文学部 邪馬台国畿内説
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邪馬台国畿内説は、 1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、 さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。 呼子から見ても、糸島や博多は東だが、それでいいのか? >>194 忘れたフリすんなよ低脳 【基礎知識】 魏志倭人伝の記述 「至對馬國(対馬)〜乗船南北市糴〜又南渡一海千餘里〜至一大國(壱岐)〜亦南北市糴」 対馬←→壱岐の位置関係が南北と記載されています https://i.imgur.com/Ixx2XXX.png そしてこの景色の南の方に邪馬台国があると書かれているわけです https://i.imgur.com/t1La2wr.png 忘れたフリすんなよ低脳 【魏志倭人伝の冒頭記述】 「倭人有り 帯方東南 大海の中」と書かれているわけですが・・、 >>196 後漢時代の倭は100国あった その頃は伊勢遺跡などからも朝貢に行ってたんだろう 基本、その時代の記録をコピペしてるだろ だから奴国が二回も出てくるんだよ みんな遠慮して(というか、小ばか毛嫌いして)、ぜんぜん行かないが、 末盧国から東南500里の伊都国は、佐賀平野の山寄りの大和町川上だ、 そこから更に東南100里、つまり末盧国からは東南600里の奴国は、現在の佐賀の市街地にあたるな。 此処が最初に出てくるほうの奴国。 そして遠絶傍国として出てくる奴国が、博多の那の津だよ。 なお大和町川上・伊都国の東方100里の不彌国は、かの有名な吉野ヶ里だな。(このように比定すると悩まなくて済む、正解ハッピー) >>959 名前:日本@名無史さん 2021/01/20(水) 14:17:38.34 http://i.imgur.com/puNLnRK.png 素晴らしい九州の古道図だ。上陸地点は唐津湾。 魏志倭人伝、魏略、廣志の記述通り、唐津へ上陸したら、唐津古道を東南へ下る。 → 賀周駅→ 磐氷駅→ 高来駅→ 佐嘉駅(ここが伊都国)→ここから東南100里に佐賀市街の奴国が見える。 また →佐嘉駅(伊都国)から東行100里して→ 神崎駅(ここが不彌国)。 なおこの不彌国から、 (陸路を)南へ行けば投馬国に至ることができる、(帯方郡からは、全行程水行で20日)。 (同様にして陸路を)南へ行けば、邪馬台国女王之所都に至る。(帯方郡からは、唐津までの水行10日と唐津からの陸行1月) 日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、 おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、 謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、 本当は、5世紀以降に、建てられた物体である可能性が、高いのだったな。 奴国は一つだぞ。 なぜなら、魏志倭人伝に登場する使訳通じる国、30ヶ国は、全て、道理戸数を聞き取り把握できるよ。 即ち、魏志倭人伝に登場する国で、 「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里。又有裸國K齒國復在其東南船行一年可至。」 の部分の「有國皆倭種(おそらく百余国の内の幾つかの国々)と侏儒國裸國K齒國」以外の30ヶ国は、帯方郡の派遣した使訳に戸数も完全に把握されているよ。 ◆女王にとっては国の境界の尽きる国であり、帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國までの道順を示した6ヶ国。 狗邪、對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴国 (7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000) ◆女王の都に行く道順とは外れる2ヶ国。 不彌國、投馬國 ◆女王の都である1ヶ国 邪馬壹國 ◆女王に属さず女王の南に有る1ヶ国。 狗奴國 ◆そして、邪馬壹國から、終点として再び掲げた、「帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國」までの帰途、 つまり、「次」という文字で道順であることを明示して紹介した、女王国内部を都から最北の出口へ向かったときに、次々に通りすぎる20ヶ国。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、(次有奴國。此女王境界所盡。) ぴったり、30ヶ国だな。 >>203 郡からの使訳は、邪馬壹國と狗奴國との合戦を目撃しただけではなく、 卑弥呼、男王、壹與までの交代劇も目撃し、 その間、 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ◆女王にとっては国の境界の尽きる国であり、帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國までの道順を示した6ヶ国。 狗邪、對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴国 (7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000) ◆女王の都に行く道順とは外れる2ヶ国。 不彌國、投馬國 ◆女王の都である1ヶ国 邪馬壹國 ◆女王に属さず女王の南に有る1ヶ国。 狗奴國 ◆そして、邪馬壹國から、終点として再び掲げた、「帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國」までの帰途、 つまり、「次」という文字で道順であることを明示して紹介した、女王国内部を都から最北の出口へ向かったときに、次々に通りすぎる20ヶ国。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、(次有奴國。此女王境界所盡。) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 の30ヶ国の調査を実行する時間が有ったのだな。 >>204 やはり、貴方ならば、真実の意見を分かってもらえると思っていました。 そして、壹與が贈った男女生口三十人は、 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ◆女王にとっては国の境界の尽きる国であり、帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國までの道順を示した6ヶ国。 狗邪、對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴国 (7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000) ◆女王の都に行く道順とは外れる2ヶ国。 不彌國、投馬國 ◆女王の都である1ヶ国 邪馬壹國 ◆女王に属さず女王の南に有る1ヶ国。 狗奴國 ◆そして、邪馬壹國から、終点として再び掲げた、「帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國」までの帰途、 つまり、「次」という文字で道順であることを明示して紹介した、女王国内部を都から最北の出口へ向かったときに、次々に通りすぎる20ヶ国。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、(次有奴國。此女王境界所盡。) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 の30ヶ国から、一人づつ選抜されて、贈られた可能性も、あるよ。 日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、 おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、 謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、 本当は、5世紀以降に、建てられた物体である可能性が、高いのだったな。 >>205 >◆女王にとっては国の境界の尽きる国であり、帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國 それだと、帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となるが、いいのか? @阿波 実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認と同時に発表された、 「「巻向遺蹟の(掘立柱建物なのだ、と発表されている、)建物群は、 観光用の着ぐるみのモデルとなった女王の時代である3世紀前半の遺蹟なのだ。」 という推定の唯一の理由とされた「柱穴には溝との切り合い関係があったのだ。」という発表」には、 そのための客観的に完全な物的証拠となる「遺跡を発掘破壊した当時の映画や写真やスケッチ」は、存在するのだろうか。 実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認は、 ジグザグの溝を、方形周溝墓の溝と勘違いしたものだったのだが、 もし、 「建物Dが、そのジグザグの溝よりも数十年程度古い掘立柱建物であった。」という推定が真実ならば、 柱穴の深さが、交錯しているジグザグの溝の深さよりも、浅いことから、 「底面が1メートル×1.7メートルもある柱穴の深さが70センチと不自然な程浅く、ジグザグの溝は、1m程の深さだったか」 それとも、 「ジグザグの溝が2m程と不自然な程深く、底面が1メートル×1.7メートルもある柱穴の底の深さが、1.7m程の深さだったか」 のどちらかの間で、ジグザグの溝と底面が1メートル×1.7メートルもある柱穴の底の深さを、想定しなければならなくなるのだったな。 邪馬台国畿内説を完全に論破された「奥山氏=1 ◆n7jxAxKCBhb6 」が、討論での正々堂々の反論を放棄し、 「埋め立てやマルチポスト」という理由で、正々堂々の討論にとっては敗北宣言の意味にしかならない、5ちゃんねるへのくだらない告発をしたので、 僕達は永久に規制され、5ちゃんねるの日本史板という掲示板を、追放されてしまった可能性が高いな。 210 名前:学籍番号:774 氏名:_____ 2021/04/08(木) 11:42:35.29 ID:OggpfLhV なんだまだ規制中なのか?w そもそも、その里程を加算するのが間違いの元! 魏志倭人伝のどこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない! すべて直線距離で表されている。 @阿波 >>211 畿内スレや奥山など、小雑魚はほっておけばよろしい。 レスという水をやらなければ、遠からず、干からびて消滅する おまけにこのところの畿内スレからは、腐臭も漂っている。 どうやら、バイ菌もわき始めたようだ。皆んな〜、ホイホイ近づくでないぞ。 完全に破綻してしまっている邪馬台国畿内説の立場を整理すると、 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 魏志倭人伝中にある、九州北部から投馬国を経て邪馬台国への行程での2つの南至は東至の間違い。 魏志倭人伝中にある、2つの自女王国以北は自女王国以西の間違い。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 という、少なくとも合計4回の間違いがあるのだが、 下の@からCまでのどの間違いの組み合わせであったとしても、4回という回数は、不自然すぎるな。 81日本@名無史さん2021/04/08(木) 11:37:52.45 >>79 漠然と「魏志の間違い」という表現を使うあたりさすが低脳w 一字違いで全てを否定してみたり、「径百歩」だけで箸墓確定などとほざいたり低脳妄想はなはだしいなw @魏志作成時の記述間違い A魏志の編集の間違い B魏志複写時の転記間違い C陳寿が参照した記録類の間違い どれだよ? 万が一、魏志倭人伝時代に、壱岐や北部九州、そして、巻向を、全て訪問した、レベルの高い中国人がいるのならば、 壱岐や北部九州が、巻向よりも赤道に近いことを、簡単に見抜いてしまいそうだな。 「計其道里當在会稽東治之東」 会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。 @阿波 https://www.bing.com/images/search?view=detailV2& ;insightstoken=bcid_S3gyNtXaI5kCliZ5N45fpO2T2gHK.....yc*ccid_eDI21doj&form=ANCMS1&iss=SBIUPLOADGET&selectedindex=0&id=1294645963&ccid=eDI21doj&exph=341&expw=600&vt=2&sim=11 >>106 >阿波より手前に北部九州があるだろ? 帯方郡から12000余里の奴国は、12000*75=900000=900` となるが、いいのか? @阿波 そもそも、その里程を加算するのが間違いの元! 魏志倭人伝のどこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない! すべて直線距離で表されている。 「計其道里當在会稽東治之東」 会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。 @阿波 view=detailV2&insightstoken=bcid_S3gyNtXaI5kCliZ5N45fpO2T2gHK.....yc*ccid_eDI21doj&form=ANCMS1&iss=SBIUPLOADGET&selectedindex=0&id=1294645963&ccid=eDI21doj&exph=341&expw=600&vt=2&sim=11 そもそも、その里程を加算するのが間違いの元! 魏志倭人伝のどこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない! すべて直線距離で表されている。 「計其道里當在会稽東治之東」 会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。 @阿波 https://www.bing.com/images/search?view=detailV2& ;insightstoken=bcid_S3gyNtXaI5kCliZ5N45fpO2T2gHK.....yc*ccid_eDI21doj&form=ANCMS1&iss=SBIUPLOADGET&selectedindex=0&id=1294645963&ccid=eDI21doj&exph=341&expw=600&vt=2&sim=11 阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 うーん・・、 自郡 至奴国 萬二千余里ねえ、 それだと、東行100里至る不彌国の100里が、字余りになりになっちゃって、しまりがよろしくないねえ。 晩年のフルタも、自説にやや自信を無くし、それが遠因で、東日流にでも活路を見出すか・・、と思うようになったのだろうねえ。 壹與が贈った男女生口三十人は、 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ◆女王にとっては国の境界の尽きる国であり、帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國までの道順を示した6ヶ国。 狗邪、對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴国 (7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000) ◆女王の都に行く道順とは外れる2ヶ国。 不彌國、投馬國 ◆女王の都である1ヶ国 邪馬壹國 ◆女王に属さず女王の南に有る1ヶ国。 狗奴國 ◆そして、邪馬壹國から、終点として再び掲げた、「帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國」までの帰途、 つまり、「次」という文字で道順であることを明示して紹介した、女王国内部を都から最北の出口へ向かったときに、次々に通りすぎる20ヶ国。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、(次有奴國。此女王境界所盡。) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 の30ヶ国から、一人づつ選抜されて、贈られた可能性も、あるよ。 あっちのすれの 180 日本@名無史さん メッセージをお届けくださって、どうもありがとうございます。 謝々、、。 >◆女王にとっては国の境界の尽きる「国」であり、、、 これには、別の読み方もある。 つまり、此処 女王の境界尽きる「国」(=奴国)、と書かれているわけではない。 伝曰く、此処 女王の境界尽きる「処」(=範囲)、であるからして、以上に記述した処(=30国)で、女王の勢力範囲は尽きる・・,とも読b゚る。 希荘繧フ名文筆家・鋳ツ寿の文章としbトは、こちらの演゚のほうが相演桙オいのではなb「であろうか。 女王の直轄領(女王国)の境界の村々(国々)をグルリと順に「次々と」示したのならば、 最初に示される斯馬國の前に「次」の字は置かれないな。 斯馬國の前に置かれた「次」の字が意味することは、 あくまでも、「邪馬壹國の次には、」であり、 順に「次々と」示した出発点は、邪馬壹國=女王之所都にしかならないよ。 そして、この順で最後になる奴国こそ、この道順で、唯一、女王国の境界が尽きる場所なのだぞ。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ◆邪馬壹國から、終点として再び掲げた、「帯方からみれば女王国の入口である、道のり12000里の奴國」までの帰途、 つまり、「次」という文字で道順であることを明示して紹介した、女王国内部を都から最北の出口=奴国へ向かったときに、次々に通りすぎる20ヶ国。 (邪馬壹國女王之所都。) 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、(次有奴國。此女王境界所盡。) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 230 名前:学籍番号:774 氏名:_____ 2021/04/09(金) 08:14:38.07 ID:tkPiXZM/ >◆女王にとっては国の境界の尽きる「国」であり、、、 これには、別の読み方もある。 つまり、此処 女王の境界尽きる「国」(=奴国)、と書かれているわけではない。 伝曰く、此処 女王の境界尽きる「処」(=範囲)、であるからして、以上に記述した処(=30国)で、女王の勢力範囲は尽きる・・,とも読める。 希代の名文筆家・陳寿の文章としては、こちらの解釈のほうが相応しいのではないであろうか。 倭人伝「此 女王境界 盡きる所 」 の解釈としては、 以下、Bの抽象的な解釈の C場面、局面、あたりが適切。 ところ 【所/▽処】 の解説 A. 空間的な場所。人や物が存在する場所。 @ 住んでいる場所。住所。住居:「おところとお名前を教えてください」 A その地域。地方:「ところの人に尋ねる」 B 連体修飾語によって限定される場所*「県庁のあるところ」 B. 抽象的な場所。場面。範囲。 @ ふさわしい地位や立場:「職場で、ところを得る」 A その人の所属している組織や集団:「知り合いのところに発注する」 B 部分。箇所。点:「悪いところを直す」「粋なところのある人」 C 場面。局面:「今のところ、おとなしい」「今日のところは許してやろう」 D ちょうどその所。場合。際。おり:「さっき着いたところだ」 E 事柄。内容。こと:「思うところあって、辞任する」「自分の信じるところを貫く」 F 範囲。程度:「調べたところでは、そんな事実はない」「歩いて30分といったところかな」 (邪馬壹國女王之所都) 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴厘國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 (と、列記したところ・所/処で、女王の境界=範囲/服属国は盡きる。) 魏志倭人伝には、「邪馬壹國女王之所都」という句があるよ。 つまり国=所だよ。 そして、次々に示した国々の始点である「邪馬壹國女王之所都」という句の対比として、 次々に示した国々の終点である「此(=奴国)女王境界所盡」という句がある。 邪馬壹國-女王-之-所-都 邪馬壹國、女王、之(強調)にて、都す処。 奴国-女王-境界-所-盡 奴国、女王、界を境して、尽く処。 始点と終点を明示するための、国=所を構文とする、この対句を理解できなければ、魏志倭人伝の作者の意図は理解できないぞ。 >魏志倭人伝には、「邪馬壹國女王之所都」という句があるよ。 >つまり国=所だよ。 ・・・・A. 空間的な場所。人や物が存在する物理的場所を示する事例。 >此-女王-境界-所-盡 ・・・・ B. 抽象的な場所、場面、範囲、或は文章中の位置や範囲や区切りを示す事例。 倭人伝には、空間的・実態的な使用例と、抽象的・文学的・文字列的な使用事例の2種類が出てくる。これを読み分けなくてはならぬ。 邪馬台国畿内説を宣伝している「奥山氏=1 ◆n7jxAxKCBhb6 」がまたしても、奥山氏の脳の異常を、晒しているな。 脳に可哀想な障害のある奥山氏は、 弥生時代終末の九州で「人面土器」がどれだけの数、出土し、 弥生時代終末の本州で「人面土器」がどれだけの数、出土し、弥生時代終末の本州で出土した「人面土器」がどの程度の割合で、黥面土器だったのかを示さなければ、 弥生時代終末の九州で鯨面文化が無く、弥生時代終末の本州で鯨面文化があったことの根拠にならないばかりか、 単に、弥生時代終末の九州と畿内の「人面土器」作製の慣習の違いを示すこともできないことも、 全く理解できないのだな。 261 ◆n7jxAxKCBhb6 2021/04/08(木) 03:39:54.59 ◆FAQ 24 Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう! A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。 >>236 貴方の指摘する統計的な検証が全くされていないだけではなく、 鯨面土器を作製した人物という一要素で、時代や地域の特色に還元して推定してしまうという、頭の出来栄えの良くない者が多用する、科学的には既に完全に破綻した要素還元の手法だな。 >>237 またしても、貴方とIDが、一致してしまいましたね。 同じスレッドの会話の中のこれほど時間的に近い箇所で、IDが一致してしまったのでは、 まるで、 魏志倭人伝の中の女王に関連の深い箇所で、「場所+女王+〜+所+〜」という形が、完全に一致してしまったのでは、 「場所+女王+〜+所+〜」という形が指し示す物事が 次々に国々を紹介する部分の始点の国と終点の国という同一構文による国名なのだ、と断定されるようにして、 ID:JCciXP4pが指し示す物事が、 次々に意見を発表するための、会話を装った同一人物による投稿なのだ、と断定されてしまいそうですね。 邪馬台国畿内説を宣伝する「奧山氏=1 ◆n7jxAxKCBhb6」が作製したスレッドで、 奥山氏の先祖が、朝鮮半島で産まれた人物なのか、 それとも、 奧山氏自身が、朝鮮半島で産まれたのか、 どちらなのかという研究会が、進行しているな。 ERROR: 余所でやってください。[history] 問い合わせID:○○○○ 問い合わせIDと投稿のIDは、関連がなさそうだな。 >>235 (追加・書き直し) >此-女王-境界-所-盡 ・・・・ B. 抽象的な場所、場面、範囲、或は文章中の位置や範囲や区切りを示す事例。 つまり、以上の30国を書き終えたところ(所)で、女王の勢力範囲(境界)は尽(盡)きる、という意味の用例である。 「4世紀から5世紀にかけて、倭人に大量に捕獲され、日本列島に連行されていた朝鮮半島出身の人民や、倭国の属国となり、人質として差し出されていた朝鮮半島の王族が、どのようにして日本列島に子孫を残したのか」 についての研究や 「唐と新羅に滅ぼされ、日本に大量に亡命してきた百済の者達は、どのようにして、大和朝廷に取り込まれたのか」 についての研究は、 どちらも、魏志倭人伝時代より新しい物事についての研究なので、 魏志倭人伝に邪馬壹國として紹介された都が、何処にあったのかという問題とは、大した関係性がなさそうだが、 「4世紀から5世紀にかけて、合戦や海賊行為で倭人に大量に捕獲され、日本列島に連行されていた朝鮮半島出身の人民」、 「倭国の属国となり、人質として差し出されていた朝鮮半島の王族」、 「唐と新羅に滅ぼされ、日本に大量に亡命してきた百済の者達」が、 古墳が造られていた頃から後の日本の文化や日本人の遺伝子に影響を与えていた可能性は、有りそうだな。 しつこいぞ。僕達のように、はっきりそれと分かる類例を示せ。 242学籍番号:774 氏名:_____2021/04/09(金) 13:22:45.31ID:tkPiXZM/ >>235 (追加・書き直し) >此-女王-境界-所-盡 ・・・・ B. 抽象的な場所、場面、範囲、或は文章中の位置や範囲や区切りを示す事例。 つまり、以上の30国を書き終えたところ(所)で、女王の勢力範囲(境界)は尽(盡)きる、という意味の用例である。 「お使いのプロバイダさんが、原因となった人に対応するまで規制は続きます。」 という文章の中の 「原因となった人」 が、僕達の事を指し示しているのならば、どうしようもないな。 >>244 此 女王境界所盡 其南有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王 仮定として、奴国が女王の境界の国であったとすると、其の奴国の南には狗奴国も有った。 すると、郡から萬二千余里にあった奴国の南に、女王国の入り口と狗奴国の入り口が並んで有ったことになる、それでいいのか?? 魏志倭人伝を読み返し、「此」と「其」の指し示し方の違いを考えれば良いよ。 自女王國以北「其」戸數道里可得略載「其」餘旁國遠絶不可得詳。 次有斯馬國。次有已百支國。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜次有烏奴國。 次有奴國此女王境界所盡。 「其」南有狗奴國。 「此」が指し示すべき、直前の語は、「奴國」。 最後に「其」が、明示的に指し示した物事は「自女王國以北」 つまり、「自女王國以北」の南に狗奴國がある。 246 名前:学籍番号:774 氏名:_____ 2021/04/09(金) 15:40:14.79 ID:tkPiXZM/ >>244 此 女王境界所盡 其南有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王 仮定として、奴国が女王の境界の国であったとすると、其の奴国の南には狗奴国も有った。 すると、郡から萬二千余里にあった奴国の南に、女王国の入り口と狗奴国の入り口が並んで有ったことになる、それでいいのか?? 魏志倭人伝の一部を正しく翻訳します。 「自女王國以北」は戸數道里可得略載だが、「自女王國以北」の餘の旁國遠絶不可得詳だぞ。 いちいち戸數道里略載はしないが、「自女王國以北」には都の次有斯馬國。次有已百支國。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜次有烏奴國。 そして、次有奴國、この奴国が女王境界所盡なのだ。 そして、「自女王國以北」の南には、有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王だぞ。わかったか。 >次有奴國「此」女王境界所盡。 >「其」南有狗奴國。 「此」が指し示した直前の語は、「奴國」で良いが、 「其」が指し示した直前の語は「自女王國以北」ではなくて、「女王境界所盡」である。 (因って、女王の境界盡きる所の南に有狗奴國、と読む。お分かりかな、、。) 魏志倭人伝では、「其」は多用されているが、必ずしも直前の単語を指し示さないよ。 疑うならば、読め。 魏志倭人伝だけではなく、魏志倭人伝の作者の他の文章も、読み返し、「此」と「其」の指し示し方の違いを考えれば良いよ。 魏志倭人伝では、色々な目印で、「文脈のリセット」という物事が繰り返されているが、この目印を見逃せば、 ある段落での主題が何かについて、頓珍漢な解釈が、発生してしまうよ。 そして、 「次有奴國此女王境界所盡。」 で、次々に示した国々の終点が、奴国であることを、同型構文の対句法という目印で示し、 再び、視点を、次々に示した帰途の国々からリセットし、 「自女王國以北」の基準点に戻し、戻した視点から、狗奴国を説明しているよ。 そして、目印には、或る物事の重複使用が、多いぞ。 例えばだが、水行、陸行、会稽、男王、女王、伊都国、奴国、狗奴国、、、 実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認と同時に発表された、 「「巻向遺蹟の(掘立柱建物なのだ、と発表されている、)建物群は、 観光用の着ぐるみのモデルとなった女王の時代である3世紀前半の遺蹟なのだ。」 という推定の唯一の理由とされた「柱穴には溝との切り合い関係があったのだ。」という発表」には、 その「切り合い関係」の客観的に完全な物的証拠となる「遺跡を発掘破壊した当時の映画や写真やスケッチ」は、あるのだろうか。 それとも、全く、存在しないのだろうか。 実際には完全に間違えだったことが判明した、「方形周溝墓があったのだ」という早とちりの誤認は、 ジグザグの溝を、方形周溝墓の溝と勘違いしたものだったのだが、 もし、 「建物Dが、造営された土壇上に建てられた、そのジグザグの溝よりも数十年程度古い掘立柱建物であった。」という推定が真実ならば、 柱穴の深さが、交錯しているジグザグの溝の深さよりも、浅いことから、 「底面が1メートル×1.7メートルもある柱穴の深さが70センチと不自然な程浅く、ジグザグの溝は、1m程の深さだったか」 それとも、 「ジグザグの溝が2m程と不自然な程深く、底面が1メートル×1.7メートルもある柱穴の底の深さが、1.7m程の深さだったか」 のどちらかの間で、ジグザグの溝と底面が1メートル×1.7メートルもある柱穴の底の深さを、想定しなければならなくなるのだったな。 日本中の古ぼけた物事を好む者達を、あのゴッドハンドによる「発掘」の時と同様にして、熱狂させた、 おそらく方形で、数十センチメートル程の深さに掘削された、5世紀末以降に出現した「SX-1002」と完全に平行に隣接し、「SX-1002」との時間的な関係性が強く疑われるが、 謎の勢力に、謎の勢力が作製した観光用の着ぐるみのモデルとなった卑弥呼の時代である3世紀前半に建てられたのだ、と断定されてしまった「建物C」は、 本当は、5世紀以降に、建てられた物体である可能性が、高いのだったな。 >>1 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、 「最近、数年来、宇宙線の観測が、劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、破天荒に強大な空気シャワーに含まれる、想像を絶する数量の、中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、 さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、勝手に騙されてしまったよ。 あっちのスレは、やっとこさ息をしてる程度のようだ。 もう、長くはあるまいよ、ナムナム・・・、 そうさせたのは「阿波」であって、決して九州説のせいではないから。 ナムナム・・・、 @阿波 >>252 つまり、魏志倭人伝で、3回登場する「水行」、2回登場する「陸行」でも、 それぞれ最初に登場した時の完全な区間の明示は、その区間の始点が、それぞれ後から登場する「水行」と「陸行」の区間の始点でもあることの、予めの明示であるだけではなく、 直前までの文脈をリセットする目印でもあるのだな。 從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里。 東南陸行五百里到伊都國。 南至投馬國水行二十日。 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月。 「本当は、吉備から河内に伝来したのだが、庄内という場所で発見されたので、庄内式と名付けられてしまい、邪馬台国畿内説という空想の材料となってしまった土器」 という言葉を、そのまま使用すると、 文章が、長くなり、読むのが、大変なので、 「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」 という言葉に変換して、意見を発表します。 「九州で土師器Ib期に出土したが、「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」と似ていると認識された土器」、 「「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」の伝来元である吉備の土器」、 「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」、 「「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」の影響を受け、纏向大下水道の深い所に埋まった庄内0式と分類された土器」 という4種類の土器の埋まっていた4つの地域の位置関係から考えれば、 「「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」の伝来元である吉備の土器」との直接的な影響関係がありそうな「九州で土師器Ib期に出土したが、「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」と似ていると認識された土器」と 「「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」の影響を受け、纏向大下水道の深い所に埋まった庄内0式と分類された土器」とでは、 「「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」の伝来元である吉備の土器」との直接的な影響関係がありそうな「九州で土師器Ib期に出土したが、「吉備から河内に伝来し、庄内式と名付けられた土器」と似ていると認識された土器」の方が、古そうだよ。 土師器Ib期という謎の期は、どの程度の長さの期間だったのだろうか。 魏志・東夷倭人伝の書き出し 「倭人有り 帯方東南 大海の中」・・・ 下に拝借したimgurは、素晴らしい原図です。 帯方 → 倭地(九州島)の位置関係が、東南の直線で正しく記入されています https://i.imgur.com/Ixx2XXX.png 「自郡至女王國萬二千餘里」 「計其道里當在会稽東治之東」 会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。 @阿波 https://www.bing.com/images/search?view=detailV2& ;insightstoken=bcid_S3gyNtXaI5kCliZ5N45fpO2T2gHK.....yc*ccid_eDI21doj&form=ANCMS1&iss=SBIUPLOADGET&selectedindex=0&id=1294645963&ccid=eDI21doj&exph=341&expw=600&vt=2&sim=11 名だたる中国の歴史書は、倭国に上陸したら東南へ進めと書いた。 しかし、後世の日本の学者・文化人・知識人は、ことごとく北東へ進むべしと捻じ曲げた。 そこに混乱・混迷・狂気の行軍の源が有ったということだ。 その尻馬に乗った阿波テものも少なからず・・、 そもそも、その里程を加算するのが間違いの元! 魏志倭人伝のどこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない! すべて直線距離で表されている。 @阿波 そもそも、その里程を直線記述とするのが間違いのもと! 魏志倭人伝のどこにも、郡から直線で萬二千余里、とは書かれていない 皆が目にする通り、区間の累積距離で書かれている・・。 >>266 >皆が目にする通り、区間の累積距離で書かれている・・。 じゃあ、帯方郡〜不弥国まで何里だ? @阿波 つい最近まで、帯方郡〜不弥国まで1万700余里などと、どや顔でホザイテいたのに、なんだこのざまは。 わははははは @阿波 帯方郡〜不彌国までは1万600里+100里(この100里は、伊都国から奴国への枝道)だ。 んで、女王の都まで残り1400里だから、100qちょいだね。 残念ながら、阿波にはほんの少し届かないけど・・、 >>269 >10700*75=802500=802.5` ??? 帯方郡〜不彌国までは、10700*75=802500=802.5` いったい不彌国はどこなんだ? @阿波 >>269 >帯方郡〜不彌国までは1万600里+100里 帯方郡〜不彌国までは、10700*75=802500=802.5` いったい不彌国はどこなんだ? @阿波 で、不彌国・吉野ヶ里から南へ100q余ということは、おおむね熊本県の範囲ということになる。 そして共立された所は、不平不満の出ないように、倭=九州島のど真ん中だったと考えれば、 阿蘇高千穂が、最高最適の候補地だな。(後世の高千穂神話は、伊達ではないぞえ) >>272 >で、不彌国・吉野ヶ里 帯方郡〜不彌国・吉野ヶ里まで800キロもあるのか? @阿波 >>273 帯方郡(ソウル)〜唐津〜多久市〜吉野ヶ里で、880qくらいだろう。 1里80mちょっとだな。 >>272 >阿蘇高千穂が、最高最適の候補地だな。(後世の高千穂神話は、伊達ではないぞえ) で、なんという阿蘇高千穂の王都遺跡なんだ? 有りもしない妄想を楽しんでるのか? わははははは @阿波 >>269 >んで、女王の都まで残り1400里だから んで、不彌国〜投馬国までの水行二十日は無視か? わははははは @阿波 福津に上陸しても、郡から1万里だ。 福津から筑豊経由〜中津〜徳島まで400qはあるだろう合計1200qで、1萬5千里ってえところだな。 洛陽から西の大月氏までの1萬4千里より遠いじゃないか、超遠絶の東の阿波氏・・、 ま、しもじもの荒れ果て、顧みられることのなかった遺跡(=廃墟)とはわけが違う。 卑弥呼の塚を祀る高千穂神社、及びこれを取り巻く神社群は、今も数多の神職によって護られ、祀られ、日々掃き清められているのだ。 そして皇族方の御参詣も数知れず・・、 >>276 アワ如きの読みとはわけが違うわ ・不彌国〜南至る投馬国 ・不味国〜南至る邪馬台国女王の都する所 この二行は並列記述だ。どちらも不彌国から南(正確には南南東)であり、陸行する場合は途中まで同じ道なんだよ。 >>277 >卑弥呼の塚を祀る高千穂神社、及びこれを取り巻く神社群 神社が王都遺跡なのか? みじめにならないのか? わははははは @阿波 >.279 繰り返すが、遺跡(廃墟)ではないぞ、古えの王宮のお姿そのものだ。失礼無きよう御参詣ありたし、 >>280 つべこべ言わずに、王都たる集落遺跡を示してみろ! そんなイカサマ神社など興味ないわ、ヘタレ。 @阿波 阿波さんも、 叩いてばかりいないで、 もっと歴史を追求しましょうよ 真実を書けば、 それが決定打になるんですから >>282 歴史の真実 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 >>284 そんなイカサマ神社など興味ないわ、ヘタレ。 「阿波」の記紀古神社知らんのか? @阿波 阿波さんは、 劔山なら、 安全と思いますか? 核ミサイルがある今、 全然安全じゃないと思うんですけど [日本高千穂神話の里]・・・(但し現在は、宮崎県西臼杵郡に帰属) 阿蘇高千穂 中心街区 : 高千穂町大字三田井(=馬台)・・・翰苑に登場するあの馬台である 「山に憑き 海を負い 馬台を鎮め 以て都を建てる 」 高千穂とは天降(あまくだ)った所なんだから、少なくとも高い山地(阿蘇高千穂)ではなく、麓・平地である。 そして、豊かに稲や稗などが稔るところを指す。 高天原=四国山地(神山・木屋平村) 高千穂=大吉野川中流域(穴吹・阿波町) @阿波 三田井氏(みたいし) 氏は、天照大神、三毛入命、祖母嶽大明神らに連なる高貴の一族として、日向高千穂(高知尾)を治めた「高千穂氏」の末裔氏族である。 六代目に男子なく、豊後・宇佐神宮大宮司家の大神氏惟基の一男を貰いうけ、嫡男とし高千穂太郎政次を名乗らせたという。 なお鎌倉時代後期、高知尾武政より「三田井氏」を名乗っているが、これは高千穂の主邑であった三田井(=馬台)の地名に由来する。 >>289 >なお鎌倉時代後期、高知尾武政より「三田井氏」を名乗っているが 鎌倉時代www 高千穂とは天降(あまくだ)った所なんだから、少なくとも高い山地(阿蘇高千穂)ではなく、麓・平地である。 そして、豊かに稲や稗などが稔るところを指す。 高天原=四国山地(神山・木屋平村) 高千穂=大吉野川中流域(穴吹・阿波町) @阿波 倭人伝に記された「邪馬台」に発し、翰苑に云う「馬台」に由来して、 高千穂(高知尾)の主邑にその名をとどめてきた「三田井(=馬台)」の名を、鎌倉時代に氏族の名として戴いたというわけである。 その長きの及ぶ地名は、今もなお高千穂町の中心街区に見ることができる。しかも、三田井の小字には「神殿」という名さえも残されているのである。 >>291 鎌倉時代の後付け地名はどうでもよい。 @阿波 連続苦闘天、魏志倭人伝を研究する。 公式ホームページ renzokukutouten.blogspot.com 阿波に限るわけではない。 日本の殆どの学者・文化人・知識人が、中国の歴史書を無視(軽蔑)して、上陸したとたんに我を忘れ、北東へ猪突猛進するから迷子になる。 挙句の果ては、史書のどこそこがいくつ間違っている・・、などと古代人のせいにして責任逃れを計る。 倭国(唐津)に上陸したら、魏志倭人伝・魏略・廣志が書き記すところに則って、忠実に東南へ向かえばいいのだ。 そのように行動した先学もいる。名文筆家の森村伊作氏、山口大学の吉本彰教授はその先駆けであった。偉大な先覚者を見習うべし・・・、 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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