生涯のはじめの四分の一が幸福なのは、まさにこの点にある。したがって、この時期は、年をとる
につれて、失われた楽園のように思えてくる。われわれは子供のころはあまり多くのかかり合いをもた
ず、要求も少ないために、意志がゆさぶられることもあまりない。われわれの本質の大部分は、した
がって認識に取り組むことになる。――すでに七年目に完全にじゅうぶんな大きさになる頭脳のよう
に、知性は、成熟とはいかないまでも、若いときに発達をとげる。そして子供は、すべてが新奇な魅力を
そなえている世界、おのれが生を受けたばかりの世界のなかで、たえず栄養をとろうとつとめる。そう
したことによって、われわれの子供時代が不断の詩になるという事情ができてくる。すなわち、すべて
の芸術と同様、詩の本質はプラトン的なイデア、すなわち本質的なもの、あらゆる個物のなかにあって
すべてのものに共通するものの把握のなかにある。われわれは、子供のころめぐりあったもろもろの場
面では、つねにただ一度だけの個々の対象あるいは事件とだけかかり合っていた。しかも、そうした個
物の対象なり事件なりが、われわれのそのときどきの欲望に興味をそそったからだというように思われ
るけれども、根本的にはけっしてそんなことはない。すなわち子供のころは、生は、そのすべての意義
をこめて、なおまだ新しく鮮やかなままの姿をみせており、何度も繰り返されることによって生の印象
を鈍化させてしまうというようなこともない。したがって、われわれは子供のころは幼稚そのものの営
みを行なっていようとも、ひそかに、それにはっきりとした意図はなくとも、個々の場面や動きについ
て、生そのものの本質、生のくりひろげるもろもろの形象や表現の基本的な型を把握すべくつとめてい
ることになる。スピノザが述べたように、われわれはすべての事物、人物を「永遠の相のもとに」見る
のでる。われわれが若ければ若いほど、それだけますます個物はその全種類を代表するようになる。