実在しない選手の想い出をでっちあげるスレ
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まずは阪急・ヤクルト・阪神で活躍した尾沢慎太郎について語ろうか 初期ダイエーの150キロ右腕、橘川について語りたい。
ノーコン橘川が1年だけ2ケタ勝利挙げた頃が懐かしい。 衰えた山内なんかのベテランに代わって彗星の如く登場した橘川懐かしいね
2ケタ勝ったときはこれで村田勝喜と並んでダイエー二枚看板誕生と思ったんだけどね… オフに
「アメリカ式調整を取り入れます」
「新しくフォークを覚えます」
これでノーコン再び
いやそれまでよりもっとひどくなってたからな 橘川は真面目だったから、ゴセージやタネルの影響を受けたんだろうか?
当時も大リーガーって言っていたもんなあ 八百長野球というと大倉唯由を思い出すな。
井本とともに近鉄から不可解なトレードでヤクルトのに行ったのは忘れられない >>459
あの頃のダイエーはアップショー、バナザード、ゴセージ
メジャーリーガー色々連れてきていた
彼らの話に影響されたのかもしれない
あの平和台とダイエー守備陣をバックにしてフタケタ勝利だからなあ
惜しい選手だったよ シグペンなんてのもいたね、当時のダイエー。
橘川が10勝して12敗で済んだのはパワーピッチのおかげだったから、大リーガーを勘違いしたんだろうね。
インターネットが当時あれば、あんなことにはならなかったんだろう。 そう言えば88年に入団しヤクルト黄金時代の4番サードだった
谷上明隆がエンジェルハートに出るらしいな…
まあかつて容姿が冴羽りょうに似てると言われた事から
大洋のポンセと並んで子供達から人気者だったし… しかしまぁ、アップショー、バナザード、ゴセージ、シグペン
他球団のデシンセイ、ホーナー、オグリビーとか
この頃の日本プロ野球はメジャーで実績を残した選手を色々獲得してたんだなあ
2010年代の今よりこの頃のほうが夢とか華があったな
あ、阪神も獲ってたね
バースが退団した後釜にダイスとかいう一塁手のメジャーリーガー 今ほどメジャーの情報が入ってこない分、どんなにメジャーで実績があろうと気安くバカに出来る鷹揚さがあったよな
「マドロック出入り禁止」とか「ダイスダイキライ」とか ダイスのサイクロン打法はカッコ良かったな、バットでボールを吸い込む様にして打つんだよね。 来日前年メジャーリーグで13HR、その前年は18HR
過去に5年連続20HRしたこともある実力者だったけど
さすがに38歳はきつかったな 引退間近の尾花がダイスの頭にぶつけたのがきっかけで起こったのが、あの有名な「神宮の大乱闘」。
ファン同士でも不穏な空気となり、外野の一部でもケンカ騒ぎが。
近鉄から途中加入したヤクルトの外人投手、バカーラだけは我関せず、ブルペンで一心不乱に投げ込んでいたのが印象的だった。
今思えば防御率6点台だったんだよね、バカーラ。 投げては打たれるバカーラが戸田では妙に人気があって、登板するたびに「バカ」コールが凄かった。
少し前のレスにあった谷上がベンチ「バカにバカとはなんだら!」と本気で怒鳴っていた記憶がある。
バカーラ本人はバカコールは人気があると勘違いしてたみたいなのが救いか。。。
連投スマン バカいたね、僕の堺西高校同級生だった句例がオリックスブレーブスに入団したときも、ウェスタンで投げてたわ。
句例元気かな? 町見の話しようぜ、あいつは1989年あたりで活躍してただろ?
句例は焼きとん屋台やっとるよ、中洲で 町見って結局バンクスと殴り合いしたのはなんでだったの?
バンクスが町見のカノジョとキスしてたのを町見が見たとかそーいうウワサだったが
バンクスあんときの乱闘で腰をやってロッテも失速したよなー >>163
ガタラサライはネメスコーチの猛特訓による守備の改善とボールを叩きつける人工芝ヒッティングを覚えてから飛躍したな。 >>474 バンクスと町見の当時のカノジョが一緒にメシ食っているトコ町見に見つけられてそれでアレになったらしい 1981年頃、近鉄の志水と阪急の舟場ってホモ関係だったって本当?
誰か詳細知ってる方いますか? 舟場はロッカーで着替え中の選手にやたら触ったりして苦情が出たらしいな バンクスか
チームメイトの回想によればロッカールームではとても静かで
あの川崎球場の環境にも不満を言うことなく淡々としてたそうな
バンクスといえばグラウンドでは腕グルグルパフォーマンスに
熱血プレーと乱闘が名物だったけどあれはキャラを作り上げるために
わざとやってたのかもしれんなあ。。。 日ハムに鳴り物入りで入った小名雄一郎はいまいち大成できなったな
東京ドームなのにもかかわらずHRが全くうてなかった
今何やってるんだろうか 小名は当時の打撃コーチだった羽沢淳一にフォームを崩されてしまったよ
今は確か相模大野でスナック経営している傍ら、近所の少年野球で教えてるはず >>482
小名が現役だったころは東京ドームがプロ野球の本拠地で一番広かったからな。 小名は2年目がもったいなかった
4月の時点で7本打ってたけど膝やって… >>482
金属バットに慣れすぎて、木製に全く対応できなかったもんな。
都市対抗の一試合3ホーマーはすごかったけど。 小名が入団して3年めのオフにオリックスの木賀とのトレード話もあったな
ボツったが 木賀はオリックスブレーブスだった二年間だけ活躍したな。 昭和58年ドラ6でヤクルトに入団した小磯って覚えてますか?
1軍では7試合に登板したのみで平成元年に戦力外になった投手です
実は小磯の娘が某AV女優らしいんですよね、知ってますか? 小磯懐かしいな。
小磯は自由契約になった後、韓国名パク・サンスとして韓国リーグのサンバンウルレイダースに参加したはず。 >>491
阪神21年ぶり優勝決定試合のヤクルト先発は小磯だった ウォーレン・スパーンはカープのコーチ、監督とイタリア代表の監督と何故か指導者としては海外だったな。
75〜77カープ一軍投手、78〜81イタリア代表監督、86〜88カープ一軍監督、89〜93オリックスヘッド 土井監督と折り合いが悪かったな。チームの空気も良くなかった。 オコエを見てるとどうしても97年WBCナイジェリア代表の中堅手オティンティンガーを思い出す。
野球は下手だったが秋山幸二をも遥かに凌ぐ身体能力はセンセーショナルだった。
現状のオコエよりも上。歳は変わらない位だが。
敗退が決まった後の最終戦では3番から1番に打順を上げバックスクリーンに目の醒める様な3ランも鮮烈。
大会直後メジャーの球団がこぞって獲得に乗り出しマイナー契約。
メジャーの舞台にも昇りつめた後33歳で引退したが、他にメジャーでプレイしたナイジェリア国籍っているのだろうか?
日本野球に合わないのは百も承知だがそれでも日本で観たかった選手だ。 >>500
名手はファインプレーをファインプレーに見せないと言うが、その真逆を地で言っていたな。
平凡なフライを目測誤って右往左往したのち快速飛ばしてアクロバティックなキャッチ。
観てる分には面白かったが…
もっともナイジェリア守備陣は皆こんな感じだったから、攻撃面で「高速マシンガン打線」が嵌っても勝てなかった。
監督は70年代に広島をすぐ引退してた片渕だったな。 ナイジェリア代表はピッチピチのユニフォームで選手達のイチモツがクッキリとしてたからな。 小学生が「オティンティンガーのオティンティンがー!!」って叫んでた。
野球を知らない子供からの知名度という点ではかつてのクロマティを軽く凌いでいた。 オティンティンガーといえば
あの2打席連続ランニングホームラン 日本の実況ではオーチン・ティンガーと発音していたが
場内アナウンスはネイティブに則っていたからバレた
東スポが思いっきり見出しにして評判になり、それからは皆「オチンチンガー」としか言わなくなった >>503
片渕は選手としては誰にも知られず引退したレベルだったが、
日本人選手として球史に残る屈指の巨根だという事が判明した。
カープ時代のチームメートでナイジェリアに臨時コーチに来た縁もあり、
これまた巨根で知られる高橋慶彦が「片渕さん相変わらずだな」と唸っていた程。
しかしナイジェリア人選手の中に入ると明らかに小さくて気の毒だった。 >>505
メジャーの広い球場で打ったやつか。
ツボに入ったら球場の広さ関係なく弾丸ライナーで叩き込むけど粗いから詰まった打球も多い。
でもそれを外野手が処理もたつくと一気にランニングホームランに出来たんだよな。
野球が盛んな国で育ってたらメジャー屈指の外野手になっていた素材だ。 確かにイチローとティンガーの一、二番コンビは見たかったな。 代表権を争ったカメルーンのリリーフエースはピエール・マンクォーだったな。
追い詰められたカメルーンはナイジェリア戦で奇襲でマンクォーを先発に起用。
初回オティンティンガーに3ランを打たれる等一死も取れずノックアウトで勝負あり。 マンクォーはサンバンウル・レイダーズに一時期いたね。 >>512
本人は野球チームのレイダーズのつもりで契約したのに実際に入団したのはバスケのチームのレイダーズだったって話だよな。 >>513
へー。ジジマールと同じパターンか。カメルーンではよくあることなんかな。 94年、横浜にいたニチロ・ニッスイ、オープン戦は凄かったな。公式戦は研究されまくって全く打てなくなってしまい、前半でクビになってしまったが。 オティンティンガーの功績といえばもうひとつ、
アフリカからいろんな選手をスカウトしてきたこと
中でもセネガルからつれてきた
ゲオはこのスレの最初の方で語ったな >>515
後のセルビー、マラべ、グランと続く系譜を作ってしまったな。
元々、前年ブラッグスが後半離脱したからそういった事態の保険として獲っていた選手だった。
二年後近鉄がオリックスのイチローに対抗して「ニチロ―」の登録名で獲得。 >>516
ガーナから来たディック・ズルムケを忘れちゃ困るな。 同じディックでも八百長はホッカムリーのほうだろ。
ホッカムリーは不可解な金銭トレードや二軍落ちが多かったけど今から思えば八百長を首脳陣に疑われてたのだろうかな? 爺さん世代は日系のディック・禿(ディック・カムロ)の方を思い出すわい。
孫が大阪から熊本の秀岳館に入学したそうな。ボジションは同じく投手。 イアン・リード
アメリカのマイナーリーグ界で鋼鉄の男とあだ名されてた十年物の選手。んで大洋ホエールズに入団。開幕戦の初打席で特大ホームランをかっ飛ばすもベースランの途中で足がつってタンカで運ばれた。
奥さんがフランス人の美人だったんだけどタンカで運ばれるシーンを球場で見てて幻滅したらしくAV出演して夫婦仲がごたついたって週刊紙とかが取り上げてた。
AVのタイトルは忘れたが「潮吹きくじら」みたいなやつだったと思う。 リードは近鉄に移籍した後3割を一度記録した気がする リードもホモビ男優としてニコ生でオモチャにされるとはな。 タンカで退場した以降の試合も気を取りなおしてアーチを量産していたんだがな。
放物線なのに速度があって「ドカーン」言う効果音が正に当てはまりそうな当たり。
ちょくちょく離脱してたのが惜しかった。
帰国後ホモビが発覚した事を本人は知っているのか? 「赤門の奇跡」って本が六月に出版予定。
東大が唯一のリーグ優勝した72年春のシーズンを関係者の
インタビューを中心に描かれたドキュメント書。
勿論、優勝に大きく貢献した
熊神剛一(エースとして浪商で夏の甲子園優勝、のち南海、日ハムなど)を
はじめ宗谷、室戸といった当時の選手や元プロだった豊国監督の
回想も読み応えあり。 東大っつったら「赤門のドカベン」がついに政界進出だな! 政治の話はやめろよ。
また飛d
ry)の話をしなきゃいけなくなるだろ。 ホセ・アルキメデス
父がギリシャ系、母がスペイン系のキューバ人サウスポーピッチャー。
130キロ台のストレートと70キロ台のスローカーブを引っ提げて東京ヤクルトスワローズに入団。
じゃじゃ馬コントロールながら前半戦だけで10勝をあげオールスターにも出場した。
シーズンオンオフ関係なしに秋葉原に出入りしていたようで目撃情報が多かった。 開幕戦で俺が思い出すのは羽根田
通算本塁打10本、通算安打も1028、
どこいっても6番〜7番の
プロとしては平凡な打力でありながら、
開幕戦で3打数連続エンタイトルツーベース(これは俺が生で見た)、
シーズンエンタイトルツーベース16個、
通算エンタイトルツーベース46個、
という記録を持ち、
優勝決定サヨナラエンタイトルツーベースも打ったことがある
川崎でも福岡ドームでもエース級でも駄目投手でも一切変わらず、
バットに当たればだいたいフェンスギリギリのフライを打ちまくった そういや、大五郎カットの外人いたな。本人はロナウドの真似だとかいってたけど。確か嫁さんはとぐろ巻いたウンコヘアーのモデルでそっちの方が騒がれてた気がする。 今でも忘れない、外野応援団のコール
「あそこへぶちこめディーック」
子供心ながら、なにか不穏なものを感じた。 バスターと言えばディック
一応バントの構えをしたときは、
ほぼ全員が思った
いや、おまえバスターだろと・・・ たまにバントの構えからバットを引いたと見せかけてやっぱりバントって時もあったよ 中日にいた寒等(さむら)。入団は1989年。1990年は大怪我で二軍暮らしであった。
1992年、低迷するチームで唯一活躍。しかし、1993年以降は全く活躍出来ず、ナゴヤ球場ラストイヤーだった1996年に戦力外通告されてそのまま引退した。 >>544
今や地元の広島で名コーチだね。
山陽高校からカープでブレイク中の貫波がリトル時代の教え子。 >>545
捨てた中日は残念だろうな
調べたら93年一試合だけ四番やったらしいな ロディ・ベイスハート
左の野茂と評され1997年、中日に入団。140キロ超の快速球と落差の大きいフォークが持ち味のピッチャーであったがオープン戦でリリースポイントに明確な差異があることが判明しやたらめったら打ち込まれる惨状を呈してしまう。
球団に「ボクハNOMOジャナイ」という謎の文言を残し失踪。
三ヶ月後に帰還した際には何故かアンダースローに変わっており、丁度、ダイヤルQ2と呼ばれたジャック・バリーが怪我をしていた為、変わりにローテーション入りしあれよあれよと12勝を挙げる活躍を見せる。
初完封初勝利を挙げた際のヒーローインタビューでは三ヶ月の失踪で何をしていたのかを突っ込まれ「鞍馬天狗どのにご教授賜っていた」と流暢な日本語で答え話題となった。 それなのに、星野と揉めて出て行ったのが惜しまれる。>>547のロディ。
でも横浜戦には弱かったから残ってもダメだったかなあ…
広島にいた銀本一也。金本と金銀コンビでホームランが期待されたけど、結局打撃は全くダメで戦力外通告されたよな。守備は凄まじいものだったが。 クラウンライターに1年だけ在籍してた中丸外野手
ショートの三メートル後ろが定位置で
2遊間を抜けた打球を時々センターゴロにしてた
背走してからのスーパーキャッチも抜群だったけど
打撃が超ダメで前期は無安打
後期にはピッチャーが打順に組まれて中丸は打たずに代わりにDH入れてた >>549
バントも下手で足を生かした攻撃も不発だったね。 >>550
なのに、どういうわけか現在は西武の二軍打撃コーチやってる 明徳義塾の中田亮二が「四国のおかわり君」と呼ばれていたが彼は大阪からの留学生。
やはり真の四国のおかわり君は中田の一学年下の池田高校・池田亮二だろう。
「一人やまびこ打線」と言われる程の強打者で名門復活の期待を背負っていたが甲子園には届かず。 >>552
あの時の池田は惜しかったよな。
2年の春は四国大会で初戦で高知商業に6−0からのよもやの逆転負け、
2年の夏は徳島大会決勝で徳島商に1−0で敗れ、
しかも徳島商はたったの2安打、池田高校は9安打。
3年の春は四国大会準決勝まで進むも優勝が徳島商のため地域性で出られず、
3年の夏はこれまた決勝で徳島商に10−9と打撃戦の末敗れた。 二年次はおかわり君が徹底敬遠され惜敗。
何故か高知県まで巻き込んで大バッシングを受けた徳商は、
翌年真っ向勝負で1HR5打点喫しながらも打ち勝ったんだからさすがだよな。 徳島商といえば、時期はズレるが東京理科大から初のプロ入りを果たした松田信玄の出身校だね。
左の本格左腕で中日入り、なんでこんな好投手が六大学ではなく理科大に?というぐらいの逸材だった。
2度目の登板で上の方のレスにあるアフリカ人選手のアタマにぶつけて、あれでダメになっちゃったんだよね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています