気分良く人生を生きるために
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どうしたら気分良く生きていけるのか、その方法を考えていきたいと思います
精神心理学的アプローチ
行動経済学的アプローチ
脳神経の仕組み
感情の機微
など様々なものがあれば、
負の感情を知識的に解決しようとする(防衛機制の知性化)や
自分の内面を認知する事で客観的に自己を捉えようとしたり
ありとあらゆるアプローチがあると思います
合う合わないもあるので、生理学的な反応やメカニズムも取り入れて
はっきりしない精神的観念や意識、感覚というところまで広げて
いかにして人生を気分良く生きていくかという事を考えていければいいなと思います 少し毛色が変わるが、科学がどれほど信用に値するかという事について述べようと思う
これはかなり重要な事だと思う
なぜなら、根拠の多くは科学を基に説明されているので、何かを説明された時にそれがどれ程信用に値するのかをある程度判断できる事で知識の使用範囲が大きく変わるからだ
例えば、
論文に〇〇という事が書かれてました、〇〇は正しいですか?
と聞いた場合と
週刊誌に〇〇という事が書かれてました、〇〇は正しいですか?
と聞かれた場合に同じ答えを出すだろうか?
恐らくだが多くの人は論文に関して
論文に書かれてる事だから間違ってることもあるかもしれないけど多分正しいんじゃない?
くらいの感じではないだろうか?
では、その、「多分正しいんじゃない」という判断をどの程度で捉えているのだろうか
これは研究という産業の構造を知る事である程度雰囲気がつかめる
結論から言えば、
科学の目的とは「可能性を掘り起こす」事である
当たり前と思うかもしれないが、これは、「間違いを排除する」ことが目的ではない事に注目して欲しい
つまり、極端に言えば
この論文は80%の確率で間違っているが、20%の確率で正しい
といった時に「科学」の目的に合っているのである
これが「可能性を掘り起こす」事が目的であって「間違いを排除」する事が目的ではないという事である ところで、「間違いを排除する」判断を行うのは誰だろうか?
もちろん人間である
人間は当然ながら簡単に誤った判断をする、何故なら人は認識できる事しか正しいと判断できないからだ
1000年前に戻って当時の1番頭がいい人に「鉄が空を飛ぶ事ができますか」と聞いても否定されるだろう
これが単純に「間違いを排除する」行為にフォーカスしない理由の一つである
新しい発見とは常に現在の認識の一歩先を行くので、そもそも正しく認知できる保証がないのだ
これが、可能性を大切にする事に繋がっている
では、可能性を大切にした結果間違いが沢山あってもいいのか?
と反論されるかもしれない
間違いは当然少ないほうがいい
だが、間違いを少なくする最も単純な方法は数を絞る事だ
そして排除された物の中には正しいものも含まれてくる
質のいい物を作る原則を知っているだろうか?
それは、量産である
少数精鋭で優れたものと
量産の中で優れたものを比較すると
量産品の中から最も優れたものが生まれる
そして大量の失敗作も生まれる
これが「科学」である
これは会議で行われるブレインストーミングの要領と同じだ
科学の発展とは平凡な結果を100個集めて起こすのではなく、優れた1つの結果によって起きる特徴がある
鉄に関しても「揚力」の発見によって飛ぶ事が可能となる(当然動力が必要だが) そこで気になるのが、その科学に関わる人、つまり研究者とはどれくらい信用のできる人々なのか?
という事だ
日本を例に出してもいいが世界の研究予算規模の最も多いアメリカを例に出そうと思う
その理由は、論文を量産してるのが現在はアメリカだからだ
別に日本人が劣っているわけではないが数があまりにも違いすぎる
思い出して欲しいのは、「最も優れたものは量産品の中から生まれる」という事だ
最も予算規模が多く論文の数が多いアメリカの研究者はどのような産業構造になっているのかについて述べてみよう
大雑把な結論から言えばアメリカの研究はビジネスである(大雑把に言ってる事を忘れないで欲しい
そして研究者は、成功者の階段を駆け上る人たちである(金銭的に
アメリカでの研究の成功者が目指す年収はいくらくらいだと思うだろうか?
日本円で言えばおおよそ年収で3000万円から4000万円以上だろう
これは基礎研究の分野で、これが臨床家による臨床研究だと1億以上を目指す事となる(講座のchair
これだけ高収入を目指せる理由は研究という産業の構造にある
分かりやすく典型的なテニュアトについて述べよう(ポスドクや研究教授といったものは別とする
テニュアという永久就職権を得るとハードマネーという大学から支払われる給料が発生する
これは駆け出しでおおよそ年収で600万円くらいである
日本の研究者とそれほど変わらないが、アメリカの産業構造ではこの後が違う
日本のメジャーな研究予算である科研費に相当するものがNIHから支払われ、メジャーなものはR01と呼ばれるグラントである
科研費で言えば基盤Aとか基盤Cといった感じである
科研費と違い、R01からは雇った職員の給与、大学に収める費用、研究費、そして自分の給料が支払われる
科研費でも特殊なものは給料が出るが全くの別物なのでR01の話に集中して進めよう R01は研究プロジェクトごとに採用されるのでいくつも取得することができる
かなり大雑把だが1つ獲得するごとに年収が400万円増えると考えてもらうと良い(予算振り分けは任意
つまり、R01を6つ取れば年収3000万超えとなる
そして獲得予算のおおよそ30%は大学に収める(例えば年間4億の予算なら1億2000万円を大学に収める
そして残りの予算で職員を雇ったり実際の研究費にあてる事となる
これがまさに、アメリカの研究産業はビジネスであると書いた理由である
しかし、当然競争率は高く2000年であれば20%ほどのR01採択率だったのが今では一桁となっている
この研究資金を獲得するために、
「より新規性があり、インパクトの強い、可能性に満ち溢れた研究結果」を追い求めているのである
その結果、間違ったものも量産されるが、それに比例して優れた研究も出てくるという構造になっている
研究において捏造まがいのものも存在するが、想像を絶する研究も生まれている
こういった暗闇も併せ持つ産業構造の結果、遺伝子工学や分子生物学といった100年前では考えられなかった技術の発展が起きているのである
論文のインパクトの話や査読、論文雑誌に関しても色々産業構造の関わりはあるのだが、別の機会があれば書こうと思う
科学とは可能性を追求する学問であり、間違いも含んでいる
そのため、いかにも専門的で合理的な説明であったとしてもそれは「可能性を追い求めて出した説明」である事を忘れずに、固執的に盲信しない事が個々の判断にとって大切となると思う 認知はどれ程再構成されうるか、つまり「考え方はどれほど変えられるか」という事について述べようと思う
これは
「大人になったら性格はなかなか変えられない」と言われたり
「頭が固くて柔軟に他人の意見を受け入れられない」といった事につながる
他人の意見を柔軟に受け入れる事ができて、性格を協調的に変える事がうまくできればそれは、「より良く生きる」ためのヒントになるだろう
しかし、周りを見て分かるように大人とは自分と違う意見や認知できないものを拒絶する傾向がある
つまり認知的不協和だ
では、これを変えられるのであろうか?
結論から言えば高次機能を司る前頭前野を関連づけたものに関しては制限内で可能である
逆に一次的な感覚野を含む低次機能に関しては絶望的である
これは、「三つ子の魂百までも」をそのまま現している
認知機能の変化とはつまり神経の可塑性
さらに言えばニューロンの軸索の成長や樹状突起のスパイクの増加、成長などを意味する
そして脳の領域ごとにこの成長にはピークと終わりがある
例えば分かりやすいのが言語学習である
英語をどれだけ学ぼうとネイティブに匹敵する発音を手に入れるのが困難な事は体感できると思うが
これは感受期と呼ばれるシナプス増加のピークが聴覚野ではおおよそ3歳か4歳で最大を迎え
その後はシナプスの量そのものが減少していくためである 脳の領域ごとに設定される感受期が認知の適応の限界を決める事となる
感受期を終えた脳の領域はその後は神経可塑性の能力を減少させつつ構築されたニューロンのネットワークが細胞外マトリックスに覆われる事で認識能力を固定されていく
高次認知機能を司る前頭前野では感受期のピークが5歳から10歳に訪れる
これは感覚野の信号が前頭野に流れ込むため、まずは低次の感覚野の認識を固定させてから高次機能を固定させていくというメカニズムによるものである
つまり、一般的にはより原始的な機能を司る部位ほど感受期は早く訪れ、そして可塑性を失っていくという事である
これが性格がなかなか変わらない理由である
しかし、扁桃体で生まれた感情は前頭前野を経由して運動皮質へと信号が伝わるため、前頭前野における神経の可塑性を利用する事で知性的に認識を変える事は可能である
考え方を変えるとは、言ってしまえば前頭前野における高次機能に対するニューロンの再編成を限定的に行う行為であるが
年齢を重ねれば重ねるほどそれは困難となっていく
「年寄りは頭が硬い」と言われる理由である
しかし、頭が硬い事はニューロンのネットワークが変化しにくく確固とした認識を維持できるという利点も存在する
確かに自分の認識できない物事に対して拒絶反応を示すのはとても自然な反応であるのだが、それは神経生理学的に言えば「前頭前野での可塑性が確実に失われている」という事を意味しており、この可塑性は減少の一途を辿る事を忘れてはいけない
もしも、自分と対立したり認識できない意見に対して一定の配慮や理解を示そうと努力できたりしたりできる場合はその人は非常に幸運である
何故ならそれは前頭前野における高次認識のネットワークの可能性である可塑性の能力を幾分か残している事をはっきり示しているからである
他人の意見を受け入れられない裏には神経生理学的なニューロンの軸索と樹状突起の成長力が失われている事を覚えておきたい、つまり、頭の柔軟性が無くなるという言葉はその言葉以上に脳の今後の成長力が失われている事を意味するのだ 理解力の限界、認知能力の限界について述べようと思う
これはつまり「努力すれば報われる」といった美徳とはかけ離れたものとなる
認識できない事を努力して認識できるようになるには、その分だけ脳のニューロンの軸索を伸ばして新たなシナプスを獲得していく必要がある
しかし、最盛期であれば数ミリも伸びるニューロンの軸索も年齢とともに可塑性を失い伸びて行かなくなる
では、「理解できる人」と「理解できない人」の違いが生まれるのが何故なのだろうか
これはつまり、感受期を迎える時期にどれだけそれと関わるニューロンの構築ができているかに影響する
これは例えれば
感受期の間に北海道から四国地方まで線路をつなげていれば、神経の可塑性が減ってからでもなんとか九州には歩いていける
というようなもので、逆に
感受期の間に北海道から東北地方までしか線路がつながっていなければ、神経の可塑性が減った後では歩いて九州まで行く事は到底現実的ではない
と言うようなものだ ニューロンのシナプスの結合は実質的に距離的な制限の壁があるのだ
必要な時期にその認知能力に近いものを手に入れてないと、大人となってからは認知すること自体が無理なことがある
これは、考えを理解できない人に説明しても神経生理学的な時間と空間の制約によって事実上不可能であるという事を意味する
これはとても深刻な事である、なぜなら例えどんなに論理的に整合性の取れた事を言おうとその内容が高次であればあるほど理解できる人は減っていき、それを理解できない人はその整合性の検証さえできないからだ
これは説得の無意味さにもつながる
論理的整合性の関わる話とは違い、日常会話では抽象的な感情に紐付いた会話が多く行われる
この際の行き違いは
北海道から東北地方まで線路が伸びてる人と
九州から中国地方まで線路が伸びてる人と
お互い歩いて出会うようにする
というようなものだ
つまり、組織学的なニューロンの結合に必要な距離に制約が起きているのだ
一方で、ニューロンは本来の機能と違う事に転用が可能である
これはつまり、優れたニューロンの結合を持つ部位を使って新たに別の用途に利用する事ができるという意味だ
例えば、前頭前野における倫理的推論が優れているなら人の感情を推論的に認知する事でコミュニケーションに活かせたりする
しかしながら、相手側から見た場合には相手の認知能力の限界があるため神経生理学的な可塑性の限界により相手が内容を理解する事が現実的には不可能な事もあるため、どんなに正しい事だったとしても「説明」や説得」や「説教」は無意味である可能性もあるのだ 「人は変われるか?」という事について述べようと思う
これを神経生理学的、解剖学的な部分から見ていこう
変わるとはつまり、脳のシナプスの結合の変化を表す
言ってしまえば
神経の可塑性が高く、シナプスの結合を変化させられれば変わるし
神経の可塑性が低く、シナプスの結合を変化させられなければ変わらないという事だ
残念ながら、「変わりたい」と思う事と「実際に変われるかどうか」は別問題なのだ
ニューロンは有限であり、無限に能力を様々に伸ばす事は不可能である
分かりやすいのが「顔の認識」と「識字能力」と「数学の能力」は拮抗するという事である
これらは視覚野において競合的に位置を奪い合う事となる
視覚野において顔の認識を司る領野が識字能力の発達とともに左半球から締め出されて、右半球へと移っていく
一方で、数学的能力の発達とともに両側で顔の認識を司る部位は数学用に使用されて、両半球において顔認識の反応が薄れていく
乱暴な言い方をすれば
識字能力は高くとも右半球で強化された顔認識によって人の顔への反応は弱まらないが
数学的能力の発達の場合には両半球での顔認識反応の減弱により人の顔にうまく反応しない可能性があるのだ ここで言えることは、感受期のシナプスの増加の際には能力の発達が拮抗して
可塑性が低くなった後には発達段階で獲得した能力や認識の延長線でしか変化できないという事だ
感覚野における感受期は早く、その結果可塑性も早く失っていくが、一方で最も高次の前頭前野においては脳の中で可塑性が長く続くが、それも年齢とともに減少していく
つまり、「変わりたい」と思った時にそれが感覚野や感情を基盤とした事柄の場合は根本的に変わる事はかなり難しいという事だ
「怒りっぽい性格を直したい」「悪癖を直したい」「人に反発する性格を直したい」
といったいった場合には、感覚野レベル、つまりいわゆる「性格」レベルで直すことは残念ながらあまり現実的ではないのだ
一方で、多くの社会生活において行動は前頭前野を経由するので
例え低次機能で変えられなくとも、高次機能的にはある程度は変える事ができる
言ってしまえば「知性を磨く」事くらいしか大人となっては能力を伸ばす余裕がほとんどないのだ
もしくは、自分が既に持っている「才能」というニューロンの結合を転用して「別の何かに活かすか」
例えば、
音楽的センスがあるのであれば人の声色から相手の意図を聞き取る能力を開花させる事も出来るかもしれないし
数学的センスがあるのであれば、相手の表情の変化から統計的に意図を推論する能力を開花させる事ができるかもしれない
しかし、今の自分とあまりにかけ離れた変化を求めた場合にはそれは神経生理学的な空間的時間的制約に阻まれて現実的ではなくなってしまうかもしれないのだ ということはあなたはアイドルの顔がよく区別できないタイプですね 他人への情報のすり込みについて考えてみよう
これは特定の相手に対して「どのようなイメージを持たせるか」という意図的な行為である
認知とは情報の学習であるため、言い換えれば「どのように相手に学習させるか」を考える事となる
学習には古典的には「条件づけ」や「連合論」があり、条件づけのひとつで有名なのがパブロフの犬だ
ベルを鳴らして犬がヨダレを垂らす有名な実験だ
連合論は、関連づけられたものが同時に学習をもたらすというものだが
どちらも古典的なものである
実際に条件づけや連合論は機能する場面が多くあるが、そのために必要な要素を説明できていない点に注意しないといけない
例えば、「上司に自分に対する好感を植え付ける」という事を目標とした時に
複合的相互的内包の作用に従って「上司が好きなもの」、例えば上司がゴルフを好きならばゴルフをやり始めて上司に認識してもらえばいいと考えるかもしれない
しかし、これがうまくいくために必要な要素が何であるか理解してないと失敗に終わるかもしれない
例えば、入社した時からすでにあなたがゴルフをやっている事を上司が知っていたとしよう
そこで上司に「○○部長もご存知なように私はゴルフをやっているんです」
と伝えると何か変わるだろうか?
部長からは「ああ、知ってるよ」と言われて複合的相互的内包による
部長→ゴルフが好き
部下→ゴルフをやる
の際にゴルフを介在とした連合が起きない 複合的相互的内包が正しいならゴルフが好きなんだから、ゴルフをやる部下を好きにならないとおかしくないではないか
しかしながら、当然そんな簡単に進まない
なぜなら複合的相互的内包が発生するための必要条件を満たしてないからだ
認知という学習における必須の要素に「予測誤差」、つまり「意外性」が必要なのだ
では、この場合はどうだろう
部長はあなたの事を特に何とも思っていない
そこであなたは部長に言う
「実は学生の頃からゴルフをやっていて好きで時々やりに行っているんです」
そして部長は返す
「え!?ゴルフ好きなの?知らなかったな」
というやり取りである
この際には
ゴルフ→好き
部下→ゴルフをやる→好き
の複合的相互的内包が発生する
つまり学習の際には、「予測誤差」、意外性がないと新たに学習がされないのだ
部長が予測できる事は学習されないのだ
予測→比較→誤差確認
予測信号→感覚信号→予測誤差
これらがあって初めてシナプスの結合による学習、つまり認知が出来上がるのだ
相手が予測できない事を使う事で「効果的な情報のすり込み」ができる
もしも上司があなたがゴマをすろうとしてると気がついてる時に
「私もゴルフをやるんですよ」
と言ったところで、ゴマをするためにそう言っているんだろうという予測を上司が立ててしまうとそれは何の意味もない
相手が予測できない「好ましい意外性」を使って情報のすり込みを行う事が大切なのだ 情報の取捨選択について述べようと思う
ネットも含めて様々な情報が存在するが、情報は触れた瞬間から真実味を増していく
それが真実だろうと嘘だろうと頭の中で認識された瞬間から真実の色が濃くなっていく
嘘も100回言えば本当になる、と言うように情報は触れれば触れるほど認識が強化されていくのだ
そういった情報の取捨選択の判断ができるとより正しい方向性で生きていける可能性がある
特に科学的な情報の取捨選択について述べようと思う
科学といえばその成果が論文として出されて、それをもとにニュースにもなったりするがどれくらい信用できるのか、という事はなかなか分からないと思う
論文が掲載される学術雑誌にはIF(インパクトファクター)という数字がついており、これはその学術誌の影響力を表す
大まかに雰囲気で言えば
10以上あれば一流雑誌であろうし
20位上なら超一流雑誌
30位上なら研究者は人生の中で一度は掲載したい夢のような雑誌
といったいった感じだ では、この数字が高い雑誌に載っていれば正しい情報かというとそういうわけではない
インパクトファクターが1だろうが0.5だろうが正しい論文は正しい
では、この数字は何の意味があるかというと
新規性と独創性に溢れてメカニズムまで深く触れているインパクトのある論文
が掲載されているという事だ
つまり、一言で言えば「意外性のある面白い情報が具体的に説明されている」という事だ
正しい正しくないをIFで保証しているわけではないのだ
さらに、意外性があって正しい論文でもIFが10以上の雑誌に掲載されない事もある
それは、現象の羅列だけを行いメカニズムを解明してない場合だ
情報としては「AだからBになりました」というだけで一般的には十分なのだが
学術雑誌では、「何故AだからBになるのかの説明と証明」があるかないかで掲載できる雑誌がガラリと変わってしまう
そのため、有名な学術誌に掲載されている論文を読んだだけではなかなか科学的に十分な情報を得られないのである
さらに、Research paperと呼ばれる研究論文は分野が絞られすぎていて情報としては使いにくい場合がある
そのため、様々な報告をまとめたReviewという形態の報告を読むと科学的な情報の取得として便利な事がある
Reviewでは複数の研究論文を統計的に解析して正しさの程度を確認しているものもあるのでそういった報告を読むとより真実味のある情報が手に入るが
情報は確実性が増せば増すほど既知であったり新規性の薄れた情報となっていく
そのため、科学的な情報の取捨選択としては実際には満遍なくResearch paperもReviewも読み、インパクトファクターに囚われすぎずに読む事も大切となる
他にも個々の論文の引用された回数を確認して参考にするのも良いが、被引用数が多ければ正しいというわけではない事にも注意が必要となる
しかしながら、被引用数が多いという事はそれだけ注目を集める報告という事でもあるので正しい正しくないの先入観を持たずにそういった論文を読んで科学的な情報の取得に役立てる事も有意義である 「飽きる」という事について述べてみようと思う
「前はあんなに楽しかったのにもう楽しくない」
「好きでやっていた趣味にもう興味が持てない」
といった意欲の減退は仕事の面でも重要だ
繰り返し行われる事は認知における興味という集中力を減退させる
これは
予測信号ー感覚信号ー予測誤差
のフィードバックによる学習と外側線条体における手続き記憶の確立によって起きる
一言で言えば、「その事柄は自明であり学ぶために注意を向ける必要がない」という事だ
興味がわかない場合に「諦め」もあるが、これも学習の結果による
自分には無理だ、無意味だという「諦め」を学習したのだ
自分が予測をたてられ、さらに実際の結果と予測の間の予測誤差があるほどベイズ推定の精度を上げるために興味という注意力が向けられる
しかし、意識的な注意力にはボトルネックが存在する
それは、同時に2つのことを意識して集中する事は出来ないという事だ
人は意識的にマルチタスクをする事は出来ない
PCの接続で言えば人の集中はパラレルATAではなくシリアルATAなのだ そのために、ベイズ推定の精度が上がる予測精度の高い物事に対しては意識的な集中力をもはや振り分ける事なく
その作業はシステム1における外側線条体での手続き記憶にとって代わられる
わかりやすい例が、もう何年も同じ道を車で運転している移動のようなものだ
それはすでに意識の範疇を超えて無意識的な自動運転に近いものがある
このように、「慣れ」によって注意力を向けなくなるのは学習によるごく自然な反応なのだ
これはドーパミンといった報酬系でさえ予測が自明であれば反応しなくなる
どんなに美味しいステーキでも365日3食食べ続ければもう何の感動もないだろう
では、慣れてしまった物事に注意力を向けるにはどうしたらいいか
1つは努力的に前頭前野の認知活動を利用して意識的に集中する事だ
しかしこれには努力が必要なため、言ってみれば試験勉強のために集中して本を読む、といった事と同様の労力がかかる
2つ目はしばらくその物事に触れずにヘブ則による長期抑制を目指す方法だ
これを行う場合には短期間で繰り返し刺激が加わると強化がされるという事も忘れてはいけない
つまり、適度に間隔を開けながら行う方が興味は持続するというわけだ
しかし、2つ目の方法でも必ず「飽き」はくる
なぜかと言うと学習においては間隔を開けながら繰り返し予測誤差が認識されると長期の記憶として強化されるためだ
さらに、記憶を最も効率よく強化する間隔は
一定期間ごとに予測誤差を得る方法ではなく(例えば3週間間隔
最初は短い間隔で予測誤差を得て、時間の経過とともに間隔を伸ばしていく場合だ(例えば最初は1週間、次に2週間、その後に3週間
つまり、必ず「興味」の減退は起きるのだが、同一期間内、例えば1年後の興味の強さで言えば1年間の間に同じ回数それを繰り返し行った場合には、最初は多く後は少なく行った場合よりも、最初から一定間隔で行った方が「興味」の減退は少なくなるのだ
これは他人への関心や学習などありとあらゆる事に関連する、興味がなくなるとは学習を終えて自分のシステム1に取り込んだという言い方もできる 途中飛ばし読みしてしまったので既に書かれていたら案内頂きたいのですが、
自己受容の進み具合と気分の良さの関係なども学術的な話があれば聞きたいです 自己受容の際にキーワードとなるのは「フェルトセンス」「自己一致」「自他の区別」など様々な項目があるが
多くあるキーワードの中でも「気分良く生きる」という意味では「自己効力感」が強く影響するのではないだろうか
つまり、「自分にはできる」という自信だ
自己効力感を育てる上では、通常は他人から肯定的ストロークを与えられると共に、実際に成功する体験を積み上げる必要がある
実際に成功するためには多くの失敗も積み上げないといけないので
その失敗に直面した時に他者から適切なフィードバックを受ける事で誤差が修正されて成功へと近づく事となる
他人から「是認」を含む肯定的ストロークを受けて、心理学で言うところのエンパワーメントを得られる事で
自己効力感を手に入れていく事となるのだが、
一方で失敗に対して自省を行いフィードバックを受け入れないと「自己効力感」はおかしな方向に行ってしまう
つまり、根拠のない自信と揶揄されるようなものだ
「自己効力感」があれば自分のあらゆる行動を受け入れられる可能性が高まるが、自省やフィードバックの伴わないものは現実的に不利な状況をもたらす可能性がある 自信はあるけど失敗ばかりして反省しない人がどのように扱われるかを考えると分かりやすいかもしれない
手っ取り早く成功体験を積み上げて「自己効力感」をあげる方法は
自分ができると思う事の少しだけ上の事をやってみる事だ
では、自分ができると思う事をやって成功体験を積み上げるのがどうだろう?
シナプスの可塑性は予測と結果の誤差によって影響される事を思い出して欲しい
つまり、自分ができると予測してる事が実際にできてもそれは脳のネットワークにとっては当然の事なのだ
つまり、何も変わらない
そのために、予測誤差が生まれる上に実際にうまくいきやすい項目を探した場合には
「自分ができると予測できる事の少しだけ上の事をやる」というのが効率が良いのだ
自分が実際にできるかできないか分からないという予測と
実際にできたという誤差が生まれる事で
内部の認知的には「自分にはできる」という自己効力感を生み出す方向にシナプスの可塑性が変化していく事となる
人は困難な物事に対して「自分にはなんとかできる」という自己効力感があるだけでそれに対するストレスが大きく変化するのだ 「興味を失う事と学習」の関連について少し詳しく述べようと思う
特定の物事を繰り返し行い学習すること事で「飽き」とも呼べるニューロンの反応の低下が起きてくる
学習によっては線条体での自動的な手続き記憶が獲得されて無意識的な行動へと変わっていく
行動経済学ではシステム1と呼ばれる種類のもので
自動的で努力を必要としない行動だ
練習を重ねてうまく楽器が弾けるようになったり
認知的にはプロの棋士が反射的に駒を動かせたり
慣れた道を運転するのなどがその典型だ
学習においては短期間で繰り返しニューロンの発火を行う事でシナプスの結合が強化されていく
繰り返しの刺激でも最初は短い間隔で、後になるほど間隔をあける事で効率よく学習が行われる
例えば1ヶ月間に8回訓練を行うとすると
3〜4日間隔で計8回で1ヶ月練習するよりも
1日目、2日目、4日目、7日目、11日目、16日目、22日目、29日目
と最初に集中して、後になるほど間隔をあける方が長期の記憶として強化される
学習の場合はこのような方式で長期の記憶を獲得できるのだが、趣味でこれをやってしまうと効率よくシナプスの強化がされて段々と興味を失っていく
面白いゲームなどでも最初の数日に寝食を忘れて没頭しても終わりの方では飽きてくるといった事があるのはこのシナプスの効率的な強化が影響をしている
そのために、趣味の場合には
1日目、2日目、4日目、7日目、11日目、16日目、22日目、29日目
と1ヶ月取り組むよりも
3〜4日間隔で1ヶ月取り組む方が飽きが起きにくいのだ しかしながら、一般的には興味に惹かれて最初に集中的に行ってしまう
「鉄は熱いうちに打て」というように学習のためであれば最初に集中するのが良い
さらに見逃されがちなのが「睡眠」だ
睡眠中には記憶が強化されるので(睡眠中のリプレイによるものや細胞間室の拡大による老廃物排除など様々に理由が言われる
寝る前に行った事は効率よく記憶が強化されていく
これはエビングハウスの忘却曲線において睡眠前後で変化が見られる事から昔から知られていた事だ
睡眠直前の記憶は睡眠中に強化される
これを考慮に入れると学習においては睡眠前に行うのが効率的となるが
「趣味」という事柄においては効率的に学習が引き起こされる事となり、結果的には身につける事でより早く「飽きる」事となる
そのために、趣味においては
初期に集中してやり過ぎない
ヘブ則の長期抑制を利用するために間隔をあける
睡眠前に行わない
といった事で「飽き」るのを遅らせる事ができる
これは人間関係においても同じで
適度に距離と強度を保って就寝前に深入りし過ぎない事によってより長くその相手に興味を持ち続けられるようになるかもしれないのだ >>236,237
改めて問うと、自己効力感と気分の良さの関係を学術的に記述することは出来ますか? >>240
心理学的、解剖学的、組織学的、生理学的、分子生物学的のどのレベルでの学術でしょうか
心理学的なら疫学レベルの話題になりますし
分子生物学的なら表現形レベルの話になります
例えば心理学的でもいいならエンパワメントによって正の強化が促進されるという内容で話せますし
分子生物学的ならチャネルロドプシンを用いたオプトジェネティクスのin vivoの話題になります 学術的な記述の必要性についてあらかじめ述べておこうと思う
>>218-221
および
>>210
で述べているように、研究対象とするわけでないのであれば必ずしも科学的な説明が必要だとは個人的には思わない
メカニズムの解明は確かに因果を解明し得るが
学術的な結果が因果を解明するとは限らないからだ
例えば
Aという遺伝子を欠損させたマウスを使ったらBという現象が確認されました
ヒトの細胞を利用してAの遺伝子発現を阻害したらCという表現形の変化が確認されました
A遺伝子を欠損させたヒトの細胞に対してA遺伝子を相補したらCという表現形が確認できなくなりました
マウスに対してAがコードするタンパク質Dを相補したらBという現象が確認できなくなりました
A欠損マウスでは表現形Cが確認でき、タンパク質Dの相補により現象Bが確認できなくなりました
in vivoおよびin vitroの結果より
遺伝子Aはタンパク質Dを発現させる事で表現形Cを示しBとなる事が示唆された
というような説明が学術的にはなされるのだが
果たしてこれを一般的に理解する事にどんな意味があるのだろうか
何故なら学術的な記述には過誤が必ずつきまとうからだ
特に厄介なのが交絡因子だ
これは、学術的な結果は正しいが因果関係がないというものの代表だ
学術的な説明とは答えに向かうためのヒントの1つであり
必ずしも答えを示すものではない
そういった意味で学術的な記述に固執する必要はないと思う
何故ならそれは手段の1つに過ぎないからだ
そして、これを言ってしまうのは元も子もないかもしれないが学術はそんなに万能でない
ここにずっと書いている事は唯一の答えではなくヒントの1つに過ぎないという事を忘れないで欲しいと思う ||=・= ii=・=||俺は気分を害した、おまひらに決闘を申し込もう‥
|( ノしヽ )|
g| i-=-i |g >>241
生理学?解剖学?
生物として脳や体の中でどのように
自己効力感(というか自己受容)が気分の良さに繋がっているか聞きたいです。
メカニズムが知りたい >>244
特に領域の指定がないという事で組み合わせて書こうと思います
自己を受容する、自己を自己として知覚するという事と統合失調症の関わり
複数の疾患と脳の機能不全と社会適合性の低下あたりの例を出して自己を自己として認知できなくなった際の不都合など
今日はもう寝るので後日に >>245
うーん、具体的に書くと正しいリクエストになるか自信かったから書かなかったんだけど
ホルモンや脳神経の働きなどについて聞きたかったです
自己受容も細かく定義しないといけないなら、「自分の凄いところもダメなところも受け入れること」ではダメでしょうか 「自己受容と気分の良さ」というのは非常に大型のトピックなので少し分解して述べていこうと思う
まず、「受容」から述べていこう
これはカールロジャーズの「無条件の肯定的配慮」に対応する
言ってみれば、善悪の判断なしにありのままを受け入れる、という事だ
自己受容に関して言えば
>自分の凄いところもダメなところも受け入れる
という方向性が合致するだろう
「受容」は物事の判断なしにありのままを受け入れるという事を意味し
そこには良いも悪いも凄いも凄くないも存在しない
「その事象そのものを受け取る」という「態度」だ
しかしながら、受容は程度問題であって「完全な受容」は理論的にしか存在しない
この辺りは解剖学的には、感覚野、扁桃体、前頭前野といったそれぞれの結びつきの上では仕方のない事だ
「受容」について書き出すと本が一冊書けるので
「受容とは価値判断なしにありのままを受け入れる態度であり、それは程度の問題となる、そして完全なる受容は理論的にしか存在し得ない」
とまとめておこうと思う
「自己受容」に関しては「自己を葛藤なくありのままに認知する態度」とまとめておこう では、「自己受容」に関して必要な要素を考えてみよう
まずは、自己を認知する事だ
何故なら「自己受容」は他人への「受容」の態度ではないからだ
何を当たり前の事をと言ってしまってはいけない
何故なら自己を自己として認知できない疾患も存在するからだ
自己感の損失である自己監視障害が存在する
自分が自分でないと感じるものだ
コタール症候群、カプグラ症候群という病気が存在する
自己が世界から切り離され自己を自己と、他者を他者と認知できなくなる疾患だ
これらは解剖学的には側頭頭頂接合部の損傷で起きると言われる事もあれば統合失調症に伴う事もある
神経生理学的には知覚と感情の接続不良、つまり感覚系と辺縁系の断絶に関連すると思われる
つまり、上で述べたように
感覚野と扁桃体と高次処理の前頭前野が解剖学的、神経生理学的、電気生理学的に障害があれば「自己受容」、つまり「自己を自己として認知」する事に問題が出る事となる では、「自己受容」が行われた場合を考えてみよう
自己を自己として抵抗なく受け入れる事が出来るとは
心理学的には「認知的不協和」がない状態
神経生理学的には「予測誤差」がない状態
と言える
これは学習を必要としない、つまり線条体への格納へとつながる
これは「自己受容」という行動(態度)が意思決定における依存や快楽への格納へと繋がる可能性を意味する
「自己受容」が必ずしも気分が良くなる(快楽)というものに直結するとは思わないが
葛藤なく自己を自己として認識するという行為においては停止・逃走・闘争へと繋がる予測誤差の発生を減らす事でそれが行動経済学におけるシステム1、解剖学的には線条体への収納される事で「意思」というくくりでは快楽に繋がるのかもしれない
申し訳ありませんが、「自己受容」における気分の良さという内容に関してはこの辺りまでしか考察できません >>249
ありがとうございます
>葛藤なく自己を自己として認識するという行為においては停止・逃走・闘争へと繋がる予測誤差の発生を減らす事でそれが行動経済学におけるシステム1、解剖学的には線条体への収納される事で「意思」というくくりでは快楽に繋がるのかもしれない
ここの特に
>収納される事で「意思」というくくりでは快楽に繋がるのかもしれない
が分からなかったので教えて頂けると嬉しいです >>250
線条体は報酬の予測を行なっていると言われていますので「自己受容」が手続記憶として線条体で行われるようになればそれ自体が報酬の予測(快楽)に繋がるかもしれないという事です
一方で線条体の刺激により罰を予測して抑うつ傾向が増えるという話が出る事もありこれらは一見すると矛盾しているように見えます
「自己受容」を極端にすすめれば、自分のどのような反社会的な行動でも受け入れるとなりますし
逆の方向に進めば、自分のどのような行動も受け入れられない、それどころか自己を自己と認識さえできなくなる
となります
そのため当然ながら、「自己受容」=「気分良く生きる」とは単純にならないわけです
通常の基礎医学では、組織学的もしくは解剖学的な観察からメカニズムを予想できますが、脳の領域に至っては組織学的な区別が途上ですので追試をするのでもなければメカニズムに執着する意味もあまりありませんので「〜の可能性がある」程度の認識しか私自身ありません 例えば
皮膚と粘膜であれば結合組織とは基底細胞を境に区別され、脱核の有無によって角化(錯角化)するのかしないのかで明確に区別され
細胞は分化の程度によって細胞特性を判断されますが、脳に至ってはその本質が電気生理学的な特性によってもたらされているため他の臓器で用いるような組織学的、病理学的観察が困難になります
凍結標本やPFA固定といった組織学的観察は電気生理学的特性に必要とされる経時的観察には不向きですし
蛍光顕微鏡などを利用した細胞の経時的観察においても生体内のニューロンの活動を観察する上では不向きです
標薄切片化した脳をパッチクランプでより生体に近い形で観察する方法もあるようですが、「脳」の領域においては脳の損傷と疾患の発生といった疫学的な観察以外は今現在ではメカニズムよりも臨床的なものを重視した方がいいように思います
メカニズムは視点を変えて見る分にはいいとおもいますが、神経伝達物質、神経修飾物質のメカニズムありきでトップダウン式に心の活動を知るのは基礎医学の現状ではかなりミクロな領域に限定されると思います
つまり、シナプスの結合の話をする分には分子生物学、生理学、組織学は良いと思いますが
「自己受容」という大きなくくりになると疫学的な情報と解剖学的、生理学的にわかる情報を繋げていく必要があるので、メカニズムを説明し解明となってしまうとCNSで報告できるレベルではないでしょうか
「自己受容」と「気分良く生きる」という大きなくくりであれば、ミクロなメカニズムの説明は大してできないように思えます
実際のところ私自身は他者への「受容」には興味がありますが「自己受容」にはあまり興味がありませんのでその辺りは精神医学の方面の方か文献を当られた方がいいかもしれません >>251,251
丁寧にありがとうございました
お付き合いいただきありがとうございます >>253
どういたしまして
私としても「自己受容」とそれに付随する「自己効力感」や「自己一致」の方面の理解が弱い事が認識できたので勉強になりました
ありがとうございます キチガイ教祖とアホ信者の関係性ってこんな感じなのかな 歳をとるとRPGができなくなるという記事を見たがこの事柄について考えてみようと思う
これは、マズローの欲求5段解説や社会適合性、予測誤差、感受期、自己効力感、ミラーニューロンなど様々な領域に渡るクロスフィールドの要素で説明可能だと思われる
記事では
「シナリオの予想がつく」
「結婚してやる時間がない」
「根気が続かない」
などいかにもありそうな理由が書いてあったが、では「プレイ動画を見る」という行為はどうだろう
自分ではRPGをできなくても、プレイ動画を見たり内容の要約を見たりする場合はあるのではないだろうか
つまり、やる興味はないが、知る興味ならある
となる
この部分にはミラーニューロンと予測誤差が関係している可能性がある
マズローの欲求5段階説から考えると
集団欲求、自己承認欲求から外れて欲求の段階が上がる事で興味が示しにくくなったと言えるかもしれない
時間的制約や優先順位の変化による社会適合性の変化で興味を失った可能性もある
では、「シナリオの予想がつく」というのはどうだろうか?
自由エネルギー原理の予測誤差から言えば学習が進み予測誤差が減る事で興味を失ったという事は言えそうだが、その場合には「プレイ動画」を視聴する事にも興味が出ないのではないだろうか
「プレイ動画」を見ている際にはミラーニューロンによって自分で体験しているように認識している可能性があるが、その事に興味を示すという事は予測誤差を埋めている事を意味する
つまり、自分でプレイする場合には
予測信号を出せないか予測誤差を出せない可能性があるのだ
これは「シナリオの予想がつく」というのとは矛盾するように思える
「予測信号を出せない」というよりもむしろ欲求の変化によって「予測信号を出す行為を必要としない」という変化によるものかもしれない
そう考えると、欲求の変化や社会的環境の変化による影響が強いように思われる 「生きる目的」について述べてみようと思う
誰でも一度は考えた事がありそうな「生きる意味」や「生きる目的」だが
生きる意味なんてそもそも存在しない、とか
そういう事を考えるのは今現在に満足してないからだ、とか
いつか死ぬのに生きる意味はあるのか、とか
色々な事が言われているが当然ながら「これ」といった結論は出ていない
哲学的には「生きる目的」は考える事ができそうだが
それを知らないと生きる事ができないうわけではない事は野生動物を見れば当然分かる
では、「生きる目的」なんていうものは存在しないのだろうか
生物の行動が
推測(予想信号)→結果(感覚信号)→予測と結果の差のフィードバック(予測誤差の修正)
という流れの繰り返しである可能性を考えてみると
生きて何かしらの活動をする事は、将来的に行う推測の精度を上げるための活動という事ができる
つまり、今現在の活動は将来的な活動の際の予測精度を上げるための行為であり
その流れを繰り返す事で外界に対する予測精度を常に向上させ続けようとする結果が生まれる
外界に対する予測精度の向上とはつまり、生存確率の向上である
「この森を進むと安全か危険か」といった推測はその精度によって大きく生存確率が左右される
例えば予測精度50%で安全と推測する場合と、予測精度90%で安全と推測する場合とでは当然ながら結果となる「生存」に影響が出る
この推測精度の向上を外界に対して上げるつづける事で将来的な生存確率が上がる事となる
これは、今現在生きて活動をする事が推測精度に変化をもたらし将来的な生存確率に影響する事を意味する
そういう意味で、「(今現在を)生きる目的」は「この瞬間より将来の生存確率を上昇させる事」という事になる しかしここで注意しなければいけないのは
「生存確率を上げる事」が目的なのであって
「生存する事」が目的なのではない
それはなぜか、
「生存する事」というのは結果であってコントロールができないからだ
一方で確率を変動させる事は可能である
危機感を失えば生存確率は下がり、危機感を覚えれば生存確率は上がる
生存確率の上昇という行為は生きている限り常にできる
例えば余命3ヶ月と宣告された場合でも、当然ながら行動の選択によって3ヶ月目の生存確率が変動する
一方で、「生きる事」が目的となった場合には人は必ず死ぬのだから目的として達成できなくなってしまう
生存確率を0.1%から0.2%に上げる事は死ぬ直前でもできるのだ、つまり生きて活動している限り達成する事ができる
しかしながら、確率的である限りいつかは「死」という確率を必ず引くこととなる
だが、生きて活動する限り生存確率を変動させる事は可能なので
「生きる目的とは何か?」と聞かれれば
「明日以降生きている確率を変動させて上昇させる事」と答える事ができる
その意味では、行動の指針として生存確率を上げる可能性のある行動を積極的に取る事が生きている目的に合致すると言える
例えば、家族を構成して不測の事態に対応できるようにするという事もあるかもしれないし
収入を上げる、というのも非常に単純で効果的な生存確率上昇の手段となる 特に収入を上げるというのは数多くあるコントロール不可能な要素の中でもコントロールが比較的可能な部類に入る
例えば、台風をそらしたり、病気にならない、といった事よりもよほど現実的である
実際には収入の増加を無理だといって諦めている人は多くいるが、収入の増加は明らかにコントロール可能なものに分類される
「生きる目的」が「生存確率を上げる事」と考えた場合には、手っ取り早く生存確率を上げるために現在の収入を増加させる手段を真剣に考えて実行する事が現実的な手段のひとつとなるだろう
どの階層の収入を目指すのかは人によるだろうが、厚生労働省が賃金構造基本統計調査で年齢性別で賃金の階層を報告しているので参考にすると良いかもしれない
報告では年収1200万以上は標準偏差から外れすぎていてひとくくりにされているため、大雑把に言っても年収1200万以上あれば「生存確率を上げる」という目的では恐らく達成されるだろう
下世話なような話ではあるが、認知的にも実質的にも現在の収入を上げるという行為は「生きる」という行為の方向性に合致するので少しずつでも収入の増大を目指すよう行動する事は非常に好ましい活動であると言える 「共感」よりも「共感的理解」を使う方がなぜ好ましいかについて述べようと思う
「共感的理解」とはカウンセリングにおける来談者中心療法の生みの親であるカールロジャーズが示した事で有名だが、非常に有用な態度(技術)なので様々なカウンセリング手法で使用される
相手の感情に波長を合わせる「共感」を行うのは日常生活でも大切な事と言われるが
日常生活においては「共感的理解」という概念はほとんど使用されていない
それは、「共感的理解」が技術的に学習によって身につけるものであり、一般的な日常的な態度としては不自然な所作だからだ
「共感的理解」は、「共感」の態度によって得られるメリットを含むとともに「共感」の態度が持つ問題点を解消する事を目的にその概念が発展した
「共感」は学問的には情動的共感、「共感的理解」は認知的共感とも呼ばれる
その言葉が示すように「共感」は感情である、「共感的理解」は知的な認知活動なのだ
文章構造にも大きな違いがありざっくり説明すると
「共感」の主語は、「私」もしくは「私とあなた」
なのに対して
「共感的理解」の主語は、「あなた」
となる この、「あなた」を主語にして感情を扱う文脈構造が本能的に使う場合には不自然なのだ
本能的には、感情を扱う場合には「私」が使われる
つまり、感情に対して「私」の意見を述べるのが普通の発言なのだ
音声は相手に自分の所持する情報を伝えるのが本来の役目なので「私」が含まれる感情の情報が伝えられるのが自然なのだ
一方で、「あなた」の感情を含む言葉による情報伝達は「私」から発信するのは明らかに不自然である
何故なら、それは自分の情報を発信するのが目的の発話という行動に矛盾しているからだ
そういう意味で、「あなた」を主語とする、知的な認知活動によって行われる「共感的理解」は学習と訓練によってしか通常は身につかないのだ
相手が上司から怒られて腹を立てている場面を例にあげよう
「共感」では
「部長腹たつね、あんな言い方しなくてもいいのに」
(私とあなたは)部長腹たつね(と思ってる)、(私は)あんな言い方しなくてもいいのに(と思っている)
となる
一方で、「共感的理解」では
「部長に腹を立ててるんだね、もっと違う言い方をして欲しかったんだね」
(あなたは)部長に腹を立ててるんだね、(あなたは)もっと違う言い方をして欲しかった(と思ってるん)だね
となる
明らかに「共感」の方が言いやすいし楽である、一方で「共感的理解」は言いにくいし話していてまどろっこしい
これが、「共感的理解」を使うためには学習と訓練と慣れが必要という事である
「共感的理解」は相手の感情を推測して相手を主語にした相手中心の文脈構造を取るので、私の意見を述べる単純さとは段違いの複雑さなのである では、何故ここまでして「共感的理解」という技術を利用しているのかというと
「私」の「意見、気持ち」と、「あなた」の「意見、気持ち」を分離するためである
これは自分の「認知」を共感の過程で守るためにも使われる
例えば、和食が好きな人と、中華料理が好きな人と、フランス料理が好きな人と、生の昆虫を食べるのが好きな人がいたとしよう
この時に全員に「共感」すると
和食美味しいよね
中華料理美味しいよね
フランス料理美味しいよね
昆虫美味しいよね
となる、こんな事を繰り返していたら自分の言動と気持ちが自己不一致となり、心が壊れてしまうかもしれない
ここで「共感的理解」をつかうと
和食が好きなんだね
中華料理が好きなんだね
フランス料理が好きなんだね
昆虫が好きなんだね
(私はトルコ料理が好きだよ)
となる、ここで重要なのが「あなたの感情は理解してますよ」と伝える事である、これは「感情反映」と呼ばれる
一般的にはおうむ返しも感情反映の1つである
つまり、「共感的理解」は不特定多数に対して矛盾なく相手の感情を相手のものとして肯定して、その理解を相手に示す事で波長合わせを行い関係構築をしつつ、自分の感情、意見とは分離して認知的な矛盾や自己不一致を避ける事で自分の認知や心を守るために発達した技術(態度)なのである
しかし、日常会話で「共感的理解」が自然と使われる事はほとんどなく、意識的な学習と訓練によって知的に習得した場合にしか自然と違和感なく使えるようにはならないのである
何故なら、「発話」という行動は自然的には「私」の情報を発信する行為なのであって、「あなた」の情報を発信する事を目的とはしてないのだから
「共感的理解」には感情を反映するだけではなく、他にも相手の能力や可能性を反映する「是認」や、情報を迂回して複合的相互的内包を利用して相手の無意識に対して反映を行う「ベールに包んだ是認」など様々な派生技術も存在する 「共感」の能力について考えてみよう
困ってる人がいると「困っているんだろうな助けてあげよう」とか
悲しんでいる人がいると「悲しいよな」と
相手の気持ちに寄りそって共(に)感(じてあげる)の能力が「共感」の力だが
人の気持ちが分かるかどうかと言われる「共感」の力
具体的に言うなら「情動的共感」の力だが、これは一体どのような活動なのだろう
脳のニューロンにはミラーニューロンと呼ばれる他人の行動や認知を自分の中に鏡のように映し出すように活動を示すニューロンが存在する
これは、他人の行動を見たり、他人の状態を認知したりする時に
あたかも自分自身がその行動をしている、自分自身がその状態にあるかのように活動を示す(発火する)ニューロンである
これは「想像」とも関連があり、想像するとあたかもその想像と同じ事を現実で実際に行動しているかのようにニューロンが活動する
つまり、想像した時に発火するニューロンの部位は
実際にそれを行動した時に発火するニューロンの部位と非常に近似しているのだ ミラーニューロンでは、想像が発端となるのではなく他人の行動や状況を発端として、その行動や状態を自分の立場に置き換えてニューロンが発火する
つまり、「他人が悲しんでいる」のを認識した時
ミラーニューロンによって「自分自身が悲しんでいる」状況としてニューロンが発火するのだ
そして大脳辺縁系の扁桃体によって自分自身がその悲しみを感じたという自分視点から状況を認知する
それが感情的な共感、つまり「情動的共感」なのだ
「共感」の能力は、相手が感じているであろう事を自分も感じるというミラーニューロンによる鏡写しで示されるので
その感じ方が同じであれば相手との波長合わせができて協調を獲得し関係性を構築できる
しかし、「情動的共感」の問題点は、あくまでも「私」が感じた事を相手に示しているという点にある
これが、「情動的共感」では主語が「私」もしくは「私とあなた」になる理由である
つまり、共感で示されるものは厳密にはあくまでも「私の感情」であって「あなたの感情」ではないのだ
これが、誰に対しても共感できるわけではない理由や無理に共感の言葉を示すと苦痛な理由だ
一方で「共感的理解」と呼ばれる認知的共感は全く別の認識工程をたどる
相手が悲しんでいる
↓
相手が悲しんでいる状況を自分の立場に置き換えて認識する(ミラーニューロン)→この段階が「情動的共感」となる
↓
相手の「情動」と自分の「情動的共感」の間に存在する誤差を推測する
↓
誤差から推測される相手の「情動」と自分の「情動的共感」を分離して認識する(これがいわゆる「自他の区別」と呼ばれるもの)
↓
推測される相手の「情動」に対して自分がそれを認識したという事を示す→この段階が「認知的共感」となる
↓
相手からの反応のフィールドバックを受けて推測される相手の「情動」の精度修正が行われる
これが
相手の話を聞く→推測内容に基づいて感情反映をする(共感的理解)→推測内容が正しいか間違っているかのフィールドバックが得られる→推測内容を修正して再度感情反映を行う(修正された共感的理解)
という流れとなる この際に
相手の話を聞く→自分の感情を伝える(情動的共感)→相手から違いを伝えられる
となっても
「情動的共感」はそもそも相手の情動の情報ではないため、「違う」と言われても修正のしようがないのだ
何故ならそもそも「あなた」と「私」を比較しているので違うと言われてもそれは当然だし
「私」を「あなた」に片寄せしようとする場合には自分の認知を変更するのに伴う認知的不協和の抵抗が生まれてしまう
一方で
「認知的共感」は「あなた」と「推測されるあなた」を比較しているため
相手から違うと言われた場合にはそれは「推測の誤差」を示しており推測精度をあげる行為として「フィールドバックを基にした修正された推測されるあなた」がさらに示される事で相手との関係性としての波長合わせを行うのだ
弓矢で的を狙う際に「この位置なら当たる」と思って放ったのに右にそれた場合に「的がおかしい」と思って同じ方向に弓矢を打つ人は少ないだろう
右にそれた場合には「さらに左の方向に狙いを修正すれば当たる」と思って修正するが、これが「認知的共感」で行われる事である
つまり、認知的共感においては「相手の情動」は相手の中にある客観的事実(情報)として認知して、いかにしてその「相手の中にある情動という事実」に狙いを定めていくかを行うのだ
そのため「共感(情動的共感)」と「共感的理解(認知的共感)」は似たような言葉をしているがその目的も処理工程も全くの別物で基本的には学習と訓練によって身につけないと自然と使える事はほぼありえないのだ なるほど
この辺はスレタイの肝の部分ですね
脳神経学を含めてこんなことを考える人ってなかなかいなそうだけど学問分野としてあるんだ
素人にも分かるように書いていてくれて面白い >>266
最近は学問の領域が細分化されて非常に様々な現象が研究対象になっています
例えば、神経と免疫を合わせた神経免疫という学問さえあります
免疫といえば「はたらく細胞」というアニメで免疫の働きが広く知られるきっかけにもなりましたが
通常は循環系から組織への分布によってはたらく免疫作用を神経と組み合わせた学問領域です
小ばなしになりますが、コロナのワクチンの抗原抗体反応などで色々話題になる免疫学ですが、2010年頃をピークに衰退傾向にあります
産業と同じで学問領域もピークと衰退時期があって免疫学に関しては2010年頃に大阪大学医学部のの審良静男先生がノーベル生理医学賞を取れなかったのであの時期が免疫学のピークと言われる事もあります
審良静男先生は一般的には知ってる人は多くないかもしれませんが免疫学でトップ10に入る研究者だと言われていました
ちなみにノーベル生理医学賞をとっていたらToll like receptor関連で受賞すると思われていました、TLRノックアウトマウスを全て所持していたようでそれが世界で勝ち抜いた要因だったようです
その点からも以前書いたように論文の報告数や研究の産業構造でアメリカがリードしているという事はありますが、決して日本人が劣っているわけではないという事が審良静男先生の研究からよく分かります
2010年からは脳神経や思考概念、人工知能のアルゴリズムを含めたいわゆる脳科学が隆盛を迎えておりますので認知に関してもこれからどんどん細分化、研究対象の拡大を迎えてまだまだピークは先になると思います
ちなみにおおよそ100年前にピークを迎えていたであろう学問は微生物学です
野口英世先生ですね、有名な野口英世先生ですが梅毒トレポネーマの培地での発育に成功したと報告してますが、現代においても人に病原性のある梅毒トレポネーマの発育は培地ではなく動物の精巣に植え付ける事でしかできません
このように論文で報告されたものは人知れず結構再現不可能な実験もあるので研究の話や論文を鵜呑みにされないようにされる事が大切だと思います 「共感的理解」に関する注意事項について述べようと思う
「共感(情動的共感)」においても適切に使われるのであれば相手との関係性を構築するのに問題はない
例えば
相手「部長の◯◯なところが気に食わない」
自分「あー分かる!俺もああいうところすごく嫌だ」
と相手の情動と自分の情動が一致していれば、関係構築に関する波長合わせで問題は起きない
よく、「人の気持ちが分かる人になりなさい」と言われるがこれは、共感(情動的共感)を意味しており学習というよりも経験、つまりは自分も相手と同じような立場を経験する事で自分視点の情動として学習をしていきなさいという事だ
一方で、「共感的理解(認知的共感)」は自分が経験するかしないかに関わらず論理的学習と訓練によって習得できる
そして文脈が持つ機能は「共感(情動的共感)」と近似したものを持つ上に、相手からの反応(フィードバック)を受けてさらに相手の情動に寄せる事ができる
こう考えると「共感的理解」はデメリットがないように見えるが、当然デメリットはある
それは、前頭前野の機能する余裕がないと使用できない、という事だ
つまり、「脳のリソース」がないと使用できないという事だ、何故なら「共感的理解」は知的な認知作業であり、いわば数学の計算をするのと似たようなものだからだ
数学でもそうだが、一部の機能は訓練を繰り返す事でシステム1へと落としこまれて自動化するが、複雑な認知作業の伴う数学の証明問題や相手との感情のやり取りの場面においては全てをシステム1で補う事はできない
つまり、どれだけ訓練して慣れたとしても脳のリソースは必要とされると言うことだ
ここで、以前に述べた「脳のリソース」の回復方法が出てくる
以前、「脳のリソース」を普段からの確保する方法と減ったリソースを回復する方法を述べてきたが、これは「共感的理解」を使う際に必要な事となる
頭がカッとなったり、精神的にまいっていたり、緊急事態や心配事で意識が他にとられている場合は「共感的理解(認知的共感)」は使用が難しいのだ
これが「共感的理解」の最大の弱点である しかし、「共感(情動的共感)」においてはそれらの状況は大きく影響しない
カッとなって相手と一緒に怒ったり、精神的にまいっている時に相手と一緒に弱音を吐いたり、緊急事態や心配事で相手と一緒に反応したり
「共感」は扁桃体を使った一人称の情動であり自動的に沸き起こるシステム1という特性上、そのような制約を受けない
言ってみれば、「共感」と「共感的理解」は裏表のような関係性にある
多くの経験をして人の痛みを知り、「共感」の力を磨く事はとても大切な事だ
その一方で、「共感的理解」の目的は不特定多数の相手と矛盾や葛藤なく関係性を構築するという明確な目的がある
そういう意味では、大切な友人を作るのであれば「共感」を使う方が良いだろうと思う、何故なら「共感」であれば「私の気持ち」と「あなたの気持ち」の関わり方になるからだし、その関係は情動と情動の関わりになるからだ
「共感的理解」は追従、ガイド、指示的といった会話手法の中でも明確に追従を示すものなので、誰に使うのか、というのはよく考えて使うと良いかもしれない
それは本質的には、「あなたの気持ち」と「私が知的に理解したあなたの気持ち」の関わりだからだ
しかし、「共感的理解」に加えて「自己開示」と「自己一致」を使う事で、「共感」と近似した機能を持たせる事が可能であるが、そのためには「自己開示」の手法と「自己一致」の認識の習得が必要となる むむむ
ちょっと脱線した小話まで面白い
講演も上手そうだ 「共感的理解」における注意点を「追従的会話」「ガイド的会話」「指示的会話」の例も交えて述べようと思う
「共感的理解」を使用した会話は意識的に会話の方向性を変化させられるという特徴がある一方でそれがデメリットになる事もある
概念的に説明すると分かりにくいので例を出そうと思う
最初は一般的に使われる「指示的会話」の例を出すが、3つの中でこれが社会生活の中でかなり使われている
極端な例の方が分かりやすいかもしれないので「アルコール依存症の相手との会話」で例を示す、関係性は初期の段階とする
細かく書くと長くなりすぎるので簡略化して書こう
「指示的会話」
自分ー最近調子はどうかな?
相手ーうーん、良くないな、調子が悪いとどうも酒を浴びるほど飲んでしまうんだよね
自分ーそんなに飲むの?
相手ーああ、どうしても飲まずにはいられなくて毎日缶ビールで10本は飲んでしまうんだ
自分ーそれは飲み過ぎだろ、体壊すんじゃないの?
相手ーそうなんだけど、どうしてもやめられなくて
自分ー頑張ってやめないと、自分の体なんだし
相手ーああ‥そうだな
となる、自分もアルコール依存症でない限りいかにもありそうな会話ではないだろうか
ちなみに自分もアルコール依存症の場合にはここで共感的に対応する事になり関係性は深まっていくがアルコール依存症はさらにひどくなるかもしれない
「指示的会話」は正しいと思われる事を指摘する事による対決姿勢が目立つので相手からの抵抗を引き出しやすいのだが日常の対立場面では通常は指示的会話をするのが本能である、なぜならそれは自分視点の意見だからだ
つまり、
自分視点の意見が相手と一致していればそれは「共感(情動的共感)」の会話になり
自分視点の意見が相手と違っていればそれは「指示的会話」となる
この2つは単純に相手に共感できるかできないかで方向性が変わるだけで本質的には裏表にある同様の情動的行動である
そのため、どちらも実は本能的な発言なのだ 次に「共感的理解」を使った「追従的会話」の例をあげようと思う、今回の例ではこの組み合わせが「共感的理解」のデメリットを最大限に引き出す結果となる
「追従的会話」
自分ー最近調子はどうかな?
相手ーうーん、良くないな、調子が悪いとどうも酒を浴びるほど飲んでしまうんだよね
自分ーそんなに飲むの?
相手ーああ、どうしても飲まずにはいられなくて毎日缶ビールで10本は飲んでしまうんだ
自分ー飲みたいという気持ちが強いんだね、飲む事で気持ちが楽になるのかな
相手ーそうなんだ、どうしてもやめられないし、落ち込んだ気持ちを紛らわすにはすごく良いんだ
自分ー飲む事によって気持ちを穏やかにさせる事ができるんだね
相手ーああ、そうなんだだからどうしても飲んでしまうんだ
どうだろう、「共感的理解」による追従で相手との波長合わせを行い関係性を構築できたが、結果的には相手のアルコール依存症を悪化させてる
これが単純に「共感的理解」で「追従的会話」を行う危険性だ
会話内容が好ましい場合は「共感的理解」と「追従的会話」の組み合わせは良好な結果をもたらすが、今回のような例の場合は問題が起きてくる
では、「共感的理解」を使った「ガイド的会話」の例をあげようと思う
この組み合わせが1番難しくかなりの労力と訓練を必要とする
会話を単純化するが段階があるので少し他の例よりも長くなる 「ガイド的会話」
自分ー最近調子はどうかな?
相手ーうーん、良くないな、調子が悪いとどうも酒を浴びるほど飲んでしまうんだよね
自分ーそんなに飲むの?
相手ーああ、どうしても飲まずにはいられなくて毎日缶ビールで10本は飲んでしまうんだ
自分ー毎日飲んでしまうんだ
相手ーそうなんだ、どうしてもやめられなくて
自分ーどうしても‥飲んでしまう‥やめられない
相手ーそう、飲んでしまう、あまり良くないとは分かっていても
自分ー飲んでしまうものの、やめられるものならやめたいなぁ‥みたいな
相手ーうん、やめられるのならねぇ
自分ーどうしてやめたいと思うの?
相手ーだって、お金もかかるしなによりも健康が気がかりだし
自分ーお金も大切だしなにより体がね、体が健康なだけで気分的にも明るくなるし‥
相手ーそうそう、そもそも気分を明るくしたいっていう気持ちが強いんだよね
自分ー気持ちが明るくなればそもそも飲む必要ないんじゃないか?って感じ?
相手ーうん、どうしたらいいかな
自分ーこれは、知り合いでお酒を飲む人が量を減らした時の話なんだけど話してもいいかな?
相手ーぜひ、聞かせてよ
となる、実際にはこれほど短時間ではここまでいかないが簡略化して書いている
この「共感的理解」と「ガイド的会話」を組み合わせた手法では単純な相手への「共感的理解」の態度ではなく、かなり多くの意図的な方策が取られている
以下に注釈を入れて説明しようと思う
自分ー最近調子はどうかな?
相手ーうーん、良くないな、調子が悪いとどうも酒を浴びるほど飲んでしまうんだよね
自分ーそんなに飲むの?
相手ーああ、どうしても飲まずにはいられなくて毎日缶ビールで10本は飲んでしまうんだ
(ここまでの流れは同じ) 自分ー毎日飲んでしまうんだ
「追従的会話」と同様の方向性だが目的が違う、相手の抵抗が強い場合は最初は相手の情動に追従を行い関係性を強化する、ランニングヘッドスタートと呼ばれる手法で相手の好ましくない情動だったとしても追従を行う
ランニングヘッドスタートの際の注意点は相手の情動を強化しないようにしないといけない
例えば「飲みたいという気持ちが強いんだね、飲む事で気持ちが楽になるのかな」のように相手の情動を強化する流れにしてはいけない
情動を強めない方向、例えば単純なおうむ返しで追従を行う
相手ーそうなんだ、どうしてもやめられなくて
自分ーどうしても‥飲んでしまう‥やめられない
上と同様に相手の情動を強めずに追従を行う
この際にアルコール依存症の害悪について踏み込むと早すぎるフォーカス(早すぎる問題の焦点化)という失敗に終わる
「早すぎるフォーカス」とは十分な関係性ができていない段階で問題を明確化しようとして相手から抵抗を引き出してしまう事だ
相手ーそう、飲んでしまう、あまり良くないとは分かっていても
自分ー飲んでしまうものの、やめられるものならやめたいなぁ‥みたいな
ここで、「両価性(矛盾)の拡大」を行う
相手から、酒を飲みたい気持ちとやめたい気持ちの両面性を持つ矛盾点が出たらそこから、やめる理由を反影して「共感的理解」で返す
この際の注意点は、両方の気持ちを反影しつつガイドしたい方向の情動を文章の最後に持ってくる事だ
情動は会話中のピークと最後の部分に最も影響を受けると言われるが、以前に述べた短期記憶のワーキングメモリの話で保持期間は30秒で最大3つほどの連想記憶群を維持できると説明した
つまり、情動のピークを別とすると会話内容は最後の文章が最も短期記憶のワーキングメモリに維持される可能性が高くなる
これがいわゆるピークエンドの法則の正体である 相手ーうん、やめられるのならねぇ
自分ーどうしてやめたいと思うの?
指示した方向の内容に対して強める様な返しを行う
反影によって相手の言葉を修飾して返すのもいいし開放型質問で返すのも良い
開放型質問は別名、処理質問とも呼ばれて相手の認知能力に処理を行わせる
そのため「どうして」とか「どのように」といった開放型質問によって質問された事柄に関する処理が相手の中で行われて洞察が強められる
開放型質問の注意点は相手に認知処理を求めるため、話の流れが止まったり、相手に認知を処理する余裕がない場合は避けた方が良いという点である
相手に認知処理を行う余裕がない場合は、はい、いいえで答えられる閉鎖型質問(想起質問)を使うと良いが、閉鎖型質問は使用頻度が増えると尋問型の会話になるので多用は避けた方が良い
相手ーだって、お金もかかるしなによりも健康が気がかりだし
自分ーお金も大切だしなにより体がね、体が健康なだけで気分的にも明るくなるし‥
相手の「アルコール摂取」をやめたいとという部分を「共感的理解」で返しつつ、さらに「気分が明るくなる」というところまで拡大、強化する
この際に、拡大内容が間違っている場合は相手から「そうじゃないんだけど」と謝り訂正のフィードバックが返ってくるのでそれを受けてさらに「共感的理解」の修正を行うようにする
相手ーそうそう、そもそも気分を明るくしたいっていう気持ちが強いんだよね
自分ー気持ちが明るくなればそもそも飲む必要ないんじゃないか?って感じ?
相手の反応を受けて「共感的理解」の(感情)反影で返すが、開放型質問と反影の比率は、質問1に対して反影が2以上になると良い 相手ーうん、どうしたらいいかな
自分ーこれは、知り合いでお酒を飲む人が量を減らした時の話なんだけど話してもいいかな?
相手ーぜひ、聞かせてよ
相手から客観的情報の提供アドバイスを求められたらそれを受ける形で「許可を得た上で」情報提供を行う
この際に以前アドバイスを求められた時の対応の判断の項目で述べたように
一見アドバイスを求めているようで求めていない場合に注意しないといけない
単純な男性と女性の違いによるものではなく
相手からの発言の際のフォーカスが「事象」に当たっているのか「情動(感情)」に当たっているのかで対応を変える必要がある
例えば
「ぜひ、聞かせてよ」といった発言であれば情報の提供にフォーカスが当たっている可能性が高いし
「それは、興味深いね」といった場合は情動にフォーカスが当たっている可能性があるので、「興味ありそうかな?」と「共感的理解」の感情反映で返した上で「うん」と答えれば情報提供を行えばいい
逆に「今はいいや」という返しの場合は手順を情報提供ではなく問題設定のフォーカス、関係性構築の手順まで戻す必要がある
このように
「共感的理解」と「ガイド的会話」の組み合わせはかなり細かい手順を踏んで行う認知作業だが、「指示的会話」がダメというわけではない
例えば関係性が強固にできている場合は「指示的会話」でも機能する
親友から「お前が飲みすぎて心配だ、もう飲むのやめろよ、体を大切にしてくれ」と言われれば指示的会話でも成り立つのだ
どのような会話形式でも「関わり」という関係性構築が最も基本な土台となり必要不可欠な要素となる 「共感」と「共感的理解」が全くの別物であるという事をまとめておこうと思う
2つの違いをはっきりさせる事で「共感的理解」の特性がよりはっきりする事となる
「共感(情動的共感)」はまさに自然な反射だ
それは情動を司る大脳辺縁系に依存し、自然と湧き上がる自分視点の情動そのものである
そのため「共感」の力を鍛えるためには多くの経験をして様々な喜びと苦しみを味わって、そうして情動に記憶を連結させていく必要がある
その特性上、共感できる事とできない事は明確に別れる
そのため、意図的に社会的関わりに影響を及ぼす事は難しい、つまりコントロールはできない
「共感」は笑顔で言えば自然な笑顔である
「共感的理解(認知的共感)」は不自然な随意の行動だ
知的な理解と推測を基にして大脳新皮質で認知的にコントロールがされて運動中枢を経由して行われる
「共感的理解」は技術なので鍛えるためには論理的な文脈構造の「理解」とそれを基にして運動野でスムーズに実行するための「訓練」が必要となる
知っているだけでは理解できないし、理解しているだけではできないし、やってみても身につくまでに時間がかかる
その一方で、意図的に社会的関わりに影響を及ぼすことができるという最大のメリットを持つ
「共感的理解」は笑顔で言えば作り笑いである
「笑顔」と「作り笑い」の例え話は単なる言葉遊びではなく、その発生プロセス自体がまさに「共感」と「共感的理解」の発生プロセスの違いが存在する事を例として出すのにうってつけである事を示す 自然な「笑顔」をできるのに、「作り笑い」をすると顔の半分が笑わない
「作り笑い」をするとできるのに、自然な「笑顔」をすると顔の半分が笑わない
という不思議な状態を示す人がいる
これはそれぞれで、
大脳新皮質を経由する運動野に連絡する半球の通路で脳卒中を起こした人
大脳辺縁系から大脳基底核を経由して運動野に連絡する半球の通路で脳卒中を起こした人
である
つまり、自然な「笑顔」と「作り笑い」は同じように顔が笑っていても(作り笑顔は不自然だが)どのようにそれが発生するかの場所も経路も全く違うのだ
「作り笑い」は不自然である、しかし「作り笑い」の練習を5000時間、1万時間行った人はどれだけいるだろう
「作り笑い」は不自然である、それは練習をしてないのだから不自然なままであるのは当然なのだ
どれだけ練習をしても目が笑ってないという事はあるかもしれないが、不自然な任意の動作は適切な練習によって向上する
自分の「作り笑い」と一流の女優さんのドラマでの「作り笑い」が同じレベルであると言える人は少ないだろう
それと同様に、「共感」と「共感的理解」も発生プロセスは全く異なり、「共感的理解」習得には適切で膨大な学習時間と訓練を必要とする
メカニズムを理解しているだけでは不自然な「作り笑い」と同じレベルにしかないのだ
ボールをよく見て、バットの芯に当てて、思いっきり振り切ればホームランが打てると理解していても実際にはできないのと同じである
それと同様に「共感的理解」に大切なのは、メカニズムと文脈構造を理解して、それを基に適切な練習を繰り返し行い、練習を5000時間、1万時間と継続して、はじめて意図的な社会的関わりの構築に役立てる事ができるのだ 先日、ちょうど良い実例があったのでどれほど「指示的会話」が普段から使われており、その結果として会話が失敗に終わっているかを例を出して述べようと思う
これは、私が企業から受けた案内の電話の実例である
この時は日曜の夕方でちょうどうたた寝をしていた時に電話がかかってきて、それで起こされた
相手ーもしもし○○さんでいらっしゃいますか?私はは○○社の○○と申します、××の件に関してお電話を差し上げているのですが
自分ーああ、その件なら書面ですでにいただいて把握しております
相手ー××の件に関して2、3分お話を致したいのですがよろしいでしょうか
自分ーいえ、今忙しいので
相手ーでは後日にまたよろしくお願い致します
企業案内でハードルを下げるために「2、3分だけ」と言って相手に話を取り次ぎやすくするテクニックがあるが、2、3分で終わる保証もない
マニュアル通りの対応で電話をかけているとは思うのだが自分の用件を伝えたいという「指示的会話」の典型だろう
ここで犯している問題は、「早すぎるフォーカス(問題の焦点化)」である
>自分ーああ、その件なら書面ですでにいただいて把握しております
で明らかな抵抗を示しているのに
>相手ー××の件に関して2、3分お話を致したいのですがよろしいでしょうか
と、抵抗を無視して問題の焦点化(2、3分話を聞いて欲しい)を行っているので
> 自分ーいえ、今忙しいので
と、不協和による会話の失敗に終わっている このように、日常でも「共感的理解」を訓練する場は多くあり、中でもセールスの電話はなかなか良い
ほとんどは電話でのセールスは失敗するが、相手がどのように対応してくるか、うまくいくためにはどうすれば良かったか、を考察する機会になる
特に自分へのセールスの場合、セールスがどのような対応をしたら自分が話を聞いたか、という事を1人2役で行うので考察しやすい
電話セールスの場合は、見込み客開拓の法則があり、数をこなして上位5%の優先客を拾い上げるという実績主義があるので、万人に対応する「共感的理解」の趣旨とは厳密には別の目的があるのだが、セールスとのやり取りを考察するのは「共感的理解」の訓練になるだろう
例えば、相手がどのような対応をしていたら自分が話を聞いて相手が目標達成できていたかを考えてみよう
相手ーもしもし○○さんでいらっしゃいますか?私はは○○社の○○と申します、××の件に関してお電話を差し上げているのですが
自分ーああ、その件なら書面ですでにいただいて把握しております
相手ー○○の件を存じ上げていらっしゃるようで、ありがとうございます
自分ーああ、はい
相手ー○○の件に伴い完了する必要がある事項もご存知でしょうか?
自分ー何かあるんですか?
相手ー現在○○の件に関してどの辺りまでご存知でしょうか?
自分ー○○に伴って△△をしないといけないんですよね
相手ー○○に際して△△が必要になる事をご存知いただきありがとうございます
自分ーいえ、どうも
相手ー○○に際して△△を行う際に複数の選択肢が現在あるのですが、その件に関しても把握されていらっしゃると良いのですが
自分ーなんですか?それ
相手ー△△の選択に伴う現在の状況に関してのお話を2、3分させていただくことは可能でしょうか?
自分ーはい、いいですよ と、このような流れであれば相手のフォーカス(相手に用件を話すために2、3分確保する)事ができた可能性がある
この流れは「共感的理解」の原則に従って会話を組み立てている
以下に要素を分解して述べようと思う
>相手ーもしもし○○さんでいらっしゃいますか?私はは○○社の○○と申します、××の件に関してお電話を差し上げているのですが
>自分ーああ、その件なら書面ですでにいただいて把握しております
ここまでは同じ
>相手ー○○の件を存じ上げていらっしゃるようで、ありがとうございます
リフレーム(枠付け変更)をして反影を行った上で是認を行う
>自分ーああ、はい
>相手ー○○の件に伴い完了する必要がある事項もご存知でしょうか?
自分の抵抗が強いため、フォーカス(問題の焦点化)は行わず、閉鎖型質問(想起質問)によってハードルの低い処理を相手にさせる
>自分ー何かあるんですか?
>相手ー現在○○の件に関してどの辺りまでご存知でしょうか?
相手からの質問を受けて開放型質問(処理質問)に移行する
>自分ー○○に伴って△△をしないといけないんですよね
>相手ー○○に際して△△が必要になる事をご存知いただきありがとうございます
まだフォーカスに入らずに、反影と是認を行う
>自分ーいえ、どうも
>相手ー○○に際して△△を行う際に複数の選択肢が現在あるのですが、その件に関しても把握されていらっしゃると良いのですが
開放型質問の流れに沿って引き続き「自分ー○○に伴って△△をしないといけないんですよね」のリフレームと反影をしつつ、陳述型の自己開示で相手に換起的に質問を投げかける「その件に関しても把握されていらっしゃると良いのですが」
>自分ーなんですか?それ
>相手ー△△の選択に伴う現在の状況に関してのお話を2、3分させていただくことは可能でしょうか?
>自分ーはい、いいですよ
許可を得た上で情報の提供をする(2、3分話したい)というフォーカスに入る となる、
当初のやりとりでは自分の話したい事が前面に出すぎて、フォーカスをするのが明らかに早すぎる
まずは会話の流れを作るための「関わり」を行なって開放型質問や換起的質問を加えてから引き出していき、その上ではじめてフォーカスに入らないといけないのだ 引き続き実際のケースを記載してメカニズムも併記しようと思う
先日このようなやりとりがあった
自分ー自分の仕事も忙しい時に仕事を手伝ってありがとう(相手は自発的に手伝ってくれていた
相手ーいえ、そんな、そんな事言ってもらえると思っていなかったので嬉しいです
というやりとりだ
共感的理解の原則に沿って
>(あなたは)自分の仕事も忙しいのに仕事を手伝ってくれて
という是認(相手の行動能力を認める
>手伝ってくれて
作業同盟の明示
自律性の承認
>ありがとう
感謝の言葉としての自己開示
という、是認、作業同盟、自律性、自己開示と複数の要素を含めた言葉を伝えたのだが、その後の反応が予想外だった
> いえ、そんな、そんな事言ってもらえると思っていなかったので嬉しいです
なぜ、ここまで喜んでくれたのか、
メカニズムで述べようと思う
外的刺激(今回の場合は音声情報による側頭葉一次聴覚野、ウェルニッケ野)への入力が、中脳腹側被蓋野のドーパミン作動性ニューロンを活性化させたものと考えられる
腹側被蓋野のドーパミンは報酬系に関係しており、高次認知機能を司る前頭前野と情動を司る扁桃体へと出力する
腹側被害野のドーパミン活動性ニューロンの高まりによって快楽を伴う依存心を強めるが、霊長類においては直接の出力ではなく側坐核の報酬系(動機付け)を経由して扁桃体へと出力しているとも考えられる 腹側被蓋野のドーパミン作動性ニューロンは
予想外の報酬が与えられた時に高まる
予想した後に高まり、実際に報酬が与えられると変化しない
予想した後に高まり、実際に与えられないと下がる
の3パターンである
「旅行の準備をしている時が一番楽しい」というのは、「予想した後に高まり、実際に報酬が与えられると変化しない」のパターンである
今回のやりとりの場合は、予期せず是認の言葉を投げかけられて腹側被蓋野のドーパミン作動性が「予想外の報酬が与えられた時に高まる」状態であり、それによって扁桃体もしくは報酬系を司る側坐核とGABA活動性ニューロンを介する扁桃体への出力で、「うれしい」という情動へとつながったと考えられる
その一方で、是認の言葉が予想内だった場合はどうだろう
強化学習によって予想可能だった場合にはドーパミン作動性が「予想した後に高まり、実際に報酬が与えられると変化しない」ため、予想した時点で扁桃体へは「うれしい」という情動が湧き上がるが、
一方で繰り返す強化学習によって予測誤差が減少してその結果、予測時におけるドーパミン作動性は一部の「依存状態」を除いて減弱する、つまり「言われて当たり前」という状態だ
予想外、予想内、いずれにしても自由エネルギー原理で言うところの予測誤差が生じている間は是認の言葉を投げかけるのは効果的であり、今回の場合は相手のその予測誤差が非常に大きかった事が強い「うれしい」という情動に結びついた
そのため、是認は、例えば会話の例では
一次聴覚野(ウェルニッケ野)→大脳基底核→ブローカー野における発話、のルーチン化したパターンではなく
一次聴覚野(ウェルニッケ野)→大脳基底核→前頭前野→ブローカー野における発話、の高次の知的活動である事が大切だと分かる
学習の繰り返しによってシステム1における自動的でスムーズな技能獲得は是認の学習にとっては大切だが、全てを自動的に行ってしまうとパターン化してしまい是認の効果が薄れる恐れがあるのだ
理想としてはプロの棋士のように、全体的な流れではシステム1を使い、重要な場面では高次の認知機能によってシステム2を使うというのが最も効果的だと思われる 本を読んだり情報を獲得する際のストレスについて述べようと思う
仕事や社会生活の面でも学習は大切だが、例えば仕事に関して専門書を読む、社会生活に関して学術的な記載を読む
といった際にストレスを感じる人と感じない人がいる
そして、週刊誌や漫画なら楽しく読める人がいる一方で漫画が読めないという人もいる
文字情報は大脳皮質後頭葉の一次視野覚で処理が行われて前頭葉の発語に関するブローカー野や聴覚に関係する側頭葉のウェルニッケ野を経由して前頭前野にて認知処理が行われる
文字を読むと頭の中で言葉にして読んでいるように感じるのはブローカー野に影響されている
この際の活動は一次視野覚→前頭前野のフィードフォワードと前頭前野→一次視野覚のフィードバックがループのように行われて処理される
前頭前野での認知処理は、難易度によって中脳腹側被害蓋野からのドーパン活動性ニューロンの活動に影響し、難易度設定が低すぎるか高すぎる場合にはドーパン作動性ニューロンの活動が低下する一方で、難易度設定が適切な場合はドーパン活動性ニューロンの活動が上昇し、前頭前野への出力が上昇する事で動機づけが形成される
これは、読んでいて「楽しい」とか「読み続ける事ができる」といった場合には、その文章の情報がその人の前頭前野における知的な高次認知能力に対して適切な難易度に設定されている事を意味する
つまり、
漫画を読んで楽しい場合には、その人の知的な高次認知処理能力はその漫画の持つ情報レベルと同一レベルにあり、
専門化された文章を読んだ際に楽しめたり苦痛なく読める場合には、その人の知的な高次認知処理能力はその専門化された文章の知的階層と同一レベルにあると言える
一方で、そのような人にとっては漫画を読む事の難易度設定が低く設定される可能性があるため、漫画を読むことに対する動機づけが弱まる可能性がある 通常、絵本や簡単な文章以外で「読んでいてつまらない」「読み続けられない」といった場合には、それは腹側被蓋野からのドーパン作動性ニューロンの活動性低下を意味しており、その人本人の認知処理能力に対して文章の難易度設定が高すぎる事を意味する
文字情報として明らかな文法的誤りや文脈の過剰な支離滅裂さを除いて、文字情報として一定水準の整合性を保った文章においてはその文章が、分からない、読めない、長くて読めない、といった行動の意味する事は、単純にその人の前頭前野での認知処理を行うのには情報が難しすぎるという事を意味してるのだ
そのため、何かの本を読んだ際に読んでいて苦痛を感じる場合には、その本と同一系統でレベルを落とした本を読む事で学習効果を上げることができる
もしも、何かの文章を読んで「読み続けられない」「読んでいて辛い」という場面に行きあたったら、それはその文章がその人にとって簡単すぎるか難しすぎるという事を意味している事を覚えておきたい 文章理解の難易度について述べようと思う
その人の前頭前野の認知能力に対して文章の難易度が高すぎる場合に「長すぎて読めない」という状態となるが
これは具体的には、その人の前頭前野におけるワーキングメモリの能力では文章を理解できないという事を意味する
以前述べたように脳の短期記憶のワーキングメモリは30秒間で最大おおよそ3つほどの情報の塊(連想記憶の一群)を保持できる
例えば、以下の文章を30秒間で読んだ場合にどうだろうか
「新型コロナウイルスに対する免疫獲得の1つの方法としてmRNAワクチンの利用が行われているが、その翻訳量は細胞体に取り込まれた量に依存するため不安定なRNAをいかに安定化させるかが重要である。翻訳されたアミノ酸配列に対する抗原抗体反応によって抗体価を上げるためには特定のB細胞に対して免疫記憶を確立させる事が必要であり、二次免疫を成立させる事で病原体の抗原エピトープに素早く反応させオプソニン効果を含む液性免疫と細胞性免疫を強める事となる。」
30秒で読んで理解できただろうか?
よほど詳しくない限り
> 新型コロナウイルスに対する免疫獲得の1つの方法としてmRNAワクチンの利用が行われてい
の文章で前頭前野の短期記憶ワーキングメモリは限界を迎える
つまり、「新型コロナウイルス」「免疫獲得」「mRNAワクチン」の文章に関する明確な連想記憶が確立できていないのだ もしも、上の文章を30秒で理解するためには、例えば
>新型コロナウイルスのカプシド表面には3次構造もしくは4次構造を持つタンパク質が存在しており表出した部位が特定のモノクロナール抗体に対して抗原エピトープとなり、抗体の抗原認識部位と結合する
>mRNAによって細胞内で翻訳されたペプチドもしくはタンパク質はマクロファージによって取り込まれ、MHCIIの認識を通して抗原提示が行われて、CD4+T細胞を介して特異的なB細胞からの抗体賛成とそれに付随する二次免疫応答を成立させるための免疫記憶を確立させる
>抗体は単量体、2量体などで機能と名称が変わり、単量体にはIgD、G、E抗体が存在する。病原体の抗原エピトープに結合した抗体は食細胞のオプソニン効果、補体活性化もしくは抗体の直接の細胞体穿通によって液性免疫とそれに続く細胞性免疫を発揮する
という3種類の情報を知識、つまり連想記憶として保持している必要がある
それによって最初の文章を3つの連想記憶の一群に分解して、その3つの情報群を前頭前野の短期記憶のワーキングメモリで保持して文章を理解するのだ
そして、30秒で読んだ文章の情報群が4つ以上の情報の塊となった時に「長すぎて読めない」、つまりその人の認知能力に対して文章の情報量が多すぎて難易度が高すぎる、となるのだ
時々、文章が長すぎると言っている人を見るが、それは単純に「私の前頭前野の処理能力では情報を理解できません」と言っているだけなのだ
これが、「その人の認知機能に対して文章の難易度設定が高すぎる」という事である
一方で、相手に理解させる場合には相手の情報処理の能力を加味した上で、情報量を削る必要がある
一般的に言う「端的に述べる」とは「分かりやすく伝える」という意味ではなく、「相手の認知能力を超える情報を文章に含めないようにする」という意味なのである
何故なら、相手の認知能力で処理できない単語が1つ入るだけで、前頭前野のワーキングメモリの容量が1つ消費されるためだ
「情報を削って端的に述べる」と、相手が保持する連想記憶の範囲内で理解できるため、「端的に分かりやすく説明する」という行為は実は単純に相手の認知能力を超える情報は含めないようにしているというだけなのだ 「分かりやすい説明をする」とは「相手の認知機能を加味する」という意味で相手目線の「共感的理解」に繋がる
これは、万人に対して話を噛み砕いて伝えれば良いという意味ではない
あくまでも「相手の理解力を推定して合わせる」という意味である
例えば、
「ヘルパーT細胞について教えてください」といった場合に
>CD4に陽性のT細胞です
といった場合と
>ばい菌をやっつける手伝いをする細胞です
と言った場合の両方ともが「共感的理解」に準ずる相手目線の「分かりやすい説明となる」
それぞれの違いは、「相手の理解力」がどの程度かという違いだけである
これは、簡単な文章で噛み砕いて説明する事が「分かりやすい説明」なのではなく、
相手が認知できると推定される情報を使う事が「分かりやすい説明」だという事を意味する
腹側被蓋野からのドーパン作動性ニューロンの活動は情報の難易度設定に影響されると書いたが、
知識量が多いと推定される相手に対して
> ばい菌をやっつける手伝いをする細胞です
という説明は情報に欠落が多すぎて苦痛となるので、そのような人にとっては「分かりやすい説明」とはならない事を覚えておきたい
そのため、文章で説明を行う際にはターゲットを絞って書く必要性がある
認知的理解度の違う人たち全員に対して興味深く分かりやすい文章を書くというのは実質的に不可能なのである
単純な文章で書けば万人が理解する事はできるが、上位の人にとっては理解はできるが難易度設定が低く動機づけが弱くなる
しかしながら、それぞれの分野における理解力のボリュームゾーンを考えれば、当然ながら簡単な文章にした方が多数が理解でき、評価が高くなる可能性が上がる
言葉や文字情報を伝える場合には、内容が簡単か難しいかが重要なのではなく、ターゲットゾーンを設定しそこに合わせる事が大切となるのである これも例え話が具体的でわかりやすいわ
>>110につながる話だね 左側の認識世界と右側の認識世界に対する不安への感じ方の違いについて述べようと思う
左側の運動や体性感覚などは右側の半球が司り、右側は左側の半球が司るという話は比較的有名だと思う
右利きの人は左側の半球(左脳)が優位だとしばしば言われるような事柄だ
左側の半球(左脳)は言語や論理的思考に関連し
右側の半球(右脳)は情緒に関連する
というのは一般的な雑誌でも目にするかもしれない
実際に右脳は左脳に比べて情緒的に不安定だという事が分かってる他に、右側の半球と左側の半球では司る機能に違いがある事も確かだ
では、左脳で意識する「右側の世界の認識」と右脳で意識する「左側の世界の認識」に違いはあるのだろうか
恋愛やビジネスの心理関係の本で、「恋人やビジネス相手の左側にいると相手にプレッシャーをかける可能性があるから右側にいると良い」という記述を読んだ事があるかもしれない、そしてその理由は「左側には心臓があるからだ」というものだ、あるいは「右利きが多いからだ」というものだ フロイトも足のフェティシズムの理由は足の指先が男性の精器のようだから精を連想させて性欲へと繋がると説明したそうだが、古典的な心理学ではこういった「こじつけ?」と思えるような説明がよくされる
結果に理由を求める、人の「帰属」という性質の影響だが、左側に立たない方がいい理由の説明もこれに似ている
心臓は左というよりも、やや左寄りの中央にあるがどうだろう
足のフェティシズムは足の指の形が精器に似てるからではなく、解剖学的には頭頂葉の体性感覚野において足の指と精器の感覚を司る部位が近接しているのが原因として考えられる
では、「左側に立つと相手にプレッシャーを与えるのは、心臓が左側にあるから」という説明はどうであろうか
脳に機能障害を持った際に片側の世界を無視する、「半側空間無視」という病態が存在する
極端なものでは、世界の片側半分が存在しないものと認知される病態だ
「半側空間無視」は右脳が障害を受ければ左側の世界を認識できなくなる
一方で、左脳に障害を受た「右側の半側空間無視」は、右脳に障害を受けた「左側の半側空間無視」よりも圧倒的に少ない
つまり、右の半球、例えば頭頂葉の体性感覚野に障害を受けた際の左側の「半側空間無視」は圧倒的に病態として多いのだ
これは、左半球と右半球の認知に対する明確な向き合い方の違いにある
左半球は確固とした認知を司るのに対して、右半球、つまり右脳は矛盾を抽出する機能がある
この、矛盾を抽出する機能が右脳が情緒的に不安定な事に通じている
自己の中の「認識」と「外界刺激」の間に矛盾があるとそれを認識するのは右脳だと言われている
これは、左側の世界でも右側の世界でも共通で右脳が機能する
一方で、左脳は自己の中の「認識」を安定化させる、つまり外界刺激との矛盾があっても自己の中の「認識」を優先するのだ
左脳はとても頑固なのだ
この違いが「半側空間無視」の右脳と左脳の病態の差に出ている 左半球の体性感覚野に障害を抱えた場合を考えてみよう
障害により右側の外界世界の体性感覚を感知できなくなるが、右側には世界が存在する事を知的に理解している、そしてそれが自己の中の「認知」、すなわち右側の世界を知覚できないという状態と矛盾する
この矛盾を正常な右脳が認識し、自己の中の「認知」に間違いがあるかもしれないとして結果、「右側には世界が存在する」という結論にいたる
では、右半球の体性感覚野に障害を抱えた場合を考えてみよう
同様に、障害によって左側の世界を感知できなくなる、しかし左側には世界が存在する事は知的に理解できる、同様に自己の中の知覚と外界の概念に矛盾が起きる
しかし、矛盾の認識を司る右脳は障害されており、一方で自己の「認知」を固定化する左脳は正常である
その結果、「矛盾はない、左側の世界が体性感覚野によって知覚できないので左側には世界が存在しない」という、聞いているとホラーのような病態が起きる
この右半球による左側の「半側空間無視」は非常に理解しがたい病態で
単純に左側が見えないのではなく、「左側に世界は存在しない」「左側の手が動かなくてもそれは自分の手ではない」「左手が動いていないのに左手は問題なく動いている(左側外界世界の事実を無視する)」という信じられないような病態を作り出す
そして、患者本人は狂っているわけでもなく、本当にそのように信じてるのだ
言ってみれば、例えば今あなたが左手を動かしたとしよう、当然動いている、その時に横から「いえいえ、あなたの左手は動いていません、半側空間無視によって動いているように感じてるだけです」と言われるようなものだ
当然、今そのような事を言われていても信じられるわけがないが、「半側空間無視」の患者ではそれが起こっている
右側半球の障害を持つ「半側空間無視」の認知する左側の世界は夢のようなものだ
実際に存在しない世界を現実として認知する
これは概念的な思考実験でもなければオカルトでもない、世界とは脳の認知の中に存在するという不思議な話だ
正常な人では、物理現象としての世界は、単に脳の中の世界の認知と近似しているというだけでそれぞれ別物の世界なのだ ここで、「左側に立つと相手にプレッシャーをかけるのか」という話に戻ろう
「半側空間無視」の症例から、「右脳は矛盾を抽出する」する事が分かる
つまり、右脳は「こうか?いや違う、こうか?いや?どうだろう」というように優柔不断なのだ、矛盾を見つけるのが得意で情緒的に不安定なのだ
「相手の左側に立つと」右半球の体性感覚野や側頭葉の形状認知が働く、その際に左右は脳梁によって統合されているが、右半球の活動は矛盾を抽出し優柔不断だという事を思い出して欲しい
自分の左側にいる「この人」は本当に存在するのか?この人は人なのか?といったまるで哲学者のような認識誤差の抽出を行う
つまり「不安定」な右脳が左側の世界を認識する際になおさら活性化するのだ、そして「不安」になる
これが、「相手の左側に立つと相手にプレッシャーをかける可能性がある」という脳神経生理学的な説明だ
そして、脳の左右の機能役割を見る限り、相手の左側に立つと相手に不安を与えるのは十分可能性としてありえると考えられる
脳の左右の機能役割から見る対象物との左右の位置関係的影響がこのような視点から説明される事があまりないのは少し残念に思う
何故なら、心臓が左側にあるかないか関わらず
ホラー映画を見る時は画面を左側に置けばより怖く感じ
歴史の暗記をする場合は教科書を右側に置けばより強固に認知できる
という事を意味するからだ
そういう意味では、不安な気持ちを抱える際には右側に意識を集中して右手を細かく動かしたり、不安となる対象物を右側で見えるように対処すると心理的不安定さに幾分か対抗できる可能性があるのだ
少なくとも、左側に不安要素を置くよりも良いであろう 記憶の連続性と感情について述べようと思う
これは、現在と過去は「感情」を媒介して連続性が作られるという話だ
逆に言えば、「感情」がないと現在と過去は別の存在になってしまうのだ
大脳辺縁系の海馬が記憶に関係するというのは有名だが、しばしば記憶が貯蔵されている場所が海馬だと勘違いをしている人がいる
脳の長期記憶とは「海馬」ではなく、「脳の至るところに存在するニューロンの結合」を意味する
つまり、脳のあらゆる場所で強く結びついた結合そのものが「記憶」なのだ
「海馬」はニューロン同士を結びつけるための一時的な配電盤にすぎない
例えば
「Aさんと海にマグロを食べに行った」という記憶があるとしよう
最初は
「A さん」「海」「マグロ」といった要素や
「前頭前野」「運動野」「体性感覚野」「視覚野」といった解剖学的な要素が
「A さん」ー海馬ー「海」ー海馬ー「マグロ」
といったように海馬を介して連絡される、そして長期記憶になるためには
「A さん」ー「海」ー「マグロ」という直接の連絡を通して長期の記憶として定着する
これは、複合的相互的内包といった心理学の関連フレームによる概念的な結合ではなく、軸索と樹状突起のシナオプスの強度の増加による神経生理学および組織学的な物理化学的な結合の成立を意味している
情動に関連する扁桃体は、海馬との関連と結びつきが強くそれが感情を強く伴う出来事は記憶の形成を強くする事に繋がる
2011年3月11日にどこで何をしていたかを覚えている人は多いだろうが、2011年3月10にどこで何をしていたか覚えている人はほとんどいないであろう
大脳皮質の全ての部位は扁桃体と海馬と結びついているが、これは大脳皮質の連絡を仲介して短期的な記憶を形成し、後に大脳皮質同士の結合による長期記憶を作るための一時的な役割をするためにある
そしてこれは、「情動」を伴わない情報は結合しにくい事に通じる、楽しい事は覚えているものだし辛い事もそうだ
「情動」を伴わないと過去と現在の情報を連結させる事も難しくなってくるため、時間的な情報の連続性が失われる事がある 「他人と関わらずひとりの方が楽だ」という人もいるが、「関わり」を持たないとはそれに伴う「情動」も持たず、例え特定の人と会っても記憶としては形成されていかない
つまり、「特定の相手」との過去と現在の記憶の連続性をお互いに作らない、つまりお互いに神経生理学的、組織学的なニューロン同士の「関わり」ができない事を意味する
細胞レベルでも社会レベルでも「関わり」が断絶されるのだ
仕事における社会生活において「関係性」を言い出すと「アメリカは実力主義だから」というような日本のコミュニケーションスタイルを軽視するような意見を見る事がある
確かにアメリカは実力主義の要素が大きいが、関係性の要素もかなり大きい
アメリカにおいても実力があれば関係性はいらない、といった状況を私は見た事がない、むしろかなりのコネ社会だと思う
(余談だがアメリカ当地では「アメリカ」ではなく、「US(合衆国)」もしくは「USA(アメリカ合衆国)」と表記されて「アメリカ」単体で表記される事はない、そういったところからもアメリカに対する理解が欠けているのが分かる)
つまり、「関わり」という「関係性」は個人レベルでも社会レベルでもかなりの要素に関わるのだ
動物との関わりも含めて、「関わり」とそれに付随する「情動」は過去と現在という記憶の時間的空間的連続性につながりを持たせるため、「時間」の中で生きようと思うのなら積極的に人と関わり、様々な感情を持つのが良いだろう
そして、どうせ持つなら「良い感情」の方が気分が良い
「関わり」の技術とは単に気分をどうこうするというものではなく、より効果的、好ましい方法で過去と現在、そして将来の記憶の連続性である人生を作っていく技術そのものなのだ
そういう意味では積極的に人と関わり良好な関係性を築く事が自分の人生にとって記憶のみならず将来的にも有意義であろう ところで、人格をいくつも持つ人がいるが、あれも記憶の連続性が断裂された結果に他ならない可能性もある
どのようなメカニズムでそうなるかまでは分からないが、扁桃体と海馬に関連する「情動」ごと記憶が一見それぞれに切り離されているように見られる
人格が本当にいくつもできるかどうかは分からないが、記憶の連続性に関連する「情動」ごと記憶というニューロンの連続性が切り離されれば、それぞれの記憶が時間的空間的連続性を失い別の個性を作り上げるのも不思議ではないのかもしれない 集中力を途切れさせる技術について述べようと思う
集中力を「維持」する事の大切さはよく聞くと思うが、
それと同じくらい集中力を「途切れさせる」事も重要であるがあまり注目される事はない
どういう事かと言うと、例えば
「やらないといけない事があるのに、だらだらといつまでもスマホを見てしまう」
「やらないといけない事があるのに、漫画を読み続けてしまう」
「やらないといけない事があるのに、他ごとを続けてしまう」
といった場合に、いかにしてその、「スマホを見る」「漫画を読む」「他ごとを続けてしまう」という事からそちらに向いた集中力を引き剥がすかという事だ
意思の力でやるべき事に集中力を向けられれば良いが、当然ながら簡単ではない
では、どうすればいいのか
以前に述べたように集中力にはボトルネックが存在する、
これはシステム1は別として、意識的な集中力はひとつの事柄にしか対処できないという事だ
よくある例が
「心配事があったけど、より大きな心配事ができたら前の心配事が気にならなくなった」
というものだ
意識の集中力はひとつの物事にしか向き合えないのである
そして、特定の物事(例えば漫画を読む事)から集中力を引き剥がすには、この集中力のボトルネックを利用する
その方法には例えばこのような方法がある スマホを見続けてるが、頭ではそろそろやめて仕事に取りかかりたい
↓
右手の指で2進数を31まで数える(二進指数え法)
↓
31まで数え終わったらそのまま仕事に取り掛かる
このように見るとまるで儀式的な行動に見えるが、これは効率よく集中力を引き剥がす要素がいくつか含まれている
要素を列記しよう
・慣れれば10〜15秒の短時間で終わる
・終わった瞬間に二進指数え法に対する集中が終了する
・その直後に集中力を必要な方に向ける(例えば仕事)
・後頭葉(数覚、視覚)、側頭葉(ウェルニッケ野)、前頭葉(前頭前野、運動野、ブローカー野)、頭頂葉(体性感覚野)と広範囲の大脳皮質を必要とする
・右手で数える事で情動的に安定的な左脳を使える
という点である、実際にやってみると分かるが二進指数え法はやってみると他の物事が一切手につかなるくらい集中力を必要として、慣れれば10秒くらいで終わり、31まで数えるという明確な集中力の終わるがある
集中力のボトルネックを利用して二進指数え法を使うと、それだけに認知活動と集中力が全て使われて、しかも右手があいていれば右手を見た瞬間から1秒で始められる、そして数え終わった瞬間に必要な物事に意識を向ければ
Aへの集中→二進指数え法への集中(集中力の引き剥がし)→Bへ意識を向けてBに集中する
という方法が使えるのだ
直接A→Bへの集中の移行が難しいので、「簡単に集中できて効果的でいつでもできてすぐに終わる」ものに集中を向けてから、Bに集中しようという事だ
簡単に始められて
いつでもできて
効果的に集中力を占有し
短時間で占有された集中力が解放される
という要件が有れば二進指数え法でなくても別の方法でも良いが、効果的に集中力を占有するためには大脳皮質を広範囲に必要とする方法を考えて使うと良いだろう 悩みに伴う両価性(矛盾)について述べようと思う
しばしば見逃されがちな事なのだが、人が悩んだり行動できずにいる時はこの両価性(矛盾)が存在する
すなわち、やりたい理由があるけどやりたくない理由もある、といったものだ
悩んでる人に対して助言をしてもしばしば無視されるのはこの両価性の片方にしか焦点を当てないためだ
決定とは、予測信号と呼ばれる認知(信念や推論)と感覚信号と呼ばれる外来刺激(助言や現象)の差を埋めるように行われる
悩みがある人に助言した場合、両価性の片側の面だけが焦点化され、もう一方は無視されるため、無視された面との差を埋め合わせるように抵抗が発生する、つまり反発して相手の助言という感覚信号を変化させて自分の予測信号という認知との差を埋め合わせるのだ
心理学でブーメラン効果と呼ばれるものがこれに当たる
例を挙げると
タバコが健康に悪いのは分かってるけど、ストレス解消になるので現状維持でやめられない
という状況で
「やめたい」気持ちと「やめたくない」気持ちの両面がある
矛盾があるといった状況だ
こういった状況に関して認知行動療法が用いられたりもするが、認知の変容や行動の強化と弱化については触れずに
パーソンセンタードアプローチによる対応で述べる タバコをやめたいという気持ちとやめたくない気持ちのどちらかに肩入れすると
先ほど述べた予測信号と感覚信号に差ができるため元の位置への揺り戻しが発生する
「タバコはやめないと!」というと「でもストレスが」という抵抗が発生し
「タバコは吸い続けなよ」というと「でも健康が気になる」という揺り戻しが起きる
これは、常に元の位置へと戻る抵抗が起きるためいつまでも現状維持を続ける事となる
このような両価性の存在する状態では両方の状態を受容する事から始める必要がある
つまり、
「タバコが吸いたいなという気持ちがある一方で、なんとかやめられるといいなと思うんだね」
という対応で揺り戻しによる抵抗が発生しないようにする必要がある
この際の注意点は、指示方向の内容を文章の最後に持ってくる事だ(以前述べた前頭葉短期記憶ワーキングメモリの内容)
そして、そこから指示方向の内容を強化していく流れとなる
これは、予測信号と感覚信号の差である予測誤差を可能な限り小さく納めつつ、予測信号である認知を意図する方向へ導く手順となる
その際には、言い返しや感情反映や是認や要約などの様々な技法を使う事となる 「自分を変える」という事に関して述べようと思う
自分を変えようと思う際に、「効果的でない認知」を「効果的な認知」に変える
といった認知再構成が取られる事がある
自己啓発やビジベス書などでもみる事がある
「自分にはできない」→「なぜそう思うのか」→「視点を変えてみる」→「自分にもできるかもしれない」
といったものだ
ここに行動面の要素を含めれば行動活性化療法やソーシャルスキルトレーニングとなる
では、この認知の再構成は有効なのだろうか?
結論から言えばパーソンセンタードアプローチといった人間性心理学におけるものと同様のニューロンのネットワークの変化を目指す事となる
しかし、これは「効果がある」という事を単に表しているのではない
以前述べたように認知や長期記憶、想起(連想)は
一次感覚野→大脳辺縁系(特に扁桃体と海馬)→大脳基底核→大脳新皮質という解剖学的経路を経由して、例えば
前頭葉ー大脳辺縁系ー頭頂葉ー大脳辺縁系ー側頭葉
といったネットワークを短期的に形成した後に、睡眠中のリプレイやそれに伴うシナプスの強化で
前頭葉ー頭頂葉ー側頭葉
という直接のネットワークによる永続的な長期記憶として固定化される
認知再構成とは言ってみれば、この固定化された永続的な長期記憶とそれに伴う情動を再構成しようというものだ
これには二通りの方法がある
既存の認知を弱化して、新たな認知を大脳辺縁系をからませて1から作る
既存の認知を弱化して、既存の別の認知を強化する
という方法だ 書くのは簡単だが、新たにネットワークを作り出したり、シナプスを弱化、強化したり
以前述べた脳の感受期の制限を理解するとそれが簡単ではない、もしくは不可能な事もある事が分かる
効果的にシナプスの結合を作ったり、強化、弱化するためのテクニックとして精神力動療法や認知行動療法、人間性心理学が用いられているのだが、その目指す所は同じで、脳のネットワークの接続の変化である
神経生理学や解剖学を理解する事で腹側被蓋野からのドーパンの報酬や側坐核の報酬系、縫線体からのセロトニン分泌といった特性を理解して効果的なアプローチを考える事ができるが、腹側被蓋野からのドーパン出力の存在を知っていれば自由にコントロールできるというわけでは当然なく、メカニズムを知る事で効果がありそうだというアプローチに焦点を絞る事しかできない
そして、焦点を絞っても実際にどれほど脳のネットワークの接続を変化させられるのかは別問題となるのだ
これは、「自分を変える」事には限界があるという当然の事をはっきりと認識させる事となる
つまり、どのようなアプローチであれ、限界を超えた領域の事柄に対してアプローチをする
例えば「自分の怒りっぽい性格をなおしたい」といった対象に対して根本から性格を変える事が可能かどうかをよく認識しないといけないのだ
「何を変えるか」よりも「何なら変えられるのか」という点に着目してアプローチしていく必要がある
そういった意味では自己啓発やビジベス書で性格そのものを変えようと思うのは効果的ではない可能性がある
それは、「果たして、扁桃体を含む大脳皮質で永続的に確立された長期記憶のネットワークにどれほど効果を及ぼせるか」というところに行き着く事になるからだ そのため、性格そのものよりも実際に社会生活に表出される行動面に注目して変えましょうといったアプローチや
すでに存在する認知行動の両価性(矛盾)に解釈的だったり認知的だったり人間性心理学的なアプローチで認知に影響を与えて、それに伴うシナプスの強化や弱化をしていきましょう
というところに行き着く事になるのだ
そういった意味ではマインドフルネスやACTといったありのままを受け入れる第三世代の認知行動療法も同じ方向性を目指している事となる
理論やアプローチ方法は違うが、それによって及ぼされる脳のネットワークへの影響は似たようなものを目指しているのだ
シナプスにおける問題が器質的で病理的なものとなったものに対してこれらのアプローチをする事は効果的でない場合もある事を忘れてはいけない
極端な事を言えば、右脳がない人がいたとしてその人にどれだけアプローチをしても右脳は生まれないのだ
ただしそれは、右脳を相補する機能と社会生活への影響の変化を目指すといった場合はまた別の話である
「自分を変えたい」と思った時に、「何を変えるか」よりも「何なら変えられるのか」という点に分子生物学、神経生理学、電気生理学、組織学、解剖学の点からトップダウン的に計画を立ててボトムアップ式に実践する事が好ましいだろう
そういった意味では「自分を変える」ための手順を解説した本が自分の状態に合っているかを理解するバックグラウンドとなる知識も大切となる 「他者への共感は何を感じているのか」について述べてみようと思う
来談者中心療法のカールロジャーズは他者への「共感的理解」で
あたかも相手になったように感じてその感情の中で自由に泳ぎ、それでいていつでも自分に戻って来ることができる
といった表現をした
文学的なようで哲学的でもあるような表現だが、科学においてはよく、なんでそうなるのか分からないけど効果があり、
後になって説明ができた、といったような事象がかなり多くある
カールロジャーズが亡くなったのは今から40年近く前の事だ
サイコセラピーの領域において人間性心理学という分野を切り開いたカールロジャーズの述べた「共感的理解」は果たして個人の概念的な物に過ぎなかったのだろうか
日常生活を思い返してみると、他人に自然と共感する時に主語が「私」になっているのに気がつくだろうか
相手「○○から嫌なことされた」
自分「(私とあなたが)腹たつね」
相手「海がすごく綺麗だった」
自分「(私が)いいな〜(と思う)」
相手「新しい車買ったよ、見てこの写真」
自分「(私が)かっこいいなぁ(と思う)」 つまり、相手に共感する時にそれは「相手の感情」ではなく、「私の感情」になっているのだ
これは「共感的理解」の「あたかも相手になったように感じる」というものと一致しているように見える
このような現象から確認できるボトムアップ式の理解は、その理論背景やメカニズムの詳細が分からず哲学的な妄想や概念的理解といった真偽のあやふやなものと判断される事がある
精神分析におけるジークムントフロイトのイド(エス)や超自我の概念もそれに当たるのかもしれない
つまり、検証がきわめて難しいのだ
それでいて、そういった概念的理解は事象を基にしている事が多いため、実際には真実である場合も多い
しかしこれは、学問的に記述される概念的理解が正しいという事を意味してるわけでは当然ない
では、「共感的理解」、つまり、
相手の気持ちを自分が相手になったつもりで感じて、そして認知的理解によって相手視点のものとして言葉にする
という行為は妥当なものなのであろうか
相手の行為を観察する事で、あたかも自分がその行為をしているように脳が活動するニューロンは実際にある
これは自動的に行われるもので具体的には前頭葉の一次運動野の下方に位置するF5と呼ばれる領野で、
相手が物を持ったり口の動きをしているのを観察する事で、「あたかも」自分が同様の行動をしているように活動するミラーニューロンと呼ばれる領域だ
これは運動領域に関するミラーニューロンだが、一方で感情においても同様のミラーシステムを想起させる反応が存在する
脳の側頭葉を下げたシルヴィウス溝の奥にあるライル島で嫌悪に関するミラーシステムが観察されている
嫌悪は原始的には嗅覚と臭覚に基づく摂食行動の可否を決定し、ライルの前部領域がそこにあたる
実際に相手の嫌悪表情を観察するとライル島の前部領域が活性化されるが、これは自分が嫌悪を感じる時にも活性化される 痛みや嫌悪に対する情動に関して、ミラーニューロンが存在する事が伺われるのだ
そしてこれは、感情に対して相手が情動に基づく表情や表現をする時に自分が「あたかも」相手になったように情動を感じるという可能性を示唆している
これは「共感的理解」における「あたかも相手になったように」と一致する
しかし、ここで考えてみると、相手が何らかの感情を感じてるのを見て常にその気持ちを「あたかも相手になったように」感じているのかどうかという事だ
当然そうではないのは分かると思う
嫌いな相手が苦しんでいるのを見てその痛みを感じるだろうか?
ボクシングで「殴っている人」と「殴られている人」を見るとき同時にその感情を感じるだろうか?
「あたかも相手になったように感じる」ミラーニューロンがある一方で、相手を対象物として認識するカロニカルニューロンというニューロンが存在する
つまり、
ボクシングで殴っている人と殴られている人を見るとき、例えば
あたかも殴っている人になったように感じつつ、殴られる対象物として殴られている人を認識しているのだ
これは、相手が情動に基づいた行動をしているのを見ると自動的に「あたかも相手になったように感じる」わけではない事を意味する
カロニカルニューロンで相手を対象物として認識すればそれは「物」であり「対象」なのだ
そこに共感はない カールロジャーズの切り開いた人間性心理学は概念的であるものの現象に対して非常に理にかなったものだと思われる
相手を価値判断なくありのままに受け入れ(無条件の肯定的配慮)、あたかも相手になったように感じてそれを知的に表現する(共感的理解、自己一致)
とは、解剖学的、組織学的に説明すれば
大脳皮質と大脳辺縁系によって構築された長期記憶ではなく、一次感覚野から受ける刺激を長期記憶という連想をからませずに受け入れ、ライル島や他の領野にあるミラーニューロンとそれに繋がる扁桃体で自己の経験として認識し、一人称であるその感情を前頭葉の前頭領域で知的に理解して他人の経験とする二人称として伝える事で、私自身が長期記憶に持つ連想という自己の認識とは別であるという自他の区別を行ったものとして、発言内容が自分の認知と折衝する事なく伝えられる
となる
そして、相手を「共感的に理解」するとは、まずは相手の立場に入っていくというところから始める事が大切なのであろう 努力の方向性について述べようと思う
「努力」は「労力のかけかたの程度」といっても良いが
この「労力」というコストを払うためには動機付けが必要となる
具体的には予測による腹側被蓋野からのドーパミン作動性ニューロンの活動性を意味する
つまり
その「努力(労力)」の予測性である
「努力」をする際のパターンは
1、楽な状況下で将来の報酬を予測して努力する
2、苦しい状況下で将来の報酬を予測して努力する
3、楽な状況下で将来の報酬を予測できずに強制的に努力させられる
4、苦しい状況下で将来の報酬を予測できずに強制的に努力させられる
となる
例えば
1、は将来の職業の安定性を期待して学生の時に勉強して医学部に入る
2、は仕事が忙しい中で将来の独立を期待して休日にそのための勉強や下調べをする
3、は遊びたいのに親から無理やり勉強させられる
4、は仕事が忙しい中で生活費を稼ぐために残業せざるを得ない
といったものである 「努力」による結果の蓄積を考えると
1、の楽な状況下で将来の報酬を予測して努力する事、が結果として1番楽な選択肢となる
それは
楽な時に努力するのが一番楽で
苦しい時に努力するのが一番苦しい
となる
当然と思うかもしれないが
実際には楽な時に「努力」できる人は驚くほど少ない
楽な時には楽をするのが普通の行動だからだ
ずっと楽な状況が続く場合にはいいのだが
実際には生活費という現実的な問題があるので早めに生活の基盤は安定させた方が良い
20代で楽な時に楽をして
40代で楽をできるならいいのだが
実際には40代では苦労する、そして金銭面で強制的な努力を強いられる事となる
40代でそれを行わないとその苦労が50代、60代へとシフトしていく
その間は苦労の期間が続くのだからトータルの苦労の量は蓄積していく事となる
昔の昭和のように猛烈に働く必要はないと聞くかもしれないが
昔は「豊かになる」という報酬の予測性により努力が発生していたのだ
そして現代においても
報酬の予測性を得た人は早めから「努力」という労力を払う事ができ
結果としてトータルの苦労が減る事となる 時々、「努力しても結果が出ない事もあるから無意味」と言われる事があるが
それは当然である
将来の報酬の予測に対する「努力」は予測性であって、確実なものではない
もしも「努力しても結果が出ない事もあるから無意味」と思う場合には
そもそもの予測を変える必要がある
予測の方向性がおかしいのだ
例えば
年収200万から年収1000万を目指したいから勉強しよう
と努力したところで現実的でないのは分かると思う
報酬に対する予測と努力とは
「確率の高いことに対する報酬に対して努力をする」
という事なのだ
勉強で言えばいきなり医学部を目指すのではなく
まずは目の前の参考書を解いてみよう
年収200万であるのであればまずは年収210万円を目指そう
という事になる
達成不可能な目標を設定すれば達成できないのは当然であり
それに対して「努力は無意味」と断言するのは自分ができない事を設定してしまったからだ
努力が叶うというなら人は不老不死を目指すだろう
「努力」とは
自分の目指す方向性に向けて、報酬性のある達成可能な予測をたてて、楽な時に労力を払うのが楽な努力の仕方となる
得てして
強制的に苦しい時に労力を払わざるを得ずに無理な目標を強いられる事、が世間では一般化している
そんなものは苦しいのが当然である 忙しくなってしまったのかな?
更新を楽しみにしてますよ 他人を理解するという事と、他人への発言の返答について述べてみようと思う
他人の心情を理解する方法として大きく分けて2つの仮説が存在する
「他人というものを客観的に分析して理解している」
というものと
「他人から与えられた情報と状況を自分の中で再現して自分自信が主観的に認知する事で理解している」
というものだ
現在では外界の情報は、分析的に理解してるのではなく、状況を脳内で再現してそれに対して自分が経験をする
という方法で認知が行われているという説が有力だと考えられている
認知の発達段階において幼少期は生物以外の対象物でさえ主観的に認識されているという事をご存知だろうか
あなたが、手に車の模型を持って地面を走らせる時に、あなたは車という対象物を客観的に認識しているが
幼少期においては車は対象物ではなく、自己として認識される
これは、幼少期に車の模型を手に取って走らせる時に
自分が車の模型そのものであり、自分が車という存在になり地面を動いているという形で認識が行われる
これから分かるのは、「認識の基本は対象物を主観的にシミュレーションして理解を行う」という事である
あなたが動画で「足の小指をタンスの角にぶつけた」瞬間を見るとき、あなたは苦痛を感じるだろう
認知とは、「状況を脳内で再現して、自己の体験によって認知される」という事だ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています