(相馬藩)飢饉と災害と大量死(幕藩体制崩壊まで)
(1)飢饉とは(物資不足)
(2)飢疫
・飢饉と疫病,病虫害
・自然災害と東西日本の相違
(3)江戸の3大飢饉と改革
(4)飢饉と明治新政府
(5)大塩平八郎の乱
(6)百姓一揆(越後柏崎(かしわざき)の一揆など)
(7)日本の歴史(古事記から大和朝廷まで)
本スレは5ch運営を含む、広義の反社会的勢力・荒らしの書き込み、制限を禁止します。 (8)福島県相馬藩の飢饉と明治改革
(9)中国と日本の歴史(奴の国〜徳川幕府まで)
(10)東北諸藩と幕藩体制
(11)欧米列強の技術と文化
(12)飢饉と気象
・東北地方の気象
・地球寒冷化と地球温暖化・・・温暖期に飢饉無し (13)行政(幕府)の飢饉対策
・対策が追い付かない
(14)民衆の反乱
・封建主義の崩壊と民主化
(15)異文化の利益と脅威
・宗教と植民地脅威(欧米)
・交易と情報・技術・文化
(16)以降etc (1)飢饉(国語辞典より)
食物以外でも必要な物資がいちじるしく不足する場合にいう。
(水飢饉は灌漑用水の不足を招く為、飢饉に先行する) (2)飢疫
地方によってはケカチ(飢渇)とかガシ(餓死)と呼ばれてきた。
飢え死にだけで無く、体が弱ったところに、疫病が流行し、
死ぬ者が多かったからで、飢疫というのが実態にあっている。
↓
凶作は農作物が被害を受けて激減することで、その原因は
(東北など主に東日本)寒冷(冷害)・長雨
(主に西日本)日照り(水不足)・暴風雨(台風)・集中豪雨被害
といった異常気象が最も多い。また虫害も大きな被害をもたらした。
参考(歴史事典より) (3)江戸の三大飢饉と三大改革
@享保(きょうほう)の飢饉(1732-33年)
→餓死者1万2千人、飢人264万人、牛馬1万4千頭餓死
→享保(きょうほう)の改革(-1745年)
>
A天明(てんめい)の飢饉(1782年-1787年)
→津軽藩(餓死者20万人)
→日本全国(餓死者100万人)
→寛政の改革(1787-93年)
>
B天保(てんぽう)の飢饉(1832年-1839年)
→東北地方を中心に餓死者20万人〜、救済された飢人70万人
→天保(てんぽう)の改革(1841年-1843年) @享保(きょうほう)の飢饉(1732-33年)・・暖冬に継ぐ冷夏からの病虫害
西日本をイナゴの大群が襲いました。
特に福岡県、佐賀県、愛媛県で甚大な被害が発生。
↓
幕府への損毛届では餓死者は1万2172人、飢人は264万人
となっている(餓死者はこれよりかなり多いと思われる)
↓
餓死牛馬は1万4000頭
↓
幕府が地方から御用米など25〜27万石の救援米を送らせたが、
江戸でも米価が高騰し、1733年に江戸で打ちこわしが発生。
↓
幕府で米価を調節し、また翌年に豊作となったことから3年で収まった。
→享保(きょうほう)の改革(-1745年) 多数の新田開発を行った。
参考(歴史事典より) A天明(てんめい)大飢饉(1782年-1787年):浅間山噴火の冷害で長引いた大飢饉
→異常気象による不作
→翌年、浅間山が噴火し、集落が消滅
→溶岩流と土石流による巨大洪水が発生、
河川沿いに上流から河口まで多大な被害
→火山灰の影響で数年間冷害が続いた。
→津軽藩だけで餓死者20万人
→日本全国で100万人近くが、死亡したとされる。
↓
寛政の改革(1787-93年),松平定信 寛政の改革(1787-93年),松平定信
↓
割と普通の行政改革を行っているのだが、効果が無かったとされたのか、
何故か、当時の評価も後世の歴史家の評価も今一つだった。
松平定信はこの後、「大奥の策謀」で失脚したのだが、
幕吏や大衆からも全体に低評価、不人気であったと言える。 (4)「明治新政府」による「近代化政策」以降、
飢饉による大量の餓死者が出ることは無くなりました!
↓
歴史と背景を確認しながら勉強しましょう。
参考文献「復古期」「戊辰戦争」「維新の内乱」「明治維新」など多数 (5)大塩平八郎の乱
B天保の飢饉(通称7年飢饉)風雨・洪水・冷害から全国的な飢饉が発生
1832年,33年,35年,36年,1837年(34年のみ豊作)の翌年まで
7年間連続して飢饉が発生
↓
飢饉で幕吏(下級役人,ばくり)・富んだ農民、町人・武士による
(大阪クーデター)「大塩平八郎の乱」が発生し、近世の限界に到達していました。 「大塩平八郎」の摂津、河内、和泉、播磨など「畿と近畿」での
「檄文」(げきぶん)の頭言より
↓
「天災や飢饉は悪政に対する天の警鐘*であるのに・・・」 >「天災や飢饉は悪政に対する天の警鐘*であるのに・・・」
*災異思想(さいいしそう)(紀元前120年前後)
前漢の儒学者 董仲舒が理論的根拠を与えた中国思想。
↓
大塩平八郎は武士だった為、儒学に精通していたと思われる。
*董仲舒(とうちゅうじょ)・・中国の官学2000年の歴史を定めた偉人・賢人。
後の中国の近代化を遅らせた遠因の一つでもある。
*漢書に漢の武帝が儒学を国教化した説がある。 (6)百姓一揆
大塩平八郎の乱に関連した一揆だけでも、
「新潟県-越後柏崎(えちごかしわざき)の一揆」
「岡山県-備後三原(びんごみはら)の一揆」
「大阪-摂津能勢(せっつのせ)の一揆」
・・・他多数 B天保の飢饉(通称7年飢饉)風雨・洪水・冷害から全国的な飢饉が発生
まれに見る酷い飢饉だったので、東北地方で20万人〜と言われるほど
大量の餓死者を出しました。
●全国各地で、米騒動が、多発した。
日本全国各地で上記以外、多数発生。
●出羽国(1833-34年 巳年の飢渇ケカチ)
・秋田藩、数万人が餓死
●陸奥国(1836-37年)
・弘前藩、三万〜七万人が餓死
・仙台藩では石巻周辺など複数の村で人口の1/3が消滅) ●盛岡藩や八戸藩では、飢えた人と農民の間で、殺りくが繰り広げられた。
●江戸には大量の無宿、野非人などが流入し、介抱小屋が設置された。
参考文献
「天保の飢饉」「天保騒動記」「天保期の人民闘争と社会変革」百姓一揆研究会など 乱の原因は飢饉に際した貧民で無く、下級役人や武士※※、富んだ農民、町人※※が、
「幕藩体制の限界」を感じていたからです。
↓
また乱に対する当時の江戸幕府の対応が残虐でした・・・人心は収まらず・・・
↓
幕府は天保の改革(1841-1843年)を行うも、時遅く民意は離れ、
このまま明治改革へ繋がり、幕藩体制は完全に崩壊します。
※※はこの後、解説します。 (7)日本の歴史(古事記から大和朝廷まで)
大塩平八郎の乱は江戸時代で最も富裕な大阪の商業地区
(※河内、摂津)で発生したのです。
↓
大阪は「畿」の一つで「多くの都」があり大王(歴代の天皇)が暮し、
京都、奈良を凌ぐほどの「歴代天皇の古墳群」で有名です。 大阪≒奈良や京都と並び、ほぼ日本史であり飛鳥時代から1600年以上の歴史を
誇っている一方、江戸は二本橋を中心に低湿地を開発して僅か400年足らず、
↓
関東は元々「※武蔵の国」が一番大きく、栄えていました。 ※現代でも古地名は、「出雲」など自衛隊の艦隊の名称に
使われる位、日本の東西の歴史を育んだ由緒正しい地名
大和=奈良県(日本最古の畿き)
武蔵=埼玉県(一部東京都と神奈川県を含む*)
↓
古事記や日本書記で出てくる大和(日本)武(尊)のこと。 *埼玉県は飛鳥時代以前からの古墳群や平安時代の荘園で有名
秩父は知々夫といって牟邪志(ムサシ)と3つに分かれていたのが
武蔵の国に合体したのです。 古事記に遡ると奴の国(九州博多)〜邪馬台国〜大和朝廷にかけて、
・西日本の大和(やまと)
・東日本の武蔵(むさし)
の周辺の豪族が手を結び、日本各地の豪族を統一していった
という歴史的な流れがある為です。 これらは西暦57年(倭の国は30カ国)〜西暦400年頃ですから、
聖徳太子の時代より遙か200年前から350年前の話です。 当時の東日本は信濃(しなの,長野県)や常陸(ひたち,茨城県)
や越(こし、福井、富山、新潟南部)まで、それより北は
東北まで含めて蝦夷地と呼ばれていました。
↓
飛鳥時代から奈良時代にかけて、五畿七道が整備され、
(西暦500年〜700年頃)
↓
後に「陸奥」、「奥羽」、「出羽」などが次第に統一されたり、
分割されたりして、蝦夷地が北海道まで押し戻されたわけです。 以上を理解した所で、具体例について「相馬藩」を勉強しましょう。 (8)相馬藩の歴史 以下、危険ポイント●、OKポイント○
陸奥国(むつのくに)中村藩(福島県相馬市) 参考文献(福島県史 相馬市史など)
相馬氏は12世紀末の奥州合戦以来、江戸幕末までこの地を領した。
↓
領主の相馬義胤(そうまよしたね)は豊臣秀吉の
奥羽仕置(おううしおき)で「本領を安堵○」された。
↓
関ヶ原の戦いに不参加の為、徳川家康により
いったん改易(1602年)●されるが、
子、相馬利胤(としたね)の申し開きで、「所領を安堵○」された。
↓
4代 相馬忠胤(ただたね)のとき新田開発など藩制を整備した。
↓
最盛期には表高(おもてだか)6万石に加え4万石近くを生み出した○。
↓ 相馬藩の財政は18世紀中頃から、赤字に転落●、
↓
天明の飢饉では甚大な被害を受け●、損毛9万石近く●に及び、人口が激減●した。
↓
藩は幕府から、5000両を借金●し、救済にあたった。
1817年 12代 相馬益胤(そうまますたね)は藩政の改革を行い、幕末まで続けられた。
↓ ↓
1868年の戊辰戦争(ぼしん)で(官軍)新政府軍と(賊軍)旧幕府軍
が戦いましたが、
相馬藩は奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟に参加●してしまった為、
降伏●しましたが「本領は安堵○」されました。 ※※西日本の諸藩は(明治新政府側が多い為)戦わず新政府に下りました。
※※関西を中心に関東の大商人の多くも新政府支持に回りました。
↓
相馬藩は明治維新の廃藩後、中村県など数県を経て、1876年に福島県に編入された。 ※※西日本の諸藩は(明治新政府側が多い為)戦わず新政府に下りました。
※※関西を中心に関東の大商人の多くも新政府支持に回りました。
なんでだろう? (9)中国と日本の歴史(奴の国〜徳川幕府まで)
で分かります。 (9)中国と日本の歴史(奴の国〜徳川幕府まで)
理由 「倭の国の奴(博多)の国王(西暦57年)」の
中国(後漢)や朝鮮との交易の歴史から分かる通り、
↓
古代から日本は中国の属臣*として土木、繊維業、鉄から仏教まで多くの文化を輸入し
↓
北九州、長崎など九州地方、山陰、山陽、四国、関西までが
日本の中心として栄えてきた歴史があったから。 「倭の国の奴の国王」
(南北朝の晋時代に陳寿に私撰・編纂された[三国志]の[魏志]-[倭人伝]に掲載) 薩摩藩、長州藩(長門の国、山口県)、土佐藩など
九州と中四国の西日本の諸藩(伊予や安芸なども)や
関西商人と取引があった関東の商人達は、
「江戸幕府が、外国より遅れていた」、と知っていたから!
もはや江戸幕府の味方はしなかったのです。 >「江戸幕府が、外国より遅れていた」、と知っていたから!
(江戸初期の長崎の天草四郎の反乱を見て分かる通り、
初期段階から反乱が起こっており、これも西洋に対して遅れていたから、
と見る歴史学者は多い。) >古代から日本は中国の属臣*として
を解説します。 *卑弥呼を始め、足利尊氏、徳川家光など、中国から日本国王と認められた。
中国が前漢の時代から強大な権力を誇り、「東アジアの秩序を守る制度」を確立していた。
これを「冊封(さくほう)」政策と言います 鎌倉時代にモンゴルの支配が中国に及び、東アジアの秩序が乱れたのです!
↓
「元寇(げんこう)(西暦1274年)」で東アジア各国は緊張状態に陥った。
↓
これを吹き払ったのが、北九州(博多湾)の台風。
博多は「奴の国」であり、日本史上の神風は、深い歴史的な意味あいから言われる。 *解説2
朝貢(ちょうこう)・・・卑弥呼から室町幕府、徳川幕府まで行っていた、中国への貢物。
これと引き換えに、日本の国王として、中国から認められ、
対外的(外国への)な権威となっていた。 *1635年に幕府は将軍の対外的称号を国王で無く、大君(たいくん)と定め、
天皇と区別するようになり、1854年の13代将軍徳川家定(いえさだ)まで続いた。
(幕府から当時の九州の対馬藩は朝鮮外交業務が家業とされた。) 話を元に戻します。
「西日本は外国との交易が盛ん」で西洋、中東、インド、中国などの
最新の技術・文化が入って来た為。
↓
薩摩藩、長州藩、土佐藩など九州と中四国の西日本の諸藩や
関西と取引があった関東の商人達は、
「江戸幕府が、外国より遅れていた」、と知っていたから! だから多くが新政府軍に味方し、通称(一ツ橋家)の徳川家である
15代将軍 徳川慶喜(よしのぶ)はこれを見て、1866年の就任翌年に
1867年に「大政奉還」したわけです。
松平慶永→参勤交代の廃止
徳川慶喜→大政奉還(10月14日)将軍職の辞退(10月24日) この後、薩摩、尾張、越前、土佐、安芸の5藩兵で御所を警備しての
御前会議を開き、王政復古の大号令(クーデター)となりました。
一部の藩は徳川幕府に非常に同情的だったと言います。
なお将軍だった徳川慶喜は明治改革の功績により、後に侯爵家となっています。
勲章ももらっています。 では、相馬藩の奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱん)に話を戻しましょう。
この後も「飢饉の餓死者が多かった(東北地方の被害地域)の諸藩」ほど、
何故か、(賊軍である)旧幕府軍に肩入れした(「東北戊辰戦争」)
という不思議な現象※がありました。
↓
そもそもの※餓死者が多く出た根源的な構造原因 クーデターで政権は既に新政府軍にひっくりかえっているのです!
将軍も、それを認めて、奉還してしまっています。
でも残党勢力が認めないんですね、 (賊軍である)旧幕府軍に
最後まで騙されて・・・応援しちゃっているんです。 東北諸藩が・・・! (賊軍である)旧幕府軍に最後まで騙されて・・・応援しちゃっているんです。東北諸藩が・・・!
(賊軍である)旧幕府軍に最後まで騙されて・・・応援しちゃっているんです。東北諸藩が・・・!
(賊軍である)旧幕府軍に最後まで騙されて・・・応援しちゃっているんです。東北諸藩が・・・!
(賊軍である)旧幕府軍に最後まで騙されて・・・応援しちゃっているんです。東北諸藩が・・・!
(賊軍である)旧幕府軍に最後まで騙されて・・・応援しちゃっているんです。東北諸藩が・・・! 奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱん-どうめい)とは?
東北26藩と一部北陸藩が、これに所属して、(賊軍)旧幕府軍を
応援していたのです! びっくりでしょ! 秋田藩、弘前藩→新政府側・・・・秋田と弘前は当時「まとも」だったんですね! 列藩同盟諸藩(れっぱんどうめいしょはん)
米沢藩→旧幕府側(9月に降伏)
仙台藩→旧幕府側(9月に降伏)
会津藩の白虎隊→旧幕府側(9月22日に降伏,会津戦争)
庄内藩→旧幕府側(9月26日に降伏)
南部藩→旧幕府側(10月9日に降伏)
などが、次々と、新政府軍に負けて降伏しました。 列藩同盟諸藩は後の日本史の歴史学者から
「おくれた封建領主のルースな連合体」と評されました。 ↓偉い国史の歴史学者からもけちょんけちょんに言われたんです!
「おくれた封建領主のルースな連合体」→奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱん-どうめい)
「おくれた封建領主のルースな連合体」
「おくれた封建領主のルースな連合体」 (賊軍)旧幕府軍は最終的に榎本軍が江戸湾を脱出し、
函館の五稜郭(函館戦争)で降伏しました。
蝦夷地まで、いってエライ迷惑でしたね。
蝦夷というのは、当時、外国の民族という蔑視的な意味あいで使われました。
大和朝廷に逆らう存在という意味ですね。
西暦50年〜400年頃までは、鹿児島県の隼人民族も、蝦夷扱いだったようです。 「何故、情報が遅れたのか?」
↓
東日本、江戸幕府より、北日本や、東北地方、蝦夷地は外国から
遠く、交易があまり無い為に情報が遅れていたのです。
(アイヌだけは、北方の現地民族(ロシア)と交流し、独自文化を築いていた
但し、近代的では無かった) (10)東北諸藩と幕藩体制
以上、>>43-53までとなります。 (11)欧米列強の技術と文化
明治の近代化政策は、欧米列強によるところが大きかったのです。
そもそも新政府軍(イギリス)と旧幕府軍(フランス)などの兵器の肩入れからして、
欧米列強だったし・・・ 1866年 フランス軍事教官 デュ・ブスケ来日 帝国憲法の起草に寄与
1870年明治3年(官営)富岡製糸場 フランス人技師 ポール・ブリュナによりフランス式を導入
1875年ポール・ブリュナ帰国
→現在、世界遺産じゃなくて、何かありましたよね、あれです。 1876年明治9年ウイリアム・スミス・クラーク博士来日、
(アメリカのマサチューセッツ農科大学の初代学長)
札幌農学校(現在の北海道大学)の初代学長
内村鑑三(うちむらかんぞう)、新渡戸稲造(にとべいなぞう)らの学生に感化を及ぼす。 1878年ジェームズ・アルフレッド・ユーイング 来日中に磁気ヒステリシス曲線を発見・命名
(イギリス物理学者、エジンバラ大学副学長などを歴任)
→→→「地震計の発明」
→→→その後の東大や東北大学の金属物理学の先端研究の礎を気付いた。 1876年ジョン・ミルン(イギリス地質学者、鉱山技師)
教鞭をとるかたわら、日本の地質や地震の調査を開始する。 1880年ジョン・ミルンがユーイングらと横浜地震を契機に日本地震学会を創立
日本における近代地震学の基礎を築いた。
日本の968の地震観測所設立に尽力する イギリス人のジョン・ミルンがユーイングらと横浜地震を契機に日本地震学会を創立
イギリス人のジョン・ミルンがユーイングらと横浜地震を契機に日本地震学会を創立
イギリス人のジョン・ミルンがユーイングらと横浜地震を契機に日本地震学会を創立
イギリス人のジョン・ミルンがユーイングらと横浜地震を契機に日本地震学会を創立
イギリス人のジョン・ミルンがユーイングらと横浜地震を契機に日本地震学会を創立 イギリス人のジョン・ミルンが1891年濃尾地震の写真集を発売
イギリス人のジョン・ミルンが1891年濃尾地震の写真集を発売
イギリス人のジョン・ミルンが1891年濃尾地震の写真集を発売
イギリス人のジョン・ミルンが1891年濃尾地震の写真集を発売
イギリス人のジョン・ミルンが1891年濃尾地震の写真集を発売 イギリス人のジョン・ミルンが日本の968の地震観測所設立に尽力する
イギリス人のジョン・ミルンが日本の968の地震観測所設立に尽力する
イギリス人のジョン・ミルンが日本の968の地震観測所設立に尽力する
イギリス人のジョン・ミルンが日本の968の地震観測所設立に尽力する
イギリス人のジョン・ミルンが日本の968の地震観測所設立に尽力する ミルン水平振り子地震計(日本国の重要文化財)を発明
ミルン水平振り子地震計(日本国の重要文化財)を発明
ミルン水平振り子地震計(日本国の重要文化財)を発明
ミルン水平振り子地震計(日本国の重要文化財)を発明
ミルン水平振り子地震計(日本国の重要文化財)を発明 イギリス人のジョン・ミルンが日本における近代地震学の基礎を築いた。
イギリス人のジョン・ミルンが日本における近代地震学の基礎を築いた。
イギリス人のジョン・ミルンが日本における近代地震学の基礎を築いた。
イギリス人のジョン・ミルンが日本における近代地震学の基礎を築いた。
イギリス人のジョン・ミルンが日本における近代地震学の基礎を築いた。 イギリス人のジョン・ミルンが世界地震観測網の構築に努めた
イギリス人のジョン・ミルンが世界地震観測網の構築に努めた
イギリス人のジョン・ミルンが世界地震観測網の構築に努めた
イギリス人のジョン・ミルンが世界地震観測網の構築に努めた
イギリス人のジョン・ミルンが世界地震観測網の構築に努めた 1894年ミルン水平振り子地震計(日本国の重要文化財)を発明
1894年ジョン・ミルン帰国
1895年イギリス南部のワイト島に地震観測所をつくり、世界地震観測網の構築に努めた
1898年 主著「地震学」 ジョンミルン←OTZ(日本人)otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,
otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,otz,
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@東北地方の気象
「ヤマセ」(東北地方に冷雨・冷害をもたらす気象現象)
↓
オホーツク高気圧による東風・北東風の影響 (12)飢饉と気象 A地球寒冷化と温暖化(古気象の復元研究より)
西暦800年
↓地球温暖期
西暦1100年
↓地球寒冷期
西暦1250年前後・・・小氷期(飢饉●)
↓地球寒冷期・・・西暦1450年頃にもっとも寒冷化(飢饉●)
西暦1500年
↓地球温暖期
西暦1610-1650年・・・小氷期
↓地球温暖期
西暦1690-1740年・・・小氷期(飢饉●)
↓地球温暖期
西暦1780-1880年・・・小氷期(飢饉●)
↓地球温暖期
西暦2020年・・・現在 >>71
CO2と地球温暖化、一切関係無いね・・・ (13)行政(幕府)の飢饉対策・・・対策が追い付かない 飛鳥時代
治水事業・・・飛鳥時代から、朝鮮を経由して、中国から土木技術を輸入していた。 奈良時代 班田収授法
・・中国の均田法に習い、班田使を置き、国有の田を男女に配分して耕作させた。
参考文献「班田収授法の研究」など 近世(江戸時代)・・西暦1600年以降
○徳川時代の水田の大開発
○灌漑用水の整備
○溜め池の整備
○治水事業
○井戸
○駆除法(鯨油と水田)
○虫送り行事 >>寛政の改革(1787-93年),松平定信
↓
前述の松平定信がこの時に設置した「社倉」、「義倉」は
近年の古米の倉庫(義倉は寄付用の倉庫)のようなもので、これらの対策が功を奏し、
B天保(てんぽう)の飢饉(1832年-1839年)・・・・餓死者100万人
では、被害が、天明の飢饉より大幅に縮小された(餓死者20万人)と、
されている・・・にも関らず、ずっと低評価という不思議。 初期の江戸幕府の失敗
×東北に持ち越し米を残さず、三都へ売却した。 幕府など都会の都合と諸藩の経済効果を考え過ぎた。
×晩稲の作付(冷害に弱く、東北地方の飢饉の原因となった) 同上
×冬季の海上交通の途絶(主に東北地方で、飢饉の原因となった)
×藩ごとの穀留政策 中世〜近世までの行政の緊急避難対策
(永代の人身売買)
→飢饉の緊急避難的な行為として、(人手を買って貰えば、そこで飯を食わせて貰える為)
広く見られ、公権力(幕府)などが、公認・または黙認した。 (御救い山(おすくいやま)の慣習)
幕藩領主に囲い込まれた山野の解放
→飢人へ山野を解放し、鳥獣狩猟により飢えを凌いだ。
↓
当然解放されない山野も多数存在し、農民の不満が多数生じた。 (都市へ出稼ぎ)農村から都市へ向かう飢人は西暦1400年以降の流れ
→東北地方の出稼ぎや、上野の夜行列車という流れは、600年前からあるということ。 (寺院の勧進)
→京都では、飢人に対して寺院が勧進行為で集めた食糧を施行した。 (施行小屋)・・幕藩権力が設置した当時のテント村
→臨時に設置され、飢人を一時的に保護した。 (人返し(ひとかえし))
→小屋から生き残った者だけ、出身農村に返す、「人返し」が行われた。 封建社会・・・なんと恐ろしい時代・・・
>生き残った者だけ
>生き残った者だけ
>生き残った者だけ →近世では富裕な町人が主体として施行(せぎょう)を開始した。
(打ちこわしなどを恐れてのこと)
すべて参考文献に書いてあるんですよ! (人相食 ひと あい くらう )日本書記 欽明天皇567年の記事から
中世、近世の大飢饉にしばしば登場する。
実際に、食人したかどうかはさておき、そのように信じられてきた。
#参考文献ですが、上記の通り、日本書記の大王の記述にすら記載があるそうです。 (米騒動)都市民・都市下層民衆による反乱
(打毀し(うちこわし))都市民・都市下層民衆による反乱
→急激な米価高騰により、都市民の食糧不安をかきたて、
生活防闘争に立ちあがらせることになった。 前述した通り、江戸や関西など、裕福な地域で多数発生したのです!
東北地方や、近畿より西の西日本では無いのです!
>(米騒動)都市民・都市下層民衆による反乱
>(打毀し(うちこわし))都市民・都市下層民衆による反乱
>
>→急激な米価高騰により、都市民の食糧不安をかきたて、
>生活防闘争に立ちあがらせることになった。 (15)異文化の利益と脅威
・宗教と植民地脅威(欧米)
・交易と情報・技術・文化 ※フランス革命の事例
自然災害による小麦の凶作から、貴族・役人・パリ市民によるクーデターとなり、
民主化が進行し、貴族の議会制度から、大衆への議会制度へ変貌した。
ちなみにクーデターの内容も考えて見れば、「大塩平八郎の乱」と同じだし。
「王制復古」などキーワードも、日本の明治維新とそっくりである。 >ちなみにクーデターの内容も考えて見れば、「大塩平八郎の乱」と同じだし。
>「王制復古」などキーワードも、日本の明治維新とそっくりである。
ある意味で、フランスの改革と、日本の明治維新、同じような内容だったかも知れない。
どちらも、イギリス的な議会制度だし。日本の場合は、まだ貴族院だから、フランスより
少し遅れているが。 明治時代
○治水事業の近代化
○農業の近代化
○農薬散布など化学工業の発達(病虫害の予防)
○灌漑施設の近代化
○上下水道の整備
○電力事業の創設(水道や農業用水の電動ポンプなど) ま、あとは、日露戦争、日清戦争、満州、太平洋戦争、WWU、植民地一部解放、
といった流れ、で現代に至ると。
>(15)異文化の利益と脅威
>・宗教と植民地脅威(欧米)
>・交易と情報・技術・文化
>(16)以降etc 東北災害史の枠に留まらない、素晴らしい大作・力作です。
記載が一つも無いに関らず、現代の3.11原発震災すら透過させ、
2000年に及ぶ日本史上の諸問題をありありと描き出しています。 現代の人文社会系の論文として見てもここまでまとめている力作は
なかなかありません。 本論文をもって「災害考古学」の「博士号・学位」を授与します。
併せて、準教授として抜擢し、災害考古学を担当して頂きます。 >>59-69 東大の地震研究所の会報みたいな雑誌でも、
ジョン・ミルン特集みたいなのやって、ありがたがっていたよ。 >(1)飢饉とは(物資不足)
>(2)飢疫
>・飢饉と疫病,病虫害
>・自然災害と東西日本の相違
>(3)江戸の3大飢饉と改革
>(4)飢饉と明治新政府
>(5)大塩平八郎の乱
>(6)百姓一揆(越後柏崎(かしわざき)の一揆など)
>(7)日本の歴史(古事記から大和朝廷まで) 越後柏崎(かしわざき)の一揆〜福島県相馬藩の飢饉と明治改革って
ほぼ原発事故じゃねーか!
>(3)江戸の3大飢饉と改革
>(4)飢饉と明治新政府
>(5)大塩平八郎の乱
>(6)百姓一揆(越後柏崎(かしわざき)の一揆など)
>(7)日本の歴史(古事記から大和朝廷まで)
>(8)福島県相馬藩の飢饉と明治改革 越後柏崎(かしわざき)の一揆〜福島県相馬藩の飢饉と明治改革って
ほぼ原発事故じゃねーか!
>(3)江戸の3大飢饉と改革
>(4)飢饉と明治新政府
>(5)大塩平八郎の乱
>(6)百姓一揆(越後柏崎(かしわざき)の一揆など)
>(7)日本の歴史(古事記から大和朝廷まで)
>(8)福島県相馬藩の飢饉と明治改革 越後柏崎(かしわざき)の一揆〜福島県相馬藩の飢饉と明治改革って
ほぼ原発事故じゃねーか!
>(3)江戸の3大飢饉と改革
>(4)飢饉と明治新政府
>(5)大塩平八郎の乱
>(6)百姓一揆(越後柏崎(かしわざき)の一揆など)
>(7)日本の歴史(古事記から大和朝廷まで)
>(8)福島県相馬藩の飢饉と明治改革 人工地震の歴史
://twitter.com/fkmild2011/status/1287172809886593025?s=20
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 納得
>越後柏崎(かしわざき)の一揆〜福島県相馬藩の飢饉と明治改革って
>ほぼ原発事故じゃねーか!
>
>(3)江戸の3大飢饉と改革
>(4)飢饉と明治新政府
>(5)大塩平八郎の乱
>(6)百姓一揆(越後柏崎(かしわざき)の一揆など)
>(7)日本の歴史(古事記から大和朝廷まで)
>(8)福島県相馬藩の飢饉と明治改革 大川小学校の人災確定
>マニュアルの不備だけでなく、
>年度当初活用するとしていた防災用児童カードを全く活用せず、
>また引き渡し訓練を一度も行っていない等、
>事前の杜撰な防災体制が明らかになり、
>一部人災の面もあったことを教育長が認める。 被害女性の応援です。
女性が性暴力・いじめが原因でPTSDを発症し、
泣き寝入りして、苦しんでいます。
https://archive.is/X233o
https://xドットgd/nfvXx
逃げ得が無いように、
永久保存、拡散をお願いします。