まあ、「常識」言う人がいて根拠が怪しけりゃ詰問すりゃ良い。
答えに正当性が無ければ、そいつが思い込んでいる「常識」の正しさは証明されないことになる。
ただし、根拠の正当性・ゴールをどこに設定するのかという問題もある。
根拠が怪しければ質問すれば良いのだが、
仮に解答に正当性が確かめられても
質問者がその根拠の根拠を問い続けるという場合がある。
論理の性質上根拠の根拠が間違っていれば間違いだからな
基本的に根拠を説明する側のほうに負担があって、
質問すればするほど説明する側が結局ボロを出す可能性は高いわけで、
質問馬鹿や悪意のある懐疑論者によって
行きつくところまで行くと認識論とかの話になりかねない。
あとは明らかに正しい説明に対して、
帰納法的な答えを求めて悪魔の証明を強いる輩もいるので
質問する側の善悪も考慮の対象になるだろう。

なんか一般的な根拠の話になってしまったが、
言いたいのは「常識」という言葉は
自分の正しさを証明するうえでは
リスキーな表現だから使うべきではないな、と。