完璧な虚無主義者で読書人の一人暮らし
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虚無主義またはニヒリズムとは、
「既存の価値体系や権威をすべて否定する思想や態度」
のことである。
あるいは、
「ニヒリズムあるいは虚無主義とは、この世界、特に過去および現在における
人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがない
と主張する哲学的な立場である」(ウィキペディア)
そういう虚無主義者で、しかも本を読むのが好きな人間が一人暮らしを
しながら日々の雑感をつづる。 不幸とか幸福とかと言えば、>>222で挙げたカミュの『シーシュポスの神話』
の中におもしろい文章がある。
「…… 。人間の心には、自分を圧しつぶすものだけを運命と呼ぼうとする
困った傾向がある。だが、幸福もまた、避けようもないものである以上は、
これはこれでやはり理性の手には負えぬものなのだ。…… 」
ふふふ、不幸と同様に、幸福もまた思いがげず襲いかかってくるのだ! 幸福に関しては自分からどうとでも回避できるからな
「襲いかかってくる」という不可抗力ともとれそうな程強烈なもんなんぞ、まー無い。
たとえば不意に口を突いて出たよな何気無い一言だけで脆くも崩れ去る事だってざらにある砂上の楼閣。 >>234
そう?
俺はニーチェについて深くは知らないから判断できないな クリスマス(イブ)かあ
今日は雑用を片づけに街に繰り出したけど、昔と違って大して
にぎわってなかったな
(局所的にはすごくにぎわってるところもあるんだろうけど)
もっと若かった時は、おのれの孤独をしみじみ味わうためにわざと
街の賑わいの中に身を紛れ込ませたりしたもんだ
そういう自分にしてみれば、今の街の盛り上がりのなさはちょっと
拍子抜け (´・ω・`) クリスチャンでもないのにクリスマス祝う必要ないよね >>239
まあ、あれはクリスマスにかこつけたイベントのひとつにすぎないですね。
小売業界、デパート業界、というか資本主義社会だから、何でもかんでも
何かを口実にモノやサービスを売ろうとする。
それで、(売ろうとする側が)最初から盛り上がってるわけですな。 クリスマスの話題が出たので、念のため一言。
12月25日は「白梅忌」、すなわち、与謝蕪村の忌日である。
日本の詩歌を愛する人間であれば、忘れてはならない日だ。
その辞世の句は
「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」
である。
絢爛華麗な世界を築いて、日本文学史上屈指の天才である蕪村は、自身の死に
あたっても、このように光輝にあふれた句を成した。
芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」と好対照である。
蕪村は最後まで蕪村であった。 とはいうものの、>>136〜138で書いたように、年末年始の時期となると、
俺が思い起こす俳句はたいてい小林一茶のものである。
言語美という点に限って言えば、名句、秀句が多い蕪村であるが、一方で、
その句からは蕪村の生活ぶりや人となりはまずうかがえない。
そういう意味で、凡人の共感を誘うことが少ないのである。
俺が惹かれ、この時期に思い起こすのは、たとえば、一茶の次のような句だ。
「行く年や身はならわしの古草履」
(句意は、「また今年も終わろうとしている。しかし、自分は、例によって
相変わらず古草履のような、くたびれたありさまだ」ぐらいであろう)
こういう自嘲と諦念の混じりあった感慨をもらした句は、蕪村にはまず見当たるまい。
一茶の句には、そういう、ダメ人間のための伴侶であるかのような句が
少なからず見受けられる。俺の愛読するゆえんである。 もっとも、もちろん、一茶の句がすべてそういう、いわば「品下がれる
(しな、さがれる)」ものばかりであるわけではない。
芭蕉を師と仰いだ一茶である。いわゆる蕉風と呼ばれる、格調の高い句も
一方で枚挙にいとまがない。
その種のものを歳末の句からひとつ挙げると、たとえば、次のような句。
「行く年や空の青さに守谷まで」
(句意は、「年が終わろうとしている冬のある日、すがすがしいほど青く
晴れ渡った天気だったので、近辺をぶらついていたが、気持ちのよさについ
足が延びて思わず守谷にまで来てしまった」ぐらいか)
冬空の澄み切った青さとそれにともなう孤独の影が実に印象深い。
ここでは、「孤独」が「幸福」とほぼ同義である(と、俺には思われる)。
(この孤独と幸福が一致するような境地については>>153、>>154を参照) 彼らは文学史上に名を残す才人なのはわかるけど、俳句そのものがコンテクスト依存強すぎる文学で自分にはあわんわ
守谷って言われても普段どこにいて守谷まできたのか、俳句単体ではわからん
それを言い出すと短詩型文学がだいたいそうなんだが、、 >>190で書いたように、文学は(とりわけ詩歌は)その意味や内容がよく理解
できなくても感動できる。
上の句で「守谷」について知らなくても、この句が心に残る秀句であることは
俺には動かし難い。 >>130で書いたように、昨年の年賀状は5枚超。
今年は、返信賀状を送るのが必要なのは3枚だった。減ったのは率直にうれしい。
来年は何とかゼロにならないか。
相手が察してくれればいいのだが。(´・ω・`) >>248
いや、俺はそんな風にことを荒立てたくないヘタレだから (´・ω・`) あら立つものなのか
周りでもやめる宣言する人いるけど、あっそうっ感じで風景みたいに思ってたが
もちろんあなたとはやめますって言い方じゃなくて、一律やめますってことなら、そういう人なんですねってことで終わりそうだけど >>250
>周りでもやめる宣言する人いるけど、あっそうっ感じで風景みたいに思ってたが
そうなのか。
俺の周りには「やめる宣言する人」がいないので、それは斬新なニュースだ(笑)
(皮肉ではないよ)
(というか、俺はもうほとんど人間関係を断っている。同世代の人間の動向は
さっぱりわからない)
世間的には、「やめる宣言」はそれほど奇異なことではないのか (´・ω・`) 最近SNSでつながってるから年賀状不要と判断する人が多いそうな
年賀状も販売数減ってるし 年賀状とか小学生の頃に1回送っただけだなぁ。
今度、友達に送ってみようかな。
てか、年賀状って何のためにあるのか知らないな。 やってみるとめんどいから、今までやってないならそのままでいいかも >>252
そういえば、俺も昔、取引のあった会社の人に明けましておめでとうと
電子メールで新年の挨拶を交わしたんだった
年賀状の代用という意識は全然なかったが(笑) 仕事の付き合いのある外人からは年末に挨拶メールくる ちなみに、一茶の正月を詠んだ句には次のようなものがある。
「よそ並(なみ)の正月もせぬしだらかな」
句の意味はわかりやすいだろう。
「よその家のように特別な飲食物や、門松その他のきちんとした正月飾り
を用意したりはしない、なんと自堕落な俺の正月であることよ」ぐらい。
おのれの自堕落さを悔悟していると一応、解されるが、一方で、この句は
大都市、江戸で暮らす遊民の気楽さを表現しているものともとれる。
そういう意味で、この句は現代でもふつうに通用する。 引き続き小林一茶の句について。
一茶の年始の句で、自分の特にお気に入りの一つについては昨年、
>>136から138で書いた。
今年は次のやつを挙げておこう。
「元日やさらに旅宿とおもほへず」
これは格別優れた句というわけではないかもしれないが、俺はなんとなく
気に入っている。
句意は、「元日を自分の家でゆっくり過ごさずに、旅の途中でたまたま泊まった
宿にいるが、思いがけず手厚いもてなしを受けている。ありがたいことだ。
まずはめでたい」ぐらいであろうか。
すでに述べたように、一茶は俳句のレッスン・プロとして、また、自分の俳人
としての名を広めるために諸国を巡り歩いた。そういう落ちつかない流浪の
さなかで、思いがけずゆったりと息をつけたうれしさである。
ツライ人生行路の中で、ほんの一刻たまたま平穏に恵まれることがあるものだ。
そういう、凡人にもよくある境地を、一茶はみごとにすくい上げてくれるのである。 面白いスレだ
>>258
昔も年末年始でも宿って開いてたんだな
一茶をもてなしたやつは働き者だな
最近書き込み無いみたいだがスレ主生きてるか? >>260
どうも。 (´・ω・`)
一応、まだ生きておりますよ。
どうもこのスレは書きにくいことがわかってきました。
やはり「虚無主義者」と「読書人」と「一人暮らし」の3つの属性を
ひとまとめにしたのは無理があったよう。
「虚無主義者の読書人」とかのタイトルで文学板か哲学板、あるいは、
「虚無主義者の一人暮らし」か「読書人の一人暮らし」でこのスレに
起てるべきだったのかも。
何となく焦点がうまく定まらない。(´・ω・`)
あらたに立て直すべきかちょっと悩みます。
でも、もうすべてがめんどくさくなってきた。 (´・ω・`) >>263
うーん。それはどうだろう。
まあ、>>263のハードボイルドの定義によるけど。 (´・ω・`)
俺の受け取り方では、ハードボイルドの主人公というのは、何かおのれの守るべき
ルールといったものが確固として心中にあり、それを貫き通すというイメージ。
それを曲げようとはしないから、他人と衝突するし、孤独になる。
しかし、自分の信じるルールなり思想なりがあるということは、それが価値がある
と思っているわけで、この点において、俺みたいな完璧な虚無主義者(すべては
無意味、無価値であるという考え方)からすれば、相容れない。
虚無主義者とは対極的な存在ということになる。 ただ、これはあくまで理屈の上での話である。
実生活で、この虚無主義を貫くと危ないことになる。
カミュの『異邦人』の主人公のように、母親の死やアラブ人の殺害は何の意味も
持たないと考えるような人間であると、そのような人物は現実世界では危険人物
であり、あるいは犯罪者になり、居場所を失うことになるのだ。
したがって、完璧な虚無主義者といえども、すぐに自ら命を絶たず、この世の中で
生きていく限りにおいては、世俗のルールに従わなければならない。つまり
「処世術」として世の中のルールを一応は受け入れねばならない。
また、理屈の上では虚無主義者であっても、感情の方は生き物である以上どう
しようもない。生や死は無意味であっても、母親が死んだり、人を殺したりする
ことはやはり感情的な抵抗があるはずである。
というわけで、理論的には虚無主義者であっても、この世で生きていく上では、
世の中のルールに従い、あるいは、自分の心中に湧き上がってくる自然な感情を
なだめたり、押し殺したりしつつ暮らすほかない。
そこから俺の苦しみが生まれる。 (´・ω・`) ハードボイルドの主人公も虚無主義思想の持ち主であるかもしれないが、現実に
生きていく上で、社会のルールに従い、自分の感情なり美意識なりに忠実であろう
として、その結果、生き方が窮屈になっているのかもしれない。
ここからは、人それぞれであるから、個々に論ずるほかあるまい。 362 マドモアゼル名無しさん (スッップ Sd43-TkUq) sage 2020/11/14(土) 21:29:40.08 ID:/YugWqYVd
コロナになったわ
ただただ必死で仕事頑張ってきた結果がこれって
どこが幸運期なのかな
365 マドモアゼル名無しさん (スッップ Sd43-TkUq) sage 2020/11/15(日) 09:11:21.19 ID:JryEzcpGd
>>363
ありがとう
症状は例に漏れず発熱、咳、胸の痛み、嗅覚味覚消失で入院になった
咳が止まらないのもきついけど、何より嗅覚味覚がないっていうのが牛にとって地獄
何食べても食感のみだから吐き気すらする
洗剤やシャンプーの匂いもわからない
改めてみんなも気を付けてね http://atama-pub.net/kisukura_mumai
ある日突然親に捨てられた「私」。ホームレスになり、どん底の生活の中で“生きるために”ヤクザの道へ・・・「搾取用の子」として育った筆者に、「毒になる親」はどこまでも非道の仕打ちを重ねてゆく。
家に居場所のなかった子供が必死に生き、社会に出てからも騙され、傷つけられようともがむしゃらに生きていく姿を描く自伝小説第1弾。
編集者が涙しながら編集した、必読の書。
著者略歴
季栖倉夢舞(きすくら・むまい)
昭和39年京都市生まれ。10人きょうだいの第2子・長男。幼少時から貧しい家庭で育つ。
高校生の頃、実母に棄てられホームレスに。その後“生きるために”ヤクザの世界へ。現在はヤクザの世界とは完全に縁を切り、執筆活動や料理の研究に打ち込んでいる。 タイトルに惹かれて少し読んだが
この虚無主義者の文から学ぶことは全くないと言うことだけははっきりした
この人が否定する過去の価値観の中には大いなる感動があるのだ
他者を感動させない人が、過去の価値観のを認めないと言っても負け犬の遠吠えだろう
しかし大量の本を読んでもつまらない無価値な人間という結果しか生み出せないのなら
虚無主義者ではなく本人に価値がないから、全ての価値観に価値がないと信じたいという結論に達したのだろう
正直哀れな人 本命を議員にする」という親の介護は施設任せにして値上がりする介護保険料払うのか?
マジかよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています