ今夜も有難う(石原裕次郎)
6.帰りたくないの(園まり)
7.信じていたい(西田佐知子)
8.バラバラ(レインボーズ)
9.夢は夜ひらく(園まり)
10.なんとなくなんとなく(スパイダース) 青春を賭けろ、若々しくいい曲だね
アイアイアイアイ