麗音のおばあさんが妙にキレてるけども、その横川がお気に入りの政治家達が、一勢力となって党のイニシアチブを執るとでもいうような青写真ってのは、どうも現実味はないと思うんだよね。その対向には【限界パヨクが嫌う政治家達】がうじゃうじゃいるという構図になってるわけだから。
「西村ちなみを党首に運動」もあったにはあったけどね。夢みたいなものだと思うし、その機微に関するマジョリティとの合意形成に関しては全くの未知数でもある。そもそもマジョリティはそれを承認するのか?という事がね。
推しの政治家がいる事は一般論として当たり前の事だけども、それで推しと嫌いとが出来て「あなたは推しー!あなたは嫌いー!」という言説空間になってる事に稚拙さがあるね。結局そうなっちゃうのね、みたいな落胆があるね。そしてまたそれは属人的でもあるから、れいわとは違うと胸張って言えないような言説空間でしかないしね。
「信じられる人の下を渡り歩いてるだけ」みたいなもんだろ。【信心】という思考に囚われ続けて。まあそれが限界系を育む温床にもなってるようでは、元々大したもんじゃなかったって事だわな。

そこでこたつぬこ先生の「左派は足立康史と手を組めるか」みたいなセンスが台頭しうるわけだよ。好きも嫌いもない。接点があるかどうか。足立には足立の矜持もあり、背負ってるものもあり、それがどのような譲歩に結びつくのか、つかないのか。という着想だね。
また実際に今の立憲幹部クラスが発言してるような事をどう読み解くか、芳野会長の事をどう読み解くかといったような事も、感覚が変わってくるはずだしね。
本来野党共闘を遂行できるクラスタの資質ってのはこうあるべきだと思うよ。野党共闘こそ【好き嫌いを脇に置く思想】なわけだから、推ししか勝たん思想の奴は野党共闘なんかできないんだよ。そう考えると、元々その資質もないような奴らが野党共闘の周りにはうじゃうじゃうじゃいるよね。