>>436
この頃から大振りのホームランバッターから川上のようなアベレージタイプへの打撃改造の最中だったのが大きいかと。
当時自身が綴っていた日記(徒然草日記)にも、川上に対しての熱烈たる思いが吐露されている様で。

1948年に.266 16本に終わったのが余程堪えたと思われるが、大下自身は苅田監督から「ホームラン狙いのバッティングで三振ばかり増やすなよ!
川上のような打撃が真のチームバッティングなんだよ!」と叱責指導されたのが切っ掛けと述べている。
それが1951年の.383 26本 18三振として結実する訳で。
それにしても、いよいよ無敵と思われたこの年のシーズンオフに退団引退騒動が勃発したのが(´・ω・`)