https://twitter.com/i/status/956194943176867840
>はアイデンティティを奪われた恨み……?
https://twitter.com/k/status/956431092508106753
>自明な権利」(?)が喪われている点

役割=恩を売る(奉仕する・奉仕が価値として受け入れられる)権利

@。https://twitter.com/h/status/956193643596935169
>人とは別の神の目
A。https://twitter.com/z/status/956195186391969797
>「自分は神の目を持っている」と
B。https://twitter.com/z/status/956198291334557696
>相対主義自体は近代の嗜みというか、身に付けておいて然るべき

@の「神の目」がお天道サン(拡張した意味では世間サマ?)(もしくは倫理?)
Aの「神の目」が個人(これには個人”が”内包する科学を含む)の不完全さを訴えるものの批判の対象として。
Aが個人(≠tw主)から視点であるのに対して@は外部に接続された個人の(複数?)視点

https://twitter.com/h/status/956424427167629312
>世界から離れた神なしに、個になることはできるのか?

私は「できない」かつ「それは個人的なことだ」と思うけど、
https://twitter.com/c/status/956486350340964352
>「内部で搾取される存在」に位置づけられ、男性は「外部に放逐される存在」

この外部との接続(への指向?)の有無を、外部の連続性への責任といれかえてかついれかえたそれを外部との接点とすると個人の剥奪、への警戒としてAの視点が有効
どうじに他の個人と世界を一にする個人として多個人が共にすべき何か
村八分の村との同質性共同性の共の部分=接点をうしなったものを村=世界の部外として切り離す
なにを共とするのかの、最小単位のしかし世界としての村(←=世界の外≠外の世界)で通用する共としてのミソジニーが保証する体系=身の回り

https://twitter.com/lorivah/status/955638813975486464
>僕の見ている世界は僕であり僕ではないのだ

でわ他人は部外かといえば、個人が認知できる時点で世界をともにしており友好であり脅威である

そうしたなかからの工夫として個人を侵さない最小限の共として、人権という権利を共にしている