> 思えば、Facebookも世界につながっているようで、実はそんなこと
> はなく、大小様々な溜め池がいくつも存在するだけのこと。私たちが
> 関わる地域のコミュニティとなんら変わりがないのだ。ただ、住む
> 場所とアクセス時間を問わないだけのこと。
>
> だから、そこでどうやって主体的に関わるかは自分次第。自分軸が
> 希薄な状態で関われば、早晩、その溜め池の淀みに沈んでいくだろ
> うし、自分自身が淀みの発生源となり果てる可能性だってある。
>
> もちろん、その淀みとは、軽い噂話に始まって愚痴、不平不満、批判、
> 誹謗中傷へと、悪臭を放つヘドロの沼になっていくこともある。
>
> 地域であれ、ネット上であれ、どんなコミュニティに参加するかは
> 自分の自由。けれど、そのコミュニティ内の自由は保証されている
> ものではなく、関わった以上は、そこでの責任を果たすことが求め
> られ、期待されるだろうし、また、そこで発生する人間関係の摩擦は
> 避けては通れない。
>
> だからと言って、激しい批判を繰り返してまでそこに留まる必要は
> ないし、挙句の果てにそこで消耗するなど馬鹿げたこと。なぜなら、
> 参加する自由があるならば、やめる自由も間違いなくあるということ
> だから。ならば、その自由を行使するのは自分自身でしかないで
> すね。
>
> それにしても、今も多くの人たちが私の元に訴えにやってくる。
> 「捨てたいのに捨てられないのです」と、時に涙を溜めてまで訴える。
>
> そうですね、自分のモノ一つでさえ、その捨てる自由を自ら放棄して
> いるならば、それよりも更にハードルの高いはずの人間関係の溜め
> 池から抜け出す決断をするのは、もっと難しい。
>
> 「捨てたらいいのに」「やめたらいいのに」と、簡単なアドバイスでは
> 済まないのが、私たち人間の持つ厄介な意識の縛り。過剰な所有欲、
> 侮れない所属欲求が持つ心の闇。
>
> そう、人間関係の断捨離は、私たちの課題としてそうまでも大きく
> 立ちはだかるのです。