経歴が異色の選手 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>84
片親で地元を離れられなかった上に
当時の島根には硬式の社会人チームが無くて
それで軟式の出雲信金だっけ 大学を一週間で退学
フリーターからプロ入り
人気アナと格差婚するも離婚
数え役満 >>84-85
細かいようだが出雲信用金庫じゃなくて出雲信用組合(今は合併して島根中央信用金庫になってるが)
その信用組合OBだった縁で広島市信用組合のイメージキャラクターとして大野が今も起用されている >>78
昔は親父の力が強かったせいもあってか、今では考えられないような自分勝手な親父も少なくなかった 新庄はもうまともな頭に戻らんのかなあ。
ようはユーチューバーとして吹いてるだけかいな。 超大物だが、杉下茂翁(九十越えてなお存命)
戦争前、あまりの弱肩で、一塁手しか出来なかったのが、軍隊で鍛えられたのか強肩になって復員。
社会人のいすゞ自動車で投げていたのを、かつての恩師・天知俊一のツテで明治大学に入学。
プロで大活躍後、選手兼任監督を二年、しかしこの間は選手としての出場は全く無し。
監督を辞めて中日を退団したら、すぐに大毎オリオンズとコーチ契約。ところが、話が途中で変わったのか、一年だけ現役復帰。
三年ぶりの登板で4勝して今度こそ引退。 >>93
選手兼任監督を二年、しかしこの間は選手としての出場は全く無し
ここが気になるね、きちっとした線引きを持ってる(ケースバイケースで兼任監督が試合出るのは別に悪いことじゃないが)人って感じが
これが今の年になっても臨時的とはいえ現場に出られるコーチングに繋がってるのかね ボール球で勝負するのは邪道だと
杉下さんの代名詞のはずのフォークを
極力投げなかったぐらいだから 昔は直球もストライク勝負?
球威に自信がある投手はやや高めのボール球で勝負すると思うんだけど 落合もプロ入りまではスンナリとは進んでないよね
体育会系体質を嫌い東洋大学野球部を退部→プロボウラーを目指す→東芝府中の野球部に入る 落合もプロ入りまではスンナリとは進んでないよね
体育会系体質を嫌い東洋大学野球部を退部→プロボウラーを目指す→東芝府中の野球部に入る >>82
小林繁は和服姿が似合いすぎるんでおかしいだろ。
普通のプロ野球選手でそんな奴はいない。 巨人にいた森田実
金足農で小野和幸とバッテリー組んだが
社会人野球をすぐやめて巨人の入団テスト合格
しかし高卒で社会人野球に登録された選手は
3年プロ入りできないとの規定で入団できず
しばらく土方やりながら再度巨人テストに合格 大野は高校時代からカープがマークしてたが、既出の通り家庭の事情で地元に残る。
やはり上のレベルでやりたいと、関係者のツテを頼ってテストさせてもらった。
(噂では高校時代同県で投げてた青雲が大学中退して阪神入りしたのが刺激になった) >>101
やっぱり全くノーマークの選手ってわけじゃなかったんだ
あれだけの速球を投げる左腕が全く誰にも知られてないわけがないか 高橋里志
南海で問題を起こして、その年のオフに解雇
他の仕事に就くこともなく、1年が過ぎる
その後、高橋の南海時代のコーチであった
広島の古葉監督から、高橋の制球の良さに目をつけて
バッティングピッチャーとして誘われる
わずか、半年後には選手登録
77年には、20勝をあげる
だが、投手交代に不満でベンチ裏で暴れる問題を起こし
その年のオフにトレードされる 軟式出身の大野はいくら速い球投げるといっても、投球フォームがまったくデタラメだった。
で、それを矯正するために江夏預けに。 軟式出身では、柴田保光も。こちらは高校の途中で柔道から転部して、社会人は硬式で鍛えた。 なぜ、西武は槍投げの選手の日月を入団させたんだろう? なぜ、ロッテは綱取りの力士の市場を入団させたんだろう? 陸上からの転身・淵上魔基。
名前からして異色すぎる。 日月も市場も中学で硬式経験して、それなりの経験者だったみたいだが。 さっき教えてもらって知ったけど市原稔って人
選手として異色というか、選手としては活躍0だったが通訳としてしぶとく生き残ってコーチや球団広報やったりもしてるし、漫画にも出てるw
まさにノムのお陰みたいな人だな。
息子もプロ入りして一応二世選手(通算5安打)
千葉東高校から早稲田大学を経て、1968年のドラフト外で南海ホークスに入団[1]。早稲田大学では野球部に入部するも教員を目指していたことから、学業との両立に困難を感じ退部。
その後、教員試験に失敗したことから南海の入団テストを受験したが、このとき年齢をごまかして受験していたという。
一軍出場は1969年の1試合のみ(守備機会2、失策1)に終わり、1970年に引退[1]。当時の監督だった野村克也から英会話能力を見込まれ、コーチのドン・ブレイザーや外国人選手の通訳として球団に残留した[1]。
その後、通訳だけでなく広報やマネージャーも兼務する。なお、通訳を務めていた頃の活躍が早稲田大学合格と野球部退部、南海へのテスト入団、、通訳転向までの経緯を交えて水島新司の漫画『あぶさん』で描かれており、単行本第8集に収められている。
その中では、唯一の公式戦出場がNHKでの全国テレビ中継が行われた大阪球場での対近鉄戦だったことも含めて、同期だった藤原満による回想という形で描かれている。 >>112
童顔ゆえトシがごまかせたと作中では可愛らしい顔立ちであったが
実物は「あっ アホの坂田や!」とチビッ子から声がかかったとか 新国劇のチーム出身の黒田健吾は役者だったのかは知らないが助っ人か何かかな 20歳すぎてから野球始めてプロ入った人はいますか?
何処のアマチュアチームにも所属してなかったって意味ですけど 元ロッテの長島哲郎投手は、高校のとき書道部だったようだけど、
大学から野球を始めたのだろうか 20年ぶり外国人キャッチャーキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! >>119
ボーイズやシニアでやってたやつに結構いそう 玉木重雄が外国人枠かどうか調べていたら見つけた日系ではないブラジル人のラファエル・フェルナンデス。
ラファエル・フェルナンデス
Rafael Miranda Fernandes, 1986年4月23日 - )は、ブラジルのサンパウロ州サンパウロ出身のプロ野球選手(投手)、通訳。右投げ右打ち。
ヨーロッパ系ブラジル人。サッカーには興味がわかず、クラスメートの日系ブラジル人の影響で野球に関心を持った。
ブラジルのヤクルト野球アカデミーの卒業生。
10歳のときに外野手として野球を始めた。もともとは左利きであったが、「野球は右でやるもの」と思っており右投げ右打ちとなる。カントリーキッズ高校時代はエースとして3度の全国優勝を経験した。
卒業時にはメジャーリーグの2球団から声がかかったが、「高いレベルで野球がしたい」という本人の希望もあって卒業と同時に来日し、ブラジルと交流のある白鴎大学に入学した。
妻はひたちなか市出身の日本人で、2020年現在は同市内に居住している。
シンセリティー硬式野球部からの退部後は、野球とは無関係の仕事に就きながら、現役復帰を目指して自主トレーニングを続けていた。
2017年から2020年3月3日まで北海道日本ハムファイターズの球団職員として、スペイン語の通訳を務めた。
日本ハム球団への採用後も、現役復帰に向けたトレーニングを継続。2017年シーズン終了後の11月15日には、ブラジル代表のユニフォーム姿でMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の12球団合同トライアウトに参加すると、対戦した4人の打者をいずれも無安打に抑えた。
2020年3月3日に退団を発表し、同12日からアリゾナ州で行われる第5回WBC予選のブラジル代表としてプレーすると報じられたが、新型コロナウイルスの感染拡大により試合はキャンセルとなった。 長島一茂は、中学の3年間ずっと帰宅部
最近のYouTubeで言ってる 一茂は子供の頃野球始めたってだけで「ミスターの息子が野球始めた」と
マスコミが追いかけ回すような状態だったからな
それに嫌気がさして一時期野球から離れてた
後にプロになったことを考えると非常にもったいない話ではあるが >>113
坂田利夫に似てたよ
元選手とは想像もつかないぐらい小柄で華奢だった >>123
よく一茂の中学時代のエピソードで書かれてる
「中学時代は陸上部の選手で、100メートル競走では大田区の決勝まで進んだ。」
というのは何だったんだ?って感じ >>118
浪人生の時にやってた草野球が野球やるきっかけになったという話を昔新聞で読んだ記憶がある 小西得郎(監督だけど)が筆頭だろ
旧制三高蹴り→野球のために明大入りを皮切りにいろんな職手を出して
最後は名解説者ぶり 横須賀の現役軍人でありながらバイトでオリオンズの投手をしていたカイリーはもはや漫画 https://www.baseball-almanac.com/players/player.php?p=minchdo01
人生経歴は異色ではないが、この選手、初代セネターズ→ツインズの移転を経験し、
1年で本拠地移転したシアトル・パイロッツ(翌年ミルウォーキー・ブリュワーズ)に在籍した後、
オークランドに移転して3年目のアスレチックスに2年在籍。
その後、今度は2代目セネターズに移籍したが、たった1年でチームがテキサスに移籍して
レンジャーズ初年度のユニを着る。しかし3ヶ月後に再びアスレチックスにトレード。
そのシーズンに、キャリア二度目のワールド・シリーズに進出(1回目はツインズ時代の1966年)。
2勝1敗の第4戦、9回裏1-2でリードされた段階で、この回二人目の代打として出場して
同点ヒットを放ち、次の代打もヒットを打ってサヨナラ勝ち、アスレチックスが3勝1敗で王手。
ワールド・シリーズ史上初の、1イニング3人の代打が全てヒットを放った2番目の打者として名を上げた。
チームは4勝3敗でシリーズに勝ち、自身初のシリーズ優勝リングをゲット。
結果的に、この老いたベテランの同点ヒットが大きかった。
https://www.retrosheet.org/boxesetc/1972/B10190OAK1972.htm
スパーキー・アンダーソン自伝でも「私の最大の失敗」章で、この試合が取り上げられているが、
結果的に、最初の代打マルケスのヒットを防げたのに防げなかった悔いが書かれている。 加藤智男
1936年秋、17歳で名古屋軍に入団、9月19日にいきなり開幕投手を任される(実働1年で4試合0勝1敗)
その後1937年夏の甲子園で長野商業のエースとしてチームをベスト8に導いた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています