【1979】根本時代の西武黄金時代前夜ってどんな感じだったの?【1981】
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【1979】西武黄金時代前夜ってどんな感じだったの?【1981】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/meikyu/1554028335/
壊滅的最下位から急速に強くなったような気がするけど
西武は新生球団として華が欲しかった。
全国区の選手が。
それが田淵選手。
主力3選手と看板料まで小津社長にむしり取られても必要と感じ根本氏が断行した。
血を流す覚悟で大きく舵を切ったトレードだった。
リスクは織り込み済みだった。
だから石毛獲得の前に行沢選手を取ったり捕手も幾人も指名登用もしたし話題作りではあったが育成の後付け意味もあって野村氏も取ったりしている。
真弓は根本氏の本当の出血だったと感じたが若菜は後々素行とかで対立する可能性は秘めていたと思う。
阪神とのトレードは成功とはいえない。
若菜と真弓がいれば1979年シーズンの守備崩壊はあそこまでひどくならなかったはず。
当時はセンターライン重視という考えはなかったのか?
数年後に石毛と伊東が入ったのでというのは結果論でしかない。
昭和50年代前半の巨人は長嶋監督時代だったが話題の提供が多くて優勝の印象が少なかった。
とにかく、王の本塁打世界記録、長嶋監督自身の話題提供、江川事件、後楽園球場の日本初の人工芝敷設くらいしか印象が残っていない。
でも、この頃のプロ野球と高校野球は巨人が優勝しなくても面白かったな。
高校野球は逆転のPLの全国制覇、浪商のドカベン旋風、簑島高校の延長18回を経験した上での春夏連覇。
プロ野球はパリーグは阪急、近鉄、日ハムが強くて、阪急は日本シリーズ3連覇を達成した。
西武ライオンズも、この頃に創設されて、強くなる全盛期の直前の時代だった。古い後楽園球場と比較しても新鮮で斬新な球場だった。
セリーグも、ヤクルトが日本シリーズで初出場で初優勝を後楽園球場で達成した。広島カープの日本シリーズ連覇と江夏の21球の印象が強い。
大洋ホエールズも川崎球場から横浜スタジアムに移転して、新生・横浜大洋ホエールズに生まれ変わった。
とにかく、巨人は話題の提供だけで、色々な球団がリーグ関係なく強くなり、巨人以外の球団と選手に対して関心を持つ時代になった。 岸川は晩年ずっと控え扱いといえ巨人放出で優勝日本一を経験できたからまだ良かった パリーグは根本さんが黄金期を作りそれに対抗した歴史があるから強い。根本さんはどういう選手を好んだかを考えればわかる 根本さんは選手としての実績はほとんどない。
監督として采配がうまいわけではなく、チームは強くない。
しかし、選手の獲得、チームの編成、選手の育成では大変な実力がある。
こういうタイプの野球人は根本さんくらいしかいないのではないか? >>375
西本上田は獲得はあれだが大型選手育成はうまい。
巨人は最近のドラフトみても根本さんの真似してるとにかく体の大きい奴を
とるという。 逆行してるのが楽天かな。
巨人に関しては捕手の育成がやばすぎる。 大城起用では無理と思ってたが
2戦終わって大城起用について言及されだした
山倉の呪い森拒否った呪いはバンビーノの呪いやヤギの呪い並みだと思う 83年の西武も黒田だとリードはうまいが松本に走られる・大石だと肩はそこそこだが
巨人打線に読まれる。 伊東を抜擢してそこからレギュラー街道
巨人も岸田あたり行くべきだと思う。
巨人の捕手のリードを根本から叩き直せるコーチって外部でも外国人でもよいから
誰かいないなかな。
巨人が優勝できないと4番原が叩かれるが山倉に対しての言及がなかったのは不思議
あとは84年以降の松本。 早稲田で長嶋の息がかかってるから批判できないかな >>378
達川とか思い切って 呼んでみればいいのに >>378
それこそコーチに伊東勤呼んでくればいい 79年から81年 食事とかは豪華になってたのかな。 1975年3月10日付の都区内〜博多間の乗車券が4,510円+新幹線特急料金4,200円の
合計8,710円だからまだ安かったけど当時の客車2段式B寝台が1,900円だった
1975年3月10日(ゴーサントオ)付東京〜博多は最短ひかりでも7時間弱を要し、
東京6:00発のひかり21号だと博多13:01着、東京8:00発のひかり3号でも博多着は14:56で出張には使えないかったけど
名古屋や関西からの北九州出張なら時間的にも有効的で
東京から考えると仕事で使えるのはせいぜい広島圏くらいなのがお分かり頂けるだろう
因みに上りのひかりの最終列車は博多16:24(16A)23:20東京と博多15:54(118A) 23:44
東京で帰路も最終の東京行きは早く終ってしまう
以上までを考えると飛行機の方が早く時間も有効的に使えるため、山陽新幹線全然開通が決まっても飛行機を使うビジネスマンが少なくなかった
新幹線は深夜の軌道点検や架線点検などや工事などで起電停止している区間もあるため、深夜から未明そして早朝までは走れない区間が多い
東京から小倉や博多に新幹線で行くという手段選択をしている時点でそれはもうビジネスではない時代になってしまったからね
東京-九州のビジネス需要が航空機鉄板となり、新幹線も高速化した今、走らせる意義がなくなった。
あさかぜは観光列車として成立する区間じゃないからね
博多あさかぜが1994年か1995年に廃止になった経緯は殆どの乗客が山陽線沿線のビジネス需要だから下関あさかぜで充分だったが
それでも廃止になったのを今から復活させる必要はない 今の若い奴は夜行列車に乗れないし、無職や非正規就労が多い貧祖負け組なので激安バスで満足みたい
鉄道旅(旅行)の楽しさや面白さが全くなくなってしまったと言う面では
「昔の方がまだ格段に良かった」と言わざるを得ないよね
夜行列車での移動自体が何重の意味でも遥か昔の思い出になってしまうんだろう
夜行列車自体がほぼ完全に消えた上に、長距離移動自体がやりたくともできないってことにもなりそうで
ただの移動だけで列車旅の楽しさも面白さも今はないよ
つまらん時代になってしまった
そもそも東京から福岡に行くのに新幹線が一般的だった時代なんて、あってもほんの僅かだろ。
新幹線が開通した昭和50年だと、今ほどではないにせよ、福岡行くのは飛行機が多かっただろう。
東京〜北九州出張で新幹線を使ったのは1975年3月から1980年くらいの間だったが
その後は羽田空港〜板付空港(現在の福岡空港)を飛行機移動が多かった
あさかぜ1号だと博多着が10時53分、あさかぜ2号の博多着が11:23で仕事としては使えない時刻で
後にあさかぜ2号は廃止になって臨時格下げして博多あさかぜは1往復体制になったが
上りも博多発が16:58では出張帰りにはまだ早すぎるし、
山口県や広島県内から乗るなら出張帰りでも丁度よかった感じだけど下関あさかぜや
はやぶさ・富士・みずほ・さくらもあるから博多あさかぜに拘る必要はなかった。
昭和50年頃って国鉄が毎年値上げしてた時期かな
それで東京対九州は飛行機利用に逆転されたんだろ まだ飛行機が高かったけど速いし福岡空港は市街地に近い 当時の週ベでフロリダキャンプの朝食風景見たけど和食でなくフォークとナイフ使ったパンケーキ主体の洋食だったな この頃の西武は不気味なチームと呼ばれていた。
まだまだのチームだがこのチームの底知れない可能性を不気味な形でみんな感じ取っていた キャンプでもっとシゴいていたら80年と81年の終盤大失速はなかったと思う。 田淵の証言
79年アメリカに行く前に伊豆でキャンプしてたそうだがグラウンドは整備されてなかったが
食事は本当に豪華だった模様・。 田淵が驚いたということは、当時の阪神より食事が豪華だったんだろうね
一方、田淵と交換で阪神にトレードされた竹之内は、阪神の福利厚生の手厚さに
驚いたらしい >>385
ただ創設期だっただけに練習場所とかは初年度に関しては整備されてなかった
みたい。 アメリカキャンプがひどかったと話してた
その食事の豪華さも資金関係なく82年から数年食わせてもらえなくなる。
野球選手の福利厚生って?? 阪神ならデパート割引とか??
松沼の弟はスーツとか拘りなく西武デパートで買える範囲のものを割引
特権で買ってた。 渡辺久は青山とかでブランド物買いまくってたという話 セリーグで一番食事がひどいのはヤクルトだと思う。 吉井いわくセで期待したら
近鉄とあまり変わらないとのこと
昭和時代巨人は食事が豪華すぎて嫌う人がいた 福利厚生がいい割にはバースの息子の保険は入っていなかったんだな 第1期の金田時代のロッテは良質な肉がかなり出てたそうだがキムチ鍋とか
ダッカルビ−とかプルコギとか出てたのかな
広島も年俸が安いといわれるが食事が豪華。むしろ広岡がコーチ時代メスを
入れた話。 75年の優勝争い時は遠征先で昼から松阪牛とかのステーキとか
出てた 当時はダッカルビなんてものはない。
基本金田鍋の思想がベースだからキムチもない。 金田監督時代は二期の時も超豪華だったって話
小宮山が入団してキャンプに参加して
食卓を見たら並びきれないほど皿が並んでてビビったって話をしていた あと小宮山の話で面白かったのが村田兆治は現役の最終年ですら
早大野球部を出たばかりの小宮山が付いていけないようなキツい練習をしていたって話 阪神の暗黒時代は寮の食事が粗末で量も少なくて、選手がカップ麺を食べる有様
結果体の線が細い選手ばかりで、試合で力負け&長打も打てなかった
80年代からパも買い食い出来る程度の年俸水準だからブランド品や高級車の代わりに食い道楽へ
――
www.zakzak.co.jp/spo/news/201001/bas2010010002-n1.html
2020.10.1
合宿所の体重計にあがった南海の香川伸行捕手(右)。針は106キロ、小池兼司・一軍守備・走塁コーチはヘェー =1980年1月12日、堺市中百舌鳥の南海「秀鷹寮」
1980年2月6日、キャンプ初日。大方球場は大興奮に包まれた。例年ならファンも数えるほどで報道陣も多くて20人。ところがこの年は「ドカベン」香川伸行をひと目みようと、
初日から100人以上のファンが詰めかけ、報道陣もテレビカメラ7台、記者150人。至近距離からの撮影は禁止。練習中にむやみに声を掛けない−など、異例の報道規制が敷かれ、香川の行くところを人々が波のように動いた。
久しぶりに見る香川はちょっぴり痩せていた。年明けに合宿所「秀鷹寮」で行われた身体検査では、ベストより16キロオーバーの体重106キロだった。実は1月12日の自主トレ初日、香川は練習開始35分、ジョギングの段階で腰の異常を訴えてリタイアしていた。
「高校のときから走ると腰が変になる」
と半べそ状態の香川。さっそく緊急コーチ会議が開かれた。まずは食生活の改善。食事の量を減らすより、大好物のコーラやジュースなど糖質飲料を全面禁止。そしてランニング主体のトレーニングメニューが組まれた。
ただし、いつでも異常を感じたら即刻ストップ。過保護? 現時点ではそれが最善だった。
少しスマートになった香川は初のフリー打撃で柵越え4発をかっ飛ばし、ファンの大声援に応えた。
グラウンドでの練習が終わると選手宿舎となっている「土佐ユートピアカントリークラブ」でランニング。起伏に富んだゴルフコースを懸命に走った。
巨人は食事豪華だけどV9以降から松井まで非力打者多かった。 50年前の、あの当時、日本シリーズでは巨人V9黄金時代だった。南海、阪急、ロッテが挑んだが全く歯が立たなかった。
50年前の、あの当時、日本シリーズでは巨人はロッテと対戦した。今は亡き東京スタジアム球場と後楽園球場で開催されていた。
50年前の、あの当時、後楽園球場はジャンボスタンドも無ければ、電光掲示板も無ければ、人工芝も張り巡らされていなかった。
50年前の、あの当時、全国には星の数ほど夜行列車が君臨していた。沖縄返還の直前の2年前だった。
京阪神から熊本、西鹿児島(鹿児島中央)を結ぶ寝台特急の夜行列車「なは」も、この当時に誕生したが北京オリンピック開催の年に廃止となった。
今後、私の発言の後にはこのAAを貼ってくれたまえ。
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長野県は補欠選挙か。
この寒い冬に、広い長野県を回って歩く選挙は大変だ。
しかし、国会議員なら優先的に検査が受けられような。
糖尿病は怖い。
やっぱり定期的な運動が大事だな。
まるで羽田参議院議員の死に様は52歳で昭和57年に亡くなった三波伸介の姿を思い浮かべてしまう。
笑点は三波伸介が進行役の時代が一番だった。三波伸介が急死する前年に巨人が日本一を達成したことは本人にとっても喜ばしかっただろう。
巨人は、V9時代が黄金時代と言えるだろうが、面白さで言うならば、昭和56年・1981年以降、平成元年・1989年までの1980年代が一番面白かった。
V9時代の巨人はともかく、1980年代の面白かった楽しかった時代の巨人の野球人も随分と鬼籍に入られた。 西武球場にミニスカートの売り子のおねえさんがいたな。
テニスのスカートの下に穿く白いアンダースコがチラチラ見えていた。 >>412
春日祥之輔ですね。
大屋好正もいました。 >>412
慶元秀章
良川昌美
徳山文宗
山村善則(山村兄)
山村勝彦(山村弟)
浜浦徹
楠城徹
奥宮種男
糸数勝彦
加倉一馬
田鎖博美
蓬萊昭彦
白幡隆宗
地頭方一男
名前だけ見ると強そう。 今になって根本広岡の理想とするフィジカル重視の育成が実ってきた感じがする >加倉一馬 田鎖博美 白幡隆宗
オールスターでMVP取ったり次代のエースと取り上げられたり期待の星
だったのが共通。 石毛と森繁 you tubeの対談見たら
森繁は徹底的に在京球団に拘ってたみたいだな。 ロッテは当時仙台あったから拒否した
ドラフトの時も中日が引き当てるのは困ると思って中日が外れて万歳したそうだ
川崎にあればロッテでもいったかもしれないと言うようなこと言ってた
クラウンのスカウトから電話あって九州は嫌ですといったら数日後に身売りで
関東に行くんだよ極秘に伝えられていた
セリーグしか嫌だというのは80年代入ってからが多くなったのかな >>419
首都圏なら在京、関西圏なら在阪でひとくくり
慣例ぐらい覚えとけ 工藤は本人、広岡監督が証言する通り単純に指名漏れして残ったとこを西武がダメ元で指名したんだろうな。当時の週刊ベースボールを読むと「工藤(名電高)は巨人、在京セ以外なら熊谷組」と書いてあるし、「1位候補!」というほどの高い評価でもなかった。愛甲が言う「工藤は乱獲批判されたプリンスホテルだとマズイので熊谷組を事前の了承なしで隠れ蓑に使い、まんまと指名した」とやってるが話を盛ってるような気がした。この1981年のプリンスの補強はおとなしかったし第一、熊谷組を
そういう使い方したほうが批判の対象になるに決まってる。西武がどうしても工藤が欲しければ1位か2位で指名してたはず。6位ではそれこそ他球団がダメ元で指名してきた可能性がある。 >418
森繁は他のインタビューで、ロッテ拒否は大学先輩の野村収が在籍時に金ヤンの走らせ過ぎる練習で
これじゃ壊れちゃうよとアドバイスされたらしい。
当時は仙台とはいえ、選手は東京近隣住まいだったしね。まあジプシー球団は嫌か。
>422
どこまで本当かはわからんが、工藤家かなり家計が厳しいようだったから破格の条件が決め手のはず。
スパルタだった父親が突然プロへ行けという命令出してきたっていうから。 >>423
石毛のYouTubeチャンネルでゲスト出演したときも、当時のロッテが仙台を主な本拠地にしていたことを、拒否の理由に挙げていたね 松竹時代も大阪スタジアムが事実上の本拠地だったというし、在阪球団と見做しても間違いでは無いかと。 森繁は川崎固定された78年以降ならロッテはOKだったのかな???
日本ハムと中日比較してナゴヤ行きたくないからくじで外れてラッキーと思ったのは
意外だった。 いくら在京でもハムよりはセリーグの中日のほうが待遇とか良いはずだし 高木豊のyou tubeに広岡さんが出るそうだ。 近日公開だとか >>426
森繁の跡を引き継いだ今の中日監督も中日に指名されたときは「在京セ・西武・日ハム希望だったから…」
と不快感丸出しだったよ >>428
ロッテの立場……
まあ、90年頃なら妥当な判断だけど。 与田は千葉だが、母一人なので残して遠くへ行けないとか言ってた。
ただプロ野球選手なら一軍にいればどちらにしろ遠征ばかりだし、この辺の発言は怪しいけどね。 川上憲伸さんは日本ハム拒否してナゴヤ行ったね。 四国出身だからできたのかな。
西武がドラフト指名した岡田は阪神希望だったがウィキによると在阪なら行ってたかも
というくらいだしやはり生まれ故郷に近いとこは別なのかな。
東尾は福岡に家族残してた時期があるらしいがその時に広島にトレードされたら行く
みたいなコメントしてたくらいだし。 福岡に一番近い球団 憲伸は地縁じゃなくて学校じゃない?
やっぱ明治−広島というルートは未だに違和感あって
明治は中日、法政が広島この方がしっくりくる 川上の時は星野だったからね。
岡田は在阪球団すべてに指名されてたんだ。 武田もFAで年俸を大幅に上げようと目論んでたら
星野に一喝されたら一発で現状維持据え置きのまま中日入りだったからなあ
まあ武田は代わりに今の職があるわけだから
目先の年俸よりもよかったのかな と思ったけど年俸自体は複数年でキッチリ上がってるんだな
勘違いしてた >>429
この時点でいい加減気づいてなきゃいけないのに、一年後…
(小池と)同居していたS君(会見直後)
「ひどいですよ。あんなに行きたくないとハッキリいったのに。
小池は今泣いています。そっとしてやってください。」
S君(小池行方不明後)
「今日、どこにいるか、僕も連絡待ちなんです。アイツはしっかりした奴です。
その小池が、こういう行動に出たことをわかってやって下さい…」
矢野・亜細亜大総監督
「今はかわいそうで何も話せません。しっかりとした球団じゃなきゃ、行く必要はない。」
小池が最も志望していたというヤクルト1位指名の専大・岡林投手は
「小池を考えると複雑です。素直に笑えませんでした。」
大洋1位指名の福井工大・水尾投手は
「昨日(ドラフト前日)も(電話で)話したんですが、ロッテは論外といっていました。」
ヤクルト3位指名で小池のチームメート高津投手は
「ボクはどこでもよかったのに…一緒なら本当によかった」と目頭を押さえた。 まあ当時のロッテはそう言われてもしょうがない面はある
オンボロの川崎球場だしな
福岡野球時代のライオンズが貧乏だったのは親会社を考えれば仕方ないが
親会社のロッテグループの規模を見ればあんな劣悪な環境なのは
「野球についてやる気が無い」ととられる ロッテって球団が黒字になったのだってここ2〜3年の話だからな
20年以上前の当時やる気無かったのは間違いない 戦後に建てられた川崎球場は神宮や後楽園より全然新しい球場なのに、
修繕予算が乏しいままだと悲惨なことになるな 川崎は大気汚染が特に酷かったので球場が傷むのも早かった >>422
プリンスホテルで豪奢なディナーで入団交渉したら工藤も両親も感激してしまって
入団を決めたんだとか
貧乏人を落とすのにはいいやり方かもw 工藤は鳴り物入りで入っては来たけどプロで通用するか微妙なレベルの投手だった。
うちにもし来てくれれば鍛えれば物になるだろうという広岡さんの公算があったのだろう
工藤もそれに見事応えてくれたから良かったね
地獄の猛練習は無駄ではなかった。西部第二球場は伊東キャンプそのものだった。
いやもしかしたらあれより物凄かったかも知れない。工藤もよく耐えたと思うよ。 昭和60年の春、「西武の先発は工藤」と聞き「郭が入団したとはいえ西武も投手いないんだな・・」と
感じてたら、そのままスイスイ完投勝利し「まぐれだろ・・」と思ってたが、ずっと勝ち続けた。 http://2689web.com/1985/LH/LH12.html
春というか前半戦終了間近の7/9南海戦(大阪)ね
圧倒的独走の余裕をもっての先発
それまでの工藤は左の中継ぎとして永射より格下扱いで主に負け試合で登板していたが、
この完投勝利の結果、後半戦故障離脱した郭に代わってローテ入り。
14先発8完投で規定投球回数に到達。自身初の防御率のタイトル 入団時点で工藤のカーブは一軍級と広岡は評価しており
二軍で育成すると舐めたピッチングを覚えると一年目から一軍帯同
かといって先発できるほどの力量かと言われるとそこまででもなく
主に中継ぎとして登板
3年目にアメリカ留学、4年目に先発転向 小柄だし高校生では打てないカーブが売りだったけど、プロであそこまでの投手になるとは予想できなかっただろうな。高卒ルーキーで一軍デビューはしてたけど、小さくまとまった投手という印象だった。 広岡は同期で巨人入った槙原は2軍で1年熟成させたけどあれができる巨人が羨ましい
と言ってた。 西武はまだそこまでのフォーム組織はないといってた
だから1年目から1軍で起用したと
槙原は83年に無理使いしたと藤田監督は後年後悔してた。 故障したのは俺のせいだと 森繁と田淵の話によると西武1年目練習場は確保できなくて無茶苦茶だったが
下田のプリンス泊って食事だけは豪華で楽しかったといってた
数年後 資金はあっても食わしてくれない事態になるとは・・・・・ >>445
そんな投手を阪神打線は続けてノックアウトと 金村義明は工藤と同期でライバル心からか当時余り仲が良くなかった
今はどうなんだろうね?お互い明るいので仲良くやってくれてるといいけど。 >>448
ただ選手にとっては使ってもらった方が嬉しいってのがあるからね
王の「ピッチャー鹿取!」の時期について鹿取は
酷使と言われたけど「あの頃は幸福だった」と回想している
今も王と鹿取は仲が良い 中継ぎ一イニングで勝ち試合のみに登板って酷使かなとも?
ロングリリーフだったっけ? 鹿取が789の三イニングを投げた時があって王監督もさすがに明日は登板させられない
なんて言ってたのは覚えてるけど 鹿取が一番登板した87年は63試合で94.2回
勝ち同点での投入はもちろんだが僅差負けでも突っ込んでいた。
また出番も角サンチェ鹿取の順番をとっかえひっかえしてたので○回に登板
と固定されてもいなかった(最終的には鹿取がストッパーに収まったが)
イニングの頭から最後までキッチリ投げるというのも
00年代に入ってから確立した概念で、
主に打者の左右に合わせてイニング途中で交代するのが定石だった。
まあ今に比べて中継ぎが調整しづらい時代ではあったな ONの銅像が立ったら、長嶋の銅像には「巨人軍は永久に不滅です」と書かれ、
王の銅像には「ピッチャー鹿取」と書かれるってゲンダイで揶揄していた まあ
桑田、槇原、水野にベテランの西本、江川、加藤初と
バランスは取れてたわな
使い方が下手だっただけで 高校時代の工藤の評価は石貫(西日本短大付属高〜広島2位)とか杉内(鹿児島実〜三菱重工長崎)の
高卒時と同じくらいの評価だった。 甲子園でノーノーやってる(相手は格下だが)という点で杉内とは共通してる。
杉内も高校からプロの可能性もあったが、上背がないことや同期の評価より落ちるので社会人入り。
(まあダイエーが囲ったと思うが) >>443
西武関係者?
当時、西武第二球場で猛練習などマスコミでは報じられてないが。 あの当時、巨人以外の二軍について報道するメディアなんか地球上のどこにも無いから 自分に酔って話を創作する君がこの辺の時代の西武阪神スレに漂ってる >463
粘着質な奴。
自分から何にもしない、出来ない人なんですね。 >>461
地元のファンにはタダで見られるからって結構第二で練習に見てた人いたよ >>464
君みたいにオナニー丸見せでしかもどのスレでも特定可能な方が
遙かに恥ずかしいと思いますね いっとくけど君みたいなオナニーじゃなくて
もっとまともな書き込みもしてるからな しかも煽られるとどこのスレでも耐えきれずにヒス起こすのな >>28
衰えまくってこれだけど
大石よりは打ってる 1割打者に対して2割そこそこが「打ってる」って言っても
それ以上に肩の衰えが顕著だったからなあ
http://2689web.com/1980/LB/LB23.html
象徴的なのがこの勝てば後期優勝マジックが点灯という試合で
先発出場した野村が福本簑田らにさんざんかき回されて、
試合を落としてそのまま6連敗
結局西武初優勝の夢はあと2年お預けとなる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています