2chでこうも自身の生い立ちを話したことは私の特定をも容易にする。
そこで、なんならいっそのこと、すべてをさらけ出そうと考え、
以下に私の個人情報のすべてを書く所存である。

年譜

1892(明治25年) 東京市虚橋区に漫子、陳郎の長男としてうまれ、チン野介と命名される。
1898年(明治31年)6歳、チンカス小学校入学。
1902年(明治35年)10歳、チン野介の学業は優秀で、早熟の才を示し、この歳の4月から「処女のおっぱいの内在的特性」を発行、自ら編集した。
また、「処女のおっぱいにトポス」、「処女とホモとカマとオコゲ」、「処女膜の摂動」、「処女膜はじけた」、「処女膜の自発的破れ」、「処女と熟女と老女と骨」などを愛読した。
1904年(明治37年) 12歳、実母と継母との間に弟が誕生、弟があとを継ぐことになったので、チン野介はマン子家へ入籍。
1905年(明治38年)13歳、最も愛好した学科は歴史で将来は歴史家になろうと思っていた。中学時代の作品「処女の羞恥の自発的破れ」、「毛沢東の毛髪学」、「毛沢東の中央無毛の失策」、「大躍進政策による毛沢東の頭皮躍進と失策」、「ケ小平毛髪対策とアデランス」
1910年(明治43年)18歳、中学卒業、成績優秀のため、無試験で第一高等学校1恥部乙に入学。同級に、ケツマンコ萬田裕がいた。
1911年(明治44年)19歳、本郷の寮生活にてチン野介は秀才肌の真面目な学生で講演会にては「熟練女優に欠けたるは未熟な処女性である」を説いた。
1913年(大正2年)21歳、高等学校卒業、成績は27名中2位。9月東京帝国大学、理論物理学。
1914年(大正3年)ケツマンコ萬田裕らとともに「熟女期の初潮」を発行。5月には処女作「熟女」を9月には「熟女系処女」を発行。