自然と認識 反オカルト会議室の方々へ
いろいろありましたね
初投稿当時は大部分の人からはまったく無視されました
馬鹿言っているんじゃないとシャーロック氏が噛みついてきました
無が存在したら無にならないと言ったら激怒されました
氏は死がいつからか解らないと言われましたが物理として死は存在しないと指摘しました
三澤氏がさすがに時間は存在するだろうと投稿していました
板倉氏は「科学と方法」の中で観たものがそのままの自然ではないことを地動説は示したと書いていました
今振り返りますとこの視点を徹底した形に現在わたしの理解はなっています
当時規定は否定とか、観測問題、不確定性原理、不完全性定理をどう理解したら良いのか悩んでいました
今では自分なりに解決しまして、投稿する気になりました 反オカルト会議(出張:物理板遊び場)※適当(団体なんてなく反オカルト派人間を団体と見る見方だね)※楽しむ派(※文系脳)です!
まずは挨拶
「久し振りにオカルト談義?ハロー!」 根本的なオカルト否定です
なんか勘違いしてスレ放置
では開始 当時規定は否定とか、観測問題、不確定性原理、不完全性定理をどう理解したら良いのか悩んでいました
今では自分なりに解決しまして、投稿する気になりました
近々ではフラットアース説批判から大きなヒントを得て最終的な答に辿り着きましたのでご報告させて頂きます
これでわたしのできることは終わりかなと思っています
大地震の予想もありますし
能登とかは可能性は低かったですがいつ起きても不思議ではないわけです
また最近体調が良くないこともあり投稿を決心した次第です
これで終わりかなと思うと日常風景に対する感覚が違ってきています
母が救急車に運ばれていく前夜の就寝前の嬉しそうな笑顔は忘れられません
わたしもあんな笑顔をしたいなあと思ったりします
ちなみにわたしは幻覚体質で母が亡くなった数か月後にベッド傍に和服姿で立った母を見ました
こちらをじっと見つめて消えていきました
わたしはまた来てねと呟きました
こういうのは人間だけでしょうか
萩尾望都の「アメリカン・パイ」の主人公のセリフはわたしには痛切です
ヒロインは死んだら思いは何処に行くのかと悩みます
わたしの結論が偽であれば幸せなんですが 新約聖書学、数学、共産主義・・・
学者の思いを裏切る結論だったことを見届けたものとしては物理学の結論は残酷になりそうかと
思いと現実が違うことを示してきたのが学問です
それはともかくわたしは自分の理解が正当だと思えるのですから至福です
でも慙愧に耐えない結論であると予想していることも確かです
後世の人たちはどう判断するかは解りませんがとりあえずです
新約聖書学、数学はドイツ人の徹底さで成し遂げられました
共産主義は日本人が結論を出しました
自然科学の結論は日本人学者でという思いがわたしにはあります
未来の学徒に期待します
新約聖書学、共産主義の学的結論は感情が絡み信者たちは承認しないでしょう
それはネットでも伺えます
自然科学はヒルベルトがそうであったように渋々というか嫌々認めると予想します
確定したら阿鼻叫喚になりそうですが、わたしはその頃には居ないでしょうから
見届けられないのは幸か不幸かはわかりませんが
これも決定不能になるのかな?
わたしは「アメリカン・パイ」の主人公のように、あの世など無いのだと判りつつ、姉たちとあの世の肉親たちについて話したりします
身勝手ですが人は幻想に生きますから無碍に否定したくないわけで
震災、戦争を潜り抜けた世代と較べたら全然楽だと思います
これから震災は有るでしょうが、皆さんとともに無事に潜り抜けたいです
こんなことを思うのは死期が近いからでしょうか
ある先輩は十数年前に亡くなりましたがいろいろ上手くいかなくて、早くあっちに逝きたいと言ってたそうです
わたしは逝きたいような逝きたくないような
でも死んだら楽になれるかなとも思います 新約聖書学、数学、共産主義・・・
学者の思いを裏切る結論だったことを見届けたものとしては物理学の結論は残酷になりそうかと
思いと現実が違うことを示してきたのが学問です
それはともかくわたしは自分の理解が正当だと思えるのですから至福です
でも慙愧に耐えない結論であると予想していることも確かです
後世の人たちはどう判断するかは解りませんがとりあえずです
新約聖書学、数学はドイツ人の徹底さで成し遂げられました
共産主義は日本人が結論を出しました
自然科学の結論は日本人学者でという思いがわたしにはあります
未来の学徒に期待します
新約聖書学、共産主義の学的結論は感情が絡み信者たちは承認しないでしょう
それはネットでも伺えます
自然科学はヒルベルトがそうであったように渋々というか嫌々認めると予想します
確定したら阿鼻叫喚になりそうですが、わたしはその頃には居ないでしょうから
見届けられないのは幸か不幸かはわかりませんが
これも決定不能になるのかな?
わたしは「アメリカン・パイ」の主人公のように、あの世など無いのだと判りつつ、姉たちとあの世の肉親たちについて話したりします
身勝手ですが人は幻想に生きますから無碍に否定したくないわけで
震災、戦争を潜り抜けた世代と較べたら全然楽だと思います
これから震災は有るでしょうが、皆さんとともに無事に潜り抜けたいです
こんなことを思うのは死期が近いからでしょうか
ある先輩は十数年前に亡くなりましたがいろいろ上手くいかなくて、早くあっちに逝きたいと言ってたそうです
わたしは逝きたいような逝きたくないような
でも死んだら楽になれるかなとも思います 自然科学と数式
ライプニッツはニュートンの重力方程式に敬意を表しましたが遠隔作用するという重力概念は魔術的と拒否して、渦モデルを提唱したが完成しなかった
当時ニュートン力学はオカルト扱われたというのを読んだことがありますがライプニッツの拒否もその一つだったのかも知れません
1970年代にハイゼンベルクは現代科学は数式で矛盾を隠していると批判した
武谷三男氏は違う方向で現代科学の在り方を批判的にみていた
ホーキング博士は最終方程式まであと僅かと述べましたが観測問題を考えると抽斗の銃に手が伸びると語った
少し前に現代科学は全てを表す神の方程式を求めていると番組をテレビで放映していました
数式と自然は何かとは、はどうも違うようですから神の方程式と自然科学の完成は関係が無いようです
数式は正しくともニュートン、ハイゼンベルク、ホーキング博士の例でその自然理解は必ずしも正しいとは限らない可能性が有ることを示唆しているのではないでしょうか
日本のある物理学者は人間が何処から来て何処に行くのかを知りたいと語りました
わたしは自然、学問、とりわけ自然科学、論理、認識とはを納得できる形で理解したいと考えてきました
1995年に「ゼノン四つの逆理」を山川偉也氏が著しパルメニデスの自然観、多ではなく一であるという理解を擁護したのがこの逆説だと指摘されました
板倉聖宣氏は「新哲学入門」で論理は静的だと指摘しました
三浦つとむ氏は「弁証法はどういう科学か」で自己言及の認識論的構造を明らかにしました
現代科学は観測問題、不確定性原理をどう理解したら良いのか未解決です 宇宙論の定説と言われるビッグバン仮説は確かな証拠がありません
宇宙背景放射は違う理解が可能だと指摘する天文学者がいて、スムート博士はその可能性を否定できないとコメントしました。
これは十九世紀に火星に「運河」を観測したと発表した米国の天文学者と同じ過ちの可能性があるということだと記事は締め括ります
赤方偏移は宇宙の膨張を示さないというアープの理解があり、またいわゆる大構造はこの仮説が想定する時間の数倍が必要であるという問題があります
二十世紀末にワインバークグループは宇宙の始まり解明まであと僅かに迫っているとしましたが現在に至るまで成し得ていません
科学者は死がいつからかを特定しようとしていますが同様に成しえていません
わたしは物理として生滅は無いと自然科学はエネルギー保存則で示したと理解しています
ビッグバン仮説は対象に宇宙非宇宙と否定関係を想定しています
つまり対象に否定関係が存在しているという理解です
光速度一定の原理は絶対座標が存在しない、つまり時空に始まりは存在しないということを示します
ビッグバン仮説は確かな証拠は皆無ですし前提原理原則を否定していて疑問だらけの仮説です 宇宙論の定説と言われるビッグバン仮説は確かな証拠がありません
宇宙背景放射は違う理解が可能だと指摘する天文学者がいて、スムート博士はその可能性を否定できないとコメントしました。
これは十九世紀に火星に「運河」を観測したと発表した米国の天文学者と同じ過ちの可能性があるということだと記事は締め括ります
赤方偏移は宇宙の膨張を示さないというアープの理解があり、またいわゆる大構造はこの仮説が想定する時間の数倍が必要であるという問題があります
二十世紀末にワインバークグループは宇宙の始まり解明まであと僅かに迫っているとしましたが現在に至るまで成し得ていません
科学者は死がいつからかを特定しようとしていますが同様に成しえていません
わたしは物理として生滅は無いと自然科学はエネルギー保存則で示したと理解しています
ビッグバン仮説は対象に宇宙非宇宙と否定関係を想定しています
つまり対象に否定関係が存在しているという理解です
光速度一定の原理は絶対座標が存在しない、つまり時空に始まりは存在しないということを示します
ビッグバン仮説は確かな証拠は皆無ですし前提原理原則を否定していて疑問だらけの仮説です 二十世紀末にドイツの科学者は時間が存在しない可能性に触れています
今世紀に入り科学啓蒙番組で時間の存在を否定する科学者がその説を展開しました
同番組では別の回で重力理解に疑義を呈する科学者が登場しました
後年科学雑誌では時間は存在しないと主張する科学者たちを特集しました
日本では九十年代に現代科学の視点からあれは×これは、と裁断する民間団体が登場しましたが科学者らは現代科学は新しい視点を摸索中であると批判しました
今世紀に入り量子力学は新たな理論が求められているとテレビで著名な科学評論家が語り、それを受けて研究者らしき方がネ最前線は一条の光も射さないとネットに投稿しました
コペルニクスは古代に新たな自然理解を求め地動説に巡り合ったそうです
ある数学者は学問の最前線はしばしば古代にその範を求め新展開があることを科学、数学などで例を挙げていました
わたしは古代ギリシャの哲学者であるパルメニデスの自然観から自然、論理、認識、人間を考えることにします 二十世紀末にドイツの科学者は時間が存在しない可能性に触れています
今世紀に入り科学啓蒙番組で時間の存在を否定する科学者がその説を展開しました
同番組では別の回で重力理解に疑義を呈する科学者が登場しました
後年科学雑誌では時間は存在しないと主張する科学者たちを特集しました
日本では九十年代に現代科学の視点からあれは×これは、と裁断する民間団体が登場しましたが科学者らは現代科学は新しい視点を摸索中であると批判しました
今世紀に入り量子力学は新たな理論が求められているとテレビで著名な科学評論家が語り、それを受けて研究者らしき方がネ最前線は一条の光も射さないとネットに投稿しました
コペルニクスは古代に新たな自然理解を求め地動説に巡り合ったそうです
ある数学者は学問の最前線はしばしば古代にその範を求め新展開があることを科学、数学などで例を挙げていました
わたしは古代ギリシャの哲学者であるパルメニデスの自然観から自然、論理、認識、人間を考えることにします 二十世紀末にドイツの科学者は時間が存在しない可能性に触れています
今世紀に入り科学啓蒙番組で時間の存在を否定する科学者がその説を展開しました
同番組では別の回で重力理解に疑義を呈する科学者が登場しました
後年科学雑誌では時間は存在しないと主張する科学者たちを特集しました
日本では九十年代に現代科学の視点からあれは×これは、と裁断する民間団体が登場しましたが科学者らは現代科学は新しい視点を摸索中であると批判しました
今世紀に入り量子力学は新たな理論が求められているとテレビで著名な科学評論家が語り、それを受けて研究者らしき方がネ最前線は一条の光も射さないとネットに投稿しました
コペルニクスは古代に新たな自然理解を求め地動説に巡り合ったそうです
ある数学者は学問の最前線はしばしば古代にその範を求め新展開があることを科学、数学などで例を挙げていました
わたしは古代ギリシャの哲学者であるパルメニデスの自然観から自然、論理、認識、人間を考えることにします 自然科学は自然の一部である人間の自己言及という性格があります
つまり自身も自然ですし、自然を認識する認識器官は自然が生成した物理状態です
板倉聖宣氏は地動説は観たものがそのままの自然ではないことを示したと記します
諸天体は地球の周りを運動しているように見えます
物理は生滅して視えますが物理自体としては何も生まれませんし無くなりません
〈ここ〉からとわたしたちは認識しますが光速度一定の原理はその存在を否定します
真空、無と認識しますが量子力学では真空はエネルギーの基底状態であり無ではありません
以上のことで解りますが認識した自然はそのままの自然ではありません 自然が生成した生物の認識器官の態様は違いますから生成される自然像は違います
また人間より認識する範囲が狭かったり広かったりと様々です
これはいわば食材が様々な料理法で違う物理状態に生成されるのと同じでどれが正しいということではありません
あくまでも自然の物理状態の態様をその物理条件で生成した像であり正しいのはどれということではないのです
また認識器官にそのまますべてを反映することはありません
光速度一定の原理は絶対座標の存在を否定します
これは〈ここ〉からが存在しないということです
ここ〈から〉はまたここ〈まで〉ですから両方ともに無いわけです
つまり無限です
対象には、〈ここ〉、座標原点が存在しないということは0、無、運動の否定である静止が存在しないということです
つまり対象には否定関係が存在せず、自然の存在形態は運動ということになり、無矛盾です
量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡であり、その親和反撥でまた違う濃淡を生成していく過程です
光速度一定の原理はこの自然観を裏付けます
自然科学は人間もまた自然の一部であることを示します
つまり自然認識は自己言及でもあります 自然が生成した生物の認識器官の態様は違いますから生成される自然像は違います
また人間より認識する範囲が狭かったり広かったりと様々です
これはいわば食材が様々な料理法で違う物理状態に生成されるのと同じでどれが正しいということではありません
あくまでも自然の物理状態の態様をその物理条件で生成した像であり正しいのはどれということではないのです
また認識器官にそのまますべてを反映することはありません
光速度一定の原理は絶対座標の存在を否定します
これは〈ここ〉からが存在しないということです
ここ〈から〉はまたここ〈まで〉ですから両方ともに無いわけです
つまり無限です
対象には、〈ここ〉、座標原点が存在しないということは0、無、運動の否定である静止が存在しないということです
つまり対象には否定関係が存在せず、自然の存在形態は運動ということになり、無矛盾です
量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡であり、その親和反撥でまた違う濃淡を生成していく過程です
光速度一定の原理はこの自然観を裏付けます
自然科学は人間もまた自然の一部であることを示します
つまり自然認識は自己言及でもあります 自然が生成した生物の認識器官の態様は違いますから生成される自然像は違います
また人間より認識する範囲が狭かったり広かったりと様々です
これはいわば食材が様々な料理法で違う物理状態に生成されるのと同じでどれが正しいということではありません
あくまでも自然の物理状態の態様をその物理条件で生成した像であり正しいのはどれということではないのです
また認識器官にそのまますべてを反映することはありません
光速度一定の原理は絶対座標の存在を否定します
これは〈ここ〉からが存在しないということです
ここ〈から〉はまたここ〈まで〉ですから両方ともに無いわけです
つまり無限です
対象には、〈ここ〉、座標原点が存在しないということは0、無、運動の否定である静止が存在しないということです
つまり対象には否定関係が存在せず、自然の存在形態は運動ということになり、無矛盾です
量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡であり、その親和反撥でまた違う濃淡を生成していく過程です
光速度一定の原理はこの自然観を裏付けます
自然科学は人間もまた自然の一部であることを示します
つまり自然認識は自己言及でもあります 自然が生成した生物の認識器官の態様は違いますから生成される自然像は違います
また人間より認識する範囲が狭かったり広かったりと様々です
これはいわば食材が様々な料理法で違う物理状態に生成されるのと同じでどれが正しいということではありません
あくまでも自然の物理状態の態様をその物理条件で生成した像であり正しいのはどれということではないのです
また認識器官にそのまますべてを反映することはありません
光速度一定の原理は絶対座標の存在を否定します
これは〈ここ〉からが存在しないということです
ここ〈から〉はまたここ〈まで〉ですから両方ともに無いわけです
つまり無限です
対象には、〈ここ〉、座標原点が存在しないということは0、無、運動の否定である静止が存在しないということです
つまり対象には否定関係が存在せず、自然の存在形態は運動ということになり、無矛盾です
量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡であり、その親和反撥でまた違う濃淡を生成していく過程です
光速度一定の原理はこの自然観を裏付けます
自然科学は人間もまた自然の一部であることを示します
つまり自然認識は自己言及でもあります 自然が生成した生物の認識器官の態様は違いますから生成される自然像は違います
また人間より認識する範囲が狭かったり広かったりと様々です
これはいわば食材が様々な料理法で違う物理状態に生成されるのと同じでどれが正しいということではありません
あくまでも自然の物理状態の態様をその物理条件で生成した像であり正しいのはどれということではないのです
また認識器官にそのまますべてを反映することはありません
光速度一定の原理は絶対座標の存在を否定します
これは〈ここ〉からが存在しないということです
ここ〈から〉はまたここ〈まで〉ですから両方ともに無いわけです
つまり無限です
対象には、〈ここ〉、座標原点が存在しないということは0、無、運動の否定である静止が存在しないということです
つまり対象には否定関係が存在せず、自然の存在形態は運動ということになり、無矛盾です
量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡であり、その親和反撥でまた違う濃淡を生成していく過程です
光速度一定の原理はこの自然観を裏付けます
自然科学は人間もまた自然の一部であることを示します
つまり自然認識は自己言及でもあります 自己言及という認識を解明をしたのが言語学者である三浦つとむ氏です
地図を描く場合にわたしたちは頭の中で空中から町、日本、地球、銀河系などを眺めることができます
またこの能力では頭の中で古今東西に行き来可能ですし、映画や小説の登場人物にも成れます
〈わたし〉という表現は現実の自己を他者として観念の中で認識した言葉です
自然科学という認識の場合もそうですが物理という有を観念という無で認識します
運動は静止で規定します
物理状態は常に変化していますが、物理として生滅はありません
わたしという物理状態は静止することはありませんから同一であることはありませんが同一のわたしと規定します
ある物理状態は自然の濃淡の親和反撥の過程で生成され自身も違う物理状態に生成していく過程であり物理としての生滅はありません
違う物理状態から生成されまた違う物理状態に生成する過程を生死と規定するのであり物理としての生滅はありません
ウイルスは生物非生物と分類は困難ですが、物理状態として生物非生物は差異であり否定関係ではありません
物理状態の差異を生物非生物と否定関係で規定します 自然の濃淡の淡は認識できませんからここからここまでと認識されます
自然に形は存在しませんが形として認識するのは認識の在り方です
運動は静止で、物理状態の遷移は生死で規定しますが生死は物理としては存在しません
物理は状態が同一であることはありませんが同一として規定します
スピノザは規定は否定としました
アガサ・クリスティーはミス・マープルに「変れば変わるほど変わらない、変わらなければ変わらないほどますます変わる。両方真実だ。」と語らせます
ヘーゲルはここ、今と指示するとここ、今は飛び去ると語り、運動は存在すると同時に存在しないことと定義します
ここ、今という規定は静止だからです
宇宙が存在すると規定する場合、存在は静止であり同一という規定だからです
運動は〈存在〉しますが存在という規定は静止だからこの規定になります
不確定性原理は運動を静止で規定するからです
数学で言う0に限りなく近いが0では無いという規定は有を無で規定するからです
自然をそのまま認識することはできません
測定値は近似値が必至なのです
認識の在り方の問題でありなんら対象である自然の問題ではありません 自然の濃淡の淡は認識できませんからここからここまでと認識されます
自然に形は存在しませんが形として認識するのは認識の在り方です
運動は静止で、物理状態の遷移は生死で規定しますが生死は物理としては存在しません
物理は状態が同一であることはありませんが同一として規定します
スピノザは規定は否定としました
アガサ・クリスティーはミス・マープルに「変れば変わるほど変わらない、変わらなければ変わらないほどますます変わる。両方真実だ。」と語らせます
ヘーゲルはここ、今と指示するとここ、今は飛び去ると語り、運動は存在すると同時に存在しないことと定義します
ここ、今という規定は静止だからです
宇宙が存在すると規定する場合、存在は静止であり同一という規定だからです
運動は〈存在〉しますが存在という規定は静止だからこの規定になります
不確定性原理は運動を静止で規定するからです
数学で言う0に限りなく近いが0では無いという規定は有を無で規定するからです
自然をそのまま認識することはできません
測定値は近似値が必至なのです
認識の在り方の問題でありなんら対象である自然の問題ではありません 観測問題もまた対象の問題では無く認識の在り方の問題です
自然は運動する濃淡ですが、ある物理条件では波は渦の状態、つまり粒子として認識器官に像を生成するということです
わたしたち自身を含めてすべてはある物理条件に従い生成した物理状態であり、認識器官に結ぶ像です。
次元は光速度一定の原理がその存在を否定します
仮に四次元が存在したら静止した三次元が無限に存在することになります
時間が存在したら過去も未来も存在することになりますが、自然に存在するのは現在、現に在るものだけです
上にも書きましたが、ヘーゲルは今、此処と指示すると今、此処は飛び去ると書いています
これは運動する自然を静止で規定するからです
自然は無矛盾であり一ですがそれを規定する場合はその否定、つまり多で規定しますから時間が必要になりますが存在しません
0に限りなく近いが0ではないという規定の所以であり一を多で規定するから次元が必要になります
この今を直接そのまま認識することはできませんから時間で認識するわけです
時間で規定しますが時間は存在しません
静止で規定しますが静止は存在しません 観測問題もまた対象の問題では無く認識の在り方の問題です
自然は運動する濃淡ですが、ある物理条件では波は渦の状態、つまり粒子として認識器官に像を生成するということです
わたしたち自身を含めてすべてはある物理条件に従い生成した物理状態であり、認識器官に結ぶ像です。
次元は光速度一定の原理がその存在を否定します
仮に四次元が存在したら静止した三次元が無限に存在することになります
時間が存在したら過去も未来も存在することになりますが、自然に存在するのは現在、現に在るものだけです
上にも書きましたが、ヘーゲルは今、此処と指示すると今、此処は飛び去ると書いています
これは運動する自然を静止で規定するからです
自然は無矛盾であり一ですがそれを規定する場合はその否定、つまり多で規定しますから時間が必要になりますが存在しません
0に限りなく近いが0ではないという規定の所以であり一を多で規定するから次元が必要になります
この今を直接そのまま認識することはできませんから時間で認識するわけです
時間で規定しますが時間は存在しません
静止で規定しますが静止は存在しません 観測問題もまた対象の問題では無く認識の在り方の問題です
自然は運動する濃淡ですが、ある物理条件では波は渦の状態、つまり粒子として認識器官に像を生成するということです
わたしたち自身を含めてすべてはある物理条件に従い生成した物理状態であり、認識器官に結ぶ像です。
次元は光速度一定の原理がその存在を否定します
仮に四次元が存在したら静止した三次元が無限に存在することになります
時間が存在したら過去も未来も存在することになりますが、自然に存在するのは現在、現に在るものだけです
上にも書きましたが、ヘーゲルは今、此処と指示すると今、此処は飛び去ると書いています
これは運動する自然を静止で規定するからです
自然は無矛盾であり一ですがそれを規定する場合はその否定、つまり多で規定しますから時間が必要になりますが存在しません
0に限りなく近いが0ではないという規定の所以であり一を多で規定するから次元が必要になります
この今を直接そのまま認識することはできませんから時間で認識するわけです
時間で規定しますが時間は存在しません
静止で規定しますが静止は存在しません 光速度一定の原理は運動を静止で規定しますが静止が存在しないことを示すことで自然が無矛盾であると証明します
つまり規定は自然には存在しないことをもって自然が無矛盾である事を証します
規定すること、理解すること自身が決定不能の原因です
対象は理解可能ですが理解することは理解が対象の否定で為されます
有は無で規定しなければなりません
対象は可知であるが故に不可知です
自然科学は認識の在り方の相対化の歴史でもあります
対象は絶対でありそれを相対で認識するということです 光速度一定の原理は運動を静止で規定しますが静止が存在しないことを示すことで自然が無矛盾であると証明します
つまり規定は自然には存在しないことをもって自然が無矛盾である事を証します
規定すること、理解すること自身が決定不能の原因です
対象は理解可能ですが理解することは理解が対象の否定で為されます
有は無で規定しなければなりません
対象は可知であるが故に不可知です
自然科学は認識の在り方の相対化の歴史でもあります
対象は絶対でありそれを相対で認識するということです 光速度一定の原理は運動を静止で規定しますが静止が存在しないことを示すことで自然が無矛盾であると証明します
つまり規定は自然には存在しないことをもって自然が無矛盾である事を証します
規定すること、理解すること自身が決定不能の原因です
対象は理解可能ですが理解することは理解が対象の否定で為されます
有は無で規定しなければなりません
対象は可知であるが故に不可知です
自然科学は認識の在り方の相対化の歴史でもあります
対象は絶対でありそれを相対で認識するということです >>8
具体的に指摘していただければ
建設的にと思っていますので >>33じゃあ指摘
「否定で規定」
パルメニデスさんは
全ての概念は否定で規定し
肯定で規定する概念はないと
言うじゃん
善と悪で考えると
否定で規定は
善(善)の定義は悪でない(悪¬)こと
となる
悪(悪)の定義は善でない(善¬)こと
で存在しないのが
善(善)の定義が善である(善)こと
と
悪(悪)の定義が悪である(悪)こと
↓このパルメニデスさんの考えね
自分は
定義の定義は定義でしかないと思ってる
赤の定義は赤でないでも青でも青でないでもなく赤だけ
パルメニデスさんは
定義の定義は反定義の反対
と思ってるかもだけど
↓自分は
定義を定義で説明
定義を反定義で説明
両方あるけど
反定義での説明はその定義物の反定義性
定義での説明はその定義物の定義性
の説明となる説明をできると考える
赤の定義性は赤であり
赤の反定義性は青など他の色でないである
赤の反定義性を赤では説明できないし
赤の定義性を青でないでは説明できない
↓パルメニデスさんに指摘する自分の意見は
「定義は否定で規定のみしかなく、肯定で定義はない」
これは偽
否定で規定するのはその定義の反定義性でしかなく
肯定で規定するのはその定義の定義性を規定する 規定は否定おじさんはそのシンプル過ぎる規定だけで何かわかってしまったという時点で電波さんにしか他者からは見えてないんだが相手にされないことが許せなくて何度も同じ内容で5chに書き込んでしまう荒らしになってしまったんだその承認欲求だらけの心を何度も真理に到達して幸せだと思いこませることによって慰めているが貴様はきっと地獄に落ちる板違いのスレ建てする荒らしは地獄に落ちる わたしは他の物理状態ではない
善は悪ではない
わたしは物理として同一であることは無いが同一と規定
わたしという規定は他に対して、自己に対して否定
個別は観念に規定された存在
有を無で
極めて単純な話なのです では物理としての話に限定しましょう
善悪は観念です
善は悪ではありません
他との関係では否定です
わたしという物理存在は自然と認識の関係です
これは物理としては他、自己との関係で否定です
物理としては他はありません
つまり差異を否定でということです いずれにしても光速度一定の原理は運動を静止で規定して静止は存在しないことを示します
自然は無矛盾で理解可能
観測問題、不確定性原理が解決します
あなたの解決案お願いします いずれにしても光速度一定の原理は運動を静止で規定して静止は存在しないことを示します
自然は無矛盾で理解可能
観測問題、不確定性原理が解決します
あなたの解決案お願いします 善が悪でないのは…善の反定義性の否定の言明
善が善であるのは…善の定義性の肯定の言明
否定で規定するだけでなく肯定で規定も片方ならず両方
反定義性と定義性は両方ある
パルメニデスさん
仕組みの反定義性を解析したなら
次は仕組みの定義性を解析するべき
片方じゃ駄目だよ うーんと
土壌がちとわからない
簡単に説明してあるのを紹介してくれないかな
規定は他との比較もあるし
自己との関係
自然科学は対象と認識の関係だし
自己言及が本質でしょう
いや観測問題、不確定性原理にあなたの理解の有効性を示していただければ
対象に問いかけその理論の真偽が解ると考えています
どんなにもっともらしくとも禁酒法、社会主義はノー
真偽の基準が前提です 社会主義は共産主義含めた資本主義以外全てだから社会主義自体は否定する論調は逆に駄目
だけど共産主義なら
通貨の力は、経済の流転力だから
経済の流転力を出す経済制度を設定しなければ世界の金が紙になる
流転力を出させるのが、xを儲け、yを資産に、グラフの右肩上がり
共産主義は右肩上がりにならず(x,y)の決まった交点だから、流転力が起きず紙切れになる
だから共産主義は反社人間集団と反社経済国家
資本主義で問題は右肩上がりが
y=x^2とか、y=xの直線より大きい点なんだよ。つまりインフレーション経済が問題
y=√x右肩がなだらかになるなら、良い資本主義
今は悪い資本主義 資本主義以外にする、または二重動力にするなら
流転力が起きる経済設定、それと看過できない問題起きない物
社会主義は資本主義以外全てを言う 禁酒法ね
最近大麻が解禁されたけど
これは大麻をこれまで法律閉じられてたけど
今法律閉じられなくなったから
山奥に混浴温泉残ってるじゃん?法律違反なんだよ
賭博は法律にパチンコなどは明記されてる。明記自体法律違反なんだよ
でも黙認、すなわち目こぼしされてるのは、法律を閉じられないから
逆に児ポ法は法律閉じられてる例
それに問題が残ってる場合、法律閉じるのは事故る。噛み合わない。負担の波及
つまり、どこかにしわ寄せで黙認を生じる。事故負担が掛かってしまう結果黙認せざるを得ない波及
禁酒法、禁たばこ
酒は法律をローマ時代から絞められない
ちなみに酒は飲み過ぎると体の分解してはいけない材料まで分解して
腎臓や小腸で排出できず、ゆっくり分解するしかないから
腹膜透析機能で腹膜に分子が貯まり、それを貯蓄しておくために腹水状態(ぽんぽこ)になり
水をガバガバ飲むように
酒以外だと、県跨ぎレベルで何時間も歩き続けるのが、過剰過ぎると、体の分解してはいけない材料まで分解してしまう
酒も腹水貯まるから、健康被害ある
軍隊の訓練とかもだろう
でも酒は微量なら薬だろうから
大麻は微量でも高依存
酒は微量なら低依存
大麻より酒がローマで解禁されてたのは
比較的安全な物を選んでた
だから大量飲酒は、今で言う風邪薬などのオーバードーズ
オーバードーズは麻薬じゃないけど取り締まれたらいい
同じく禁酒法なら微量は取り締まらなくていい
酒のオーバードーズが麻薬と同じ扱いでいけ
麻薬も取り締まり ようは
大麻解禁は
これまでと問題が変化したから
酒も大量は法律違反べき
風邪薬も大量は法律違反べき
微量ならOK 今書いた中にも
内容に色んな点に否定肯定要素ある
否定だけで規定でなく
肯定も内容にあり
一つ一つの物事を解明できればだが、否定と肯定は両方規定にある
この否定肯定両方内容に含む説明の上で誤りか正しいかの、確度を判定する だから
パルメニデスさんは
片方だけじゃ駄目だよ
否定で規定だけじゃ
反定義性 定義性
否定肯定を
表から見たら裏からも同じ物を解析しなきゃ
両方両面解析しなきゃ駄目 あ、わかりやすい例パルメニデスさん出してたんだ
自分は、他人じゃない、他人¬
だけど
自分は、自分である、自分肯定
キリスト教徒じゃなく神なんてどうでもいいけど
預言者は神に尋ねた
貴方は誰なのか
神は預言者に言った
i am who i am
だったかな?
私は私という物だ
人間も同じ
i am who i am
だし
i am not who other are
英語はわからないけど
私の定義は、素晴らしい市民、なんかじゃなく、蛋白質でできた機械なのは生体としての仕組みの説明であり、別に蛋白質でできた機械全てが私でないのだから、定義は私、私たるは私で、蛋白質の機械であればでなく私であれば
反対に私は、流石に写真の住人なんかじゃないし鏡の中の住人じゃない、これらは他人私じゃない、他の誰かでもない
ともかく
神が誰かは
私は私という物だ
って神でなくても人間だれでも
集まりに参加すれば、顔みて誰だ?この人というこの人は?
私という私はこんな顔です
はいそうですね
神ですね
はたしてそうだろうか?否そうではない(反語)
神が人間みたいなこと言っただけ 体調崩しました
ちと離れます
わたしは自然認識は自己言及が本質だと理解しています
つまり自己を他として認識するということです
否定で規定するということです
三浦言語学の観念的な自己分裂ということです
体調の都合でここまでにします 失礼ですが否定というのは本質です
語る地点が違うような
では寝ます 風邪かなと思いますが
終活中ですのでこのまま逝きたい気もありますが
いろいろ綺麗にして逝きたいのです お大事に
風邪っぽいのがストレスなら
小腸は痛くない?
小腸のシールドストレスで細菌に突破されたら
細菌性風邪になるからね(経験済み)
ウイルスならPL(or)PA薬がポピュラー
細菌性なら治らないなら抗生物質
どちらもそれでも治らないならステロイドで治るけど
小腸の壁が大丈夫な消化器性の細菌風邪なら、腹下すのにはコーラとかが効く 肺炎や気管支炎ならまたはなるようなら
肺や気管支の(必ず)垂直真上、痒いところ前横後に、痒いところは炎症の箇所、腰に貼るロキソニンとかバンテリンとかなんでもいい湿布薬を貼ると狭い範囲部分的に治る
肺や気管支に来るようならやってみて
小腸の垂直真上に貼って消化器性にも聞くかは未検証 あとは免疫力上げて免疫力で治すなら
風邪薬でなく栄養剤で免疫力上がる妄想
これは妄想ね ああそうだ
カビの繁殖箇所は菌糸が細菌の道路になるんだけど
手や足の指は水虫、これの症状であり
小腸がもしカビの繁殖道路がシールドに食い込むようになってるなら
手や足の指はアイボンのシャバシャバする目薬つけるとカビが死んだ、腹にカビ道路あったから自分経験済み、勿論何回もカビ死んだ経験だけでカビ死ぬか確証ではない
小腸の痛みが治らないのがもしカビ道路のケースで
アイボン飲んで健康被害はわからないけど
わんちゃん有り得るか?説 > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 前に書いたものを校正しました
地動説は観たものそのままが自然では無いことを示す
エネルギー保存則は物理として生滅は無いことを示す
光速度一定の原理は静止、、生滅は存在しないことを示す
静止、終始、生滅は認識には存在しますが自然には存在しません
静止は運動の一形態です
終始は物理状態の遷移のことです
静止は存在しません
つまり自然の存在形態は運動であり無矛盾です
量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥してまた違う濃淡に推移していく過程です
真空はエネルギーの基底状態であり無ではありません
光速度一定の原理は絶対座標の存在を否定します
つまり〈ここ〉からは存在しませんし〈ここ〉までも存在しません
板倉氏は観たものがそのままの自然ではないと語ります 静止、終始、生滅は認識の在り方です
認識器官は自然が生成した物理状態です
諸動物の認識器官に生成した像はその在り方に拠り範囲も像も違いますがどれが正しいということではありませ
食材を様々な料理法でその物理状態の態様が様々の物理状態を変えるのと同じです
人間もまた自然の一部ですから自然認識は自己言及です
物理状態の自己を観念としての自己は他として認識します
運動は静止で、物理状態の差異とその遷移は終始で規定します
これは自然と認識の在り方の関係の問題です
自然科学の歴史は認識の相対化の一側面があります
光速度一定の原理は〈ここから〉〈ここまで〉、つまり有限で無限を認識します
有限自体は認識器官に生成した自然の濃淡の差異の像です
差異は有限で認識されます
有限は認識器官に生成された無限の在り方です
ヘラクレイトスは万物は流転するとしましたが一である自然が差異のある物理状態を生成してまた差異のある物理状態に生成していく過程としてあります
万物は認識器官に生成された像であり自然そのものではありません
多では無く濃淡である一ということです
認識器官には多として像が生成されます ヘーゲルは運動とは存在すると同時に存在しないことと定義しました
存在とは静止です
宇宙、わたしという物理状態は同一であることはありませんが同一として認識します
運動もまた静止で規定しますからこの決定不能の定義になります
静止することなく運動している物理状態を静止で規定します
生物、植物、非生物などなど
運動変化する物理状態の濃淡の親和反撥の過程生成される違う物理状態の生成、つまり質的遷移を生死と認識しますが物理として生滅はありません
これも認識の在り方です
自己を他として
運動を静止
物理状態の遷移を生死
濃淡をここからここまで
粒子と波と否定関係で規定しますが波の渦の状態が認識器官に粒子として像を結びます
運動を静止で規定、つまり有を無で規定しますからそのまま測定できません
認識の在り方から近似値は必然です ゼノンの逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの運動規定は対象と認識の関係です
一を多で、無限を有限で、運動を静止で
いずれも対象をその否定で規定するからです 最近こんな問題もあるのかなと思いつつありますが、まだわかりません
対象と認識の在り方の関係
認識の在り方に生成された像の認識の在り方の関係の問題
いや野矢茂樹さんの不完全性定理の本では無限の数を、有限と無限の関係で決定不能を証明するとありました
これが気になりました
まあわたしの理解ですが
ポーは認識=自然という理解
認識の中の自然は自然そのものではない わたしは現代の学問の在り方を絶対とは見ていません
科学でさえ未完成だということです
論理は対象との関係で正否が決まるのだと
対象は絶対です
観測問題、不確定性原理の解決をしたい
その他の基本的な問題を等閑に付した理論は如何なものかと より納得できる自然理解があればいつでものりかえます 科学は常に未完成さ
合理的反証可能性がないものは科学ではない 反証可能性は科学の成立要件ではない
数学には反証不可能な命題が存在する 対象が存在すると規定する
存在という規定は静止
静止は存在しない
静止で運動を規定する
決定不能
規定を否定することで無矛盾となる >>80
等速直線運動と静止を区別する客観的方法はない
>>81
無矛盾な公理系の中で真偽を決定でいない命題とは任意ってこと
無矛盾であることを体系内では証明できなければ外からすればいい >>82
外のモデルが無矛盾であることを示すにはさらに外に出る必要がある
無限連鎖になるため不可能 物理としての自己を観念としての自己が規定する
自己言及
有を無で規定する 物理としての自己を観念としての自己が規定する
自己言及
有を無で規定する 物理としての自己を観念としての自己が規定する
自己言及
有を無で規定する 数は存在しない
自然との関係で存在しないと証明される
無矛盾です ゲーテルによって科学は反証可能であるべきという哲学が壊された >>84
ユークリッド幾何、球面幾何、双曲面幾何でまとめて証明できない命題は何? >>95
形式科学は科学ではありません。
形而上学です。
プルーフできればエビデンス不要です。 科学は自然認識
方程式=科学ではない
認識に捉えられた自然はそのままの自然ではない 数学は公理系の無矛盾性がプルーフできればおk
物理学はその公理系と自然が誤差の範囲で一致することを実証しないとあかん。 物理は数学を基盤に使っているのでゲーテルにより科学の反証可能性が破壊されたというエッセンスは正しい 否定関係は存在しない
わたしと貴方は差異でしかない 否定関係は存在しない
わたしと貴方は差異でしかない 否定関係は存在しない
わたしと貴方は差異でしかない >>106
簡単な話、より観測精度が上がって、従来の公理系では不満足(反証)になると、
物理学は公理系を乗り換える。 否定関係は存在しない
わたしと貴方は差異でしかない >>112
反証できないのは原理的にできないという話
それが正しいから反証できないというわけではないというのがゲーテルのインパクト ゲーテルは公理を反証したのではなく反証可能性を反証した
科学の崩壊 >>119
数学は形而上
科学は形而下
科学は都合に合わない公理系を乗り換える
それだけのこと ユークリッド→ミンコフスキー→リーマン→カラビヤウ 反証可能性は形而下の科学の話。
数学は論破できないし、反証もできません。
オカルト脳? 自然が矛盾したら理解できない
また理解できないことも証明できない 矛盾する存在を証明する
存在という規定が無効となる
あり得ない 数自体は自然には無い
これは普遍
ある規準を設定してその中では有効
範囲外では無効というだけ 対象が自然非自然、有無という否定関係が存在したら自然科学は成立しない
無の存在は有りえない 対象が自然非自然、有無という否定関係が存在したら自然科学は成立しない
無の存在は有りえない 対象が自然非自然、有無という否定関係が存在したら自然科学は成立しない
無の存在は有りえない 自然科学は対象である自然との関係で認識=自然では無いことを示す
有と無の関係
数学は無、数は存在しない
数で理解するが数は存在しない
静止、生死、終始は存在しないがこれらで理解する 論理と自然が対立するとき
正しいのは常に自然である そして自然科学の理論が覆る事はあるが自然科学そのものは覆らない
形而上ではけっして真理には到達できない 否定されてるのは「規定は否定」おじさんの論理だけなのよ
自然科学のスキームを理解してないおじさんが覆ってるだけw 自然科学は自己言及
自己を他、つまり否定で規定する
静止で運動、生滅、終始
無いもの、無で有を規定する
規定は否定 中身がないから他から無視されてるんだわ
罵倒?
罵倒する価値もない
中学生が気づいてることを深遠なことだと思い込み世界の全てがわかった気になっているおじさんはそのまま幸せに暮らせばええだろ
こんな場所まできて話し相手に飢えてるおじさんを可哀想だと思ったからレスしただけよw
物理板じゃなくて哲学板で相手してもらいな 自然科学は数学を基盤に作り上げたため基盤の反証可能性が反証されたことで崩壊した
まるで地震によって建物が崩壊するように 数学は唯一の良い形而上学
自然科学は事実による検証をスキームに組み込むことで論理のみの形而上学を超えた
これを知らずに論理のみで覆せると信じてるのが規定は否定おじさんよね 自然は目に見えたままではないと言いつつ自然界の事実を基盤にした自然科学に対して自分の論理に拘って自然科学を否定しようとするのが規定は否定おじさん
出発点がそもそも間違ってんのよ 数学をスキームとしてインコーポレートした結果の代償として反証不可能性がついて回る
これがゲーテルの最大の功績と言われる所以 規定するから決定不能に
規定自体は対象には無い
光速度一定の原理が示すこと
対象は無矛盾で理解可能
理解自身が決定不能の原因 数学は物理のスキームであり数学はスキームすらも扱える
ゲーテルによる反証不可能性もその中の一つにすぎない 波動性と粒子性という我々の理解の上で矛盾した性質を扱える数学を使った物理学。 物理学は世界を説明するのにより都合の良い公理系に乗り換える。 ニュートン力学もマックスウェルの電磁気学も誤りだった。
一般相対論も誤りだろう。 しかし、何れも非常に良い近似理論であり、世界の究極を突き詰めるには向かないが、これからも長く実用に耐えるだろう。 >>166
バグが発生してることが本質的に確率に基づいている ユークリッドの幾何学に矛盾はない
矛盾のない公理系は自身命題として閉じているだろうというというのは、証明とは無縁の勝手な勘違いである。 ゲーテルは反証可能性の反証をすることでヒルベルトプログラムを終わらせた 数学には反証可能性も反証もない。
予想(思い込み?)の証明か否定だけだ。 だから物理として静止、生死、終始が自然に存在したらわたしの理解は否定される
それは光速度一定の原理、エネルギー保存則の否定だけど 体調悪いのであまり投稿できません
了解してください ?
それをどう理解するかという問題だろう
絶対座標は存在しないという観測事実をどう理解するのか
わたしは次元で規定するが次元は存在しないと理解する
パルメニデスの自然観の裏付けだと
静止、生死、終始は自然には存在しないがそれで規定する
波が渦の状態を粒子として認識される
有を無で規定する
一を多で規定する
自然科学は認識の在り方を相対化してきた
次元も諸力も粒子もそれで認識するが存在しない ?
それをどう理解するかという問題だろう
絶対座標は存在しないという観測事実をどう理解するのか
わたしは次元で規定するが次元は存在しないと理解する
パルメニデスの自然観の裏付けだと
静止、生死、終始は自然には存在しないがそれで規定する
波が渦の状態を粒子として認識される
有を無で規定する
一を多で規定する
自然科学は認識の在り方を相対化してきた
次元も諸力も粒子もそれで認識するが存在しない ?
それをどう理解するかという問題だろう
絶対座標は存在しないという観測事実をどう理解するのか
わたしは次元で規定するが次元は存在しないと理解する
パルメニデスの自然観の裏付けだと
静止、生死、終始は自然には存在しないがそれで規定する
波が渦の状態を粒子として認識される
有を無で規定する
一を多で規定する
自然科学は認識の在り方を相対化してきた
次元も諸力も粒子もそれで認識するが存在しない 少しよくなったので
認識と自然の関係です
認識に対象化された自然はそのままの自然では無い
認識器官という物理状態に生成した像に過ぎない
一を多で規定する
一は濃淡はあるが差異でしかない
〜で規定するが〜は自然には無い
静止、生死、終始
同じことだが次元
力は存在しない
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥してまた差異のある濃淡を生成していく過程
それだけです 疲れましたのでここまでにします
一を多で規定するというのがわたしの主張です 疲れましたのでここまでにします
一を多で規定するというのがわたしの主張です でも
地球上の全ての人間の認識を操作して
ラピュタの立体VFXを脳内にリアルタイム映像挿入しても
地球にラピュタ現れたりしないよ? 認識器官は物理状態
ある物理状態が認識器官という物理状態に生成した像ということ
諸生物の認識器官には差異が有るがどれが正しいということではありません 認識する物理状態を呈する器官が
物理的にあるから認識内容が
物理状態に像を生成するなら
その機構を物理的に示さないとなぁ
ないなら認識器官は物理状態という
前提が物理的に成立しない
「ということ」と納得してる状態に
すぎないので・・・