こんなことを書くと多方面から批判されそうだけど、
そもそも、厳密に考えれば、「真の意味で見返り(=補償)を求めない善意」というものは本質的に存在しえないと思う。

通念上、我々は「見返りを求めない善意」が真に存在するかのように考え、それを称賛する傾向にある。
しかし、実際には「見返りを求めてない」という行為者の体験は錯覚で、行為者はその善行によって、「社会的に正しいと
されていること(=善)を行うことによる承認欲求の充足」や「善を行うことによって自分の(形而上的な)魂が高められ
る快感」、あるいは「自己の献身によって自らと利益を共有する集団に利益を与え、まわり巡って自分にも利益を還元しよ
うという期待」というかたちで無意識的に見返りを得ているはずである。

ここまでは帰納的な論証のための具体例に過ぎないけど、以下のように簡潔に説明することもできると思う。
もし仮に、「真の意味で見返りを求めない善行」を行う人間集団があった場合、その集団は自らの利益にならない行為に無
制限にコストを費やしてしまうために社会を維持・持続することができない。従って、そのような人間社会は存在しない。

そこで、我々は「見返りを求めない善意」という錯覚を捨て、
・「そもそも、本質的に、善意には見返りが伴うものである。」
・「<自分が費やしたコスト以上の見返りを求めない行為が善意である>と定義する。」
といったように考えに転換してみたらどうだろう?