1989年セリーグペナントレース★3
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 ̄  ̄ ̄ ̄ 「相手が悪かった」
2016年の今シーズン、パ・リーグで日本ハムが一時猛烈な追い上げを見せた。15連勝以降は7月29日に久々の連敗を喫するまで、22勝4敗の
ハイペースと驚異的だ。それで言うならば89年広島のスタートダッシュも似た形だった。「ミスター赤ヘル」山本浩二を新監督に迎えて、前年12球団
最低打率だった攻撃面の改善を狙った。山本は“ポスト浩二”と言われながら伸び悩んだ長内孝を四番に据え、2年連続首位打者の正田耕三を
二番に置く新打順を組んだ。
開幕の阪神戦こそ4点リードを守れずセシル・フィルダーの一発に沈んだが、翌日に大野豊が完封して以降5連勝。5戦全てで二桁安打と打線が
活発で、投手陣の失点も計9点だった。進撃はこれに留まらず、次の巨人戦で津田恒実が有田修三に逆転サヨナラ打を喰ってから今度は5年ぶりの
10連勝。4月は15勝3敗で逆転勝利が6、先発投手に勝ちが付いたのも11試合、さらには盗塁も試合数を上回る20個と勝ち方にもバランスがとれ
安定性があった。
打線を牽引したのは新外国人のウェイド・ロードンで、打率.338に7本塁打18打点と活躍して前年は埋まらなかった衣笠祥雄の穴をまずは埋めた。
“新四番”の長内も、ロードンに次ぐ15打点で勝利打点4はチームトップと役割を果たした。二番・正田は.370の高打率で好機を演出、中軸や
西田真二らの打撃を引き出した。5得点以上の試合が18試合中11試合という打線だけでなく、自慢の投手陣も良かった。4月は大野、北別府学、
川口和久、長冨浩志の四本柱が先発で計10勝無傷と持ち味を出し合った。中でも川口は3勝を挙げ防御率1.08で月間MVPを獲得、長冨も2完封
で呼応した。この時は救援陣も好調で、88年は精彩を欠いた津田は失敗は前述の1度のみで3勝3S。中抑えでも前年プロ初勝利を含む4勝を挙げ
た6年目の紀藤真琴が、7試合に投げ1勝3Sと力投した。
広島は5月も3連勝スタートで18勝3敗と独走したが、16年の日本ハムと同じで争う相手のレベルが高かった。89年広島は5月も貯金4を上積み
したが、追撃してきていたのが6年ぶりに復帰した藤田元司の巨人。4連勝と7連勝で5月16勝5敗の快進撃、5月末には広島にゲーム差なしに
早くも迫る「スルメ野球」で粘り強いチームに生まれ変わっていた。 (了) 「前半戦のエース」
独走で2年ぶりにリーグを制した巨人の投手陣の牽引車は、間違いなく11連続完投勝利を含む20勝を挙げて最優秀防御率も獲った斎藤雅樹で
ある事は紛れも無い事実だろう。しかし、後半戦を棒に振りながら斎藤と同じく1点台の防御率を叩き出して12勝した槙原寛己の快投は、未だ
忘れる事ができない。斎藤と同等の強いインパクトを残したのは、前半戦だけの短い期間で大車輪の働きをしたからだった。
初勝利は三度目の登板で4月は1勝2敗と平凡だったが、5月にオール完投の4勝無傷で月間MVPを受賞してからは破竹の勢いを見せた。
6月から球宴までの期間は7勝1敗。前半だけで150回3分の2を投げて被本塁打は6本だけ、2ケタ奪三振も6度という圧巻の内容だった。
20登板で14完投は斎藤と並ぶエース的役割を果たしたと言えるが、中でもV争いのライバル広島に強かった事が素晴らしかった。最初はまだ
4.5差で追いかけていた5月5日、北別府学との投げ合いで2失点完投勝利したのに始まり、20日には大野豊と延長12回の投手戦で完封し
0.5差と追い上げた。首位に立っていた6月13日は、またも大野に投げ勝つ完封で広島に3.5差をつけただけでなく、27日にも川口和久との
勝負で対広島戦で3連続となる完封で5差としてチームの独走態勢を固めていった。7月11日の旭川シリーズでも川口と投げ合って、1失点完投
勝利で8差の首位一人旅。敗戦投手になったのは、球宴明けにバント処理の際に故障した試合だけで、広島戦は5勝1敗の防御率0.91。斎藤が
2勝2敗、桑田真澄が4勝3敗という数字から見ても、槙原の貢献度が図抜けている事が分かる。さらに槙原のすごさをいえば、11セーブを挙げて
いた広田浩章が打たれた場合を主として、クローザーとして4セーブを挙げている事ではないか。もっと掘り下げて述べれば、4戦全てで一人の
走者も出さないパーフェクトリリーフ。しかも4度とも、その後3日以内に完投勝ちを収めた大活躍だった。
前年の日米野球で、メジャーのスカウトに「連れて帰りたい」と言わせたぐらいの好投をしたのも槙原が“前半戦のエース”と成り得た理由の一つ。
そんな槙原を藤田監督は、妙に欲の無い投手と分析していた。それは最多勝などタイトルに対してもという意味があったか、だからこそ時折抑えで
起用しても大丈夫だと感じていたのかもしれない。先発でも抑えでもただ投げられれば良い・・・、結果的には無欲が生んだ槙原の「変身」と
言えなくもない。 (了) 俺は日本シリーズは4-2で巨人が勝つかなあとか予想してた。
三つ巴で近鉄がギリギリで優勝したから、時間が無かったせいか、あまり予想記事を見た記憶がない。
誰か評論家がオリックスなら巨人に勝機ありとか言ってたな。 菅野、セ28年ぶり3試合連続完封。
斎藤雅樹
5.30大洋戦(新潟鳥屋野)7ー0
6.4阪神戦(東京ドーム)10ー0
6.10ヤクルト戦(神宮)6ー0
6.16東京ドーム中日戦で3回彦野ソロで連続完封は途絶えたが、粘って10回岡崎サヨナラヒットで7試合連続完投勝利。これが11連続まで伸びて78年近鉄の鈴木啓示と並ぶ日本記録に。「俺らの世代のアンちゃん」が鈴木大投手と並ぶなんて驚愕だった。
日本シリーズでも阿波野に比べて格下イメージだったが、まさかの大逆転勝利で記録にも記憶にも残る投手となり昨年殿堂入り。
6月4日の試合後、東京ドームの11番出口で阪神の応援団の人が集まってて「気を落とさずに」って声が聞こえた。この後阪神は長い苦境が続いたが、まだ阪神ファンやめないでいてくれてたら嬉しい。 >>29
投高なのか打低なのか、>>32の斎藤の援護点を考えると投高か 5月20日の土曜日で思い出した。この土日で東京での初めての引っ越し、まあ文京区内の本郷から小石川へだったが。
最後の夜となった旧宅で荷造りしながらナイターの広島−巨人戦を観戦、槙原と大野の0−0の超投手戦でテレビが終わって
ラジオだけになった当時の最長イニングの12回表に駒田タイムリーと中尾スクイズで3点、槙原は12回完封。
その後、カバン担いで新居へ。忘れられない一夜になった。 「一年の輝き」
来日して活躍しながら退団してしまう外国人選手は案外多く、それがたった一年間という選手もいる。契約問題、家庭の事情、捨てられない大リーグ
への夢など理由はさまざまだ。89年阪神に在籍したセシル・フィルダーも、わずか一年で帰国した一人だ。出場機会を求めての入団だったが、25歳
という年齢に加えてメジャー4年間で打率.243、三振も3.9打席に1個と粗く、盗塁も181cm101kgの外見通り0と不安要素も多々あった。前年
途中にランディ・バースが退団、代わりのルパート・ジョーンズも不発に終わりパワーダウンした阪神打線にとってフィルダーの獲得理由はただ一つ、
大きな体から出される“飛距離”だった。
春の安芸キャンプから、球場のバックスクリーンをフィルダーの打球が次々と越えていった。場外への打球が駐車場の車を直撃した事で、高さ7mの
特設ネットまで張られるぐらいのパワーだった。でもオープン戦では序盤14打席10三振、期待外れかと周囲からは一転して不安の表情が並んだ。
開幕戦でいきなり決勝の逆転3ランを広島・長冨浩志から打って、チームに10年ぶりの開幕戦勝利をプレゼント。次の2号が出るまでに20日間を
要したが、コンスタントに安打を放ち4月は3本塁打ながら打率.345の意外性を見せた。本塁打量産は本人が「ノーエア」と嫌がる梅雨時からで、
6月と7月にそれぞれ9発ずつを見舞って本塁打王争いのトップに立った。圧巻は大洋戦で、チームの先輩である藤田平、掛布雅之を含む4人が
作った同一カード7戦連続本塁打を塗り替える8戦連続弾。メジャー以外では3A、2Aだけでなくベネズエラでのウィンターリーグでもプレーするなど
各地を転々としてきたフィルダー、毎日プレー出来る喜びを結果で示した。球宴は「外国人選手2人枠」から漏れたため出られなかったが、体つきに
似合わない愛くるしい表情と打棒で全国区になった。
マイク・ラインバック以来となる球団史上2人目の来日1年目での打率3割、本塁打も自らの過ちで故障離脱するまでは、2位のラリー・パリッシュに
2本差の38本で首位だった。右手小指の骨折でタイトルは夢と消え、大洋戦での同一カード年間最多本塁打も64年に記録していた王貞治の17本に
1本及ばなかった。さらには身分の保障を求めるフィルダー側の5年契約という要求条件を阪神側が呑めず決裂という結末だったが、フィルダー
本人の要求は二年から三年への一年のみの契約延長、そこで受け入れていればとの阪神の思いは、翌90年以降のメジャーでの大活躍でより強い
ものになってしまった。 (了) 9回の時点で両チームとも3安打無得点だったと思う。
延長で大野の被安打が増え12回に失点。
代わった紀藤がいきなりスクイズを決められた、と記憶。 「助っ人銀行員」
米メジャーでの通算34安打という実績よりも、やや細身で長身の白人選手というスタイルに加え、眼鏡をかけ“銀行員”といわれたインテリ系の風貌に
ファンから心配の声が上がった。広島の新三塁手として来日したウェイド・ロードンは、まだ埋まっていなかった衣笠祥雄の穴を埋める存在として
期待された。
衣笠の存在の大きさもさることながら、広島は数字の面でも前年の88年は三塁手に苦労した。長打力を買われ抜擢された片岡光宏は安定性に
欠け伸び悩み、2年目の助っ人ランディ・ジョンソンは長打力に乏しかった上に二度の足首故障で退団していた。右打者の打力不足がチーム打率
リーグワーストの原因の一つにもなっていた。
さて開幕から「3番・三塁」を任せられたロードンは、スタートから打って首位快走のチームを牽引した。18試合で打率.338、本塁打7、打点18と
4月は好発進したが、5月は月間で1割台でノーアーチ、先発を外れた試合も5度あり2打点のみ、早くも独特のフォームからなるロードンの弱点を
覚えられたかに見えた。しかしこれでは終わらず、6月と7月で共に.338の高打率をマーク、6月下旬から7月中旬にかけて13試合連続安打を
記録するなど、2ヶ月間に出場した37試合で無安打は5試合だけだった。コンスタントは打率だけに及ばず、打点も7月終了時には50を数えた。
9月も3割台の打率で最終的に3割2毛の数字だったが、広島で来日1年目の外国人3割打者はジム・ライトル以来2人目の事だった。
22本塁打79打点でチーム二冠、猛打賞11回に13勝利打点と全ての面で合格点の打撃成績だった。
守備では岡崎郁、落合博満、岡田彰布らを上回る14失策とセの三塁手では最も多かったが、9月7日から閉幕までの25試合連続無失策と
三塁手一本で出場し続けた事が効いてゴールデングラブ賞を受賞した。
攻守にわたる数字だけでなく、グラウンドではヘッドスライディングなど見た目とは違ったファイト溢れるプレーを見せたロードン、大人の広島野球を
してきた選手たちともしっかり歩調を合わせながら、優良助っ人はチームおよび新任監督の山本浩二を大いに助けた。 (了) この年あまり覚えてないんだけど、巨人優勝決めるまでに結構広島に追い上げ食らったんだっけ?
逆転Vもあり得たの? 「スルメ野球」
チームを離れて5年間、巨人の監督に復帰した藤田元司は「仲良し集団になっている」と感じていた。前任の王貞治ら首脳陣と選手の関係は良好
とは言えず、選手間には決して健全でない仲間意識が蔓延していた。そこで57歳の返り咲き監督は、改革案を次々に打ち出して選手の危機感を
煽った。
投手陣では若手が細く、長くとなるのを恐れて、先発完投スタイルを貫いた。春季キャンプ前に抑え候補として、主戦の桑田真澄やプロ未登板で
3年目の木田優夫の名を挙げる刺激もした。奮起した投手陣のチーム完投数は前年のほぼ倍となる69、斎藤雅樹が21完投20勝、桑田も本職の
先発で20完投で17勝するなど、自らピンチを切り抜ける度胸と工夫を経験させて投手の完投能力を養っていった。鹿取義隆と角光雄が不振で心配
された救援陣も、4年目の広田浩章を代役に立てて凌いだ。
野手陣では、藤田が大掛かりなコンバートを提案した。藤田自身後年になっても何度も振り返る事になる「攻撃型の中畑(清)を三塁、受け身型の
原(辰徳)を一塁に据えた方が持ち味が生きたのでは」との思いを実行に移した。中畑を9年ぶり三塁のレギュラーに据え、故障がちの原は左翼、
一塁には駒田徳広を外野から移すプランを明言、チームに緊張感が走った。
結局一番打者でスタートした「三塁・中畑」こそ開幕5戦目で右手薬指を脱臼して頓挫したが、これまでの遊撃より打撃が生かせると岡崎郁を三塁、
遊撃には守備の得意な川相昌弘を当てて、守りと効率を重視した第二次藤田政権の骨格が出来上がっていった。
89年の巨人は井上真二、白幡隆宗、有田修三、津末英明、上田和明など使った選手がよく活躍した事から「藤田マジック」といわれた。最も思い
悩んだ一番打者には、中畑をはじめ16人が起用されたが、後半戦には21歳の緒方耕一で落ち着くなど藤田野球は噛めば噛むほど味が出る
“スルメ野球”のキャッチコピーに恥じないものだった。そして日替わりヒーローをも生んだスルメ野球は、日本シリーズ制覇に翌年のリーグ優勝と、
ファンにとって本物のスルメ同様に長期に渡り味わう事が出来たのはないか。 (了) 斎藤のノーノー阻止は有名だが
あれ以降このシーズンは中日に殆ど勝てなかった気がする
ひょっとしたら翌年まで持ち越しだったかも >>45
この年に関してはそう。
巨人が後半にもたついたのは中日戦でやられまくったから。
ただ次の年は中日をカモにしてた。
斎藤も90年は中日戦が一番勝ってたはず。 すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
HYQJU >>43
後半もたついた。
最後の広島戦を落としていたら、逆転食らう可能性もあり得なくもなかった。 >>49
超亀レスごめんね。 そうなんだね。勝った方が優勝の最終決戦もあり得たのかもね。
両チームギリギリで戦ったけど、巨人には余力があってシリーズで勝てたのかも?! 「反動」
古巣広島とのシーズン最終戦に勝った大洋・古葉竹識監督のところへ、大洋ナインが胴上げしようと集まったが「胴上げは優勝してやるものです」と
古葉は拒否した。プライドと同時に自身に対しての腹立たしさがあったというシーズンだったが、8年ぶり80敗を喫して5年ぶりの最下位というあまりに
不甲斐ない戦いぶりから、惜別を受ける権利など無いと思ったのではないか。
西本幸雄が同じく最下位で近鉄を退任した時も古巣阪急が最終戦の相手だったため、その時は両軍ナインの胴上げを受けたが、近鉄を二度リーグ
優勝させた西本と、大洋をAクラスに一度も引き上げられなかった古葉とでは本人の心情からファンら世間の視線まで大きく違った。
開幕戦こそジェームス・パチョレックの決勝3ランで前年覇者・中日を下す好スタートだったが、直後3連敗するなど4月から6勝11敗の最下位。
6月と10月の5割が最高で月間勝ち越しが一度もなく貯金があったのは開幕9戦目まで、33戦目の5月27日以降は閉幕するまで最下位を抜け出る
事はなかった。
開幕でセーブを挙げていたストッパー・中山裕章は前年の70登板で142回3分の1の力投が祟って救援失敗を重ね、6月には一時セーブ数を黒星が
上回った事もあるなど10敗を喫して登板数、イニングが前年に比べ大幅に減少した。高齢化したベテラン頼みの先発陣も苦戦、新浦壽夫は敗戦数と
四死球、遠藤一彦は被本塁打でリーグワーストだった。巨人戦30勝(25敗)と相性の良さを誇る斉藤明夫も89年の巨人戦は1勝5敗だった。
若手でも相川英明が不振で二軍暮らし、野村弘は打ち込まれて2ケタ黒星、健闘した大門和彦も敗戦と失点ではリーグワーストといった具合だった。
野手にも苦しいシーズンだった。カルロス・ポンセ、高木豊、屋鋪要ら殆どの主力が前年より数字を落とし12球団唯一の本塁打2ケタという長打力の
乏しさもあって、リーグ3位のチーム打率と2位の盗塁数ながらリーグ最低の474得点だった。好機で一本が出ず残塁も広島に次ぐ2番目の多さで、
守りでもリーグ最少だった前年の54失策から90失策と大きく増やしてリーグ最多になってしまっていた。
2年間で少しずつ結果を出してきた中での最下位だけに古葉の落胆は大きかったが、88年の中山や欠端光則らのフル回転による反動も大きく、
3点差以上の逆転負けが12球団最多の11度もあった事からも、まだまだ大洋には監督一人でどうにか出来るほどの戦力が備わっていなかった。
(了) 「受難」
平成元年のセ・リーグには、斎藤雅樹と西本聖という2人の20勝投手が出現した。リーグの20勝投手誕生は7年ぶりの事で、特に斎藤の場合はプロ
6年間で通算29勝、先発では11勝の実績だっただけにインパクトが強かった。他にも桑田真澄、内藤尚行、山本昌広ら20代前半の若手投手が
次々と頭角を現し、年号の変化と共に新時代の到来を思わせるものだった。時代の移り変わりを感じるのは新星だけでなく、これまで80年代の球界を
引っ張ってきた投手の低迷からも感じられた。
82年に昭和の最後の20勝投手となったの広島・北別府学は沢村賞投手2度受賞の右のエースで、89年も4年連続7度目の開幕投手を任されて
いた。チームの春先の快進撃に乗って開幕3連勝のスタートも内容が伴わず、5月以降は一時を除いて最後まで防御率5点台だった。白星も伸びず
6月までに6勝しながら、夏場の戦線離脱と最後の5連敗で3年連続の負け越しシーズンに加えて、12年ぶりの一桁白星に終わった。
沢村賞経験者という事でいえば大洋・遠藤一彦は北別府以上に苦しんだ。こちらは防御率が6点台で5月21日を最後に勝てなかったばかりか、
巨人の優勝決定試合でも7回原辰徳に決勝弾を浴びて力尽き、意地を見せられなかった。2勝しか出来なかった遠藤は巨人戦足掛け4年間で8連敗、
87年のアキレス腱断裂から立ち直れないままでいた。
85年の沢村賞だった中日・小松辰雄に至っては、新人以来の未勝利に終わる散々な一年だった。序盤からKO続きで4連敗、揚げ句故障して連覇を
狙うチームが前半低迷する一因を作ってしまった。
85年日本シリーズ第1戦完封の阪神・池田親興も2勝に終わるなど、沢村賞投手に限らず80年代を代表する投手が揃って不振に陥った89年だった
が、池田は移籍先のダイエーで抑え投手、小松は翌90年に通算100勝を達成し中日のローテーションを93年まで堅持、遠藤は90年カムバック賞を
受賞するなど守護神で復活、北別府も91年最高勝率獲得と92年200勝達成などで、翌90年から引退する94年までの5年間で42勝を挙げて
意地を見せた。彼等は年号が変わっても時代の流れに適応し、自らの衰えと向き合いながら存在意義を示す力がまだ残っていた。 (了) 「遅球の効果」
現役かどうかを問わず、「緩い球を投げるのには勇気が要る」といった類の話をする投手は多い。大きい変化球を投げる事は制球の難しさや、打者に
ヤマを張られた時の恐さが付きまとうが、打者にとってはタイミングが取りづらく大きな武器になるのも事実だ。名投手であり名コーチである権藤博も
冒頭の話をした一人だが、89年に権藤の目の前で“遅球の効果”を見せたのが日本シリーズでの巨人・香田勲男だった。
巨人3連敗4連勝の大逆転シリーズの流れは第3戦終了後の「加藤発言」で変わったと言われたが、藤田元司と仰木彬の両軍監督は発言が直接の
ポイントだとは思っていなかった。香田は第4戦に2種類のカーブと速球で被安打3、与四球5、三塁を踏ませぬ143球の力投で史上7人目のシリーズ
初登板初完封勝利を挙げて近鉄に一矢を報いた。時速100q前後のスローカーブが特に有効で、140qの直球を速く見せる緩急で抑え込んだ。
さらに、このシリーズでの香田は外角直球の制球も良かった。香田の功績は2勝して崖っぷちのチームを助けただけでなく、次戦以降に好影響を
与えた事だった。前回敗戦投手の斎藤雅樹、桑田真澄は香田の緩急を参考にカーブやチェンジアップを多用して、それぞれ勝利投手になって
奇跡への足掛かりを作った。
巨人は当初から先発を斎藤、桑田、宮本和知、香田のローテーションで回すと決めていた。香田はチームで5番目の勝利数だったが、槙原寛己と
ビル・ガリクソンの離脱した後半戦で働き7勝を挙げていた。ところが第1戦からの3連敗で追い詰められると、藤田は第4戦の先発を斎藤に変更
しようとした。20勝エースを二度使わずして敗れたら悔いが残るとの判断からだったが、中村稔投手コーチが大きいカーブの有効性を理由に
反対した。藤田は進言を聞き入れて予定を通し、そして勝った。
第4戦の先発については、近鉄でも監督が投手コーチの意見を受け入れていたが、近鉄の場合は阿波野秀幸から小野和義への“予定変更”だった。
藤田は「一年間一緒に戦ってきたコーチの目は誰よりも確かだった」と中村の意見を取り入れた喜びを語った。敵軍が遅球の効果といった“相性”
よりも“褒美”の色合いが濃いコーチの意見受け入れを見るに、監督とコーチの関係性を深く考えさせられる日本シリーズだった。 (了) この「第4戦に斎藤を先発させる案」を藤田監督はどこまで本気で考えてたんだろうね。
斎藤は第3戦にリリーフで投げており連投になるのでいくら20勝投手といえど影響はないはずはない。
後がない状況でそんなリスクのある選択肢を取るのは無理があったと思う。 今のようなスライダー投手が多い時代に、池山広澤パリッシュがいたら、一体いくつ三振したんだろうか… 巨人中日にすごい苦戦してなかった? 89 90はとにかく大変だったイメージ(90は独走したけど 元年は中日にだけ負け越してるね
巨人vs.広島、広島vs.中日もほぼ拮抗。
巨人がBクラスから荒稼ぎして優勝。
翌年は中日にもダブルスコアで勝ち越し
http://2689web.com/1989.html
http://2689web.com/1990.html 後半中日に1勝7敗。去年も勝ち越し決定後、中日に6連敗で閉幕。
8月はナゴヤでも東京ドームでも3タテ食らう。例の斎藤雅樹ノーヒットノーランあと2人から落合逆転サヨナラ3ランとか。 「進まぬ投手育成」
87年から始まった阪神の長期低迷の中で、89年5位で終わったシーズンも見せ場なく終わった。借金は21を数え優勝した巨人とのゲーム差も
30.5、チーム打率4位と本塁打リーグ3位でありながら、防御率が最下位と振るわず投手陣を立て直せなかった村山実監督は2年で退陣した。
野手陣では大野久、和田豊、中野佐資の“少年隊”や八木裕といった収穫があったが、投手陣では2年目・野田浩司は先発に救援に奮闘したものの
初の開幕投手を務めた仲田幸司、猪俣隆、嶋尾慶一、太田貴といった若虎を育て上げられなかった。
当初は仲田と猪俣にベテラン伊藤文隆、30歳になる池田親興のローテーションで先発陣を回したが、若手は期待に応えられず伊藤と4月22日に
毎回奪三振で完投勝利を挙げ2勝負け無しの池田だけが頑張り、村山の公算を狂わせた。それでも4月末に復帰したマット・キーオと野田の活躍も
あって5月を終わり借金5ながら3位をキープ、6月も中日とヤクルトとの3位争いを演じた。しかし伊藤と池田が勝てなくなってファーム落ち、先発
投手陣は住友一哉とのダブルストッパー役だった中西清起を先発に回すほどの窮状で、3位争いの中でも借金は少しずつ増えていった。
6月が終わる頃に中日相手に中西、御子柴進が連続完封、一日挟んで7月1日に仲田も広島戦で完封してようやく初星を挙げ3位を奪い返したのも
束の間。次の試合から9連敗で5位に転落、8月も死のロードで4勝12敗と大きく負け越し借金20を越えた。
終わってみればキーオは15勝、先発転向後3ヶ月半で7勝を挙げた中西も2ケタに到達したが、その次に多いのが野田の5勝という有り様だった。
先発投手の勝利数は優勝巨人の67に対して阪神37の大差が付き、キーオと中西を除いた先発投手勝利はわずか15だった。進まない投手育成で
7月以降は巨人に4勝9敗、3位・中日にはなんと2勝13敗を喫した阪神は地元甲子園でさえも10の負け越しを作った。観客動員でも18万人減で
5年ぶりに200万人を割り込んだ件についても、掛布雅之やランディ・バースの退団だけでは片付けられない所だった。 (了) 巨人のシーズン独走だったが、優勝目前グダグダだったところは
今年とよく似ている >>54 第四戦、斎藤先発のプランもあったのか。 巨人の勝因は近鉄の先発起用の
誤り、小野先発で巨人は余裕を持てた。一気に阿波野で来られたらやばかった。それ
以前に相手が近鉄で助かった。西武相手だと厳しかった 日本シリーズは第四戦の香田投手の好投が流れを変えたのは間違いありませんが、
当時、第三戦の二番手で登板した水野投手の投球(縦の変化球主体)が近鉄打線を抑えるヒントになった
と指摘した評論家もいたと記憶しています。 >>66
オリックスが相手だったらどうなっていたか? 日本シリーズは戦前の予想では、巨人有利って盛んに言われた気がする。だから、いきなり3連敗したときは評論家アテにならんなーと思ってた。
第3戦から近鉄の打線が、急にヒエヒエになったから、もしかしたら巨人も逆襲のチャンスありかな?と思ったよ。原辰徳の満塁弾でイケイケになったし、あとは怒涛の勢いで寄り切ったな。
巨人が第7戦までもつれて日本一って、あまり無いよね。勝つ時は一気に決めるイメージ。 クロマティが4割打者になるかって話題になってたのはこの年か 「名脇役」
二度目の巨人監督に就任した藤田元司は、得点力の落ちていた打線をどう組むか考えていた。12ゲーム差の2位に終わった88年は、優勝した前年
より90得点もダウンしていた。吉村禎章とウォーレン・クロマティを故障で欠いた事が要因と言えたが、89年も吉村はまだ復帰が見込めず、指の
骨折から戻っていたクロマティも秋には36歳を迎えるとあって、高望みするわけにはいかなかった。だからこそ藤田が目を付けたのが、チャンス
メーカーの存在だった。クロマティ、原辰徳、篠塚利夫ら中軸以降の打点を上げるべく、藤田がイメージしたのはV9時代の一・二番コンビだった。
開幕当初は性格を買った面もあり、安打を計算出来るが前年にリーグワーストの併殺打を記録した中畑清を切り込み隊長に起用したが、5戦目に
故障離脱したため、この年は延べ12人の選手が一番を打った。黄金期の一番打者・柴田勲は俊足巧打の外野手で、昭和40年代の10年間で
計353盗塁というスイッチヒッターのパイオニア、入れ替わり立ち替わりの12人で最も多くトップに起用されたのも、同じ俊足で両打ちの緒方耕一
だった。
88年に2年目ながら26盗塁でイースタンの盗塁王、藤田は緒方のプロ初出場を二番・遊撃での先発出場という形で起用した。いきなり第2打席で
安打を打ったが失策も2個という苦いデビュー、それでも打撃は好調を維持して後半戦では一番固定となり49試合でトップバッターを務めた。
安定した外野守備に加え、ランニング本塁打やリーグ最多のセーフティバント9本に本盗と活躍した緒方だったが、その緒方から6月に守備力で
遊撃の定位置を奪取したのが7年目の川相昌弘だった。
80試合で二番を打ち32犠打、藤田が求めていた二番像・土井正三のような繋ぎ役をこなした。守備で岡崎郁、打撃とバントでは勝呂博憲といった
競争相手に勝ち、岡崎を三塁に追いやり、勝呂は控えに回った。特にバントではナイターの球場入り前に室内練習場に出向き、投球マシン相手に
バント練習に明け暮れた結果だった。堅実な守備でも失策がたったの3個でゴールデングラブを受賞したが、守備率.992もセ・リーグ1位だった。
岡山南高時代はエースで五番打者、春の甲子園にも出場した川相にすれば強打したい気持ちもあったはず、それでも右打ちや犠打に徹した川相を
「プロ野球に入るほどの選手だから誰でも主役になりたいだろうし、なる自信もあると思う。だが、そんな選手ばかりではチームは成り立たない。
主役を引き立てる事に徹してくれた川相の存在はどれほど大きかった事か」と藤田は褒め称えた。地味な進塁打や犠打も、相手に与えるダメージが
大きい事があると言って監督が“名脇役”を高く評価するあたりも指揮官・川上哲治がV9時代に見せたそれと同じだった。 (了) 正直、トレードされた時点では西本があれほど勝つとは思えなかったんだよね。
せいぜいトレードされた悔しさをバネに8勝くらいだあろう、むしろ怖いのは
オマケの加茂川が覚醒してしまったら…と考えていたくらい。 加茂川は野球以外に私生活でトラウマを抱えたのがまずかったかも。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています