気分良く人生を生きるために
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どうしたら気分良く生きていけるのか、その方法を考えていきたいと思います
精神心理学的アプローチ
行動経済学的アプローチ
脳神経の仕組み
感情の機微
など様々なものがあれば、
負の感情を知識的に解決しようとする(防衛機制の知性化)や
自分の内面を認知する事で客観的に自己を捉えようとしたり
ありとあらゆるアプローチがあると思います
合う合わないもあるので、生理学的な反応やメカニズムも取り入れて
はっきりしない精神的観念や意識、感覚というところまで広げて
いかにして人生を気分良く生きていくかという事を考えていければいいなと思います 「自分を変える」という事に関して述べようと思う
自分を変えようと思う際に、「効果的でない認知」を「効果的な認知」に変える
といった認知再構成が取られる事がある
自己啓発やビジベス書などでもみる事がある
「自分にはできない」→「なぜそう思うのか」→「視点を変えてみる」→「自分にもできるかもしれない」
といったものだ
ここに行動面の要素を含めれば行動活性化療法やソーシャルスキルトレーニングとなる
では、この認知の再構成は有効なのだろうか?
結論から言えばパーソンセンタードアプローチといった人間性心理学におけるものと同様のニューロンのネットワークの変化を目指す事となる
しかし、これは「効果がある」という事を単に表しているのではない
以前述べたように認知や長期記憶、想起(連想)は
一次感覚野→大脳辺縁系(特に扁桃体と海馬)→大脳基底核→大脳新皮質という解剖学的経路を経由して、例えば
前頭葉ー大脳辺縁系ー頭頂葉ー大脳辺縁系ー側頭葉
といったネットワークを短期的に形成した後に、睡眠中のリプレイやそれに伴うシナプスの強化で
前頭葉ー頭頂葉ー側頭葉
という直接のネットワークによる永続的な長期記憶として固定化される
認知再構成とは言ってみれば、この固定化された永続的な長期記憶とそれに伴う情動を再構成しようというものだ
これには二通りの方法がある
既存の認知を弱化して、新たな認知を大脳辺縁系をからませて1から作る
既存の認知を弱化して、既存の別の認知を強化する
という方法だ 書くのは簡単だが、新たにネットワークを作り出したり、シナプスを弱化、強化したり
以前述べた脳の感受期の制限を理解するとそれが簡単ではない、もしくは不可能な事もある事が分かる
効果的にシナプスの結合を作ったり、強化、弱化するためのテクニックとして精神力動療法や認知行動療法、人間性心理学が用いられているのだが、その目指す所は同じで、脳のネットワークの接続の変化である
神経生理学や解剖学を理解する事で腹側被蓋野からのドーパンの報酬や側坐核の報酬系、縫線体からのセロトニン分泌といった特性を理解して効果的なアプローチを考える事ができるが、腹側被蓋野からのドーパン出力の存在を知っていれば自由にコントロールできるというわけでは当然なく、メカニズムを知る事で効果がありそうだというアプローチに焦点を絞る事しかできない
そして、焦点を絞っても実際にどれほど脳のネットワークの接続を変化させられるのかは別問題となるのだ
これは、「自分を変える」事には限界があるという当然の事をはっきりと認識させる事となる
つまり、どのようなアプローチであれ、限界を超えた領域の事柄に対してアプローチをする
例えば「自分の怒りっぽい性格をなおしたい」といった対象に対して根本から性格を変える事が可能かどうかをよく認識しないといけないのだ
「何を変えるか」よりも「何なら変えられるのか」という点に着目してアプローチしていく必要がある
そういった意味では自己啓発やビジベス書で性格そのものを変えようと思うのは効果的ではない可能性がある
それは、「果たして、扁桃体を含む大脳皮質で永続的に確立された長期記憶のネットワークにどれほど効果を及ぼせるか」というところに行き着く事になるからだ そのため、性格そのものよりも実際に社会生活に表出される行動面に注目して変えましょうといったアプローチや
すでに存在する認知行動の両価性(矛盾)に解釈的だったり認知的だったり人間性心理学的なアプローチで認知に影響を与えて、それに伴うシナプスの強化や弱化をしていきましょう
というところに行き着く事になるのだ
そういった意味ではマインドフルネスやACTといったありのままを受け入れる第三世代の認知行動療法も同じ方向性を目指している事となる
理論やアプローチ方法は違うが、それによって及ぼされる脳のネットワークへの影響は似たようなものを目指しているのだ
シナプスにおける問題が器質的で病理的なものとなったものに対してこれらのアプローチをする事は効果的でない場合もある事を忘れてはいけない
極端な事を言えば、右脳がない人がいたとしてその人にどれだけアプローチをしても右脳は生まれないのだ
ただしそれは、右脳を相補する機能と社会生活への影響の変化を目指すといった場合はまた別の話である
「自分を変えたい」と思った時に、「何を変えるか」よりも「何なら変えられるのか」という点に分子生物学、神経生理学、電気生理学、組織学、解剖学の点からトップダウン的に計画を立ててボトムアップ式に実践する事が好ましいだろう
そういった意味では「自分を変える」ための手順を解説した本が自分の状態に合っているかを理解するバックグラウンドとなる知識も大切となる 「他者への共感は何を感じているのか」について述べてみようと思う
来談者中心療法のカールロジャーズは他者への「共感的理解」で
あたかも相手になったように感じてその感情の中で自由に泳ぎ、それでいていつでも自分に戻って来ることができる
といった表現をした
文学的なようで哲学的でもあるような表現だが、科学においてはよく、なんでそうなるのか分からないけど効果があり、
後になって説明ができた、といったような事象がかなり多くある
カールロジャーズが亡くなったのは今から40年近く前の事だ
サイコセラピーの領域において人間性心理学という分野を切り開いたカールロジャーズの述べた「共感的理解」は果たして個人の概念的な物に過ぎなかったのだろうか
日常生活を思い返してみると、他人に自然と共感する時に主語が「私」になっているのに気がつくだろうか
相手「○○から嫌なことされた」
自分「(私とあなたが)腹たつね」
相手「海がすごく綺麗だった」
自分「(私が)いいな〜(と思う)」
相手「新しい車買ったよ、見てこの写真」
自分「(私が)かっこいいなぁ(と思う)」 つまり、相手に共感する時にそれは「相手の感情」ではなく、「私の感情」になっているのだ
これは「共感的理解」の「あたかも相手になったように感じる」というものと一致しているように見える
このような現象から確認できるボトムアップ式の理解は、その理論背景やメカニズムの詳細が分からず哲学的な妄想や概念的理解といった真偽のあやふやなものと判断される事がある
精神分析におけるジークムントフロイトのイド(エス)や超自我の概念もそれに当たるのかもしれない
つまり、検証がきわめて難しいのだ
それでいて、そういった概念的理解は事象を基にしている事が多いため、実際には真実である場合も多い
しかしこれは、学問的に記述される概念的理解が正しいという事を意味してるわけでは当然ない
では、「共感的理解」、つまり、
相手の気持ちを自分が相手になったつもりで感じて、そして認知的理解によって相手視点のものとして言葉にする
という行為は妥当なものなのであろうか
相手の行為を観察する事で、あたかも自分がその行為をしているように脳が活動するニューロンは実際にある
これは自動的に行われるもので具体的には前頭葉の一次運動野の下方に位置するF5と呼ばれる領野で、
相手が物を持ったり口の動きをしているのを観察する事で、「あたかも」自分が同様の行動をしているように活動するミラーニューロンと呼ばれる領域だ
これは運動領域に関するミラーニューロンだが、一方で感情においても同様のミラーシステムを想起させる反応が存在する
脳の側頭葉を下げたシルヴィウス溝の奥にあるライル島で嫌悪に関するミラーシステムが観察されている
嫌悪は原始的には嗅覚と臭覚に基づく摂食行動の可否を決定し、ライルの前部領域がそこにあたる
実際に相手の嫌悪表情を観察するとライル島の前部領域が活性化されるが、これは自分が嫌悪を感じる時にも活性化される 痛みや嫌悪に対する情動に関して、ミラーニューロンが存在する事が伺われるのだ
そしてこれは、感情に対して相手が情動に基づく表情や表現をする時に自分が「あたかも」相手になったように情動を感じるという可能性を示唆している
これは「共感的理解」における「あたかも相手になったように」と一致する
しかし、ここで考えてみると、相手が何らかの感情を感じてるのを見て常にその気持ちを「あたかも相手になったように」感じているのかどうかという事だ
当然そうではないのは分かると思う
嫌いな相手が苦しんでいるのを見てその痛みを感じるだろうか?
ボクシングで「殴っている人」と「殴られている人」を見るとき同時にその感情を感じるだろうか?
「あたかも相手になったように感じる」ミラーニューロンがある一方で、相手を対象物として認識するカロニカルニューロンというニューロンが存在する
つまり、
ボクシングで殴っている人と殴られている人を見るとき、例えば
あたかも殴っている人になったように感じつつ、殴られる対象物として殴られている人を認識しているのだ
これは、相手が情動に基づいた行動をしているのを見ると自動的に「あたかも相手になったように感じる」わけではない事を意味する
カロニカルニューロンで相手を対象物として認識すればそれは「物」であり「対象」なのだ
そこに共感はない カールロジャーズの切り開いた人間性心理学は概念的であるものの現象に対して非常に理にかなったものだと思われる
相手を価値判断なくありのままに受け入れ(無条件の肯定的配慮)、あたかも相手になったように感じてそれを知的に表現する(共感的理解、自己一致)
とは、解剖学的、組織学的に説明すれば
大脳皮質と大脳辺縁系によって構築された長期記憶ではなく、一次感覚野から受ける刺激を長期記憶という連想をからませずに受け入れ、ライル島や他の領野にあるミラーニューロンとそれに繋がる扁桃体で自己の経験として認識し、一人称であるその感情を前頭葉の前頭領域で知的に理解して他人の経験とする二人称として伝える事で、私自身が長期記憶に持つ連想という自己の認識とは別であるという自他の区別を行ったものとして、発言内容が自分の認知と折衝する事なく伝えられる
となる
そして、相手を「共感的に理解」するとは、まずは相手の立場に入っていくというところから始める事が大切なのであろう 努力の方向性について述べようと思う
「努力」は「労力のかけかたの程度」といっても良いが
この「労力」というコストを払うためには動機付けが必要となる
具体的には予測による腹側被蓋野からのドーパミン作動性ニューロンの活動性を意味する
つまり
その「努力(労力)」の予測性である
「努力」をする際のパターンは
1、楽な状況下で将来の報酬を予測して努力する
2、苦しい状況下で将来の報酬を予測して努力する
3、楽な状況下で将来の報酬を予測できずに強制的に努力させられる
4、苦しい状況下で将来の報酬を予測できずに強制的に努力させられる
となる
例えば
1、は将来の職業の安定性を期待して学生の時に勉強して医学部に入る
2、は仕事が忙しい中で将来の独立を期待して休日にそのための勉強や下調べをする
3、は遊びたいのに親から無理やり勉強させられる
4、は仕事が忙しい中で生活費を稼ぐために残業せざるを得ない
といったものである 「努力」による結果の蓄積を考えると
1、の楽な状況下で将来の報酬を予測して努力する事、が結果として1番楽な選択肢となる
それは
楽な時に努力するのが一番楽で
苦しい時に努力するのが一番苦しい
となる
当然と思うかもしれないが
実際には楽な時に「努力」できる人は驚くほど少ない
楽な時には楽をするのが普通の行動だからだ
ずっと楽な状況が続く場合にはいいのだが
実際には生活費という現実的な問題があるので早めに生活の基盤は安定させた方が良い
20代で楽な時に楽をして
40代で楽をできるならいいのだが
実際には40代では苦労する、そして金銭面で強制的な努力を強いられる事となる
40代でそれを行わないとその苦労が50代、60代へとシフトしていく
その間は苦労の期間が続くのだからトータルの苦労の量は蓄積していく事となる
昔の昭和のように猛烈に働く必要はないと聞くかもしれないが
昔は「豊かになる」という報酬の予測性により努力が発生していたのだ
そして現代においても
報酬の予測性を得た人は早めから「努力」という労力を払う事ができ
結果としてトータルの苦労が減る事となる 時々、「努力しても結果が出ない事もあるから無意味」と言われる事があるが
それは当然である
将来の報酬の予測に対する「努力」は予測性であって、確実なものではない
もしも「努力しても結果が出ない事もあるから無意味」と思う場合には
そもそもの予測を変える必要がある
予測の方向性がおかしいのだ
例えば
年収200万から年収1000万を目指したいから勉強しよう
と努力したところで現実的でないのは分かると思う
報酬に対する予測と努力とは
「確率の高いことに対する報酬に対して努力をする」
という事なのだ
勉強で言えばいきなり医学部を目指すのではなく
まずは目の前の参考書を解いてみよう
年収200万であるのであればまずは年収210万円を目指そう
という事になる
達成不可能な目標を設定すれば達成できないのは当然であり
それに対して「努力は無意味」と断言するのは自分ができない事を設定してしまったからだ
努力が叶うというなら人は不老不死を目指すだろう
「努力」とは
自分の目指す方向性に向けて、報酬性のある達成可能な予測をたてて、楽な時に労力を払うのが楽な努力の仕方となる
得てして
強制的に苦しい時に労力を払わざるを得ずに無理な目標を強いられる事、が世間では一般化している
そんなものは苦しいのが当然である 忙しくなってしまったのかな?
更新を楽しみにしてますよ 他人を理解するという事と、他人への発言の返答について述べてみようと思う
他人の心情を理解する方法として大きく分けて2つの仮説が存在する
「他人というものを客観的に分析して理解している」
というものと
「他人から与えられた情報と状況を自分の中で再現して自分自信が主観的に認知する事で理解している」
というものだ
現在では外界の情報は、分析的に理解してるのではなく、状況を脳内で再現してそれに対して自分が経験をする
という方法で認知が行われているという説が有力だと考えられている
認知の発達段階において幼少期は生物以外の対象物でさえ主観的に認識されているという事をご存知だろうか
あなたが、手に車の模型を持って地面を走らせる時に、あなたは車という対象物を客観的に認識しているが
幼少期においては車は対象物ではなく、自己として認識される
これは、幼少期に車の模型を手に取って走らせる時に
自分が車の模型そのものであり、自分が車という存在になり地面を動いているという形で認識が行われる
これから分かるのは、「認識の基本は対象物を主観的にシミュレーションして理解を行う」という事である
あなたが動画で「足の小指をタンスの角にぶつけた」瞬間を見るとき、あなたは苦痛を感じるだろう
認知とは、「状況を脳内で再現して、自己の体験によって認知される」という事だ この事から他人とのコミュニケーションにおいて何が分かるだろうか
以下の状況を考えてみよう
相手「部長に怒られてすごく腹が立ったよ」
自分「それは嫌だな」
相手「夕日がすごく綺麗だった」
自分「分かる分かる」
相手「このケーキすごく美味しそう」
自分「食べたいね」
どうだろう、相手への返答の基本は主語が「私」となるのだ
共感とは実は相手に合わせているようで、実際には「私」の意見を述べているに過ぎないのだ
相手の感情と自分の感情が近似する場合に、「共感」と呼ばれるのだがこれは相手と自分の感情は完全に分断された別のものであるという事を忘れてはいけない
あなたは、「相手が部長に怒られた時の腹立たしさ」を理解しているのではなく、「自分がその立場であったら、あなた自身の嫌だという感情」を理解しているに過ぎないのだ
この、
「相手の感情」に対して「自分の感情」で返答を行う認知行動の問題点は、例えば
相手「悲しいんだよ」
自分「辛いよな」
相手「いや、悲しいけど辛いわけではない」
というコミュニケーションのすれ違いを引き起こす つまり、部長に腹が立ったけど、嫌なわけではない
夕日が綺麗だと感じたけど、あなたの理解を求めてるわけではない
ケーキがすごく美味しそうだと思ったけど、今食べたいわけではない
というすれ違いが起こる事があるのだ、これが、外的刺激を主観的に理解する、人本来の認知につきまとうコミュニケーションの問題点なのだ
相手に返事をする時に、自分は相手を理解して返事をしているのではない、という事に気がついている人は少ない
何故なら、他人から話を聞いている時に自分はその人の話を聞いていると思うのがごく正常な考え方だからだ
他人の話を聞いている時に、その情報を脳内で再現して自分がそれを経験してその自分の経験談を相手に伝えている
などとは普通は思わない
だが、この自分の経験談で語るという行為は非常に効率的なのだ
相手の行動や認知を理解して分析して答えるよりも、断片的に与えられた情報で状況を脳内で構築してそこで自分が体験する方がはるかに労力が少ないのが分かるだろうか
これの例が、前頭葉一次運動野のF5領野で発見された把持行動などの主観的再現による認知を発見したミラーニューロンの発見なのだ では、返答によるコミュニケーションのすれ違いをなくすものとはどのようなものか、それは
「相手を主語」として「感情を含む言語情報を変えず」に返すというものだ
相手「部長に怒られてすごく腹が立ったよ」
自分「(あなたは)そんなにも腹が立ったんだな」
相手「夕日がすごく綺麗だった」
自分「(あなたは)夕日を見て綺麗だと思ったんだね」
相手「このケーキすごく美味しそう」
自分「(あなたは)美味しそうだね(と思った)」
と返す事になる
おうむ返しのようでおかしいと思うだろうか?
重要なのは「感情の言語情報を正確に返す」という点なのだ
例えば
相手「トイレはどこかな?」
自分「トイレはどこかわからないんだね」
相手「子供がすくすく育ってるよ」
自分「子供がすくすく育ってるんだね」
とは返さない、これがおうむ返しで勘違いされる重要な点なのだが、言語情報を正確に返す際に有用なのは
「相手の感情を含む言語情報」なのだ
トイレがどこかはわからないのは感情ではないし、子供がすくすく育つのは感情ではない
状況に対する情報なのだ 例外としては、情報に感情が含まれる場合である
相手「あんなに壮大な景色は見た事がなかった」
自分「(あなたが見たのは)そんなにも壮大な景色だったんだね」
となるのだ
ここで
相手「あんなにも壮大な景色は見た事がなかった」
自分「人生で最高の景色だったんだね」
相手「いや、人生で1番ではないけど」
となるのだ
つまり、
感情の言語表現や、感情を含む言語情報は変えずに返す事で正確に相手からの発言を伝え返し、コミュニケーションのすれ違いを大幅に減らす事ができる
それと同時に感情を含まない情報に関してはある程度の変化が許容される
全ての言語情報をおうむ返しで返すと明らかにおかしい
例えば、「感情を含む情報」を変えずに伝え返しをする場合には以下のような流れがある
相手「子供がスクスク育って嬉しいよ」
自分「順調に成長してるみたいで嬉しいんだね」
相手「ああ、これから色々あるかもしれないけどね」
自分「家族のイベントって様々だものね、子供とは何をして過ごしてるの?」
相手「休みの日は一緒に釣りに行ってるね、大きな魚が釣れるか2人ともドキドキしてる」
自分「釣りかぁ、引きが強いとドキドキな感じなんだね」
相手「そうそう」
となる、「感情を含む言語情報」を変化させずに「状況を示す情報」をリフレーム(枠組み変化)させる事で、相手の感情から脱線せずに情報を空間的時間的に広げていく事ができるのだ
これが、「相手の会話は本能的には自分の体験として認知して話してしまう」という事で、それがコミュニケーションのすれ違いにつながる事とそれに対する対応方法なのだ 会話内容のターゲット(フォーカス)について述べてみようと思う
どうも会話が盛り上がらない、といった事があると思う、例えばこうだ
自分「先週はどこか行った?」
相手「行ったよ」
自分「どこに行った?」
相手「沖縄だよ」
自分「何をした?」
相手「ゆっくり休んでたよ」
自分「ふーん」
相手「…」
ありえそうな会話ではないだろうか?
なぜ会話が盛り上がらないのか、
それを一言で言えば「連想活性」が起きていないためだ
連想活性は特定の刺激(プライム)が引き金となって他の情報が引き出される活動だ
それは例えば、連想ゲームのように繫がりを持つ情報だが連想ゲームとの違いは、連想活性は自動的に意識せずに連想されるという点だ
では、なぜ会話の流れによっては「連想活性」が起きないのか
ここで記憶の形成についてもう一度おさらいしてみよう
記憶の形成は大脳新皮質の情報を大脳辺縁系でブリッジして形成される
大脳辺縁系で記憶を作る際には海馬と感情に関わる海馬の先端にある扁桃体が介在する
つまり、海馬と扁桃体に存在する感情を仲介として大脳新皮質の情報を関連づけて記憶を形成するのだ これが意味する所は、感情が記憶のトリガーとなるという事だ
フラッシュバックという言葉を聞いた事があると思うがフラッシュバックには強い情動が同時に発生する
フラッシュバックでは特定の要素が情動に働きかけを行い、そこで生起した情動が連鎖的に記憶を引き出してくる
つまり、「連想活性」だ
これの意味する所は、感情に紐づけられる情報が「連想活性」を引き起こしやすいという事だ
先の会話の例を見ると、会話の進行は主に「事柄」にフォーカスして進行している
そのため、「感情」にフォーカスせずに連想活性が起きにくくなり会話が盛り上がらなくなっているのだ
では、先ほどの会話を「感情」にフォーカスしてみるとどうなるだろう
自分「先週はどこか行った?」(クローズドクエスチョン
相手「行ったよ」
自分「へぇ、出かけたんだ?どこに?」(リフレクト、オープンクエスチョン
相手「沖縄だよ」
自分「沖縄に行ったんだ、ゆっくりできたんだね」(リフレクト、感情にフォーカスし始める
相手「そうだね、ゆっくりできたし色々楽しかったよ」
自分「楽しんで時間を過ごせたんだね、何が特に楽しかった?(感情反映、リフレーム、換起的オープンクエスチョン
相手「えっとね
となる
ここでは、返しは相手を主語として行なっている、逆に例えば「いいなぁ、俺もどこか行きたいな」と返すと主語が自分に移り会話の主導権が自分に移るため喋るのは自分となる、つまりその場合は会話が盛り上がってるのではなく、自分が会話を進行させているだけなのだ
会話が盛り上がる為には相手が話したい事を話す必要がある、自分だけ好き勝手喋るのでは盛り上がっているとは言えないのだ
つまり、会話を盛り上げる為には相手を視点として感情にフォーカスしながら喚起的に開放型質問(オープンクエスチョン)を行い、相手の連想を引き出す事が大切となる 上司の立場から見た部下の扱いに関して述べようと思う
部下への応答に関しては大きく分けて
肯定的ストローク(相手の認知に対して肯定的に働きかける)
否定的ストローク(相手の認知に対して否定的に働きかける)
ディスカウント(相手の存在を無視する)
の3つから選ぶ事になる
以前述べたように相手への働きかけで有効なのは肯定的ストロークとなるが何でも
「よくできたね」
「すごくいいよ」
と褒めていても当然ながら生産性が上がるとは限らない
人間の心理とは違い企業の最優先課題は「利益を上げる」事なのだから
それに付随して社員の人間成長なども含まれるが、それは「利益を上げる」という目的のために「社員の人間成長」が有益だから目的の一つとして付随される
これは、いくら「社員の人間成長」が達成されても「利益を上げる」事ができなければ企業としては存続できないという事である
企業は学校ではないのだから
つまり、
人間関係を円滑にしつつ利益を上げるという難しい2つの課題を達成する事が必要なのである
「会社に忠誠を誓う」といったような言葉があるがこれは人間関係で言えば
「あの人が大好きで何でもしてあげたい」と似たような状況となる
会社に忠誠を誓う必要はないが、もしもその人が自発的に忠誠を誓いたいと思う場合にはデメリットはあまり存在しない
「会社に忠誠を誓う」なんて古臭いといった意見も最もだが、誓うか誓わないかはその人本人の自由であり
自発的に忠誠を誓いたいと思う人に関してはメリットの恩恵を最大限に受け入れられる可能性があるので非常に好ましいのだ 人に置き換えれば
会社が好きで働く事は、好きな人と一緒に何かする事
会社が嫌いで働く事は、嫌いな人と一緒に何かする事
となる
人に置き換えればどちらがいいか一目瞭然だろう
問題は、好きになろうと思えば好きになれるわけではないという事だ
これは会社でも人でも同じとなる
上司は肯定的ストロークを用いて人間関係の構築と人員の最大活用を促す事はできるが
本質の所で相手が会社をどう思っているかはコントロール不可能である
これの意味する所は、対応に勾配をつけるという事である
つまり、
企業への献身性が高い人員に対してより多くの労力を払い、そうでない人は減らす必要があるという意味である
これは献身性が低い人員に対して否定的ストロークを使うという意味ではない
肯定的ストロークの量に差をつけるという事である
目安として
上位20%の人員に80%の労力を使い
下位80%の人員に20%の労力を払えば良い
下位80%の人員に関しては大きな問題を引き起こす害悪とならないようにして必要最低限の労力だけを払う事が企業としては有効となる
少なくとも下位80%の人員の不満を解消するために給与を上げるという事はやめた方がいい
もちろん下げてもいけない
一方で上位20%の人員は給与を積極的に上げるなど下位80%の人員よりも格段に高待遇を与える事が現時点で最も効率的な企業の方向性となる 大切な点としては常に勾配に気をつけるという事である
上位20%の人員の内でも20%と80%に勾配をつけ
下位80%の人員の内でも20%と80%に勾配をつける
保守業務や営業など業務についても勾配をつけるようにする
保守業務なら保守業務内の人員で20%と80%に分けていく
「社員を大切にしろ」という声が聞こえるが、その通りで大切にすれば良い
重要なのは勾配という差をつける事なのだ
上位20%の人員は大切さの80%を使い
下位80%の人員は大切さの20%を使えば良い
企業の目的が利益の追求であるという事から言えば一律平等に扱うというのは非常にデメリットが多いのだ うつ病らしく安定剤飲んでる、飲むと気分が少し良くなる飲まないと不安と頭痛がある、近々病院行って手帳と年金貰えるか相談する、失業中だからハローワークで障害者雇用のコト聞くつもり 注意の集中について述べようと思う
注意というものはどのようなものだろうか
考えないようにしよう、しようと思っても嫌な出来事が思い出されてくる
あれやこれやとやらないといけないと疲労してしまう
様々な事柄が思い浮かぶだろう
以前にも述べた事も含めてまとめると、集中は
集中のボトルネックという現象が存在しており、脳は単一の処理にしか集中を向けられない
自動的な思考と呼ばれるシステム2には集中は必要ない(例:通勤中の運転、鍵の開け閉めなど
集中を必要とするマルチタスクでは高速で集中の切り替えが行われている(例:SNS閲覧
記憶は感情を媒介として形成されているため、強い感情の伴う記憶に集中力が自動的に奪われやすい(例:フラッシュバック
ニューロンの発火はきっかけとなるプライム(先行刺激)で起きるが、自然発火も存在する
痛みといった感覚も集中を必要とする
となると
これらから分かる事は、集中を意識的にコントロールする事には様々な恩恵がある一方で、
集中をコントロールする事が極めて難しいという事である
集中のコントロールの代表が瞑想やマインドフルネスである
瞑想は寝てるのとは違う、考えていないのとも違う
というように
瞑想は例えば自分の呼吸や環境に対して集中を一点に向ける事である
脳の活動としては
呼吸であれば頭頂葉の体性感覚野であったり、
環境であれば側頭葉の一次聴覚野などに活動を集中する事となる
当然これは脳の活動以外の何者でもない これらのメリットとは、集中のボトルネックで述べたように
その一点に集中しきると他の事柄には集中できなくなるという事である
これが、
ストレスがあって嫌な事が思い出されてしまうと瞑想すると心が穏やかになる
と言われる理由である
瞑想してスッキリするから悩みから解放されるのではなく、集中のボトルネックを利用して悩みを含む連想記憶とそれに紐付けされる感情に関するニューロンの活動を発火させなくさせているのである
嫌な事があっても、さらに嫌な事があったら前の嫌な事が気にならなくなったという事はないだろうか?
これも、嫌な事が上書きされたのではなく、より嫌な事柄に集中が占有された結果なのだ
特定の自傷行為を繰り返す人がいるが、これも相手の気を引くという目的の他に、痛みによって集中が奪われ、その他の苦悩から逃れられるという危険であるがメカニズム的な理由もあるのだ
机の角に小指をぶつけた事があるだろう、その時に小指の痛さ以外何も感じなかったのを思い出して欲しい
しかし、実は机の角に小指をぶつけた後に別の何かに高いレベルで集中をすると痛みが感じにくくなるのだ
その集中には小指の痛さによる集中よりも高い集中力が必要とされるが、実際に行うと本当に痛みを感じない
何故なら、痛みもまた集中によって認識されているからなのだ
手をぶつけたら即座にその手を見るだろう、それが集中によってもたらされた行為なのだ 自傷行為に付随する「なだめ行動」について補足しておこうと思う
サイレントヴォイスというドラマで捜査官が「なだめ行動」といった相手の仕草から嘘を見破るドラマがあったが
実際には「なだめ行動」で嘘を見破れるわけではない
「なだめ行動」について述べておこう
「なだめ行動」は何かしらの心理的作用が働いた時に示すわずかな時間だけ発生するマイクロジェスチャーを含む無意識的行動である
例えば
ストレスを感じて髪を触る
感情を揺さぶられて手を両手でもむ
驚く事を言われて肩をわずかに揺さぶる
といったものがあるが
万人に共通するものではない
メカニズム的なものでは、例えばドキっとする事を言われた場合に
側頭葉の一次聴覚野と聴覚性言語野(ウェルニッケ野)から大脳辺縁系の扁桃体による感情の処理を行い大脳基底核を経由して
前頭葉後方の運動野へと刺激が出力され
遠心性の神経活動により抹消の(例えば指の)運動を起こし
指で頬を撫でると頬と指の感覚神経から求心性に刺激が伝わり
頭頂葉の体性感覚野にて刺激が処理されて活動が一次的に体性感覚野に集まり意識が集中される
つまり、
何か言われた時に感情が揺れ動いてドキっとしたら、情動をなだめるために集中を頬と指の感覚に集めて心を落ち着かせた
という流れとなる
感情を「なだめるための行動」だから「なだめ行動」と呼ばれる
このメカニズムから分かるように
「なだめ行動」が出るのは情動が動かされた時であって、それが嘘かどうかは関係ない
つまり、
「なだめ行動」があったら、何か心に動きがあった
というだけなのだ
この行動は「反射」とは違う事には注意したい これは自傷行為で述べた集中の占有のマイルドなバージョンであると言ってもいいかもしれない
この「なだめ行動」の解釈が飛躍して
女性が髪を撫でてると好意がある
とか
両手を触ってると相手がストレスを感じている
といった俗説へと繋がっている
「なだめ行動」において注意しないといけないのは
単なる習慣的行動と見分けがつかない事も多いという点だ
目の前で女性が髪を撫でて「何か感情が動いたのかな」と思ったとしても、それが単なる習慣的な癖である場合もある
習慣的癖の場合にはその行動に大した意味はない
「なだめ行動」において最も大切なのは
「なだめ行動によって相手が何を感じているか」ではなく
「無意識に出る自分のなだめ行動が相手に何らかの印象を与えている可能性がある」という点である
あなたが何かストレスを感じて頬を触ったとしよう
そしてそのノンバーバルコミュニケーションにおいて何らかのメッセージを相手に伝えてしまうかもしれないのだ
無理に笑ってもあなたの「なだめ行動」が相手にあなたには好意がない事を伝えてしまうかもしれない
この問題点を克服する道筋の一つがカールロジャースの3原則の一つである「自己一致」へと繋がる
「なだめ行動」は抹消の感覚に認知を集中する事で心理的動揺から集中を奪う無意識的な行動なのだ 「緊急事態」と「集中のボトルネック」と「高度認知処理」について述べようと思う
緊急事態、例えば目の前で起きたアクシデント、致命的なミス、一分一秒を争う非常事態
そのような「緊急事態」を認識した際に人の集中はどのようになるのか
予想できるかもしれないが「集中のボトルネック」によりほぼ全ての認知が
一次視覚野、一次聴覚野、体性感覚野といった外界刺激の収集に割り当てられる
大きな爆発音が聞こえて聴覚野から得られた情報を元にその方向を見るだろう
振り向いたその先には炎が迫ってくる光景が写りその情報が視覚野で処理され
運動野へと信号が伝わりあなたは走り出す
この時にあなたは決して昨日食べた美味しい食事の事は思い出さないし、明日の仕事の心配もしない
全ての集中はただ現在の外界の情報を収集する事に割り当てられ必至に逃げ道を探そうとする
これが緊急事態だ
想像してみれば当然だと思うこれらの行動だが、緊急事態に際してこれらの生存に関わる集中の占有に大きな問題が隠れている事をご存知だろうか?
それは、前頭前野における高度認知処理における情報の理論的処理過程が働かないという事だ これはどういう事だろうか?
例えばあなたが急いでいる時に車を運転中だとする
そして急にエンジンが止まってしまった
遅れる事は絶対にできないし、タクシーもいない、車を動かす以外の解決法はないとする
あなたはパニックになり必至にエンジンの再始動を試みたり燃料の残量を確認したり
全ての集中を状況の把握に注ぎ込もうとする
それでもエンジンは動かない
ここで必要な事は何だろうか
「緊急事態」において最優先される物事の1つに
「1分でもいいから安全に冷静になる時間を確保する」
という事がある
注意点は「安全に」という原則がある事だ
目の前からボールが飛んできたのに冷静になっていたら当たってしまう
あなたが車の運転中をしてる最中はどうだろうか?
1分間だけ冷静になれる時間を確保できそうだろうか?
冷静になる事の目的は「緊急事態」によって一次感覚野に奪われた集中を前頭前野の高度認知処理へ振り分ける事だ
1分間で冷静になり、あなたは考える
ガソリンは残量が確認できた、エンジンが止まった理由は何だろうか?
そういえば今自分が乗っているのはマニュアルのディーゼル車だ、ディーゼル車なら軽油を使用しているので断熱圧縮によりエンジンの再始動ができるかもしれない
そしてここは坂道だ
あなたはギアを1stに入れてクラッチを踏む、車は動き出した、少しずつ速度を上げて車は走り出し
そして坂の1番下に到達した時にクラッチを一気にかませる
かくして断熱圧縮により高温化したピストン内にて軽油の再燃焼が起きエンジンが再始動した
そしてあなたは走り出す これは単なるフィクションで、実際にこのようにうまくいくという話ではない
エンジンが止まった「緊急事態」に直面して、単純な一次感覚野への認知集中により情報の収集や反射的な動作のみにしか対応できない場面で
意図的に冷静になれる時間を確保して集中を前頭葉の高度認知処理に集め
ディーゼル車、軽油の発火温度は低い、ピストンは気体圧縮時に断熱圧縮で温度が上がる、クラッチを踏めばエンジンと車輪の回転は切り離される、1stギアでエンジンは最も高回転になる
という知識と一連の連想からエンジンが再始動するかもしれないと推測を立てて行動したのだ
当然ながら実際にこの方法でエンジンが再始動する保証はない
しかし、理論的に合理性のある推測から行動に移すこれらの処理は「緊急事態」において「集中のボトルネック」により情報収集へと認知が集中している状態では事前に知識として知っている場合を除いて対処不可能である
「緊急事態」に対して事前に対処方法を知っているケースは非常に少ない
だから「緊急事態」なのだ
これらからわかる事は、本能的な生存的行動における認知では対処できない事もあり、その際には前頭前野における認知を活用する事が求められる場合もあるという事だ
「安全に1分でもいいから冷静になれる時間を確保する」という事が重要になる場面も時としてあり、その事が解決方法を導き出す場合もある事を覚えておきたい
もしも緊急事態の最中に1分間安全に冷静になれる時間が確保できたならそれは、相当に運がいい事なのだ 「緊急事態」に対する「冷静になる時間の確保」の大切さに関して、フィクションではなく体験談を述べてみようと思う
これは、私がアメリカの東海岸の都市で一人暮らしをしていた時の話である
当時、私は集合住宅の6階に部屋を借りていた
そこの建物へは電子キーで入り、自分の部屋には機械式でオートロックがかかるようになっていた
ある3連休のなか日の午前3時頃にゴミを捨てるために部屋を出た
そしてドアが閉まった瞬間に鍵を持って出る事を忘れていた事に気がついた
慌ててドアノブを動かすが当然動かない
その時は本当に困った
一人暮らしで中には誰もいないし
3連休のなか日でおまけに午前3時頃
そしてその時の季節は冬で外は氷点下だった
さらに自分の格好は半ズボンにTシャツだった
ゴミを捨てるだけで戻ってくるつもりだったので財布もなければ靴もサンダルで出てきていた
ドアが開けられない事に気がついた時は本当にそれが悪夢なんじゃないかと信じられなかった
どう考えても状況が絶望的だからだ 最初にとった行動は、メンテナンスの人が同じ建物内に住んでいたので深夜だったのだが致し方なくドアをノックした
しかし、誰も出てこない
3連休だからどこか旅行に行ったのかもしれない
ちなみに白人はやたらと寒さに強い、真冬なのに半ズボンにトレーナーで歩いてたりする
あの寒さへの耐性は不思議だ
その代わり暑さに弱い
メンテナンスの人が出てこないので困った
最初に心配したのはトイレに行きたくなったらどうするかだ
近くに24時間の薬局(アメリカでは薬局が日本のコンビニのような立場になっている、セブンイレブンもあるが薬局の方が便利だったりする)があるのでトイレに行くならそこか、とも思ったが
入口は電子キーなので出たら絶対に入れない、しかも外は氷点下で雪も積もっている
半ズボンとTシャツとサンダルで出るのは流石に危険だと思った
そこで私がとった行動が
1階のロビーに行って、そこに置いてある椅子に座って休憩する事だ
つまり、「安全を確保できる状態で冷静になれる時間」を作ったのだ
当然ながら椅子に座っていてもドアが開くわけではない
しかし、その時はとにかく冷静になって焦るのをやめよう思い、座ってただひたすらボーッとロビーを見つめていた
15分くらいボーッとしていたと思う
そして、少しずつ考えはじめた
建物の出入り口は電子キーだから出たら戻ってこられない
自分の部屋のドアは機械式のオートロックだ
そして、オートロックの構造を考えはじめた
ドアを閉めるときには動き、開くときには引っかかるような構造
その部位に対してドアが閉まる時と同じような力学作用を与えればいい
その部位に対して部屋側から外側に対して力学的に力を加えれば、その機構は稼働する
ドアの隙間から何か突っ込んで引っ掛けるように力を部屋側から外側に力を加えてやれば開くんじゃないか
今は何もない
そういえばポストの横にゴミ箱があった、そこに何かないか
すぐにゴミ箱に行って中を漁ったら広告用のポストカードを見つけた
手頃な硬さと薄さ
折り曲げてある程度の硬さを作り、部屋の前のドアに戻っておもむろにドアの隙間から引っかかる場所を探してこねくり回してみた
何度かやっているとポストカードがだんだんボロボロになってきた
それでもこねくり回してみる …ガチャッ!
開いた!
本当に信じられなかった
開く自信は全然なかった
日本のしっかりしたドアだったら絶対に開かなかったと思う
アメリカのいい加減な作りのドアに心から感謝した
あまりの感動に当時のボロボロになったポストカードの残骸を写真に撮ってしまった
このように
「緊急事態」に対してパニックになってよく考えずに建物の外に出ていたら事態は解決しなかっただろうし
朝まで誰かが通るまで待つ事が出来たかも不明だ
しかし、
機械式のオートロックの構造を予想して
どの様な力学的作用を加えればオートロックが動くのか
そのためには何が必要か
その必要なものはどこから調達できるのか
といった推測には前頭前野の高度認知処理が必要とされる
この様な「緊急事態」に際する対応はリハーサル不可能であるし
同じ事態が再び起こることもそうそうなく、「緊急事態」に対する解決方法はその一回のみの機会となる事がほとんどだ
そのため、あらかじめ対応策を準備する事も難しいし、解決方法はその場で創造的に生み出さざるを得なくなる
その、創造的に解決方法を生み出すためには前頭前野の高度認知処理が必要であり、
そのためにはまず、「緊急事態」に直面して全ての集中が奪われてしまっている状況に際して
冷静になれる時間を確保して、前頭前野に集中を集める余裕を作る事が大切となる事もあるのだ ストレスからの解放で行われる「瞑想」や「マインドフルネス」などの集中について述べてみようと思う
「瞑想」や「マインドフルネス」など(以下、瞑想とひとくくりにして述べる)においては
「いま、ここ」の自分に集中して意識を集中する事でストレスからの集中を瞑想中の意識へと移すのだが、
なぜ、「いま、ここ」なのか考えた事があるだろうか
「瞑想」においては、この「いま、ここ」の言葉が繰り返し表現されるくらい重要な要素となっているが
どうして「昨日のあの場所」や「目の前のコップ」ではダメなのだろうか?
「昨日のあの場所」や「目の前のコップ」でも集中はできるではないか
これには、「空間表象」と「自己表象」と「記憶の強化」が関連する
一言で言えば、
「いま、ここ」の自分の存在に集中する事が「自己の存在」という記憶を脳に強く記述して注意が効率的に向けられる
という事である
とても哲学的で心理学的な説明である
哲学や心理学における問題点の1つに、それは単なる妄想のファンタジーではないのか、と疑問を持つ事である
「瞑想によって自己の「いま、ここ」に意識を向ける事で自己が自己である事に強く意識が向く」
と言われても事実かどうか検証のしようがないのだ
哲学も心理学も多くが思考の中に存在して目には見えない
だからと言って哲学や心理学を否定するつもりはないし、哲学が科学の始祖である事も人類学的な事実なのだから では、実際に「いま、ここ」の自分に集中すると何が起きるのか
記憶を最初に形成する役割を持つ大脳辺縁系の海馬は大脳新皮質の嗅内皮質から入力を受ける
その経路には「側頭葉アンモン角経路」と「シェーファー側枝路」という経路がある
これらの経路は海馬内に存在するCA1錐体細胞(いわゆる、場所を記憶する「場所細胞」)へと繋がる
さらに自分の空間的な基準位置を認識するとされる「格子細胞」は、頭頂葉の体性感覚野、一次感覚野、前頭前野の自己受容性の高次感覚と連合野を形成して内側嗅内皮質から海馬内の「場所細胞」へと投射し、「空間表象」と「自己表象」が形成されて
「いまこの瞬間、ここに私はいる」という認知が形成されて記憶の形成へと繋がる
つまり、「いま、ここ」の「私」に集中するというのは、「空間的な自己表象」を記憶するという行為なのだ
では、なぜこの「空間的な自己表象」を記憶する過程が効率よく集中する事に繋がるのだろうか
以前も触れたが、集中とはニューロンの発火である
ニューロンが容易に発火する時、それは集中が容易にされているという事である
ニューロンが容易に発火するとはつまり、ニューロン間の結合であるシナプス強度が高まっている状態である
シナプス強度が高まると、ニューロンが発火しやすいという事である
では、空間的な自己表象におけるニューロンの発火について考えてみよう
「空間的な自己表象」を行うときに、海馬内での「側頭葉アンモン角経路」において、以前も触れたヘブ即のシナプス強度の増強(LTP)が起きる
これは、「空間的な自己表象」による刺激が海馬内において、シナプス前部(軸索)から放出されたグルタミン酸が非NMDA受容体と呼ばれる受容体に結合してナトリウムイオンがシナプス後部(樹状突起)に取り込まれた際に、これらの刺激が繰り返し行われる(空間的な自己表象を繰り返し行う)と神経の発火(脱分極)に合わせてNMDA受容体と呼ばれる受容体の出入り口を封鎖していたマグネシウムイオンが取り除かれて、結果としてNMDA受容体がアクティブとなり、カルシウムイオンを取り込む様になる これは、
非NMDA受容体しか活動していなかったシナプスにおいて
NMDA受容体も活動する様になり
容易にニューロンが発火しやすくなった
つまり、いわゆるヘブ則でいうところの長期増強(TLP)が確立されて
容易に「空間的な自己表象(いま、ここの自分)」に集中しやすくなったのだ
言い換えれば、「いま、ここ」の自分に意識を向ける事は、さらに効率よく「いま、ここ」の自分に集中しやすくなり、その自己表象を記憶しやすくなるのだ
これは大脳新皮質の連合野から空間表象を形作り海馬で記憶を形成するという哺乳類で広く確認できる原始的な機構である
場所と関連づけて記憶すると覚えやすいという話を聞いた事があるだろうか
通称、記憶の宮殿と呼ばれるものだ
そのような経験則からも分かるように、空間表象は記憶の形成と密接に関わりがあるのだ
それは空間を記憶する事で生き延びるための本能的機能なのかもしれない
つまり、
「いまこの瞬間、ここという基準にある自分」に集中すること自体が記憶を形成すると共にニューロンの発火という「集中」をするのに効率的な神経生理学的、解剖学的機能を備えているのだ
これが、「瞑想」において「いま、ここ」の自分に意識を向ける事が大切な理由である >>340
なんかややこしいこと書いてるけど
記憶するんじゃなくて、記憶の呪縛から離れるんだよ 「報酬」と「学習」について述べてみようと思う
「学習」とは勉強の事ではなく、刺激に対する反応の獲得(記憶の形成)を意味する
勘違いされやすいのだが、反応は「記憶の形成」によるものである
例えばテニスでテニスボールをうまく打ち返せる様になるのは「非陳述記憶(作業記憶)」が反応という形で出たものである
「記憶」というと何かを思い出したり考えたりする事を想像する人が多いと思うが
それは「陳述記憶」と呼ばれ、大脳辺縁系の海馬を利用した記憶回路である
一方で「非陳述記憶」とは線条体を利用した記憶回路であり、これには直感や集中力の向上、マインドフルネスや瞑想の熟達、行動経済学ではシステム2と呼ばれるものにあたる
「陳述記憶」と「非陳述記憶」はメカニズムも概念も全く別のものであり、「非陳述記憶」に関してはその存在を意識するのは難しい
瞑想でいうところの記憶から離れるとは大脳辺縁系の海馬と扁桃体に支配さる「陳述記憶」から離れる事を意味しており、逆に「非陳述記憶」を形成する事で瞑想に熟達していく事となる、「記憶」には意識的な「陳述記憶」と無意識の「非陳述記憶」が存在する事を理解しておかなければいけない
学習において
「陳述記憶」は中脳腹側被害野からのドーパミン出力に影響を受け
「非陳述記憶」は中脳黒質から線条体へと出力し影響を受ける
中脳腹側被害野からのドーパミンの報酬は以前述べた様に
予想信号によりドーパミン出力が発生し
実際の報酬との誤差(予測誤差)が多いほどさらなるドーパミン出力が発生する
一方で、報酬を100%の精度で予測すると、実際に報酬を受け取った際にはドーパミン出力は発生せずに学習を引き起こさない
予測信号と感覚信号(報酬)における誤差(予測誤差)を最小に抑える事でベイズ推定の精度を上げるという自由エネルギー原理の説明と同様となる
つまり、学習を加速させるには正のフィードバック(報酬)(負のフィードバック(罰)では、ドーパミン出力は逆に抑制される)を予想外に与える必要がある
そのためには、常に確実な事にばかり手を出すのではなく
失敗する可能性を含む不確実な事柄に取り組む事で、感覚信号(報酬)を受け取る際の予想外さが変化して、学習へと繋がる事となる
自分の知っている事を繰り返しても学習は進みにくいのである 「自己啓発本の内容」と「分子生物学、神経生理学、組織学、解剖学、心理学、カウンセリング理論、精神医学、臨床医学、疫学を統合的に理解する事」の違いについて述べようと思う
結論から言えば「自己啓発本」を読んで素直に実践していれば大体大丈夫である
問題は「自己啓発本」に書かれている事を素直に受け入れられるかである
何故なら書かれている事を真面目に読むととても胡散臭く感じられるかもしれないからだ
細かいメカニズムに興味がない場合は「自己啓発本」を読んで実行し続けるのが1番簡単かもしれない
一方で、分子生物学から疫学にまたがる多分野を理解するメリットは自分で応用したり効率性を上げられる可能性があるという点である
しかし、多分野にまたがる理解をするためには表面的に理解するか、深く理解するかで大きな差が出てしまう
何故なら、多分野にまたがる理解をするメリットは理解を深める事で応用性を高める事なので、
浅く理解する場合にはそのメリットが存在しないどころか時間と労力がかかる分だけデメリットが多くなる可能性があるためだ
そのため、「心の動き」に関して深く理解するためには、どれだけ全ての分野で深い理解があるかが重要となる
「心」に関するそれぞれの分野での例を出すと
疫学において分散と標準偏差の概念を理解しているか、標準偏差はどの区域が採用されるか、交絡因子を抽出できるか
臨床医学において臨床的な疾患名(保険病名)と病態について理解しているか、遺伝子に病因を求める特定の症候群やカスケードについて理解をしているか、遺伝子の表現形とヘテロの場合の相補に関して理解しているか
精神医学に関して器質的変化に関して何をターゲットとしているか
カウンセリング理論に関して言語的、パラバーバル、ノンバーバルコミュニケーションにおける文脈的機能と心理的な動きに関して理解を深めているか
心理学において様々な現象、バイアス、ヒューリスティックなどの認知の歪みと作用を理解しているか
解剖学において解剖学的位置関係と接続を理解しているか
組織学において細胞同士の接続と接着、細胞の分化を理解しているか
神経生理学においてニューロンとグリア細胞と関係する細胞においてその電気生理学的な性質と細胞機能を理解しているか 分子生物学においてノックアウトマウスなどのin vivo、細胞培養を使ったin vitro、遺伝子変異、ノックアウト、ノックダウン、プロテオミクス、染色、タンパク質の立体構造とその機能
など、それぞれである程度の深さを理解している必要がある
研究においては1種類の細胞の1種類のタンパク質機能だけをひたすら研究している人もいるため、全てを理解している事を求められる訳ではないが、「心の機能」を基礎研究から臨床研究まで横断して理解するためにはかなりの知識量を必要とする
例えば、プロテオミクスにおける質量分析がどのような技術で行われているかを知っていればBLASTを用いたタンパク質同定の意義を理解できるし
タンパク質の立体構造における理解が深ければ大腸菌に作らせてhisタグ抽出した単量体のリコンビナントタンパク質の問題点も理解できるし
免疫染色における問題点、パラフィン固定と凍結標本の違い、臨床研究における病態の理解など
自分で文献を読み進めるうちに自ら問題点を抽出して情報を取捨選択できるという非常に大きなメリットが存在する
多分野にまたがる「心」の理解をする場合は、まずは自分の最も得意とする専門領域を決定してそこから広げていくのが良いであろう
基礎研究から始めてトップダウンに理解するのも良いであろうし
臨床から始めてボトムアップに理解するのも良いであろう
できればその専門領域に職域として従事していると情報が集めやすく理解も深まるのでそれらどれかの職域に従事していると好ましいかもしれない 「多分野にまたがる理解の恩恵」についてさらに深めていこうと思う
以下の説明があったとする
情動と感情の違いは情動が無意識的な生理反応群である一方で、感情は意識的な認知を伴う反応である
情動の元となる情動能は微生物の生存反応に由来し、他の出来事と連合する事で情動的認知が広がる
この文章を深く理解すると以下の様になる
情動はカウンセリング理論で言うところの一次感情やコア感情である
感情はカウンセリング理論で言うところの二次感情や防衛感情である
情動の意識化はカウンセリング理論で言うところの気づきである
情動はフロイトの精神分析におけるエスを含む
情動は解剖学的には中脳線条体に関与する
感情は解剖学的には内側側頭葉(大脳辺縁系)の扁桃体に主に関与する
生理学的、解剖学的には中脳線条体は黒質から、扁桃体は腹側被覆野からドーパンの報酬を受ける
生理学的、心理学的に報酬系は動機付けとして働く
神経生理学的に無意識は非陳述記憶、意識は陳述記憶の記憶形式として保存される
神経生理学的に記憶は前頭前野のワーキングメモリ、短期記憶、長期記憶へと変容する
心理学的に前頭前野のワーキングメモリはおおよそ30秒間に3から7チャンクである
分子生物学的に短期記憶はシナプスの受容体の発現とシナプス強化で起きる
分子生物学的に長期記憶はプロモーターの機能強化とそれに伴う表現形の変化よって起きる
分子生物学においてシナプス強度は受容体タンパク質に影響を受ける
分子生物学においてタンパク質はアミノ酸1次構造、アルファヘリックス、ベータストランドの2次構造、単量体の3次構造、多量体の4次構造に影響を受ける
細菌学において真正細菌のクオラムセンシングが情動能の起源と考えられる
電気生理学においてニューロン間コミュニケーションは神経伝達物質、神経修飾物質、細胞内電場によって行われる
ニューロンにおける細胞間コミュニケーションは心理学における相互的複合的内包を引き起こす
カウンセリング理論における文脈的作用が相互的複合的内包に影響を及ぼす
カウンセリング理論における接続詞、順接の接続詞、逆接の接続詞の技法により複合的相互的内包を方向付けられる といった理解となる
それぞれの理解においてもさらに
タンパク質なら
どの様に研究がなされているのか
リコンビナントタンパク質の作成方法と使用目的
フローサイトメトリーでわかる事
蛍光顕微鏡と共焦点レーザー顕微鏡の理解
心理学的には
バイアスとヒューリスティックの理解
心理学的現象の理解
言葉の順序、選び方による心理的作用
臨床的には
疾患名と病態
治療方法と健康保険で認められる治療
保険算定要件と保険点数
と無限の枝葉の様に理解が深まっていく事となる
重要なのはこれらの知識と理解を紐づける事であり、理解のネットワークをどれだけ強固にするかである
アミノ酸の一次構造だけを理解していても他人とのコミュニケーションは成立しないが
コミュニケーションの成立をボトムアップで追いかけると
心理学→ソーシャルスキル理論→カウンセリング理論→文法→解剖学的影響部位→組織学→生理学→分子生物学
とつなげる事ができる
そして分子生物学からトップダウン式に心理学に戻ってくる事で応用や発見や理解の深まりが生まれるのだ
理論だけでは実践は生まれず
実戦だけでは理論は生まれない
不必要と切り捨てた知識が多いほど枝葉は減っていくので無理解へと繋がっていくのだ
「理解できない」とは「私は知識がありません」と言っているようなものなので自分の知識がどれだけ広く、深く、多いかに注目する事も時には必要であろう 理解を深める事に関してとても重要な事がある
それは、理論は必ず過誤を含むという事だ
そのため理解を進める際には確定的に進めるのではなく、確率的に進めていく事がとても大切となる
知識を不必要と言って切り捨てる事は確定的な学習様式にあたる事を覚えておきたい 「情動」「感情」のおさめ方について述べようと思う
この事柄は「アンガーマネジメント」に共通する項目となる
まずは、カウンセリング理論と心理学における視点から見てみよう
「人は傾聴される事により自己の感情に気づきカタルシスと呼ばれる浄化を得る」
と説明されたり
「怒っている自分を怒っているんだなと理解する事でアンガーマネジメントする」
と説明されるが
これらの説明を信用できるだろうか?
これらの説明は
「自分の感情に気がつけば感情の束縛から解放される」
と言っているようなものだ
これは正しいのだろうか?
結論から言えば恐らく正しい
情動や感情に伴う生理反応は自律神経への反応として説明される
これは扁桃体の活動に伴う反応であり、無意識的な反応
つまり循環系、内分泌系、体勢運動系への反応を意味する
これらの変化により抑鬱や躁状態などを引き起こす結果となる では、扁桃体に依存しない感情は存在するのだろうか?
実はある
扁桃体に依存しない感情は島皮質と腹内側前頭前皮質に依存する
さらに島皮質では他者への共感に関連するミラーシステムが観察されている
では、これらの扁桃体に依存しない感情はどのような時に出るのか
それは
社会的やり取りに関わる感情
他者への共感によって生まれる感情
感情の想起によって生まれる感情
と意識的な要素が強い感情である
言い換えればコントロール感の強い感情とも言える
感情はその存在に気がついた時からカタルシス(浄化)が始まるとカウンセリング理論で言われるように
感情に気がつくと脳での活動部位そのものが変化するのだ
扁桃体による自律神経系への出力は無意識的で制御ができない
一方で島皮質と腹内側前頭前皮質による出力は意識的で自律神経への反応が弱い事が分かっている
つまり、情動(一次感情)あろうと感情(二次感情)であろうと、その存在に気がつくと扁桃体での反応が島皮質と腹内側前頭前皮質に移行する事が分かっており、それが結果的に自律神経への反応を弱めるという事になる
これは、
「傾聴において聞き手に映した自分の感情を認識する(もしくは共感する)事で自分の感情に気づく」
「アンガーマネジメントにおいて自分が怒っているんだなと気づく」
事で感情に伴う生理反応をおさめるという説明そのものである 基礎研究レベルの話が多くなってきたので臨床レベルの話を少ししようと思う
気分が乗らない時にどのような行動をすると良いかについて述べようと思う
気分が乗らない時に何をすると手っ取り早く気分を良くできるか
それは、
とりあえず外に出てどこかに向かってみる
という事である
注意したいのは
「とりあえず外に出てどこかに向かってみる」と必ず気分が良くなるわけではないという事である
可能性的に気分が良くなる確率を上げうるという事であり、
当然ながら気分が悪くなる可能性だってある
これは概念的な話ではなく、「期待」と「結果」の差を利用した方法であり
腹側被蓋野からのドーパミン出力を利用した方法であるが
腹側被蓋野とドーパミン出力の内容は以前述べたのと、この辺りを話し出すと生理学的な基礎研究レベルの話に戻ってしまうので省略する
手っ取り早い方法として
@何も期待せずに外に出てみる
A特に行きたいと思わないよく分からない場所に向かってみる
これだけである
自己啓発で聞きそうな、いつもと違った事をやってみよう
というのと近い内容だが、神経生理学的な根拠がある
この中で1番重要な事は@の「期待しない」という部分である
この辺りの神経生理学的メカニズムを理解してると効果的な行動を推測できると共に
知識ではなく行動する事の重要性も理解できる スレッドをたてて半年ほど経ったが最近どうも時間がないので一旦落としてしまおう これだけ進んでると半年間くらいは書き込みがなくても落ちませんよ
ここは意味を忘れてしまった単語をこのスレの中で検索できるのでとても便利です
時間が出来たら趣味として続きにを書い欲しいな
もちろんアプローチの仕方を変えて新スレで書き直してもらっても構いませんが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています