翌朝、まだ陽が昇り切らないうちにオレはデイビッドに叩き起こされた。
休暇なのに平日と同じ起床時刻で働かせるのかよ…というオレのぼやきはサクッと無視。着替えて厩舎へ来いとだけ告げると、彼はさっさと階下へ降りて行った。

実を言うと、デイビッドはとっくの昔に起きて、近隣に住む管理人とともに馬達の世話を始めてくれてたりするのだが、前夜に地ビールをしこたま飲んで泥の様に眠り込んだオレは、全く気付いていなかった。

テーブルの上に用意されたマフィンを紅茶で流し込みながら、まだ薄暗い室内に視線を走らせる。
すると、玄関横のコートハンガーに無造作に掛けられたジャケットに目が止まった。さっき、デイビッドから着てくる様に指定されたジャケット。

セージ色のそれは幾分くたびれていたが、窓から射し込む朝日に照らされて鈍い光沢を放っている。英国に来てからも幾度となく目にしてきたジャケット、Barbour。
手に取ると、ワックスコットン特有の湿った冷たさと共に、画材の様な香りが鼻腔を満たす。

人間よりも大きく、力の強い馬を操る乗馬は、見た目の優雅さとは裏腹に危険度の高いスポーツ。それなりの服装、道具とトレーニングが必要とされる。
オレが初めて袖を通したBarbourは、1980年に乗馬用途として発表された「ビデイル」と呼ばれるモデルだった。

当時のオレにはBarbourジャケットの見分けがつかなかったが、デイビッドが用意してくれた服装一式に身を包んで、見た目だけはそれなりの馬乗りになった。

真冬の英国の冷え込みに身を震わせながら厩舎へ向かうと、デイビッドはオレの全身をサッと確認。
そして、ジャケットに数秒間視線を止めてから、なぜかオレの背中を手の平でバンと強く叩いて、厩舎の奥へと送り込んだ。
いまならば、あの時の彼の心中を少しは推し量れるが、二日酔いで早朝から肉体労働を強いられる展開に不機嫌だったオレ。つんのめりながら悪態をついただけだった。

厩舎の寝藁や糞尿の処理を手伝わされながら、管理人(ロードオブザリングの映画に出てきそうなジィさんだった)と馬達への挨拶を済ませると、早速レッスンが始まった。
ブリティッシュスタイルの乗馬の手ほどきを、デイビッドからマンツーマンで受ける。
オレが馬に興味を示さなければさっさと切り上げて狩猟か魚釣りでもやるつもりだったらしいが、オレは馬という生き物に魅せられた… が、本筋とは関係ないのでこれも省略。

栗毛色の老馬と何とか意思疎通を図ろうとオレが悪戦苦闘していると、邸宅のロータリーに1台の車が入ってきた。くすんだワイン色のコンパクトなボディ、ローバーミニ。

手近の柵に手綱を結わえると、車に向かって足早に近付くデイビッド。ローバーから長身の人物が降りてきて、デイビッドと静かに抱擁を交わす。デイビッドの愛娘、アイリーンだった。