1989年パリーグペナントレース★2
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@ 近鉄 130 71 54 5 .568 - .261 157 45 606 558 3.859 96
A オリックス 130 72 55 3 .567 0.0 .278 170 66 665 616 4.26 93
B 西武 130 69 53 8 .566 0.5 .271 150 149 644 543 3.856 77
C ダイエー 130 59 64 7 .480 11.0 .257 166 85 610 678 4.74 91
D 日本ハム 130 54 73 3 .425 18.0 .2659 131 144 527 571 4.20 69
E ロッテ 130 48 74 8 .393 21.5 .2657 119 99 558 644 4.50 94 近鉄はシーズン開幕戦だけ1番マキシなんだな。
2試合目にはもう大石にしてる。
で、日本シリーズ第7戦で1番にマキシ。 優勝が決まった近鉄ダイエー戦は関東でも地上波生中継された。
もはや若い人には信じ難いだろうが。 勝数が多いのがオリックス、負け数が少ないのが西武か。
で、中間どころの近鉄が優勝。数字的に面白いね。 この年は前年の「10.19」の影響もあってか、近鉄の悲願「打倒西武」なるか
という部分に注目してたわけなんだけど、蓋を開けてみたらオリックスが
打つわ打つわで「バカwお前じゃねぇよww」みたいに思ってみてた。
結果的には史上稀に見る接線が最後の最後まで続いて、パリーグは
こんなに面白いなんて二度とないんじゃないかと思うくらいだったんだけど。 上三つだけでなくダイエーやロッテも終盤脇役ながら優勝争いに影響を及ぼしたのが面白かった この年にクライマックスシリーズがあったらどんなことになったんだろうな。
ここまで語り継がれるようなシーズンにはならなかっただろうな…。 「不屈の闘志」
開幕戦で西武を完封した時には、遅くても4月中には達成すると思われていた。前年3季ぶりの二桁勝利となる10勝を挙げ、あと2つに迫って
いたロッテ・村田兆治の通算200勝。だが到達したのは王者を5安打に封じた34日も後の事だった。
開幕から中6日で迎えた4月16日は地元川崎での近鉄戦。3回までに6点の援護を受ける願ってもない展開だったが村田自身も4回までに
6点を失い、5回以降は近鉄救援陣と村田が無失点で踏ん張る延長戦となった。結末は11回表、この年19打数で10安打と5割以上打たれる
事になる新井宏昌に決勝打を浴び200勝は持ち越しになった。思えばこの時に中指の爪を剥がしながら150球を超えた無理が、長引く原因に
なった。そのため一度ローテーションを飛ばして臨んだ30日の日本ハム戦でも精彩を欠き、トニー・ブリューワと田中幸雄に一発を浴び4回
5失点。前回に続いて3万人が集まった川崎球場の観衆からは大きな溜め息が漏れた。
右肘の大手術など“不屈の闘志”で苦難を乗り切ってきた村田、3度目の正直で歓喜の200勝を挙げた5月13日の日本ハム戦は村田の魂が
野手にも乗り移ったような試合になった。序盤3回までにブライアン・デイエットの2ランなど3失点、しかし上川誠二の4打点の活躍もあり6回に
5−3と逆転。これで「今度こそ」と村田も力が入ったのが良くなかったのか7回に代打・小川浩一に2点二塁打を打たれ同点。またかと山形
県営野球場の空気も一度は沈んだが、9回表に佐藤誠一から水上善雄の適時打などで2点を勝ち越し。村田は5失点の完投で大記録を
達成した。
7勝に終わった一年だったが、史上最年長39歳での最優秀防御率を獲得して健在をアピール。89年は肘手術から復帰して以降では最多の
完投、完封、イニング数、奪三振を記録した。特に凄まじかったのが22登板中16完投のスタミナ面だった。
6月14日の近鉄戦で延長12回、208球を投げ切るなど延長戦の完投も4度あった。16完投は21完投の近鉄・阿波野秀幸、17完投の
西武・渡辺久信と日本ハム・西崎幸広に次ぐ数字。200勝への執念やトレンディーエースにまだ負けまいとする村田の、不屈の闘志はとても
11月下旬で40歳になるようには見えなかった。 (了) 10.19も大入りだったが、ロッテの事で大入りって点ではこの
村田200勝バブルの方が意義があったと思う。
大入りな上にテレビ中継もされたしね。
しかしそこで勝てなかったんだよな・・・
多分、上に書いてる近鉄戦だったと思うが9回裏に二死満塁まで攻めたんだけど
高橋忠一がカウント3-0からフライ打ちあげて・・・子供ながらに
「バカか!?」ってオモタ
まあど真ん中にヤマはるには間違ってないんだが・・・ >>5
あの試合、実は関東でのパリーグの視聴率が歴代1位なんだよな。
確か30%近くあったはず。
10.19も実は関東では視聴率30%以上あったんだけど(関西では確か59%だっけ)
元々放送予定がなく、飛び入りでの放送だったから
公式な視聴率記録には残っていない。 当時の渡辺久信や西崎のトレンディエースとか、何プロ野球を舐めてんだ! バカヤロー!
って子供ながらに思ってた。 しかしそいつらが結果を出すからぐうの音も出なくなったな。
しかし当時は当たり前に思ってたが今youtubeで見ると西崎の球威すげえ。
今の投手があまり投げなくなった、岸や武田が使うドロップカーブのキレが半端ない。
現代の中6日ローテならどれだけ勝てただろう。 ダイエー元年
福岡に球団が復活したのに関わらず当時はまだライオンズ信仰が強すぎて
平和台球場ではライトスタンドまで西武ファンが居たらしい…
まあ当時のダイエーの強さが初期の楽天に毛が生えた程度ぐらいだったのだが… >>15,16
後半戦ペナントを引っかき回して熱パを演出した陰の立役者だよな。
近鉄には勝ち越す一方、オリックスや西武を3タテしたり、とどめは森監督が「あの試合が
一番痛かった。」と述べた13-12の大逆転勝利と。 >>17
言葉のあやで言ったのかもしれないけどこの年のダ−オ、ダ−西ともに
ダイエーが3タテしたことはないよ >>18
改めて見直したら確かに(´・ω・`)
とはいえ対近鉄13勝12敗1分、対オリ12勝13敗1分、対西武11勝13敗2分と、最下位ロッテ相手に
9勝15敗2分と大負けしなければ優勝争いに顔を出していたかも?とすら思える成績を残し、長期低迷からの脱出間近を予感させた。
翌年田淵が全てをぶち壊したけど......、監督就任以来、着実にチーム力を上げてきた杉浦のままで良
かったんじゃ?と思った(´・ω・`) >>19
杉浦さんは移転以来福岡の関係各所に挨拶廻りする中で、
「(元南海のエースで西鉄を敵にしてた)自分が監督である限り全面的な支援は得られない」
みたいな雰囲気を感じ、成績うんぬんじゃなく勇退したみたいだ。
あと投手力に関しては87年あたりがピークで
+ 吉田豊、村田、加藤伸
− 山内孝、山内和、西川、藤本
ちょっとばかしきついな、というところでダイエー1,2年目にろくな投手がドラフト指名
できなかった時点で、杉浦が続投しようと、田淵がやろうと、あるいは第三者がやろうと
どのみち大崩壊は免れなかったとみてるんだが。 投手力で劣るもの同士のオリックスに打ち勝ったノーガードのような試合も記憶に残る >>15
テレビもラジオ中継もダイエー戦中心となり、それに反発していた福岡県民も多かったと聞く。 松田優作が死んだ年。
亡くなる数日前に病室で日本シリーズを見ていたそう。
回診のお医者さんと看護婦さんに原がホームラン打つよと言ったら当たったとか。
その話聞いてちょっと目が潤んだね。 >>24
そりゃ地元に球団が来れば推すのは当然。
難癖つけてたのは西武ファンと巨人ファンだろうな。 郭がラルフに三連発打たれた試合は郭は失恋した彼女の事で頭が
グチャグチャになっていた。
郭の異変にもっと早く気づくべきだったと思う。 西武の逆転優勝は堅いかなと思ってた。
オーレが入ってチーム生き返っちゃったからね。 >>26
その割には札幌ファイターズや仙台イーグルスの1年目の時は
叩かれてなかったような…
なお1年目の大阪バファローズは… 筋が通ってれば誰も言わないよ。
筋の通らない事して総スカン食ったいい例が東京ヴェルディだ。
若いファンの多いJリーグなので尚更嫌われた。 失恋 たいげんって よくそんなこと知ってるね たいげんって綺麗な女優と結婚したけど浮気されてたよね 今は独身なのか? _____________
/ \
| オリックス球団とあたしが |
| デビューしたのよ |
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 ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,.へヘー'、
〈/=)人y.〉
j(´∀`レ(
と(_゚'_/○>
|く__ゝl;;;|、〉
,ノ;;;UU;;;ヾ;;ゝ 1990年の原の3号と同日に1989年には18号を打ってる。
1990年は結局20本だったから、35本ぐらいのペースだった感じ。 開幕からデストラーデがいればV10だったな
巨人の逆転日本一よりはこっちがよかった 根本の裏技が使えなくなって
西武の黄金時代は終わったな >>35-36
88年にブライアントが開幕からいたら近鉄優勝できたかもな…
>>37
やはり前年の東尾の違法賭博問題の影響で
門下生の土井コーチが退団したのが堤の不信感を買ったんだろう…
その3年後に根本も鷹へ行き後追うかのように秋山、工藤、石毛と
根本の門下生が鷹へ行った >>26
その頃巨人は堀内体制になって人気撃滅
蹴球日本代表人気がジーコでピークの頃
89年のダイエーと違ってやりやすかったのかも 門田は51試合も守っている。それでいて、3割30本を打ち、ちゃっかり指名打者でベストナインに選ばれた。 この年10.12でもし西武がひとつでも取ってたら、優勝はほぼ決定みたいな感じだったよな。
オリックスもダブルヘッダーでひとつでも落とすと、ほぼ優勝の望みは消えてたけど。 近鉄優勝決まって、最後消化試合になった西武−近鉄戦をただ1局だけ放送していたNACK5で
ボーッとしながらで聞いてた記憶があるわ
これが優勝決定試合ならテレビ中継もあっただろうな
最後控え捕手の仲田が決勝タイムリー打って渡辺智が10勝目をあげて西武が勝った 最終戦ブライアントが50本目打つの期待したが出てこなかったんだっけな >>35
バークレオの不振もあったけど、この年は開幕から(違ったかな?)キャッチャー伊東の長期離脱が大きくなかった?
仲田、相馬でやりくりが厳しかったような。 このスレ、クロマティの規定打席到達時点で、打率4割の話題が無いけど、皆さんクロマティ嫌い?まあ辞める辞める詐欺もあったけど。 >>47
失礼しました。前に1989年スレがあったから、続きかと思った。
じゃあパリーグの話しを。なんで近鉄のドットソンはクビに?その後きたリベラも嫌いじゃなかったけど 10月12日のダブルヘッダーを、近鉄がブライアントの本塁打無しで勝っていたら、阿波野がMVPだったのだろうか? >>45
キャンプで負傷して長期欠場が危ぶまれたが、さすが伊東というべきか
執念と強靭な体で開幕8試合目の近鉄戦にはもう途中出場してるから、
さほどの長期欠場じゃないんだよね。(この間チームは4勝3敗)
皮肉にも、この途中出場した近鉄戦でいきなり9回表に逆転負けを喰らい、
復帰試合から森西武初の5連敗を喫するなど、
イマイチリードに冴えがない一年だった。 まあそうだろうね。
トータル的には両者甲乙付け難いし。 3強 西近檻
3弱 ダロ公
26年を経て、下剋上実現 この年は佐藤義則が失速したのが印象に残っていますね。
たしか開幕から6連勝、途中8勝2敗まで行ったのにそこから8連敗して8勝10敗。
チームの優勝と自身の二桁勝利を賭けた川崎球場での登板でも愛甲に逆転本塁打を打たれて・・・ 「閉店間際」
球宴明けの後半戦は29勝20敗3分け、優勝した近鉄をも勝率で1分上回る2位の成績。ダイエーがシーズン終盤、試合終盤といった“閉店間際”に
力を出してきた事が、熱パ3強の争いをさらに加熱させたといった所だった。後半戦の平均得点は5点台を記録、失点でも平均で前半より0.91点の
減少。3点差以内の勝敗が19勝13敗、1点差試合も9勝5敗と接戦でも好結果を出せた原動力は、3強に比べ決して劣らない打線だった。
トニー・バナザードとウィリー・アップショーの両外国人が牽引した8月は、14勝10敗と初めての月間勝ち越しを決めた。2年目のバナザードは月間
打率.349、本塁打8、打点23で月間MVP。新外人アップショーも負けじと7戦連続打点や4試合連続本塁打など、打率.326、本塁打9、打点19
を叩き出した。シーズントータルでも2人は史上4組目となる外国人30本塁打コンビとなり、アップショーについては左打者ながら左腕もよく打って
左打者では本塁打数でラルフ・ブライアント、門田博光を抑えて最も多い10本を放った。
チーム唯一の3割を打った山本和範は14年目で初の3割打者となり、盗塁でも19個でチームトップだった。若手では岸川勝也が当時の日本タイ
記録となるサヨナラ本塁打3本(現在もパ・リーグタイ記録)を含め26本塁打と急成長。77試合ながら13本塁打した藤本博史は、特に満塁で6打数
4安打2本塁打と持ち味を発揮した。他にも代打率.379、3本塁打、11打点の広永益隆と“左殺し”高柳秀樹の左右の切り札ら控えも力を見せ
つけて、積み上げたチーム本塁打は166本。オリックスに次ぐリーグ2位だったが、それでいて打率と三振数はリーグワースト。この辺でも九州に
本拠地を移したダイエーの豪快な野球を象徴していた。
門田の移籍により新しいヒーローが続々生まれる怪我の功名で、近鉄に勝ち越すなど上位3強に36勝37敗5分けの大健闘をしたダイエー。球団の
熱意に折れて監督契約を1年延長していた杉浦忠は、「福岡のお客さんのお陰で選手が粘り強くなった」と言うと、少し安堵もしながら退任した。
12年ぶりの「Aクラス」、「60勝」、「5割」には少し及ばなかったが、福岡移転初年度はまずまずの成果。杉浦にとって、届かなかった目標は次代の
監督と選手にと、翌年に大きな希望を残してのバトンタッチのつもりだった。 (了) 田淵が監督か、うーむとは思った記憶もあるが、
想像以上に酷かったなw
89年後半は87年前半を彷彿とさせる躍動感みたいのがあった 杉浦はSDみたいな立場に残ったんだよな
デーブ楽天の星野もだけどああいう立場は権限ないのか? この年はパのペナントが非常に荒れてたけど
乱闘もセもパも多発してたイメージがあるな… >>59
5月末6月上旬に立て続けにあったね
ヤクルト阪神のパリッシュ、巨人大洋の岡崎、
あともう一つくらいあったような気もするのだが。
他に覚えてるのは清原のアレ、リベラのフック
珍プレー好プレーの乱闘特集が華やかだったなw >>60
ポンセの掌低、アップショーのラグビー、ディアズの殺人タックルも… 確か袴田がタックルを受けて気絶してヨボヨボのドクターが出てきたのもこの年だっけ。 川崎球場で診断していた医者だっけ?
1989年といえばバブルで金が日本に溢れていた時代だったけど
川崎球場とか汚いまま使われてたよな。
ただ、NPBとMLBの年俸差が今ほどなかった。 >>55
いつも楽しみに読ませてもらっています。
当時の記憶が甦ってくる素晴らしい文章。 昭和最後の名勝負からちょうど1年後の89年10月19日
パリーグでは森が堤から屈辱的な言葉をかけられ、
セリーグでは野村がヤクルト監督に就任 高山はこの年だけけっこう使われたんだよな。
ローテの谷間の役割で、5勝しかしなかったが。 「四枚落ち」
優勝候補といわれるチームでも、主力が数多く離脱すれば成果は上がっていかない。そういった状態を将棋の用語になぞらえて「飛車角落ち」や
「二枚落ち」などと言われる。89年の西武は正捕手・伊東勤が3月の春野キャンプ最終日に右足首靭帯を損傷、10日後には若手の正遊撃手有力
候補だった田辺徳雄がオープン戦で右肩脱臼。前年左翼手のレギュラーを掴んだ安部理も故障で開幕アウト、投手でも前年10勝で新人王の
森山良二が右肩痛で不在。伊東を開幕から10日間、田辺を4月中まで欠くなどした西武のスタートは、飛車角落ちどころか両側の香車も抜いた
時にいわれる“四枚落ち”の状態だった。
4月23日に2年ぶりの最下位転落、森政権はおろか広岡時代にも無かった8年ぶりの5連敗を喫するなど最下位脱出に11日かかった。5月が
終わっても借金5の5位と低迷、主力の離脱だけでも痛いが、この時の西武は投打の主軸による不振というハンデも重くのしかかった。主砲の
清原和博は5月末時点で打率.207で7本塁打、前年38発の長距離砲タイラー・バン・バークレオは開幕8戦目に本塁打でシーズン初安打を打つ
までの19タコを含め.127、2本塁打の体たらくだった。打の戦犯2人の場合は清原が後半戦復調し、バークレオの場合も代わって6月に来日した
オレステス・デストラーデの大活躍で事なきを得たが、左腕エース工藤公康の不調は最後まで森監督を悩ませた。
開幕戦の黒星に始まり4月は4連敗、しかし防御率は2.62と悪くなかった。しかし5月に入ると早期KOが続き月間防御率は9点台、開幕からの
連敗は6まで伸びた。6月3日に9度目の先発で完投して初勝利を挙げたが、その後も打ち込まれて2勝目も約1ヵ月後。前半は防御率4.18の
2勝7敗で、後半戦は中継ぎが主で先発は3度だけだった。前年引き起こした舌禍事件の報いかとも思えるようなトータルの4勝の結果、引退した
東尾修に代わる投の柱として大きな期待をしていた森の落胆も大きかった。一時的な離脱や主力の不振が響いた四枚落ちだったが、シーズンを
通しての工藤の不振は中でも金銀にも相当するような大きな一枚だった。 (了) 捕手って誰がやってたんだっけ?白幡とかか?デーブは相変わらず干されてたっけ 開幕からしばらくは仲田だったはず
てか白幡は89年にはもう巨人にトレードされてたでしょ そもそも白幡は、西武時代はDH出場がメインで
捕手としてはほとんど出場してないよ。 伊東が戻るまで仲田
打撃が全然だったね
大久保、白幡など打撃の良い捕手はいたけど、森は捕手については打撃軽視だった。
今の銀仁朗も酷いしw 森に限らない西武の伝統かw 仲田は開幕前にシーズン10安打を目標とか、本気で話してて
記者の失笑を買ってたっけ・・・ 打撃の良い捕手はポジションコンバートされるのがライオンズの伝統。
田淵・大成・和田禿・貝塚・G.G.・友哉。 4月に西武球場で8回途中まで完全試合ペースだった西崎幸広投手から
チーム初安打となる本塁打を打ったのは大久保捕手だったような。
この年の工藤公康投手は過度の飲酒が原因なのか、
肝臓が腫れて骨に食い込む程で、
ともすれば命にかかわる重症だったらしいですね。
しかし、デストラーデ選手が加入してからの西武の勢いは凄かった記憶があります。
中継ぎの西本投手が(相手チームから見て)憎らしいほどに好投していたのが印象的でした。 西崎投手の完全を阻止する本塁打は清原選手でしたか。
嘘を書いてしまい、大変申し訳ありません。
>>76様、ご指摘ありがとうございました。 この年の3強に対しての世論は、
去年悔しい思いをした近鉄に優勝させてやりたい
西武は勝ち過ぎなので、あまり優勝して欲しくない
オリックスはどうでも良い
こんな感じだったかな? >>78
今年の大混戦のセリーグに良く似てるな。
近鉄=ヤクルト
西武=巨人
オリックス=阪神
ヤクルトは前年ある意味で悔しい思いをしてたし。(2年連続最下位) >>78
そのような風潮があった様な 印 象 がある ブライアント4連発の試合の後、清原和博が
「(ワシが買った)ランボルギーニ明日入港や」
とまるで他人事の様に言ったらしいけど、
やっぱりこの頃から何処か野球に
真面目に取り組んで無かったんだな。 「平成版ベビーギャング」
アイデアマンで有名な近藤貞雄は、若手を積極登用する事でも知られる監督だった。中日時代は牛島和彦や平野謙、大洋時代なら久保文雄に
大門和彦、高橋雅裕らを次々戦力にしていった。近藤の場合は、ただ若い選手を使うだけでなく新人の抜擢でも有名だった。中日では曽田康二、
中尾孝義、上川誠二、大洋でも相川英明に高橋一彦を起用、不足部門を中心とした現有戦力に刺激を与える手法だ。球団常務・大沢啓二の推薦で
日本ハム監督に就任した89年も、近藤はやり方を変えなかった。8年前のV戦士の衰えもあって野手の層が薄く「投高打低」というチーム事情、
近藤でなくても社会人出身の即戦力野手に頼らざるを得なかったのだ。
プリンスホテルからドラフト1位で入団した中島輝士は、前年ソウル五輪で四番を務めたスラッガー。開幕戦でいきなり穴吹義雄(南海)以来33年
ぶり2人目となる新人開幕戦サヨナラ本塁打を放つなど2安打3打点の好スタートを切ったが、その後は苦しみGW前には一時打率が2割を切った
事もあった。本塁打6本に留まっていた事もあり、7月頭から約二ヶ月間の二軍落ち。再昇格後は、閉幕まで3本塁打5打点を挙げて何とか来期に
繋げた。
俊足のアベレージヒッターだった鈴木慶裕は一番打者候補として、ドラフト2位で入団した。開幕から主にトップバッターを打っていたが、中島と違い
適応力の違いを見せつけ6月末まで3割をキープして力を発揮した。9月には67年の巨人・槌田誠以来新人では2人目の代打満塁弾という勝負強い
一面も見せた。
将来のレギュラー候補としての第一歩といえる2人の一年だったが、課題も残った。中島はオープン戦から手を焼いていた内角攻めを克服できずに
本塁打は一桁止まり、しかも中島がアーチを放った試合で勝ったのは、サヨナラ弾の開幕以外でもう1試合だけ。2勝6敗1分けと本塁打を打った
試合での勝率と運の悪さも目立った。鈴木は夏場以降のスタミナ切れで、最終的に打率が2割5分台まで落ちた。足でもチーム2位の22盗塁と
健闘したかに見えたが1試合3盗塁死を含めて失敗も13回、成功率62.9%では近藤得意の機動力野球も展開しづらかった。
近藤は投手中心のドラフトになった翌シーズンも酒井光次郎、有倉雅史を起用。かつて81年の優勝に貢献した島田誠、古屋英夫、高代延博の
「ベビーギャング」に代わる“平成版ベビーギャング”で強豪チームとの差を少しでも埋めようと近藤も、そして大沢らフロントも必死だった。 (了) 東尾が引退、森山、伊東、田辺が開幕間に合わず、工藤が絶不調
バークレオ全く打てない、奮闘していた高山もオールスター明けからは全く勝てなくなった
これでよく3位になれたと思う
デストラーデ加入や渡辺智男が6月から戦力になったのが大きかったのかな この年の西武は、抑えがいなかったのが一番大きいと思う。
試合終盤でひっくり返されて負けることが多かった。 >>84
それでも単純に戦力だけなら西武がナンバーワンだろう。
得失点差なら3強で一番だけど、抑え不在で竸った試合を落としまくったのが響いた。 近鉄もブライアントはすごいけど、その他の打者は大したことないんだよな。
チーム打率や得点数などは、西武とオリックスに大きく負けてる。
本当にあのブライアントの4連発だけで優勝したと言っても過言でない。 >>87
金村の不調、村上の故障離脱もあり、羽田や淡口がスタメンで5、6番で出てたくらいだからね。 近鉄は確かリベラが貢献度がけっこう高かったはず。
打率やホームラン数は大したことないけど
10月になってからホームランを量産して
全ていい所で打ってた記憶がある。 トレーバーのが期待できるから
今なら他球団でリサイクルされるてだろうが 89年オフ、フジTV珍プレー好プレー
何かと粗暴な乱闘メーカーの近鉄リベラ(元ボクサー)について
武豊「今度(日ハム)近藤監督にはリベラとやりあって欲しいですね」
石毛「うちも秋山が足引っ掛けられて怪我しましたしね〜、パ・リーグの選手は怒ってますよ」
序盤は金村欠場のサードを埋めた上、打でも勝負強い選手ではあったが、それ以外は何かと問題児 そりゃリベラからしたらあそこまで優勝に貢献したら大幅アップを要求してもいいよね。
それが上手くいかなかったんだろう。 本当に元ボクサーだったのか
道理で見事なフックだった訳だw この年オープン戦の「プロ野球ニュース」で西本幸雄に
「近鉄はドットソンをとって、どっと損した」などといわれる始末 もし、高田が、この年も、ハムの監督を務めてたら、近鉄、オリに相当嫌がらせしてそう。前年が、余りにも酷かっただけに。そうなると、西武が、最後に優勝してた可能性大だなあ。そして、大島が、サヨナラホームランで、キスされることもなかった。 ハムは前年も対西武9勝14敗3分、対近鉄10勝16敗でほぼ同じくらいの負け越しで
優勝争いが佳境に入ったラスト5試合で言えば対西武4勝1敗、対近鉄0勝5敗で
むしろ西武の方に嫌がらせしてたでしょ。
特に9月半ばの東尾−阿波野の投げ合いを1-0で制してほぼ安全圏に入ったと
思った直後にハムが近鉄に3連敗して息が吹きかえったのは、勘弁してくれと思った。 リベラはホームランを出迎えた藤瀬コーチの頭を子供にするかのようにポンポン >>98
これは、失礼。高田と云えば、巨人の犬もしくは、巨人に関係する物の犬とイメージがあったのだが、意外だったな。 >>78-79
そのヤクルトが11年にあと一歩の所で優勝を逃してるのも…
ただ11年の監督は真中の前任だった現SDの小川だけど… 羽田、栗橋、淡口のベテランが揃って引退した近鉄。前年に梨田、福山の義父も引退してるから、一気に若返ったんだな。しかし、この年から次の優勝まで12年かかるとは思わなかった。それに日本シリーズで先発した阿波野、山崎、加藤、小野が全員移籍するとは‥‥ >>104
確かにこの年投げた投手で、近鉄一筋だったのって数えるほどしかいないな。
主力どころでは佐々木修ぐらいしかいない。
その佐々木も不調で優勝にはほとんど貢献できなかった。
あと、赤堀が高卒ルーキーで1軍で少しだけ投げてた。 >>103
その反省か90〜94のオリックスは
大規模な選手の入れ替えを断行したし… てか6年?もかかったら普通に入れ替わるんじゃないの
84年のV戦士が入れ替わったら95年のV戦士になってた、みたいな感じで >>107
でもブーマーとか松永とか看板選手でも遠慮なく
放出したぐらいだし… この頃のオリックスの選手で95年優勝メンバーになったのは
和製大砲でブレイクした藤井、ルーキーだった小川
あとは藤田から正捕手の座を奪いかけていた中嶋、守備のスペシャリスト本西ぐらいかな 伊藤隆偉もいた
当時は伊藤敦規のほうが名を知られていたけど >>112
晩年の福良ってあんまり記憶に残ってないな
さっと引退した印象がある その後、95〜96年優勝に貢献した選手もピークを過ぎたと思われたら
あっさりと放出したよなオリックスは
藤井や福良ぐらいか、オリックスに骨を埋められたのは
本西は阪神へ、小川は横浜に
中嶋はFAだったけど西武に
あとは移籍組だったけど馬場をヤクルトとかもあったな >>84
工藤は前年からおかしい。
>>85
いや先発のコマ不足が敗因だよ。 「終戦の地で」
最下位ロッテに対し自慢の打線が火を吹いて小川博から11得点、先発投手・今井雄太郎が一死しか取れず14球で降板しながら森浩二以降の
5投手が踏ん張って勝ったオリックスにマジック6が点灯した。前日の10月6日に消えたばかりのマジックを再点灯させたが、残り5試合中Bクラス
球団との試合が無い2位・西武や、残り7試合中4試合が西武戦という3位・近鉄と比べて、対戦成績15勝5敗1分けと相性の良いロッテ戦が5試合も
あるオリックスに、5年ぶりの優勝へ向けてマジックだけではない有利な条件が揃っていた。
しかし翌10月8日のロッテ戦で、村田兆治の前に藤井康雄の一発のみで惜敗すると、以後は投手陣の弱さを露呈した。9日の対西武最終戦では
ガイ・ホフマンら4投手が11失点で大敗、不安のまま10日から13日の間に行われるロッテとのダブルヘッダーを含む4試合へ入った。
10日も山沖之彦が新人・初芝清に満塁弾を浴び初回6失点KOなど17失点の惨敗、この3連敗で3位まで転落した。それでも12日のダブルを
2戦とも二桁得点と圧勝して、同日“奇跡の4連発”に沸く近鉄にゲーム差なしの2位と迫った。近鉄も残り2戦でのマジック2が灯っていたとはいえ、
最終の西武戦を考えれば14日のダイエー戦はプレッシャーがかかる所だった。その意味でオリックスは残る13日のロッテ、最終15日のダイエー戦
に勝てば十分チャンスがあった。そして近鉄に先んじて、ロッテとの一戦に勝つことは特に重要だった。
ロッテが中3日でオリックス戦未勝利の園川一美、オリックスが中4日の35歳佐藤義則で始まった13日は初回ブーマー・ウェルズ、二回は藤井の
一発、四回にもブーマーが39号アーチを架けたオリックスが自慢の打棒で3点のリードを奪った。しかし五回に佐藤義が捕まり横田真之の適時打と
愛甲猛の逆転3ランでKO、打線は園川と夏場から抑えに定着していた伊良部秀輝を全く打てず5安打の敗戦。結果マジック点灯時には有利と
言われた、ロッテとの5試合で2勝3敗という誤算だった。7月以降8連敗を含む1勝11敗に終わった佐藤義に加えて、定まらない守護神といった
弱投に足を引っ張られて最大8.5差を守れなかったオリックス、最終盤に見せたホフマンや山沖の中1日登板も実らなかった。そして前年の近鉄に
続き、川崎球場はある意味でパ・リーグの雌雄を決する“終戦の地”となってしまった。 (了) 「まさかの失速」
優勝争いの大本命である西武が109試合目となる9月16日、遂に首位に立った。前半までの低迷も、先発陣の巻き返しで6月からの4ヶ月で52勝
28敗と本領発揮。珍しく森祇晶監督も「日程的にゆとりがあり、勝算があった」と思っていたほど、流れは西武といった向きがあった。実際9月27日
現在では2位・オリックスに、3ゲーム差をつけて残り12試合の展開という絶対有利の状況だった。
だが、勝てなかった。肝心の10月に4勝7敗と負け越して、リーグ新となる5連覇を逃したのだ。7敗のうち1点差負けが4度、結果的にどれか1つでも
取っていれば優勝していた。
仕上げに向け「万全のローテーションで臨んだ」はずの森が最も悔やんだのは、“ブライアント・ショック”の4連発よりも、ダイエーに最大8点差を
逆転された試合だった。15勝のエース・渡辺久信の先発での2位転落だっただけに、投手コーチの八木沢荘六は「信じられない」と首を振り、森も
「記憶にない負け方」と声を絞り出すのが精一杯だった。
1日で首位を奪い返した後の10月7日に、またもダイエーに対して1−2で競り負けた試合も痛かった。20歳の村田勝喜に7回まで11四球を貰い
ながら、得点は押し出しの1点のみ。8回からは先発で勝ち頭の加藤伸一に抑えられて、結果2安打しか打てない敗戦だった。
終盤まさかの失速をした西武、森が就任してから「ストッパーらしいストッパーがいなかった」と抑え投手の必要性を痛感したシーズンだった。3年
連続でリーグトップの完投数を誇る先発陣だけでは、勝ち切れないぐらい他球団の打力がアップしていた。
ここで森は一つ記憶違いをしている。10月決戦の話をした上で、共に絶好調で負ける気がしなかったという渡辺久と郭泰源について、「万全の状態で
3試合ずつに登板させたにもかかわらず、1試合も取れなかった」と述懐しているが、10月6日の日本ハム戦に郭が完投勝利している。もはやその
前後の日で、ダイエーに痛い負けを喫したショックが大きかったということか。指揮官が勝った試合をも忘れるぐらいの失速で、西武は抑え投手探しに
走る事になる。 (了) 森が堤から屈辱的な一言を浴びせられた同じ日に、
ヤクルトが新監督野村克也を発表
昭和最後の名勝負からちょうど1年後の10月19日の話 この時の日本シリーズ前予想ってどんな感じだったっけ?? 近鉄有利だった? 「手薄な投手陣」
いつ、どの時代でも大きなゲーム差の逆転劇には、逆転する側にもされる側にも色々な要因がある。最大で8.5差、球宴折り返し時点でも2位・近鉄
との5差を逆転された89年のオリックスの場合、自慢の打線が前半戦は1試合平均5.5得点だったのが後半戦に4.6得点に減少した事は確かに
一因といえたが、やはり一番の原因は明らかに投手陣の方だった。
6失点以上の試合が7月までの77試合のうちでは16試合だったのが8月以降は53試合のうちで21試合、2ケタ失点については7月まで2試合
だったのが8月以降だけで8試合もあった。
後半戦は優勝5回の上田利治監督も投手の台所事情に苦しんだ。7月に入ってそれまで8勝2敗の佐藤義則が8月上旬まで5連続KO、同じく7月
から徐々に調子を落としていた山内嘉弘に代わり抑えに回ったが佐藤だが、二度続けて抑えに失敗したため8月下旬にすぐ先発に戻されるという
ドタバタがあった。さらに連戦続きの8月は、8勝(5敗)を挙げていたガイ・ホフマンが肩の不調を訴え10月まで帰国、佐藤でも務まらなかった抑え
には開幕から6勝を挙げていた酒井勉を配置した事で先発陣が手薄になった。従って8月以降のローテーションは佐藤、星野伸之、山沖之彦と、
4月以来先発がなく中継ぎに回っていた今井雄太郎の4人に谷間の先発を組み合わせて臨む形になった。しかし佐藤が9月26日に勝つまで8連敗
するなど7月以降1勝11敗、山沖は後半戦6勝4敗と健闘したが7月以降の12度の先発のうち6度で5回も持たずに降板し防御率は6点台で、
ついに規定投球回にも届かなかった。今井も8月で40歳なったとあって、先発再転向後は1勝するのが精一杯だった。
手薄な投手陣の中で前半7勝、後半8勝を挙げてリーグの最高勝率に輝いた星野は孤軍奮闘の活躍だった。特に敵地に強くビジターで9勝1敗と
頼もしく、9月から閉幕までは負けなしの6連勝と勝負強さを見せた。優勝を逃した後、上田監督は「土台作りの一年」と負け惜しみともとれる言葉を
発したが、あるいは23歳になった若き左腕の一本立ちが“土台作り”としての感触を得ていたのかもしれない。 (了) >>126
(了)とかいらねぇから
書き込まない努力をしろ ハムの大島が2年連続皆勤。2年間で258安打を積み上げて、翌年2000安打を達成。中日時代の最後の2年くらいを思うと、予想外の記録達成だった。 >>130
大島が近藤監督から祝福のキスをうけたのはこの年だっけ? 佐藤義則と山沖が両方とも防御率5点台
こんなのが先発ローテーションに並んでたんだから優勝なんかできるはずもなく
そういえば佐藤ってこの年と翌年と連続で開幕6連勝したよな
結局失速して残りのシーズンひたすら負けまくったところもまったく一緒 おもえば、門田補強せず、投手補強してたらオリックス優勝してたのでなないかと。 「ライバル対決」
球界には同じポジションのライバル、主に投手同士の直接対決を避ける傾向にある。有名なところで80年代の小林繁と江川卓、5年ほど前の
田中将大と斎藤佑樹などが当たるがいずれも、マスコミが好奇心を煽り立てるように書いた記事で当人たちが本来の力を出せなくなる事を首脳陣が
恐れて避けるケースが原因だった。球宴の場でも、比較しやすくなるといった理由で同じ試合にライバル同士が登板する事はほとんど無かった。
「トレンディエース」と言われた日本ハム・西崎幸広と近鉄・阿波野秀幸の対決も、両者が入団した87年以来なかなか実現しなかった。初対決は
3年目となる89年、3強による優勝争いが佳境に入った10月8日の事だった。当日はカード最終戦、藤井寺球場に2万人以上の観衆が詰め掛けた。
試合は序盤三回まで両軍無得点、西崎はいてまえ打線、阿波野は先発9人全員が右打者の打線を抑えていた。動いたのは四回裏、西崎が三番の
ラルフ・ブライアントに44号となるソロを浴びて均衡が破れた。それでも六回まで西崎は、その1失点だけに抑えて意地を見せた。対する阿波野は
優勝争いの負けられないチームの雰囲気の中でゼロを並べ続けた。ほとんどが近鉄ファンというビジターの熱気に飲まれたのか、七回裏に西崎は
金村義明に適時二塁打を打たれ2点目を失うと、気落ちした状態で投げた高めの速球を次打者・山下和彦に捕らえられる6号2ランを打たれて7回
4失点で降板。阿波野は最後まで集中力を切らさず、6安打完封してライバル対決を制した。
最終的に一方的な展開になったのも片や逆転優勝の望みを持ち、もう片方は後半戦健闘しているダイエーにも離されて5位に沈んでいるという
所属球団の差を考えれば致し方無かった。
直接対決はその後2度しかなく、二度目は翌90年夏で両者とも8回を投げて勝敗付かず、三度目は91年の開幕戦で4−2と西崎が完投勝利で
雪辱した。直接対決は1勝1敗の五分に終わった二人、通算勝利では西崎が阿波野を50勝以上も上回り、優勝回数では阿波野が西崎を2回多く
リードしたばかりか西崎が経験し得なかった日本一も経験できた。他にも各年での成績などあらゆる面で振り返れば、野球人生においての
“ライバル対決”でも、これまた五分といったところだった。 (了) >>137
>>138
おまえらが去れよ。邪魔すんな。
この人の書き込みで当時の詳細な記憶が甦り楽しく読んでる俺達みたいなのも多いんだ。 >>135
実際打線に厚みが出てチーム打率が前年より高くなった
>>136
98年の日本シリーズにこの頃のパリーグのメンバーが結構出ていたな >>122
抑え投手の補強が西武にとってとても重要なポイントになったよな >>136
ナンバーで江夏山田が西崎阿波野にインタビューして「直接対決がないなんて信じられんよ」と言ってた。そりゃ興行としては最低のローテーションだもん。
20年たって山田が「ダルがマー君や涌井と投げ合ってる。自分が東尾村田鈴木と投げ合ってたような感じが蘇ってきた」と喜んでた。 >>134
酒井勉 9勝7敗9S 抽選で引き当て渡辺智男を抑えて新人王に輝く
ガイ・ホフマン 9勝6敗 前年10勝の古溝が不調の中、唯一の先発左腕
地味だけど投手の補強も当たってるんだよなあ >>134,145
オリックスを黒船と感じ、必死こいて優勝出来る戦力に整えたって感じだね。
それが今では戦力強化や集客よりもオーナーの顔色ばかり伺う集団に(´・ω・`)
逆に言えば「オーナーのご機嫌取ってれば我が身は安泰」とオーナーに甘え切って
いるとも。
それは良いけど、唯一の先発左腕って・・・・・・、この年15勝とエースに上り詰めた
星野が居たろ?w オリックスは投手陣の弱さを言われたが、後半戦の失速した一因に、松永のスランプもある。最終的に3割を保ったが、8、9月の下降は痛かった。 >>146
失礼
完全に勘違いしました(´・ω・`)
星野と上述の2人はまあまあだが、佐藤義、山沖の防御率5点台コンビの不調だね。
あと、前年頭角を現した新ストッパー山内が前半戦で馬脚を現した。
これで佐藤義、次いで酒井が抑えに回って今度は先発投手が不足という悪いサイクル 何だかんだでブーマーと門田のハイタッチがVやねんの一番の原因だろう。 >>150
当時現役の姿見てりゃ知ってることだが山田はヘロヘロだったから無理だよ
最終年なんてアンダースローで投げてるだけの投手になってたからな
もう1年現役続行したら山田の個人成績もチームも星を落としたに違いない
やっぱ膝がイカれると野球選手はアカンね >>148
オリックスは投手がこんな感じだから、ドラフトでは即戦力投手が何が何でも欲しかった。
野茂を抽選で外して、ウェーバーで順番が回ってきたときには目ぼしい投手は残っておらず
苦し紛れにパンチ佐藤を指名。 >>154
エース同士の対決を避ける為イマイチ盛り上がらないから。 「二人の救い主」
前半戦でチームが思わぬ低迷をすると、急場しのぎとしてトレードなどの緊急補強をしたり、二軍にいる若手を思い切って登用するケースがプロ野球
ではよく見られる。そうした光景を89年の西武から見られるとは、全く予想できない事だった。5月を終わっても13勝18敗2分けの5位という不振は、
王国といわれた主力投手陣と、清原和博やタイラー・バン・バークレオら野手陣の不調に、開幕前からの故障者の続出にあった。エースと目した
工藤公康が1勝も出来ず6連敗、前年新人王の森山良二も右肩を痛めて不在の上、高山郁夫や石井丈裕らも穴を埋める働きが出来ていなかった。
石井と同じく即戦力新人として期待されてきた渡辺智男が、デビューしたのは6月2日の事だった。ただ、プロ初登板はダイエー相手に二回途中まで
7失点でKOの散々な黒星スタート。2戦目は中6日の9日で、2失点完投ながら打線の援護無く連敗。三度目の登板だった17日に、5安打完投の
プロ初勝利でダイエーに仕返しをした。しかしその後また3連敗で1勝5敗となって球宴折り返し、防御率も5点台だった。本来ならここで中継ぎ
もしくは二軍に降格していた可能性もあったが、当時の西武の苦しい台所事情が渡辺智には幸いした。
8月3日に5イニング無失点のロング救援で2勝目を挙げたのが起点となり、先発に戻った次回登板から3連勝するなど、後半戦だけでいえば
近鉄・阿波野秀幸と並び最多の9勝を挙げて8、9月の西武快進撃に一役買った。新人王はほぼ一年通して働いたオリックス・酒井勉に譲ったが、
規定投球回到達22人の中で被本塁打が最少の12という内容で2ケタ勝利の活躍だった。
打者では米国3Aから、6月に加入したオレステス・デストラーデが救世主になった。メジャーでは通算12安打1本塁打だったデストラーデ、20日の
デビュー戦での2打席目で初本塁打すると7月末までに10発、8月も10発、9月8発とコンスタントに打って、規定打席未到達ながら32本塁打を
放った。規定打席未満の30発クリアは87年ボブ・ホーナー、88年ラルフ・ブライアントに次ぐ3人目の記録だった。
逆転優勝こそ逃したが、二人の救い主は首脳陣やファンの期待に十分過ぎるほど応えた。さらに90〜92年の間には渡辺智は31勝(18敗)、
デストラーデは3年連続本塁打王で122本塁打と活躍。西武球団史上で“最強の三年間”といわれる期間において、二人は救世主からチームを
支える実力者となっていた。 (了) 渡辺智男の初登板は覚えているわ。テレビ中継されていた。
7時に中継始まった時にちょうど、マウンドに輪ができていて
ダイエーが大量リードして試合の大勢が決まっていたわw 規定打席未満の30発クリア
83年の田淵幸一も達成してるはず ホーナー、ブライアント、デストラーデが
立て続けに規定未満で30発とか凄い時代だったな、そういや。 >>156の下から4行目
×→規定打席未満の30発クリアは・・・3人目の記録だった。
○→規定打席未満の30発クリアは・・・外国人では3人目の記録だった。
の誤りでした。お詫びして訂正します。 >>160
> お詫びして訂正します。
お詫び?
どこにお詫びの言葉があるの? 「入れ替え」
阪急からオリックスに親会社が代わってもブレーブスを率いる事となった上田利治は、前年4位だった新生球団のスタートとして大幅に空気を変える
必要があると感じていた。フロントと一丸になっての“門田博光獲得レース”では、近鉄を逆転する意地の大型トレードだった。これまでもマンネリ化
打破や活性化の必要性を口にしてきた上田だけでなく、年々低下していた阪急打線を考えても不惑の大砲獲得は、待望していた刺激剤だった。
上田が監督に復帰した頃の阪急もそうだった。力の落ちたチームを変えるべく、リーグ4連覇の英雄を次々と入れ替えた。水谷実雄との交換で
加藤秀司は広島へ、ロベルト・マルカーノは自由契約でヤクルトに移籍した。
若手の抜擢ではさらに強い刺激を与えてきた。動きに衰えの見えた遊撃手・大橋穣に代えて新人の弓岡敬二郎を起用、三塁手・島谷金二も21歳で
両打ちの松永浩美に取って代わられた。左翼手にも4年目の小林晋哉をレギュラーにした上田、ベテラン捕手の中沢伸二が22歳の藤田浩雅に
マスクを譲ったのもこの頃だった。若手たちは成果を上げて、84年の6年ぶり優勝に貢献した。
その弓岡と藤田が代わられる立場になったのが、門田獲得の89年だった。ブルーサンダー打線構築の影で、遊撃に起用した小川博文と正捕手に
据えた中嶋聡は、主力に比べて打率は低かったが共に我慢強く使われた。
小川は9番で先発出場した開幕戦で、近鉄・阿波野秀幸から適時二塁打、次の試合でもロッテ・小川博から初本塁打といきなりエース級を打った。
奇しくも弓岡が抜擢された当時と同じ新人だった小川は、トータル115試合に出場し打率.247だったが優勝した近鉄には.302と相性が良かった。
弱冠20歳の中嶋はリードに苦心し自慢の強肩はさほど見せられず、盗塁阻止率は28.7%でリーグ5位だったが、リード面は評価されゴールデン
グラブ賞を受賞した。守備だけでなく打つ方でも、意外性のある打撃を見せた。猛打賞を記録した5試合は、守りに好影響だったのか5戦全勝という
験の良さだった。
惜しくも優勝を逃した89年当時は、“強力打線の安全牌”と言われる事もあった小川と中嶋だったが、二人はその後も戦力となり95、96年のリーグ
連覇と19年ぶりの日本一にも貢献、皮肉にも入れ替えが報われたのは上田が敵将となっていた頃だった。 (了) >>163
近鉄は金銭で大丈夫だと交渉を進めていましたが、途中でこじれて決裂となったそうです。 すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
QK0XR 衝撃事実拡散
【創価学会の魔の正体は、米国が仕掛けてるAI(人工知能)】
創価を日本統治に利用してる組織がCIA(米国の極悪クソ諜報、スパイ)
創価の活動家は、頻繁に病気や事故に遭うけど、信者は皆、魔(仏罰、現証、非科学的な原始的発想)にヤられてると思ってる
災難が続くと、信者は仏にすがって、学会活動や選挙活動に精を出すから、定期的に米国のAlが科学技術で災いを与える。モチベーションを上げさせる為の、起爆剤みたいなもん
パトカーの付きまとい、芝刈機音、ドアバン、ヘリの飛行音等も、米国が仕掛けてるAIが、人を操ってやってる。救急車のノイズキャンペーンに至っては、サイレンで嫌がらせにする為だけに、重篤な病人を作り出す冷徹さ
集スト(ギャングストーカー、ガスライティング、コインテルプロ、自殺強要ストーキング)以外にも、病気、痛み、かゆみ、湿疹かぶれ、臭い、自殺、殺人、事故、火災、台風、地震等、この世の災い全て、クソダニ米国の腐れAIが、波動(周波数)を悪用して作り出したもの
真実は下
http://ss.fan-search.com/bbs/honobono/read.cgi?no=12029 >>50
>>86
大宮龍男と鹿取義隆をトレードで獲得したのも
このシーズンの内容も関係しているだろうな >>5
西武VS近鉄やロッテVSオリックスも地上波全国ネットナイターでやっていた ブライアントの三発目、ナベは前々日の
投球数が響いて打たれたのだろうか。 「投げ込み不要論」
投手コーチとして有名な権藤博の指導法の一つに「投げ込み不要論」がある。今では“肩は消耗品”が常識となっているが、現役時代の苦い経験を
もとに試合どころかブルペンでも投球数を抑えるよう指示したのは中日コーチ時代の40年近く前の事で、当時までには無い教えだった。権藤が
二軍から一軍投手コーチに昇格した時の監督は近藤貞雄で、投げ込み不要論の提唱は近藤がコーチ時代に権藤の酷使を止められなかった反省
からの持論であり、60年代当時から過重な投げ込みには反対し続けていた。中日時代からキャンプでの投げ込みを隔日にして、大洋監督時代では
“休肝日”ならぬ“休肩日”の導入が話題になった。
89年に日本ハムの監督に就いた時も近藤の方針は変わらなかった。ブルペンでの投げ込みを減らし、余った時間は筋力トレーニングに充てた。
柴田保光らベテランや、87年のプロ入り以来2年間よく投げた西崎幸広はこの方針を歓迎した。しかし高校時代から投げ込んでフォーム固めや体力
強化をしてきたタフな若手にとっては、容易に受け入れ難いものがあった。特に前年最多勝を獲った23歳の松浦宏明は「キャンプで投げ込まない
なんて、とても勇気が要ることなんです」と強く抵抗した。
若手の不安は的中した。松浦は皮肉にも開幕してすぐ故障して離脱、6月に復帰も7月に再度離脱して1勝に終わった。前年最優秀防御率に輝いた
河野博文は、絶不調に陥りプロ5年目にして初めての未勝利だった。6年目24歳の津野浩は、3年ぶりの2ケタ勝利には達したが防御率5.50で、
前年より2.5以上も下げた。豊富な投手陣と近藤の手腕で優勝争いの予想もあったが、西崎以外の若い力が機能せずチームは5位と期待に沿えな
かった。
目論見が崩れても近藤は「キャンプのブルペンで投げる200球より、オープン戦で投げる20球の方が身に付く」と持論を崩さなかったが、前半戦まで
5割近辺で3位争いをしながら後半戦16勝33敗と大きく負け越したのでは、評論家たちに失速の原因を「投げ込まない事でのスタミナ不足」といって
近藤理論に求められるのも仕方のない事だった。 (了) >>172
いつも、ありがとう。
興味深く読んでる。 10.12の西武−近鉄ダブルヘッダーだっけ??
ブライアントに打たれ、
マウントにがっくり膝をついて
打球の行方をただ呆然と見送る渡辺久の姿が忘れられない。
俺もまだ若かったなあ・・・(遠い目) 10.12の西武−近鉄ダブルヘッダーだっけ??
ブライアントに打たれ、
マウントにがっくり膝をついて
打球の行方をただ呆然と見送る渡辺久の姿が忘れられない。
俺もまだ若かったなあ・・・(遠い目) >>175
この年の10.12もそうだが
西武は冬季五輪開催年に優勝してしまうと
翌年は災難に遭うな…
92年→翌年ヤクルトにリベンジされ日シリ敗退
94年→翌年オリックスの優勝胴上げを見届け
98年→翌年ホークスの初Vを許す
02年→翌年伊原退任、稼頭央メジャー移籍 逆にいえばそれだけ冬季五輪イヤーに優勝できてるのが凄いといえるが。 >>157
何故だかわからないが水島新司が居酒屋でテレビを見ているシーンが
流れていなかったか?
>>176
こういうデータもある
59年→6年ぶりのBクラス
69年→黒い霧事件で大揺れ
79年→最下位
89年→10.12などで優勝を逃す
99年→ダイエーに初優勝を許す
09年→前年日本一からBクラス ブライアントのダブルヘッダー四連発、
初回の外野フライ時点で配球を変えとけばな… >>181
あの試合で近鉄が2連勝して近鉄に残り2試合でマジック2が付いたけど
実は裏でロッテVSオリックスのダブルヘッダーも川崎でやっていて
オリックスが2連勝して、オリックスの優勝の可能性も他力だけどまだあったけど
次の日にオリックスがロッテに負けて近鉄のマジックが1に減って
近鉄の優勝がさらに近づいた(ちなみにその試合のロッテの先発は園川だった) 近鉄ベンチもブライアントには高めの速球で攻めて
来ると分かっているだろうから彼に指示しただろう。 勝ち越しホームランを打たれたナベQはブライアントキラーで
いつもはインハイのストレートで抑え込める楽な相手だった
あの打席の時だけ打たれたって振り返ってたな ダブルヘッダー1戦目が郭&久信VS高柳
2戦目が高山VS阿波野、1戦目敗戦で終ってた。 石毛がダブルヘッダー第1試合先発阿波野じゃ
なくて高柳だったことに驚いたそうな。
感覚が「高柳ってw」みたいな。
実は牛ファンだった俺は第2試合が「高山w」だっ
た。確か3回ぐらいでノックアウトしたと思った。 巨人は近鉄を破り日本一になったが、
巨人は当時のパリーグの6球団(前身球団含む)と
対戦しそして日本一もコンプリートした記念すべき
年だったが巨人は楽天には日本一にはなれず、
ホークスはセリーグ全球団と対戦&日本一を
達成しているのでホークスの方が偉い。 >>186
優勝するにはダブルヘッダー連勝しか無い近鉄は、第1試合に阿波野をリリーフ投入する事も考慮に入れて、第2試合の先発に回したんよね。
一方1勝1敗で優勝へ大きく近付く西武は第1試合に郭を立てて必勝を期したが・・・・・、ブライアント3連発で第1試合を落とした事で全てが裏目
に出てしまったという感じ。 第二試合先発高山だがライオンズはもう投手残っていなかったのか。
森の性格からして第一試合落とした時のために二戦目の先発投手用意しているかと思ったが。
そんな余裕が無いほどお互い過密日程で消耗していたのか。 森の本読むと10.12より5日のダイエー戦で序盤8点リードの展開から
12対13の大逆転負けを喰らったことの方がターニングポイントだったと書いてある スポーツニュースで「後半だけならダイエーは2位」というフレーズを何度も聞いた記憶があります。
あとは「閉店前の・・・」 西武の豊田スコアラーは森監督に配球を叱責されたとか。
高めの速球一筋では幾らブライアントでも順応されるよ。 うろ覚えかもしれないが件のダイエー戦の後に
西武は川崎でロッテとのダブルヘッダーがあったと
思った。当時最下位独走中のロッテ相手に第一試合
大差で勝ったんだけど「そこまで取らなくても」と
思った点差でそのため第二試合は疲れで
落としてしまった。ボーナスステージだから
確実に二つは取りたいという気持ちだったと思うが
ロッテ投手陣がひどくても手加減できないほど
焦っていたのだろうか。またああいう逆転がある
かもという焦りがあったのか、ブラ砲連発の前の
西武の試合振りには悲劇への前兆がかなりあった。 だから鹿取取った。
もうピークは過ぎたと思われてた鹿取が、あそこまで長くやるとは予想外だった。
堀内は予見してたけど。 カトリ?もうオワコンだろ?
ってかなりの人が思ってたが…
後のデニーもそうだが、セのイマイチなサイド投手が上手くハマったなぁ。 玉木正之が西武の応援歌の「ミラクル元年奇跡を
呼んで〜♪」の歌詞は作詞家が阪神ファンなため、
ライオンズの応援歌のつもりで作詞したのに、
いつの間にかタイガースの応援歌になってしまった
と言ってたな。タイガースの優勝はミラクルがなけ
ればないがライオンズはチーム力がしっかりして
るためミラクルなど必要なく優勝できると。
ただこの歌詞はミラクル(バファローズが)
(平成)元年奇跡を呼んで(優勝)とも読める。
実は近鉄の優勝を予言していた? 所沢移転前の弱小球団がわずか4年目で優勝ってのが十分ミラクルだろ
同じような条件でダイエーが10年
それ以下の新規球団の楽天が9年かかってるのにたいして 当時の西武(つうか堤義明氏)の資金力と根本さんの影に日向に暗躍する策士振りを思えばミラクルという感じはしないな。
年々目に見えて強くなっていったし。 買収した時点ではボロボロだったけどその分堤や根本の好きなように出来たからね
阪急を買収したオリックスがその辺の問題で苦労したのとは対照的 自分が若い時から応援してたチームを買えた人と、ビジネスの付き合いで買った人(元々好きなのはウインタースポーツ)とではそりゃね… ブライアントの連発は真剣勝負のパリーグだから
成立するのでありセの特に藤田巨人ならブライア
ントを満塁の場面でも敬遠してただろう、と
安部譲二が週刊誌かスポーツ紙のコラムに書いて
たな(ただ満塁の場面は森監督は四球でもいいと
郭に言ったらしいが)。渡辺久信とブライアント
の勝負は伊東が「(江川と掛布みたく)勝負を越えて
投手打者が真剣勝負を楽しむと言うのがあるけれど
あれこそ本当の真剣勝負ですよ」と言わしめた。 ナベQ自身も「思い出に残っているシーン」として語っているらしいね
打たれた後に片膝ついて呆然と見送っていたシーンがある意味でカッコよかった ナベQは無類のブライアントキラーで決め球にインハイのストレート投げときゃ安パイだった
あの試合のあの打席の時だけ打ち返されたってのが何ともドラマチック 久信は100の力ならブライアントを抑えられた
と思うがいかんせん中1日。パフォーマンスは
落ちる。 オリックスもロッテ最終試合に勝ってればな。
近鉄はダイエー戦の後西武戦だから西武はダブル
ヘッダーのリベンジとばかり近鉄を倒してただろ。
そうなるとオリックスは最終戦は獲ってたから
オリックスの優勝だったかもしれない。 オリックスは5月4日の西武戦勝っていたら優勝だったんだよな
あの試合は9分9厘勝っていたよ >>206
あれが投げミスではないからこそのあの表情なんだろうね
「しまった!」って顔ではない
ジョニーがプリアムに打たれたのと同じ
完璧なコースに完璧な球を投げたのにやられた 初球は外角の釣り球に騙されず、
二球目は内角直球を大ファール、
三球目の変化球に全く反応せず。
ブライアントは完全に合わせていた。 あの日ブライアントが郭から打った1本目は
何度見ても惚れ惚れする完璧なスイング 清原が入ったチームは物凄い弱体化し、
出て行ったチームは、糞がいなくなったことでめちゃめちゃ強くなる
1985年清原入団前
西武優勝 勝率 .637 2位とのゲーム差15.0
1986年清原入団
西武優勝 勝率 .581 2位とのゲーム差2.5
清原が入ったことによってゲーム差がマイナス12.5
1996年清原移籍前
巨人優勝 勝率.592 2位とのゲーム差5.0
1997清原移籍
巨人4位 勝率.467 1位とのゲーム差-20.0
清原が入ったことによってゲーム差がマイナス25.0
結論を言えば
清原はチームのお荷物にしかならないってことだ
清原が出て行った西武の成績
1996年清原移籍前
西武3位 勝率.492 1位とのゲーム差-13.0
1997年清原移籍
西武優勝 勝率.576 2位とのゲーム差5.0
清原が出て行ったことによってゲーム差がプラス18.0
2年連続3位だった西武だが
清原がいなくなった途端に2連覇達成 >>213
面白い。
ちなみに清原が出ていった前後の巨人と、移籍してくる前後の檻はどうかな? 清原が出て行った年の巨人は
有名な8連敗10連敗9連敗の年だけどね(´・ω・`)
まぁ前年より順位は一つ上がったがw >>189
先発出来る投手では休養十分の松沼博久がいた。前回登板の内容の悪さと、近鉄との相性を忌避されたのかも。
高山ではいかにも力不足だな。
打たれた後の投手交代も失敗だった。 あと、秋山が9月22日に31号を放ったけど、以降17試合、本塁打が全く出ずに終わった。
例のダブルヘッダーでは、二試合とも初回にライトに三塁打打ってたし、打率はキープしていたが。 >>212
あのスイングが毎回出来てりゃ、とてつもない本塁打数になりそうだ。 >>217
トランプゲームの大富豪(大貧民)で弱いカードを
先に出したのが近鉄(高柳)。西武は郭太源という強いカードを
先に出した。しかし失敗して次の試合高山という弱いカードを
出すしかなかった(近鉄は阿波野で当然強いカード)。
ダブルヘッダー第一試合は石毛は阿波野でくると思ってたらしいし。
でももし第一試合郭阿波野エース対決で第二試合高山高柳ローテー
ション谷間対決だったら試合はどうなっていただろうか
興味深い。 「真面目でいい子」
新しく日本ハムの監督に就いたばかりの近藤貞雄が、選手を見て一言「真面目でいい子ばかり・・・」と不満を漏らした。前から近藤の頭には「真面目で
いい子がグラウンドで働いたためしがない」というのがあった。それまで26年の指導歴での実体験によるものが大きく、優等生よりも一癖あるタイプの
方がよく働くと思っていた。
前任の高田繁監督時代に、3年連続で開幕投手を務めた津野浩は“真面目”の代表だった。身長も高くセンスもある、しかし真面目が災いしていると
近藤は見ていた。細身で甘いマスクに加えた「凄味がなきゃ・・・」という近藤の話を受けたか受けずか、89年の津野は11勝しながら防御率5.50と
いったように好不調の波が激しかった。6月のダイエー戦で8回まで無安打の快投を見せたかと思えば、8月の西武戦で2回KOされてからは閉幕まで
4連敗とムラがあり、イメージチェンジの評価は翌年に持ち越された。
前年最多勝を獲り、近藤が提唱した投げ込み不要論に抵抗を見せた松浦宏明は真面目理論から考えれば期待は持てた。しかも88年の松浦は西武
相手に4完投を含む6勝1敗というキラーぶりで強い相手だと燃えるタイプだったが、皮肉にも開幕して間もなく右肘故障の大誤算でわずか20イニング
しか投げられず1勝に終わり近藤の公算を狂わせた。
左腕の河野博文も前年最優秀防御率のタイトルホルダーでありながら、後の90年に失踪騒動を起こすなど考え込みやすい性格だった。しかし
未勝利で6敗という河野の絶不調で、左投手不足に悩んだチームがトレード期限いっぱいの6月末日に巨人から獲得した角盈男は、生え抜きの選手と
違って移籍早々近藤に堂々と物申した。
中継ぎ起用で考えていた近藤に「先発で使わないならトレードしてくれ」と言ったのだ。先発登板は79年を最後に10年もしていないにもかかわらずの
角の強気な発言に、近藤は呆れたが「自己主張をハッキリしてくれた方が、陰でブツブツ言うより良い」と言っていた。角はプロ初完投も含め3勝を
挙げてローテーションの谷間を埋めた。近藤自身も決して現役時代に優等生でないことを認めていて、指導者とぶつかりながら投げ抜いた。89年の
上位3球団は個性の強い選手が目白押しだったが、日本ハムも真面目でいい子でない選手がもう少し多くいたら、結果は変わっていたのだろうか。
(了) >>210
あのシーン、渡辺久信の表情もさることながら、喉仏の大きさが気になった。 渡辺は「ブライアントよりリベラの方が嫌だ」と言っていたな
リベラは数値的にはそこそこだけど「ここで打って欲しい」ってとこで打っていた >>209
このシーズンオリックスはかなり惜しかったからな
5月4日の西武戦もそうだけど
もし10月13日のロッテ戦勝っていたらペナントの結果は違っていたかもしれないな
10月13日の場合は近鉄にマジックあるけど残り試合2でマジック2のままだったから
近鉄もかなり厳しい戦いになっていただろうな 森は残り4試合が全て前年のリベンジに
燃える近鉄相手で嫌な予感してたかもな。 http://2689web.com/1989/BF/BF19.html
8/10の日ハム戦かなあ
なんとかストッパーを務めていた山内が大炎上してストッパー失格の烙印を押され
以後佐藤義、酒井らローテーション投手がストッパーに廻され、薄い先発がさらに薄くなった
西武とオリックスは痛い敗戦が多すぎてどれが痛いとも言い切れないが
9/30,10/1のオリックス戦に渡辺久、郭をつぎ込んでの連敗もかなり痛かった
これ一つ取ってればオリックスが死んで、あとは流して2〜3ゲームつけて優勝できてたかも >>221
89年の日ハム。書いてくれてありがとう。
今となっては、この時代が懐かしいなあ。
クラスで日ハム好きの人間なんて1人もおらず寂しかった(笑) 当時巨人へのトレード話があって怒る選手も珍しい
大抵の選手は大喜びだと思うが
南海を愛した山内孝徳氏、球団譲渡などで3度の激怒
https://www.nikkansports.com/baseball/news/201912030000482.html
ある新聞記者が山内に声をかけた。「よかったですね。ジャイアンツに行くんですね」と、
水面下で巨人の看板選手とのトレードが進んでいると告げた。
「何やと!?」。また山内の血が怒りで煮えたぎった。
山内 俺はホークスに命をかけて入った。その俺をいらんと言うのかと。 なんとなくだけどタカみたいな気迫と内角攻めでいくタイプは
セでは上手く行かなかったと思うからむしろ良かったと思う 高橋直樹や加藤秀司は不思議な位にセではダメだったね 今だと美馬みたいなタイプだよね
あれもFAしたけどセに行かなくて正解だと思うわ 角さんといえば翌年のブライアントの天井弾を思い出す 「強いチームに居たら・・・」
3強レースに沸いたパ・リーグでは近鉄からはラルフ・ブライアントとハーマン・リベラ、オリックスからはブーマー・ウェルズ、西武からは途中入団の
オレステス・デストラーデといった外国人選手の強打が熱戦を演出した。実力者助っ人揃いという事でいえばBクラスに終わったチームでも、好成績
の選手が各球団に散らばっていた。外国人打者の出来だけなら全6球団は拮抗していた。
移籍した門田博光の穴埋めにダイエーが獲得したウィリー・アップショーは、主にブルージェイズで主軸として活躍しメジャー通算1000安打と100
本塁打の実績を引っ提げての入団だったが、本来は中距離打者ながら33本塁打を放った。前半戦は四番の重圧もあり打率が上がらず苦戦したが、
8月に7戦連続打点を挙げるなど後半戦に貢献した。近鉄・阿波野秀幸から3発、オリックス・星野伸之と西武・工藤公康から2発ずつとエースたちを
含め、左腕からの本塁打では左打者でリーグ最多の10本塁打(全33本塁打)を打った。同じ左打者ではブライアントと門田でも8本塁打といった事
からも対左投手での技術がうかがえた。
アップショーと外国人助っ人史上4組目の30発コンビを形成したトニー・バナザードは来日2年目、バナザードもメジャー968安打75本塁打の実力者
だった。8月の月間MVPも立派だが、特筆すべきは当時の両打ち打者本塁打新記録の34本塁打であり、内訳も右で15本、左で19本と両打席で
結果を出した。
日本ハムの四番を務めたトニー・ブリューワは、バナザードよりも日本球界に先に入った来日4年目だが、前年腰椎分離症で丸1年間欠場していた
ため89年は勝負の年だった。実績考慮で残留させてくれた球団に報いるチーム三冠の数字を残したブリューワは、日曜に強く打率.337、25試合で
9本塁打、デーゲームでの9本塁打はブライアントと並ぶリーグトップだった。
ロッテの新入団マイク・ディアズはとにかく好機に強く、8戦連続打点を含む105打点はレロン・リー(109点)に次ぐ歴代2位の記録。来日初年度の
40本塁打にあと1本届かずも、打率が3割1厘で12球団の選手で2位となる猛打賞15回を記録していた。
挙げた4選手は当然ながら翌年も残留したが、ダイエーのコンビはリッチ・ゴセージ獲得即昇格決断の田淵幸一と揉めて途中退団、ブリューワは
33歳と決して老け込む歳ではなかったが初めて3割を切って17本塁打63打点とパワーダウンで退団、2年連続3割30発100打点のディアズのみ
活躍したといった具合だった。先日亡くなった元阪神のマット・キーオにも言える“強いチームに居たら・・・”という外国人選手はいつの時代にも居るが、
89年は打者においてそんな選手が特に多く存在した年だった。 (了) 淡口が近鉄の選手として優勝したが、V9を経験した選手でも
あった。巨人の方は1987年の優勝時にはV9戦士はいなく
なっていた。しかも平成に元号が代わってのV9戦士の
優勝経験者であった。 >>237
巨人は地獄の伊東キャンプを経て、1981年の時点でほぼV9戦士が一掃されていたからねえ。
V9戦士の1人だった高橋一三が日ハム投手として1981年シリーズの第1戦に先発した際に、古巣なのに完全に様変わりした全く違うチームと対戦している
という奇妙な感覚があったという。
何処かバック・トゥー・ザ・フーチャーみたく自分が未来にタイムスリップしたみたいな感じ(Part2の「えっ!カブスがワールドシリーズ制したの!」みたいな)
だったのかなと。 >>237
V9経験者で平成に優勝経験があるのは淡口と新浦ぐらいしかいないのでは ブラ砲炸裂西武戦が終った翌日にオリックスがロッテに負けて
マジック1。しかし当時俺は「バナザードとアップショーの30本
コンビがいるしなあ、岸川、山本和もきついし、西武
戦の疲れにつけこまれたら負けて西武最終戦てヤバい
だろ」と思ったダイエー戦、両外人がいなかった。
まだダイエーも2、3試合残してたイメージがあったのに
帰国していた。今でも何で両外人は早く帰国したのか? >>240
アップショーはその前に怪我だね
だから13-12の西武戦にももう出場していなかった
バナザードも10/7西武戦から優勝決定の10/14まで一週間空いちゃったから
気が抜けて帰国したような
(昔クロマティも契約が残ってて消化試合に帰国したような覚えがある) 西武が出てたら巨人4タテ出来てた
近鉄は穴が多すぎ まあそんな穴があるチームに負けて優勝できなかったんだから仕方ない 「エース交代」
後半戦27勝28敗、失速で5年ぶりのペナントを逃したオリックスだが、球宴後の順位は西武、ダイエー、近鉄に次いで4位だった。打率、本塁打、
得点でリーグトップの打線を持ちながら防御率リーグ4位の投手陣が足を引っ張った。被安打と完投数でもリーグ5位、その影響で1試合平均の投手
起用2.97人はリーグ最多だった。前半戦で18の貯金を作った先発陣が後半戦では軒並み成績を落とし、前半8勝の佐藤義則が後半1勝9敗、
同じく7勝のガイ・ホフマンも後半2勝2敗、山沖之彦は前半の5勝を上回り後半6勝4敗を挙げていたが防御率6.08と苦しんでいた。
その点前半7勝3敗、後半8勝3敗を挙げ、防御率で前半4.38、後半2.51と逆に成績を上げた星野伸之はオリックス投手陣の中でも出色の出来
だった。
8月は完封と大量失点KOを交互に繰り返して2勝2敗、しかし2回途中で降板した後に中2日で近鉄打線から10奪三振の完封勝利で首位を奪取
するなど端正な顔立ちと細身の身体からは想像がつかない気概も見せた。9月と10月の大事な優勝戦線では6連勝して一度も負けなかった。
9月は5試合で4勝して防御率1.59の好成績で月間MVPを受賞、10月も3試合で2勝を挙げた。近鉄がダブルヘッダーで西武に連勝して沸いた
10月12日もチームが痛い連敗を喫していたロッテ相手に2失点の完投勝利と意地を見せ、翌日の勝敗次第では再逆転優勝の目もあった。
トータルでは自己最多の15勝6敗で最高勝率の初タイトルを獲得した星野は対戦相手や場所についてもコンスタントに勝ち、全球団からの勝利は
もちろん西武に対して4勝2敗、ダイエーに対して5勝2敗など負け越した球団は無く、ビジターも9勝1敗の強さを誇り、全ての敵地で勝利した。
前年まで通算2勝7敗と苦手だったロッテにも3勝負け無し、前年に続くチーム最多完投数といった内容も親会社をオリックスに替えた球団の
新エースに相応しいものだった。
余談だが当時の星野本人は愛煙家でタバコをやめたのはFAで阪神に移ってから、それから太りだしたというが阪神で結果を出せなかった原因は
衰えなのか禁煙なのか。「健康」と好きな事を楽しむ「心の安らぎ」のどちらを取るかの答えはいつの時代でも永遠のテーマになっている。 (了) コージと大下はアホだった
待望の広島監督になった山本浩二。そして、不機嫌そうな顔をした大下ヘッド。
キャンプ中、大した非も無さそうな河田を平手打ちする映像が流れたチビ大下。
人気者のはずが相変わらず観客動員セぶっちぎり最下位の広島。
田舎者丸出しの広島弁で馬鹿丸出しのコメントを連発するコージ。
この年の広島は前年より打つようになったものの、前年がひど過ぎただけの話だった。
投手起用が原因で負ける試合も多く、ヘッドの大下は機能していなかった。
そもそも、スローガンにした「ウイニングスマイル」は完全な和声英語だ(笑)。
(了) この年のセリーグ
・広島
人気者コージが監督就任。スタンドがガラガラ。開幕戦、救援に長富を起用し逆転負け。
スタートダッシュに成功するが負けの大半は継投失敗。紀藤を酷使。負けてても紀藤。
バカなのかコージ?監督の談話は広島弁で田舎者丸出し。
・中日
オープン戦無双。暴力野球の限界露呈。星野落合の確執深刻に。けが人続出ベロビーチキャンプ。
上原、近藤の不振。立浪故障。
・ヤクルト
コマ不足も若手の芽が出だした一年。
・阪神
暗い一年。掛布引退。新人野田の報われない好投。中西金属疲労。岡田真弓も振るわず。
・大洋
古葉監督ベンチで顔を隠したままそのまま消える。 もしこの年、西武が日本シリーズに出ていたら、先発は
渡辺久−郭−渡辺智−松沼兄−渡辺久−郭−渡辺智だったかな?
工藤はこの年、絶不調だったからね…
もしオリックスだったら、
佐藤−星野−山沖−ホフマン−佐藤−星野−山沖かな? 西武はそのようなローテになってたと思うけど
オリックスは緒戦と2戦目(5戦目と6戦目)が逆だろ
この年の佐藤は全然良くなかったぞ。シーズン15勝の星野が第1戦先発が妥当だろう
あえてエースを2戦目に投げさすという手も無きにしもあらずだが(2013年のマーのように) 佐藤義則は開幕6連勝→最終9勝13敗防5.00
山沖も11勝6敗も防御率5点台
だからそれよりも安定してて駒田岡崎篠塚クロマティら左相手に投げられる
ホフマンも2回投げさせるんじゃない?
星野−ホフマン−佐藤義−山沖−星野−ホフマン−総力戦か
星野−ホフマン−佐藤嘉−星野−ホフマン−総力戦−総力戦
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