Z. Fait accompli

美術館を出てすぐのところに海の見える見晴らしのいい場所があった。二人で海に向かい合うベンチに座った。しばらくの間沈黙が続いた。僕はさざ波のように弱い声で話しかけた。

「詩織さんは好きな人とかいるんですか?」
「それはどういう意味?」
「あまり浮ついた話を聞かないので。他意はないです」
「そうね。君みたいな人は好きかな。何も知らない人」

それが詩織さんの言葉であるならば、お世辞以下の言葉でも嬉しかった。自然と笑みがこぼれた。僕の心中を見透かしたかのように、詩織さんが少しだけ慌てて補足する。
「でもね、私は軽い関係が好きなの。付き合うとかはありえない」

この人は当然のことをやすやすと言う。否定されたことで勇気が出た。
「僕は詩織さんのことが好きです。付き合ってくださいとは言いませんけど」
「それは私に言うべき言葉じゃないよ」
「わかってます」
「でも嬉しい。人から好きだなんて久しぶりに言われた」

詩織さんは海を見つめている。サングラスを取った。
「あれは何だろう」と遠くを指差した。
僕は目を細めてその方向を見る。

頬にキスをされた。

僕は苦し紛れに話題を見つけ、上ずった声で聞いた。

「あっ、そう言えばさっき何のポストカードを買ってたんですか?」
「アテネの学堂」