【1975〜】第1次長島巨人【〜1980】
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長嶋見てると、人間易きに流れることがよくわかる。
1次の時は、ドラフトには頼れなかったし、本人も若かったから
伊東キャンプのようなことができたし、やるしかなかった。
しかし2次の時は、FAに逆指名で良い選手取り放題。体力もないから
自分で鍛える意志なんてほとんどなし。選手の素質だけで勝てるから、
新戦術を練るなんてこともしない。しかも、団塊世代がそれを批判せず。
阪神なんかとは別の意味で黒歴史。 シピンを獲得したのがちょっとなぁ・・・。
あれで柳田が浮いてしまった。
張本、王が左だから右の強打を入れたかったし実際シピンも活躍したけど。
「史上最強の5番打者」が結局、一発屋に終わったのが無念。
しかし、大洋、よくシピンをタダでくれたなww もともとシピンはセカンドだが守備がザルなのでライトに回したんだね。
もし1次の時にFAがあったら標的になったであろう人って田淵、山本浩二、
衣笠、有藤、長池かな?大杉は王がいるから一塁はいらないし。 仮にFAの権利が10年目からだとして、まずは草とか足立、外木場、
衣笠あたりかな。特に最初の年はサードで衣笠取れたら大きい。
当時のヘッドコーチが衣笠の恩師の関根だったしね。
79年には花の69年(S44年)組が取り放題。伊東キャンプなんて
必要なし。 衣笠は75年にルーツがサードにコンバートしたんだから最初の年ってことはありえない。 衣笠が巨人に来たら、原は取らなかった
か中畑はいなかった 75年の時点でFAあっても捕手は田淵FA(10年未満)前だから、
他は・・。吉田とすっとこどっこいかな?
いや、最初からコンバート込みで衣笠とることはあるだろう。
昭和49年前半の衣笠のホームランペースは凄かったし。 昭和50年のスローガン「クリーンベースボール」って
要するに「川上時代のようなサイン盗みはしません」って意味だと思った。 ラストイヤーとなった80年はオープン戦ぶっちぎりの12球団トップ。
しかしシーズンインした途端につまづいた印象。
この年は開幕カードで当たった大洋に叩かれまくったね。
開幕戦の江川続投→逆転負けがすべてだった・・・ 1980年はシーズン入ったら、柴田、高田、シピン、中畑、河埜が大不調。
その代わり篠塚、淡口がレギュラーで活躍したけど、左投手が先発の時はやられてた。
平田、中井だけだもんな。控えの右で期待できたの。
張本はともかく庄司、小俣を出したのは・・。2人ともロッテに移ったこの年
後半からともにレギュラー(ローテーション)で大活躍した。
「昭和55年5月5日巨人5位」って見出しに関係者が激怒したとか
しなかったとか。それにしても秀逸なコピーだ。 >>346
野村を巨人にという構想はマジあったらしい。
長島が難色示したので流れたが、当時からソリは
合わなかったのかもしれない。
張本も、実はすでに74年シーズン後にトレードの話は
あったらしいが、これも長島が嫌ったようだ。首位打者の
獲得回数で張本がその年長島を突き放して単独1位になって
いたのがお気にめさなかったという噂。 75,76年の時点で12球団の捕手陣で野村を除いて一番良かったのは中日の木俣かな?
打撃、リード面をとっても。
吉田、矢沢を考えて断然違う。 >>354もし>>344のいうFAがあったらの話でした。抜けてた。
まだ田淵は76年時点で資格なかったと思ったので。 >>354
田淵は76年の時点でまだ正捕手だったのをリアルではっきり記憶してるぞ 田淵がFA獲ったとしたら79年ぐらいだから、ほとんど一塁との兼任
だったな。
西武では79年に数試合捕手したけど後は一塁かDHだったし。
江夏は野村解任騒動の時FA獲ってたと思うからどうなるか。 本当 笠間、庄司、山本功はかわいそうだった。
あまりにも高い壁だったから。
まだ山本功は外野でスタメンで出れたけど。
3選手とも移籍してから出番が多くなった。 笠間は古葉に潰された
オープン戦だが一試合で10盗塁きめさせて笠間自信なくしきっている。
わざと潰しに来たらしい
長嶋の伊東キャンプで若手を鍛えた情熱は、第2次には見られなくなった
FAによる金満補強に走ったのは御存知の通り 手間隙かけるのが面倒臭くなったのかな >>361
第2次の時、中畑ら伊東組から「あの時のような地獄のキャンプをやりましょう。」
と言われても「いやいや、今の若い子にあれやっちゃあ、潰れちゃうよ・・」
といつも返してた長嶋監督。
選手との関係が「兄貴分」から「おじいちゃん」に変わっちゃった。 第2次の時にあの情熱があれば、吉岡が巨人で大成したかも。 三木総理のクリーン三木の真似。
脱金権田中内閣という意味。
三木もアメリカの脱ウォーターゲイトニクソンのクリーンジョンソンの真似だが。
まあ、脱川上管理野球と読み取るのも可能だが。 >>362
潰れるのは若い選手じゃなくて自分だろう。
正直、楽することしか考えてなかった。 まあ、大物選手が「その気になれば自分の所で獲れる」状態になればな…。
オレだって、イイ女が「その気になれば、ヤレる」状態になったら、理性を
食い止める自信はない。 熱狂的な長嶋ファンは80年の長嶋を悲劇の主人公みたいに美化してるけど、
実際は巨人としては初めて三年連続で優勝を逃した上に、視聴率の低下とか
色々と問題もあったわけだし、本人なりに「若手と苦労する長嶋監督」より
「優勝する長嶋監督」がファンからも求められてると思ったんじゃないかなあ 79年になるとライト高田、レフト柴田の布陣もあった 「調教師不在」
ONが引っ張ったV9の時代から五番打者が多く入れ替わった巨人だが、OH砲となった長島政権となってからも末次利光、淡口憲治らが
五番を打ってしのぎ76年からの連覇に繋げた。特に77年の優勝は柳田真宏の働きが大きかった。柳田はシーズン4分の3で五番を打ち
打率.340、本塁打21、打点67の活躍で「巨人史上最強の五番打者」とまで言われたほどだったが、そのオフ巨人は大洋を自由契約に
なっていたジョン・シピンを金銭トレードで獲得した。柳田がいながらも獲ったのは安定した右の強打者をと考えた事が理由に挙げられた。
だが柳田が77年阪急とのシリーズで3度の得点機に凡退するなど13打数無安打に終わったのも大きな要因だった。
シピンは大洋での6年間で3割3回、166本塁打、467打点と五番打者にうってつけのタイプ。大洋ではライオンのような髪型と髭など問題児
扱いされていた不安はあったが、それも球団内規とはいえ長髪を刈り髭を剃ったため周囲やファンも「優等生に改心した」と期待が高まり、
長島監督も変身したシピンに「ユールックヤング」と言っておどけた。
しかし中身までは簡単に変えられず、内面は獰猛なライオンのままだった。大洋時代は一度も無かった暴力行為での退場が78年だけで
二度もあった。名門ゆえにマスコミの注目度も上がり、街で声を掛けられる事も多くなった影響でのストレスも暴挙の原因だった。髪を切った
のも「ガールフレンドの希望、野球とは関係ない」とシピンは入団の際に言い放っていた。しかし、このライオンを管理する“調教師”が
巨人には居なかったのも一因だった。
大洋時代は76年まで選手、コーチとして在籍したクリート・ボイヤーの存在があった。来日前の71年米でも同僚だったボイヤーは面倒見の
良さに加え、大洋取材陣にも「ジョン(シピン)こそナンバーワン二塁手」とシピンの肩に手を回しながら話してアメとムチを使い分けていた。
当時大洋の渉外担当だった牛込惟浩も「ボイヤーが抑えたからシピンはちゃんとやった」と振り返った。
それでも巨人での3年間でも2度の3割など中軸として期待に応えた。シピン獲得について誤算があったとすれば、30歳を過ぎた柳田が主軸と
して成長しきれなかった事であった。79年オフに柳田は阪急へトレード、シピンも80年に腰痛悪化などによる不振でオフに退団。長島巨人は
デーブ・ジョンソン以上の実績者を求めロイ・ホワイトを80年入団させたが、こういった大砲獲りは長島の第2次政権でも長く続いた。その中
で長島が調教師として高い評価を得た事は国内の大砲を含めても少なかった。 (了)
江川時代の巨人の星はさすがにちょっと描けなかっただろうね。
「悪たれ巨人」という少年漫画で、主人公が属する小学生チームが巨人多摩川グランドで
合同練習をしているシーンで、入団早々の江川が小学生数人にホームラン連発されていた。
79、80年のベテランの衰えがひどかったのは痛かったな。
特に柴田、高田、シピン(80年)。
中畑、松本、篠塚が出てくるときだったけど、若手への切り替えがスムーズに
出来なかった。 結局江川事件がすべてだろ。あれ以来巨人や長嶋への風当たりが強くなった。 79年だったと思うけど、クラウンを退団した石井茂雄を
急きょ獲得し序盤をしのいでたっけ。
あとこの年張本が急に衰えたのは目の視力低下が原因だったと
聞いたことがある。 第一次長嶋政権は「小林繁が支え、小林繁を放出して終わった」モノだと思う。 53年の夏の終わりには二位に4ゲーム差をつけていた。
絶対に優勝しなければいけない年だった。
小林、堀内、新浦、ライト、浅野、西本、角、小俣。
12球団随一の投手陣。
医学部目指た、高1の夏休み。
死ぬほど勉強した。
息抜きは巨人戦のナイター。
とてもアツイ夏だった。 >>39
今更だけど
それは甲子園で投手は角。
打者は藤田と掛布だったはずだ。 >>9
ジョンソンがセカンドで活躍したのはS51
その年は6番セカンド・ジョンソン
5番は末次
史上最強の5番打者・柳田 はその翌年のS52 松本が新人のときのS52
代走で出てきて、打者一巡でそのまま打席が回り、満塁HRを打った。
当時はセカンドだったんだが、 足>>>打撃 の評価の松本が打撃で派手な仕事をやってのけた。 昭和51年は、後楽園が日本初の人工芝を敷いた年。
この年のゴールデンウィーク、応募したちびっ子達をグラウンド内に入れて
人工芝の感触を楽しませようというイベントがあって、小5だった俺も参加した。
ちなみにこのイベントの歌のゲストは大竹しのぶだった。(笑) 1年目は最下位だったけどオープン戦から調子悪かったのかな。
それとも開幕したとたんに負け始めたのかな。 1年目は最下位だったけどオープン戦から調子悪かったのかな。
それとも開幕したとたんに負け始めたのかな。 長嶋一年目
1左 高田
2二 土井
3中 柴田
4一 王
5右 淡口
6三 ジョンソン
7遊 河埜
8捕 吉田
ジョンソンが働けば、そんなに弱い打線でもない ジョンソンってそんな守備上手かったの?
今で言うと誰クラス?
それから録画したジャイアンツヴィンテージ見てるけど新浦って投球テンポ速いな
もしかしたら投球の間が編集でカットされてるのかもしれんが 小柄な日本型ではない長身でダイナミックなセカンドって感じで初めての衝撃だった ジョンソンと入れ替わりで来たリンドが、またスケール小さい
セカンドやった。 野球ゲームでチームカスタマイズする時の投手は玉井、島野、四十四、藤城の先発陣
中継ぎ谷間先発で倉田、抑えは浅野
年間成績で藤城11勝9敗防御率⒊88とか胸熱 >>386
チラ裏もいい加減にしろ!
玉井9勝5敗
関本12勝12敗
倉田5勝4敗8S 「攻撃」
柴田勲・高田繁のV9コンビに、メジャー1803安打の実績を持つロイ・ホワイト、王貞治、若手成長株の中畑清のクリーンアップ。
あのジョン・シピンが下位に座り、控えにも淡口憲治や山本功児がいる80年の巨人打線は前年王者・広島にこそ迫力で劣るものの、他の
4球団には負けていないメンバーといってよかった。
前年リーグ5位の得点力の上に張本勲の放出による穴という課題は、伊東キャンプによる若手の底上げと大物大リーガーの補強で
十分埋まるという目論見があった。しかしそれは、開幕1ヶ月もしないうちに「見当外れ」の結果を見る事になった。
まだ30代中盤だった柴田、高田、シピンが揃って不振。特にシピンは4月15試合の出場で打率1割台後半、本塁打2だった。その後、投打が
噛み合い5月7日から5連勝。貯金2で首位広島に2差の3位という位置まで来たが、翌日からの12試合を2勝9敗1分けであっという間に
広島と7.5差の5位転落と厳しい情勢になった。そして、その元凶は攻撃力であるのは明らかだった。
5月を7勝12敗と負け越したのも、柴田に代わって先発出場していた淡口以外ほぼ全員が打てなくなった事にあった。11日の大洋戦では
長島が五回表、ホワイトにスクイズを命じたのを含め2スクイズ5犠打。1点差で競り勝ったが、なりふり構わぬ長島采配がこの年の巨人を
象徴するような苦しい試合だった。長島は「スクイズするのは勇気がいる、色々な意味で・・・」と吐露した。5月終了時のチーム首位打者は
中畑だったが、その打率は2割5分台の低さだった。
6月に入ると、その中畑が絶不調。6月以降は球宴まで打率.170、3本塁打、6打点の急降下。守備でも前半戦合計で12失策と足を
引っ張った。球宴前の巨人は王やホワイト、山倉和博の奮戦はあったが、前述のベテランに河埜和正ら中堅の不振もあり5位のままで
折り返した。
開幕前に「攻撃野球」の看板を掲げていた長島は優勝が日に日に遠のいていった事で、早々とその看板を下ろした。だが長島は攻撃野球の
不発以上に、自身の周囲が低迷により“攻撃的”に非難し始めてきた騒々しさに焦りを覚えていた。 (了) 80年
1三 中畑
2二 篠塚
3中 ホワイト
4一 王
5右 淡口
6左 柴田
7遊 河埜
8補 山倉 >>380
オープン戦は12球団中5位か6位。
しかし王が負傷し、開幕ベンチスタートが決まった時点で危ぶむ声もあちこちであったらしい。
当時の文献によれば評論家、解説者各氏はV9時代の疲弊が出始める時期になるとコメント。
スポーツ紙記者は揃って長嶋茂雄が選手・長嶋茂雄のいない巨人を率いて勝てるのか?と書き立てた。
しかしBクラス落ちはあっても大洋(その年、断トツの最下位予想)の下になることはないだろうと言われたが、結果は・・ 今のむさん批判をする星野
シゲヲのいる前で
さすが古狸だわな
ナベツネとシゲヲを捕まえる爺殺し
75年の1年前を73年という
計算出来ない痴呆老人なのに 76年
1中 柴田
2三 高田
3左 張本
4一 王
5右 柳田
6二 ジョンソン
7遊 河埜
8補 吉田 年末に中日新聞夕刊に杉下さんの回顧録の連載が有り、75年「恩師」天知俊一氏がどこからか杉下氏への巨人からの要請を伝え聞いたらしく「長嶋を助けてやれ」と背中を押したとか。
もうこの頃天知氏は入退院を繰り返してたが、76年3月巨人のオープン戦で岐阜に着いた時、訃報を聞いて急遽帰京した。
この年10月快晴の広島で前年最下位からの長嶋監督胴上げを果たしたが、杉下さんは「天国の天知さん、見て頂けましたか?」の心境だったと言う。泣かせる話である。
ここには書かれていなかったが、評論家を務めていた東京中日スポーツには各所に「杉下出禁」の貼り紙があったとの話がある。それでもなお万難を排した杉下氏そして天知氏の定見の広さが無ければ今頃巨人は二束三文のチームに成り下がっていたかも知れない。
こうした方々のお力添えもあって今の巨人が存在している事を広く伝えたい。
伊東キャンプの話も書かれていて、インコースを投げられなかった江川にはインコースの投球を徹底訓練したんだとか。 昭和52年、高橋という投手が45試合登板(先発1リリーフ44)
これが全く記憶にない
昨年の巨人で例えると、田原や高木康(左右の違いはあるけど)みたいな役割だったのかな? >>394
元東映の高橋良昌(善正)だね。
この年限りで突如引退し投手コーチ就任は寝耳に水だった。 >>390
長嶋と言うより、ジョンソンの不振と、明確なリリーバー不在で、先発総崩れが原因の気が 高橋と小川は75から77年の中継兼敗戦処理投手のイメージが大きいな。 当時は一流選手よりコーチのが年俸高かった時代だから
コーチ就任なら結構あっさり辞めてる
翌年の土井もそう 79年
1三 中畑
2二 篠塚
3左 張本
4一 王
5右 シピン
6中 柴田
7遊 河埜
8補 吉田 >>401
そのスタメンは79年に1試合もないよ。 >>398
小川邦和は昭和50年よく働いたけど
「もう長嶋さんの野球はメッチャクッチャだった」と後に話してたな。
結局その年、ベンチでスーやんと口論して気持ちが切れちゃったらしい。
52年までは巨人にいたけど。 1975年の一軍スタッフ
監督 長嶋
ヘッド 関根
打撃 福田
投手 宮田
守備走塁 須藤
同補佐 黒江
投手コーチ補佐 淡河
翌年から一軍コーチに残ったのは黒江だけだったな。関根、宮田、淡河は
二軍降格で 392 のスタメンはその年 1試合しかない。
おまけに 389のスタメンは、その年1試合もない。
もう一言、言わせてもらえば、382のスタメンは、その年皆無である。 392のスタメンは、7番吉田・8番河埜が正しいね。
河埜は翌年以降打撃開眼するが1976年はまだ非力だった。
あと5番は末次や淡口だね。柳田は左の代打カルテットの最後に温存されてたイメージ。
なお淡口は序盤戦は1番を打ち、10試合連続初回得点の記録樹立に一役買っていた。 53年は本当に惜しかった。
どうにかならなかったのか! >>407
1986、2001年同様に中日の中日による中日の為の「巨人に絶対優勝させない会」が発動されたからねw
後年、広岡がラジオ解説で静岡〜神宮の中日4タテを振り返り、
「巨人が首位を追い掛けてる時の中日って首位を勝たせてくれるんですよ。
私もヤクルト監督時代には中日に随分といい思いをさせてもらいました。」と語っていた。
1986年対広島 終盤9試合を8敗1分
2001年対ヤクルト 最終4連戦を4連戦。
いずれも僅差で巨人優勝できず。
86年は中日のほか阪神も終盤はの広島に勝たせていたのがありありとわかった。 >>395>>398
情報ありがとうございます
調べたら完全試合も達成してたとは
斉藤雅樹や槙原が晩年に中継ぎをやるような感じですかね >斉藤雅樹や槙原
高橋良昌はそこまでの投手じゃないでそw ロックフェラー帝国の陰謀 工作員 エージェント 謀略
で検索。 MLB】ヤンキース・黒田は7回を投げ4安打4四球8奪三振で無失点、今季4勝目 イチローは5打数3安打1盗塁 HOU 4-7 NYY[5/1]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1367375954/ 当時の明星か平凡・・だっけ。
佐々木信也が取材で伊東キャンプレポートって企画があって、
グローブ片手にグラウンドに潜入して、どの選手も笑顔で
和気あいあいに応対してくれた。
とても地獄みたいな練習やってた雰囲気には見えなかったな。 「大座談会」
28勝34敗8分、80年の長島巨人は7月になっても調子が上がらないまま前半戦の70試合を5位で終えた。1点差試合も8勝19敗と
接戦にも弱かった名門に、OB達が業を煮やしたのは球宴期間中の事だった。球宴出場組が2戦を終えて休養日となった7月21日、稲城市の
「東京よみうりカントリークラブ」では正力亨オーナーら球団関係者と川上哲治らOBによるゴルフコンペが開かれていた。そしてゴルフの後に
四谷の料理店で行われた「巨人軍OB大座談会・わが巨人軍再建計画」は23日と翌週30日発売の週刊文春によって2週に渡って掲載され、
後に物議を醸す事となった。
川上のほかに青田昇、牧野茂、藤田元司、国松彰、瀧安治が参加したこの座談会、内容は野球用具の扱いにファンへの姿勢や練習態度など
予想ほど辛口の内容ではなかったが。問題となったのは、やはり監督についての話題だった。司会進行の瀧からの「監督をトレードするのが
一番早いという声があるようですが」との誘いに対して川上が「「長島に監督の素質があるかどうかは答えられん」と言った事も対象だが、
長島の後任問題についての「俺は広岡とは親しいけど彼は巨人の監督になる意思は無いと思う。無いから解説であれだけの巨人軍批判が
できる。次は藤田監督というのは有り得る、牧野監督も有り得る」との発言はアルコールが入っていたとはいえ、後々藤田が監督、牧野が
ヘッドコーチに就いたために、長島の辞任について“陰謀”だとの説が多く飛び交った。陰謀であったかは未だに判らないままだが、この当時は
本社と球団の間でちょうど長島解任の検討段階に入っていた時期ではあった。
巨人内部で囁かれていた夏の“長島問題”だが、外部でも“予感”がしていた人物はいた。8月に西武監督の根本陸夫は藤田に自身の後任
監督の話も含めての投手コーチ就任を要請していたが、藤田は「ありがたい話だが、ちょっと・・・」と固辞。この反応に根本は確信とまでは
いかずとも巨人の激動が今後遠からず来るであろうとこの時に察した。 (了)
>>388 >>390
この年の大洋の投手コーチが、巨人を出された藤田元司。 「冷戦」
あの大座談会以降、巨人フロントと長島茂雄監督との間には目には見えない緊張感が漂っていた。藤田元司が西武投手コーチの要請を固辞
した8月、巨人でもやはり藤田をヘッド格の投手コーチとして送り込む案を長島に打診していた。7月を終わった時点で借金7の5位、低迷の
原因を長島の継投などの投手起用にあるとみたフロントとしては、現投手コーチの杉下茂よりも球団OBとしてチームに精通している藤田に、
遠慮なく長島采配を正す役割を期待していた。実際に7月終了時の個人成績を見ても左腕エース新浦壽丈、ベテラン堀内恒夫、期待の若手
だった定岡正二が揃って2勝止まりと期待を裏切っていた。江川卓と西本聖がチームトップの7勝を挙げていたものの江川が7敗、西本が
8敗と白星先行が出来ないでいた。若手の底上げと投手陣全体の整備をしようというフロントの81年人事案だったが、長島の同意を得る事は
なかった。長島はそれが良案であるかという以前に、座談会メンバーの1人であり「川上派」とされていた藤田が絡んでいた事によるフロント
およびOBグループに対する警戒心と反発心を募らせていたのだ。
その反発がグラウンドで出たのか、8月は7連勝するなど12勝7敗と勝ち越し3位に浮上した。ここでオーナーの正力亨は長島に監督留任の
条件として「勝率5割とAクラス入り」を命じ、マスコミにも明言した。クリアすれば留任、出来なければ退任。これでどちらにしろ長島との冷戦も
決着に向かうと正力が悩んだ末に考えた条件だった。
一方で現場は長島の意気込みとは裏腹に、9月は月末の5連敗など苦しみ9勝14敗再びBクラス転落。9月中頃には、長島がフロントに
提出した「2年続けての伊東秋季キャンプ」「宮崎春季キャンプでの室内練習場設置」といった案が次々に却下された。おそらく正力以下球団
フロントはこの時点で既に「5割・Aクラス」の条件に関係なく、3年連続V逸監督である長島の“解任”を決めていたのだろう。いずれにしても
一連の騒動のキーマンの1人だった川上哲治に事の真相を永久に聞く事が出来ないのが残念でならない。 (了) 今年の日シリを見て、1976年の阪急戦を思い出したよ
いいところまで行ったけど残念!みたいな >>420
投手構成が76年の阪急=楽天で76年の巨人=13年巨人似てるなと思う。
阪急は山田・足立・山口くらいしか使えないけど絶対的エース山田あり
足立のほうが巨人には強いが・・
巨人は絶対的エースはいないが小林・新浦・加藤・堀内・ライトが
それなりにいた。 Mrは1001以上の暴力男
だったんだろ?この頃。 暴力って西本と角の不甲斐なさにビンタしたり、サインを無視した張本を監督室で正座させて説教した程度でしょ? >>423
札幌のホテルで風呂上がりでバスタオル一丁のチョーさん。
角と西本を土下座させ、往復ビンタの嵐。
怒りで興奮状態のチョーさん、バスタオルがとれてフ●チン状態
になってるのも気付かなかった。
これ、角自身が語ってたその時の様子。
正座してる目の前で、ブラブラしてた。 >>420
やっと日本シリーズの話が出た。
張本、加藤初の獲得
新浦、小林繁の台頭
王の復活で76年77年連続リーグ優勝
でも全盛期の阪急には敗れた
76年こそ未だ巨人コンプレックスが残っていった
阪急が3連勝した後意識し過ぎたせいか第七戦まで
もつれたが、翌年は1勝4敗と叩き潰された
その阪急が翌年広岡森ヤクルトに負けるとは
戦前予想しなかった シーズン中に復刻ユニフォームを時々やってくれるんだけど、
この時代のユニフォームは自分が知る限りでは1度も着用がないんだよな。
やはり暗黒期として認識されているんだろうか? >>425
77年は4戦目で9回に逆転されたのが痛手だった
それも2死無走者からだからな >>427
その年暮に発売された週刊ベースボールマガジン社「写真で見る日本プロ野球史」の
昭和52年の項、日本シリーズに「流れを変えた第4戦」と書かれていた。 確かにこの第4戦、長年の巨人中心の図式が崩れる分水嶺になったよな。
特に第3戦はホーム後楽園に戻って延長サヨナラ勝ちだったし。
前年散々悩まされた山口から非力な河埜がホームランを奪った。
その勢いを押しとどめた蓑田の走塁、投手山田によるダメ押し打。
終わってみれば阪急の圧勝。
翌年巨人は江川問題で黒い組織になり下がり、盟主の座は西武が奪う。
巨人が絶対の存在でなくなる第一歩の日だったのかもしれん。 あと第5戦の先発がルーキーの佐藤って・・。
山田、足立の温存。で第6戦以降対策か?って思ったら
4回で佐藤降板させ、白石を挟んで逆転したら山田の投入だった。
余裕あるチームだ。って思ったのを覚えがある。 79年と80年の巨人って左投手恐怖症になってたな。
梶間、神部、山本和
とやられてた。
左打者に比べて右打者が軒並み不調だったのもある。
同じ時期にどうようだった南海も同じだった。けど巨人が最下位にならなかった
のは投手陣が南海より断然よかったのと、パの方が主力左投手が多かった。
ってのもあったかな。 78〜79年は新浦が前半戦絶好調で20勝できるか?という勢いだったのに必ず夏バテを起こして失速してしまった。
糖尿病患っていたことも影響していたのか。
それにしても78年は惜しかった。優勝できなかったかな... >>462
あんな使い方されてて夏バテとか糖尿病の前に酷使し過ぎ。
78年〜79年はセーブ王のタイトルに最多勝まで取りそうな勢い。
というか先発に救援に大車輪の起用。解説者も「新浦はいつ壊れてもおかしくない」
と言われる程の酷使。
それでやれ、夏バテだとか糖尿病が影響とか、あまりにも当時を知らな過ぎだよ。 >>431右の代打陣は実質平田と中井しかいなかったからな。
庄司や二宮は守備要員しか使われなかったし。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています