悪質出会い系サイト、ノッツェ e見合い、ネオ、パーティ 苦情!!
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
もはや結婚相談所ではなく、遊びパーティーと出会い系サイト運営専門業者と化したノッツェ。
遊び半分のお気軽パーティー連日開催と四件の悪質出会い系サイト運営、
その中のe見合いとネオ、パーティーの苦情のスレです。
あまりにも酷い場合では
消費生活センターにも苦情や相談が多数入っているようなので、相談した方がよいでしょう。
■東京消費生活総合センター
【03-3235-1155】 あああああああああああああ、あああ、あかさたなはまやらわわわわ、ネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネ ささささささささささささささささささささささささささささささささささささささ、さささささささささささささささささささささささ、さささささささささささささささささささささささ、 >>768
腐れノッツェ従業員よぉ〜!!!!!
おめ〜!!!!顔文字位考えろよな!
自演糞ゴミクズ野郎!!!! >>855
この空間はノッツェの職員達は私と彼の間に誤解とすれ違いを梳かす為に作った神聖な空間^_^ノッツェは素晴らしいサイトです、彼と出会いから絆を深くまで何から何まで世話して頂いてました!ここでノッツェを侮辱行為を許せません! >>856
苦情スレで的外れな事言うな!!!!
社会のゴミが!!!! このような書き込みをする事が間違ってるのです。
でたらめな事を書いて、人を窮地に追いやるのは、見て見ぬふりは出来ません。
誹謗中傷はやめなさい。
気持ちよいですか?
相手に振り向いて貰いたいのなら、信用と信頼を作る事です。
こういう事をすれば、お相手は貴女を信頼しないと思います。
冷静になり考えて下さい。
みんな嫌な思いで、この書き込みをみてます。
早く削除して下さい。 私も859さんのいう通りだと思いますよ。
どうかもう意味のない誹謗中傷は止めてください。
貴女の人格が疑われますよ。 人格だとぉ〜!!!!???お前素敵バカ人格だろ。ゴミ
>>859
サイコパスは呼吸するように嘘がつけます ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああいいいいいいいいいい、いいいいいいいいいいいいいいい、ううううううううううううう、 徳川家康は「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」と言いました。
世の中には何の問題もなく生きている人はいません。
誰でも色々な難しい問題を抱えて人生を生きているのです。
たとえクリスチャンとなっても、そういう問題が人生から消えてなくなることはありません。しかし、どんな重荷も祈りつつ負うことができる人間になることはできます。
私たちの神様は、「あなたの重荷をわたしに任せよ」「わたしがあなたを支えている」と言ってくだっているからです。 クリスチャンとは酒やたばこ、着飾ることや贅沢など、「生活の楽しみ」を捨て、善人顔をして窮屈な生活をする真面目くさった人種だと勘違いする人がいます。
大きな誤解です。
クリスチャンとは、今まで以上に解放感や喜びに満ちた生活をする人なのです。
但し、楽しいと思っていたことが空しく思えたり、苦しいと思えていたことも楽しく思えたりすることはあります。
それは努力ではなく神の御業、
つまりイエス様が私たちを新しくしてくださることによって、
そのような心の変化を経験するのです。 現代人は便利で、豊かで、安全で、不自由のない生活をしています。
それにも関わらず、悩み、迷い、思い煩い、失望している人が多いのはどうしたことでしょうか。
人々の魂は傷つき、疲れ切り、渇き、力を失っています。
イエス様は「人の命は財産によってどうすることもできない」
(ルカ12:15)と言われました。
物質的な豊かさを追い求めるだけでは本当に豊かな人間になることはできないのです。
神の前に豊かになることを追い求めようではありませんか。 神様を信じると金持ちになるかというと、
そうでもありません。
病気にならないかというと、そんなこともありません。
では何のために神様を信じるのでしょうか?
神様を信じるのは神様が神でいますからです。
自分の利益になるとかならないとか、そんなこ
とではないのです。
しかし、それにも関わらず、神様は必ず私たちの利益となって下さいます。
たとえ苦しみを経験しても、苦しめること自体が神様の目的なのではありません。
その苦しみを通してより大きな幸せへと私たちを導いてくださるのです。 「今日は風が強いから」「雲行きが怪しいから」と手をこまねいていても人生は思い通りに流れません。そんなことでは種蒔きもできず、
刈り入れもできず、結局何もしないで終わってしまうと、神様は警告しているのです。
「日々これ好日」
と言われるではありませんか。
手をこまねいて好い日が来るのを待つのではなく、どんな日にも種を蒔き、どんな日にも刈り入れをして、
今日という日を好い日にしましょう。
神様と共に働けば、どんな日もすばらしいチャンスに満ちています。
すべてを善に変えてくださる神様の祝福の力を信じましょう。 人生にも、丁度、今頃のように、
晴れることのない雨雲が心を覆い続ける日が何日も続く時もあります。
そんな時には、誰でも気が滅入ってしまうものです。
けれども、梅雨に雨が降らなければ深刻な水不足が私たちを悩ますことになります。
農作物の収穫にも影響が及びます。
自然界においては、神様が季節ごとに雨を降らせることはとても大切な事なのです。
同じように、神様は私たちの人生にも季節の雨を降らせてくださることにも意味があります。
それは当座は喜ばしいものでなくても、
必ずあなたへの祝福に変わるだろうと、
聖書は約束しているのです。 これは、神様は悪人も善人もまったく同じように取り扱っておられるということでありません。
神様は悪人に対してもチャンスを与えてくださっているのです。
いつか自分の罪と愚かさを悟った日に、
悔い改めて神の子として立ち帰ることができるためのチャンスです。
このような神様の忍耐強さなくして、
私たちはいかにして神の子であり続けることができるでしょうか。
けれども、このチャンスにはタイムリミットがあります。
時があるうちに悔い改めて立ち帰る者になりましょう。
さもなくば、神の恐ろしい裁きを免れることはできません。 どんなに輝かしい朝を迎えても、
結局は暗い夜のうちに一日が終わるというのでは、なんだか寂しいと思いませんか。
聖書は、「夕べがあり、朝があった」と言いました。
暗さの中で朝の光を待ち望むことから一日が始まり、
やがて美しい朝の光が暗闇をうち破って射し込んでくる。
それが私たちの一日であり、人生であり、またこの世界の歴史であるというのが、聖書の主張なのです。
なんと希望に満ちた歴史観でしょうか! 「今日の気分は最高!」とか、
「今日の気分は最低!」とか、
そんな風に気分によって他人を振り回したり、神に委ねだれているあなたの人生や賜物を損なったりしていないでしょうか。
気分や感情をコントロールするのは
確かに難しいことです。
しかし、あなたではなくイエス様が、
あなたの中に生きる方となってくださるならば、それが出来るのです。
イエス様が聖霊によってあなたの心に
住んでくださるように祈りましょう。
わがままな気分の犠牲者としてではなく、イエス様の変わることのない目的のために生きる者になりましょう。 「平和があるように」というのは、ユダヤ人の挨拶の言葉でシャロームといいます。
しかし、イエス様は特別な言葉で挨拶をしなさいと言われたのではありません。
日常的な挨拶の言葉であっても、心を込めてかわし合いなさいということなのです。
およそ挨拶というのは、どこの世界の言葉であっても相手の祝福や幸せを祈る言葉です。
顔を合わすたびに、相手の祝福、幸せを祈り合うというのが、挨拶なのです。
口先だけの挨拶に、少しでも祈りの心を込めることができたら、
本当に平和な世界がくるかも知れません。 イエス様は、「病める人こそ私のもとに来なさい」と招いておられます。
なぜなら、イエス様には体の病、心の病、霊の病、あらゆる病を癒すお力があるからです。
ですから、体を病む者も、心を病む者も、そして霊の病(=罪)に悩む者も、イエス様のもとに静かにひざまずいて、
「どうぞ、私を癒してください」と祈ろうではありませんか。
イエス様の癒しの力にあずかり、新しい命によって霊肉の健康を回復していただきましょう。 神様は一羽の小さな雀の命も、野に咲く花の命も大切にしてくださり、愛しておられます。
ましてみなさんは神の子供らとして特別に神に創られた存在なのですから、
みなさんの命については創造主なる神様が髪の毛一本にいたるまで
慈しんでくださっていると、
イエス様は教えてくださいました。
みなさんには、その神様の愛が見えるでしょうか。
それが見えてくるならば、あなたは本当に大きな安心に包まれ、毎日をあらゆる思い煩いから解放されて、喜ばしく生きることができるようになるでしょう。 連日、新聞には私たちの不安をかき立てるようなニュースがいっぱいです。
戦争、テロ、大地震の予測、凶作、倒産、リストラ、連続通り魔事件、人質事件、工場大火災・・・。
内閣府発表によると、
国民の67.2%が日常生活で不安や悩みを感じているという結果ができました。
「時の徴」を感じます。
しかし、イエス様は「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭をあげなさい。
あなたがたの解放の時は近いからだ」
(ルカ21:28)と言われました。
ここに多くの希望があります。私たちは何が起こっても気をしっかりもって、頭を上げ、天から雲にのっておいでになる主をお迎えするのです。 傲慢とは神の御業に逆らうことであり、
謙遜とは神の御業をありのままに受け入れることです。
たとえば自分の思い通りにならない時に腹を立てるのは傲慢なことです。
そういう時にも神の御業を認めて、他人や出来事を受け入れることができる人こそ謙遜な人です。
また、自分をつまらない人間だと卑下することは謙遜ではなく傲慢です。
自分が他人と比べて欠けの多い小さき者であっても、
ありのままの自分を神様の御業と思って、
思い上がるのでもなく卑下するのでもなく、
自分という存在を大切にできる人は謙遜な人です。
そのような人にこそ人生の真の知恵が伴うのです。 預言者エリヤは、干ばつから人々が救われるために、
カルメル山で雨が降ることを熱心に祈り求めました。
しかし、海の遥か彼方まで雲一つありません。エリヤはもう一度祈りました。
やはり雨雲は出てきません。エリヤは三度、四度、五度、六度と祈り続けました。
そして七度祈った時です。
海のかなたに手のひらほどの小さな雨雲が見えました。
その小さな雲はどんどん大きくなり、やがて空は厚い雲に覆われてくらくなり、激しい雨が降り出しました。
こうして3年ぶりの雨がイスラエルの大地を潤したのでした。
私たちも諦めないで、何度でも祈り続けましょう。 イエス様は富の所有を否定しているのではありません。
富がどこに置かれているかということを問題にされているのです。
富は価値あるものです。
しかし、その富を金庫や銀行に積んでおくだけであったら、
果たしてどれだけの価値があるでしょうか。
プール付きの豪邸に住み、外車を乗り回し、自分のために大きなお墓を立てても、
果たしてその富はどれだけの価値を発揮したことになるでしょうか。
イエス様は、あなたの尊い富を神さまの働き給う所に置きなさいと教えてくださるのです。 ベタニア村のマリアは、非常に高価なナルドの香油を惜しみなくイエス様の御足に注ぎかけました。
するとたちまち甘美な香りが小さな家いっぱいに広がりました。
それはイエス様に対するマリアの愛と喜びと感謝の香りでもありました。
イエス様は、いつも私たちと共におられます。
イエス様に一生懸命にご奉仕をして、教会を、あるいは私たちの家を、
マリアの家のごとくイエス様への愛と喜びと感謝の香りで
いっぱいになるようにいたしましょう。 サタンは人間の弱さを見抜いています。
人は理由もなく神様を信じたりはしない。
どんなに立派な信仰者の顔をしていてもちゃんと心の中では計算をしており、
信じて得があるから信じるのだと、サタンは神様に訴えたのです。
しかし、サタンの意に反して、ヨブは信仰を捨てたりはしませんでした。
どんなに奪われても、どんなに失っても、
どんなに苦しめられても、
「これでは神様を信じている意味がない」などとは言わなかったのです。
ヨブが神さまを信じるのは利益になるからではなく、神さまが神さまであるからだったのです。
あなたは何故神様を信じていますか? 病む(やむ)ことは止む(やむ)ことであると言われます。
病が私たちの生活や人生をストップさせてしまうからです。
私たちの生活が止んでしまうのは、体の病気によるばかりではありません。
悲しみ、絶望、疲労、虚無感といった魂の病気が、しばしば私たちの人生を止ませてしまうことがあります。
体の病にしろ、魂の病にしろ、神様は私たちを癒し、再び立ち上がらせ、新しく生きはじめることができる者にしてくださいます。
どうぞ、どのような時にも絶望しないで、
私たちを支え、歩ませてくださる神様の力を追い求めましょう。 大きな苦しみに遭っているヨブのところに、
三人の友がお見舞いにきました。
彼らは、ヨブのあまりの悲惨さに言葉を失います。
さらに、こんな酷い目に遭うからには、ヨブはきっと、とんでもない悪いことをして神様を怒らせたに違いないとさえ思って、
ヨブに見当違いな説教を始めたのです。
「傷口に塩」とはこういうことでありましょう。
ヨブはそんな友達に苛立って、こう言いました。
「君たちに、私をこの苦しみから解放してくれとは頼まない。
でも、私の苦しみを分かって、心から同情してくれてもいいじゃないか。
心の友になって欲しいんだ」。
「本当の友達とは何か」を考えさせられます。 「無事を祈る」ということがあります。
悪いことが起こらないようにという祈りです。
ある意味では、このような祈りを神様はお聞き入れ下さいません。
やっかいな事が起こるのは人生の常なのです。
しかし、神様はそのようなやっかい事を通して、私たちに多くの恵みをお与えになることができます。
無事を祈るよりも、私たちの身に起こるすべてのことを恵みに変えてくださるように
祈りましょう。
そうすれば、私たちはどんな時にもイエス様が共にいてくださることを知り、悲しみつつも慰められ、忍びつつも希望があり、悩みつつも平安を与えられことでしょう。 この言葉は、「人の生くるはパンのみによるにあらず」
(現行文語訳聖書)とも訳されていますが、
いずれにしろ文語体です。
口語訳では「人はパンだけで生きるものではない」(新共同訳聖書)となっています。
文語体のほうが何か重みを感じますね。
さて、この言葉は、イエスさまが世の中に神の国の福音を宣べ伝える前に、
荒野に行かれて40日間の断食をなさったできごとの中で出てきます。
そこで悪魔がイエスさまに語りかけて、
神に従う道を歩ませまいと働きかけました。
その中で、悪魔はイエスさまに「もしあなたが神の子であるなら、
これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」
と誘ったのです。
40日間の断食といえば、ほとんど人間の限界に近い断食です。
食べなければ死んでしまうような極限状態です。
しかし荒野には何も生えておらず、もちろん人もいないし店もありません。
しかし石ころならゴロゴロしています。
「あなたが神の子ならば、この石をパンに変えることは朝飯前でしょう。
そうやって食べたらどうですか」
‥‥と悪魔はイエスさまにささやいたのです。
なるほど、と思わせます。
イエスさまが神の子であるならば、
本当にそうすれば良いように思われます。
しかしここに悪魔の大きなワナがありました。
もし本当に、イエスさまが石をパンに変えて食べて生き延びたとしたら、
イエスさまという方は我々とは縁遠い方だということになるでしょう。
わたしたちは、石をパンに変えることができないのですから。
この悪魔の誘惑に対して、イエスさまは標記の言葉をおっしゃったのです。
そしてこれは旧約聖書の言葉の引用です。
旧約聖書の申命記8章3節にこのように書かれています。
‥‥「人はパンだけで生きるのではなく、
人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
まだ解説は途中ですが、長くなりましたので、結論にいきます 「無事を祈る」ということがあります。
悪いことが起こらないようにという祈りです。
ある意味では、このような祈りを神様はお聞き入れ下さいません。
やっかいな事が起こるのは人生の常なのです。
しかし、神様はそのようなやっかい事を通して
、私たちに多くの恵みをお与えになることができます。
無事を祈るよりも、私たちの身に起こるすべてのことを恵みに変えてくださるように
祈りましょう。
そうすれば、私たちはどんな時にもイエス様が共にいてくださることを知り、
悲しみつつも慰められ、忍びつつも希望があり、悩みつつも平安を与えられことでしょう。 人は独りでいると外界のことを忘れ、内面に閉じこもり、一つのことをじっと思い巡らしてしまうことがあります。
特に厄介な事があると物事を実際よりも悪い方へ考えたり、
自分より不幸な者はいないと考えたり、自分なんぞ生きていても仕様がないのではないかと思えてきたり、
たいていはろくでもないことばかりを思い巡らし、思い込み、思い詰めてしまうのです。
あるいはまた罪深い妄想や奇妙な空想に取り憑かれて、
やはり周囲の状況が見えまま愚かな罪を犯してしまうこともあります。
孤独になって自分の殻に閉じこもらないように、神様と隣人に対して常に心の窓を開いている事が大切です。 イラク戦争、北朝鮮問題、幼児虐待、医療事故、不景気、財政赤字、年金問題・・・
毎日毎日同じようなニュースが伝えられています。
明るいニュースなどほとんど何もなく、本当に暗い時代になりました。
しかし、一年で日がもっとも短くなる冬至に、イエス様のご降誕を祝うのは決して偶然ではありません。
イエス様は私たちの太陽です。
しかも決して沈まない太陽です。
どんな暗さの中にあっても、イエス様は私たちの上に輝いており、心を照らし、暖め、喜ばせ、感謝で満たすことがおできになります。 喜びとは信仰の結ぶ実です。
信仰がなければ、たとえ神様に助けを祈り求めても不安と恐れが襲ってくるだけです。
このような心には、きっと神様は居てもイエス様が居ないのです。
思わず逃げ出したくなるような厳しい裁きの神様しか知らないのです。
けれどもイエス様は、神様はあなたの罪を赦し、あなたを愛で覆ってくださる御方である事を教えてくださいました。
イエス様を通して神様を信じましょう。
そうすればあなたがどんなに神に愛されているか知るでしょう。
そこに喜びの実を結ぶ信仰があります。 罪人を軽蔑する人たちは、イエス様をも蔑んでこう言いました。
「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」
彼らは、決して罪人たちを自分の兄弟姉妹だとは思っていませんでしたから、イエス様を受け入れることができなかったのです。
しかし、もし私たちが、心弱く罪を犯す人たちを兄弟姉妹として愛しているならば、
罪人の友となり給うイエス様をどんなに近しく、親しく思えることでしょうか。
隣人をゆるし、兄弟姉妹として愛することと、イエス様を愛することは決して別々のことではないのです。 黄金については何の説明も必要ないでしょう。
乳香はかんらん科の植物の樹脂で、王様だけが薫じることができる高貴な香でした。
没薬もかんらん科の植物から取られるそうです。こちらは薬として重宝されました。
「黄金」は富、「乳香」は名誉、没薬は「健康」、たしかにこれは誰もが求めている人間の宝物に違いありません。
しかし、東の国の博士たちはそれをすべて幼子イエス様に捧げました。
イエス様こそ人間のすべての宝を内に秘めた真の、そして唯一の宝であるからです。 私たちの前には常に色々な選択肢があり、どれかを選ばなくてはなりません。
選ばなければ、前に進めません。
そして、一度選んだならば必ずその影響を受けます。このような一瞬一瞬の選択によって、私たちの人生が展開していくのです。
しかし、あらゆる選択に先立つ根本的な選択があります。
神に従う道と、神を無視する道です。
これを間違えばすべてを間違うでしょう。
しかし、それさえ間違わなければ、私たちの選択は、主の恵みによってすべてが善きに変えられると、私は信じています。 アメリカの無人火星探査車「スピリット」が火星着陸に成功し、
火星の赤茶けた地表の鮮明な写真を地球に送信してきました。
人間の飽くことなき探求心の結果と言えましょう。
人間が知ることを求めます。
知ることによって自分が偉くなったような気になります。
神のようになった気になる人もいます。
しかし、神が隠す御方であり、人間がそれを追い求める者であるという立場は永久に逆転しません。
神に近づくためには知識ではなく、隠されたことを信じる信仰が必要なのです。 罪は私たちの魂にとって最大の重荷です。
罪を背負った魂は、本当の喜びを感じることが出来ず、自由もありません。
希望を持つことができず、いつも恐れや不安が心を暗くしています。
自分を嫌いになり、そのくせ自分のことばかりを考え、神や隣人を愛することができません。
しかし、イエス様は私たちのすべての罪を赦すために十字架にかかってくださいました。
イエス様の十字架の愛を信じるとき、
心に喜び、自由、希望、愛が回復します。
神の恵みを知り、感謝と祈りが溢れてくるのです。 誰もが「確信」をもってこの一年を開始したことでしょう。
それから一ヶ月が経ちました。
みなさんの「確信」はまだ心の中にしっかりと保たれているでしょうか。
それともすでに肉の弱さを経験したり、思わぬ問題を抱えこんで立ち往生したりして、「確信」がぐらつき始めてしまっているのでしょうか。
私たちにとって確信を持つということは救い主なるイエス様に望みを持つということです。
自分の弱さや問題の大きさではなく、イエス様の力と救いの力にこそ私たちの目を注ぎ、
いよいよ「確信」を深めてまいりましょう。 ある父親が「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」と、イエス様に願いました。
しかし、イエス様は「『できれば』というのか」とお答えになります。
「神様の愛は無条件なのだから、『できれば』という言葉は不用だ」ということなのです。
私たちがどんな人間であろうとも、何をしてきた人間であろうとも、多くの人に憎まれ蔑まされていようと、
クリスチャンであろうとなかろうと、
神様はあなたを愛することがおできは神様の愛を求めるのに「できれば」という必要はありません。
ただ神様の愛をまっすぐに信じればよいのです。 「ぶどう畑」は、私たちの主にあって実を結ぶ生活(信仰生活)であり、それを荒らす「狐」とは罪のことです。
しかも「小狐」というのですから、小さな罪のことです。たとえば小さな嘘とか、陰口とか、不親切とか、卑猥な冗談とか、ポイ捨てとか、こういった些細な罪は小狐と一緒で主に生活に何の影響も及ぼさないと高をくくっているかもしれません。
しかし、そういう小狐を放っておくと、いつのまにか大切なぶどう園が荒れ果ててしまうのだ、という警告がこの御言葉にあるのです。 人に認めてもらおうとする生活は、
常に他人の顔をうかがいながらのビクビクとした生活になるか、自分をよく見せようとして背伸びや無理をした生活になるに違いありません。
そのような生活がどんなに窮屈で悩みと怖れに満ちたものになるか、私は自分の経験としてよく知っています。
神様に認めてもうことを心の目標に定めれば、他人に理解されないこともあまり気になりません。
悩みに襲われることもありますが、神様の愛のまなざしを確信することができますので、
希望は揺らぎません。 論語に「朝(あした)に道を聞けば、夕に死すとも可なり」とあります。
もし、「御言葉は真理なり」という事が本当に分かるならば、私たちもきっと
「夕に死すとも可なり」という心境になるに違いありません。
「御言葉は真理なり」とは、それほど私たちの命に重大な意味をもつ真理は、イエス様の口から発せられました。
イエス様を信じるならば、この真理をも信じるべきです。そして、私たちもま言葉は真理なり」と告白する者になりたいと願います。 「イエスは、今やその天国を愛する人をたくさんもっておいでだが、その十字架を担う人はわずかしかもっておいででない。
慰めを求めてくる人はたくさんもっておいでだが、
苦難を願う人はわずかしかもっておいででない。
食卓の友はいっそうたくさん見いだされるが、断食の友はわずかしか見出されない。
誰でもイエスと共に喜ぶことを望むが、
そのためになにかを忍耐しようとは望まない。パンを裂くまでイエスに従う人は多いが、
苦難の杯を飲むまで従う人は少ない」
神様を信じたら苦しみがなくなるのでしょうか。
残念ながら、聖書はそうは約束してくれません。
それどころか、信仰者たちの苦しみを預言さえしているのです。
では、聖書は何を私たちに約束しているのでしょうか。
それは、「いついかなる日にも、あなたの傍らにイエス様が一緒にいてくださる」ということです。
イエス様は、苦しいときの助け、悩みの時の救い、孤独の日の友となってくださるだけではなく、
私たちのすべての罪を赦し、神様の大切な息子、娘として生かし、天の御国へと導いてくださるのです。 ある本に「神はあなたを愛し、あなたに素晴らしい人生を与えようとなさっている」
とありました。
その通りです。
しかし、素晴らしい人生とはどんな人生でしょうか?
仕事の成功、健康な体、幸せな結婚、平和な家庭、悠々自適の老後・・・
もしもこのような人生を期待しているなたはきっと失望するでしょう。
神はあなたの人生から健康、財産、愛する人を容赦なく奪われる事も十分にあり得るからです。それにも関わらず、神様はあなたの人生を素晴らしいものにしてくださる。
それが神様のお約束なのです。 わが主よ、あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。 モーセはまったく裏切られたという思いをもって、「主よ、なぜですか!」と神を問いつめたに違いありません。
神様の言われる通りにしたのに、かえって事態が悪くなってしまったからです。
わたしにも、モーセのような失望、疑い、混乱に陥ったことがあります。
しかし、同時に神様のなさることは、すべてが終わってみなければ決して分からないという経験もしました。
神様には神様の策があるのです。
最後まで信じ続け、人知を越えた神の偉大な御業が成就するのを見る者になりましょう。 どうぞ立派な人間なろうなどは考えないでください。
それよりも、あなたの傍らで涙を流しておられるイエス様に気づく人間になって欲しいのです。
イエス様の頬に流れる一滴の涙は何を物語っているのでしょうか。
誰のために泣いておられるのでしょうか。
そのことに気づくとき、聖き涙が私たちを洗い清めくださることでありましょう。
温かき涙が私たちの心を愛で温めてくださることでしょう。
今日から始まる受難週の一週間、イエス様の涙について黙想をしましょう。 絶望と希望は紙一重です。
自分には何も出来ず、家族や友人も当てにならず、世の中にも見放された感じる時、多くの人は「もはや神に祈るばかりだ」と言うだろうと思います。
それは絶望の言葉でしょうか。
それとも希望の言葉でしょうか。
それは、「神など信じられません」という人にとっては絶望の言葉であり、
「私は神を信じています」と言える人には希望の言葉なのです。
絶望と希望は紙一重ならぬ神一重なのです。
同じ状況でも、神への信仰の有る無しによって人は絶望し、また希望を持つことができます。 復活の朝、空っぽのお墓を発見したときに示した弟子たちの姿はそれぞれ個性的です。
マグダラのマリアはただ一人の墓の前でいつまでも泣いていました。
ペトロは墓の中に入り散らかっている亜麻布を子細に調べました。
しかし、ヨハネは墓の中を一瞥して信じました。
クレオパともう一人の弟子はこの事について論じ合いました。
トマスは明確な証拠がなければ決して信じないと主張しました。
イエス様はこれらの弟子たちをそれぞれ個性的に取り扱いってくださいました。
そして皆を信じる者に変えてくださったのです。 全世界の人々が救いを求めています。
戦争が終わるように。
食糧がすべての人に行き渡るように。差別がなくなるように。
独裁がなくなるように。犯罪がなくなるように。病が克服されるように。互いに分かり合い、尊敬し合い、助け合うことができるように。
私たちも決して失望することなく、神様の御手に目を注ぎ続けましょう。
聖書には、「主は萬民の主にいまして、凡て呼び求むる者に對して豊かなり」
(ロマ書10章12節)と約束されているのですから。 あなたの道を主に委ねよ。
あなたの道を主に委ねよ。
あなたの道を主に委ねよ。
あなたの道を主に委ねよ。
あなたの道を主に委ねよ。 かつては、私も成功や利益を追い求める人間でした。正直言って、そういう生き方は疲れました。
失敗してはくよくよし、損をしてはイライラする。そんなことの繰り返しなのです。
聖書は、それとは違う生き方もあると言います。
人生をすっかり主にお任せし、その信頼に基づいて、良きと思えることも悲しと思えることも、一切を主の御旨として感謝して受け取る生き方です。
これには失敗も損失もありませんから、くよくよすることも、イライラすることもありません。感謝あるのみ、讃美あるのみ、の生き方なのです。 イエス様の埋葬されたお墓は大きな石でふさがれ、封印がなされました。
この封印は、死んだ者は決して生きた者の世界に戻ることができないという厳粛な事実を物語っていると言えましょう。
人間の力では決して動かすことのできない事実であります。
しかし、イエス様の復活によって、その封印は解かれ、墓は開かれたのです。
それは、死はもはや決して出口のない永遠の終わりではなくなり、永遠の命への入り口となったということを意味しています。
なんと力強い、大きな希望がここにあることでしょうか。 神を信じるのです!
神を信じるのです!
神を信じるのです! ペトロはイエス様をお守りするために捨て身の実力行使に出ました。
ペトロはそれを信仰、あるいは正義、
あるいは権利のためと思ったに違いありません。
しかし、それは相手にとっても同じ事です。
実力行使は必ず正義や、権利や、信仰の名のもとにおいて行われるのです。
イエス様はたとえ相手に非があったとしても、実力行使による問題解決の道を許されませんでした。
それでは本当の解決は訪れず、
一時的にどちらかが勝ったとしても、
結局はお互いを滅ぼし合うことになることをご存知であったからです。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。