邪馬台国畿内説 Part704の>>825
>ホケノ山の銅鏡などの副葬品は3世紀中ごろより前のもの

その画文帯は、楽浪系であり、
魏の楽浪帯方攻撃戦争から避難渡来して来た呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、
ホケノ自体が庄内3などに拠って、3世紀最末〜4世紀の墓。

>棺も3世紀中ごろより前に作られたものと炭素年代測定でわかってるので

炭素年代測定のAMS法は、
プラズマ化の失敗により、50〜100年位古い年代が出た失敗計測。

>ホケノ山の建造年は三世紀中葉かそれより前と鑑定されている

失敗鑑定であったし、卑弥呼は松野氏姫氏系図に拠って既に九州説で確定しており、
卑弥呼の墓もほぼ祇園山で確定しており、
ホケノは、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。