八木沢マリーンズについて語ろう [転載禁止]©2ch.net
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最終年ヘッドコーチが中西太で
八木沢休養に伴い、監督代行が中西だったが
どういう経緯でコーチになったのか 移転フィーバーが続いたのは僅か数ヶ月。
シーズン後半はすっかり川崎劇場に戻っていた。
いやもっと酷い状態だった。
意外と思われるのは千葉の県民性は粗暴で短気。
民度が余りにも酷すぎて夢に描いた理想のメジャー型の球場スタイルも到底無理
な話だった。 八木沢マリーンズになった1992年4月絶好調で来て、ゴールデンウィークに
千葉マリンで近鉄3連戦があって行ったけど、すごい超満員になってたのを覚えている。
当時Vメガホンが主流でピンク色のVメガホンの音が外野の高い壁に思いっきり反響してた。
当時の近鉄はあの西武と互角に渡り合ってた頃の仰木近鉄で簡単にひねられてた。
せーの、マックス〜〜〜 応援に関してはまだ川崎時代の延長、という感じだった 監督就任時の八木沢さん、ロッテリアのCMに出てたね
ロッテ球団も立ち直ろうと必死だったかw >>6
あの三連戦は最初はロッテのペースで試合が進んでいたけどラルフの
一発で流れが変わった。
89年の例の3連発もそうだったけどやはりラルフの一発は試合の流れを
ガラリと変えるね。 千葉移転で川崎時代の野暮ったいイメージを払拭して女性ファンを取り込もうとして
チームカラーをピンクにしてたけど、如何せんチームの中身が川崎球場のまんまで、
愛甲やディアズや伊良部のピンクはちょっと無理があった。
なんとか女子やらが流行っている今ならド真ん中だが、時代を先取りしすぎたかな。 千葉県民の温厚でおおらかな県民性に期待したのだろうけどロッテも。
実際の千葉県民は乱暴で下品だという事を知らなかったのだろうか。
千葉のファンが本性を表すのにそう時間は掛からなかった。
シーズン後半のマリンスタジアムは移転前の夢に描いた理想の
スタジアム構想からはかけ離れた川崎以上の無法地帯と化していた。 だいたいなんで千葉移転1年目が八木沢だったの?
オリックスは神戸移転1年目は神戸出身の土井正三を招いてそれなりに地域色を出そうとしたのは分かるけど。 もともと千葉出身のスターってだけで掛布にオファーかけたのはお粗末だったが結果的には蹴られて正解だった
八木沢は早大卒のドラ1 入団時から将来の幹部候補として育てられた
現役時代は完全試合や日本一を経験し、引退後は黄金期の西武で指導者として実績を重ね、
満を持しての古巣復帰だった
折しも前任の金田が徹底した下半身強化で投手の基礎体力を鍛え上げており、
八木沢にとっては最高のタイミングで就任したと言える 伊良部 小宮山 前田
3人とも2000年以降に優勝を経験
なおかつメジャー挑戦 監督 八木沢 打撃コーチ マニエル で行けば客が呼べただろう マリーンズ大福を食べながらマリンの野球を見る日は戻ってこないのか。 1992年頃は解説業なんてボロ儲けできた頃だから、掛布が引き受けるわけないよ。 マリンのあの辺りの海岸で子供の頃よく遊んでいたと話していたから望郷の念で戻ってくる
かなとも思ったけど。
それとこれとは別みたいねw
寧ろ故郷で嫌な思いしたくないというのもあったかもw 西武沿線が地元で子供の頃からの大の西武ファンだった江藤も西武行きが決まった
時は余り嬉しそうな顔してなかったな。
故郷戻ってきたんだから少しは喜べってのw 南渕14打席連続出塁
八木沢マリーンズ史上唯一?の新聞一面を飾った出来事。 本当はカネやんが川崎時代から引き続いて監督続投の予定だったんだよね。
どこでどうなったのか結局辞めちゃったけど。 オリオンズの名前が消えるなら続投しない、とか金やんが言ってたような 愛甲や小林至の本では八木沢は完全に無能扱いに書かれていたな
特に愛甲は5打席5三振に終わった翌日スタメン外されて
連続試合フル出場をストップさせられたことをかなり根に持ってるとか Wikiより
連続フルイニング出場が途切れたのは、1992年7月11日に5打席5三振(1試合の三振日本タイ記録)の上に、決勝点の要因となる悪送球を犯して翌日はスタメン落ちしたためである。
それでも、1987年10月20日から続けている連続試合出場は継続し、1993年6月6日まで694試合連続出場(当時パ・リーグ歴代5位)を記録した。
なお、愛甲の自著によると、連続試合出場が途切れたのは当時の八木沢荘六監督が起用を忘れていたためであるといい、その振る舞いに失望した旨が記されている。 愛甲はあからさまに「八木沢のバカが」とか本に書いてたな。 八木沢さんは現役時代もなかなかのイブシ銀な投手だった 応援が品が無かった
マックスの事をセックスと呼んでスタンド中セックスセックス煩かった
この調子だとこの綺麗なスタジアムもすぐに川崎劇場と変わらない状態に
なるだろうとは思った どうせ例のデブ兄ちゃん辺りが考えたんだろうけど
あいつの応援って功労者として称えられてるけど僕はあいつが一番の
元凶と作っていたと思う
球場全体がバカになる感じでそれが川崎化を呼んだのだと思う 元年4月は河本と青柳が絶好調で4月MVPで首位争い
5月以降はボロが出て沈んでいって定位置だった
実は初年度は河本くらいしか活躍してなかったような 投手コーチ上がりの監督だから投手陣は整備していったとは思う。
それが1995年の快進撃につながっていった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています