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【燃える男】長嶋茂雄【ミスタージャイアンツ】 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001神様仏様名無し様
垢版 |
2016/04/19(火) 19:32:30.84ID:W/GwFmGp
巨人軍の伝説的三塁手、長嶋茂雄について語り合いましょう
0002神様仏様名無し様
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2016/04/19(火) 23:09:22.97ID:Q3zwWuu2
常にお客さんを楽しませようと努力しているプロ意識は
野球界ナンバー1でしょう。
0003神様仏様名無し様
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2016/04/20(水) 06:57:32.84ID:RQVLxol+
んー
だいたい昔は昔のプロ野球を特集した
MOOKが新刊で続々発売されてたけど
だいたい巻頭見開きはOとNだったな
白髪の禿げあがったおっさんが見返り気味に微笑む構図と
王さんなんか鼻毛まで見えるようなドアップでいつも写されてたな
どんな特集の時もまずこの2人の見開きだったから
当時を知らない俺でもこの2人が凄い人なんだ、ということは
直ぐ刷り込まれていった。
0004神様仏様名無し様
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2016/04/21(木) 06:33:18.95ID:wVpDH/Ob
巨人ファンも昔に比べて急減してるよね
長嶋式金権野球をきっかけに
メジャーやJリーグに流れる青少年が続出した
そうやって巨人嫌い長嶋嫌いになった人たちも今は30代〜40代
部下や子どもたちに悪口を言いふらしている
0005神様仏様名無し様
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2016/04/24(日) 01:15:30.00ID:iejED1Tf
75も過ぎてから「月刊長嶋茂雄」という雑誌が出版されたように
特別な存在でしょう。
0006神様仏様名無し様
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2016/04/24(日) 08:03:28.91ID:YQm9qfDl
日本中の爺さんたちにとっては特別な存在
爺さんたちは、20年以内にほとんど逝ってしまうけど
0007神様仏様名無し様
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2016/11/26(土) 01:48:30.07ID:Y9P0jkJB
長嶋ファミリーの闇は深い
0008神様仏様名無し様
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2016/11/26(土) 10:53:25.56ID:uU7LlVP9
早く死ねばいいのに
0009神様仏様名無し様
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2016/11/27(日) 01:54:28.57ID:5HAHY4UB
お前が死ね。三日三晩苦しんで死ね。
0010神様仏様名無し様
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2017/02/18(土) 14:49:04.94ID:EzsTTmUh
映画クレヨンしんちゃん 爆発!温泉わくわく大決戦
2月18日(土)13:30 ? 15:25 22:30 ? 00:25
0011神様仏様名無し様
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2017/05/26(金) 17:45:35.87ID:6M/5L+Ef
【野球】広島・鈴木誠也、路上で美女の胸を「揉みってる」写真

http://www.news-postseven.com/archives/20170515_550568.html


明け方4時頃、西麻布で美女軍団と飲み明かした鈴木
http://i.imgur.com/8OzGiyb.jpg
http://i.imgur.com/xLHRCeI.jpg


坂本「早くナメろや!」

「(強制フェラの後、無理やり生で挿入)ガキ出来たらどないすんのじゃ!外出しは当たり前や!(激怒)」
http://i.imgur.com/1R8jUAi.jpg
0014神様仏様名無し様
垢版 |
2017/10/17(火) 20:41:43.82ID:gb+8t6cx
10月17日 (火) 21:00〜22:00
NHKBSプレミアム
アナザーストーリーズ 運命の分岐点
「引退 〜長嶋茂雄のラストシーズン〜」
ttp://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=11934
【司会】沢尻エリカ,
【出演】長嶋茂雄,堀内恒夫,深澤弘,長島三奈,柴田勲
0015神様仏様名無し様
垢版 |
2018/03/02(金) 12:53:54.03ID:/bSh2axe
すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』

FCLZ0
0016神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:10:01.42ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0017神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:10:17.66ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0018神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:10:33.00ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0019神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:10:48.27ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0020神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:11:03.52ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0021神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:11:18.89ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0025神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:12:19.99ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0026神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:12:35.44ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
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首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0031神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:13:51.72ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0032神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:14:06.98ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0033神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:14:22.47ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
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首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
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常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0034神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:14:37.87ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
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シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
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首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
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首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
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(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0035神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:14:53.00ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0041神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:16:41.96ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0042神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:16:57.65ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0043神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:17:13.49ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0044神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:17:28.95ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0045神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:17:44.22ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0046神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:17:59.45ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0051神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:19:16.14ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
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2018/04/22(日) 15:19:31.46ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
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2018/04/22(日) 15:19:46.82ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
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2018/04/22(日) 15:20:02.03ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0055神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:20:17.43ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0056神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:20:32.63ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0061神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:21:48.93ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0062神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:22:04.65ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0063神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:22:20.62ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0064神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:22:36.05ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0065神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:22:51.46ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0066神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:23:06.93ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0071神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:24:23.35ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0072神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:24:38.65ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0073神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:25:08.31ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0074神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:25:23.52ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0075神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:25:38.84ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0076神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:26:05.18ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
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(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
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常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0081神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:27:21.81ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0082神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:27:37.24ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
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2018/04/22(日) 15:27:52.52ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
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2018/04/22(日) 15:28:07.94ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0085神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:28:23.39ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0086神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:28:38.77ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
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首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
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同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0091神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:29:55.52ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0092神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:30:10.88ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0093神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:30:26.05ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0094神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:30:41.53ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0095神様仏様名無し様
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2018/04/22(日) 15:30:56.94ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
0101神様仏様名無し様
垢版 |
2018/04/22(日) 15:32:51.42ID:KvoM2FRK
イチロー、メジャー18年目の開幕を迎えるにあたり、ふと思ったことがある。
昨季までの日米通算26年間のプロ生活において、彼は果たして、いくつの歴史を作って来たのだろうか、と。
そしてまた、新しい歴史が今季も作られていく。
シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”、ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、
それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか──。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。
こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。
ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。
それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。
イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。
ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、
言われたんです、20歳の時に。その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした
仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」──。
仰木彬氏には、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」以来、
メディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった──。
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