>>844
愛知大学は1970年代まで地元私大における最難関校の一角だったが、それは学費の安さに加え、通学の至便性、豪華な教授陣が要因に挙げられるだろう。

通学の至便さは、都心の栄や文化の薫る今池からも近い車道に校舎を構えていたことである。
あの頃は勤労学生も多かったようで、夜間には愛知県庁や名古屋市役所をはじめとする公務員が法経学部の2部に通っていたそうだ。
なお、名駅周辺は校舎を構える敷地がなく、今のささしまライブは国鉄の笹島貨物駅だった。

豪華な教授陣は、上海にあった東亜同文書院大学の学長たちが作ったのが愛大だからである。
戦前の書院は旧帝大と匹敵するほどの名門で、表向きは貿易を教えながら、裏でスパイを養成するなど中国大陸で暗躍していたらしい。
戦後は一変して、外地から引き揚げてきた左翼系の教員も積極的に受け入れている。
朝鮮や台湾にあった帝大、満洲国の東大ともいえる建国大学など豪華な顔ぶれだった。
昭和24年には名大へ吸収合併させる構想があったものの、愛大側が全ての教職員が名大に合流できることを絶対条件として提示した。
名大側はそれを拒否し、愛大に在籍していた複数の法経学部の教授を半ば強引な手段で移籍させるという事件が発生した。
当時の名大は設置から間もなく、教員不足が課題だったようだが、そんな状況でも愛大の提案に難色を示すほど問題があったのだろう。
そして愛大の黄金期である1970年代には、共産主義思想やマルクス経済学が主流派だったようで、東の早稲田、西の立命館に次ぐ左翼の拠点校として君臨した。