実在しない選手の想い出をでっちあげるスレ
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まずは阪急・ヤクルト・阪神で活躍した尾沢慎太郎について語ろうか 浪商から78年、阪急に入団。
規定打席に到達した年は無かったが、主に代打として勝負強さを発揮した。
特に84年は108試合に出場、僅かに規定打席に足りなかったものの、打率.308、12本塁打の成績を残した。
88年、ヤクルトに移籍。ここでもいぶし銀の働きを見せる。
その風貌から、「ヒゲダルマ」の愛称で親しまれていたが、90年、野村克也が監督に就任すると
以後頼む。 まさか阪神でもまた野村と出会うわな。
だけど正直かなりお荷物になってたから引導を渡してくれた野村には感謝してる。 ヤクルト時代に巨人戦で延長戦サヨナラホームラン打ったことあったよね?
(確か相手投手は島村) 代打逆転サヨナラ満塁本塁打を通算3回打っている。
素行は悪く、大酒飲み。
87年には酔ってタクシー運転手に暴行し逮捕。翌年に放出される遠因となる。 88年、ヤクルトに移籍。
内野ならどこでも守れるユーティリティプレイヤーとして活躍、新旧交代期の
チームにあって93試合、打率は.244ながらキャリアハイとなる19本塁打。一時は4番を務めた。
89年は怪我もあって70試合、.280 7ホーマーに終わる。シーズンオフに2度目の離婚。
90年、野村克也が監督に就任。髭禁止令に反発して監督と対立。干されてシーズンの殆どを
2軍で過ごす。1軍では24試合に出場。.111 0ホーマーに終わる。シーズン終了とともに
自由契約になる。 91年、中村監督率いる阪神に移籍。既に32歳になっていたが、殆どが代打での出場。
僅か18試合、打率.143、1ホーマーでまたも自由契約となる。
オフに田淵監督率いるダイエーに拾われ、92年は55試合、.250 3ホーマーと復調の兆しを見せた。
しかし93年には本拠地が福岡ドームに移転することで守備の衰えがマイナス要因となり、またも戦力外通告。
現役続行を希望するも獲得に乗り出す球団は無く、現役を引退。
TVQの解説者、西日本スポーツ評論家として福岡に居を構える。 引退後は評論家として活動していたが、1998年に古巣の阪神から声がかかり打撃コーチに就任。
打撃理論は(?)だったが情熱と気合溢れる指導で迷コーチぶりを発揮する。
しかし99年に宿敵・野村が監督に就任すると勿論クビとなり、コーチ生活は僅か1年で終わる。 確か中日戦で2mくらいある外人投手と乱闘になったことあったよな?
こいつの身長が170くらいだからすごい対称的だった覚えがある
そのときの相手投手って誰だっけ? ダイエー時代はベンチでブーマーと殴りあいをしたっけ。 >>10-11
南海・ダイエー→中日のマイケル・バートだな
ナックルピッチャーで、ワールドシリーズでも投げた 専属キャッチャーの可児権之介が輝いてるときだったな。今ではツルピカだけど。 カネにはうるさくて、水島新司に肖像権料要求したんだよな。 巨人が一時期、獲得に動いたが薬物疑惑があって見合わせた外人がいたよな。
で、その年は平凡な成績だったけど、翌年首位打者、次の年にはなんと三冠王を
向こうで取ってしまい、巨人は物凄く悔しがった。
しかも薬物疑惑はまったくのガセだったらしい。 >>15
マーク・フォークナー
03年オフに巨人が獲得に動いたがその後の顛末は書いてある通り
05年のアストロズ優勝への貢献は>>15の通り 昔サインもらったよ
一見怖そうだけど他の無視する選手達と違って立ち止まってくれ名前と日付も書いてくれたのは感激した ただ名前の字が間違ってたのはご愛敬だねw 日本球界初のフランス人選手誕生には驚いたな。
だが、近鉄に所属しながら神戸ビーフ好きを公言していたのは、色んな意味でいただけなかった。 83年にヤクルト三位で入団した山岡。
当初は代走で使えれば儲け物くらいに思われていたが打撃が開花。
98年に引退するまでに1636安打を放つ活躍。盗塁王二度。
小柄ながらパンチもあり、86年には15本塁打を記録。89年8月に死球で右手首骨折するも、翌年就任した野村監督の勧めでスリコギバットに変えて復活。 >>19
詳しくは言えないけども俺、親戚だよ
よく自慢の黄色いデトマソでドライブ連れてってもらったわ 86年は杉浦が抜けた時にブロハードとクリーンアップ組んでたな山岡 >>20
引退後に生活保護を受けながらベンツに乗ってたよね。
恐喝で逮捕されたんだっけ。 山岡は91年が惜しかった
確か8月お盆前位まで.340台をキープしてて首位打者独走状態だったのに、甲子園でセカンドゴロ打ったときに右ふくらはぎ肉離れでひと月離脱
復帰後はすっかり手打ちになって打率がみるみる落ちて結局.309で3位に終わった
その時タナボタ的に.323で首位打者になったのがあの鴫原(阪神)、というのは皮肉としか言いようがないよな… 今年、オリックスがガブリエフを獲得する噂があったらしい…
もし来てたら優勝してたかもしれないけど… そうだな
今年メジャーでも3割2分、32ホーマー打ったわけだし。
惜しいことしたな。
で代わりに来たアルバートというのが全くしょぼい奴だった ああ、大洋のRJレイノルズがいた時の機動力路線をベイになっても続けていたら来たはずだったバックランドだろう?
結局は白ローズ獲って正解だったが。 >>18
クリストフ・モローとは懐かしいな
91年シーズン途中の入団ながら
走(15盗塁)、攻(3割)、守(外野でファインプレー連発)と三拍子そろって
しかもイケメン、気さくな性格と文句の付けどころがないやつだった
結局個人的事情でオフに退団し、
その後野球とは関係ない企業を起こしたらしい
WBCで来日して観戦してた時、雑誌の取材に答えてた いたなあモロちゃん
新神戸駅で一緒に写真撮ってもらったわ
奥さんが元学校の先生だったよね >>25
シーズン中盤までアルバートを使うくらいだったら
ベンチウォーマーだった丸亀兄弟のどちらか(特に弟)を使えばよかったんだよなあ 室伏は、どうして野球を捨ててハンマー投げの世界へ行ってしまったんだろう >>32
同級生の柏葉の圧倒的な技術を見て
「こりゃ自分には野球はムリだ」
と思ったらしい
しかし、柏葉はどうして野球を捨てて相撲に(四股名:柏錦)(ry
大してでかくもないのに・・・ 88年巨人にいたジョン・パセーラというのを覚えているだろうか?
オールスター前の時点で打率3割7分、30ホーマー、78打点でダントツの
三冠王だったのに、その後謎の大不振で結局、打率2割3分、31ホーマー、
85打点で無冠王に終わってしまった。
翌年からは第3の外人の座を余儀なくされて、寂しく日本球界を去った。
今は消息不明らしい。
何で急に打てなくなったのか、未だに謎だ。 うちの大学の電気工学科に王貞治って教授がいるけど、高校入試に落ちてたら早稲田実業に入って甲子園に出てたぞ!とかよくほざいてる。
中学時代はいいタマ投げてたらしいけどね デーブ・ジョンソン入団まで長期にわたり純血主義を採ってきたとされる巨人だが、
1973年に一年だけ在籍したハロルド・ペリーの存在を知っているだろうか
一軍出場なしで同年帰国したらしいが… >>35
うちの会社の元課長で野村克也さんって人がいたんだけど、1年だけプロ野球選手だったんだぞ!
と良く威張ってたな。
Wikiで調べてみたら、事実上ブルペン捕手みたいな存在だったらしい。
1年で首になって球団社長に泣きついたけど、結局そのまま退団したらしい。
そのまま現役が続けられてたら、本塁打王を取れたwwwとか良く言ってたなぁ。
プロ野球史上3本の指に入るとかwww
良くボヤく課長として有名だったね。
それにしても門田は本塁打日本記録保持者なのになぜ監督になれなかったんだろう。 横浜にいた槍元って95年ぐらいに二軍で大活躍して、翌年開幕スタメンも噂されていたんだけど
まさかの大ケガでそのまま戦力外だもんな >>38
六大学のスターだったのにな
一方大学時代に無名だった島国が輝いたんだからわからんもんだ ずいぶん前だが、東工大出身の選手がプロ入りしたよね?
文字通りのテスト生で、独自のトレーニングで磨き上げたとか。
結局一軍に上がることなく引退したけど、どこのチームだったかな? >>41 ヤクルトだね、中村太一
身長が公称で160ちょい、同じ年にドラフトで入った中村みらいと二人でデコボコ中村コンビなんて言ってたな
東工大にいるときに自分で作ったとかいう筋トレマシーン、ティーバッティング装置を披露していたな
監督の江頭は、そんな器械でうまくなるんだったら苦労ない、とか苦笑していたがヤクも話題作りということで容認していたら
案の定話題作りだけで終わったな、今はフツーにサラリーマンやってるよ
中村みらいって今オリックスにいるんだっけ? >>42
中村太一、確か2004年の入団だったよね。
まあ守備が本当に草野球レベルでw
ノックのたびにコーチが頭抱えてたもんなw
中村みらい、ついに今シーズンは1軍出場なかったね。
去年の8月の西武戦での足の怪我が尾を引いてるね。
このまま引退、てことにならなければいいんだけど。 >>43 外野フライ捕ろうとしてゲオとぶつかったんだよな
みらい、は登録名をM I R AIにしてから運がない 「未来を目指せ み・ら・い」のコールは横浜からオリックス移籍後も引き継がれた >>43
「セネガルの怪物」ゲオとか、あんなでかくて足の速い選手とぶつかったらなあ・・・ でも、心ないファンどもは、ケガしたのがみらいでゲオじゃなくて良かったぁwww、とかほざいていやがったな
ゲオは今なにやってるの?
台湾リーグに行って婦女暴行罪で捕まったんだっけ?それは阪神の中込だったかなぁ 阪神といえば90年頃に社会人から鳴り物入りで入団した宇佐美。
90年は終盤三番に定着したと思ったら翌年から全く出番なし。
育成が下手なのは伝統なのかね。。。 >>46
知ってて聞いてるんだろうが、一応書いてやる
MLB移籍後、全米有数のホームランバッターとなり、慈善活動が評価されてクレメンテ賞もらいました 比野宏幸
1992年、学法石川からドラ4で中日入団。右打者ながら
1塁到達タイムが3秒49。北浜二世と呼ばれる。
1999年には打率274本塁打1打点35ながら、四死球107
盗塁92盗塁死わずかに2 得点116で優勝に貢献。MVPに輝く >>48
社会人の強豪、京阪物産から3球団競合の末ドラフト1位で入ったのにな。
阪神がくじで勝つなんてそうそうないのにw
90年は確か終盤は1完封含む3連勝なんてあったな。
巨人戦では7回までノーノーだったのでよもやの期待だったよ。
しかし阪神も無得点だったので、結局勝ち星つかず、
あげくには9回に登板した池里が巨人の新人、織野にサヨナラ弾浴びたなw
あれがケチのつきはじめだったか。 >>47 台湾で捕まったのはオリでチームメイトだったベアーね、血の気が多くてしょっちゅうトラブル起こしていた
ロッテの野池にアッパー食らわして、そのあとの乱闘で敵の監督の砂田のユニぼろぼろになるほど掴んでいたり、やりたい放題だった >>50 巨人ファンですが、比野が塁に出たらもう二塁はフリーパスと諦めてました
ウチのマサミチ、にはムリムリでした、一回ナゴドで比野に5盗塁されたことありました
もちろんボロ負け
さすがにそれからは監督の魚住も、ドラ戦だけはキャッチャー二階堂使うようになりましたが
比野も、当然監督としてドラゴンズ戻ってくるかと思ってたら
まだ声がないようですね
本人にその気ないのか、鮫島一派の天下だからなのか >>53
二階堂、確か神奈川県のラグビー強豪校、川浜高校が甲子園初出場した時の4番キャッチャーだったね。
あの年の神奈川決勝は明訓との対戦だったね。
最後は二階堂の決勝タイムリーで試合が決まった。
川浜も、30年前は不良の吹き溜まりみたい学校だったけど、
ラグビーで有名になってからは、今や偏差値も60超えてるらしいね。 >>53
マサミチは比野の恋人になり損ねたからなあ
「比野に走られるのは仕方ない、まず出塁されなければいいんだ」と頑なに主張して
比野の恋人こと三河を使い続けたベイスターズがいなかったら
99年も盗塁数は並みの盗塁王程度で終わってたろうなぁ…
四球・シングルで出塁すれば盗塁+2は当たり前、
ホームスチールのシーズン記録まで樹立されてるのに
三河をシーズン最後まで固定し続けた馬鹿監督は二度とユニフォーム着て欲しくない
>>54
でも二階堂がラグビー部のタックル練習に混ざって一番の成績叩き出したって話は
結局ガセなんだろ?まあ外国人選手を弾き返すブロック見てたら説得力はあったけど 二階堂が入った時はやたらとラグビーに結び付けられて
ラグビー好きの野坂昭如にヒッティングマーチの詞まで書かせていたな。
野球でなかなか話題にならないことに本人はどう思ってたんだろう? 二階堂、いかんせん打撃がクソすぎて。
通算打点が10で、それも犠牲フライやスクイズとかばかりで、タイムリーヒットが0という珍しい記録を持っていた。 大洋にキョ・ジンファンって選手いなかったか?
あとドリランドって選手も
ジンファンは投手でドリランドはセカンドだったような 川浜高校で二階堂とバッテリーを組んでいたエースの安西は阪神に入団し野手転向して3年連続30本以上打ち優勝に貢献、
決勝で戦った明訓高校のエース征矢は筑摩大学を経てオリックスに入団し最多勝と最優秀防御率を2度づつ受賞、
明訓のキャッチャー奥田は永禄大学を経て西武に入団し4年連続ベストナイン受賞とみな輝かしい球歴だったのに、
二階堂だけが一番ぱっとせず、引退も一番早かったな。 ジンファンは、ロボットみたいなカクカクしたフォームはみんな真似したなww
阪神にミョーに強かった記憶ある
巨人には弱かったから、「オマエ、名前の通り巨人ファンか!」ってトラキチにヤジられていたま >>59
征矢はもう許してやれよ…
隔年がさらに極端で、その最多勝+最優秀防御率取った2年以外は
いい年でも10勝してないけどさ、通算では一応100勝達成したじゃないか…
そりゃ30過ぎて中継ぎになってからのヌッスだらけだけどさ… ジンファンは81年は中日、86〜87、89年には広島に強かった。
コーチ時代に担当したチームは94、96年は中日に、2008年は阪神に強かったな >>61
特に征矢の場合、最多勝取ったシーズンはいずれもチームはBクラス、また征矢自身9勝0敗てシーズンもあったけど、その年はチームは最下位、「征矢が勝つとチームは勝てない」というジンクスがあったのは気の毒だったな。 征矢は、竜堂の指導でアンダーに改造しておかしくなった
竜堂は、箱井やヒガシも潰した >>65
箱井は、国立の浪速大学から初めてプロに進んだ選手だったね。
竜堂が、何を思ったかアメリカの大投手、ビル・コーザーのフォームを真似ろとか言い出して、
あげくフォームはめちゃくちゃ、上半身と下半身がバラバラになってしまい、
元にも戻らず、どうにもならなくなってしまい、二軍でも通算防御率が7点台のまま終わってしまった。
箱井が入団した年の浪速大学は、財前という教授が医療ミスを巡って裁判を起こされ、話題になっていたね。
また浪速大学のアメフト部が西宮学院大学を破って初優勝したのもこの頃じゃなかったかな。 プロ野球選手がタレントになる例は数多いが、タレントがプロ野球選手に
なるという「逆コース」を歩んだのが、元中日の杉浦コージ
一応、高校の時は野球部だったが故障で満足に働けなかったらしい。
「戦力外通告」という番組である選手に密着取材し、野球の虫が騒いだらしい。
その後2年間の猛練習の末、育成選手契約までこぎつけた。 >>67
確か二子玉川学園からロッテに入った南田を取材したときだったよね。
南田、甲子園の優勝投手でドラフト1位で入団して、
まさか10年間で1勝しかできないとは誰も思わなかった。
南田がトライアウト受けてもどこからも声がかからず、引退を決意したとき、
杉浦は奥さん以上に大泣きしていたね。
2年間は杉浦は南田に熱心に指導を受けて、育成契約できたね。
南田はひょっとしてこのときは現役時代以上に野球に取り組んだんじゃないかな。 そうそう杉浦の練習中は特番が組まれ、
本木大輔やパンチ伊藤、永島和茂といったプロ野球出身のタレントが多数杉浦を指導して、
みんな番組中ではあまり見ることのない真剣なまなざしだったもんな。
中日の入団テストに杉浦が受かったときは、みんな我が事かのように涙を流して喜んでたな。 あと最後にもう1レスだけ。
杉浦のプロ野球挑戦中の特番は、農業、漁業、工芸となんでも手広くやってのける5人組、
「大江戸組」が司会してたよね。
番組中はきっと台本ありのやらせだろうけど、出演者同士で杉浦の指導方法めぐって、
「うっせーんだよ、お前」
「なんだよ、だからあんたは(現役時代)そんな成績だったんだよ」
とか言い合いして、大江戸組のみんなが止めに入る、というのが一つのうりだったよね。
番組自体は視聴率30パー超えたんだっけ?
もう一度ああいうの見てみたいな。 杉浦の特番では、たけしのスポーツ大将で日ハムのプロテストを受けて合格したことのある(年齢で落とされたが)
井出らっきょも全裸で杉浦のトレーニング相手を務めていたな 米子のダルビッシュと言われた、島田翔太のその後知らんか?
2010年に千葉ロッテに育成指名されて、去年自由契約になったけど
二軍で5試合投げて、うち3試合がサヨナラホームランという変な記録だけ
作ったのだけは覚えているんだが 島田は今、鶴森運輸の品川支店でドライバーしてるよ。
余談だが鶴森運輸の鶴森会長は、東西新聞の山岡という記者と懇意らしくて、いろいろ美味しい店や食べ物を教えてもらっているらしい。 東西新聞と言えば、朝日の夏、毎日の春に対抗して
正月に高校野球の天皇杯を開催しようとしたことあったな
初詣にもいけなくなるという反対意見で頓挫したらしいけど >>53 尼部オーナーが鮫島信頼しちゃってるからなあ フロントもコーチも結城とか男山のOBばっかだよね 比野さんは、尼部の末娘と結婚したんだけど、
五年くらいして、別居から離婚、奥さんの手料理が原因らしい
で、今比野さんがくっついているのがご存じ、エミリー須田
あんなの料理なんか作れないと思うんだけど、ホンとに前の奥さんと手料理でモメたのかなあ
そりゃあ、比野さんはドラゴンズ戻る目は尼部の目の黒いうちはないでしょ エミリー須田って、ご当地アイドルグループNGY48の元メンバーだろ?
比野と須田では、20以上年齢離れてるのにな。
まああれだけかわいくて若い嫁さんもらえれば言うことないよなw
もともと、ドラゴンズのイベントかなんかで、二人知り合ったんだっけ? 比野の女遊びの激しさは現役時代から有名であった。
多くのアナウンサーやタレントが噂に上った。
そんな比野を尼部の末娘、由貴子と結婚させたのも、比野を尼部の監視下に置いておくためだったと言われている。
もっとも由貴子も、名北大学在学中はモデルを務め、大学卒業後は中日新聞系列のテレビ局、CBCでアナウンサーを務めていた。
そんな結婚生活もつかの間、比野とCBC局のアナウンサー、久保田みゆきの浮気が週刊誌にクローズアップされてしまう。
比野は会見で、「彼女の手料理が家内より上手なのは認める。そこで自分の好物の酢豚やキンピラ、トマトシチューとかを
何度か作ってもらい、タッパーに入れたのを手渡ししてもらっただけだ。」と釈明、
また「そもそもなぜ久保田の手料理を食べる機会があったのか」という質問には
「たまたま取材で球場に来ていた彼女の手作りの弁当を、ふざけてつまみ食いしたら非常においしかったから。」と説明、
「自分にとっては料理屋にケータリングしてもらってるくらいの感覚だった。」
これがいわゆる、「手料理事件」である。
しかし結局、ほどなく久保田はCBCを退社、比野自身も離婚することとなってしまった。 そーいうことだったのか、尼部は中京のメディアのみならず、中京地域最大のヤクザ勢力である華丸会の二代目と中学時代同級というアレで昵懇という説有り
なかなかこのアレは表沙汰にならなかったんだが、、、、
比野が2ちゃんねるで「タッパー」という蔑称なのがどうしてなのかも分かった、、、 久保田みゆきも相当叩かれてたもんな。
インタビューとかに対し、ほかのCBC社員がみな、
「久保田さんが料理上手なんて話、聞いたことがない。」
「彼女が手作り弁当持ってきたのなんて、見たことがない。いつも社食かコンビニ。」
「球場に取材行くのに自分で弁当持っていく人なんているの?局が仕出し弁当準備してくれるし。」
てな感じで。
退職後も郷里の岐阜県の小都市に帰るも、変な意味で有名人になってしまい、
就職活動もままならなかったらしい。
結局、岐阜県立女子大学の後輩の実家が、機械部品製造の会社を経営していて、
今はその会社のライン工として勤めているとか。 比野のタッパーは有名だろ
それより元西武の松沖が2ちゃんねるで「クラムボン」呼ばわりな理由が知りたいわ それだけは止めておけ、鮫島事件の二の舞だぞ
wikipediaの松沖の項目が今もって保護状態で
誰も編集出来ないことから察しろよ 2001年D6位阪神入団の小玉光太郎覚えてる人いる?
1年目のキャンプで投げっぷりの良さとマウンドで雄叫びを上げる気迫が星野監督に見込まれていきなり開幕1軍勝ち取って
中継ぎでそこそこ抑えてて阪神の開幕ダッシュに貢献
セットアッパー格になりつつあったんだけどチームの失速と重なるように不調に陥って2軍落ちしてからはそのまま上がれず
優勝シーズンの翌年は登板0で次の年は五輪期間にそこそこ投げてたと思う
でも05年はまた登板0で優勝した年に1試合も投げられなかった可哀相な投手なんだよな
まあ小玉が投げてる時はチーム状態がよくない時と言われてたがいつの間にかクビになってたな そこそこ活躍した印象あるけどなぁ
小玉、パシリー、袋 でPKFなんて言われてなかった?
パシリーと袋はメジャーでそこそこ今やってるね >>87
小玉光太郎、確かバスケの強豪、湘北高校から社会人のイツワ電器を経て入団した人だよね。
高校時代は2年連続で夏の予選の決勝で敗退、
2年の秋季関東大会で優勝してセンバツ確実視されるも他部員の不祥事により推薦取り消し、
甲子園の土は踏めずじまいだった。
社会人時代もライバルの青島製作所にここ一番で敗れたりして、
とにかく実力はあったけど球運のない人だったよね。 小玉の高校時代についてもう少し。
本人は身長が190センチあり、湘北高校に入学しバスケ部への入部を希望していた。
しかし当時在籍していた桜木や赤木、流川たちのプレーを見て、自分には無理だと悟り、
中学の頃少しやっていた野球部に入部する。
野球部に入部すると素質が開花し、当時無名だった湘北高校の野球部を一躍有名にさせる。
二年生の夏の大会では初めて県大会決勝まで進むも、小玉自身の疲労もあり、
甲子園常連校、海堂学園に0−22の大敗北、
また二年の秋季大会では部員の喫煙・無免許運転が発覚し推薦辞退、
三年夏の大会では再び決勝まで進み、鎌倉西との決勝戦は球史に残る大熱戦だった。
今も記事があるので貼っておく。
この試合は、神奈川大会決勝戦で1時5分に試合がスタートした。
9回まで0−0で試合は延長に進んだ。
延長に入ってからも両校とも0が続いたが、迎えた延長15回裏、鎌倉西は左中間安打とセカンドゴロエラーで無死二・三塁に。
6番・大谷が敬遠で歩いて無死満塁、サヨナラ勝利のチャンスを迎えた。
鎌倉西の次打者は右打ちの7番・町田康樹、カウント1ボール2ストライクから湘北・小玉が211球目を投じようとセットポジションに入り腕を少し前に出したが、
ここで湘北の監督がベンチから野手に対し何らかの指示を声で出す。
その指示に対し小玉は無意識に投球動作を中断して腕を後ろに戻してしまった。この行為を見逃さなかった球審・森田清が「ボーク」を宣告。
3時間52分に及んだ試合は神奈川大会史上初の「サヨナラボーク」という呆気ない結末で、鎌倉西高校が延長15回サヨナラで勝利を決めた。 「偽ゴジラ」こと松居秀樹について語ろうか
彼と言えばヤクルト移籍後初の公式戦直接対決で初球をいきなりバックスクリーンに叩き込まれたエピソードばっかり語られてるが
以後の対決では被打率.247とそれなりに健闘したことはあまり知られていない 被打率.247って言っても、満塁での打席は5割近く打たれてたぞ
公式戦じゃないが、オープン戦で草薙球場の場外まで飛ばされた
のも記憶に残ってる、この時も二死満塁だった
松井が活躍すまでは精密機械とか言われて、松井が出た後、一時メカゴジラと
あだ名されそうになったけど、そちらは見事にぽしゃったな どちらかというと松居はヤクルトの「偽ゴジラ」時代よりも
ロッテ時代の「御三家リリーフ陣」時代のが懐かしいわ、
今の基準だと毎年20Hくらいはあげてた事になるんだよな
当時のロッテのストッパー道祖尾(さおのお)豪が、
名字だと珍姓で読めないから名前で『豪』と登録したのが
恥ずかしいから、チームメイトを巻き込んで命名させた…ってエピソードまでは思い出せるんだが、
ゴーとヒデキは思い出せるのにゴローがどんな漢字でどんな投手だったか思い出せないんだよな
たしか右-左-右の継投で、ゴローは真ん中の左投手だったと思うんだが… 確か入団した時は「能口」という名字で、
21の若さで結婚した際に「伊那」と改姓した選手かな。
結婚前は全然2軍の選手だったのに、
結婚してから大活躍するようになったよね。
伊那は木村、香取といった選手たちと同世代で仲もよかった。 今日は高卒で西武に入団し、新人の年から3年連続3割30本という記録を作りながら、
同じ高校出身の先輩である主力打者のKにいじめられ続け、
あげく球団の配慮で西武を退団、渡米しヤンキースに入団、
ヤンキースでも主力選手として活躍するも、5年目のシーズンが終わったある日、
高速道路を走行中、居眠り運転の車に側面から激突され、不慮の死を遂げた井上について語ろう。 そこで湯口事件が蒸し返されアンチ巨人が増えたあげくナベツネが「あんなのの話今更するな」と激怒してまた叩かれた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています