文学部 邪馬台国畿内説
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邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。 >>347
>で船はそこで手に入れたというかwww
あほか、手に入れるだと? 現地で造船するんだよ、「阿波」の海人族は。 アンポンタンめ。 わははははは @阿波 >>347
>名護屋湾に集結した。そしてそこから壱岐経由半島へ出陣した。
名護屋湾に集結した。そしてそこから大陸への出航地(平戸市周辺)まで西進し、一気に対馬経由半島へ出陣した。
おそらく、壱岐には行っていないだろうね。 対馬海流の関係で。 @阿波 上陸地は福津。
出港地は平戸。阿波の都から平戸までテクって、そこで造船がすんだらそこから対馬直行かい、よーく覚えておこう >>351
よーく覚えておけ。 なんども言わすなよ! わははははは @阿波 >>あっちのスレより
>少なくとも、「卑彌呼」時代以前の弥生時代中期後半には、「阿波」の海人族は朝鮮半島まで鍛冶材料を手に入れに行ってるよ。 @阿波
なるほど、すでに弥生時代中期から平戸までテクり、そこで船を作っては朝鮮半島へ渡っていたのか・・。風変わりな渡海術を持つ阿波の船頭たちだったのだな。 >>353
その通り!
よーく覚えておけ。 なんども言わすなよ! わははははは @阿波 阿波さんは優しい人なんだねえ、人柄の良さがレスににじみ出てまーす。 >>342
>「東南す」が出発説明であり、「陸行五百里」が途中説明であり、「到伊都國」が到着説明であり、
>最初に書かれた「東南」は、末盧國から伊都國への方向にはならないし・・、
途中で方向転換しなければ、「東南」は、必然的に末盧國から伊都國への方向になる。
がしかし、途中で方向転換すべきことは、史書のどこにどのように書かれ、指定されているのであろうか?? >>203
203キウス ◆PyuQX798ps 2021/03/31(水) 21:00:39.48
投稿停止について
以前 私が投稿停止になったことがあります。
ヤフーニュースでモリカケ問題について私見を投稿したときです
5ちゃんも含め、全ての投稿が停止されました
怖いですね政治権力?なんだろう?
ふーん。 >>512日本@名無史さん2021/04/03(土) 13:49:06.37
>>150
卑弥呼は帥升の孫娘か!
松野氏姫氏系図の第一系図では、そのように見えますが、
第二系図との矛盾が発生しており、
また卑弥呼は、生涯独身で子供はいなかった筈なのに熊襲名の子供もいたような記載であり、
単に同系図では、姫氏王家の相続人らの名称の記録になっている可能性もあり、
絶対断定は困難です。 >>540
>博多では畿内の土器を模倣制作しているの
ダメです。博多の庄内は3世紀前半からであるが、
大和の庄内1の石塚(やホケノや箸墓)などは、「冢≠前方後円墳」や、
博多の那珂八幡などの進化型である事などに拠って3世紀末以後になり、
博多の方がはるかに古く、大和の庄内は、
「九州倭國の地方の市を監督する大倭職」や、
「九州倭國の東征毛人五十五國軍」に拠って伝えられた、
という事にしかならないの。 >>541
>だから纏向遺跡や博多湾沿岸は福岡以外の九州とは疎縁というのならば正しい
疎遠ではない。
女王国は「ほぼ九州島付近」であり、
女王之所都は、「福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地」であり、
纏向は、九州倭國の「地方の市を監督する大倭職」の地であり、
「東征毛人五十五國」に拠って征服された「別種の旧小国」の地であった。 >>549
>隋書では筑紫の東に「秦王国」という外国人国家が存在していました
姫氏松野氏系図や二中歴に拠って、517年に、九州倭國では、
「東海姫氏國の倭王武の次の倭國王哲」で突然阿毎氏の磐井への政権交代が起こった事になり、
その磐井年代は「継体」と呼ばれたが、
北陸出身の大和の阿毎氏系のヲホドの、
(高良山の縁故の)物部を使った奇襲反乱に拠って、535〜538年に磐井が倒され、
同じ阿毎氏の葛子が、糟屋の屯倉で大和の政権参画を認め、
大和は、安閑や宣化が九州倭國の太宰的な執政を行い、
欽明が筑紫に宮を造って、半島戦争を指揮し、
用明が「次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通」をするも、
「日本國」呼称は失敗し、(唐の武徳中に唐に日本國呼称を承認された)、
推古も、筑紫に宮を設置して、
(おそらくタリヒホコの側室として?)天子のタリシホコの王家の一員に参画し、
秦王國を起こし、
更に、難波に九州倭國の副都(宮)を建設して貰った、
という事になる。 >>541
>だから纏向遺跡や博多湾沿岸は福岡以外の九州とは疎縁というのならば正しい
確かにこのことは、二〜三世紀解読のための大きなカギだと思うね。
庄内の原点は、博多湾岸とは疎遠の肥後・方保田東原だったのではないか。
つまり帯方郡の役人たちが、博多湾岸でなく、ひっそりと唐津に上陸して東南の肥前佐賀平野に抜け、肥後の女王国に至った理由がそこに見える・・。 >>554
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料事実に拠ってバツ。 >>557
どうして大和説学者らはそんなウソつくの?
負けてて滅びそうだから? >>604
>巨大古墳は畿内に集中してる
これが保守的な教科書にも載る定説だよ
大和の巨大古墳は、「冢≠前方後円墳」や「庄内1の石塚は3世紀末」などに拠って、
3世紀末以後であるから、卑弥呼の3世紀前半ではなく、
この大和説男や大和説学者らの脳が、バツ。 >>638
>つまり大阪(というより兵庫)、京都止まりであり、
仮にそこまでが女王国だったとすれば、その南の奈良は狗奴国だろ
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、バツ。 >>604
>>巨大古墳は畿内に集中してる
>これが保守的な教科書にも載る定説だよ
卑弥呼の時代は巨大塚(ちょう)の文化、その後に奈良盆地から巨大前方後円墳の文化が始まった。
この墳の前方部は、出雲の大国主文化を表す銅鐸を寝かせた形であり、これに九州・卑弥呼文化の銅鏡を模した後円部を合体させたのが、前方後円墳の始まりなのだ・・。
、 >>662
>消極的畿内説です。以前の投稿を少し修正しました。・・・
畿内は、「畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言である事や、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツです。 >>818
>・・・奴国(福岡県博多湾付近)百里
間違い。奴國は「至の前に途中移動があった事を示す文言がない」から、魏使らは通っておらず、
側副傍線行程國説明であり、ほぼ日向峠西麓平野部付近から早良平野付の国。
>↓不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
間違い。伊都国は、糸島水道付近であり、その出口から東百里に不彌國の入口がある事になるから、
ほぼ藤崎や西新町付近になる。
>南至投馬国水行二十日(不明)
不彌國からの投馬國の説明にも「至の前に途中移動の文言がない」から、
魏の役人ら移動しておらず、側副傍線國の説明になり、ぼぼ南九州付近の国
>邪馬台国、水行十日陸行一月
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるからこの投稿子もバツ男であり、
記録された途中移動の里数の合計が邪馬壹國女王之所都でほぼ萬二千余里に達して一旦おわっており、
漢文ではの数量説明文言の記載の原則は、対象文言の直ぐ後に付加する、という事であるから、
「水行十日陸行一月」の直前の文言は(郡からの行程の目的地である)邪馬壹國であるから、
「水行十日陸行一月」は郡から女王之所都への合計里数を示す事になる。
大和説学者らは、もういい加減にあきらめろ。 >大和説学者らは、もういい加減にあきらめろ。
そうですねえ、
ま、どちらかというと、もうあきらめちゃってるんではないでしょうか・・・、 >伊都国は、糸島水道付近であり、
それよりあなた、↑ これは間違いじゃないでしょうか
伊都国は「到の前に東南500里の途中移動があった事を示す文言がある」から、主線行程國説明であり、
帯方郡や諸韓国の使いらは、上陸地の末盧国・唐津から、東南方向への主線古道を通っており、
ほぼ、佐賀平野中央の佐賀市川上から、東隣の神崎・吉野ヶ里付近に掛けての国だったように思われるのですが・・・。 >>879
>又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
さらに九州終了 by
隋使らが、「又經十餘國達於海岸」というように、
国名や港名ではなく、「海岸」という地形を記録する、というように、
「自分のアホさを示すような記録」を残す事はあり得ない。
それが人類の常識。
という事は、「又經十餘國達於海岸」という文言は、
隋使が俀國人から説明された「地理的説明」の内容であり、
隋使はその「海岸」までは行っていなかった事を示すのであり、
隋使らは、竹斯國上陸後東へ行って秦王國を見聞して>>879
>又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
さらに九州終了 by
隋使らが、「又經十餘國達於海岸」というように、
国名や港名ではなく、「海岸」という地形を記録する、というように、
「自分のアホさを示すような記録」を残す事はあり得ない。
それが人類の常識。
という事は、「又經十餘國達於海岸」という文言は、
隋使が俀國人から説明された「地理的説明」の内容であり、
隋使はその「海岸」までは行っていなかった事を示すのであり、
隋使らは、竹斯國上陸後東へ行って秦王國を見聞した後の「後十日」は、
東から来て秦王國
(注、ヲホドの反乱後大和王家が筑紫の王家の一員になって造られた事を示す国)
から南へ「後十日」行って「旣至彼都」になった事を示すもの詐欺師であった」という事を示す実態。
つまり、この文は、byがまた更に「・・・・アホ詐欺の大和説者であった」という事を示すもの。 >>890
阿波が、また盛んに何か書いているが、
阿波説も(大和説と同じく)、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「卑弥呼の下賜の鏡片の出土」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、バツね。
阿波は、元は出雲の少彦名らの「祭祀担当(=忌氏)地域國」であったが、
九州倭國の女王から「鏡片」を下賜された東征毛人五十五國」の将軍らに拠って支配され、
出雲の「忌」習慣を、残す事で生きながらえた国。 >>901
>九州は倭人伝、後漢書記載の卜骨が漢代から出ていない
一大國に沢山出ているし、佐賀付近からも幾つかでている。
しかし、「鬼道」の卑弥呼の共立に拠って、女王国の中心部の筑紫ではト骨が流行する筈もなく、
天孫族系の本拠で、魏の支配下である事を示す「戸」ではなく、「家」で呼ばれ、
以前に「ト骨盛行の出雲」の影響を受けた天孫族の中心の壱岐の一大國であったから、
ト骨習俗が残り得たもの。
だから魏の役人らは、一大率のト骨を見て記録した。 >>909
>「倭人在帶方東南大海之中」で「會稽東冶之東」
だからそもそも当時の中國人の地理観が間違っている
3世紀の同時代の陳寿の説明は、写本版本では100%「会稽東治之東」であり、
それを「会稽東冶之東」と書き変えた5世紀の後漢書の范暢や、後代史書や、
中華本や、大和説学者らやこの男などが、「間違っている」事になる。 >「倭人在帶方東南大海之中」で「會稽東冶之東」
魏王朝の事績を書いているのだから、
宿敵「呉」の領地の南部にあった「福州東冶」が、重要な定点として倭人伝に登場する理由が見当たらない。
(当然、紀元前千数百年の古代夏王朝の小康の子が賜った領地、つまり会稽山の東方に有った治所(役所)のことだ。) >>577
>3世紀前半に博多で畿内の供献土器の模倣制作が始まる
これもバツ。
大和の庄内は、冢≠前方後円墳や、
庄内1の石塚などが3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡の進化型になるから、
いずれにしても3世紀末以後であり、
大和の庄内の供献土器も、3世紀末以後になり、
大和が九州倭國の地方の市を監督する大倭職や、
東征毛人五十五國軍に拠って、伝えられた事になる。 阿波先生、早朝からキレの良いレス、おっかれさんです。 >>373(5チャンネル掲示板の邪馬台国畿内説の投稿への反論)の訂正
>又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
さらに九州終了 by
隋使らが、「又經十餘國達於海岸」というように、
国名や港名ではなく、「海岸」という地形を記録する、というような、
「隋使らのアホさを示してしまうような」そんなアホな事を記載する筈がない。
普通は、(海岸ではなく)出発国名や港名を記載する筈の事。
だから、隋使らはその「海岸」までは行っていない。
それが人類の常識。
という事は、「又經十餘國達於海岸」という文言は、
隋使がタイ国人から説明された地理的説明内容であったのであり、
隋使はその「海岸」までは行っていなかった事を示すのであり、
隋使らは、竹斯國上陸後東へ行って秦王國を見聞した後の「後十日」は、
東から来て、秦王國(注、ヲホドの反乱後大和王家が筑紫の王家の一員になって造られた事を示す国)から
南へ「後十日」行って「既至彼都」になったという事が史料実態。
という事は、byは、更に「・・・・アホ詐欺の大和説人間であった」という事を示すもの。 >>342
.ダメだ。古今「人類の旅程行程の説明や記録」は、
>「出発説明+途中説明+到着説明+付加的説明」の順次式に記載するものだ、
>という事は人類の常識であり、
そもそも三国志は、中華帝国・漢民族万世一系の思想の持ち主の陳寿が、
漢帝国・万世一系界の外縁を彷徨する、東夷の人・種・国・邑を見下して描写したものである・・、
決して、「人類共通の常識」を以て、書き留められたものではない。
つまり、漢民族万世一系主義の世界観の下で、陳寿の常識教養に基づいて書かれたものである。そこは割り切って読むべきではないであろうか・・。 (邪馬台国畿内国スレの)>>364
>>千葉あたりなら、安全な陸行でも行ける
>途中に狗奴国=静岡があるのに安全に行けるわけがない。
3世紀前半末頃の卑弥呼の頃の狗奴國は、
「次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國」であり、
この奴國は、伊都国の東南百里の二万戸の奴國と同じ国名であるから、
同じ「奴」部族から分かれた国であった可能性が非常に高く、
いずれにしても、女王の南の境の南にある事になるから、
ほぼ南筑後〜肥後付近の国であった事になり、
「静岡」説のこの大和説男は、バツ男である。 >>374
>>王都は久能山あたり
>お前な、「狗奴国」に失礼だろうがよ。 「邪馬臺国」に対抗する強大國なんだぞ。
そんなチンケな説が通用するか、バカ者め! @阿波
卑弥呼の頃の女王之所都の国は、「邪馬壹國」であって、「邪馬臺國」ではないから、
阿波もバツ男。 >>376
>>王都の集落遺跡を聞いてるんだよ! 神社だ? ふざけてんじゃねーよ、アホンダラ。
>崇神の宮も神武の宮も遺跡ではなく神社だが。
おや?、この言い方は、「東大理系博士号自称男」の言葉遣いにそっくりだな。
勿論、神武も崇神も、九州倭國の阿毎氏系の東征軍やその後継者であって、
神武の後継者らは、九州倭國の「地方の市を監督する大倭職」の身分であったんがだから、
その「神社」位は、後代に造られた可能性はあっても、
「宮」は、「王家の人物であった」事を示すのだから、そんも存在は疑わしい。 >>378
>太陽の登る位置は1年を通じ一定ではないから。
周髀算経は、年の何時であろうと、
同じ日での日の出直後と日の入り直前の8尺棒の影端を結んで東西を決め、
それと直行する方向や北極星方向で北を決めるから、方向をほぼ間違える筈もなく、
礼記でも、地面に8尺棒を立ててその周りの地面に円の描いて、
8尺棒先端の影端がその円周を通る2点を結んで東西を決め、それと直行方向に南北を決めているから、
これらの事を知っている魏の役人らは、東西南北をほぼ間違える筈がなく、
普通の倭人も普通の成人人類も、ほぼ「東西南北を間違える」事はないもの。
つまり、この大和説男はやはり、詐欺師。 日本史板の「邪馬台国畿内説 part○○」のスレッドで、「1 ◆n7jxAxKCBhb6」=奧山氏を完全に論破した者達の投稿は、「1 ◆n7jxAxKCBhb6」=奧山氏によって、荒らし行為の投稿として5ちゃんねるへ報告され、
日本史板の「邪馬台国畿内説 part○○」のスレッドで、「1 ◆n7jxAxKCBhb6」=奧山氏を完全に論破した者達が、次々に、日本史板に投稿できなくなり、
日本史板の「邪馬台国畿内説 part○○」のスレッドは、嘘がまかり通るウンコのようなスレッドになってしまったな。 >>387
そういうことだな
つまり、観光旅行のブラリ旅でなく、国家の御用あって、長年にわたり往来してきた人たちなのだから、
旅慣れた古道の宿場や駅や分かれ道ごとに、北極星を見て、あるいは8尺某を立てて東西南北を求め、目印を置いていたであろう。
古代といえど、やたら道を誤るわけはない。又、道を正しく進んでこその国家統治の第一歩であったと知るべきであろう。 >>387
>崇神が4世紀前半で決まり、ならばその数十年前のトヨも決まり、その3世代前のヒメ后も決まる。
そして女王国は葛城だとわかるので、行程論はもはや不要。
ダメだ。「トヨ」なんて存在もしなかった嘘つき詐欺師文言であるし、
葛城説も、在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族の国であっただけであり、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、
卑弥呼の所都は筑紫付近に確定しており、
「葛城説」は、議論相手の東大理系博士号自称男の「纏向説」と同じく、バツだ。 >>390
>天皇の在位期間は誰の考証データを見ても約10年程度
桓武50代から初代神武まで約500年 桓武即位781年の約500年前
そこから5代さかのぼれば天照大御神のいた時代
3世紀前半になる誰の考証データを見ても約10年程度
桓武50代から初代神武まで約500年 桓武即位781年の約500年前
そこから5代さかのぼれば天照大御神のいた時代 3世紀前半になる
これもバツだな。平安末の(大和王権側の認識の)二中歴の年代歴の、
年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体五(注、五一七年)元丁酉・・・
において、数え年数計算で、
517−569×2−39=ー660(年始、神武即位元年)が成立するから、
「569年」間が二倍年歴計算をしていた事になり、
それからすると、神武即位元年は一倍年歴では、
660−569=ー91に拠って、紀元前91年頃であった事になる。
(但し、39年は一倍年歴計算であり、517−39=(西暦)478(年)から、
最低大和王権側は、結縄刻木をしていた事になる。)
また、松野氏姫氏系図では、呉王夫差の「公子忌」らは火の国山門に渡来し、
一部は「委奴」の地の阿毎氏と合同し、また一部が分かれて「大野」に移り、
その頃に「漢委奴國王」や「帥升らの倭國王」を出してまた合流し、卑弥呼を輩出し、
卑弥呼は記紀に書かれた熊襲との親族のような記載になっており、
卑弥呼の3代後の「市鹿文」には「壹歟」という説明もあり、
難升米や伊聲耆や掖邪狗の名前もあり、(東海姫氏國の)倭の五王の名前も書かれ、
倭王武の次の倭國王哲の後からで突然「倭國王」の文言が消えてしまい、
倭王武への梁からの叙爵は503年頃だから倭國王哲の降格はほぼ517年頃として、
磐井が倭國王を継承して「継体」と呼ばれた事になり、
535〜538年の大和のオホドや物部の反乱で磐井が倒され、その残った子供の葛子が後を引き継ぎ、
その後50年位で「阿毎氏のタリシホコ」が天子になったんだから、
逆に磐井や葛子も(大和王権と同じ)「阿毎氏」であった、という事になる。 >>396本間 ◆/Z370uQKx2 2021/04/20(火) 07:25:53.42
>>>351
本間さん、私が嘘をついてるか、奥山さんが間違ってるかでしたね
>あなたが嘘をついてるよ、証拠もある
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ! 里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!投馬国は南九州でよいのだ!
がQで、日数では里数がわからないと言うQですよね
嘘だな「日数では里数がわからない」なんて書いてない
ふーん。
東大理系博士号自称男の姓が「本間」であった、という可能性がある、という事か。 >>382の訂正
>>373(5チャンネル掲示板の邪馬台国畿内説の投稿への反論)の訂正
>又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
さらに九州終了 by
隋使らが、「又經十餘國達於海岸」というように、
国名や港名ではなく、「海岸」という地形を記録する、というような、
「隋使らのアホさを示してしまうような」そんなアホな事を記載する筈がない。
普通は、(海岸ではなく)国名や港名を記載する筈の事。
だから、隋使らはその「海岸」までは行っていない。
それが人類の常識。
という事は、「又經十餘國達於海岸」という文言は、
隋使がタイ国人から説明された地理的説明内容であったのであり、
隋使はその「海岸」までは行っていなかった事を示すのであり、
隋使らは、竹斯國上陸後東へ行って秦王國を見聞した後の「後十日」は、
西から来て、秦王國(注、ヲホドの反乱後大和王家が筑紫の王家の一員になって造られた事を示す国)から
南へ「後十日」行って「既至彼都」になったという事が史料実態。
という事は、byは、更に「・・・・アホ詐欺の大和説人間であった」という事を示すもの。 >>411
>本来の狗奴国は堺県
邪馬台国は卑弥呼が狗奴国から分捕った奈良の地
誰の投稿か?は知らんが、
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「堺」も「奈良」も、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。 >>384
>3世紀前半頃の卑弥呼の頃の狗奴國は、
>「・・・、次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國」であり、
>この奴國は、伊都国の東南百里の二万戸の奴國と同じ国名であるから、
>同じ「奴」部族から分かれた別国であった可能性が非常に高く、
>いずれにしても、女王の南の境の南にある事になるから、
>ほぼ南筑後〜肥後付近の国であった事になり、、、
奴国は二つあり、其の同族の奴国もたくさんあったということ、及び国々の全体配置はよろしいんじゃないでしょうか、
ただ伊都国周りが、糸島〜博多平野らしいのが気になりますね・・、あっちに行っちゃうと、その後が苦しくなる。やはり東南でしょう・・。 名無史さん 2021/01/20(水) 14:17:38.34
http://i.imgur.com/puNLnRK.png
やはり魏志倭人伝、魏略、廣志の通り、唐津からは東南の道でしょう。
唐津港→ 賀周駅→ 磐氷駅→ 高来駅→ 佐嘉駅(ここ伊都国なり)。
この佐嘉駅=伊都国の東南100里至は佐賀市街(ここ奴国なり)。 同じくこの佐嘉駅=伊都国から東行100里→ 神崎・吉野ヶ里駅(ここ不彌国なり)。
この不彌国から(陸路を)南へ行けば投馬国に至る。 同じくこの不彌国から(陸路を)南へ行けば邪馬台国女王之所都に至る。 邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。
今週にも、再び、邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が無いことが、日本国政府が設置した公式機関から、発表されます。 魏志倭人伝に記載された方角に従って進むなら、
近畿地方に邪馬台国は存在しない。 >>533
>・・・というわけで臺與の条件をたった一人、トヨ津媛のみがクリアする。
しかも【国宝】中平銘鉄刀の保持者・和邇氏の祖・孝昭天皇の母である。
卑弥呼とは彼女から3世代前のヒメ(踏鞴五十鈴)媛である。
卑弥呼の時代には「臺與」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであるし、
卑弥呼を、九州倭國の東征毛人五十五國の「別種の旧小国」の大和の姫に否定するのも、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に違背するから、
バツだな。 >>592
あの手この手で、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
古墳時代を少しでも古く見せようとして全て失敗してる大和説学者らの、
たそがれっぷりが、哀れ 考古学などというものは、魏志倭人伝との整合性など、どうでもよいことだと考えてやる学問だろう。 >>642
>アホはおまえだ。
なぜ神武即位BC660年などと時代を大きくずらしたのか、その答えが分からないだろ。
お前がアホだからだ。
平安末期に平安朝の学者らが書いた二中歴の年代歴の、
「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体五 元丁酉(五一七年〜)」
に於いて、「五百六十九年」という年数がどこから出て来たのか?を計算すれば、
年始というのは「紀元前660年」であり、
517年までの数え年数を計算している事になり、
そうすると、「517−39−569×2=ー660(年始、神武即位元年)」
が成立するから、
569年は二倍年歴の数え方であり、39年は一倍年歴計算であった事になり、
平安末期の(大和系の)書紀を学習した学者らは、
神武即位元年から569年間は「二倍年歴」で書かれていて、
その後で「結縄刻木」の39年から「一倍年歴」で年次を数えた、
という事を知っていた、という事になりますね。
だから、神武即位元年の西暦年次は、ー660+569=ー91(年)になり、
紀元前91年頃であった、という事になりますね。
そして、卑弥呼や(東海姫氏國の)倭の五王が載っている松野氏姫氏系図で、
(梁朝初期に授号された)倭王武の次の倭國王哲の後で、突然「倭王」の称号が無くなっている事や、
517年に新しい「継体」年次呼称が出現している事は、
517年頃は倭國王哲から磐井の政権交代があった頃になる事や、
磐井が大和政権のヲホドや物部軍に倒されたのは535〜538年頃になる事や、
書紀や隋書に拠って磐井や葛子の後が「阿毎」氏の「タリシホコ」である事になる事から、
517年の継体(年号)は、
倭王武らの「東海姫氏」政権から阿毎氏の磐井に政権交代継承があった、
という事になるんですよね。 >>407
どうやらそこに、そもそものアレがあるようだね
穴を掘る前に、そこがどの程度適切か、どの程度の確率になるかを調べなくてはならぬ。
それには魏志倭人伝や、魏略や、廣志や、隋書や、新旧唐書などの中国古典に通じていなくてはならぬ。まさに文学部の問題・・。 江戸の新井がああいったから、明治の内藤がこう言ったから・・、
だからもう、場所は畿内で決定だーーーで、昭和や令和の大学者の姿勢として良かったのかどうか・・・、 >>668
>大陸側の人間が、島国の各都市の位置を記録する場合、それらは自国のどこに相当するかを記録するはず。
東冶=邪馬台国女王之所都 というのが魏志倭人伝の核心。
魏志倭人伝の史料事実及び史料実態は、女王国は「会稽東治之東」なのであり、
後漢書や現代大和説学者らの自己解釈に拠る書き変えの「会稽東冶之東」ではないから、
この男がバツ。 「會稽東冶之東」
魏志倭人伝は、魏王朝の事績を書いている。
だから、宿敵「呉」の南部の僻地にあった「福州東冶」が、重要な定点として倭人伝に登場することは有り得ないであろう。
因って紀元前千数百年の故事にいう、古代夏王朝の小康の子が賜った領地の治所、つまり会稽山の東方に有った役所のこととなる。 九州北部を仕切る邪馬台国は、はるか遠くの畿内にあった。
こんなデタラメ説が邪馬台国畿内説。 >>675
>>七千余里はどうやって出したと思っているのかな?
>どうやって出した?
魏の役人らは、南北間の長距離部分は一寸千里を使って計測し、
東西や東南方向里数部分は、簡易三角測量や記里車や歩測や日数測で計測した。 >>677
>>帯方郡から末廬国までは1万里あったと考えれば良い
>良くない。そもそも、帯方郡から末廬国までは「水行」+「渡海」であって、
「水行10日」ではない。 却下! @阿波
良くない。そもそも、郡の出発地からは循海岸水行の海岸沿い水行であり、
韓國に入ってからは狗邪韓國まで歴韓國乍南乍東のジグザグ陸行であり、
對海國と一大國は、それぞれの海岸沿いの「二辺の陸行」であり、「
「水行+渡海」だけではないから、阿波説は、却下。 船で行くのは全て水行であり、渡海も水行のひとつの形態である。
つまりその形態・態様として、最初の7000里は「循海岸の水行」であり、次の3000里は「渡海の水行」だったというわけだ。
。 邪馬台国畿内説派は漢文音痴。
魏志倭人伝も読めないようだ。 発掘ドカタにはご無理なようですね。
漢文解読は、どうぞ大文学部の大学者にお任せください。 >>700
>大和国家の成立
3世紀後半に、現在の奈良県の大和、大阪府の河内、和泉地域の豪族が連合して大きな政権である大和国家をつくった。
この大和国家の政府を大和朝廷と言う。
大和朝廷では大王を中心にして政治が行われ、4世紀までに大和地方を統一し、5世紀ごろまでには九州から東北地方南部までをその支配下に治めた。
これバツね。
奈良盆地に関する文献考古などの史料事実や史料実態に拠れば、
元は出雲系銅鐸祭祀部族や毛人蝦夷などの共存地域であったのであり、
そこへ、紀元前100年頃に九州から饒速日が加わり、
その後で、天孫族の阿毎氏の五瀬命や神武の東征があり、五瀬命は亡くなったが神武が侵入出来て、
紀元前91年頃に、磐余の地を確保して、その後、九州倭國の地方の市を監督する大倭職になり、
出雲系や毛人との共存をしていたが、3世紀の卑弥呼の頃になって、
再び九州倭國の東征が激しくなり、それに奈良盆地の在地の阿毎氏も参戦応援して、
奈良盆地は阿毎氏系が支配出来る事になり、九州倭國の別種の旧小国になり、
梁書に拠れば、5世紀末頃に扶桑國と呼ばれていて「ヲケ」という王がいた事になるが、
顕宗と仁賢の兄弟の「ヲケ」や「オケ」という音韻と一致し、
更に、九州倭國においては、倭の五王らの東海姫氏國と呼ばれていたが、
倭王武の次の倭國王哲の後で突然倭國王では無くなって磐井が517年に「倭國王を継体」し、
磐井とその子の葛子の後に「阿毎タリシホコ」が繋がる事になるから、磐井は阿毎氏であり、
磐井は、535〜538年頃の奈良のヲホドの反乱で倒され、
葛子は、奈良の阿毎氏が糟屋の屯倉の領有する事を認め、
それ以後、書紀に拠れば、安閑宣化欽明が、九州倭國の執政や太宰や将軍的な地位を確保し、
新唐書に拠れば、筑紫に宮を持ったらしい欽明が梁にコンタクトを付けて独立を志向し、
用明の「亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通」で、小野妹子が隋文帝に日本國を名乗って拒否され、
推古も九州倭國に宮を持つという奇妙な事をし(タリシホコの側室?)、
推古らも難波にも宮を持って、後の難波京(九州倭國の分都の始まり)になり、
唐の武徳中になって、唐から「日本國」号を認められ、九州倭國からの独立を果たした。 魏志倭人伝での、邪馬壱国らの人々はとても暖かい地域のような生活様式。
なのに奈良盆地はめちゃ寒い。
邪馬台国畿内説は矛盾だらけ。 >>782
>倭人伝の里数を魏里で分析するのは無理
魏里で萬2千里は5、000キロ超える
「魏里」という不明確な文言を使ったこの大和説男が、バツ。
魏代ではまだ「周代の短里と始皇帝の長里との混在使用」が存在しており、
民間や蜀や呉では混在使用が残っていたが、魏朝では、
初代文帝の即位の受命改正の詔書で度量衡の統一を指示し、
重心たちが次々と上表をして、次の明帝の時に、暦の変更の指示と一緒に、
後漢末期に再収集注釈された周髀算経の一寸千里の法の短里の採用を決めた事になり、
西晋朝もそれを踏襲した。
そして、明帝の発言の、(公孫氏の遼東征伐の)征伐四千里が短里での表現であり、
郡役人らの(韓の)「方可四千里」も短里であり、
魏朝が短里を使用していた事が確定している。
だから、魏の役人らの記録である「倭人伝の里」距離も当然短里で記録されていた、
という事になる。
>畿内説としては短里に反論するための魏里でいい
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この大和説男もバツ人間であることになる。 >>783
>後世の記録でも客人はいったん大宰府で待つでしょ?
そして使者を通じてやり取りして、迎えが来てやっと都へ案内される
実際に都に到着するまで一月ほど要すると考えてもいいんじゃないかな
昔からこういう手続きプロセスがあったんじゃないかとも思うし
ダメだ。
役人らの業務としての「旅程や行程の記録」に関して、
そのような不確定的な記録や誤魔化しがバレれば、首が危ないもの。
以後の使節らは、当然以前の公的記録を参考にして移動するのであるから、
前使節が虚偽や誤魔化し記録をしておれば、すぐにバレる。 >>423の小訂正
>>782
>倭人伝の里数を魏里で分析するのは無理 魏里で萬2千里は5、000キロ超える
「魏里」という不明確な文言を使ったこの大和説男が、バツ。
魏代ではまだ「周代の短里と始皇帝の長里との混在使用」が存続しており、
民間や蜀や呉では混在使用が残っていたが、魏朝では、
初代文帝の即位の受命改制の詔書で度量衡の統一を指示し、
重心たちが次々と上表をして、次の明帝の時に、暦の変更の指示と一緒に、
後漢末期に再収集注釈された周髀算経の一寸千里の法の短里の採用を決めた事になり、
西晋朝もそれを踏襲した。
そして、明帝の発言の、(公孫氏の遼東征伐の)征伐四千里が短里での表現であり、
郡役人らの(韓の)「方可四千里」も短里であり、
魏朝が短里を使用していた事が確定している。
だから、魏の役人らの記録である「倭人伝の里」距離も当然短里で記録されていた、
という事になる。
>畿内説としては短里に反論するための魏里でいい
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この大和説男もバツ人間であることになる。 魏志倭人伝を無視しまくって成立する邪馬台国畿内説。
方角を無視。
距離を無視。
気候を無視。 本日、「邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い。」という真実が、
日本国政府が設置した公式機関から発表されます。
14:00 Eテレ。 魏志倭人伝からみた邪馬台国畿内説。
200パーセントあり得ない。 私は、5チャンネルの古代史掲示板での投稿を全面的に拒否されて、
この掲示板を教わって、投稿が出来る事を知り、
しばらく、このサイトに投稿を保存させていただいておりましたが、
また「邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました」スレが出来、
そのへの投稿が出来る事が判りましたので、
この「文学部 邪馬台国畿内説」スレから撤退する事にします。
どうも有難うございました。
しかし、「邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました」スレで、また投稿拒否されましたら、
その時はまた、お願いします。
「邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました」スレに、 邪馬台国(本当は邪馬壱国)への第一番の手がかりは魏志倭人伝なのに
その方角などを無視して邪馬台国畿内説が正しいととく考古学って
何かがおかしい。 邪馬台国論争の祖である江戸期の新井白石ですら、晩年は畿内説を訂正して九州説を正とした。
そして明治に入り、明治天皇御用掛りの宮内省・近藤芳樹博士と、東京帝国大学教授の白鳥庫吉博士も、
九州説を正統の説とした。
これに対し、秋田出身の元雑誌記者で、のちに京都帝国大学の教授となった内藤虎次郎が、「倭人伝は間違ってる、南は東の間違いだー」と噛みつき、
以来今日まで、畿内説という論が尾を引いている。つまり方角修正主義は、明治の内藤虎次郎に連なる京都学派特有の主義主張というわけだ。。。 (あっちのスレより)
>まともな地図を作れなかった古代では方角や距離を正しく測れなかった可能性が高い、、、
ここで「可能性が高い・・」とは、論者が1700〜~1800年前を推定したところに依れば、という意味である。
つまり、「南は東の間違いであろう」、などの私的推測によって畿内説が成り立っていることを、自ら語っている。内藤盧羅次郎以来の悪しき風習だろうな。 下世話に言い換えれば、
魏志倭人伝や、魏略や、廣志や、日本の宮内省や、東京帝国大学は誤っている可能性が高いので、
京都帝国大学の畿内説のほうが正しい。考古学会もほぼ畿内説で固まっている、と言ってるわけだ・・。学術の世界でそれを言っちゃあ、おしまいだよ。 九州福岡説は間違いだから、畿内説が正しい・・、とか
畿内説は間違っているから、九州福岡説が正しい・・、とか、二択に限定するのが可笑しい。
福津阿波道も、松浦伊万里道も、平戸道も、佐賀道もある、つまり五択〜六択も十分あり得る複雑系のテーマなのだ。
なのに商業主義に染まり、二択・紅白歌合戦にしてしまったところが、真摯な学術論争とは遠絶の傍国の東夷人・・・。 邪馬台国、本当は邪馬壱国、この邪馬壱国を記録していたのが魏志倭人伝。
またこの邪馬台壱国までの行き方を詳しく書いいるのが唯一の魏志倭人伝。
その魏志倭人伝での方角、距離、を完全に間違っていると、無視してしまくっているのが邪馬台国畿内説。 他の可能性をすべて排除した「畿内一択説」なのよ・・、
要するに、サイエンスではなくて「宗教」。 サルでも食わない、邪馬台国畿内説。
訳わけの分からないものは、ブタでも食わない。 結局は、明治の大先輩の内藤虎次郎が東だーと言ったから、これで畿内は間違いない・・、
と、和人の大先輩に責任をおっかぶせ、その陰からあれこれ発しているにすぎない。
(その点、北部九州(福岡)説も似たり寄ったり。大和朝廷以来の諸先輩がああ云ったこう書いたは、説得力に乏しい)
魏志倭人伝、魏略、廣志、隋書、新旧唐書、翰苑など、御本家の文学者がどのように見て聞いて書き残したか、それが正しき大々先輩のお言葉であろう。 >>434
下世話に言い換えれば、
「南≠東」や「前方後円墳≠冢」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態や、
魏志倭人伝や、魏略や、廣志や、日本の宮内省や、東京帝国大学は、
正しい可能性が高いので、
京都帝国大学の「存在もしなかった畿内」説のほうが間違っている確率が高い。
考古学会もほぼ名違っている、と言ってるわけだ・・。
学術の世界でそれを言っちゃあ、おしまいだよ。 ま、今どきの畿内説は、明治の大先輩の所論に ワル乗りしてるわけだ・・・、 魏志倭人伝の、九州中部から、南へ水行10日、陸行1カ月、で近畿地方へ行く、爆笑邪馬台国畿内説。 また、
「邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました」スレへの投稿が拒否され出したようだから、
舞い戻り。
>>444の小訂正
下世話に言い換えれば、
「南≠東」や「前方後円墳≠冢」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態や、
魏志倭人伝や、魏略や、廣志の史料実態からは、
日本の宮内省や、東京帝国大学の学者らの説明は、ある程度正しい確率が高いが、
京都帝国大学系の学者や大和説考古学者らや5chらの説明は、
正しい確率は殆どない、と言ってるわけだ・・。
自然科学や歴史の学問の世界で、
大和説を言っちゃあ、おしまいだよ。 >>409
>◆FAQ 15の「土壌の特性」は腐食性が強い海成粘土の大阪層群のことを言ってるんじゃないかな
二つの点で、テンプレはバツでしょうね。
「腐食性が強い海成粘土」というのであれば、列島の海岸地域であればどこででも起こり得る事であり、
大阪層群だけの事にはならないから、奈良盆地の土壌根拠にならないし、
そもそも、奈良盆地と大阪湾地域の同一海生粘土の発生は、
生駒金剛山地の断層山脈発生期以前になり、同一の「腐食性が強い海成粘土」の根拠にならない。
>弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
大和の庄内は、庄内1の3世紀末の石塚からであり、卑弥呼の3世紀前半ではないから、
論拠にならず、テンプレがバツ。
>また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
これも、前項のように「布留0期」は4世紀になり、3世紀前半ではないから、バツであり、
橋口論も、大和は、九州倭國の東征毛人五十五國の征服軍に拠って発生した、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職の旧小国であった、
という事を無視黙殺した詐欺説であり、バツだな。 >>444の訂正
>>407日本@名無史さん2021/04/26(月) 18:09:15.88
◆FAQ 15の「土壌の特性」は腐食性が強い海成粘土の大阪層群のことを言ってるんじゃないかな
に対するコメントでしたね。 いくつかの中国史書が、倭国に禱陸設楽東南へ向かえ、と書き残している。
が、それは誤りで北東の糸島や博多方面が正しい・・、と主張したいのならば、
北部九州説の福岡県応援団や、畿内説の奈良県応援団は、史書を編纂した中国王朝(及び後継の中国政府)へ訂正を申し入れたらどうか。 同じく、伊都国〜不彌国からは南へ向かえ、と書き残している。
がその南は誤りで、博多付近からは東の畿内方面が正しい、と主張したいのならば、畿内説の奈良県応援団は、
国内でゴタゴタ言ってないで、史書を編纂した中国王朝(及び後継の中国政府)へ、訂正を申し入れるのがスジではないか・・。 >>438
>鉄の出土が少ないから畿内は邪馬台国ではないとはならないだろ
ダメだ。畿内も邪馬台国なんても、
存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツなのであり、
「鉄の出土」量の比較にしても、要は、確率が高いか?低いか?の問題だ。
>魏志倭人伝で鉄がでてくるのはこれだけ
>竹箭或鉄鏃或骨鏃
竹の矢はあるいは鉄のヤジリ、あるいは骨のヤジリ
ここから邪馬台国で鉄が多かったと証明できるか?
これも、大和説者らに特有の、
自然や歴史においての(確率の高低論ではなく)絶対断定的な要求に拠っての、
「口先言葉尻での国民を騙そうとする詐術的な論法」だな。
倭人伝の「魏の役人らの記録」の意図は、
「(見聞に拠っても)鉄鏃が明確に認められた」という確率的実態であり、
北部九州地域では、鉄鏃の出土が大量にあるが、
大和では、弥生期には鉄鏃は殆ど出土せず、
3世紀最末〜4世紀のホケノ以後でないと大量出土しない、という事であり、
九州説はほぼ史料実態に適合しているが、大和説は殆ど合わない、
という事である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています