柄谷)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。
これは今でも当てはまると思う。

むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。
ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。

偽善者は少なくとも善をめざしている…。
ところが、露悪趣味の人間は何もめざしていない。

浅田)むしろ、善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。
日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、
たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思いますね。

柄谷)日本人は異常なほどに偽善を嫌がる。その感情は本来、
中国人に対して、いわば「漢意=からごごろ」に対してもっていたものです。
中国人は偽善的だというのは、中国人は原理で行くという意味でしょう。
中国人はつねに理念を掲げ、実際には違うことをやっている。それがいやだ、悪いままでも
正直であるほうがいいというのが、本居宣長の言う「大和心」ですね。それが漱石の言った露悪趣味です。

浅田)日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。
タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。
逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。

柄谷)偽善には、少なくとも向上心がある。
しかし、人間はどうせこんなものだからと認めてしまったら、そこから否定的契機は出てこない。
こんなものは理念にすぎない、すべての理念は虚偽であると言っていたのでは、
否定的契機が出てこないから、いまあることの全面的な肯定しかないわけです。

(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』浅田彰 小学館1994 P243-248)