【存在】なぜ何も無いのではなく”何か”が在るのか
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存在に対して「何があるのか」ではなく
「なぜあるのか」にあたる問い。
なぜ宇宙(時空間)が存在するのか?
なぜ素粒子が存在するのか?
一体何がそれらの存在を許しているのか?
理論物理学の最先端、「超弦理論」によれば、
この世の最小単位である素粒子は、10次元の方向に動く10-35mオーダーの”弦”であるという。
そしてこの弦は、ある法則に従って振動する実体のないエネルギーだという。
ここで問いが生まれる。
「なぜその法則が予め存在するのか?」
カブリ数物連携宇宙研究機構の研究によると、超弦の量子もつれ現象こそが、時空を発生させている原因だという。
ここでまた問いが生まれる。
「なぜ量子力学の法則に従って動く量子があるのか?」
何かが存在する現象自体に原因や起源はあるのか?等、深く議論をお願いしたい 有の対義語が無とか言うけど実際そうなんかな。
1. 有が存在すれば無は存在する
2. 無が存在すれば有は存在する
3. 有が存在しなければ無は存在しない (2の対偶)
4. 無が存在しなければ有は存在しない (1の対偶)
お頭がアレだから前提すら間違えてるかもだけど、1と4の辻褄が合わない気がする。
突然の安価すまぬ。 >>97
ダークフローってのがあるんだろ
てことは何かわからないけどなんかあるw
ってことしか今はわからないけど これで問いがまた変わったな
「なぜ矛盾のない数学的構造が最初から存在しているのか?」 >>97
リサ・ランドールのなら11次元のバルクの上に浮かんでいる
メンブレンの接触それがビックバン
あちこちで触れて別の宇宙ができてるらしいよ 空間があり宇宙があるんだから無じゃないよね。空間という物、宇宙という物。 宇宙が存在する
↓
この宇宙を構成している素粒子や時空間が存在する
↓
時空間は素粒子(量子情報)が生み出している
↓
素粒子の位置や運動量は測定できないが、素粒子を動かすルール(法則)は存在する
↓
その法則は、数学的抽象世界に数学的構造として元々在った
↓
数学的構造の存在を許す何らかの数学的構造が存在する
→俺が思うに存在の起源はここ 「数学的構造の存在を許す何らかの数学的構造」
この文章が既に言葉遊びになっちゃってるね
すまぬ じゃあ「数学的構造の存在を許す何らかの数学的構造」の存在を許す何らかの数学的構造が存在するってことだな 宇宙は無からはじまったと、宇宙は最初からあったとは等しい。
というのは宇宙が始まる前に無だったと仮定すると、無とは何もないことだから、
宇宙が始まる前はなかった → 宇宙は最初からあった となるからだよw。
わかる?
はふんはふんおふんおふん。 >>110
ぬしゃよ、はいぎぃ〜っぬしゃあどう等価だったかを説明しないとダメじゃないかw
それだとただの言葉の遊びになってしまうぞ。
はふんはふんおふんおふん。 ミクロな視点で見るから有とか無とか出てくるんだよ
時間も空間も物質も情報量も、全て内側からそう見てるだけで実際には全てを内包した何かがただ存在してるだけ >>112
内側?
では外側とは何のことかね?
それを説明しないとキミのもただの言葉の遊びになってしまうぞw
はふんはふんおふんおふん。 地球に隕石が衝突しなかったら恐竜が
未だに繁栄し人類は誕生せず誰も宇宙がどうのこうのと思いもしない。 何も無いという概念は、
何かが在って初めて存在できる概念だから。 >>118
ぬしゃよ、はいぎぃ〜っぬしゃあ無は存在できぬよ。
存在できぬから無なのじゃw
はふんはふんおふんおふん。 科学はhow(どのように)を突き詰める学問であって、why(なぜ)を突き詰める学問ではない >>120
つまりリンゴが木から落ちた、何故落ちたかは考えずに、どのように落ちたかだけを考えるのだね。
それには落ちていく様子を描写すればいい。それが科学なんだね?w
はふんはふんおふんおふん。 マクロで見ると、スカスカながら何かがあるように見えるが、
ミクロで見ると何も無いように見える
ここに鍵がある >>52
1ラインを構成する点は0次元とか言うけどさ、ミクロで見たら大きさはあるわけじゃん
正確には2次元の球なわけじゃん
0次元の点なんて概念としてあり得ない
存在できないはずだよ >>37
弦の性質が存在する
↓
弦の性質を記述する数学的抽象世界が元々あった
↓
数学的抽象世界に存在する数学的構造の存在を許す数学的構造が元々あった
頑張ればここまで遡れる >>123
ぬしゃよ、はいぎぃ〜っぬしゃあ0次元の点は概念としてならあり得るぞ。
それを言うなら実際にはあり得ないというべきだろうがw
はふんはふんおふんおふん。 球というのは3次元の概念だぞ
2次元だと円だ
0次元の点、というのはどこまで拡大しても点だから0次元っていう概念
拡大できるっていう考え方そのものがすでに0次元では無い
それが許されるなら、1次元の線は拡大すれば面であるというのと同じこと 私は、人間が理解できないさまざまな力の存在を信じている
──ヘンリーキッシンジャー 本当に何も無いのでしょうか?
そもそも言語とは、「存在」を表す性質があるので無を表すことはできません
人間が言語を通して思考を行っている以上、必ず「何か」が在ってしまいます
言語を捨てよ
これが無へ近づく最初の一歩です >>128
ぬしゃよ、はいぎぃ〜っぬしゃあ、
>言語を捨てよ
>これが無へ近づく最初の一歩です
言ったそばから言語を使っておるぞw
はふんはふんおふんおふん。 >>128
■論理は言葉なのか
“人間は言葉で考える”
これはあちこちで言われる定説のようなものですが
子供の頃は、これに対して非常な抵抗がありました
同じように感じる人もおられるかもしれない
思考というのは言葉に限定されるようなものじゃなく、
もっと広いものだ
言葉にできない“思い”はいっぱいあると、
そんな感覚というか確信があったわけです
ところがそこそこ歳をとって、浅知恵がついてまいりますと
言葉で表現できないようなものはそもそも思考ではない
それは単に上手く説明できない自分に対しての
悶々とした気分にすぎないのだ
などと思うようになりました、いい加減なものです
しかし子供の頃に感じたあの確信は、果たしてそのまま
ゴミ箱に捨ててよいものなのか
たとえば、計算はそれ自体、言葉なのか
それがもし言葉でないとするなら計算は思考ではない
ことになるが、そうなのか ソフトウエアは究極の新皮質階層構造の計算原理を高度化したマスターアルゴリズム
マスターアルゴリズムと海馬、大脳基底核(報酬系)を結合した人工超知能
そしてハードウェアは万能型量子コンピューター(誤り訂正機能付き)
この究極のマシンで、膨大な数に上る数学の難問を生成すると同時に証明を行う
「仮説の生成&検証」という科学技術基盤を回すことで、自動的に宇宙の謎が解ける
人類の定常的宇宙進出にも寄与する
究極のマシン一つさえあれば、東大のカブリ数物宇宙研で働いてる研究者は全員失業する
存在の謎、存在の起源に対する問いも解決される >>52
”情報”という実態のない存在が0次元時空で存在できるという仮説
これを数学的に証明できれば、ビッグバン理論や超弦理論もレベルアップできるかもな 質量とは、エネルギーのことである
エネルギーとは、情報のことである
一部の素粒子(量子)は質量を持っている
質量があるということは、ある情報を持っている
数学的幾何構造である時空間は、情報が存在できる舞台背景(土台)のようなもの
その舞台背景もまた、量子が生み出す情報によって発生し、歪んだり縮んだりする 実際の無ってのは
合計して0なら何でも許される状態なのかもな 1と-1が生まれたがその1と他の1がくっついて
-1じゃ消せない存在になるようなイレギュラーも積み重なり、
物質とそれを打ち消して0にしようとする重力の働きで
ブラックホールがうまれるまでになった今の宇宙に至ったのです 電子は粒子でもあり波でもあり
波動関数で示される確率を持って複数の場所に同時に確率的に存在している 「何かある」の中にいるからそう見えるだけかもしれない
それだけが全てとは限らない 座を繋げて意味を持たせた芸当と似たような妄想回路なんだろうww 色即是空 空即是色 で表現としてはすでに完成されてると思う。 2013年のビルダーバーグ会議に、ひも理論を専門とする理論物理学者が呼ばれている
だからなんだって話だが >>145
その理論物理学者はガタイがよかったのだろう。
だからボディビルダーの会議に呼ばれたのだ。 >>143
ぬしゃよ、はいぎぃ〜っぬしゃあそれは般若心経の一節だ。
般若心経は真理を述べたものではなく、掛け声のようなものだ。
般若心経の最後の一節「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(ぎやていぎやていはらぎやていはらそうぎやていぼうじそわか)」を読めばそれがわかるじゃろうw
はふんはふんおふんおふん。 また法華経の「南無妙法蓮華経」という一節も真理を述べたものではなく、掛け声のようなものだ。
意味は「私は法華経の教えに帰依します」という意味だからじゃ。
いわば経文と同じいうのは中身のない掛け声だけのものじゃということだw
はふんはふんおふんおふん 般若心経の最後の一節「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(ぎやていぎやていはらぎやていはらそうぎやていぼうじそわか)」だが、
行こう、行こう、真実の世界に行こう、みんなで共に行き、 仏の悟りを成就しよう」という意味じゃw
つまり単なる掛け声じゃw
はふんはふんおふんおふん 構ってもらえなくなったからって、巣から出てくんな
気色悪い
そこまで構って欲しいのか、カス 自分で立てたゴミスレに引きこもって、出てくんな
きしょいキャラ付けしねーと何も書けない臆病者が
宇宙の質問が書き込まれたら誰かが即答するスレ72
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/galileo/1587983308/ >>144
空(くう)は色(しき)、色は空、
空というのが、無限とか、0とか、すべてであってすべてでないもの。
なんにでも成り得るけど、まだ形のないものとか、
言葉にはならないけどそういう感じのやつのこと。
色というのは、この有限の世界、観測し得るすべてのこと、認識とか意識とかのことだ。
色即是空空即是色、
有限と無限が対になっているとか、
有限は無限に内包されているとか、
認識できるものと認識できないものが裏表になってるとか、
イメージとしてはそんなものだろうか。
読み手の解釈によってもっと本質的にもなると思うけど、
所詮言葉にならないもののことだから、
言葉を重ねるほど本質から遠ざかるのもまた確か。
結局は詩的にして、それを暗喩するしかないっていうか。
で、それを示す詩として完成されてるのが般若心経で、色即是空 空即是色 なんよ。 不立文字ですね。
般若心経は、伝えたい概念はあるものの、それ自体が人間の理解を越えているため伝えきれず、
外形的なところなぞって、何とかそのわけのわからなさを伝えているような感じがします。 色即是空空即是色
大即是小小即是大
強即是弱弱即是強
速即是遅遅即是速
美即是醜醜即是美
硬即是柔柔即是硬
明即是暗暗即是明
富即是貧貧即是富 ぬしゃらよ、はいぎぃ〜っぬしゃらあ宇宙は無から生まれたのではない。断言する。
なぜなら無はないから無なのじゃ。つまり無はあり得ないのじゃ。
だから宇宙がはじまる前が無ということはないのじゃよw
はふんはふんおふんおふん。 無はないから無なのじゃ。無はないのじゃ。
だからすべてが有なのじゃよ。
はふんはふんおふんおふん。 0次元時空で情報(エネルギー)が数学的に存在できることの証明が欲しい 般若心経は確かに現在の宇宙論とイメージが似ているかもしれないが
テーマというか軸に置いているのが人間なので異なる
数学的な記述は真に数学的であって理性でのみ数学的に理解できるが
それは感情とか人生とか苦とかは別 人生哲学や宗教と科学を直ざやに結びつけるのは
ただの単語や概念の当て嵌めゲームだろ。
意図も歴史も理解しないでんなことしてもしゃあない。 0から産まれられるもの
1×0、0×1が即自有、
1-1が正負 数字遊びと言葉遊びだけやってても、この問題は永遠に解決しない 「なぜあるのか?」は「という問いは「ある」という事が前提となっているが、そもそも本当にあるのか?
それ以前に「ある」とは一体何なのか?という事が明確にならなければなぜあるのか?という問いの答えは永遠に出ないのではないだろうか? 唯識思想によると我々は外界に事物が存在すると思っているがそれは間違いで、
ただ影像があるだけらしい。 仏教つーか釈迦の思想って正直良く理解できん。
専門用語多すぎて、めんどくさいし。 ただ、聞きかじり読みかじりの半端な知識ながら、こなりぶっ飛んだ超最先端思想の感はある。
つっこみどころがない感じw 横山絋一って人が書いた「唯識の思想」って本を読むことを勧める。 ただ釈迦の思想つーか、哲学を皆んなが理解してるわけじゃなくて、かなり大部分の人は曲解してるんじゃない?とか思う。 釈迦詳しい人に聞きたいけど、釈迦は有を否定してないよね?
無も0として説いてないよね? 釈迦というか、仏教は中道を説きますので、
有と無、大と小、長と短、高と低などの両極端にあるものに執着しない、
捉われない、偏らないのです。
全ては縁起で成り立っているので、何一つとしてそれそのものだけで成り立っている実体など存在しないのです。
しかし、この思想だけは別なので、正確に言うとこの考え方以外の全てということになりますかね。
ただ、当然その考え方にも執着しない、捉われない必要があります。
人は皆、自分があると信じて疑わない。しかしそんなものは無い。 by 釈迦 仏教は有と無ではなくそれら二極を超えた空を説いてます。
仏教では有と無に代表されるような両極端にあるものへの執着や捉われを戒めています。 >>175
レスありがとう。
うん、中道。読んだことある。
でもあんまり良くわからんないね。
単なる例え話で、悟りに至るために必要な考え方を分かりやすいように説明しただけなんだと思う。
人は皆〜という話しは、多分、当時一般的に信じられていた霊魂つーか、魂みたいなもんはないよって話なんだと思うけど。
やっぱ、有る?在る?は、否定してないよね? >>176
重ね重ねありがとう。
悟りを開くっていうのかな、その為には空とかいう概念が必要なんだね。
ということは、無も否定してない? この究極の問いって、無限後退するだけの話で、答えは出ないが正解だと思うけど。
ただ、この問いを問い続ける行為自体は、非常に意義があると思う。
人類が存続する限り、常に共にあると思う。 >>177-178
自分もまだ勉強中なのでそこまで詳しくないのですが、
無はどうだったかはちょっと忘れてしまったのですが、
有はたしか唯識では否定してたと思います。
詳しくは「唯識の思想」という本を読んでください。 人は皆〜のやつは霊魂の否定ではないないです。
全ては縁起によって一時的に成り立っているだけであってそのものだけで成り立っている
実体はないという意味です。
そもそも仏教というのは苦を取り除くことが目的なので、
苦を取り除く事に全く役に立たない霊魂とか死後の世界みたいな形而上学的な問題は全く相手にしません。
釈迦も弟子からのそのような質問には答えなかったと言われています。(それを無記と言います。) ある無いって区別も熱い冷たいみたいな感覚の話で
よりミクロな領域が解明されていけば無くなるだろう概念 我々が見ているのは本質(現実の本体)ではなく、それが何かに照らされてできた影の部分でしかないんです。 仏教では実体(不変のもの)は何もなくすべては移ろいゆく空であると説く。
だがこれは間違っておる。
確かにアナログのデータは時間と友に色あせたりして移ろいゆくが、
デジタルデータは何億年たとうが何兆年たとうが、うくられた時のままだ。
仏教ができたときにはデジタルという概念はなかったからな。
そこが仏教の誤謬というわけじゃw
wwwwwwww
はふんはふんおふんおふん。 >>182
遅レスながら、重ね重ね本当にありがとう。
うん、実体はないのね。
日本語が面倒なのは仏教の専門用語が、常用化して、本来の意味とは違ってしまってる感じがする。
つーか、オレの語彙が貧弱ですいません。
ただ空にしろ中道にしろ実体はないんだよね。
有無も実体として無いつーか、錯覚なんだろうけど概念としてはあるよね?
悟りを開くためには有も無も勘違いだから、錯覚しないでねって言ってるんだと思うんだけど、お釈迦さん。
で多分、人は皆〜の話は、霊魂とか自我とかに実体はないって話なんだと思う。
輪廻とかの話もお釈迦さん自身は、全く信じて無かったんだと思う。
うん、無記も読んだことある。
お釈迦さんの苦労が分かる気がする。
賢い。 仏教スレじゃないんで、あんまり良くないんでしょうけど、お釈迦さんの前世の話とか輪廻の話とか梵天〜とか神通力の話とか嘘だと思ってる。
お弟子さんが、少しずつ盛っていって、そう言う話になってしまったのかなと。 もしくは、嘘も方便で、お弟子さんが理解しやすいようにそう言ったのか。
どちらにしても、お釈迦さん自身は悟りにいたる道程を示しただけなんだと思う。 全然違うな
釈迦の説く悟りというのは輪廻という概念が前提でなければ成立しないからな
輪廻思想は当時のインドでは普遍的な思想であり、釈迦はこのアンチテーゼとして悟りに行き着いたのだからして釈迦が輪廻を無視することはありえない この世界の最初の法則を見つけた。
===
これでしょ その法則が予め存在していなかったと仮定すると私たちは生まれておらず存在しないことになる
私たちは存在しているのでその法則が予め存在していたことになる それは祈りをこめて行われ
ここから遥か彼方遠く離れた場所で
予め存在する法則に則り
時空を生む 六角形と正二十面体
この2つはとても美しく、関係性がある
6,28,496といった完全数とも関係がある 仏教を調べてたらこちらをチラ見した通りすがりですこんばんは
「奇蹟がくれた数式」という映画に「宇宙に元々存在している数式をただ降ろしている」ということが描かれています。
方程式は元々あるけど、それを証明するのに時間がかかる、というふうにも見れる映画だと思います。
あと仏教の曼荼羅の一部は宇宙を表していると思います
曼荼羅には「無」(エネルギー体)を人格化した神もいます。
現在過去未来は弓の中に存在するという曼荼羅もあります。
これが1000年以上前から伝えられているので、解釈は様々あるようですが、こちらも時間をかけて証明されていくように思います。 相互作用するもの同士=もともと1つのモノの間では何かあるように感じられる
しかし何とも相互作用するものがない絶対的な視点から見ると
何もないのと一緒
ようは世界の本質は幻、幽霊みたいなものかもしれない 98 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2020/07/17(金) 19:27:38.18 0
世界が存在すること、あるいは何かが存在することに
何か理由があるとでもいいたいんですかね?
人間は、全ての物事、現象に「原因」があると思い込んでる節がある。
99 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2020/07/17(金) 19:28:54.63 0
>>98
じゃあお前さんに聞こう
世界が存在する現象そのものに原因がない理由とは何かね?
100 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2020/07/17(金) 19:29:47.89 0
>>99
は?
原因が無い理由?
そんなの答えられるわけないじゃんw
原因が無い で終了する話だよ 「私が「〜〜という状態」を所有する」という文章と「私が「〜〜という状態」にある」というのは「私が「〜〜という状態」」が成立していて、同じ事を言ってる気がしたけれども何か違う気がして、何が違うのか考えたところ、第二の文は
「〜〜という状態」が、私を所有する
と言い換えられます。
ここで第一の文と第三の文を比べると、所有するの主語と目的語、主体と客体が入れ替わっている、同じ事を言ってるのにも関わらず矛盾している、と考えました。
さらにこれを推し進めて、所有するの定義は何か考えたところ
AはBを所有するをA⊇Bと書いたところ、先ほどの文はA⊇BかつB⊇A、すなわちAとBの境界、輪郭のことだとわかる。つまり、存在とは輪郭、内側でもあり外側でもある主体と客体の境界のことだとわかります。
つまり主体にとって客体が定義されなければ存在が成立しない。
ゆえに人は他者なしに存在することは出来ない。
現在において存在は成立しておらず人間は皆、存在するかしないわからない不安・動揺を抱えていてこの事が人間の精神を支配しているように思います。
動詞の主語となるだけでは存在は成立せず、動詞の主語となると同時に動詞の目的語にならなければ存在は成立しない。
そして現象は存在を成立させるように動いていく。
第一の文章だけでは存在は成立しないので、第一の文章のみ成立し第二の文章が成立してない、存在するも存在しないも成立してない状態があるようにみえます。つまり、目に見えない世界がある。これを波動空間と定義します。
目に見える空間の存在は波動と波動の重ね合わせによって定まっている、のであれば、片側の波動を変えれば目に見える存在は変わる。というのを病気という現象に応用した時、病気にかかっている人間の波動が変われば病気も変わるのではないでしょうか?病も気から、という言葉がある通り、本人の波動、精神が病気という現象を定めているのではないでしょうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています