母親との思い出
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まだ、自分が幼かった頃は、
ただうるさかったり、ダサかったり、邪魔だなぁと思ってたけど、
何もかも無償で自分を受け入れてくれたのは母親だけだったよね。
そんな母、お母さん、かあちゃん、ママンとの思い出、感謝、反省を語るスレです。
気持ちいいけど罪悪感が沸いてくる
でもひょんな時にムラムラが現れると
してしまう そして後悔 これの繰り返し
一度やると獣のようにやりまくると
思ってたけどそうでもなかった
正直 止めたいと思う でも・・・。
>>173さん
きっと30〜40代の方だと思われます。
これからももお母様を大切にしてあげて下さい。亀レス 、 スマソ 母には、精神的に酷く虐待された。
テストは100点とって当たり前。99点以下だと怒られた。
クラスで一番いい点をとっても、100点以外は無意味だと言われた。
私と仲の良かった友達や好きだった先生のことも、必ず欠点を
探しては批判した。
私が誰かに惹かれたり好きになったりするのが許せなかったようで、
心から信頼する恋人が出来て、目の前で親しげに会話していたら、
あてつけに自殺未遂された。
極めつけは、子宮ガンになった時。
ちょうど子ども時代の怒りが募っていた時期で、「20歳の頃、本気で
子宮摘出手術を考えていた。あなたに愛されなかった私には、子どもの
愛し方が分からない。子どもを生んでしまったら虐待しそうな気がして、
そうならないように子宮を取ろうと考えていた」と言ってやったら、
「サッサととれば、子宮ガンにならなかったのに」と冷笑された。
お陰さまで、子宮はとらずにすみましたが、子どもは持たない人生を
選びました。虐待の連鎖はもう沢山。
少女時代に実兄に犯され、苦しみ抜いたあなたを気の毒には思うけど、
だからといって、娘を虐待し追い詰めたことが許される訳ではない。 >>176
すごく考えさせられました。いや、今も考えてます。
人それぞれの人生があるんだよと簡単にかたずけられるものでは
ないですよね。 >>176ほかの馬鹿
漏れはそんな話読みにこのスレに来てるんじゃねーよ!
母親に虐待スレでもたててそっちでやれ。 このスレは↓
母親との思い出
1 :大人になった名無しさん :03/11/30 20:01
まだ、自分が幼かった頃は、
ただうるさかったり、ダサかったり、邪魔だなぁと思ってたけど、
何もかも無償で自分を受け入れてくれたのは母親だけだったよね。
そんな母、お母さん、かあちゃん、ママンとの思い出、感謝、反省を語るスレです。 >>178
その手のヤシは、母との楽しい思い出や優しい思い出を語る人間が許せないんだよ。
自分が不幸だったからって、無関係の人間の心まで凍らせることないのにな。
今後ともイヤガラセのように書き込むこと間違いなし。やだやだ。 まああれも、思い出っちゃ思い出なんじゃ?
つか、2chで言論統制できるものでもあるまい。 >>178
あなたは良い親もって幸せなんだろうな。 良い家庭で育って、優しい心
も育んだだろう。だったらそうでない人達(虐待を受けた人達など)の事も
理解するように勤めるべきではないだろうか。
そうでなければ、優しく接してきたあなたの親御さんの努力も報われな
いだろう。 考え方の違う人達や悲惨な生活をしてきた人達を罵倒してい
ては、あなたの親御さんは悲しむよ。
このスレは↓
母親との思い出
1 :大人になった名無しさん :03/11/30 20:01
まだ、自分が幼かった頃は、
ただうるさかったり、ダサかったり、邪魔だなぁと思ってたけど、
何もかも無償で自分を受け入れてくれたのは母親だけだったよね。
そんな母、お母さん、かあちゃん、ママンとの思い出、感謝、反省を語るスレです。 >>184
あなたは良い親もって幸せなんだろうな。 良い家庭で育って、優しい心
も育んだだろう。だったらそうでない人達(虐待を受けた人達など)の事も
理解するように勤めるべきではないだろうか。
そうでなければ、優しく接してきたあなたの親御さんの努力も報われな
いだろう。 考え方の違う人達や悲惨な生活をしてきた人達を罵倒してい
ては、あなたの親御さんは悲しむよ。 >>184
「反省」を語る、というなら「親に反省してもらう」、とも取れるな。 突然糞スレ化してきたな。
ネガティブ話ってやっぱスレを腐らせるね。 >>187
お前が黙ってれば、何も問題ないわけですがw >>185
それはそういうスレ「母親への憎しみ、罵倒(仮)」
みたいなところで言うべき。
このスレはマタ〜リ系なんだよ。批判は他スレでしてくれ。
どっちにしろ君のカキコはこのスレの主旨とは違う。
スレ違いだよ。
>>189
あなたは良い親もって幸せなんだろうな。 良い家庭で育って、優しい心
も育んだだろう。だったらそうでない人達(虐待を受けた人達など)の事も
理解するように勤めるべきではないだろうか。
そうでなければ、優しく接してきたあなたの親御さんの努力も報われな
いだろう。 考え方の違う人達や悲惨な生活をしてきた人達を罵倒してい
ては、あなたの親御さんは悲しむよ。 単なるキモい「マザコン」スレから、まともなスレになりつつありますね。
>>185>>189
親には、感謝できる面と、感謝できない面があるね。 でも、ここの書き
込みを見ると私はまだ恵まれた方かもしれない。 虐待された覚えはない
し…
私は「虐待の話」をここで聞くことは大事だと思うよ。 すれ違いでもない
と思うし。 もう、このキモい「マザコン」スレ。 そろそろ終わりにしない? >>194
母親が蒸発して片親だからって、そう僻むな。 >>195
母無し子はマザコンになりやすいみたいだね。 マザコンのあなたは
いかがかしら?
ていうか、母無しだったらマザコンになりようがないのでは?
母への憧れもマザコンというのか? >>176、>>177、>>183、>>185、>>190
↑こういうお呼びでない連中(一部同一人物)が来ると板が荒れる。
出て行ってくれ。スレ違いだ。 もう、このキモい「マザコン」スレ。 そろそろ終わりにしない? >>202
お前が勝手にこのスレに来ただけじゃんか。
自分のスレみたいな生意気な口聞くな。
さっさと消えろ。
ホントに招かれざる香具師だ。 もう、このキモい「マザコン」スレ。 そろそろ終わりにしない?
>>205
お前が勝手にこのスレに来ただけじゃんか。
自分のスレみたいな生意気な口聞くな。
さっさと消えろ。
ホントに招かれざる香具師だ。 小学生4年生の時。学校で禁止されていたゲームセンターにすごい興味を持ち。友達と行った。
そこで初めてプレイしたパックランドってゲームがすごい面白く自分は一発でハマった。
しかし、当時の小遣いは週200円で、お菓子を買ったらゲームに使うお金は無い。。。
そこで悪知恵を絞り、何度かカーチャンの財布から1000円を抜き取り(ウチの地域で言う所の”ばばせん”)、その度に友だちとゲーセンに通っていた。
しばしばお金が減っている筈のにカーチャンの反応がなかったので、バカな自分は次第にエスカレートして、一度だけ10000円を盗んだ。
そのお金を持って1人でゲーセンに向かいパックランドを熱心にプレイしていると突然背後から「上手いわね…。」と聞き覚えのある声がして背中が凍りついた。振り向かなくてもカーチャンだとわかった。。。もうゲームどころではなく、ただただ逃げたかった。泣きたかった。
当然地獄が待っていた。
全て見透かされていた事に気付き、ばばせんとゲーセン通いを止めた。
いまでもパックマンを見るとドキッとする。
こんな思い出しかなくてスマソ。。。
余談ですが幸いカーチャンは現在も生きておりまつ。 >>208
( ´゚д゚`)えーーー
と思いググって見たら「婆専」と「馬場先生」ばかり・・・。
○| ̄|_
僕は、8歳の時母を亡くしました。
とても優しい母でした。
大阪来て、初めて田舎帰って、墓参り行った次の朝
朝方、夢に出てきてくれて
元気でなって言ってくれました。 俺、お袋がタンスにバイブ入れてた時はお袋も女なんだと思った。
ニンジンの形してて、一見するとそれとはわからないんだけど、
多分一種の保険みたいなものだな。その事件をきっかけに女性の性欲
に対してすごくオープンな見解が出来る様になった気がするね。
あまり嫌悪感とかは無くて、あ、そういうもんなんだなと。みなさんも
もっとは図化しがらズにいえばいいと思う。悪い事なんかじゃないんだからさ
■2年前に脳梗塞で倒れて2カ月後に逝ってしまったが、正直言って涙が出なかった。
■褒めることよりも叱ることが多かったし、不幸にして寝小便癖があったばっかりに
ほかの兄妹たちと差別されていた母子関係は、最後まで変わらなかった。
■「お前は、橋の下で拾ってきた子だ」とまで言われたのが、死ぬまで忘れられない
トラウマになっている。
恨みとか憎しみみたいな楽しく無い事は書くナヨ。
ここはそんな陰質なスレじゃなかろうに・・・
親から虐待とか差別されたとか嫌な思いしたのなら
そういうスレで書き込んでほしい。
何ていうか急に暗い気持ちになって、悲しくなったよ。 まだ母親と一緒に入浴していた小学生の時、風呂場で母の尻を思いきり左右に
開いたりして遊んでた。
「なにするのよ、もう」と恥ずかしそうに言う母。俺は母のでかい尻が好きで、
顔面を尻の割れ目に埋めたりしてた。
あのころに戻りたい。
小学3年くらいのとき、
母が歯の治療のため歯医者に行くのを一緒についていった。
治療がけっこう長い時間になるというので
母と一緒に俺も治療室の中に入れてもらえたんだが、
口を大きく開かされた状態のまま何かの器具で固定され、
歯の治療を受けている母が時折あげる
「んがっ・・・」「あががっ・・・」「むがっ」って感じの呻き声に
理由はよく分からないがたまらなく興奮してしまい
まだ幼かったチンポが勃起してしまったのを覚えている。
そして、治療中に何か刺激が加わったっぽいときに
幾度となく母の足の指が動いたり反り返ったりするのを見て
これまた理由はよく分からないが興奮度がさらに上昇。
パンストに包まれたその時の母の足のつま先が
妙に艶めかしく感じられたことも今でもハッキリ覚えている。 父が逝ってから急速に老いて次第に呆けていった母。
その母の介護にキリキリと目を吊り上げていた自分。
正直しんどかった。自分なりには精一杯だった。
その母が逝ったとき、介護に取られていた時間がすっぽりと空になり
さりとてどうしていいのかわからず空虚に過ごしていた。
一年経った今、色々な事を思い出す。
優しかった笑顔やあたたかかったその手。
大切だった父を亡くしてショックで老いてしまうほどだった母の心をなぜもっと理解して優しくしてあげられなかったのだろう。
しっかりしろと叱ってばかリいたわたし。
あーあー、もういちど母の作ってくれたご飯が食べたい。
わたしの作るものと味が違うんだよ。もっと優しい味なんだよ。
あー、もう一度でいいから母の笑顔が見たい。
いつだって笑ってくれてたじゃん。わたし怒ってばかりだもん。
あんなにたくさんの優しさで包んで育ててもらって、わたしの優しさってこんなもんですか?
あんなに大事に育ててもらって、わたしって言う人間はこんなもんですか?
もういちど生まれなおして母に育ててもらいたい。
そしてこんどはもっともっと優しく母を看たい。
わたしの思いがもしも届くならば、こんな娘でごめんなさい。
それでも次に生まれるときもあなたの娘にしてください。
聞こえますか?もう一度会いたい。 >>221
久々にいい話をありがとう。
貴方の母上はきっと許してくれていると思います。 いつもありがとうって言いたいけど、なんか恥ずかしくて言えない。
でも、いつもありがとうって思ってます。 >>224
僕も普段は口に出して言えないので、
年に一回誕生日に、すごく照れくさいけれど、手紙を書いています。 >>221
ウイルス性胃腸炎でゲロ吐くわ、眠った途端に水下痢漏らすわで大変だけど
あんたの話で泣きそうになったやんか!
おいらも胃腸が弱くて、ガキの頃からしょっちゅうお腹壊してたけど
「あんたはいつも食べ過ぎや!」と怒りながらも汚物まみれの下着や
衣服を汚そうにもせずに、洗ってくれてありがとう。 私が子供の頃の母は躾の厳しい人だった。
いたずらすると、箒で叩かれたりした。逃げると箒を振りながら家の外まで追いかけてきた。
そんな母も歳老いて、父に先立たれ、近所に一人暮らし。
足腰が弱り一人で買い物に行けないので、休日に半日かけて買い物につき合う。
買い物の車の中での会話は、母の若い頃の話。
戦中、戦後の厳しい時代の話。
母の自慢は、五人の子供を産んで、皆、所帯を持つまで育てた事。
そんな母に感謝しながら少しでも長生きしてほしいと思う気持ちで一杯です。
私も高校生の息子がいて子育て奮闘中です。
たとえ父親が死んだとしても泣かないだろうけど
母親が死んでしまったら、大泣きするだろうな・・・。 虐待されたとか、トラウマ話もあってもいいと思う。
ひどい親なのに許せてる人の話や、本当にいいお母さんだった人の話はもちろん感動するんだけど、
「母親との思い出」って人それぞれで、自分の母親はやっぱりどんなであっても、
その人しかいないってことがある意味わかるから。
私の母親は、30過ぎで私を産んでて今ではそんなの普通だけど、
当時は高齢母の部類だった。
それだけだったら、たぶん気にならなかったんだろうけど、
私の思春期と彼女の更年期が重なってしまい、
反抗期なのに反抗できずひたすら涙を殺し耐える娘とヒステリーを連発する母という構造になってしまった。
幼い頃は、ほぼ着せ替え人形扱いだったし、手作りの品満載で恥ずかしかった。
それが、愛情だとは思ってたけど、でも恥ずかしかった。
自分が、私にどれだけ愛情をかけたのかとか、苦労したのかとか(しかも結局自己満足の世界)の自分マンセー劇場の
主人公になって、私を辟易させた。
これは、私が子供を産む前はありがたい話として受け入れることが出来ていたのだが、
子供を産んだあとは「それって当然って言うか、そのことを苦労とか、感謝シル!とか子供に言っちゃうんだ・・・サイテー」
となってしまって。子を持って知る親の気持ちの逆バージョン。
彼女がようやく、子離れしたのか少し距離をとってくれるようになった今、
それらのことを、幼い頃のことはありがたく思い、
苦労し等のことは彼女なりにがんばってくれたのだと思えるようになった。
反面、思春期ごろのことはいまだに許せないというか、もやもやする部分もあって・・・
死んでしまってから。・゚・(ノД`)・゚・。みたく思うようになるのか、
それとも、許せないままなのか・・・
死んでから後悔するなら、今のうちにこのもやもやがなくなればいいのに。
そう思うと、いろんな話を聞けるの悪くないと思うんだけど。
おまいらマザコン?
母親死んでも、眉一つ動かさない自信があるぞ、俺は。 うちの母さんは1年くらい前に亡くなったけど、
正直それまではほとんど何とも思ってなかった。
脳腫瘍で、3年くらいかかって段々赤子みたいになって最後は肺炎。
運ばれる前まで家にいたけど会話なんて当然できない。歩くこともできない。
それでも俺は殆ど泣かなかったし、世話もウザくて婆さんに任せてた。
けど・・・バカだったよ
やっぱりいつも俺を育ててくれたのは母さんだった
居なくなって半年くらいして、色々思い出してやっとわかったよ
ガキの頃、一人で眠るのが怖くて寝るまで居てくれたこと
親父と喧嘩して殴られたとき、まもってくれたこと
精神病で学校に居られなくて、会社から毎日迎えにきてくれたこと
思えば脳腫瘍に掛かったのだって、俺が迷惑かけてばかりだったってのも理由の一つだろう
ストレスなるような事ばっかりしてたもんな
当時の俺、そんなことは何一つ思ってなかった
入院してて会えなくて、遠いからって理由で会いにいかなかった
家に帰ってきても、話が通じなくて何もしてやらなかった
もう、なにもできないんだよな・・・
どうやって纏めたらいいかわからなくなっちまったんで
ここで荒らしてる人たち、荒らしてもいい
でも1回荒らしたらオマイの母さんや、身内に何かひとつでもいいから感謝してくれないか
俺みたいにいなくなってからじゃ遅いんだよ
母さん嫌いな奴も確かにいるかもしれんが、オマイの母は世界に一人しかいないんだ
読んでくれてthx >>234 オカン、わかってるよ。どんな子だって可愛いんだよ、親ってさ。
おまいもオカンがあるべき姿じゃないのを認めるのが悔しかったんだろうさ。
いいんだよ。何十年かしたらまたあっちの世界でオカンがニコニコ待っててくれるからさ。
その時まではオカンが大事に大事に育ててくれたおまいの人生をしっかり歩め。
おまいはオカンの宝物なんだからさ。泣くな。がんがれ。 あの日、あなたに氏ねと言った、あの日の自分を殺したい。 幼稚園に入園する少し前。母さんが子宮外妊娠で入院した。
その頃の私は何故母さんが入院してるのかも分からなくて毎日のように
「入園式は絶対来て」
と何度も繰り返し言っていた。
母さんは入園式に青ざめた顔で来てくれた。
手術してまだ2日しか経っていなかったのに。
でも10年くらいして。
私はつい言ってしまった。
「兄弟が欲しかった。無理にでも産んで欲しかった」って。
母さんはとても悲しそうな顔してた。
父さんに殴られた。
私まだ子供だったね。
産んだら母さん死んでたんだよね。
ごめん。本当にごめん。 喧嘩になり、新婚の記念に買った電気スタンド?みたいなものを叩き割った。
キレた母はおれの頭を物置を開けるための棒で殴った。
気がついたら病院で寝てた。
育ててくれたことはすごく感謝してるけどいい思い出ってないんだよなぁ・・・。 (つA`)ゥゥ・・。
お母さんいろいろ馬鹿なこと
吐き捨ててごめんよ・・・。
お父さん単身赴任でなかなか家族全員
でいられることは少なくなったが
長生きしてくれ・・・・。
貴方の元で育ったとゆう幸せ、
いつかこの家を離れる時が来てもずっと忘れんよ・・・。
乱文失礼致しました。 >>232
オマイさんに何があったのかは知らないが、
口にしない方がいい事も世の中にはある、オマイさんの為にそう思うのだが。
まあ、あれだ。ガンガレよ。 幼稚園、小学校、高校と学校でイジメにあうもずっと放ったらかし
にしてくれたお母さん。
言う事を聞かないと、あなたはよく「戸塚ヨットスクールに入れる
ぞ!」と脅してくれましたね。
俺が肥満のように太っていた時期もありましたが、「相撲の部屋か
らスカウトが来て、無理矢理連れていかれるよ!」と、何を意図し
て言ったかはよく分かりませんが、そんな言葉もしっかりと胸に刻
まれています。
そんな度に俺は神社に行きました。
「神様、戸塚ヨットスクールにいれられませんように!!」
「神様、相撲部屋に入れられませんように!!」
そう言えば、流れ星にもお願いしようともしました。しかし、お星様
が流れるのは早過ぎて、無理でした。
お母さん、俺、今年で32になります。
あなたには一生、会いません。
どうぞ勝手に生きるなり死ぬなりして下さい。
p.s
俺もこのスレに登場するような優しいカアチャンが欲しかったです。
正直、皆が羨ましい。 「思い出」じゃないけどスマソ。
お母さん、あなたが私に地元で就職してほしいってことは、言わなくてもよくわかってる。
私に気を使って「帰ってきて」って言えないのわかってるよ。
でもね、私には夢があるんだ。でっかいでっかい夢があるんだ。
今は自分がどこまでできるか試したい。夢、叶えたいんだ。
こっちに来てあなたの大切さ、すごく感じてるし、時には寂しくなって「帰りたい」って思うこともある。
でも負けたくない。挑戦したい。
ごめんね、お母さん。さびしい思いさせちゃって、ごめんね。
あなたの涙の分、私頑張ります。どうか見守っててください。
いつの日か、夢叶えて実家に帰った時は、また一緒にシチュー作ろうね。 両親が離婚して母さんが出て行った。捨てられた気がして悲しくて一晩中涙がでて眠れなかった。
でも1ヶ月もたてば母さんのいない生活にも慣れて「別に普通じゃん。母さんがいなくても何とかやってける。」って思った。
夏休みに母さんに会いに行った。帰り際はやっぱり悲しくて「絶対に泣かない」って思ってたのに涙が止まらなくて駅のホームで流れていく景色の中、母さんの姿を追った。
学校で母さんの話題がでて久しぶりに電話をしてみた。母さんの声聞いたら涙が止まらなくてうまく話せなくて困った。
やっぱり母さんってとっても暖かくて大切で大好きな存在なんだよね 毎年自分の誕生日には母に電話して、「産んでくれてありがとう」って言ってます。最初は母も「痛かったのよ〜」って笑ってたけど最近は「産んで良かった」って言ってくれます。 もしタイムマシンがあったなら・・・・
カーチャンへひどい事言ったり、ひどい事したその瞬間に戻りたい。
そしてそこにいる昔の俺を足腰立たなくなるまで殴ってやりたい。
いままで何度もあったそんな瞬間全てにもう一度行ってみたい。
でも・・・・カーチャンは身を挺して昔の俺を守るんだろうな・・・・
昔に俺がオヤジに部屋の隅でボッコボコ殴られてる時に、
「もうやめて!!」ってカーチャン両手を広げてオヤジの前に立ち塞がり、
「痛かったんだよね・・・」って俺の頭を撫でてくれた様に・・・・
25歳の男が、母親をバットで撲殺したというニュースを見た。
こんな痛ましいニュースを、今では年に何回も見る時代になってしまった。
その度にこのスレの事を思う。 >>249
同感。
小学生のときに大学浪人が両親を金属バットで殺す事件が
ありました。あれから20年。ほんとに世の中殺伐に
なりましたね。 もう一度だけでいいから会いたいなぁ。
話したいことがたくさんあるのになぁ。
謝りたいこともたくさんあるのになぁ。
もう一度だけでいいから
あなたの子供になりたいなぁ。
・・・・・・・母さん
最近のことなんだけど、きっと忘れないから書こうと思う。
私には生まれつき軽い障害があるんだけど、18歳になるまでそれが分からなかった。
障害があるせいで変わった子だった私を育てるのは大変だったみたいで
苦労するうちに、いつしか周りの環境は悪い方へと傾いていき
私は心が壊れてしまった。
まだ心が正常だった頃に行ったカラオケで、母は私の歌が上手だ思ったんだって。
でも不登校をしている頃に行ったカラオケでは
私は音痴になっていた。
感情がなかったから、心を込めて歌うことができなくなってた。
母はその歌を聞いて改めて「ああ、本当に辛いんだな」って思ったらしい。
でもそのときたった一つ上手く歌えた歌があって
それが「夜空ノムコウ」だった。
2週間前に母とカラオケに行く途中でそんな話をして
何となく夜空ノムコウを歌ってみた。
そしたら横で母が泣いていた。
あのころ、何が辛いのか、何が悪くてこうなったのか
誰にも分からなかった。
特に私は心が壊れてたから余計に、何で苦しいのか分からなくて
本当に大変だった。
いろんな人を巻き込んで家族みんなで喚いて泣いて・・・。
今、気付いたら私には学歴も友達も、残らなかった。
でも家族だけは残った。
家族みんなで乗り越えてやっと普通になれた。
私も苦しかったけど、やっと両親を許すことができた。
母が泣くからつられて私も貰い泣きしたら、母が
「ああ良かった、○○(私)が元気になって」って。
本当に良かった。
家族が側にいてくれて。
まだ少ししこりはあるけど時間が解決してくれると思う。
今病気で自宅療養中。
もう少しだけ迷惑をかけます、お父さん、お母さん。
病気してるけど泣いたり笑ったりできる今が人生で一番楽しいよ。
治ったらきっと精一杯働いて目一杯親孝行しようと思います。
それまで闘病がんばります。 >>252
おれも心をやんだことがあるリーマンだ。
あなたよりは苦しみは少なかった。
上司との関係がきっかけだったが、心の病を
差別していた母は息子がうつ病になってからは
差別をやめたようだ。何よりも心配してくれたのが
うれしかった。ともにがんばろう。 漏れが小さい頃両親が離婚してとっちゃんが出てったんだ
女でひとつで今まで育ててくれてまじでありがとう・・・
中でも一番思い出にのこるのが消防の頃ヤバイぐらい熱が出て
仕事もやすんで姉貴に料理作らせて漏れに付きっ切りでいてくれて・・・
やばい涙がとまらんからここで落ちる・・・
両親が、永遠に生きていてくれたらいいのにね。
一生、恩返しするのに。 両親が、永遠に生きていてくれたらいいのにね。
一生、恩返しするのに。 母ちゃんと弟と俺、3人だけの家族だった。
親父はおろか親戚付き合いの記憶も物心ついたときから、ねぇ。
人並みの娯楽や小遣いなど全くなかったし、
毎日毎日もパートをハシゴしてる母ちゃんを見れば、
子供心にうちがほかの家と違うのは痛いほどわかっていた。
そんな俺らにも月イチの大イベントがあった。
母ちゃんの給料日の次の土曜に、軽自動車で国道沿のファミレスに
家族3人で繰り出してハンバーグを食った後、帰りに本屋に寄って
漫画を1冊だけ買ってもらう。
今となっちゃ片腹の痛い話だが、当時は月末が近づくと楽しみで楽しみ
で仕方がなかったな。
激しく貧乏だったにも関わらず、母ちゃんは「学がないと自分みたいに
苦労するから」と学費やら参考書やら教育だけには金を惜しず、俺と弟
両方とも大学にまで行かしてくれた。
おかげで三十路にさしかかる今では人並みの暮らしをしている。
今でも正月に実家に帰ったときは、家族3人であのファミレスでメシを
食う。俺と弟でもっといいとこ行こう、と主張するんだが、母ちゃんは
なんでか「もったいない」って頑ときかねぇからな。
なんか月並みな話で申し訳ないが、うちの母ちゃんは俺らにとっては世界
イチの母ちゃんだ!これからたっぷり親孝行してやろうと思っている。
最後に今でも思い出すと心が痛むんだが、高校3年の夏期講習代全て馬に
ぶっこんだ俺を許してくれ、母ちゃん・・・orz そういやうちのおかんは
人と同じってのを極端に嫌う人だったな
自分だけじゃ気が済まないらしくて
私に持たせる、学校で使う物とかもいつも皆とちがうやつ。
お陰で良く虐めに遭ったけどさ >>253-254
ありがとうございます。
がんばります! >>255
そんなに母親に感謝する必要ないと思うよ。
だって、勝手に離婚して、無力で無罪な子供がそのとばっちりをうけてるから、金稼いでそれを
子供にあげるのはあたりまえだろ。ありがとうなんて言う必要ないって 俺を産んでくれてありがとう。
俺より先に、逝ってしまって辛かっただろうね
出来る事なら、ゆっくり話しもしてみたいし・・・
甘えたっかた >>267
おれもそう思う。
親不孝者め〜
まあ、これからは自分の給料で
親孝行してやれ。 「おまえの名前の一字に孝行の孝の字が入ってるのはね…」
母は、2年程前に糖尿病になり白内障?
を併発して現在ほとんど目が見えなくなっています。
腎臓の働きも悪くなり、最近、人工透析を始めました。
入院中は、職場の近くに病院があることもあり、
妻に作ってもらった弁当を片手によく見舞いにいっていました。
私の母は、典型的な「肝っ玉母ちゃん」みたいな人で、
酒浸りの父に尽くし、たまにはキレたり、
とてつもなく我が子を可愛がったりする母親でした。
今思えば、兄弟の中で唯一、親孝行の「孝」の字が入っている事を
なぜか嫌がって、「俺は育ててもらったんじゃない!自分で育ったんだ!」
などと、とんでもなく馬鹿な言葉を母親に浴びせたりした事を後悔し、
それに対して、悲しげに、母の放った言葉「そうかい。」の一言を聞いた時から
「孝」の一字に対して、暖かさを感じ始め、自分の誕生日には
なぜか「生んでくれてありがとう。」と毎年、言うようになりました。
最近、母の見舞いに行くと、目の見えない母が横たわって
隣のベッドの「おばあちゃん」の会話をおもしろそうに聞いています。
姑「私はあんたらの世話にはならん!年金と十分の貯金があるけん!」
嫁「そんな事いわれても来るけんね!ほんまにもー我儘なんじゃけん!」
隣のベッドで聞いている母がその時、カーテン越し言いました。
「おばあちゃん。ちゃんと話をせんといけんよ。娘なんじゃけん。」
私は、私の母とゆう人物を誇りに思っています。
母の目が、僅かでも見える内に孫を抱かせたい。
時々、夢に見る、目がハッキリと見える自分をどうにか感じさせたい。
「おまえの名前の一字に孝行の孝の字が入ってるのはね…」
と私が幼い時にいってくれた言葉、今でも憶えていますよ。
ありがとう。母さん。
後、数十回しか会えない母さんへ。 2年くらい前
適当に作ったマフラー
適当に「あげる」って言って渡したマフラー
色もオレンジで無駄に長くて細い使えないマフラー
昨日、お母さんの引き出しの中からでてきて
泣きそうになりました マジでお前ら最高。泣ける話をありがとう。
みんな母ちゃん大事にしなよ。 私のただ一人の味方は母しかいない。
いつもの様に私はどうでもいい事で喧嘩をふっかけた。
いつもは怒ってくる母、その時は悲しそうに何か呟くだけだった。
喧嘩のあとはいつも互いにあっけらかんとしていた。
心では何かひっかかりながらも、親子とはすごいなと思っていた。
この日も、いつもの様に母の部屋にあっけらかんと入った。
そこで母は、パッと見て人間にとって不自然だとわかる格好で倒れていた。
驚いて抱きかかえる。頭が痛いと訴える母。
異常を察し、病院に電話した。母は「薬を飲めば治る」
「最近たまにこうなっていたが大丈夫だから身内に連絡するな」
と言う。
体の半分が麻痺し、次第に声は小さくなり、目を閉じていく。
病院につくまでの救急車の中。私はなぜか“病院に着けば大丈夫”
という意識でいたので、車内で話しかけたり等しなかった。
医者に言われた言葉は「非常に残念なのですが」から始まるものだった。
理解できなかった。二時間前まで表情のあった母が、
もう二度と目を開けない。
原因は脳出血だった。母はもともと病持ちで、そのため手術が出来なかったのだ。
私はある選択をさせられた。
人工透析をさせずに死なせるか(病は、一度でも透析を
しないと死に至る腎臓病)、脳出血を放置して死なせるか。
母の死に方を選ばなければならなかった。
家庭環境が複雑で私には説明しがたい妙な自我があった。
その上母は不器用で、母とは物心ついた時から不自然な溝があった。
それを埋めなくてはと思い、母に色々と話をし出した矢先の事だった。
母は他界した。
冷たく、カチカチになった母から私は一晩離れなかった。
ひとりじゃ何も出来ない私を残して、さぞ心配だったろう。
私の身の置き場が決まった夜、耳元で「ごめんよ、友達が呼んでるから
もういくよ」
と声がして、私は飛び起きた。周りの人は「それはお母さんだね」
と、本当は信じていないながらの言葉をくれた。
一度も「おかあさん」と呼べなかった。
おかあさん、大好きです。最後まで心配かけてごめんなさい。
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