●原辰徳は80年代最強打者だった2●
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原は当時の130試合超満員の後楽園球場とビジターで
毎夜のナイター全国中継は視聴率25〜30%・ラジオ中継すらほぼ全局巨人戦
あの世界の王貞治引退直後の後継を任された重責・重圧・期待値
表ローテ&エースばかりぶつけられる巨人でなく
(※プライベートも週刊誌等のマスコミに追われる監視世界)
原のクジをはずした大洋・広島・ハム(あるいはパリーグ)に行って閑古鳥球場の裏ローテを相手に気楽にプレイしてれば
安打は毎月3〜5本、ホームランは毎月2〜3本は増えたから
打率は4分〜6分、本塁打数は12〜18本は増えた
これを原のケガ前のまともに出場してた頃の打率.278〜.307と本塁打27〜36本に足すと(81年デビュー初年度は除いた)
安打は毎月3安打プラスの4分足すと毎年.318〜.347 毎月5安打プラスの6分足すと毎年.338〜.367
本塁打は毎月2本塁打プラスの12本足すと毎年39〜48本 毎月3本の本塁打プラスの18本を足すと毎年45〜54本くらいは打てたことになる
特に両部門の前者(毎月3安打+と毎月2本塁打+)による年間トータルは現実的な数字ではないか?
突出は無くとも長年安定した成績を残したが巨人に入ったばかりにピーコやオッチのような球聖になり損ねた原
前スレ
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/meikyu/1445717608/
昭和58年9月@神宮ヤクルト戦9回逆転3ラン
これでMVPが決まった 昭和60年6月阪神戦@後楽園
9回表クロマティの超ファインプレーでピンチ脱出。その裏原サヨナラホームラン。 教え子の坂本に受け継がれたようにポップフライが多かったと言われるが
原はスラッガーにしては三振が少なかったからな
清原・秋山・池山・柳田・おかわりなんかは三振数ものすごく多いけど 昭和61年6月広島戦@郡山
延長10回に津田から打った同点ホームラン 原選手が国民栄誉賞をもらえないのはなぜでしょうか?
国民の注目を浴びた時間を価値に換算すれば日本一のスポーツ選手ではないでしょうか。 80年代の頂点に立つアスリートは千代の富士で確定している
客寄せパンダの原クンは、ドカベン香川やアニマルレスリーと同じカテゴリだ 昭和62年4月広島3回戦@後楽園
代打満塁ホームラン オールスター通算 .168
マジ((((゜д゜;)))) 昭和63年7月中日戦@札幌円山
延長10回サヨナラホームラン イチローや松井だって10割は打てない。7割は失敗する。
当時の原は10割打てないと叩かれまくられるようなちょっと見ていて気の毒な立場だった。
原もレギュラーを外されてどうでもいい立場になったら特大ホームランを打ち出した。
そんな伸び伸びとした環境でプレーして巨人だけに拘ってなければもっと凄い成績を残せた
のではと思う。 >>11
ワーストグラバーで二死得点圏打率が低いカスブサイク松井と原さんと一緒にすんじゃねえよ 長嶋さんと原さんが国民栄誉賞を受賞すべきだった
かれらは巨人軍の4番として1000試合以上を勤め上げている
その半分以下で逃げ出した松井に受賞資格などないだろう 平成元年10月大洋戦@横浜
優勝を決定づける決勝ホームラン 平成元年10月日本シリーズ第5戦
それまで無安打だった絶不調原が満塁ホームラン。
これで勢いが付き巨人逆転日本一。 腹立つ徳と言われてたけどね。
チャンスに弱い印象がどうしても強い。
数字で見れば勝利打点も多く稼ぐチャンスに強い選手なのだが露出度が突出
して高かった人なので印象だけで見られていて気の毒だったね。 打点王にもなっているしチャンスに弱いという事もないはずなんだ。
ここ一番に弱いという事もなくそれは勝利打点の高さにも出ている。
全ては印象なんだよな。10割打てないと叩かれるちょっと気の毒な立場にいた。
今では考えられないような物凄い重圧だ。 最強かと言われたらどうだろうね。
他チームに行ったら7番程度の打者だとはよく言われていたよ。 要はタイトルが少ない それだけ
強打者だというのなら、HR王を一度でも取らないと格がない >>17
勝利打点が公式表彰項目から外されたのは、勝負強さの指標として不十分とみなされたから 原がときたま勝負を決めるようなヒットやホームランを打っても
お前がもっと早く打っておけば楽に勝てたんだよみたいな評価だった 落合が巨人に来るのを本当に嫌がっていた。
原の引退試合で落合が差し伸べた手を振り払ったのが印象にある。 ラジオ中継すらない
外野席にはみっともなく鉄塔が建ってる
内野は汚ったない土の 外野はボコボコの禿げた芝生で
観客毎試合50人のスカスカのガラガラのそうめんのレフト外野広告はコンドーム会社で
万年Bクラス&西武に春から何10ゲームも離されてるオリオンだからと相手は毎節三線級の裏ローテの
ノンプロ以下の環境で無双してた銭ゲバあんちゃんのチート成績と比べるのはちょっとな 84年6月末で .239 11本
これではバッシングも仕方ない
吉村の存在もあったかなとも原が今一つ目立てなかったのは。 84〜86の今一伸びきらなかった成績と王監督下の巨人としては長期のV免と相まって
印象が低下してしまったな ホームラン36本も打って戦犯扱いだったな。10割打たないと許されない。 >>30
1986年の原の得点圏打率は.233
同年、清原はルーキーながら.326
36本も打ってこのザマかとボロクソに叩かれるのは当然だった 平成2年7月7日大洋戦@東京ドーム
逆転満塁ホームラン やはり打率だな。秋山も清原とAK砲と称されホームラン40本打っても打率が2割4分と低かったのでやはり
打撃に関しては良くは言われていなかった。 >>23
初めて聞いた話しではあるが、
本当なのだとすれば、それは流石に良くない
原って、そういう感情は押し殺せそうな印象あるけどな ON,山本浩二、落合と比較すると
原の得点圏打率の低さ母は話にならない >>35
落合って雑談で誰がいくら貰ってるとかゲスい話ばかりしてくるから原は閉口してたんだよ。
何事にも原因があるの。 巨人の4番打者はすなわち球界の4番打者
しかし原が4番を務めていた期間は、まるまる西武の黄金期
盟主の座を一度たりとも奪還できなかったのは、原の力不足としか言いようがない >>38
西武との違いは、原の前後を打つ打者が中畑やクロマティみたいな中距離打者しかいなかったからだよ。
秋山清原デストラーゼの打線とは大違い。
原だけに主砲の役割背負わせられたからきつかった。
やっと吉村が出てきて負担を半減できそうになったら吉村が怪我で終わり。 84 35
85 32
86 37
87 28
これで中距離はないわw あんな狭い球場をホームにしていながらホームランを40本以上打てる人が松井が出てくる
まで王さん以外にいなかったんだよ。中距離しかいなかったと言われても仕方がない。 原は打率が低いからな。原が通算3割打ってたら中距離打者の評価だろう >>45
そうだよ、
ONでいえば本来はNの役割だったのに、
一人でON両方の役割を背負わされて無理してホームランを打ってた ホームランは一度も40本台に届かず長距離打者失格
通算打率も3割に届かず中距離打者失格
やっぱり原は並の打者どまりという結論 >>48
田尾も同じようなこと言ってたな。
もし横浜あたりに入れば伸び伸びやれて足も速かったから3割30本30盗塁みたいな選手になったかもと。
しかし巨人ではONの後釜扱いでそうはいかなかったと。
>>49
お前よっぽど原が嫌いなんだな。ここはアンチスレじゃないんだが。 ON知らない世代だから原がヒーローだったのは間違いないが、
他チームの4番や外人と比べれば、並とまではいかぬまでも、
中の上くらいでしかなかろう
偏差値58くらいのイメージ ファザコンだという事を阪神ファンからよく野次られていた。 クロウは四割打者だからね。やはり中距離といった所か。 原って通算WAR46しかないのな
掛布が50だからほぼ同レベル
高橋慶彦や谷沢は30台
ONのころはリーグのレベルが低すぎたからな 原は85年の津田からの死球で半ば終わったも同然だった。 1年目22本で2年目33本なのは順調すぎて凄いと思うわ
石井浩郎とかも1年目22本だっだが翌年21本に落ち着いたからな >>56
86年。死球ではない。
8月の中日戦で守備時に手首負傷。数試合休んだだけで無理して試合出ていたが、
それがもとで怪我が悪化。その状態で9月の広島戦で津田の速球を全力スイングし骨折。 83年の日本シリーズで東尾からのブラッシュボールにビビったことで、デビュー以来保ってきたカリスマ性は完全崩壊した >>50
毎年3割打てる技術はない
配給を読むタイプでもないし
力量的には.280 30本
野村克也 >>57
1年目31本で、その後一度も40本クリアできなかった人もいるが 毎年3割30本打てる選手なんて数えるほどだがな 落合は1987年原にHR負けた28本 >>60
東尾は現在の危険球一発退場ルールでは10勝もできないレベルのPだろw >>64
勝ちゲームを作った上でキッチリ反撃を断つのが東尾のクレバーなところ
相手を逃げ腰にできるなら退場など屁とも思わない屈強なメンタリティは西鉄戦士のDNA継承者の証 >>61
ノムこそそれこそ
裏リーグのパリーグの不人気南海で
観客30人のド狭い閑古鳥大阪球場で
気楽にノンプロ野球の成績挙げてた第一人者やん >>65
だから当時は退場にできないルールだったからのさばってただけだろうが
いきがって馬鹿か ノムはそんな裏リーグのノンプロ南海電鉄で
最高打率.320なのな
近代プロ野球で.340打った阿部には頭上がらんなw >>48
というよりONのNの役目が中畑でしょ
Oが原
さすがに中畑では長島の役目は無理だわ
それで両方求められたどっちつかずの原のバッティング
(.285 35本 ホームランも狙うためポップフライ王) になった 87年が原と吉村にとって、二人のベストシーズンが重なった年って感じだわね。
翌年は前年に比べると、やや不調気味ではあった。
返す返すも吉村の怪我が惜しい 東京ドームで30発は巨人だと96年松井まで88年原しかいなかったからむしろダントツベストシーズンだろ >>64
東尾って縦の変化球も凄いんだよ。
だからストライクゾーンが低くなった87年の成績は工藤と競い合うくらい凄かっただろ。 だから87年以降の東尾が楽しみだったのだが色々あって引退しちゃったね。
ちょっと勿体なかった。 リストで持っていくタイプだから嘗ての秋山幸二のようなタイプなんだね。
秋山はリストを痛めてからは打法を変えたけど原はリストを痛めてダメになった。
秋山はリストの他にも腰もダメにしたんだけどね。
やはり身体能力の差だろう原と秋山との故障後の差は。 ジャンパイヤにマスコミが味方で
40本打てないのは致命的 マークが厳しいってのはあるね。
だから巨人で40本以上打てる選手は松井が出てくるまで王さん以外ではいなかった。 掛布によれば吉村がいなくなったのが痛かったと。王に対する長嶋のような。
中畑じゃ足りないし、篠塚はちょっと違うしな。クロウがいたけど。 王長島
山本衣笠
掛布岡田
になるはずやったんやけどなぁ 原の後の4番は吉村の予定だったから痛恨だったろうね
駒田がそこそこやったけど中軸では物足りないし 松本があと1年現役だったらなあ。
そうすれば栄村が抜擢されることなかったろうし 87年の松本なんて殆ど印象ないんだが、
調べてみると100試合出て、400打席近く立ってたんだなぁ。
87年の一番打者は駒田という印象なんだが、
印象なんて当てにならんもんだw 駒田原中畑の故障で一塁に入り打席稼いで
実際松本の代役で外野で出だしたのは終盤だからな >>83
1987年の序盤、松本は好調だった。
あの年は打撃ベスト5を巨人勢が独占する瞬間もあってそのうちの1人だった。
原、中畑、篠塚、吉村、松本
逆にクロマティが不振だった。 >>83
印象が当てにならないと言えば、56年の松本はシーズン通して活躍してたような
印象だけど、実際は出場試合数115はともかく、打席は284に過ぎず、規定打席
には程遠かった。 どうしても終盤から日本シリーズの
メンバーや打順のほうが印象に残るからな
86年清原とか最後の4試合と日本シリーズくらいしか4番打ってないのにその年のファミスタで4番だったし 1986年清原は超帳尻3割だったな 勿論立派なもんだけど
>>87 打点が少ない(78点)のは下位だからか。 原と清原は長年4番を務めて100打点超が1回しかないのはいかにも寂しいな
王は11回と別格だが長嶋や落合も4回記録しているし山本浩二も3回
中田翔ですらもう2回記録しているのに 清原の100打点1回ってのが巨人時代ってのも意外だわねぇ
チーム全体が強いとつなぐ打撃に徹することができるとか、そんな感じなのかな。
中田は今の144試合制だから、1割くらいは差し引いた方が良いと思うけどね。
>>85
そういえば一時期4割とか打ってたね、
もちろん開幕直後だったと思うけど 調べたら4月22日の大洋戦で4の4で4割1分3厘に乗せてるね。
これが11試合目。
6月24日まで3割台をキープ >>92
どう贔屓筋目に見ても
巨人より黄金時代の西武の方が強いだろ そりゃ出塁率鬼の松井の後ろ打てば打点稼げるだろ。 2001清原 >>94
無論、西武の方が強いと思ってる。
つなぐ打撃に徹することは、
必ずしも打点を稼ぐことには繋がらないみたいな
感じで書いた積りだったんやわ スマンの (´・ω・`) >>82
唯一の泣き所が弱肩な所。
残念ながら広いドームの移転を機に引退となった。 「親父がいなければ何にも出来ないファザコン野郎」
こうしつこく罵倒する阪神ファンの野次が鬱陶しかった。
まあそれは確かかも知れんがw 内野フライが刺せないんだもん松本は。
よくあんなのセンターで使っていたと思うよ。それを差し引いても松本の足は魅力だった
んだね。二塁打性の真っ二つの当たりは松本に悉く取られて抜けなかった。
そんな松本もさすがにドームではお役御免となったのですね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています