妄想科学革命試論 自然過程説の展開
半世紀前に現代物理学は健全ではないとハイゼンベルク、武谷三男氏は語り、三十年前ラーナーは科学革命が必要だと述べ、竹内薫、茂木健一郎氏もまたある僕で新たな考え方が求められているとある本で書いています。
今世紀に入ってジャーナル立花隆氏は量子力学の分野では新たな理論が求められているとテレビ番組で話しています。
インターネットの巨大掲示板では研究者らしき人が最前線は混乱中で光が見えないと投稿しています。 前世紀の九十年代にドイツの科学者は時間が存在しない可能性について述べいます。
今世紀に入って時間は存在しないと主張する科学者たちが出現しています。
それどころか重力は見かけの力だと理解する科学者さえ出現しています。
素人のわたしは生きている間にこれらの問題の解決を目撃したいと望みますが、可能性は薄いかと考えています。
そこでわたしは物理学の基本から考えた無矛盾な自然観を作ることにしました。
無謀なことは承知していますが、科学は究極の無政府主義が必要だと主張するファイアアーベントを盾に展開することにします。 『失敗の科学史』では科学者は発見した対象を必ずしも理解してはいないことを明らかにしています。
十九世紀末にアメリカの天文学者は火星に『運河』を発見し、酸素を発見した科学者は酸素が燃素説を否定したことを理解しませんでした。
一番有名なのは天動説です。
ブラウン神父は十の証拠からは十の理解が生じ、正しいのは一つだと語ります。
わたしは自分が納得する理解をすることにします。 無矛盾な自然理解を前提にわたしが理解したい諸問題を取り上げることにします。
無矛盾な自然観を提供するとわたしが考えている物理現象は光速度一定の原理です。
なぜならこの原理は自然に座標原点、つまり静止の存在を否定しているからです。
つまり運動は自然の存在形態なのです。 天体観測では地球が静止していると仮定して様々な天体の動きを理解します。
ここで唐突ですがウィルスという分類困難な対象を取り上げます。
わたしはあなたではありませんが同じ人間です。
人間は植物ではありませんが同じ生物です。
生物は非生物とは否定関係ですが同じ物理存在です。
空間はディラックの海からエネルギーの一形態と考えられます。
量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡の海です。
つまり自然現象は濃淡、つまり差異で、わたしたちは否定関係で規定しているということです。 光速度一定の原理は座標原点の存在を否定しますが同時に座標原点、つまり静止で規定理解することを示します。
天体観測は地球が静止していると仮定することが必要ですがその仮定は否定されますし、このことは光速度一定の原理が運動は静止で理解されるが静止は否定されることからその正当性が裏付けられます。 自然は光速度一定の原理が示すようにその存在形態は運動で無矛盾で理解可能ですが規定自体は対象の否定です。
運動は静止で規定します。
ウィルスは生物非生物と対象を否定関係で規定するから分類しがたい対象として在りますが、その困難は差異を否定で理解するからです。
つまり規定理解することが原因です。 規定は否定であると哲学者スピノザは述べたそうです。
ウィルス分類でわかるように、自然は無矛盾ですが否定で規定することから様々な問題が出来するのであり、なんら対象である自然の問題では無いと予想できます。 >>1
その試論は物理に関する誤解をいろいろ含んでいるように思われる。たとえば
>>6
光速度一定の原理は座標原点の存在を否定します 自然自体は無矛盾ですが濃淡のエネルギーは反発親和の過程で様々な物理状態に生成されます。
観測問題はある物理条件下で波が渦の状態に生成され粒子として現象します。
素粒子、人間、地球、銀河系。
自然はその運動変化の生成過程として存在します。 不確定性原理は認識の在り方の問題です。
微分積分では0に限りなく近いが0では無いこという理解しがたい規定があります。
座標原点は運動の否定ですが自然の存在形態は運動ですから、有を無、つまり否定で規定しますから決定不能となります。
エネルギー保存則の破れが言われますが、測定は近似値でしかあり得ませんし、自然以外存在しませんから何処にも行きようがありません。 光速度一定の原理は物理としての始まりを否定します。
座標原点の存在を否定しますから。
たとえば誕生は物理状態の変化で物理として増えませんし、死も同様で何も減りません。
<物理>として生死はないのです。
自然は運動変化の生成過程として存在しています。 >>10
意識は自然が自己言及可能な物理状態に生成されたということです。 座標原点の否定は0次元、つまり次元の出発点が否定されたということです。
次元自体は自然には存在しません。
次元は無限である自然を有限という否定で理解する頭の中だけの存在です。
つまり無限である自然を有限という無で規定理解します。
座標原点の否定は<ここ>からがありませんから<ここ>までも存在しません。
つまり自然は無限なのです。 自然は濃淡ですから境目は存在しませんが認識能力の限界から三次元して現象します。
時間もまた存在しません。 時間もまた認識の在り方から必要になる次元です。
詳細はまた論じます。 >>5 天体観測では地球が静止していると仮定して・・
いつの時代の話ですか?? 自然は運動するエネルギーの濃淡の海です。
重力は濃淡として存在する物理存在の距離関係変化に必要なエネルギー量です。
諸力はそれらの物理状態に生成に必要なエネルギー量です。
つまり力は存在しません。 最小単位は存在しません。
物理条件が生成可能なら幾らでも小さくなります。
自然は最小単位からなりません。
<ここ>から、つまり座標原点始まりはありません。 わたしは自然は運動するエネルギーの濃淡であり無限だと理解します。
ここからここまでは存在しません。
次元は存在しません。
最小単位は存在しません。
重力は運動に代えて、他の力は物理状態の生成に代えて理解します。 濃淡のエネルギーが親和反発の過程を経て様々な物理状態に生成していくということです。
重力も諸力もその過程を理解するためのものです。
次元は濃淡が個々として現象する物理対象の抽象です。
自然は運動するエネルギーの濃淡の海であり「一」です。 「一」である自然をわたしたちは「多」で規定します。
規定の本質は否定です。 ウィルスは生物非生物と分類困難な対象です。
生物非生物は物理状態としては差異であり否定関係ではありません。
わたしはあなたではありませんが物理としては差異で否定関係ではありません。
生死は物理状態としては差異で否定関係ではありません。 空間もまた運動していますし、ディラックの海から考えてもエネルギーの一形態です。
光速度一定の原理は静止の存在を否定します。 つまりわたしたちを含め自然は「一」です。
全てはエネルギーの一形態です。
その差異を否定で規定します。
この規定の本質が理解に様々な困難を生じさせるということです。 粒子は波がある物理条件で渦に生成された、つまり差異であり否定関係ではありません。
最小単位は存在しません。
物理条件が生成可能なら幾らでも小さくなるだけです。 あなたはわたしではありませんが物理としては差異であり否定関係ではありません。
わたしは物理状態として同一であることはありませんが「同一」で規定します。
宇宙は運動変化していますから同一ではありませんが「宇宙」と同一で規定します。 「存在」という規定が静止であることを示すのが「飛ぶ矢の逆説」
自然は数で、「多」で出来ているというピタゴラス派に対し「一」だとするのがパルメニデスの哲学 「競技場」の逆説で最小単位があったらその半分が存在する、つまり最小単位は存在しないと証明する。
ピタゴラス派は数には部分が無いとする。
二分の一の逆説で無限は数え尽くせないし到達することは無いし、アキレスと亀に逆説でアキレスは亀を追い抜けないと証明する。 「飛ぶ矢」の逆説では飛ぶ矢は空間の一点に必ず存在するが、静止も空間の一点に存在することだから飛ぶ矢は静止、つまり飛んでいないと証明する。
この逆説は世界が数で出来ているいるならこうなるから世界は数で出来ていない、つまりパルメニデスは正しいと証明したのです。 光速度一定の原理は座標原点の存在を否定し、自然は運動するエネルギーの濃淡の海、つまりパルメニデスの理解は正当なことを裏付けます。
しかし座標原点で理解規定することは否定しません。 対象をその否定で規定することは様々な問題をもたらします。
古代ギリシャはこのことを「クレタ人の逆説」で端的に示します。 クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った。
これは「クレタ人は嘘つきだ」という対象をクレタ人自身が規定したのです。
つまりクレタ人は嘘つきだとクレタが真理を語ったのですがクレタ人は嘘つきだという規定は否定されます。
しかりしクレタがクレタ人が嘘つきだという真理もまたクレタ人が真理を述べたことで否定されます。 >>33訂正
> クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った。
> これは「クレタ人は嘘つきだ」という対象をクレタ人自身が規定したのです。
> つまりクレタ人は嘘つきだとクレタが真理を語ったのですがクレタ人は嘘つきだという規定は否定されます。
しかしクレタ人は嘘つきだという規定がクレタ人が述べることによってクレタ人は嘘つきだという規定が否定されます。
クレタ人は嘘つきですが嘘つきではありません。 数学ではこのことを決定不能と言いますが、哲学では矛盾と言います。
哲学者ヘーゲルは「運動とは存在すると同時にしないこと」と定義しました。
この定義は運動をその否定である静止で規定するからです。 飛ぶ矢は必ず空間の一点に存在します。
静止もまた空間の一点に存在するわけですが静止自体は自然には存在しません。
静止は運動する物理と物理の均衡状態であり、運動の一形態です。 規定は否定です。
存在するとは運動を静止で規定することですから決定不能、つまり存在すると同時に存在しないという規定になります。
ヘーゲル哲学の矛盾は数学でいう決定不能です。
パルメニデスが主張するように世界は点、つまり数で出来ていません。
あるとしたら運動は否定されます。 >>1-37
ここは物理板。ポエムはメンヘラ板逝け 「一」である対象をその否定である「多」で規定します。
このことが様々な問題を出来させます。 対象である自然の存在形態は運動です。
それを否定である静止で規定します。
微分積分で0に限りなく近いが0ではないと規定するのは、運動という有を静止という無で規定しますからこのような規定になります。
つまりこれも決定不能ということです。 不確定性原理は測定は運動する自然を静止で規定しますから、どうしても近似値にならざるを得ません。
朝永博士が語るように物理学の自然はたわめられた自然ということです。 近年エネルギー保存則の破れが言われますが測定は近似値ですし、また自然以外存在しませんから何処にもきえようもありませんし、また増えようもあり得ません。 カントの二律背反は自然を運動の否定、つまり静止で理解するからです。
時間は規則的に運動する物理存在で測ります。
有を無で規定しますから決定不能になり、また運動量にします。
自然は現在しか存在しません。 光速度一定の原理は自然理解の導きの糸は運動であることを指示します。
つまり「現在」もまた運動から理解します。
自然には現在しか在りません。
過去は過ぎ去り未来は未だ来ていません。
現在とは運動そのもので自然の存在に伴いますから自然の在り方の側面です。 自然は運動するエネルギーの濃淡の海です。
対象の様々な側面を抽象したのが次元です。
力一般もそうです。
自然は「一」です。
天動説は静止と運動が存在するという過ちを犯しました。
今また科学は始点、始まり、静止が存在するという現代版天動説のビッバン仮説を信奉しています。 座標原点を科学は否定しますが天動説であるビッグバン仮説は始まりの存在を主張します。
自然科学は自然が対象ですし対象が自然、非自然と否定関係が存在したら矛盾して理解不能になります。 自然科学は天動説が犯した誤謬をまだ反省しきれていません。
理解する媒介である次元を未だに存在すると理解しています。
次元、諸力は自然の在り方の側面の抽象で独立して存在してはいません。 「妄想」ですから。笑
対象である自然は無矛盾だと前提します。
有限、つまり「ここ」からは存在しない。
自然は無限で存在しない有限で理解する。
対象は矛盾しないが規定は否定。
クレタ人の逆説で解るように決定不能となる。
しかしそれは自然が無矛盾だから。 無限を有限で理解します。
物理学の自然はたわめられた自然、つまり理論は自然自体ではありません。
朝永博士は有限で自然を理解すると語ります。 科学理論は意識された天動説です。
光速度一定の原理は座標原点を設定するが座標原点は存在しないことを、つまり基準なき自然に基準を設定して展開して基準は存在しないとことを示す。 自然理解の導きの糸は運動です。
あらゆる方程式は始点と終点はカットして理解すべきです。
終始は存在しないのですから。 自然は運動変化する過程として存在します。
生死は自然には存在しません。
他の物理状態から生成し、また他の物理状態に生成して行くだけです。
ケーキは他の物理状態から生成され他の物理状態に生成される過程として存在します。
人もまた。 光速度一定の原理は対象である自然の無矛盾、つまり理解可能ですが、対象の否定で理解します。
つまり決定不能です。
理解可能だから決定不能に成るのです。
対象の自然に理論は存在しません。
理論は認識ですから間違えます。 >>51
> 「妄想」ですから。笑
鬱陶しいつうの。メンヘラ板にでも逝けや、知障 数には大きさが無い
0=∞
自然には存在しない
次元は理解の媒介で存在しない
次元で理解するが次元は存在しない いろいろまだまだなんじゃないかなあ
鴎外の過ちは現在を固定するから
学問もまた過程
そして過程自体は過程では無い
変化すること自体は変化しないってこと まだお付き合いしてくれるのかなあ
まだまだ続きますから
お付き合いお願いします
野次でも無いよりましですから
一人でいるくらいなら
悪魔と一緒に居たい口です これからも構ってください
張りがありますから
観客無しはさすがに 笑 過去に研究者らしき人が最前線は混乱中なんて投稿してました
日本人がノーベル賞受賞した時でした 時間は定期的に運動する物理が基準で測ります
他次元は物理存在の抽象です
次元は物理の抽象です
つまり次元は頭の中でしか存在しない
次元は物理存在の抽象で物理の大きさ、運動を測るわけです >>66
アホが意味も分からずに貼ってんだな。
ミューオンの異常磁気モーメントは、電子では無視できた弱い相互作用と強い相互作用の計算が難しく
20年前に実験値と合わないことが分かっていた。今回のは実験装置を流用して測定を積み重ね、統計誤差を少なくした(系統誤差はそのまま)、ってだけの話。
そもそも強い相互作用の項は理論計算じゃなくて別実験からの間接計算によるものだし、存在が期待されてるSUSY との相互作用も入っていない。
>>69
気色悪い、死ね 〜に成るって理解してます
最小単位の否定です
「ここ」からが自然には存在しないし 無は存在しない
無は文字通り無
有を無で理解する
規定し否定です 再掲
>>55
> 自然は運動変化する過程として存在します。
> 生死は自然には存在しません。
> 他の物理状態から生成し、また他の物理状態に生成して行くだけです。
>
> ケーキは他の物理状態から生成され他の物理状態に生成される過程として存在します。
> 人もまた。 自然は一だが差異です
その差異を否定で規定する
だからいろんな難問が生じる 大前提として自然は無矛盾、つまり理解可能だと
しかし規定は否定です
クレタ人の逆説です
決定不能です 現代科学は未だに天動説です
あらゆる科学理論は自身が天動説であることを自覚して天動説であることを免れる 天動説
〜で理解しているが〜は存在しない
現代科学も同じです 単位で理解する
単位は存在しない
最小単位は存在しない 次元は物理存在の抽象です
時間もまた次元
つまり存在しない 物理として何も生まれない、無くならないのに
何故宇宙が生まれるのか?
宇宙もまた生まれ無いってことです
また無くならないんです 次元は物理存在の抽象
それで理解するが存在はしない
時間も物理存在の抽象
規則的運動する物理存在で測定する
それでで比較可能に
運動は理解の導きの糸 0次元は存在が否定されている
一次元、二次元、三次元は皆運動しないし
四次元 運動しない三次元が無限に存在したら運動する?
諸次元は認識には必要だが座標原点同様に存在しない 222 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 07:57:38.45 ID:5TLO0S/L0
次元て物理存在の抽象だからなあ
0次元は存在しない
一次元、二次元、三次元
厚みが無いとかいろいろないし
三次元は運動しない
点の集合なら四次元は運動しない三次元が無限に存在するってことに
次元はないないづくし
抽象して次元を作るから次元自体は存在しない
四次元も例えば太陽が真上から次に真上に来たら一日にして、と時間を作る
時間自体は他次元同様存在しないってことじゃないかな 224 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:00:37.26 ID:5TLO0S/L0
次元は物理存在の在り方の抽象で存在しないんじゃないかな
次元で対象を規定理解するが次元は対象の抽象
四次元も他次元同様 225 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:04:15.41 ID:5TLO0S/L0
物理としては
生まれる→物理状態の変化
死ぬ→物理状態の変化
物理としては何も生まれないし無くならない
ケーキみたいに物理状態が変化して行くがケーキが死ぬ生まれるって言わないし
人間も物理としては同様 226 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:09:07.65 ID:5TLO0S/L0
四次元は存在しないが四次元で理解する
三次元は対象の大いさ
四次元は対象の運動量
理解や比較対照基準として、物理存在を抽象して存在しない次元を作る
座標原点て存在しないし
出発点が存在しないのにどうして他次元が存在するってことです 227 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:13:02.43 ID:5TLO0S/L0
自然には座標原点が存在しない
てことは終始が物理として存在しないってこと
存在したら光速度一定の原理の否定
最小単位説は怪しい
「ここ」からが無いから 228 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:15:45.68 ID:5TLO0S/L0
人間を含め物理存在は他の物理存在から生成され他の物理存在に生成する過程として在るだけ
現代科学の基本にわたしは懐疑的です 229 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:21:53.47 ID:5TLO0S/L0
ヘーゲル、太宰治は今と指示すると今は飛び去ると書いている
数学の0に限りなく近いが0ではないとか
直接捉えられないからそれで量で理解するために時間という次元になる
時間が存在するってのは疑問だ 230 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:26:16.19 ID:5TLO0S/L0
物理学の自然はたわめられた自然
ー 朝永振一郎
運動する自然を静止で規定するから 次元は物理存在の自己言及的側面があるかな
詰めてはいないがそんな気がする
自己の抽象で自己に言及する・・・ あれこれ決めつけないことが肝心じゃないでしょうか
外野はそんな感想を抱きます 物理対象を抽象して次元を創造する
創造した次元は自然には存在しない
時間は四次元です
時間もまた存在しない ウイルスは物理としての差異を否定で規定するから分類し難い対象に
学問で解決されていない問題は規定すること、理解すること自身から出来する 自然は多ではなく「一」
つまり運動するエネルギーの濃淡
濃淡は差異でありそれを否定関係で規定する 濃淡は親和反発の過程を経て様々な物理状態を呈する
素粒子、生物、金属、惑星、銀河系など
みな過程で生成され、また違う物理状態に生成されていく
それだけです 同一を非同一 物理としてあなたとわたしは差異だが同一
非同一を同一 わたしは物理として同一であることはないが同一で
運動を静止 座標原点、つまり運動を静止で
無限を有限 自然は座標原点、つまり静止は否定されている つまり無限
その無限を0次元を設定して終始、つまり有限で様々な物理状態を規定する
有限を無限 数学
つまり規定は否定 観測問題、不確定性原理、最小単位、宇宙論、量子力学
ゼノン、カント、ヘーゲル
不完全性定理
生物分類
規定すること自身の問題が様々な問題が出来するのだと 量子力学の自然観、つまり運動するエネルギーの濃淡だということです
「ここ」からは存在しません
有限、最小単位は「ここ」からが存在しないから自然には存在しません
自然は差異ですが多として認識に現象するだけです >>94
科学というか学問が自己言及です
意識は自然が自己言及可能な物理状態です 自然は無矛盾です
ゆえに無限です
否定関係は存在しませんが否定で規定します
無矛盾ですが差異として存在し多として現象します。 次元は物理存在の抽象
次元で物理存在を規定理解する
次元は物理存在の自己言及かな?
まあ学問自体が自己言及ですから
ああ結局決定不能は本質ですね 決定不能は対象が無矛盾だから
そうでないと決定不能と決定することは不能 対象が矛盾したら理解不能
自然 非自然
まあ存在という規定が無効だから
非自然の存在ということ自体が成立しない
宇宙の限界とか無の存在とか否定関係存在はあり得ない
存在したら存在という規定自体が無効 生と死
終始
自然には存在しない
認識の在り方が要請するから 理解が成立する条件、大前提を守れば良い
光速度一定の原理は座標原点、つまり静止の存在を否定している
つまり自然は無限で、運動している、つまり無矛盾だと証明している 次元
一ではあるが差異としてある自然が認識の在り方で多として現象する物理存在の抽象
とりあえず 科学は自然の自己言及です
つまり規定ですから否定、決定不能です
規定とは対象をその否定で、ということだからです
クレタ人の逆説です
光速度一定の原理は座標原点、静止で運動、つまり否定で理解して、静止の存在を否定します。
この原理は自然が無矛盾であることを示し、規定は否定であることを示します 医師になるのは、めちゃくちゃ簡単だよ。
どんな馬鹿医大でも国家試験の合格率7割以上はあるし、自治医大以上ならほぼ100%。
弁護士の場合は難関ロースクールを卒業しても、国家試験を通るのは10%程度。
医師になるには金と時間がかかるが、試験自体は簡単。
うちは従兄弟三人医師になったが、英検二級すら落ちるレベルの頭だからね。
医師国家試験の合格率ランキング見てみ。
一番低い帝京大学ですら、79.4%。
奈良県立大以上の偏差値の25校は95.0%超え。
これのどこが難関試験なの?
医学部に学費を支払える財力のハードルが高いだけで、医師にはバカでもなれる。
弁護士、司法書士、会計士、英検1級あたりは、バカには絶対に無理。
まとめると
医師国家試験→バカでも受かる。しかし、医学部6年間で1,000万以上かかる学費のハードルが高い。
司法試験→ロースクール卒業しても、合格できるのはごく一部。非常に難関な試験。
司法書士→ロースクールに行かなくても受験できるが、難易度は司法試験並み。
英検1級→英語がずば抜けて優秀でないと合格できない。英語の偏差値100必要。(実際にはそんな偏差値はないが)
会計士→おそらく、最難関試験か。会計大学院修了者の合格率は7.6%しかない。
不動産鑑定士→鑑定理論が地獄。単体の科目としては最難関の一つ。経済学などは公務員試験より簡単か。 自然は無矛盾で理解可能ですが規定は否定ですから無矛盾は規定が否定されることで証明される
そして決定不能です 自然は運動するエネルギーの濃淡です
無限であり濃淡の親和反発でにより物理状態が生成されまた親和反発により違う物理状態に生成していく過程としてある
重力、諸力の否定です
重力は運動関係変更に必要なエネルギー量
諸力はある物理状態生成に必要なエネルギー量
一体である自然の在り方を分離理解する
「ここ」からがない
つまり「ここまで」もない
有限の否定、最小単位の否定 運動関係変更の過程で親和反発を経て違う物理状態に生成していく過程が自然
それだけです >>117
親和反発の過程で運動関係が変化していく過程でもあるかあ
「一」です 最小単位説は怪しいです
「ここ」が無ければ「ここ」までもない
自然もまた無限です 新約聖書学、数学、共産主義の結論は論理から一元的に理解可能かもしれません
創造神なら無矛盾
数学は規定は否定、自己言及
共産主義はトップダウンではなくボトムアップ
この観点から結論が導けるのだと
論理の在り方、成立条件です 新約聖書学、数学、共産主義の結論は論理から一元的に理解可能かもしれません
創造神なら無矛盾
数学は規定は否定、自己言及
共産主義はトップダウンではなくボトムアップ
この観点から結論が導けるのだと
論理の在り方、成立条件です 新約聖書学、数学、共産主義の結論は論理から一元的に理解可能かもしれません
創造神なら無矛盾
数学は規定は否定、自己言及
共産主義はトップダウンではなくボトムアップ
この観点から結論が導けるのだと
論理の在り方、成立条件です ’〜は無矛盾”と主張する宗教・主義は論理矛盾してるというのが不完全性定理の結論だ。
キチガイ信者は論理思考ができない脳みそだから矛盾だらけあたりまえ 認識器官に結ぶ像=自然ではない
地動説、進化論、光速度一定の原理
言葉はそのまま自然を表現しない
物理として、静止、生死、終始、無は自然には存在しない
認識の在り方を相対化してきたのが自然科学
静止、生死、終始、無で規定することを自然科学は明らかにしている
〈わたし〉は貴方では無いが、人間
人間はサル、犬0、植物、金属、水ではない
物理状態の差異を否定で規定する
わたしは産まれてから現在に至るまで同一であることは無いが同一のわたしと規定する
自然の全ては同一であることは無い
同一であることはない自然を同一として規定する
クリスティーはミス・マーブルに
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
両方ともに真理だと語らせる
規定とは否定だから ウイルスは生物非生物と分類困難
生物非生物は物理状態の差異であり否定関係ではない
生まれるとは物理状態の変化、死もまた
つまり生死は否定関係ではない
科学者は死は特定困難と語る
生死、終始は物理には存在しない
静止は運動の一形態を否定関係で規定する言葉
不完全性定理もまた否定で規定する
つまり自己言及、自己を他で規定するから
クレタ人の逆説の本質
自然科学は自然の一部である人間の自己言及
光速度一定の原理は静止は実在しない
つまり自然の存在形態は無矛盾
静止で運動を、つまり否定で規定する
規定は否定であり対象には存在しない
静止は自然には存在しない
規定の存在が否定されて自然が無矛盾であることを示す
ウイルス問題は規定するから
規定するからこその不完全性定理
不完全が完全だから〈定理〉になる
不確定が確定するから〈原理〉
自然という対象が無矛盾
それを否定で規定するから決定不能になる
不確定性原理は運動を静止で規定するから 自然科学は自然認識であり、認識を相対化してきた
地動説、進化論、エネルギー保存則、光速度一定の原理
不確定性原理も認識の在り方の相対化
論理により対象化された自然はそのままの自然ではない
科学者は認識の在り方を考えるべき 繰りかえす
認識器官に結ぶ自然の像はそのままの自然ではない
言葉、論理もまた
自然科学は自己言及
自己言及の本質を考えるべき 決定不能はなんら対象の問題ではない
決定不能と決定するとはどういうことか
それは対象が無矛盾だから
不確定性原理もまた
論理はそのまま自然を反映しないことを示してきたのが自然科学の一側面 様々な理解困難な対象が出来するのは否定で対象を規定するから
ウイルスは生物非生物と分類困難なのは生物非生物と分類するから
なんら対象の問題ではない 地球文明は太陽を高熱源、星間空間を低熱源とした熱機関 ごめん
今の文明は
おちんちんランド的に
HENTAIかな
EVじゃなく 自然科学の一側面として認識の在り方の相対化の歴史があるとわたしは理解している
天動説は見たもの=自然という理解
この素朴認識論というべき理解は現代科学はまだ払拭していないのではないかということ
地動説、進化論、エネルギー保存則、そして光速度一定の原理は素朴認識論の終わりでもある
不確定性原理は測定値の相対性を示す
それは運動を静止で規定するから
0に限りなく近いが0ではないという規定
観測問題は認識器官に結ぶ像の相対化、つまり観測したものがそのままの自然では無いという地動説の系譜
自然の一部である人間の自然理解は自己言及
自己を他として認識する、クレタ人の逆説、不完全性定理
光速度一定の原理は静止で運動を規定し、静止は実在しない、つまり認識の在り方の自己言及
否定で規定し、静止は実在しない
有を無で、一を多で
ウイルスが分類困難なのは分類するから
決定不能もまた規定するから
自然は無矛盾であり、規定するから決定不能に
決定不能と決定する
自己を他で規定する
有を無で・・・
自然科学は自然が無矛盾だとすでに示している >>139
>自然科学は自然が無矛盾だとすでに示している
アホ
マトモな人なら人間と自然科学などは物理宇宙(自然)の中に含まれた極一部だと理解している
自然科学は論理構造だから、物理宇宙(自然)が無矛盾だと証明不可能なのだよ。
つまり、論理数学の不完全性定理が成り立つ。
ところがお前のような
宗教、オカルトは元々論理無視の絶対真理ありきだから、’〜は無矛盾だ’
と言葉悪戯で主張してるだけだ。 アホな奴ほど妄想したがる 日本人社会は歴史的に論理思考が重要とされず、自然科学も自ら生み出せなかった。
幕末明治維新で欧米から科学技術を大量に輸入したが知識偏重で論理的な科学思想が
日本人大衆に普及しなかった。
たとえば
太陽は東から昇り西に沈む、物が地面に落ちる、水に軽い物が浮き重い物は沈むなど
言葉で幾ら寄せ集めても物理学にならない、ということだ。 >>141
宗教やオカルト信者がいう神や人の霊魂が、物理宇宙を超越した存在であるなら
それらを自然科学の方法で研究・解明は不可能である
さらに物理法則で造られたデジタルコンピュータ、AI、量子コンピュータは
霊魂・意識が操っている人間を超えるのは不可能になるだろ
それが間違ってることは分子生物学、画像音声認識、チェス、囲碁、将棋などでAIに
人間が勝てないことから証明されている。 人間は自然の一部だからなあ
人間自身を知ることは自然を知ることだし
自然を知ることは人間を知ることでもある
対象が矛盾したら理解不能だし w
一部だが全部
全部だが一部 w 認識器官に結ぶ像はそのまま自然ではない
認識の相対化の歴史が科学の一側面
絶対座標の実在否定が語ること
静止の実在は否定されている
自然の存在形態は運動だからそこから否定関係は導けない
無、真空はエネルギーの基底状態と理解されるべき
この原理は終始が実在しないことを示す
認識が相対化されている
規定の実在が否定されて無矛盾が示される
静止、生死、無、終始で認識するがそれらは自然には実在しない 自然あるいは世界は、無矛盾ではない。
世界は矛盾を含んでなお成立している。
人の論理的思考は矛盾を克服できないが、
世界にとって矛盾など些細なことだ。 ゲーデルの不完全性定理は、ひとつの公理系では
世界を記述できないと言っているのだ。
物理学も同様。ひとつの物理学理論では、
自然を完全に記述することはできない。
互いに矛盾するかも知れない複数の理論で、
やっと自然を記述できる。 物理学の危機的状況が多くの人々に意識されているのが現状だ。
@超弦理論は待たされて過ぎている。もう見込みがないだろう?
Aジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡で、現状理論に反する観察が続々と。
Bテクノロジーを革新するような物理学上の大発見が無い。 不完全性定理もまた自己を他で規定するから
自己言及はフォイエルバッハを経て三浦つとむが解明している
対象が矛盾したら理解出来ない
自然、非自然が存在したらさ w
差異を否定で規定する
規定することが決定不能の原因
だから規定が否定されて対象が無矛盾ということになる
ウイルス問題と同じこと
生物非生物と差異を否定で規定するから
規定すること自身の問題
認識の在り方の相対化ということ 認識の在り方を理系は考えないから観測問題、不確定性原理が解らない
不完全性定理は決定不能と決定
不確定性原理は不確定と確定
何もかも解らなくなったと理解する人が居る
いやいや解らなくなったことは解る
不確定自身は確定している
それが何を意味するのか 認識の在り方を理系は考えないから観測問題、不確定性原理が解らない
不完全性定理は決定不能と決定
不確定性原理は不確定と確定
何もかも解らなくなったと理解する人が居る
いやいや解らなくなったことは解る
不確定自身は確定している
それが何を意味するのか 人は自分には理解できないことを理解しようとしている。
世界の理解は、しょせん人の能力を超えているのだ。
次善の手段は、せいぜい矛盾を含まない複数の理論で世界を把握するしかない。 自然には理屈はないし、規定も論理も無い
無いもので有るものを規定する
否定で規定するということ
静止、生死、無、終始・・・
自然はただ在る
運動とは存在すると同時に存在しないこと
存在もまた規定
有るもので無いものを規定する
対象と規定との関係
無矛盾であるが故の決定不能
決定不能と決定するとは
・・・眠い 可知であるがゆえの不可知
対象は無矛盾で可知
対象をその否定で規定するから決定不能
自己を他で規定する 世界に隠されたものはない。すべてが露だ。
つまり、自然には法則がエンコードされてはいない。
法則を作るのは人間の側だ。それが成功する保証はまるでない。 人間が法則を作る? w
人間は自然の一部
自然が生成した物理状態
人間の認識に対象化された自然から法則性を抽出して法則と認識するだけ
その認識の正否は対象である自然が答えを出す
あくまでも自然が問題になるだけ 認識=自然ではないということだけど
自然の一部である人間が自然を認識する
つまり自己言及
自己を他として、つまり否定で規定する
決定不能は規定するから
規定しなきゃ決定不能にはならない
光速度一定の原理は静止は実在しないことを示して自然が無矛盾である事を示した 科学者は死が何時からかは特定困難と語る
ワインバークは宇宙の始まりまであと僅かにまで迫っていると語った
しかし研究グループは未だに
無理です
物理として死も始まりも無いから 現代の科学は自然科学の認識の在り方の相対化の歴史という側面に未だに気づいていない 不完全性定理、不確定性原理、観測問題はいずれも認識の在り方の相対化
光速度一定の原理からこれらは理解出来る
この原理は自然と認識の関係の本質を示している 静止、生死、無、終始で規定するがこれらは実在しない
それは認識器官に生成された像で自然には実在しない
それで規定認識するがそれは実在しない
地動説は認識の相対化の端緒であり光速度一定の原理は終着
理数系は認識の在り方を考察すべきでしょう 何年か前に基本的な原理が破れたという報道があり科学界を震撼させたが実験装置の不備という結末に
光速度一定の原理は今でも実験され確認作業は続いているとあった
不確定性原理は認識の在り方を浮き彫りにしている
静止で運動を規定しているという認識の在り方を考えれば自然をそのまま認識していないから近似値にしかならないというのは当り前
保存則の破れでは無い、認識の在り方を浮き彫りにしただけ
静止が実在したら光速度一定の原理は否定される
また終始は実在しないから無限であり保存則は破れたとしたらエネルギーはどこにいくのやら
異次元という理解は無し
次元自体が実在しないのだから ある物理条件ではある物理状態はこうなるというだけ
それが成立しなかったらその認識が間違っているというだけ
光速度一定の原理は次元の実在を否定する
四次元が実在したら三次元、つまり静止したわたし、自然が無限に実在することになる
運動を静止で認識するということ
此処、今と指示すると此処、今は飛び去る
此処、今という規定は静止
有は無で規定される
0に限りなく近いが0ではないという規定は必然
だから量で運動は理解されるということ
一年が実在しないのなら一秒もまた
時間は運動量で定期的な運動をするもので測られる
地球の寿命、人間の寿命などなどは尽きて違う物理状態に成ったらカウントし直される
0次元の実在は否定されているし、ならば四次元も実在しない
次元で理解するが次元は実在しない
絶対座標は実在しない
認識の在り方は理解されるべきかと 科学者は自然が無矛盾であり理解可能だと証明するのが究極の目的だし
しかし規定、理解することが宿痾であり決定不能となる
無矛盾で理解可能だが、理解すること自身が決定不能をもたらす
決定不能は理解可能だからこそ
だから〈定理〉なのだと 自然認識が科学
認識したものがそのまま自然ではない
対象ー認識ー理論
認識の在り方が当然理論に反映する
だから認識の在り方は考察する必要がある 目の前の自然は静止して見える
終始は存在しているように見える
物理として生滅は存在しているように見える
科学はいずれも物理としてこれらの存在は否定する 自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発してまた違う濃淡を生成する過程と理解する
根拠は光速度一定の原理
また進化論しかないのだと示す
そこから古代ギリシャ、ドイツ古典哲学の諸難問が解決する
また理数系の観測問題、不確定性原理、不完全性定理をどう理解すべきかを示すことが出来る
ビッグバン仮説の根拠はいずれも確かなものではない
対象は無矛盾、エネルギー保存則、光速度一定の原理、これらを否定するこの仮説には与せない
自然は無矛盾で理解可能ならこれらは守られなければならない
またこれらを否定するというたしかな事象は観測されたことはない 最小単位は無い
〜になるということ
それは認識器官に結んだ像でありそのまま自然ではない 再度、言おう。
自然に矛盾があっても構わない。いやあるに違いない。
自然は矛盾など気にかけない。自然は矛盾を超越している。
「論理」などというものは、ヒトの小賢しい能力に過ぎない。 自然(世界)は論理も非論理も含むのである。
そしてカオスと非カオス(規則性)も含む。
ラムゼーの定理からすれば、ランダムな世界には、
必然的に規則性が出現する。 "TOE(The Theory of Everything=万物の理論)"は存在しない。
存在するのは"Theories"である。
"A theory"で説明できない事象があるのは、不完全性定理が示すところ。
かろうじて"Theories"で自然(世界)を記述できるのみ。
それでも全てではない。 それは「不可知論」とはちょっと違う。
理論(複数)は、永遠に増殖し、進化し続けるしかない。
そして、その理論も進化論的淘汰圧を受け、生まれ、消えてゆく。 人間が、世界を不完全にエンコードしたのが「物理学」である。
世界(W)は現象(pn)の集まりであり、それ以上でも以下でもない。
つまり、
W = (p1, p2, p3,・・・・} (外延)
であり、
W = {God} (内包)
であり得ない。
物理法則は人間がエンコードした人工物であり、
W = {Theory of Everything}
はありえない。 世界は刻々に消滅し生成している。つまり現象が生起している。
だから、生は状態であり、死も状態である。
しかし、人の「念」は続く。そして、その「念」は幻想に過ぎない。
その幻想を解消すれば、世界の実態がありありと見えるのだが・・ ヒトは世界を理解するために、まず世界を分節化する。
それが「現象」である。
つまり世界は、外延として
W = (p1, p2, p3,・・・・}
と記述されるのだ。
これはヒトの行為の結果であって、世界の有り様ではない。
次にヒトは、その外延から内包を得ようとする。
W = {Physical theory|p1, p2, p3,・・・・}
これが間違いの始まりだ。無用で不毛なことなのに。 物理として生滅は無い
運動変化が物理の存在形態
つまり運動変化することが常態
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
ミス・マーブルの言葉 わたしが生まれた 物理状態の遷移
わたしが死んだ 物理状態の遷移
生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると語る
わたしは産まれてから現在に至るまで物理として大きく変化しているが同一のわたしと規定
わたしは貴方でも植物でも金属でも水でもないが物理状態の差異であり否定関係ですなく同一
物理として同一を非同一、非同一を同一
規定は否定 不確定性原理はたんにそのまま、=では認識できないということ
一連の科学の認識の相対化ということ
ハイゼンベルクという理数系は自然認識である科学は認識の在り方を媒介ということを理解していない
認識器官に結ぶ像はそのままの自然ではない
有を無で規定するから=近似値でしかない
エネルギー保存則の破れという理解は認識=自然という天動説の末裔
自然以外には存在しないし、次元は実在しないし、異次元などは無い 規定は対象の否定でということ
だから対象の否定である規定の実在を否定して自然が無矛盾であることが示される
規定すること自身が不完全性定理、不確定性原理ということになる
対象が無矛盾だからこそ 自然認識は自己言及
自己を他として認識する
不完全性定理、不確定性原理は認識の在り方の自己言及
規定することの自己言及、つまり規定の実在を否定して無矛盾であることが示される
絶対座標の実在は否定される
静止は否定され運動が自然の存在形態であり、終始は実在しない
光速度一定の原理が示すこと 自然認識は自己言及
自己を他として認識する
不完全性定理、不確定性原理は認識の在り方の自己言及
規定することの自己言及、つまり規定の実在を否定して無矛盾であることが示される
絶対座標の実在は否定される
静止は否定され運動が自然の存在形態であり、終始は実在しない
光速度一定の原理が示すこと 自然認識は自己言及
自己を他として認識する
不完全性定理、不確定性原理は認識の在り方の自己言及
規定することの自己言及、つまり規定の実在を否定して無矛盾であることが示される
絶対座標の実在は否定される
静止は否定され運動が自然の存在形態であり、終始は実在しない
光速度一定の原理が示すこと 自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発してまた違う新たな濃淡を生成する過程
それ以外には何もない
数も次元も力も実在しない
静止、生死、無、終始で規定するがそれらは実在しない
規定は否定、つまりスピノザは正しい
古代ギリシャ、カント、ヘーゲル、観測問題、不完全性定理、不確定性原理は認識するからでありなんら対象の問題ではない
ウイルスは生物非生物と分類困難だが分類するからでありなんら対象の問題ではない
これらもまた 理系は自然が無矛盾だと証明する観測結果をすでに手に入れている
ただ天動説で解るように認識=自然という素朴認識論を未だ脱していない
科学者は哲学を軽視するがその実最悪の哲学に囚われている
十九世紀の大学者の言葉は今でも生きている 自然科学は認識の在り方を相対化する過程でもある
認識の在り方を理数系は考察することを わたし自身は光速度一定の原理が認識を相対化していると考えている
認識自身の実在を否定して認識を相対化する
そして対象が無矛盾であることを示しているのだと
対象は自然だけであり非自然は実在しない
静止は実在しない、生死、終始、無も実在しない
不確定性原理は認識するから
不完全性定理は規定は否定だから
観測問題は認識器官に結ぶ像がそのままの自然ではないことを示す
静止は運動、生死は物理状態の遷移、無は有、それぞれの一形態で否定関係ではない
認識するからということ
自然認識は自己言及
自己を他として認識する
決定不能は認識するから
絶対座標の実在を否定して自然は無矛盾であることになる 一部は全部の一形態であり否定関係ではない
物理としての人間は自然の一形態であり否定関係ではない
差異を否定で規定するだけ生物非生物は物理として否定関係ではない
認識の在り方は考察すべきかと
自然認識は本質として自己言及
自己言及とは、ということ 半世紀ほど前から科学革命が俟たれている
地動説は認識の在り方の相対化
つまり見たものがそのままの自然ではないことを示した゜
認識器官に結ぶ像はそのままの自然ではないということを追及すべきです
認識を相対化することが科学革命に必要だと主張します 目の前の自然は人間という生物の認識器官に結ぶ像です
認識器官に結ぶ像はそのままの自然ではありません
わたしたちは物理状態の差異を否定で規定します
下向して規定、上向して規定
一は多と成り、多は一と成る そうそう「笑わない数学」の数の存在理解はだった
面白かったが、なんか違う気がした 訂正
そうそう「笑わない数学」の数の存在理解は疑問だった
この回自体は面白かったが、なんか違う気がした 自然現象と観測者との関係の変遷
@コペルニクスの天動説 → 観察者の座標軸を転換させた。人から神の視点へ。
Aニュートンの力学 → 引き続き、神の視点からの現象記述。
Bアインシュタインの相対論 → どの観察者も同等の物理学を記述する権利を持つ。
C量子力学 → 微粒子の振る舞いは、観察者との関わりを無視できない。
D将来の物理学 → 観察者と現象の関わりが、さらに劇的に変化するだろう。 自然現象と観測者との関係の変遷
@コペルニクスの天動説 → 観察者の座標軸を転換させた。人から神の視点へ。
Aニュートンの力学 → 引き続き、神の視点からの現象記述。
Bアインシュタインの相対論 → どの観察者も同等の物理学を記述する権利を持つ。
C量子力学 → 微粒子の振る舞いは、観察者との関わりを無視できない。
D将来の物理学 → 観察者と現象の関わりが、さらに劇的に変化するだろう。 粒子は認識器官に結ぶ波が渦の状態ということ
認識=自然ではないということ
認識の在り方の相対化が科学
地動説、エネルギー保存則、進化論、光速度一定の原理などなど
規定が否定されて無矛盾に
観測問題と光速度一定の原理は表裏一体 ウイルスは生物非生物と分類困難
それは規定の在り方の問題
対象の側ではなく規定の在り方
観測問題もまた認識器官に結ぶ像の問題
自然をその認識器官の在り方で結び、そのままではないということ
本質として地動説と同じことを示す
自然科学は認識の在り方を相対化し、不確定性原理もまた認識に在り方の問題だということ ある物理条件で渦の状態になる→粒子として認識器官の在り方で像を結ぶ
否定関係はどこにも無い 「世界−感覚器/筋肉−精神世界」あるいは「外界 vs 内界」
という図式での認識は、今や通用しない。
カントの認識形式ではなく、現象論的な方法が、ついに
物理学でも必要になってきたのだ。 観測というのは、感覚器官という物理状態に光などを媒介に像として結んだということ
あくまでも物理現象に過ぎない
感覚器官は生物により違うが、その違いにより結ぶ像に差異がある
どれが正しい自然ということはない
あくまでも認識器官の差異という物理条件に結ぶ像でしかない 観測というのは、感覚器官という物理状態に光などを媒介に像として結んだということ
あくまでも物理現象に過ぎない
感覚器官は生物により違うが、その違いにより結ぶ像に差異がある
どれが正しい自然ということはない
あくまでも認識器官の差異という物理条件に結ぶ像でしかない 自然科学は自己言及
認識の在り方の自己言及は地動説が端緒
静止して見えるがそれは運動の一形態
またどんなに違って見えても差異でしかない
生物非生物も差異に過ぎない
自然科学は自然の自己言及
認識の在り方の認識、つまり自己言及は必要なのだと 自然科学は自己言及
認識の在り方の自己言及は地動説が端緒
静止して見えるがそれは運動の一形態
またどんなに違って見えても差異でしかない
生物非生物も差異に過ぎない
自然科学は自然の自己言及
認識の在り方の認識、つまり自己言及は必要なのだと 物理条件が違えば対象も違う形に生成するというだけ
粒子は波の一形態
静止が運動の一形態であるように 目の前の自然は認識器官という物理状態に結ぶ像
それ以外ではない
だから認識器官の差異により結ぶ像は違う
あなたの自然は違う生物と同じというわけではない 紐から成るのではない
紐に成るというだけだが紐は認識器官に結ぶ像 自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥して違う濃淡を生成していく過程
それを認識する器官も自然が生成した
徹頭徹尾
最小単位など無い 寝たら意識は
炎天下で運動したら意識は
体を喪失したら意識は
物理条件で意識は違うし変容する
つまり意識は物理の附随現象と考えるのが妥当
違うというのならば、どうぞご自分で試すことをお勧めします わたしは無矛盾に拘りたい
板倉聖宣氏は前提を頑固に守るために柔軟に思考すると語る 不確定性原理は測定するから
測定しなければなんら不確定ではない
不完全性定理もまた対象の問題ではない
自己言及の結果
自己言及は自己を他として認識する
つまり決定不能は必然
有を無で規定するから不確定
有限を無限で規定するから決定不能
ウイルスと同じく対象の問題ではない
認識の側の問題 けっきょく規定するからです
だから決定不能に
光速度一定の原理は絶対座標の実在を否定する
規定は実在しません 対象と規定 決定不能 有と無
規定の自己言及 決定不能
対象の絶対は規定の否定により示される
一つ前進した 規定の在り方は言及されるべきかと
認識器官に結ぶ像は認識器官の在り方によります
対象は同じですが、結ぶ像は認識器官の在り方によります
認識そのものを相対化すべきなのではと 人間社会は平均的な健常者が大多数であるが少数の感覚異常者がいる
感覚異常者の言動行動から平均的な健常者の感覚環境の認識が絶対的でない
ことが解るのである。
可笑しなことに古代からの哲学者は人間の曖昧な感覚認識を絶対視したエリートで
機械技術などは下賤の者のやることだと軽蔑していた。
物理学を応用して造られたカメラの画像は錯覚など起こさないが、
視覚では色々な錯覚が起こることは健常者の誰でも検証できる事実である。
近代物理学が曖昧な人間の感覚・認識を捨てて、観測機器を使う物理実験からの
フィードバックによって大発展した、後戻りすることは文明崩壊・滅亡までない。 観測機器を使う物理実験もまた感覚器官に結ぶ像というから逃れられないのでは? >>224
例えば
アナログ画像の目視に頼るなら、多数の健常者によって再現実験検証すれば
確率的に正しいといえる。(物理検証は帰納的証明である)
デジタルデータの画像なら再現実験の数値データの機械的な比較だけで多数の
健常者に頼る必要もない。 感覚器官も観測機器も自然をそのまま反映しない
その在り方で像を結ぶということでは変わらない
んじゃまた 物理学の基礎理論であるニュートン力学、相対性理論、量子力学などは
その理論の範囲内で無数の物理現象が演繹される
つまり
物理実験による現実との検証はその演繹結果のどれか一つを選んで検証実験すれば
その基礎理論全体の可否を判定できる!
対応する基礎理論の範囲内で現在まで反証に成功した実証実験は一つも無い。 理論というのはある基準設定をしてその中では妥当
ニュートン力学、量子力学にしてもそう
この物理状態ではこう、あの物理状態ではこうというだけ
巨視的に観たらこのように運動して、微視的に観たらこういう運動をしているということ
ある物理条件に於いてこの物理状態はこのように成るというだけ
それは一貫している
自然は運動するエネルギーの濃淡で親和反撥して新たな濃淡に生成する過程でしかない
地球規模、銀河規模、量子規模、いずれも同じ 観測にしても観測機器、認識器官はいずれも物理状態ということでは変わらない
観測機器に現象する物理状態は認識器官に像を結ぶ
観測機器に現象する物理状態は目の前の物理状態と変らない この物理条件ではこの物理状態ではこのように成るというだけ
その点では一貫している
その物理状態は運動するエネルギーの濃淡が親和反発して違う濃淡に生成する
濃淡の淡は像を結ばない
自然は一だが多として認識器官に像を結ぶ
観測問題は波が渦の状態が粒子
認識の相対化が自然科学の一側面 ある物理状態がある物理条件、ここでは認識器官(認識機器)の在り方に光などが親和反撥して像を結ぶ
対象は同じだが物理条件は違うから像もまた差異がある
この物理条件、つまり認識の在り方を相対化していくのが科学の一側面
静止で運動を規定する
生死で、終始で、無で
静止、生死、終始、無などは自然に実在しない
光速度一定の原理は絶対座標の実在を否定する
それで規定するがそれは実在しない
規定は否定
数も、最小単位も、次元も、諸力も
これらで規定するがこれらは実在しない ある物理状態がある物理条件、ここでは認識器官(認識機器)の在り方に光などが親和反撥して像を結ぶ
対象は同じだが物理条件は違うから像もまた差異がある
この物理条件、つまり認識の在り方を相対化していくのが科学の一側面
静止で運動を規定する
生死で、終始で、無で
静止、生死、終始、無などは自然に実在しない
光速度一定の原理は絶対座標の実在を否定する
それで規定するがそれは実在しない
規定は否定
数も、最小単位も、次元も、諸力も
これらで規定するがこれらは実在しない 静止、生死、終始、無などは認識器官に直接結ぶ像
数、次元、諸力などはそれらの抽象であり実在しない これで終点かなと思っても、他者の視点に触発され深化していく
某スレではカントの二律背反の一つが解決できた
愉しくはあるが終点がまた遠ざかる w
意識問題もあるけど
「進化は万能である」では生命の初源を追及していたが、始まりそのものは認識できないのではと思う様になった
物理として終始は無いし
わたしであってわたしではない
物理状態の決定不能性・・・ これで終点かなと思っても、他者の視点に触発され深化していく
某スレではカントの二律背反の一つが解決できた
愉しくはあるが終点がまた遠ざかる w
意識問題もあるけど
「進化は万能である」では生命の初源を追及していたが、始まりそのものは認識できないのではと思う様になった
物理として終始は無いし
わたしであってわたしではない
物理状態の決定不能性・・・ これで終点かなと思っても、他者の視点に触発され深化していく
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物理として終始は無いし
わたしであってわたしではない
物理状態の決定不能性・・・ これで終点かなと思っても、他者の視点に触発され深化していく
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「進化は万能である」では生命の初源を追及していたが、始まりそのものは認識できないのではと思う様になった
物理として終始は無いし
わたしであってわたしではない
物理状態の決定不能性・・・ エロアニメ動画が両脇、下に掲示されていて、カーソル過らせるだけで開いてしまう
とても他人の前ではできないから悩んでいる 自然認識は徹頭徹尾自己言及だろう
認識器官もまた物理状態だし
その物理状態に対応、親和反撥して像を結ぶ
その結んだ像をそのままの自然ではないのだと地動説が示す
認識した自然を相対化していき、認識そのものが相対化される
物理状態という条件に生成される像を手掛かりにしていく
認識器官は全てを反映しない 光速度一定の原理は絶対座標の実在を否定し、運動が自然の存在形態だと明らかにする
ならば終始も無も実在しない
運動を前提に無と有という否定関係は実在しない
無はディラックの海でエネルギーの基底状態と理解できる
つまり自然はエネルギーの濃淡
いわば海であり、パルメニデスが理解したように一であり多では無い
認識器官はその在り方から多として像を結ぶ
だから多、数で規定していく
一を多で、つまり否定で規定する 科学はすでに自然が無矛盾であることを示している
対象は無矛盾であることは規定の実在が否定されて示される 人の観察が、よりマクロに、よりミクロに、より強エネルギーに
なるにつれ、未知の現象も増えていく。
それらが一桁ぐらい変わると、妥当な理論も出てくるだろう。
それまでは暗中模索。 人の観察が、よりマクロに、よりミクロに、より強エネルギーに
なるにつれ、未知の現象も増えていく。
それらが一桁ぐらい変わると、妥当な理論も出てくるだろう。
それまでは暗中模索。 いかに人が「矛盾」を排除しようとしても、現に「矛盾」はあるではないか?
「世界 > 理論/論理」
であり、世界に矛盾は存在する。 人間そのものが矛盾してるだけだよ、宇宙から人間が消えて無くなれば矛盾も無くなる 矛盾自体は自然には実在しない
規定するから矛盾が
決定不能は規定するから
矛盾は観念の中だけで実在するはずも無し
「地球へ・・・」という漫画のラストのコマは考えさせられた
人間が消滅というのは他の物理状態に生成されたということ
自然に否定関係が実在するはずも無し
物理としては差異を否定で規定するから決定不能になる
観念でも対象をその否定で規定すれば決定不能に
実は観念での規定も決定不能ではないかと思うのだが、媒介項が足りないのかもと考えあぐねている w 人(=理論/論理)にとっての矛盾は、世界(=自然)にとって矛盾ではない。
人はそれを何と呼ぶかを知らない。「神秘」は、その一つではあるが。 わたしは対象である自然には存在理由は無いと理解している
ただ有るだけ
運動するエネルギーの濃淡の海
それだけ
自然の生成過程で自己言及可能な物理状態である意識を伴う人間が生まれ、物理状態としての認識器官の在り方に自然の像を結ぶ
認識器官の在り方は諸生物により違う
自然は認識器官の物理状態の差異に拠りそれぞれの像を結ぶ
自然科学は認識の在り方の相対化の歴史という側面がある
ある物理状態はある物理条件に従いまた違う物理状態に生成する
何かを食べるとその生物の一部に成ったり排泄されたりする
排泄物も生成されるという意味では同じ
あらゆる物理はその過程を繰り返す
生物非生物、地球、銀河系
ある物理条件が生成されればまた繰り返す
自然はただ運動変化しているだけ
それ自体は変化しない 自然に存在理由は無い
その意味では神秘的
対象は無矛盾で理解可能だがそれ故に決定不能ということ
規定は否定だから対象には存在しない
静止、生死、終始、無、次元、数で規定するがそれらは対象である自然には実在しない 矛盾は人が対象を否定で規定するから
クレタ人、運動、カントの二律背反
有を無で規定するから
自己言及は自己を他として規定する
わたしという表現
自然科学も自己言及
不確定性原理、不完全性定理
光速度一定の原理
認識の在り方が相対化されていくのが自然科学の側面
わたしは他に対しては同一を非同一で
自己に対しては非同一を同一で
全ては対象を規定、つまり否定で理解するから
規定しなければ決定不能という事態にはならない 不完全ということが完全
不確定ということが確定
対象が無矛盾でありそれを否定で規定するからこそ
変れば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますす変わる
両方とも真理だ ーミス・マーブル
宇宙の存在形態は運動
つまり変わり続けるのが宇宙
そして変わり続けることは変わらないのが宇宙
わたしというのは濃淡の淡は認識しない認識器官に結ぶ像で差異ではあるが同一を非同一で
わたしは運動変化して同一であることはない、つまり非同一を同一で
他に対し、自己に対し否定で規定する 不完全ということが完全
不確定ということが確定
対象が無矛盾でありそれを否定で規定するからこそ
変れば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますす変わる
両方とも真理だ ーミス・マーブル
宇宙の存在形態は運動
つまり変わり続けるのが宇宙
そして変わり続けることは変わらないのが宇宙
わたしというのは濃淡の淡は認識しない認識器官に結ぶ像で差異ではあるが同一を非同一で
わたしは運動変化して同一であることはない、つまり非同一を同一で
他に対し、自己に対し否定で規定する 不完全ということが完全
不確定ということが確定
対象が無矛盾でありそれを否定で規定するからこそ
変れば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますす変わる
両方とも真理だ ーミス・マーブル
宇宙の存在形態は運動
つまり変わり続けるのが宇宙
そして変わり続けることは変わらないのが宇宙
わたしというのは濃淡の淡は認識しない認識器官に結ぶ像で差異ではあるが同一を非同一で
わたしは運動変化して同一であることはない、つまり非同一を同一で
他に対し、自己に対し否定で規定する 不完全ということが完全
不確定ということが確定
対象が無矛盾でありそれを否定で規定するからこそ
変れば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますす変わる
両方とも真理だ ーミス・マーブル
宇宙の存在形態は運動
つまり変わり続けるのが宇宙
そして変わり続けることは変わらないのが宇宙
わたしというのは濃淡の淡は認識しない認識器官に結ぶ像で差異ではあるが同一を非同一で
わたしは運動変化して同一であることはない、つまり非同一を同一で
他に対し、自己に対し否定で規定する 量子力学にしてもある物理状態がある物理条件だとこのような物理状態に生成するということでは変わらない
ある物理条件では波が渦を巻いた状態に成り、それが認識器官の在り方には粒子という像を結ぶ
淡は像を結ばない
大地は運動しているが認識器官にはその否定としての静止として像を結ぶ
ある物理状態がある物理条件でまた違う物理状態に生成するだけ
運動するエネルギーの濃淡が親和反発してまた違う差異状態に生成する過程が自然
進化論もまたこの理解から裏付けられる 宇宙は最小単位から成らない
物理条件さえ生成されればより小さな粒子、つまり渦の状態が生成されるということ 不確定性原理や哲学の問題は規定するからこそ
光速度一定の原理は静止で運動を規定することを示し静止の存在は否定する
規定は理解に必要だが、無矛盾という理解は規定を否定して得られる
対象をその否定で規定するからこその諸問題 ゼノンの逆説
競技場の逆説で時空に最小単位が在ったらと仮定したらその半分が在ることを示し最少単位の存在を否定する
数に大きさが無いとするピタゴラス学派に対する駁論が二分の一、アキレスの逆説
目的地に到達することは無く、アキレスは亀を追い抜けない
飛ぶ矢の逆説では空間が点で出来ているのならば飛ぶ矢は飛んでいないと論証する
詳しくは「ゼノン4つの逆理」山川偉也氏参照
自己言及は「弁証法はどういう科学か」三浦つとむ氏参照
三浦氏は共産主義者だが論文で共産主義は成立しないことを導いた
それをやったのは弟子の政治学者だが七十年代にソ連崩壊を予測した
似たようなことでは新約聖書学、数学がある
数学者は結論を受け入れたがキリスト教徒、共産主義者は受け入れない 科学もまた人間の感情からは受け入れ難い結論を導きそうだけど
三浦氏のでしでもある板倉氏は弁証法は科学ではないと否定している
科学がまだまだのように学問一般は完成することは無いのかも 「笑わない数学」を見ていると数学者の数とはという理解には違和感がある
数学も科学もその基本はまだ確立していないのではないかと 「笑わない数学」を見ていると数学者の数とはという理解には違和感がある
数学も科学もその基本はまだ確立していないのではないかと いずれにしても科学革命が必要な段階なのだろう
科学者は哲学を軽視するがその実最悪の哲学に囚われているという十九世紀の学者の言葉はいまだに生きている 自然科学は自然認識です
認識に結ぶ像はそのままの自然ではなく、認識器官の在り方によります
認識の在り方を探究すれば革命は可能ではないかと提言したい
わたしは日本の学徒が第二のコペルニクスに成ることを期待する者です NHK総合1
ミワさんなりすます
映画にのめり込む女性の話です
まあわたしもゼノンの逆説に w
で数学の基本が???に
重力で物理学に躓く
後年それらが未だ未解決なことを知る
とりあえずこれで行こうというのはある範囲で有効なんでしょう
それが解らなかった
哲学を知りますます???
意味はそれで自分なりに納得出来る結論は得られたので満足しています 馬鹿な奴(人の大部分)ほど基礎(教科書)からの物理学、数学の学習が出来ない
義務養育の教科書はそのイントロダクションにすぎない
一般大衆が生活するには数量の算術計算だけ出来れば十分だから馬鹿な首を突っ込む必要はない
馬鹿な奴のほんの一部がキチガイ化して馬鹿の一つ覚えで物理学、数学が未解決?などと騒ぐ 宗教・共産主義・イデオロギーで一般大衆を扇動し奴隷化する悪知恵者に操られた現実社会 具体的に指摘はせず罵倒するだけ
利口という設定なのになあ www 具体的に指摘はせず罵倒するだけ
利口という設定なのになあ www 具体的に指摘はせず罵倒するだけ
利口という設定なのになあ www 具体的に指摘はせず罵倒するだけ
利口という設定なのになあ www 宗教は人間が死ぬ限り滅びないという指摘がある
共産主義は旧ソ連共産党幹部、毛沢東、中国共産党幹部などが信じていないと発言したという
日本共産党も出世できるからと東大が入党するとか
因みに創価もそうで元書記長の矢野さんが典型
脱会してから創価雑誌が総攻撃 w
共産主義はキリスト教の楽園思想の末裔だと日本でも指摘されていた
国家廃絶は事実上できないという結末に導いたのは共産主義者の論文
でも共産主義幻想も宗教同様に絶えないんじゃないかな
南無 時間とは何かが未だに解っていないのが科学の現在
ビッグバン仮説に懐疑的な科学者はけっこういる
個人的にはかなり怪しい仮説でよく読むと確かな根拠は皆無
まだまだなのが人間の学問ということ >>277
>時間とは何かが未だに解っていない
オマエのようなキチガイ馬鹿は物理学と数学の論理構造が理解できないだけ
’時間は〜’だとかの単独主張は無意味だということだ ’1という数が存在する’だけの主張とかも数学では無意味 義務教育の物理で終わった大部分の大衆は、物理現象の寄せ集めしか学習してない
それらから宗教とかとごちゃ混ぜにした自分勝手な妄想キチガイが湧いてくる 温度分布の数値計算で多用する平均値原理は古典熱力学の原理から出て来ない 「温度」は誰でも知ってるが物理理論の定義と関係を知ってる人は僅かしかいない まだいろいろ解っていないんだからさ
時間は運動を直接扱えないから量で捉えるしかない
つまり実在しない
0次元は実在していない
静止、生死、終始、無で規定するがこれらは実在しない
単位で理解するが単位は実在しない
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥してまた新たな濃淡を生成していく過程
これ以外ではない
次元などで規定するだけ
不確定性原理は運動を静止で規定するから
自然の一部である認識器官に結ぶ像はその認識器官の在り方次第
諸生物により認識器官は差異があるからその差異に拠り像は違うが対象は同一
科学の歴史は認識の相対化の歴史という側面がある
ある物理状態はこの物理条件ではこのようにまた物理状態が生成するというだけ
紐から成らない、紐に成る
紐というのは認識器官の在り方に結ぶ像でそのままの自然ではない
波の渦の状態が紐として認識器官に像を結ぶ
地動説は見たものがそのままの自然ではないことを示した
観測問題はこの視点を徹底すれば解決する わたしにはパルメニデスの理解と認識の相対化が理解したい諸難問を納得できる形で説明できたから満足している
自然は単純そのものだと
それを否定で規定するから様々な問題が出来ということに
物理状態の差異を生物非生物と否定関係で規定する
決定不能もまた ID明示していないから誰が誰やら
俺は消したことはないから誤解なきように 罵倒するだけだから罵倒観音と名乗れば良いか
いや命名しますか >熱が状態量
アホ
熱はエネルギーの一形態だ次元も同じ
マクロの古典熱力学や化学では理論上で区別する必要がある(しないと矛盾する)
分子運動の統計力学では基本原理がニュートン力学(または量子力学)
元々そんな区別が必要ないし熱力学で定義された状態量の正体が明確になる。
(物理学の基本理論による統一) >>295
おまえは死ぬまで状態量うんちくやってろ 始めから温度という状態量あります、熱あります状態量ではありません(熱力学うんちく) 熱力学第一法則の意味がビタ一文理解できてない気の毒な老人 今どきの高校物理でも気体の圧力、温度、熱の正体くらい教えてるだろ >>298
熱力学第一法則に拘りつづけるレトロ老人はお前だろ
現代からみればただのエネルギー保存の法則の一種だ 荒らしというわけでなく本当に素朴な話だけど
熱と温度って本当に謎だよね
ツッコミ不要なんだけど
質量で慣性は質量が宇宙の方動かす、全体で
今微妙に考えたけど温度と熱の方は少なくとも
何何で温熱は何何が座標の点動かす、微小を吹き飛ばず寄りの物理のはずだなって 単に微小を吹き飛ばすだけで温熱になるかすら
考えが及ばない キチガイの脳に物理は関係ない、病院で治してもらえキチガイは無料 熱力学は全ての物理分野の基礎と言える
そこが理解できてないやつは何やってもダメダメ >>304
>力学は全ての物理分野の基礎と言える
馬鹿 誰でも簡単に分る気体の熱と温度の正体
・基本原理はニュートンの3法則(力学的エネルギー保存)
・単位体積の箱に同じ質量の球体粒子が大量N個どの方向もランダムに運動してる
・方向に無関係な状態のN個の粒子の全運動エネルギーが熱Qに比例する
・その(平衡)状態の粒子1個当たりの平均運動エネルギーが絶対温度Tに比例する
・絶対温度T=0ならばN個の粒子の全運動エネルギ-0静止状態で熱Qも0(絶対零度)
ニュートンの3法則を学習してれば誰でも分るだろ
現実の分子運動は内部も複雑だから内部エネルギーUとして纏めて一般化すると
内部エネルギーUの変化は熱量Qの流入と外部からの仕事Wに等しいとなる。
つまり、内部エネルギーUと仕事Wを導入したことでUと熱Qの区別が必要になった
めでたしめでたし お前のような
古典的な熱力学に固執するレトロ馬鹿には熱、温度の正体が死ぬまで不明のままで終わる
現代用語で普通に熱力学〜と使ってる意味は「統計力学の意味」だからね。勘違いしないように 少なくともキチガイ発言さん1人は
自分の言う
少なくとも微小を吹き飛ばず座標力で原子振動波という
温熱の原理まではわからないけど、原理がそっちら辺説には否定で
キチガイ発言さんだけは他の人と違ってこの可能性研究しないのかな?他の人が研究するかは知らないけど。キチガイ発言さん少なくとも1人だけ
質量の慣性は慣性が宇宙動かすも、キチガイ発言さんだけ研究しないんだよね?少なくとも1人だけ
他の人は絶賛研究してね 自然科学は自然認識
認識はそのまま自然を反映しない
静止、生死、終始は認識には存在するが自然には存在しない
自然科学の一側面は認識の相対化でもある
地動説はその端緒
光速度一定の原理は静止で運動を規定するが静止は実在しないことを示すつまり認識そのものの相対化
観測問題はこの原理が解決の道を示す
運動が前提ならば自然の存在形態は運動
そして自然非自然という否定関係は存在しない
終始は無い
自然は運動するエネルギーの濃淡といういわば海
認識器官は淡を像として結ばない
粒子は波の渦の状態でありそれが認識器官の在り方に粒子として像を結ぶ
粒子は波の一形態
静止が運動の一形態であるがそれは認識器官には否定関係として像を結ぶ
自然科学は自然認識という基本を抑えていないから不確定性原理にも戸惑う
何よりも自然科学は自己言及であり、自己言及の認識論的解明が必要ということ
不完全性定理にしても同じ
この二つをもって自然が無矛盾であることが崩れたとか何もかもわからなくなったとか語る理数系が居たりする
それは対象は無矛盾だが否定で認識するからということに過ぎない
理数系は認識の在り方を探究すべき もし温熱が微小吹き飛ばずに近いなら
振動数で温熱は必ずしも一致するのか
これを想定し観察結果再観察しないと キチガイ発言さんだけ
熱力学統計力学は前原理無く突然原理無く発現してる説のままみたいだよね
自分の言う微小吹き飛ばすそちら寄りをヒントだと熱力学統計力学は間違いと突然原理あり温熱は発現してると
物理板メンには自分のこの説には賛同して考える人の方が多い?
研究絶賛 今思いついた
仮に微小吹き飛ばすが温熱なら
レーザーで温熱は
振動無くても振動無い光圧が高ければとなる
普通光圧は低いから振動で温熱になるけど 妄想キャリブレーションのメンバー27歳死亡 キチガイ短命 >>313
異論があればどうぞ
認識器官は自然が生成した物理状態
認識器官は諸生物により差異があり自然の像をそれぞれの在り方で像を結ぶ
認識器官には静止、生死、終始は存在するが自然には存在しない
認識の在り方を相対化してきたのが科学の一側面
というのがわたしの主張 わたしは最小単位説には疑問がある
ビッグバン仮説は確かな証拠がない
この仮説は科学の成立根拠、そして原理原則を無視している 運動するエネルギーの濃淡から成り、〜に生成する
観たものがそのままの自然ではないということ
認識論が必要なのに考えないから不確定性原理が理解不能に 運動するエネルギーの濃淡から成り、〜に生成する
観たものがそのままの自然ではないということ
認識論が必要なのに考えないから不確定性原理が理解不能に 観たものがそのままの自然と考えてりゃ観測問題も解決不能
決定不能はなぜ生じるのかということも 観たものがそのままの自然と考えてりゃ観測問題も解決不能
決定不能はなぜ生じるのかということも 粒子を加熱して振動させれば、全ての情報が消えるか?
んなーわけーないっ 大地は静止して見えるが、現実の静止は運動の一形態
物理として終始は無い
科学者は死がどこからか特定できないと語る
物理として死は無いから当然
ウイルスは生物非生物と分類困難
否定で規定するからで、生物非生物は物理状態の差異
観測問題にしても不確定性原理にしても認識の在り方の問題であり
その解決の鍵を科学は提供してきたが科学者は認識の在り方を考えないから今でも解決できない >>326
死んで預金口座が停止された瞬間が「死」だよ ふむう
感覚器官が違う像を結ぶは
紫外線見える虫と人間ならいざ知らず
人間は規格がある程度遺伝子で決まってるから
規格を逸脱する変質、遺伝子が変質してるがなければ
感覚は規格として一致してるはず
クオリアは年齢世代で変わるからクオリアの方はまだ逸脱するけど
クオリアも逸脱しなければ同じだし
逸脱しても逸脱範囲はクオリアの逸脱してる理屈の範囲内においてクオリアも人間が感じてるのは同質なはず →科学者は死がどこからか特定できないと語る
例えば大怪我して体は治っても知的がリセットされるケースは多分魂が破壊されてる
とか破壊されたら死なんじゃない?
睡眠は魂が夢の世界に居るだけで、体の魂の器も魂も壊れてない 自己言及、ようは再帰回路(発振回路)はあくまで回路の仕組みの一形態であり世界の仕組みの一形態である
世界の仕組みは自己言及以外にも沢山あるはずだから、他の仕組みを置いておいて自己言及のみを人間の意識の成因だとか時間経過発生計算の成因だとするのは限定過ぎるから、あくまで1つが仕組みどう絡むか
自分は世界の仕組みをwh方法だと思ってるんだけど、これを排除しても、世界の仕組みの何個か種類を自己言及含めたリストを造る必要がある 人が死ぬと21g軽くなることが実験的に検証された
これが魂の質量だと考えられている
即ち死とは肉体から魂の解放 >>331
それはいろいろ突っ込まれていたけどな
追実験しないと
かなり前に重要な原理が否定されたという実験結果が世界を騒がせたが実験の不備でしたという結果でした 「此処から」は物理として実在しない
生死も物理としては実在しない 21g軽くなるのは
体の筋肉の力学が変われば、力学が変わるから
死んだ状態と潜在にでも力が入ってる状態で
21g軽くなっただけで、魂の重さじゃない
自論
自分の未解明(オカルト)古典力学からの論 魂に質量無いと思う
この宇宙に粒子がある場合質量があるが
この宇宙に粒子があるを宇宙内仕組み(物理)としこの宇宙内に粒子がないのを宇宙外仕組み(オカルト)とし
生命活動は物理とオカルト混ざってる両方の仕組み、魂はオカルトであり
魂は精巣卵巣など演算機構の演算構造体であり、演算機構に器ハードの質量はあるが本体ソフトの質量は存在しない
つまり魂は粒子が無くオカルトで宇宙の外の実体を持つ。故に生命活動は物理とオカルトの両方であり
21gとか無い 魂がこの宇宙内仕組み物理に影響したら質量産まれる(無から)
が21gは潜在的な体の力みか、魂が宇宙内仕組みに影響与えてただけで
魂の質量自体じゃなく、魂の影響力でも無いか魂の影響力が21gあっただけ 質量とエネルギーの透過性
生と死のエネルギーの差が21gでありそれが魂のもつエネルギー 観たものがそのままの自然ではない
これが科学史を貫いている 一つ前進した
ありがとう
余韻を残すな、か
良い言葉だな 一つ前進した
ありがとう
余韻を残すな、か
良い言葉だな 原則を頑固に守るために柔軟に考える
板倉聖宣氏の言葉 若い時から私淑してきた大学者の知見が相対化可能な地点を獲得したかった
この人は認識論では◎だが思想は×
あの人は原理原則を頑固に貫くために柔軟に考えると至言を遺した
そしてかの人は認識の在り方の根源を明かにする問題のヒントを示した
ただ彼等は目的地にはいずれも到達はしなかったのではと思える
わたしの目的は人間とは何かを自然や学問とはを通して理解したい
それ以外ではありません
ファイアアーベントは学者の過ちを素人が正すことは度々あることだと語ったそうです
わたしが尊敬する学者も素人の知見を素人だからといって否定することはありませんでした
ある独創的な知見を示し話題を呼んだ方はテレビ出演を依頼されたがそんな暇は無いと断りました
いや一時期注目された学者がマスコミに翻弄されどうやら、という残念なことになりそうで、思いだしました
マスコミで活躍した歴史学者たちが実は業績は一つだけでそれに匹敵する論文を何本も書いている学者がいるということを大学者が指摘していました
かの歴史学者たちの著作は面白かったんですが・・・
自分の知見もまた相対化しなきゃいけないということですか 朔日の大谷特集で、大谷は常に前進していて自分が到達した地点に満足していないと出演者が語っていたことが印象に残った
彼は余韻を残すな、つまり留まるなということをその言葉で言い表した
これも至言ではないかと
真偽は知らないがある学者が大谷を観ていると頑張ろうという気になるのだとか
紹介していた人もまた同じ思いになったみたいだった
余韻を残してばかりの凡人だから身に染みる w わたしは自然科学の成立条件である無矛盾を手放したくない
それだけです 意識問題はややこしいが単純そのもののような気がします
でも学の結論は人を絶望に陥れることがしばしばある
自然科学の結論は
父母は尊敬出来る人でした
そういう人を絶望させるような結論は感情としては受け容れ難いのですが
ヒルベルトや滝村隆一のように結論を受け入れる覚悟は無いかな 周囲は喜び本人は泣きながら生まれる
笑顔で亡くなり周囲は泣く
そんな最期を迎えられればなあと思いますが
科学の結論は人間には憎まれると予想します
・・・それでも突き進むんでしょうね、学問は
新約聖書学、数学はドイツ人がケリをつけた
共産主義は日本人がケリをつけた
科学も日本人がケリをつけて欲しい 新約聖書学の結論を知っている信者があんなものはと憤っていました
哲学スレに行くと共産主義者は学の結論を拒否していました
宗教思想は同じなのかなと思えました
イギリスの著名な生物学者は唯物論者ですね
宗教を壊滅させるような結論が出たら信者はどう出ますか
無視するような気もしますが
イスラム圏の科学者とかは・・・
でも宗教も共産主義も人間が人間である限り不滅じゃないかなと とても解決できないと思っていた諸問題を自分なりに解明できて満足しています
あとは意識問題ですが、一応納得していますが、きちんとやりたい
出来たら出来たで後悔しそうですが 座標原点は実在しないが座標原点で運動を、ということが何を示すのかは誰も答えないんだような w 相対的座標原点で運動を表現できるのは
宇宙に座標原点が実在するという
相対宇宙仮説が間違いで
絶対宇宙仮説が正解だから? 座標は数学の概念だ原点も軸も任意
キチガイと馬鹿の脳ミソはそういう抽象思考が出来ないだけ >>352
マジレスすると
空間側wh
wh-
whace
what←物依存の座標
where←何処依存の座標とは何?これが相対座標?
whether←何処より絶対座標寄り
whup
相対座標はあくまで1つ段階 面フクロウとか、頭が体の動きについていかないの
頭がwhat
体がwhere
とかフクロウ自身の動かす体制御認識が違うから説 だから存在しないんだよ
静止はね
抽象は実在しない >>351
お前が馬鹿でないなら次の算数問題を計算してみせろ(馬鹿は計算できない!)
座標点aと違う座標点bを直線で結び
aからbに運動したとき1.5m/s、bからaに運動したとき2.5m/s
ならば往復の平均速度m/sはいくらか?
計算出来ないなら物理板荒らしやめて精神病院に逝け >>357
精神病院が全てを治療してくれると思ってるのか?
アホは治らないんだよぉ 速度がy軸、時間がx軸、面積が距離のグラフを考えて
1.5m/s×s 2.5m/s×sの面積が同じになる時間は2.5:1.5の時間
すると往復は1:1距離同じだから、速度が1:1である時より5:3と1:1の直角四角形を同周にした、5:3と4:4にして5×3=15、4:4=16、
速度を同速から1.5m/sと2.5m/sの比率変えた時は同速より15/16=93.75%おそくなるのね
正解かわからん ついでに遅度でも考えよう
y軸をs/m遅度、x軸をm、面積をsとするんだね
3/2m/sと5/2m/sだったから2/3s/mと2/5s/m
往復だったから同じ距離1:1であって
時間イコール面積は2/3:2/5→10:15→2:3
そうすると
同時間時の1:1と
1つ前スレ速度時の3:5と
今回の2:3の最小公倍四角周長して
10倍30,50
16倍32,48
40倍40,40
した時の%はえっと それぞれ
1500
1536
1600
だから
2つ前スレの通り
速度の時は
往復1:1より往復1.5:2.5の時の方が15/16→93.75%になり
遅度の時は
往復1:1より往復0.666…:0.4の時の方が→96%になり
遅度の時の方が速度の時より1536÷1500→2.4%早くなる 結論
aからb往復時
この古典力学距離時間一次物理が
1.5m/sと2.5m/sの速度であるか
0.666…s/mと0.4s/mの遅度であるか
物理がどちらかによって
往復に掛かる時間が
速度の方が遅度に比べて97.65625%遅くなるなど変わる 中学レベルの日本語文すら理解できないキチガイは病院に逝け 遅度初めて計算した…!
こんな風に時間距離計算結果も変わるんだ!
小学生高学年〜中学生前半水準の問題で変わるともやったこともなかったから驚いた! >>363
え?文章題には
往復時速度変えた時
何%遅くなるか
って書いてあったよ? >>357見てよ
ほら
何%になるか計算できない知能なら物理板辞めろ!
って書いてあるよ あ、ごめん本当に文章題読めて無いとこあった。平均速度出さなきゃ物理板辞めろも入ってたんだね
どう計算するんだろう? えっと速度の1.5m/sと2.5m/s
y軸を速度、x軸を時間、面積を距離にして
距離が同じ時の時間がやったように2.5:1.5、すると2つの面積のx軸の取り方がこの比になって
ああそうかなこの計算になるかすら根拠まで理屈で確証はないけど
往復1:1両方合わせて2として
m÷sを2÷各時間にして、足し合わせたら
2÷2.5+2÷1.5=2.1333…
2÷2.5=0.8
2÷1.5=1.3333…
の速度の足し合わせた形が平均速度になって
答え平均速度は2.1333…m/sになるのか
するともし往復時同速にした時の平均速度は
2.1333…÷94.75=2.2515390…
同速にした時の相当する平均速度設定は
2.25153910…m/sに設定するべきとなるのかぁ みす%だから0.9475ね
すると
速度差の速度は遅度より97.65625%遅くなってるから
2.1333…÷0.9765625=2.1845333…に遅度の速度換算イコール逆数が速くなってる計算になるのか 纏めると
aとb間往復時速度比1.5:2.5の時
平均速度は2.1333…であり
同速比にした時の2.2515390…での速度設定と往復時間などは全く違うが等価になり
速度差時の速度差の物理が実は遅度だったとき平均速度換算2.1846333…となる
ん?待てよ
速度差時2.1333…m/sって遅度の方計算してる?
まさか速度の方は単に2.0m/sが平均速度なんてことは無いよね?
全くわからない これ中学生で解ける問題だよね?
中学から落ちこぼれてたのか自分 いや、単純に速度グラフの通り
(2.5+1.5)/2の2.0でいいのか?
遅度にしたとき
2/2.5+2/1.5になるだけで遅度計算してたのか
計算すると…
93.75%に!
あれ94.75%じゃなかった?
最初のが計算みす?
それとも計算整合してない? あ!15÷16で93.75%になった!
電卓結果書き損じだった! 計算整合したってことは
単純に
2.5と1.5の平均で2.0でよかったのか
遅度だと何で平均速度かわるんだろ? あ、てことは
何%遅くなるとかは数値合計合わせた時の物で意味ないのか >372
お前のデタラメ計算では無駄だと判ったか?
さっさと病院に池 速度差と同速なら数値合計合わせるとか無く
速度差と遅度差なら数値合計じゃなく93.75%遅度より速度が遅くなる
速度差平均速度が2.0に対し2.1333…が遅度差平均速度で
なんで遅度だと変ななるの?
あ、そうか真空中の光速と、媒質中の光速の差が何%に遅れるとか、干渉的な平均速度なのかな?遅度は干渉的に平均速度合成される、と >>374
>2.5と1.5の平均で2.0
大間違い >>376
うん。物理板から去るはともかく
この中学レベル計算から駄目だから高校から落ちこぼれたんだね
自分に計算は振らないでよ
これレベルも計算できないから >>378
え?2.0が間違いなら2.1333…が正解?
遅度差平均速度が2.0なの? 論理、規定は=対象ではないわけです
観たものもそのままの自然ではないということは地動説が明かしたことです
わたしが躓いたゼノンの逆説は論理=対象だと主張するピタゴラス学派への反駁です
自然は多、数で出来てはいないが数で規定するということです
自然は運動していますが静止で規定します
スピノザは規定は否定だと考えました
二分の一、アキレスと亀の逆説は論理=対象ではないということです
0に限りなく近いが0ではないという論理は運動という有を静止という無で規定するからです
不確定性原理もまた対象と規定の問題です
規定、論理=対象ではないのです
測定値が近似値である所以です
エネルギー保存則の破れが言われますが、それは論理がそのまま対象を反映しているという認識から免れていないということです
ヘーゲルは此処、今と指示すると此処、今は飛び去ると記し
太宰治は「女生徒」で同じことを指摘しています
これは対象とそれを規定することの関係を示しています
つまり運動を静止で規定するからこそです
認識器官に結ぶ像はそのままの自然ではありません
その抽象が論理です
自然科学は認識の相対化、ひいては論理の相対化の歴史でもあるというのがわたしの理解です >あ、そうか真空中の光速と、媒質中の光速の差が何%に遅れるとか、干渉的な平均速度なのかな
キチガイは論理思考が出来ないから算数問題も解けない、妄想だけで解決したと思い込んでるだけ ちなみに、 ここ■ちょっと■スレじゃないから、皆乗らない方がいいけど
直列抵抗と並列抵抗みたいだよね、速度差と遅度差の平均速度
抵抗を足し算が直列
伝導を足し算が並列 >>383
問題解けと出題されたからここに書くしか無かったけど(大抵周り見えないから自分書くしか無かった以前にこういう風に何か言われたら書いてしまって迷惑するのいつもだけど)
自分、古典力学に遅度ある論者、383さんや皆は遅度なんて物理実在しない派
この話題偽物スレに持ち込んで話そう。あっち消費したいし、迷惑にならない 間に挟まった
>>381
がこのスレの話題だから
脱線よ戻れー ここら辺もスレ違だったね
0350ご冗談でしょう?名無しさん
2023/10/28(土) 16:31:23.68ID:vSje5Z4a
座標原点は実在しないが座標原点で運動を、ということが何を示すのかは誰も答えないんだような w
0351poem
2023/10/28(土) 17:19:06.40ID:1cUAxy2z
相対的座標原点で運動を表現できるのは
宇宙に座標原点が実在するという
相対宇宙仮説が間違いで
絶対宇宙仮説が正解だから?
0352ご冗談でしょう?名無しさん
2023/10/28(土) 17:37:45.77ID:???
座標は数学の概念だ原点も軸も任意
キチガイと馬鹿の脳ミソはそういう抽象思考が出来ないだけ
0353poem
2023/10/28(土) 18:08:17.08ID:1cUAxy2z
>>352
マジレスすると
空間側wh
wh-
whace
what←物依存の座標
where←何処依存の座標とは何?これが相対座標?
whether←何処より絶対座標寄り
whup
相対座標はあくまで1つ段階
0354poem
2023/10/28(土) 18:14:13.02ID:1cUAxy2z
面フクロウとか、頭が体の動きについていかないの
頭がwhat
体がwhere
とかフクロウ自身の動かす体制御認識が違うから説
0355ご冗談でしょう?名無しさん
2023/10/28(土) 20:21:29.06ID:vSje5Z4a
だから存在しないんだよ
静止はね
抽象は実在しない
0356ご冗談でしょう?名無しさん
2023/10/28(土) 20:24:33.43ID:vSje5Z4a
物理として生死は存在しない
では生死とは?
0357ご冗談でしょう?名無しさん
2023/10/29(日) 01:10:08.42ID:???
>>351
お前が馬鹿でないなら次の算数問題を計算してみせろ(馬鹿は計算できない!)
座標点aと違う座標点bを直線で結び
aからbに運動したとき1.5m/s、bからaに運動したとき2.5m/s
ならば往復の平均速度m/sはいくらか?
計算出来ないなら物理板荒らしやめて精神病院に逝け このスレは主さんの話かここら辺をホットにするべき
0328poem
2023/10/27(金) 13:46:41.29ID:TbiHo8w8
ふむう
感覚器官が違う像を結ぶは
紫外線見える虫と人間ならいざ知らず
人間は規格がある程度遺伝子で決まってるから
規格を逸脱する変質、遺伝子が変質してるがなければ
感覚は規格として一致してるはず
クオリアは年齢世代で変わるからクオリアの方はまだ逸脱するけど
クオリアも逸脱しなければ同じだし
逸脱しても逸脱範囲はクオリアの逸脱してる理屈の範囲内においてクオリアも人間が感じてるのは同質なはず
0329poem
2023/10/27(金) 13:53:26.05ID:TbiHo8w8
→科学者は死がどこからか特定できないと語る
例えば大怪我して体は治っても知的がリセットされるケースは多分魂が破壊されてる
とか破壊されたら死なんじゃない?
睡眠は魂が夢の世界に居るだけで、体の魂の器も魂も壊れてない
0330poem
2023/10/27(金) 13:59:30.62ID:TbiHo8w8
自己言及、ようは再帰回路(発振回路)はあくまで回路の仕組みの一形態であり世界の仕組みの一形態である
世界の仕組みは自己言及以外にも沢山あるはずだから、他の仕組みを置いておいて自己言及のみを人間の意識の成因だとか時間経過発生計算の成因だとするのは限定過ぎるから、あくまで1つが仕組みどう絡むか
自分は世界の仕組みをwh方法だと思ってるんだけど、これを排除しても、世界の仕組みの何個か種類を自己言及含めたリストを造る必要がある 最初の科学革命は認識に結ぶ像はそのまま自然を反映しないということです
次の科学革命は論理=対象という理解を否定することになるとわたしは理解します
自然科学は自然認識であり、自然の一部である人間の自己言及です
自己言及とは自己を他として認識し規定します
否定で対象を規定するから決定不能ということになります
それはいたって対象が無矛盾だからです
対象に静止が実在しないことで対象が無矛盾であることが示されます
決定不能と決定するからこその定理です
規定は否定であり対象には静止が存在しないことで対象が無矛盾であることとなります
現代科学が隘路に陥っているのは認識=自然だとしているからです
観測問題、不確定性原理などは典型です
科学は認識の在り方を探究すべきかと横目から観る立場から思えるわけです ここら辺はまたスレ違
0331ご冗談でしょう?名無しさん
2023/10/27(金) 15:12:02.06ID:???
人が死ぬと21g軽くなることが実験的に検証された
これが魂の質量だと考えられている
即ち死とは肉体から魂の解放
0332ご冗談でしょう?名無しさん
2023/10/27(金) 15:42:52.30ID:BPc1pT0n
>>331
それはいろいろ突っ込まれていたけどな
追実験しないと
かなり前に重要な原理が否定されたという実験結果が世界を騒がせたが実験の不備でしたという結果でした
0333ご冗談でしょう?名無しさん
2023/10/27(金) 15:44:58.66ID:BPc1pT0n
「此処から」は物理として実在しない
生死も物理としては実在しない
0334poem
2023/10/27(金) 16:01:45.48ID:TbiHo8w8
21g軽くなるのは
体の筋肉の力学が変われば、力学が変わるから
死んだ状態と潜在にでも力が入ってる状態で
21g軽くなっただけで、魂の重さじゃない
自論
自分の未解明(オカルト)古典力学からの論
0335poem
2023/10/27(金) 16:07:00.47ID:TbiHo8w8
魂に質量無いと思う
この宇宙に粒子がある場合質量があるが
この宇宙に粒子があるを宇宙内仕組み(物理)としこの宇宙内に粒子がないのを宇宙外仕組み(オカルト)とし
生命活動は物理とオカルト混ざってる両方の仕組み、魂はオカルトであり
魂は精巣卵巣など演算機構の演算構造体であり、演算機構に器ハードの質量はあるが本体ソフトの質量は存在しない
つまり魂は粒子が無くオカルトで宇宙の外の実体を持つ。故に生命活動は物理とオカルトの両方であり
21gとか無い
0336poem
2023/10/27(金) 16:10:26.16ID:TbiHo8w8
魂がこの宇宙内仕組み物理に影響したら質量産まれる(無から)
が21gは潜在的な体の力みか、魂が宇宙内仕組みに影響与えてただけで
魂の質量自体じゃなく、魂の影響力でも無いか魂の影響力が21gあっただけ お前のデタラメ計算は全部間違いだ
算数の計算も出来ないのが判ったら病院にいけ 意識は物理として存在しないというのがわたしの理解
意識、非意識という否定関係は対象である自然には実在しません
わたしが言う死とは物理として無くなるということです
物理としては差異である物理状態に遷移していくだけです
つまり物理として死は存在しません
また生まれるということも
生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると語ります
それは生物が運動変化しているからです
わたしは産まれてからこの現在も
同一であることはありません
それを同一のわたしと規定します
運動を静止で規定しています
他に対して否定関係ではありません
差異を否定で規定して自ー他とします
ある物理状態を静止で規定していますから認識には生滅が存在することになります
しかし物理として生滅、つまり生死は存在しません
運動は静止で規定しますが静止は存在しません
物理として生死は存在しません
だから特定は不可能です 科学は対象が無矛盾であることを示した
対象をその否定で規定するということ
自己言及、つまり認識するということで決定不能となる
少し寝ます フラットアース批判のスレでは得るところがありました
カントの二律背反の理解が徹底していなかった
余韻を残すな、ですか
他の二律背反も考えることにします
ではまた
poem氏に
書き方一考の余地があるかなあ
纏めているんですが、なかなか難しい・・・ 生滅するならそれは物理ではない
または規定の問題かと
まだ確定していず訂正するかも
しかし物理は生滅しないことは言えます >>395
自分の文、難解?マジ?難易度簡単に書けて無く悪い意味で難解?
>>392
392さん物理板でいつも誰にも正解を不正解、不正解を正解と嘘レスしてない?嘘レスしかしない人が浮上という気づかなかった事実、驚き >>395
自己言及=二律背反
という意味で書いてたすら気づかなかったし
文章に明記するべきでは? 自分は
自己言及を回帰回路だと思ってて
二律背反は何回路でできるかわからないけど
主さんは同じ物と考えてたんだよね?(…回路回路で二律背反を実装できるのか知らない…)
もし別回路ならこれで意識と時間の仕組みを2つ見つけてることに ああ、自己言及自体が回帰回路という自分の予想が間違ってて
自己言及は回帰回路のイメージでなく、自己言及を違うイメージ二律背反の矛盾も自己言及の自分のイメージしてるものと違う物としてイメージできるのかな? ようは
自分
自己言及=回帰
二律背反
主さん
自己言及=二律背反
回帰回路
という自己言及の定義が違うわけだね
2つ仕組みが出てるのは正解だけど
自分のかなり上ついさっきコピペした助言がそれ自体主さんと定義掛け違いしてたんだね すると助言自体、主さんの定義と違うから助言自体が僅かに意味を為してなかった、まあ難解もあるし、助言の体も為していなかったわけだね これはコミュ力よりも
仕事できるとか社会に出る人間能力の類いだよね
自分人間能力は低いから
人間能力鍛える経験も浮いてた人間で無いから ほとんど読解できない中内容摘まんで考えて助言してただけだから
ちゃんと助言できないのは当然なのか
摘まんでも助言できると思ってたけど
できない経験自覚は初だった
無自覚は沢山在るんだろうけど この前のオカルトと物理の境界のテーマ主さんと問答した時は読解できたのもあったから、かつ摘んで問答できたけど
読解できないと、摘まんでも駄目なのか 仕事できる社会に出る人間能力ある人なら
何らかの方法でクリア出来るんだろうけど
人間能力無い、ぷらす人生経験ないからね あ、そうだ
余韻を残すな、とか
わからない
どういう意味なのか主さんをうかがい知れぬ 話は蒸し返すけど
自分の知力試すと
簡単に馬脚出すね
知能劣るとこんな 余韻を残すな、というのはそこに留まっていることの否定です
前に前に、ということだとわたしは理解しました
つまりその地点で満足してしまい停止状態になる、より良くという意識が無くなるのだという意味に捉えました まあ、前に前に、は自分のスタンスだから
自分のスタンスで発言してるから
スタンスの押しつけ的に
正解なのかな?
いつもの調子だったからそんな意図はなかった 前に前に建設的な問答するべきだから、建設的な問答にしようよ
の意図はあったな当時 IQがどんなことを示すのか未だわたしには不明です
ノーベル賞に対する評価はさておき、受賞者たちは抜群にIQが高いということではないようです
東大に入るということがどんなことかということも確定してはいないのでは?
因みに中学の時に仲間で知能検査結果を見せ合いました
一番高いのがお茶の水
二〜四番が他の六大学入学
一番ペケが東大入学でした
わたしは真ん中でした そうですね
建設的にというのは賛成です
一方的にバカ扱いは対話の拒否です
ルターは一人の馬鹿者が天の世界を変えようとしていると述べました
ファラデーは数学を能くしませんでした 視点というか基準が変われば、ということではないでしょうか
わたしには科学者は認識論を軽視することによって、至って混迷しているように思えますが 自分の場合、理学や芻学の世界の仕組みの原理に沿ってるなら
世界に現象を起こせる
スポーツ力学に使える古典力学をベースに色々考えてるから
認識で世界に現象おこせるとは思わないとか
キツいことごめん スポーツの声出しや心待ちで
パフォーマンス変わるのは
脳の仕組みが宇宙の仕組みに変数入力するからで
あくまで変数程度の出力しかない
現象起こすまでは変数レベルのみ わたしという表現は自己言及ですね
それがどのように可能なのかということです
認知症、痴呆症(同じなのかな、調べますか)が集う図書館で自己言及の解りやすい説明を考えてきます
なかなかの紳士に見える年寄りが、一方的に自分が正しい、お前はバカだと若い女性司書に怒鳴っていたり、規則を破っているのに上島竜兵みたいに訴えてやると司書たちを唖然とさせたり
俺もあんな風になるのかなあと不安になりますが
調べ物には便利な場所です 認識を変えたら確かに変数は変わるけど
宇宙の仕組み
ようするに意識と時間の仕組みについては
原理があり
あくまで認識による変数入力は
意識や認識にも仕組みがあるから
仕組みの副産物で変数入力程度になるだけ
意識や認識の変化や在り方くらいじゃ、というかこの切り口から宇宙の仕組みは、難易度的にはスポーツ古典力学で初歩演算程度ならこちらの方が切り口は簡単
難易度高い仕組みの解明なら、長期的に見れば意識や認識の切り口が、初歩古典力学より切り口簡単な可能性もあるけど 私と言うのは自己言及ですね←なら人称考えたらどう?
0特定人物
1自分
2相手
3他人 何人称の二律背反(矛盾)とか
自然は0〜3人称の仕組み混ざってるから
例えば、3人称の物は3人称で無矛盾だけど1人称で有矛盾とか あとはクオリアは
マンガの鋭い線が鋭い音を表すのは
鋭い線が鋭い仕組みだからで
鋭い仕組みの鳴る音は鋭い音だからであり
リアルでも鋭い音鳴るように叩いたら鋭い線を幻視できる
クオリアも含めて
宇宙の原理は仕組みなんだよね
計算含む
変数入力も仕組みであり
脳が仕組みだから変数入力の副次効果出る、仕組みが作用する
が原理は世界の仕組みの高度な理解が必要、認識変えた程度でどうこう世界の仕組から現象起こせない 鋭い線のような効果の音はどうやって出るの?って鋭い線が自分を自己言及しても出ないんじゃない?
鋭い線が世界上の計算上出てこないと。自己言及を世界の仕組みの1つとして、計算は世界の1つの仕組みだけじゃ成らない
水素原子だけじゃ水を作れない。自己言及は水素原子。酸素原子がなければ計算起こらないから鋭い線も現れない 無矛盾とは
定義の定義が定義
であり
矛盾は
定義の定義が定義以外 定義しても計算は現れない
原理の計算が定義に計算されたら現れる 例を挙げると
弓矢やって腕や手や上半身に力を込めて射ってみたらいい
腕や手や上半身の力を完全に精密に制御しないとノーコンになる
理由は認識でなく力が弓をブーストするから。弓は僅かな力を増幅してしまう。飛び方が丸っきり変わる
認識で体や外部に変数入力したとしても、弓をブーストするのは原理の体の力
体は認識を増幅するから、弓が体をブーストしてしまうことで、認識を越えるだけで飛び方が丸っきり変わるだろうが
認識じゃ体以外の変数は、認識を増幅する体がなければ、外部に現象は起こせない。体だけ 弓の矢の飛び方は認識を変えても飛び方かわるが
体が認識を増幅するによる物で
認識で変わったわけでなく、体を経由して
飛び方を変えるのは体の原理の力 世界の原理は認識でなく
世界の原理はまあ原理
世界の原理は計算より深掘りできるか不明。可能性ある。浅い理解なら計算 魂の21gは計算の発生であり魂の質量ではないし
wh-
whace
what
where
whether
whup
の段階に
絶対座標の仕組みも
相対座標の仕組みも
物依存座標の仕組みも
全部物理現象ならびに物理量として実在する
宇宙の仕組みに絶対もある 無矛盾とか、日本語の定義で悩んでいるようだけど、
プランク定数って、どう定義できるの?
分かってないじゃん
アホが神学論争こねてるだけじゃん >>433 主さんに質問だね
主さん、キツいこと言ってごめん
物理板トップを見たら他スレで主さん書き込みして種
数学計算は、物理粒子から創発した物で、意識から創発したモノにはないもの
おお、っと、なんか根拠無く読んだだけで思考無く思考する間もなくなんか脳が主さんの認識近くなってるなと脳が思ったかんじ
自分は
粒子物理=空側から見たwhの空側時側
数学創発=時側から見たwhの時側空側
でモノにも数学創発計算は意識と違うが持ってる論者なんだけど
意識と違う数学計算だから、モノは意識の創発計算を持ってない、意識しか創発してない
は一面的に正しいから
脳が近くなったと思ったんだろうね
逆に言えばモノに持ってる物理創発、物理創発を意識は持ってない、となるけど
非実体のオカルトの意識も、他宇宙で物理創発を持つ、物理と数学は必ず何かしら持つ論者。
それがオカルト、実体、高次生命、粒子、持つ物が違うだけで、持つ物が違うのをそれぞれが創発し、仕組みの原理から仕組みの遷移でつながってると
自分は思ってるから
遷移の意味で主さん、おお、って 物理数学は裏表から見ただけで空間(止まる仕組み)時間(動く仕組み)の表裏一体見る面の違い働く面の違い、だと思ってるってことね。必ず両方全てが持つ
でも遷移は考えなかったな自分
主さんに学んだ形だ。主さんと問答しなければ気づかなかった気づけなかったこと
意識や粒子やあらゆる仕組みオカルト実体を繋ぐのは仕組みの遷移なんだね
自分の学びが主さんから問答で齎された 創発は言葉の表現わかりやすかった
創発で
自分の気づいた遷移か
創発で遷移
わかりやすい浅い脳内認識が齎された
浅いというのは深く掘れてないから
浅い脳内認識としてわかりやすいぐっど モノから創発したね
数学はモノは持たない
認識の近さを黙読した段階で考える前に脳が主さんの認識近くなったと脳が思ったのを感じた 世界の原理はまあ原理
なわけだから
物理の論理演算も
数学の項理演算も←かっこ仮
両方駆使して解明しなきゃね
物理の論理に対抗する数学の不明
数学の項理なら物理の対抗するの不明
項理とは数値は足し算の1つ前の計算階の項の数が整数だからという理由
足し算の項の数は、整数倍
足し算の1つ前の項の数は、整数和
だから 書きミス
物理の論理演算も
数学の項理計算も←かっこ仮
計算は数学のみ
演算は物理
物理に計算は現象が数学だから
数学で物理相手は物理の方の論理演算も加えないと粒子などを入れて数学計算できない 弓も
体による力の
計算
演算
でブーストされて飛び方が変わる
認識は変数
体の力み方は体は認識でブーストもされる
認識の変数が力みの
計算
演算
を反映して
認識は体を通して弓をブーストする
本流の弓道は上半身の力を極限抜いて下半身に力を込めることで
上半身に力が無いから、ノーコンにならず、下半身の力が上半身をミルフィーユして弓をブーストするから的まで届く
下半身と上半身両方に力を込めるとノーコンになり、これは戦国時代の弓技
弓道弓術でなく弓技であり違うスポーツであり
弓道でやってはいけない児戯に等しい邪道 他というのは二人称、三人称すべて
自己、多というのは認識器官が媒介した物理の差異でしか無い 自然は差異としてあり否定関係は実在しない
自然は有でありそれを無で規定する
一は他、多で規定される わたしという物理も認識器官の在り方に結ぶ像
差異であるが否定で規定された物理の差異 自己言及の身近な例は「わたし」という表現です
表現は対象ー認識ー表現という構造です
この場合は物理としての自己を観念の中で他として認識します
観念としての自己が物理としての自己を他とするわけです
三浦つとむという言語学者はこの能力を観念的な自己分裂と名付けました
街の地図を描く場合、頭の中で空から街を眺めることができますが実際に空から街を眺めているわけではありません
この能力でわたしたちは日本、地球、太陽系、銀河系も描くことができます
この能力で頭の中では古今東西にも行き来可能ですし、小説やドラマの登場人物に成れます
異性にも偉人にもそして動物にさえ頭の中ではなれますが現実にはわたしはわたしのままです
また細胞の中にも入れますし、原子も見ることが可能です
わたしたちは鏡を見て自己認識をしますが、他人を観てもそのことが可能です
他人がどのような姿、行動をしているかを観て自己を振り返ったりします
他人は鏡でもあるわけです
ビスマルクは賢者は他人の行動で、愚者は自己の行動で学ぶとか言ったそうですが、このことを想起します
科学の発展深化により太陽系や銀河の構造を知り、その.知の蓄積から頭の中で眺めることが可能になります
過去の地球の有様も他の天体の有様とかを観測して想像したりします
頭の中では地球創生にも立ち会えますし、歴史的事件にも立ち会うことは可能になります
それは頭の中、観念の中で可能になります
それは個人個人の知の蓄積の多寡とその理解により違うわけです
その理解の差異はあたかも生物や個人の認識器官の在り方に拠り結ぶ像が違うことと類似します わたしの自然理解は、無矛盾という前提から理解します
それは光速度一定の原理が示す絶対座標の実在の否定ということから出発します
対象には静止は存在しないと否定されますから自然の存在形態は運動であり無矛盾です
この理解は量子力学の自然は運動するエネルギーの濃淡という理解を裏付けます
自然は一であり多ではないとするパルメニデスが正しいのです
運動するエネルギーの濃淡が親和反発してまた違う濃淡を生成するという過程とわたしは理解します
人間は自然の一部ですし、認識器官もまた自然が生成した物理存在です
自然が自然を認識するわけですから自己言及という理解になります
自己を他として、つまり対象の否定で規定します
認識とは物理として存在しない観念の中で遂行されます
物理として、対象は有であり認識は無です
消滅するのは認識された現象です
人間、食物、地球、銀河系という物理現象は形を変えるのは観測によって裏付けられます
しかし物理そのものは生滅しません
形を変えていくだけです
形そのものは認識器官に結ぶ像です
対象は運動しますが認識は否定、つまり静止で規定します
わたしは物理としてはわたしであってわたしではありません
同一であることは無いのですから
規定自身は認識、無ですから対象の運動変化で消えます
わたしという物理存在が亡くなるというのは物理としては形を変えて存在することで、わたしという認識された物理現象はなくなります 生滅は物理としては存在しませんが、認識には存在します
あくまでも対象の否定で認識するからこそです
わたしたちは自然を認識しますが、認識に存在する静止、生死、終始、無は自然には存在しません
認識器官のその在り方により像を結びます
不確定性原理、観測問題は認識器官に結ぶ像と認識の問題でありなんら対象の問題ではありません
対象をその否定で認識するからこそなのです
ウイルスが分類困難なのは分類するからです
対象には生物非生物という否定関係は存在しません
物理状態の差異を否定で規定するから分類困難な対象が出てくるわけです
分類するからこその分類困難ということになります
対象は分類とは無関係に存在します
光速度一定の原理は絶対座標の実在、つまり静止の実在を否定することにより対象が無矛盾であることを示します
静止、座標原点、つまり規定は対象の否定であり規定が対象に存在しないことにより対象が無矛盾ということになります
分類により分類困難なウイルスという物理状態が出来しますが、それはなんら対象であるウイルス、物理側の問題ではありません
不確定性原理、観測問題、不完全性定理も対象を規定するからです
根源として対象を認識し、それを規定することにより様々な問題が出来するということなのです
規定すること自身が諸難問を出来するということです
決定不能は自己言及がもたらすのでありなんら対象の側の問題ではないのです
それはウイルス問題が暗示していることです イマイチで解りにくいですがとあえず
付論
古代ギリシャ人はクレタ人の逆説で決定不能ということを指摘しています
クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った、というものです
この逆説はクレタ人が嘘つきだという前提です
クレタ人が嘘つきならば自身を正直に嘘つきだとは言いません
しかし対象であるクレタ人が嘘つきであることは真です
これは対象がその否定で規定するから逆説になるわけです ゼノンの逆説について簡単に述べます
ゼノンの逆説は自然に最小単位があったらその半分があることを競技場の逆説で示します
つまり最小単位、数は存在しません
二分の一、アキレスと亀、飛ぶ矢の逆説も一貫して数は存在しないことを示します
しかし数で規定することは否定しません
自然という有を存在しない数、つまり無で規定します
此処、今と指示すると此処、今は飛び去るというヘーゲルの規定は運動を静止で規定するからです
有を無で規定するから数学では0に限りなく近いが0では無いという規定になります
此処と静止で規定しますから静止を無限に集めても運動はしません
有を無で規定するからです
運動を静止で規定しますから決定不能、つまり0であって0ではないということになります ヘーゲルの運動とは存在すると同時に存在しないことという定義の所以です
運動は存在しますが、存在という規定は静止であり運動の否定ですから決定不能ということになります
有、存在というのは規定であり無なのです
有を無で規定する、否定で規定するからです
不確定性原理もまた認識はそのままの自然ではないということです
認識は認識の在り方で自然を反映しますがそのままの自然ではありません
ですから測定は=ではなく近似でしかありません
これも運動する自然という自己をその否定である他、つまり静止で認識するからです
さまざまな問題は対象と認識の関係を理解することで解決するということです
科学は認識の在り方を探究すべきだという主張はわたしのこの理解に基づきます 逆説は論理の限界/破綻であって、現実の限界/破綻ではない。
だから現実の矛盾を嘆く必要はなく、論理の限界を悟るだけだ。 校正したつもりですが
うーんという感じでしょうかね
今年中には纏めたいなあ
すでに四半世紀経過していたりします
26年で三十年経過です www
94年板倉氏「新哲学入門」の論理の性格の指摘
96年山川氏「ゼノン4つの逆理」ぜのんの逆説とはという解明
板倉氏の指摘でゼノンの逆説解明の糸が見つかりました
三浦氏の自己言及の認識論での解明が出発点ですから半世紀以上ですか
自分なりに納得していて満足です
後は纏め方ですか
様々なスレの刺激で深化できたかと自己満足しています
一つ引っ掛かっていますが、残しても大丈夫かと思っています
満足していますが、まさか満足できるなんて思いもしなかったので
さてと纏められるかなあ ゲーデルの不完全性定理の示すところは、単一の公理系で世界を説明することが
できないということ。
しかし、複数の公理系を使って世界のすべてを記述する試みはなされていない。
それがどうゆうことかも示されていない。 世界に変化はあるのか? 世界に変化はないのか?
どちらを採ることもできるが、その後の展開は異なる。
論理矛盾は論理の破綻なのか、限界のなのか?
どちらを考えてもよいが、その後の展開は異なる。 複数の公理系を用いても世界を記述することはできまい。
いつでも、それらで証明できず、かつ真理である命題がある。
では、世界をどのようにして整合的な論理(群?)で記述したらよいのか? 「自然が無矛盾で、調和のとれたものだったらいいなぁ」これは願望
そのうえで、
「自然界は具体的に、この程度にはデタラメ」と示したのがプランク定数 >>456
生物学者「進化論」
数学者「大数の法則」
経済学者「市場原理」 世界は運動変化している
そして運動変化することは変化しない 無矛盾=調和?
わからないなあ
対象である自然は運動変化しているだけ
光速度一定の原理が示すこと
調和の定義が解らない 論理矛盾は対象が無矛盾であり対象を否定で規定するから
矛盾は対象が無矛盾だから 数には大きさが無い
0次元は実在しない
基本抑えたら良いんじゃないかな
見える自然は認識器官に結ぶ像で=自然ではない 対象と規定の関係
理解する対象はそのままの自然ではない
認識の相対化が必要 対象に座標原点、静止は実在しない
自然の存在形態は運動
つまり無矛盾
科学はすでに対象が無矛盾であることを示している 自然を観照するために、自分なりの理論を考えるのは良い趣味ではある。
しかし実際には、独りよがりの滑稽な理論であることが多い。
物理学の職業研究者は、論文の書けるテーマ、つまり曲がりなりにも答え
が書けるものを研究する。
しかし実際には、毒にも薬にもならない詰まらん論文がほとんどだ。 それじゃ、猛毒をあげるから、ご賞味あれ
ビッグバン以降、プランク定数は変化したと思う? しないと思う? シンプルな問いだね
私は未来永劫変化しない定数だと思っている
さて、何を見たらわかるんだろう??? 遠方の銀河の光が変化していないことか わたしは科学はすでに自然が無矛盾であることを示していると理解する
光速度一定の原理が根拠 ビッグバン仮説は確かな根拠なし
背景放射も違う理解がありスムート博士は否定できないと語った
赤方偏移しかり
この仮説は対象が宇宙非宇宙と否定関係が前提、つまり矛盾する
エネルギー保存則、光速度一定の原理の否定
科学の成立前提と基本法則などを否定している ビッグバン仮説はいろいろ無理
終始で対象を規定するが終始は自然には無い
天動説と同じ認識=自然という過ち 時間の実在は怪しい
次元は無いし
近年時間非在説を唱える科学者たちが出現して科学雑誌で特集されたりしている
科学は基礎が未確立
科学革命が必要と唱える科学者たちは多い >470
他人が語った、じゃなく、自分で考えて、自分で観測しなよ 他人が観測して、他人の思考の蓄積でものを考えている
科学者もほとんど同じ
って話を逸らすのか
個人的には現在の自然科学観には疑問がある
最少単位とか信じて居ない
これはパルメニデスの自然観
規定は否定
これはスピノザ
独自のは無いし、またそんな人は世界にもほとんどいないだろう
で、自然に静止は実在しないという理解が否定されればわたしのは崩壊する
納得できればただちに撤退する
自然と学問とは何かで人間を理解したいだけ 「素人」が自然を理解すること、あるいは物理学をすることは、
「専門家」がそれをやることとは違うべきだろう。
「素人」が「専門家」の真似をしても仕方ないし、「専門家」に
よる知識のシッタカをしても滑稽だ。
かと言って「専門家」以上のことは、なかなかできない。 ファイアアーベントは専門家の過ちを素人が正すことは良くあると語る
わたしの尊敬する学者も素人の意見は一概に軽んじることに警告を発している 専門家の科学者が死が何処からと特定できないと語る
わたしは物理として生死は無いと理解している
ワインバークは宇宙の始まりまであと僅かだと九十年代に語った
彼の研究グループは未だに・・・
最終方程式まであともう少しだと八十年代末に語り観測問題考えると抽斗の銃に手が伸びると
神の方程式というのがテレビで放映された
わたしは甚だ懐疑的にならざるをえない
専門家ラーナーもその著書で否定的に語る
数式と対象の関係を=だと理解している節がある
ビッグバン仮説は認識に必要な終始が自然に存在すると思っている
科学はまだ認識論を正面から取り上げようとしていない
自然科学は自然認識
地動説は見たものそのままが自然ではないと示す 科学者は認識の在り方については素人ではないかと
理数系と対話した時に物理として生死が実在していないということを認識していないので驚いたことがある
時間が実在するかというとはなはだ怪しい
次元は認識器官の結ぶ像の抽象
存在するはずもない 科学というか学問とはということも未確定なんじゃないかと
本質は未だに、そして基本もまだまだ未確立 成果を上げるって難しいな
生まれた時代や自分の能力に応じて、
「選んでいいテーマ」「選んじゃいけないテーマ」がある
時代が早すぎた、なんてのはテーマ選択の失敗でしかない
自分の学生の面倒を見るんだったら、学生に冒険なんかさせちゃいけない
でも、平凡な学生を就職させて終わり、じゃ俺が楽しくないから、
才能と冒険心のある研究者さん学生さん、いないかな〜(邪悪) 「素人」は「学問」とか「アカデミック」とかから自由であるのが良い。
学歴コンプレックスやら、学問コンプレックスの素人が、学問や
アカデミックに憧れたり、妬んだりしてへつらうのは滑稽。
学問素人は、消費者が商品を吟味するように学問成果を評価するがよい。 >>482
学位の無いジャーナリスト崩れ官僚天下りを大学のアカデミックポストに紛れ込ませるのには感心しない 天動説時代の研究者が地動説支持者より天動説論者の方が観測は正確だったと記している
板倉氏の小冊では地球が丸いということに使われたという証拠が後世には違ってというか真逆に書かれたりしたと在ったと記憶している
手許にないのであやふやで済まないが興味があれば一読してください
幾ら観測が正確でもその理解が誤っていたら
ただ正確という意味では価値が有るということかな
観測発見した対象の理解が誤っていたことは科学史では枚挙に暇がないだろう
まず天動説、わたしが知っているのは酸素を発見した科学者
背景放射、赤方偏移はビッグバンの証拠と喧伝されているが違う理解を提出している天文学者がいてスムート博士は否定出来ないと語る
背景放射は二十世紀の二十年代かな、違う理解をした科学者の方が温度とかは正確でビッグバン論者の予想はかなり違うとか
それを訂正していった、つまり後付けに近いとビッグバン仮説の歴史を辿った理系の方が調べたことを書いていた
ブルーバックスの近藤氏も書いていた記憶がある
因みにネットでそれを書いた人は大学でビッグバン仮説を学んだがあることが切っ掛けで調べたら否定的になったとか 地動説から観測結果を見直してみたらこの方が周転円がかなり整理できてすっきりということが書いてあったな
ただ全部整理できたのかな
この辺は記憶にあまり無い
わたしが支持するパルメニデスの自然観とスピノザの規定理解から考えると観測問題、不確定性原理などがわたしには納得出来る
0に限りなく近いが0ではないという不思議な概念も
時間は存在しないという科学者たちの主張は納得出来る
重力というか諸力も違う理解が可能で力一般も消える
要するに自然が無矛盾であり、対象をその否定で規定するから
有を無で規定するからということに収斂するのだと 様々な問題、観測問題、不確定性原理、不完全性定理
ゼノン、二律背反、運動定義などなど
それは対象をその否定で規定するから
科学は認識したものがそのままの自然ではないことを示してきた
わたしたちの目の前の自然は自然が生成した認識器官の在り方に結ぶ像でありそれはそのままの自然ではないことだということを示してきたのが科学
静止は運動の一形態であるように粒子も波の一形態だとパルメニデスの自然観から導ける
不確定性原理は運動という有を静止という無で規定するから
つまり認識の在り方の問題ということ
不完全性定理は対象をその否定で規定するから
有を無で規定する、パルメニデスの自然観とそれをスピノザの規定観で理解するとわたしが躓いた諸問題がわたしなどには納得できる形で解決可能だという 少し前進して少なからず高揚している w
フラットアース批判スレは自分の理解が深化できて感謝している
視覚からすればフラットアースの認識はある範囲は妥当な認識
地球球体説も視覚からは真理
ただそれは認識器官に結ぶ像という意味であり、実はフラットアースと本質としては同等の理解
まあこの方が理解の正当性の範囲は全然広いのだが
形で規定するが形は無い
座標原点、此処からは無いし此処までもまた
静止で運動を規定するのと同じで有効範囲は広いが静止は実在しないのと同じ
静止は此処からの言い換えであり、また此処までも意味する
どこからが地球で何処までが宇宙か
いや地球と宇宙は否定関係ではなく一体で、何処から何処までというのは存在しない
何処から何処までで規定するが存在しない
何処からが地球でというのを物理として特定出来ない
座標原点は実在しないのだから 少し前進して少なからず高揚している w
フラットアース批判スレは自分の理解が深化できて感謝している
視覚からすればフラットアースの認識はある範囲は妥当な認識
地球球体説も視覚からは真理
ただそれは認識器官に結ぶ像という意味であり、実はフラットアースと本質としては同等の理解
まあこの方が理解の正当性の範囲は全然広いのだが
形で規定するが形は無い
座標原点、此処からは無いし此処までもまた
静止で運動を規定するのと同じで有効範囲は広いが静止は実在しないのと同じ
静止は此処からの言い換えであり、また此処までも意味する
どこからが地球で何処までが宇宙か
いや地球と宇宙は否定関係ではなく一体で、何処から何処までというのは存在しない
何処から何処までで規定するが存在しない
何処からが地球でというのを物理として特定出来ない
座標原点は実在しないのだから ではまた次回があれば
いや知人が急死したんでわたしも判らんし
ってここのスレの方々も
余韻を残すな的なことは藤井棋士かな特集番組で解説者が語っていたことでもある
さてさてどこまで持論、自論を前進させられるのか
三十年前というか半世紀以上前からすれば格段に深化できたかなと
・・・これも余韻かな www 認識が自己言及という視点深化は大きい
カントが片付けられるし
これも採り入れてまた展開し直したい 寝直すかな
近頃睡眠が不安定で睡眠特集番組を録画している
けっこう目につくのはこちらの関心が向いているからでもあるが
でもなんか最近多いような気がする
んじゃ
図書館で練り直しますか 奇妙な論理だったかな、ガードナーの著作は
天動説主流の時代には地動説はやはり奇妙な論理だったんだろう
イスラム、キリスト圏からは多神教とかは奇妙で受け入れ難いのだう
イスラムの人はお地蔵さんや神社破壊したりバーミアンだったかの巨大石仏破壊したりする
この生物には自然がこう見えるという番組があった
ある価値基準、ある視点からは、ということでしかない
わたしは論理とかもその一つで科学は認識の在り方と同時に論理の在り方も相対化しているのではと思う様になった
観たものがそのままの自然ではない
論理もまた自然をそのまま反映しているわけではないのだと
ただそれは自然という対象が絶対故の相対だと 人間もまた生物の一つです
目の前の自然は人間の認識器官の在り方に結ぶ像です
認識器官もまた自然の一部です
わたしは前提から様々な事象を理解したい
それは自己言及になり、人間とはという理解になるのではないでしょうか 素人からは科学者たちの認識論には異議があります
十九世紀の学者は科学者は哲学を軽視するがその実最悪の哲学に囚われてると語る
新たな突破口は認識論からなのではと
地動説は認識論的側面から考察すれば収穫があるのだと主張します アカデミック官僚を悪く言っちゃ悪いよ
彼らの努力があるから、大規模プロジェクトが動く
趣味で物理やる奴は、膨大な事務作業に忙殺されたりしないから、楽でいいんだよ
才能のある人財に事務なんかやらせちゃいかん
逆に、事務方に研究テーマを決めさせてもいかん どの辺がベストかね? 誰だったかな、普通の人たちが学問を議論しあう社会を夢見た人が居たな 資本論分析で三段階理論を創出して当時湯川理論に対してその妥当性を指摘した科学者が居た
当時はボーアをはじめ否定的に扱われていた
資本論はでたらめだという理系の理解に対して例として挙げたら、理系は哲学に弱いからと訳のわからない反論があった
まあ哲学に弱いのは解るが予想は正しかったんだよな
思想は否定するがその論理とか認識論は正当性を認めている学者は散見するし
学問は科学でさえ基本はまだだということかということではないかと ボーア等が否定的だったのは湯川理論に対してです
判りにくいかな わたしの自然観は運動するエネルギーの濃淡が親和反発してまた違う差異の濃淡を生成する過程というものです
次元も諸力も終始も生死も静止も無も有りません
最少単位もありません 自然が生成した認識器官の在り方で一が多として像を結びます
論理はその抽象です
認識と論理の相対化の歴史という一側面が科学にあるという理解です >>498
分かりにくいうえに、君は関係ない言葉を勝手に使っている
ボーアは、初学者が陥りがちな「数字合わせ」を嫌がっただけだ
湯川の理論は、理論とは言えないような、「こんな重さの粒子があるはず」という雑なものだった
(ミューオンとパイ中間子の質量が似ていたので、実物の発見に手間取ったが、幸運にも、あとで発見できた)
自分で考えず、著名人の言葉に頼るのは見苦しいぞ
何か思うなら自分の言葉で語れ 対象は同一だが認識器官の在り方でその像は違うという理解
静止、生死、終始、無は自然には存在しないが認識器官には像を結ぶ
カントの二律背反はそれで理解するがそれは存在しないということで解決可能という理解
自然に終始が無いなら形も無い
対象の問題ではなく認識する側の問題という理解
ウイルス問題と同じということ
いや間違っているところを指摘して、それが正当なら受け入れる
究極としては人間とはということがわたしの目的だから納得できればいつでも 自分の言葉ならほとんどない w
様々な偉人の納得出来る理解の納得出来る組み合わせ
幸運というのは貴方の恣意的な理解でしかない
武谷氏の予想は当たったんだから
貴方は何か業績あるのかな?
後出しであれこれ言われても武谷氏は苦笑するだけじゃないかな
評論家のそれにしかわたしにはあなたの言辞は映らない
これもわたしの恣意ではあるがそれはお互いさま
わたしはビッグバン仮説や最小単位説は納得できないし違うと予想している
先は長いが、真偽は対象が決めるという板倉氏の理解に納得する
さて、貴方の言葉はどこまで自分の言葉なのだろうか? さてと自論をまた展開することにします
少し時間がかかりそうだがやり遂げたい
自分が納得できれば満足ですから w >自分が納得できれば満足ですから
なら自室の壁にでも書いてろよ 科学雑誌読んでも観測問題、不確定性原理とから納得出来る理解は未だにない
それを専門家が提出できない限り専門家は不愉快な評言に耐えなきゃ
頑張れ、科学者たち
いやマジで
生きている間に観てみたいだけ >>506
いやいや理系にもたまに支持者がいたりするんですよね
承認欲求というか願望というか
手っ取り早いのはあなたが納得出来るものを出してくれることです 今は何でもありで良いんじゃないですかね
わたしはあくまでも無矛盾に拘りたいだけです
自然が無矛盾であることは光速度一定の原理が示し、様々な問題は規定するからだとわたしは理解します
認識の在り方と論理の性格が問題なのだと考えているわけです 老後の楽しみでもあります
音楽と映画、小説なども楽しみですが、人間とはということが解りたいしそれが一番関心があります
死ぬまで格闘したい 建設的にと心がけていますが難しいです
それぞれ納得して信じて居るわけですから
秀才の理系なら否定されたらなおさら
わたしにプライドはありませんから納得出来るなら自説はすぐ放棄します 明日のことは誰にも判らないわけです
ならば今日だけでも納得して生きなきゃいけないんでしょうね
なかなか困難ですが 自然も社会も過程として捉えます
なんとなくですが死なない存在のように自分を捉えていて滑稽てす でもまさかわたしに自説がもてるなんて考えてもみませんでした
諸学者に感謝します イベントを「発見できなかった」ことも大切な成果だよ
何十年も地底で観測を続けた、スーパーカミオカンデによる
陽子崩壊の「未検出」は、とても重要な成果なんだ(そして、役に立った)
観測事実を蓄積するというのは、そういう地道な積み上げだよ
だから、観測する人や考察する人に敬意を払おう
理解もせずに言葉尻だけ使うのは、いろんな意味で不敬で、見てて不愉快だ 歴史的事実として発見した事象を必ずしも正しくしは理解しないという事実を指摘しただけです
そんな例を挙げた本がありました
わたしが発見してこう理解したからそうなんだという方が傲岸不遜でしょう
科学もまだまだの段階だと理解しています
わたしはこう理解したら無矛盾な自然観になるという試論です
不愉快なら納得出来る案を示してください
わたしは観測問題や不確定性原理をもって自然が無矛盾であることや物質の実在が怪しくなったという理解は到底受け入れ難い
言われるのが不愉快なら納得出来る理解をと素人は思います
わたしの私淑する学者は素人の考えを参考にこそすれ、無視はしなかった
まして世紀をまたがり未解決なんですからそれは言われてもしょうがないと思います 陽子永遠説はプラズマ宇宙論のラーナーが支持していた
わたしは無限宇宙論支持なのでラーナーに与します 何回でも言います
自然科学は自然認識だから認識の在り方を考察すべきなのにやらないからだとわたしは主張します
科学は未だに見たものがそのままの自然だという天動説的認識論から免れていません ばーか
面白い奴は何を書いても面白いから読者が集まるんだよ
市場競争が全てじゃね いずれにしても真偽は対象が決める
有限宇宙論は前提や原理などを破るから論外だと考えている
否定関係の存在は無いとすでに証明しているというのがわたしの理解い
先は長いしああいえばこういうが続くかな 対象が無矛盾であるが故に決定不能というのがわたしの理解 楽しむのはよいことだ
アリストテレスも、楽しむタイプの天才だったな
(ヘマも多かったが、それを補って余りある、熱心な観察者だった) 全ては幻だと主張する人が時々出現する
では貴方もその認識も幻なのかという疑問が出てくる
ある科学ムック本で不確定性原理をもって物理の実在を疑う理解があるという記述があり、ふと幻説を想起した
不完全性定理で全ては決定不能となったという理解を吉永氏は紹介している
しかし決定不能と決定しなければ定理ではない
不確定と確定しなければ原理ではない
実はこれも認識=対象という理解ではないかとわたしは考えている
目の前の自然は認識器官の在り方に結ぶ像であり自然そのままではない
認識≒自然なのではないかということ
認識はそのままの自然を反映しない
地動説が示すことを本質として掘下げるべきではないのだろうかとわたしは主張する 奇妙な説は自己言及すると真偽が判るのではと最近思い始めている
わたしは対象が無矛盾でありそれを規定することが様々な問題を出来するのではないかと考えている
ウイルスは物理として存在しているが、それを生物非生物と否定関係で規定するから分類困難になる
規定自身が規定困難な対象を産み出すのだと
ウイルスは俺はどっちだと悩まない
対象は規定に関係なく在るのではないのだろうか
不確定性原理、観測問題
不完全性定理も対象が無矛盾でなければ成立しないがそれを規定するから不完全性〈定理〉なのだと
数学自身は無矛盾だが、自身では無矛盾であることは証明できない
それは規定の本質の問題ではないかということです
これも自己言及だからです
自己を他として認識するからです 有は無で規定される
そして自己言及して決定不能に
規定は否定だから
クレタ人の逆説です 不確定性原理という対象がある
不確定と確定しているから原理
不完全性定理もまた
不確定性原理は規定するから
不完全性定理もまた
これらは規定するからこそ
つまり規定の問題であり、対象の問題では無い
自然という対象
数学という対象
対象をその否定で規定するから決定不能に
不確定性は運動を静止で規定するから 現代科学は違う理解が必要だと主張する科学者たちがいる
時間はおろか重力も存在しないと主張する科学者も
わたしは認識の在り方を追及すれば解決すると理解している
自然科学は自己言及であり、自己言及とはを解明する必要があるのだと主張します
認識とは、規定とはということです わたしは自説が納得できる形で否定されれば受け容れたい
たんに自然、学問、最終的には人間とはを理解できればそれで良いと思っています
この目的に導いてくれれば良い
たとえ自説が否定されても
ただし納得できればの話です
さて自然に静止、生死、終始、無、次元などは実在するのでしょうか
在るというのなら存在証明義務を
わたしの非在の根拠は光速度一定の原理です
この原理の理解が違うと納得できれば撤回します キリスト教、数学はドイツ人が決着をつけました
共産主義は日本人が決着をつけました
科学の決着を日本人の学徒にとわたしは希望します
いずれも目的とは正反対でしたが
それでも誰かがやるでしょう >>533
最も困難な正面突破を教えましょう
ご存じプランク定数は極めて高精度な観測値がありますが、
なぜこの値なのか理論値が定式化されていません
挑戦してみませんか?
成功率は無いに等しく、誰かに先んじられては無駄働きだから、プロの研究者にはお勧めできんが、
あなたが趣味で研究しているなら、間違いなく面白いです
楽しく正面衝突 今日も明日も死屍累々♪ >>535
1がなぜ有るか? お前のキチガイ脳が理解できたなら解決 わからないことは未来もわからないと証明しなければ未来永劫わからないことにはならない
現在わからないことはなんら将来もわからないことを意味しない
現在わからないことはなんの根拠にもならない
それだけです 未解明事象は沢山有る
そのうちどれが永遠に未解明事象か解かればいろいろ捗りそう
わたしは何故自然が存在するのかは解らないと理解している
自然に何故は存在しないから
何故は認識するから
ミュンヒハウゼントリレンマ 在るも規定
対象を在ると静止で規定する
静止の存在が否定されて運動が普遍であり対象が無矛盾であることと証明される
静止で運動を規定するから決定不能に
自然は無矛盾、理解可能であるがゆえに決定不能 死後330年だそうです
フェルマーの最終定理(フェルマーのさいしゅうていり、英: Fermat's Last Theorem)とは、3 以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない、という定理である[注釈 1]。
フェルマーの大定理とも呼ばれる。ピエール・ド・フェルマーが「驚くべき証明を得た」と書き残したと伝えられ、長らく証明も反証もなされなかったことからフェルマー予想とも称されたが、フェルマーの死後330年経った1995年にアンドリュー・ワイルズによって完全に証明され、ワイルズの定理またはフェルマー・ワイルズの定理とも呼ばれるようになった[1]。 円積問題なんかは解かれるまでに2000年以上の歴史がある 〜は不可能を数学証明するのは非常に難しいということだ
制限条件でどんな方法でも不可能を証明しなければならない
ふつう従来の理論枠では証明できない、出来るなら頭いい誰かが既に証明してる
ゲーテルの不完全性定理から論理的に不可能な問題もある。
宗教、哲学、オカルトなどはその意味で論理矛盾した体系だから妄想でも何でもあり
このスレのようにキチガイ馬鹿がオレサマ説の言葉遊びで物理板を荒らす 大天才数学者ガウスでも19世紀の数学体系ではフェルマーの最終定理の証明が不可能 根拠は静止は実在しないという一点です
そこから展開しています
観測問題、不確定性原理、不完全性定理
ゼノン、カント、ヘーゲル、スピノザ
わたしが囚われた問題がわたしには納得出来る形で理解できたので
自然は無矛盾で認識は自己言及
静止、生死、終始、無は認識器官に結ぶ像で実在しない
対象はその否定で規定される
無矛盾であるが故の決定不能
極めて単純、極めて豊穣
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
というわけです
みーんな他人の思索と言葉ですがドゾ さまざまな問題は無矛盾な対象をその否定で規定するから
極めて単純かと
対象は一
有を無で、一を多で規定する
だから決定不能に
無、多は実在しない さまざまな問題は無矛盾な対象をその否定で規定するから
極めて単純かと
対象は一
有を無で、一を多で規定する
だから決定不能に
無、多は実在しない さまざまな問題は無矛盾な対象をその否定で規定するから
極めて単純かと
対象は一
有を無で、一を多で規定する
だから決定不能に
無、多は実在しない おめーが目を閉じても、パチンコ玉と釘は相互作用して運動し、下の穴に吸い込まれてゆき、今日の飯代がなくなる
目を開けて観測していると出玉が変化するなら、それは偉大な発見か、さもなくば、ホールの不正 ある物理状態はある物理条件ではこうなるというだけ
認識器官はその像を結ぶだけ 認識器官はその在り方に応じて像を結ぶ
ある物理状態はある物理条件に対応してまた違う物理状態に生成するだけ
それだけ
徹頭徹尾それだけ
パチンコは何十年もやってないな
付き合いでやったが十回とはやっていないな
競馬は一回だけ
重賞レースで誘われて1−8買ったが2−8でした
当たったらのめり込んでいたかも
ラジオで女性アナウンサーかタレントがビギナーズラックで当たり以来買う様になったと話していた
一八という寿司屋で食ってたら栗本慎一郎が入ってきて一品か二品食って直ぐ出て行った w 認識器官はその在り方に応じて像を結ぶ
ある物理状態はある物理条件に対応してまた違う物理状態に生成するだけ
それだけ
徹頭徹尾それだけ
パチンコは何十年もやってないな
付き合いでやったが十回とはやっていないな
競馬は一回だけ
重賞レースで誘われて1−8買ったが2−8でした
当たったらのめり込んでいたかも
ラジオで女性アナウンサーかタレントがビギナーズラックで当たり以来買う様になったと話していた
一八という寿司屋で食ってたら栗本慎一郎が入ってきて一品か二品食って直ぐ出て行った w それぞれの生物種は、独自の認識器官を持っているので、
同じ現象を体験しても、全く異なる像を結ぶ。
しかも、同じ種の同じ認識器官も場合によって異なる
特性を現す。ここでも異なる像を結ぶ。 認識器官の状態にも拠るからなあ
何もない白い部屋に居ると時間差はあるが皆幻覚を見るという実験結果
認識器官も正確な対応関係ではないということ
何も無かったら勝手に励起ということかと
人間なら精神状態とかでも幻覚あるし
思春期とかでも違うんじゃないかな
金縛りは二十歳くらいまで何回かあった記憶がある
疲れたりしても、肉親が死んだりしてまさに枕元に出てくることも
いずれにしても対象とはある程度独立しているんじゃないかな
ただ認識器官が無きゃ w
基本としてはあくまでも対象との関係で
それに経験の蓄積、文化の在り方でも違うし
ハムレットの亡霊は脚があったと記憶しているが
いずれにしても運動するエネルギーの濃淡の親和反発がまた違う濃淡を生成する過程という理解からは出ない
認識器官は自然が生成した自然の一部 その物理状態、意識状態が結ぶ像にある程度影響するということか
ただ認識器官が無ければそれらも無いわけで
そして意識が失われれば
ああ、物理状態で認識器官の範囲が違うし、勝手な励起とか
認識器官の状態にいろいろなことが関与して、それらが結ぶ像に違いをもたらす
場合によってはないものが いずれにしても認識器官に結ぶ像ということ
その認識器官の状態の差異で同じ生物でも違う像が
文化、経験の蓄積とかも
地球や銀河系を頭の中で眺めるとしても個体の知識とかが違えば違う対象になるようなものかな
赤ん坊の時しか知らない人と日常的に接していれば情報が違い像にも違いが出てくるようなものか?
幻覚もまた違う気がする 認識器官に結ぶ像ということでは変わらないということ
励起状態でなければ像を結ばないし、対象が無くても認識器官の状態と環境次第で幻覚が いわゆる変性意識、つまり瞑想やドラッグで意識状態が変われば、
世界の認識もガラリと変わる。
それは極端な話ではない、喜怒哀楽の状態やら、健康状態でも認識は変わる。 物理状態⇔意識
物理状態が出発点で以降は相互作用
で物理状態が遷移、つまり無くなれば意識もまた 認識論的に言えば「物理状態」は本来知り得ない。
カントの「物自体」のようなものだ。
我々が知りうるのは現象であり、それが「物理状態と感覚器の
交渉で成立する」とするのは単なる仮定に過ぎない。 感覚器官もまた物理状態ですよね
個人的には自然が何故存在するのかは解らないし
この物理状態はこの物理条件だと何故こういう物理状態に成るのかは解らない 繰りかえしますが
静止は実在しません
よって自然は無矛盾です 二元論では、世界は理解できずにおわる。
随伴理論では、そもそも説明すら失敗する。
結局、現象の一本槍でいくしかない。 対象は無矛盾です
理解可能です
しかし規定は否定ですから決定不能に
理解可能であるが故に >「物理状態と感覚器の交渉で成立する」とするのは単なる仮定に過ぎない。
感覚器官も物理状態ですから
そして自然には物理状態しか実在しません
運動するエネルギーの濃淡が親和反撥してまた違う濃淡に生成する過程として自然はある
これ以外ありません んじゃ寝ます
今日は疲れましたので
珍しく長時間ぶっ続けに動きました 無矛盾とは何ジュールに変換できるのかね?
そういう発想ができないと、叫んで寝るしかできないぞ (ぐっすり寝ろ) 認識する当体に無関心でいる素朴な一元論では、
世界は理解できない。
理解することがどういうことか、さえ理解できまい。 >>570 えへへ 間違いめっけ
単純なことほど、定理かどうかはよく考えないといけないんだよ
自然界に静止した素粒子が存在しないことはよく知られているが
なんで動くのか考えてみよう
動く理由には不確定性が含まれているのに、なんで無矛盾だと言い切るのだね?
思考停止は悪い習慣だ もっと苦しめ >>578
この人凄い人かも
>>576
もたぶん凄いこと言ってる… 無矛盾とは
無矛盾に計算や演算が成立したら計算だけのエネルギーになる、とか
矛盾でも計算や演算だけのエネルギーになる、とか
無矛盾は定義の定義が定義であり
矛盾は定義の定義が定義以外であり
両方宇宙は動き、計算演算だけのエネルギーがあり、エネルギーとして使えるようにする計算演算により使えるエネルギー、とか
無矛盾や矛盾も中身はグレーゾーンの構造化、とか
くらいしかわからない、これについてもわかる程度はこのくらい576に関しては
578についてはまったくわからんぜよ >単純なことほど、定理かどうかはよく考えないといけないんだよ
自然界に静止した素粒子が存在しないことはよく知られているが
なんで動くのか考えてみよう
動く理由には不確定性が含まれているのに、なんで無矛盾だと言い切るのだね?
思考停止は悪い習慣だ もっと苦しめ
愉しいね、えへへ
素粒子ってのは認識器官に結ぶ自然の濃淡の像
つまり渦ってこと
自然の存在形態は運動、つまり一であり終始は無い
濃淡であり終始は何処にも無い
認識器官は淡は無として像を結ぶ
また運動に理由は無い
というか自然を規定するが自然に規定は存在しないことを光速度一定の原理は示す
静止で規定するが静止は実在しない
ヘーゲルの運動定義、存在すると同時に存在しない
対象は無矛盾だが規定は対象の否定
たがら対象には存在しない
有は無で規定される
だから決定不能
自然に存在理由は無い 不確定というのは有を無で規定するから
つまり対象は無矛盾だが規定するから不確定に
不確定が確定しているから〈原理〉です
対象を規定するから不確定に
ウイルスは分類するから分類困難に陥ちる
俺は生物非生物、どっちに分類されるんだ?
なんてことはない
運動は静止で規定する
0に限りなく近いが0ではない
運動を静止で規定するから
座標原点は実在しない静止で運動を規定するということ
運動という有を静止という無で
対象をその否定で規定するから決定不能に
存在すると同時に存在しないという規定は正しい 自然科学は自己言及
自己を他として認識する
三浦つとむ氏の観念的な自己分裂
観念としての自己は実在しない
有を無で規定する
否定で規定する
規定するから不確定、不完全に
それは対象が無矛盾だから
分類するから分類困難な対象が
カントの二律背反は対象と規定の関係ということ
二律背反は規定するから
規定は否定
否定だから対象に実在しない
生物非生物という否定関係は規定するから
物理としては差異でしかない フラットアース説は大地が平らに〈見える〉という意味では真実
地球球体説も同じ
だが座標原点は実在しない
〈此処〉からは無い
どこまで地球、此処から外界なんてのは無い
形で規定するが形は実在しない
多で一を規定するが自然は多では無い
静止、生死、終始、無で規定するがこれらは自然には存在しない 規定するからこその不確定、不完全、観測問題
二律背反、決定不能などなど
極めて単純、極めて豊穣
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
印度の詩人タゴールとイギリスの小さい村のお婆さん名探偵ミス・マーブルの至言 見たものがそのままの自然ではない
地動説の本質を科学は引き継ぐべき
目の前の自然は認識器官に結ぶ像であり認識器官の在り方に拠る
素粒子というか最小単位もまた認識器官に結ぶ像でそのままの自然ではない
濃淡の濃は或る差異である濃に親和反撥してまた違う濃に生成される
言葉を変えればある物理状態はある物理条件に置かれると違う物理状態に生成される
自然科学は自然認識なのだから認識の在り方を追及すべきだと
自然科学は認識の在り方の相対化の歴史でもある 最近は早朝にこういうことしているから図書館では捗らない
たまに居眠りするんで注意されたりする
調べものするときは便利だし電気代はかからないし
我ながらセコいな
司書さんが可愛かったりして、今日は居るかな、なんてのも楽しみの一つ
美人で可愛い司書さんが転勤とかある
今年は中学生みたいな司書さんが入ってきて笑顔とその声に癒される
浮世絵美人の長身の司書さんは座ると15センチくらい低い司書さんより低くなる
先日身長差の分だけ腰の位置が高い男女発見
十センチ近く女性の方が低いが腰の位置が女性の方がその分くらい低い
図書館に顔が小さくてモデルみたいな女の子が居た
近所に185センチが二人、190越えが一人
マジで脚が身長の半分はある長さだが体形は凸凹なしの竹状態
モデル事務所でもあるのかたまに俺の背丈が一番低い女性集団が街に居てビビる
こんなバカな事書いていると疲れてまた注意されるな 規定が否定されて無矛盾が証明される
規定こそが宿痾 校正して投稿すべきだな
ささいなことだが濁点が w
某氏に忠告されたことを思いだした
いや読み返して投稿するがたしかに時間おくというのは必要だな
反省だけなら、か
虹自身時間はありと思いけり、か
あまり長くはないと自覚しているからあせりもある
なんかこれも決定不能の一つかも 光速度一定の原理は対象に静止は実在しないということ
つまり対象は無矛盾だと証明されている
それは規定の実在を否定することで示される 認識器官に結ぶ像=自然ではない
素粒子もまた認識器官という自然が生成した物理状態に結ぶ像です 訂正 w
>十センチ近く女性の方が低いが腰の位置が女性の方がその分くらい低い
十センチ近く女性の方が低いが腰の位置が女性の方がその分くらい〈高い〉 疲れた
二度寝はまずいらしい
最近どう睡眠するかに興味がある 個人的には意識問題をもう少し考えたい
関係ないが「進化は万能である」で生命の初源に言及しているがなんか違和感がある 久し振りに吉田秋生
海街ダイアリーは読んでみたい
図書館で検索したら初期はほとんど読んでいた
大島弓子、萩尾望都も再読したい
西谷祥子がオムニバスにもないんだよなあ
カスミ草に揺れるなんとかが古本で高かった
岡田史子とかも読みたいなあ
古本屋でも高そう
そういや神田の漫画専門の本屋が消えていた
バッハだけは全部聴きたいが
でもベートーヴェン、モーツアルトとか至宝ともいえる作品あるし
レコード初期で録音状態が悪いのに凄いなあという演奏がある
時代を超える傑作、録音機器の状態関係なしの名演
ああ、たんに好きなだけで音楽が判るというわけじゃない
音楽史読むと専門家も怪しいところが在るし
科学でさえなんだからいろいろまだまだ
終活しているのに w
ヒッチコック三十枚 6000円で
裏窓だっけ、無かった
あとフランス映画の傑作をまた見るかな
年間で六位だったが、今では名作映画の一位か二位に推される
東京物語も面白い
黒沢さんも面白いが、どちらかというと小津さんかな
フランス映画はピエロが回し役だつたかな
〇〇の人々 思いだせない w
最後の場面とかよく覚えている
天井桟敷の人々だ w
これは数回観ている
ああグダグダ
読みたい、観たい、聴きたい
煩悩の権化
けっきょく人間とはがわかれば満足
後は諦めるかな
でも科学の結論はヤバそうではある
解らない方が良いのではという予感 対象を静止と運動と規定する
静止が運動の一形態だと判明する
認識の在り方が相対化されていく
規定は否定だと判る
規定、つまり対象の否定だから対象には実在しない
つまり論理は実在しない
対象は前提であり無矛盾であることが判る
存在すると前提して無は存在しないことで存在という前提が無矛盾だと判明する
そして存在という規定は対象が無矛盾であるが故に、決定不能
無矛盾であるが故に決定不能ということ
決定不能は対象が無矛盾だから
だから〈定理〉であり〈原理〉
規定することが宿痾です 意識という附随現象がない物理状態がなければ決定不能も無い
自己言及可能な物理状態が生成されなければ不確定、不完全は関係ない
認識に対象化された自然はそのままの自然ではありません
有を無で、運動を静止で・・・
認識=自然と理解しているから観測問題は解決しない
ビッグバン仮説とかが支持されるし超紐とか最小単位が実在すると考えている
現代科学は未だに天動説的認識論から免れていない 決定不能は規定するから
規定しなきゃ関係ない
対象自身が決定不能なのではない
規定するからこそ
あくまでも規定する側の問題でしかない
ウイルス問題です いまだに物理的世界を粒子的に見ている者が多い。
世界は「場」であり「波」であり「確率」であり、「粒子」ではない。
「粒子性」とは観測者とのインタラクションで現れる「振る舞い」の
一種であり、実体はない。
粒子性はマクロな現象を説明するときの擬似的なもの。 ある物理状態がある物理条件である物理状態に生成するというだけ
物理状態は差異でしかないもので海の濃淡の状態
対象も観測者も一であり否定関係ではない
認識してもしなくてもある物理状態が渦となる物理条件におかれれば渦になるだけ
未発見事象は発見以前にも存在する
観測してもしなくても渦は存在する
認識に対象化するかしないかだけ
自然は認識と関係なくただ在る
人類が物理状態として遷移しても、つまり滅亡しても自然は在る 数百年後に世界は今世紀の学をどう振り返りどう評価するのかな
ああ数百年後が正しいとは限らないな
古代ギリシャの地動説をプトレマイオスが評価してもなあ プトレマイオスじゃなかった w
天動説だったが
歳なんで疲れるな
時々… 何回でも言いたい
科学者は認識の在り方を考察すべきだと インフレーション仮説は周転円
有限宇宙論?
有りえない 自然は極めて単純だと予想している
現代科学の考えるべきことは認識の在り方ではないかと
すでに自然科学は自然が無矛盾であるということを示している
観たものがそのままの自然だという理解が問題では無いかと >>606
お前が頑張ればいいんじゃない?
自分でテーマを見つけて、研究手段を作って、データを集めて、考察する
これは科学者でも宗教者でも、誰でもやることだよ がんばれ いろいろ躓いたことを解決したかった
ゼノン、カント、ヘーゲル、クレタ人・・・
数学の理解し難い概念、重力概念
不確定性原理、不完全性定理
人間とは、生きるとは、自然とは、学問とは
それが納得出来る形で理解したかった
いまでは決定不能と矛盾とは同じではないかと思い始めている
三浦つとむ氏は認識論ではたぶん唯一無二の学者に思えるが矛盾については根本的に間違えたのではないかと
これについてはプラグマティストが正しいのではと
弟子筋の板倉氏は弁証法は科学では無いと批判している
真偽は論理ではなく対象が決め、禁酒法、社会主義は社会がやってダメだったからノーだと
また氏は自然科学は無矛盾な自然が前提と言いながら観測問題解決は放棄している
滝村隆一氏は三浦氏の制度理解の論文から国家は人間が人間である限り宗教同様に滅びないと結論した
ただ晩年弁証法について疑問だったとか いろいろ躓いたことを解決したかった
ゼノン、カント、ヘーゲル、クレタ人・・・
数学の理解し難い概念、重力概念
不確定性原理、不完全性定理
人間とは、生きるとは、自然とは、学問とは
それが納得出来る形で理解したかった
いまでは決定不能と矛盾とは同じではないかと思い始めている
三浦つとむ氏は認識論ではたぶん唯一無二の学者に思えるが矛盾については根本的に間違えたのではないかと
これについてはプラグマティストが正しいのではと
弟子筋の板倉氏は弁証法は科学では無いと批判している
真偽は論理ではなく対象が決め、禁酒法、社会主義は社会がやってダメだったからノーだと
また氏は自然科学は無矛盾な自然が前提と言いながら観測問題解決は放棄している
滝村隆一氏は三浦氏の制度理解の論文から国家は人間が人間である限り宗教同様に滅びないと結論した
ただ晩年弁証法について疑問だったとか 三浦氏の自己言及の解明
板倉氏の論理観
山川偉也氏のゼノンの逆説の解説
これらが上記の諸問題を納得出来る形の解決に導いてくれた
・・・まあ知りたかったことが新約聖書学、数学、共産主義の結論同様あまり受け入れ難くはあったがブルトマンやヒルベルトみたいに受け容れなきゃいけないんだろう
めでたさもちゅうくらいなりって結果ですが受け容れなきゃいけないんでしょう
ニュー速で新約聖書学の結論を知っているキリスト教信者にぶつけたら、あんなものはだなあとキレていました
科学の結論はとりわけ一神教信者には発狂ものかと
哲板に行くとまだマルクス主義者が頑張っています
もはや信仰と変らずキリスト教信者と変らないとわたしには映りました
知りたかったことがあまりゾッとしないので
誰だったかな、学を追究して諦めて信仰の道に入った知識人がいましたが
まあわたしはブルトマン、ヒルベルトみたいに結論は受け容れます
理性はこの場合理解したいという感情の発露ではないでしょうか
わたしにとって理性は感情の一形態です
学の結論を受け入れないというのもアリでしょう わたしは幻覚体質でローティーンの頃からこれは幻覚だと自覚する体験がありました
あとで振り返るとあれは現実では無かったと解ることがあり、自分の見聞きしたことが現実だったのかと疑問に思えたりした
空耳とかは働いていた時に同僚が怪訝な顔してわたしの言うことを聞いてまた
真夜中の幻覚体験は怪談みたいでしたが三夜連続は怖かった w最近自覚した幻覚体験は亡き母がベッドの傍に和服姿に居て消えていったこと
姉の手術の当日の朝に目覚めたら亡き父の声が聴こえました
もしかすると見たものがそのままの自然ではないことという認識のルーツかも知れません
学生時代に中村希明?氏だったかの幻覚体験理解の本を読んだ記憶があり、自分の体質を知りました
因みに宮沢賢治もそうだったのではないかと記されていました
わたしの好きな漫画家の描写に幻覚体験みたいのがあり高校生時代の体験が幻覚だったのではないかと思えるようになりました
親戚がわたしと似た体験を話していていました
宗教好きだったので話しても無駄なのでスルーしました
母は宗教は信じないが霊魂とかは体験で信じていました
わたしの体験を聞いて真顔になっていました
ただ父母は激動の時代を生きてきたので思いは否定したくなくてそのままにしておきました 姉が少女漫画が好きなのでわたしも読みました
西谷祥子は現代少女漫画のルーツではないかと思いますが図書館にはありませんでした
萩尾望都にマリーン、アメリカン・パイという短編があり面白かった
思いを描くという意味では少女漫画の方が一日の長があるような気がします
アメリカン・パイは定番の病で亡くなる少女の話ですが唯物論者の主人公が人の思いはどこに消えていくのだろうかと呟きます
大島弓子とか高野文子、岡田史子とかいろいました
ゲーテのファウストとか古典はやはり面白いのですがマンガもわたしには魅力的です
あまり時間が無い予感がありますので取捨選択しないと
でも自分の解りたかったことが納得できたからもう良いかなとも思えます
終活段階なのでいろいろ棄てなきゃいけません
ただあの時の思いを再現したいなあと思うので難しい
小さい時に空を見上げ、宇宙の果てに壁があるのかなと思ったことを思いだします
そんな思いとか納得できて納得できない形で解決したつもりです
この認識の正否は知ることはないでしょう
肯定されても否定されてもある意味満足、ある意味不満かな
どこまでも決定不能は付きまといます
バッハの思い出を書いた奥さんの本を読むと信仰って環境次第ですが幸福な思いになれるんだなと羨ましく思いました
現代では宗教は不幸をまねくようですが
わたしは学を愉しみます 姉が少女漫画が好きなのでわたしも読みました
西谷祥子は現代少女漫画のルーツではないかと思いますが図書館にはありませんでした
萩尾望都にマリーン、アメリカン・パイという短編があり面白かった
思いを描くという意味では少女漫画の方が一日の長があるような気がします
アメリカン・パイは定番の病で亡くなる少女の話ですが唯物論者の主人公が人の思いはどこに消えていくのだろうかと呟きます
大島弓子とか高野文子、岡田史子とかいろいました
ゲーテのファウストとか古典はやはり面白いのですがマンガもわたしには魅力的です
あまり時間が無い予感がありますので取捨選択しないと
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終活段階なのでいろいろ棄てなきゃいけません
ただあの時の思いを再現したいなあと思うので難しい
小さい時に空を見上げ、宇宙の果てに壁があるのかなと思ったことを思いだします
そんな思いとか納得できて納得できない形で解決したつもりです
この認識の正否は知ることはないでしょう
肯定されても否定されてもある意味満足、ある意味不満かな
どこまでも決定不能は付きまといます
バッハの思い出を書いた奥さんの本を読むと信仰って環境次第ですが幸福な思いになれるんだなと羨ましく思いました
現代では宗教は不幸をまねくようですが
わたしは学を愉しみます 姉が少女漫画が好きなのでわたしも読みました
西谷祥子は現代少女漫画のルーツではないかと思いますが図書館にはありませんでした
萩尾望都にマリーン、アメリカン・パイという短編があり面白かった
思いを描くという意味では少女漫画の方が一日の長があるような気がします
アメリカン・パイは定番の病で亡くなる少女の話ですが唯物論者の主人公が人の思いはどこに消えていくのだろうかと呟きます
大島弓子とか高野文子、岡田史子とかいろいました
ゲーテのファウストとか古典はやはり面白いのですがマンガもわたしには魅力的です
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でも自分の解りたかったことが納得できたからもう良いかなとも思えます
終活段階なのでいろいろ棄てなきゃいけません
ただあの時の思いを再現したいなあと思うので難しい
小さい時に空を見上げ、宇宙の果てに壁があるのかなと思ったことを思いだします
そんな思いとか納得できて納得できない形で解決したつもりです
この認識の正否は知ることはないでしょう
肯定されても否定されてもある意味満足、ある意味不満かな
どこまでも決定不能は付きまといます
バッハの思い出を書いた奥さんの本を読むと信仰って環境次第ですが幸福な思いになれるんだなと羨ましく思いました
現代では宗教は不幸をまねくようですが
わたしは学を愉しみます 自分が満足できればそれである意味良いのかな
でもやはり正否はしりたくあるわけで
人間は徹頭徹尾感情的なのではないかと 科学はいつその自然観を確立するのでしょうか
わたしの興味はそこにあります
不完全性定理で数学がゲーム化したとある数学者が書いていました
真偽は解りませんが諦めの気持ちもあるのかな
科学者はどうなるのでしょう どうにもならん
この世の法則がどうであれ、
お前の承認欲求が満たされる未来は無い せいぜい苦しめ それはあなたの感想ですね w
未来はないということをここで証明してくれればと思いますが
部分的には承服してくれる方たちもいたりしますので 否定も肯定もできる段階じゃないのではと思います
科学の成立前提、原理などを守る自然観を確立したいと思います
いや、肯定されなくても叩き台になるだけでも幸福です
それだけの価値があるということですから 自然科学は自然認識ですから
認識とはも問われるべきではないでしょうか
また論理の性格も同じかと わたしの問題意識が理系の徒に届けばそれだけでも良いのだと思います 承認欲求は少しは満たされていますから
正否が解からないのでコペルニクスを気取れるかと www 応用物理技術の急激発展を悪用すれば、画像AIで物理法則を無視した
超常現象のCG動画が現実の実写映像と区別できない物が作れる
現代は‘百聞は一見に如かず‘が成り立たない、最後は物理法則を信じる
以外にない この物理状態がある物理条件におくとこうなるという理解です
フェイク画像もありますし、言われる通りかと
修正した画像をアップしたらガラスに修正以前のものがという悲喜劇が
例のソフマップのアイドル登場はいつも楽しみにしていましたが最近スレ見ないな
わたしが見つけないだけかな
神崎さんはわたしのアイドルです 自分なりの解決ができるとはとうてい思わなかったので至福だったりします
究極の自己満足かも
「奇妙な論理」というほんがありましたが
ある程度承服できましたが反発する人がいるのもわかります
と学会元会長がトンデモと切り捨てた理解が近年科学者たちの一派をなしていたりします
後世に森鷗外みたいな扱いをされるかも フーデニーのインチキ霊媒摘発は悲劇的な側面を感じます
彼は本物を求めた >>635 納得だぁ?
思考停止は知的な意味での自殺だよ
私は悪意に満ちているので、君にどんどん苦しんでほしいのだ 現代科学の主流はわたしを納得させてくれないのです
高校生の時はただ学べば真理に到達できるという素朴な学生でした
ある時上級生にゼノンの逆説を教えてもらい愕然としました
以来???の連続で学習から脱落していきました
理数系の論理にはとても納得できなかった
混乱の中で学習から脱落していきました
いろいろ読んで学は確立していないことを知りました
暗中模索が長く続きました
ただ選んだ学者に長短はありますが相対的に優れていたと思っています
わたしはとりあえずは納得しています
三浦さん、板倉さん、滝村さん、山川さん有難うございます
南郷さんも優れた方だと思っています
武谷さんは資本論から抽出したものは優れていたと思っています
思想として真理では無いからと全否定するのは違うでしょう
三浦氏はマルクスの概念の前提の理解が違うことを指摘して批判が違うことを示しました
数学者がマルクスの数学理解を批判していますが前提が違うので未だその正当性は解らないと思っています
いずれにしても学はまだまだなのではないでしょうか >>636
納得だぁ?
思考停止は知的な意味での自殺だよ
私は悪意に満ちているので、君にどんどん苦しんでほしいのだ
思考停止?
いや基本の確立です
そこから全てを探究して基本が正当だと認識したい
ある意味思考停止である意味その否定です
決定不能ということです
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる゛
ということです って某会議室の方が居そうな気がしますが
違うのなら幸いです って某会議室の方が居そうな気がしますが
違うのなら幸いです さてと天井桟敷の人々をまた観たくなりました
・・・わりと長いんですよね
でも面白い
わたしには、ですが
あまり余生は長くない気がするので好きな作品限定で鑑賞しますか 個人的には少しでも前進できる識見に遭遇できればと思います
個人の識見は狭いですし、それぞれの識見をたたかわせ検討すれば前進も可能かと
建設的にと思います 絶望せよ
誰からも認めてもらえず、貧乏と屈辱にまみれた人生が、嫌になるほど続くから!
定年退職したら映画三昧で暮らそうと思って、高価なプロジェクターを買ったけど、
結局また働くことになったやつが大勢いるよ
そもそも在職中に業績も利益も上げられなかった物理マニアを、家族や仲間がどう扱うか、
想像してみ? 正直に言いますとこの日本の学的展開がなかったらわたしの生はどうなったかと思います
わたしが囚われた問題は対象と認識の関係だったと解りました
ある意味どんな生も等価かなとも思ったりします
ある基準から素晴らしくても違う基準からは
また解決できなくても熱中できる対象があるというのは幸せなんじゃないかと
むろん解決したらとは思いますが
わたし自身はとりあえず囚われた諸問題の納得できる結論が得られたので満足しています
フラットアース説スレでは飛躍のヒントを得られて感謝しています
認識の相対化という視点を獲得できました
深謝しかありません 認識の相対化という認識・・・
どこまでいっても認識か
ミュンヒハウゼントリレンマ
何故の無限遡及
認識の無限遡及
自然に何故は認識は実在しない
ってことかな 認識しなくても自然は存在する
新発見という事実はそれを〈認識〉させてくれる
人類が滅びて認識されなくても人類が居たことは否定出来ない
ああ、知的生物が宇宙のどこかに居たということも、ですね
親しい人が亡くなると思いは何処に行くのだろうとアメリカンパイの主人公のような感慨に囚われます
ああ地球へ・・・の最後のコマも同じ主題かな 永瀬清子は迷走中の時に触れた詩人です
唯一詩集が何冊かあり、図書館でも借りたりします
八歳の、という短章集の一冊にある文章は雑誌に掲載当時に多分読んでいたと思いますが好きな文章です
クリスティは夏に通して読みましたが一日で二冊とか
レ・ミゼラブルはまさに三日三晩読みとおしましたが
こういうのに限って記憶に残らなかったりします
チェスタトンも再読したい
虹自身・・・です
さてと満足したかというと肯定できますし、また肯定もできません
でも囚われた問題は自己満足ですが解りましたので良しとします
人生の黄昏時に認識の相対化という視点獲得できたことは僥倖ってのかな
さてと問題はまだまだあります
愉しみます でも満足しています
ファイアアーベントの専門家の過ちを素人がただすということになるかも
いや個人的な願望です
自己満足ですね w 少しでも前進したい
そのためには建設的に行きたい
・・・まあ自分が正しいと思ったことを否定されたらと思うとわからないではありませんが
わたしは蒙を拓いていただければなんでもと
ゼノンの逆説の理解が突破口でした
納得できればなんでも受け容れます 認識器官はそのままし自然を反映しない
測定は近似値でしかない
それは対象の問題では無く規定の、認識の側の問題だと
対象が無矛盾だからこその不完全
不確定性原理は有を無で規定するから
ゼノンは静止で規定する、つまり有なのに無で規定しなければならないから
カントの二律は因は対象をその否定で
ヘーゲルの運動定義は静止で運動を規定するから
対象が無矛盾で規定は否定だからこその自然科学、哲学の諸問題が 認識器官はそのままし自然を反映しない
測定は近似値でしかない
それは対象の問題では無く規定の、認識の側の問題だと
対象が無矛盾だからこその不完全
不確定性原理は有を無で規定するから
ゼノンは静止で規定する、つまり有なのに無で規定しなければならないから
カントの二律は因は対象をその否定で
ヘーゲルの運動定義は静止で運動を規定するから
対象が無矛盾で規定は否定だからこその自然科学、哲学の諸問題が 規定そのものが否定されて対象が無矛盾だということになる
つまり対象の問題では無く規定の問題だということです 自己満足という危惧はありますが
それが学の進展に寄与できればこれ以上のことはありません
生きている間には正否が解からない方がコペルニクスを気取れるかな w コペルニクスは生きてるうちに成果を手にすることはできなかったよ
成否を気にするような、安っぽい奴に、コペルニクスを気取れるかな?
無理だよ、あんたは承認欲求ばかりが強すぎる
と、お説教はそこまでとして、
自然界の「観測」とは生き物である必要などない
電子同士が衝突したり、光が当たって水素原子の起動が変わったりするのも「観測」だから、
パチンコ玉が釘にあたって多体運動するのを眺めて、物質世界の無常を悟るのも宗教者としての修行であるぞ
自己満足と世俗的栄誉、聖と俗、己のネジの一本一本まで内観できるようになって、ようやく一人前の科学者だと思うが? いかに
そして無矛盾に固執するのは、一個人の不幸を呪う心の裏返しではないかね?
でも、君が他者から認められないのは「あたりまえ」であって、それは私の下す低評価と矛盾しないよ
星占いと同じだよ 天体が一家一人の命運に左右されるか? されないよね たまに認められるけどね w
かなり前に理系の准教授だったかな
いや観測行為は主体が必要だから
意思があるかどうかだし
自然認識は自己言及だし観測もまた自己言及の性格がある
自己を他者としてということ
だからこその不完全、不確定 たまに認められるけどね w
かなり前に理系の准教授だったかな
いや観測行為は主体が必要だから
意思があるかどうかだし
自然認識は自己言及だし観測もまた自己言及の性格がある
自己を他者としてということ
だからこその不完全、不確定 たまに認められるけどね w
かなり前に理系の准教授だったかな
いや観測行為は主体が必要だから
意思があるかどうかだし
自然認識は自己言及だし観測もまた自己言及の性格がある
自己を他者としてということ
だからこその不完全、不確定 ・・・もしかして晴明さんかな? w
あちこちでやらかしていているんでいろいろ思い当たる人が多すぎて 無矛盾は自然科学の成立根拠でしょう
手放しません www 無矛盾は自然科学の成立根拠でしょう
手放しません www 無矛盾は自然科学の成立根拠でしょう
手放しません www 無矛盾は自然科学の成立根拠でしょう
手放しません www 無矛盾は自然科学の成立根拠でしょう
手放しません www 無矛盾は自然科学の成立根拠でしょう
手放しません www 無矛盾は自然科学の成立根拠でしょう
手放しません www 重複投稿新記録だな
カーソルがよぎるだけでエロアニメジフにアクセスしてしまう
歳のせいもあるのか? さて、量子の話だ
量子というデジタルな媒体を通じて成立するこの世界は、
アナログ情報が消失する、闇の世界なのだろうか?
「近似」云々とはそういう意味だね
しかし、量子はお互いに「観測」(つまり相互作用)し合ってカオスを生み、そこに多くの情報が保持されるから
量子でできたこの宇宙からは、複雑さが失われないよ
とはいえ、無限のエントロピーがあるのではない
空間がエントロピーの上限を決める原理について、皆さんはどう考える? 近似はそのまま自然を認識することは不可能だから
自然は運動するエネルギーの濃淡
粒子は波の渦の状態
あくまでも認識器官に結ぶ像でしかない
自然科学は自然認識であり認識の相対化の歴史でもあるから認識の在り方を考察すべきという理解 対象は運動変化している
認識器官に結ぶ像としての物理はであってではない
生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると規定する
規定は否定だし、自然科学は自己言及
だから決定不能
物理状態はであってではない、それが状態の質的遷移が生死と認識される
物理自体としては生死は無い
消失とは認識の在り方の問題 理解の対象は認識に対象化されたもの
根本としてそれは意識されなければならないということ
地球が球体として理解することは平面説よりはるかに適用範囲は広いがだからと言ってその理解が正しいとは限らない
座標原点は実在しない
ここまで地球、ここから外界とは峻別できない
たしかに球体として認識器官には像を結ぶ
これもまた認識=自然という天動説、フラットアースと認識することの同族ではないかということ 自然の存在形態は運動であり単純そのもの
運動するエネルギーの濃淡が親和反撥してまた違う濃淡に生成する過程でしかない
認識器官は淡を認識しないから一は多として像を結ぶ
此処からは存在しないということは此処までも無い
静止、生死、無、否定関係は全て認識の在り方の問題 認識の在り方の相対化が現代自然科学の課題だということです
認識=自然と理解することが宿痾になっている
地動説は静止という認識を相対化、つまり静止は運動の一形態としました
規定は対象の否定であり規定の実在を否定して対象が無矛盾と証明された
光速度一定の原理は静止で運動を規定して静止の実在を否定する
自然が無矛盾だと証明したのは規定そのものを否定することによる やはり説明が不十分かなと思い始めている
愉しみが増えたかも 勝ち負けではなく学の進展をという建設的な視点から議論したい
・・・まあ自尊心など無い素人になんでなにとぞご寛恕のほどを 誤字とかいろいろある投稿ですね
疲れました
乙女の本棚が読みやすいです
若い時に読んだ短編が幾つかあり懐かしい
新刊は外国作家ポーの黒猫
今までは日本人だけです
谷崎さんの弟の翻訳で全六巻もっていましたが開きづらかった
古本屋で見かけたんで食指が動いたんですが買いませんでした
再読して記憶が怪しいどころか無いものも
最後の方で読んだなと思ったり
全部記憶していないからパンクしないで済むんでしょう
でも面白かったのに記憶にないのはショックです >>677 甘いよ負け犬
所詮この世は言葉で動くもので、それは君の愚痴ではなく数式にまとまるものだ
負け犬に用はない! 勝ち犬になれ(それでも犬かい) 数式に関してはへーゲルが言及していたな
神の方程式には疑問がある
ホーキング博士は最終方程式にまであと僅かだと語ったが同時に観測問題を考えると抽斗の銃に手が伸びると
さて神の方程式は観測問題を解決できるのだろうか
不確定性原理は、不完全性定理は? ゼノン、カント、ヘーゲル、スピノザ
観測問題、不確定性原理、不完全性定理
これらを納得できる形で理解したい
結論は対象と規定の問題になるのだということです
納得出来る解決案は未だ示されていないわけです 当たり前だのクラッカー (何歳w)
お前の長文はお前の欲であって、スレを汚していい理由にはならないぞ
解決案が示されていない? そうだな、お前はどう解決する?
シンプルな答えがあるなら書けばいいし、
途中なら途中と正直に書けばいい(それとて、三行でまとめよ)
長々と承認欲求を垂れ流す愚者は、見ていて不愉快だ なんかね
あんた甘いよね
真理に到達したい欲求よりも承認欲求が勝ってる感じ
真理に到達したい欲求があれば他者に自分を納得させろみたいな甘い事言わず
本当の学問を自分で学ぶよね
本物の学者のほうがあなたなんかより相当ラディカルだよ
そして本物の学問の方が一億倍面白い
わかった気になるよりね 科学に革命が興るならば、現在の物理学が説明できていることに加え、
最低限、次のことを解決すべきだ。
@量子力学の不備を解決する。
A相対論の不備を解決する。
Bダークマターを説明する。
Cダークエネルギーを説明する。
D遠隔作用/近接作用に決着をつける。
E意識について説明する。
その理論は簡潔な方程式で書かれているはずだ。
それが世界についてどんな解釈をもたらすかは別なことだ。 Eは物理とは関係ない、医学や生物学の領域だと思う
@とAはどういう不備なのか、個別に言わんと分からん
同じく
BとCも、何を説明したいのか、たぶん何も考えていないっぽい
Dの決着とは、どういう事だ? さっぱりわからん
つまり、こんだけ書いても、中身が何もないのだ 自然科学は、すべての現象を整合的に説明する意図を持つ。
意識も、勿論、現象のひとつである。
だから、ニュートンを含めたそれ以前の人々は、意識(精神界)も対象とした。
自分たちの手に負えないと、その問題を放棄したのが現代の科学者たち。 >>683さんそれ、
パルメニデスさんに言ってるの?
批判してる凄い人に言ってるの? >>689
何も無いところから情報を得る・・・・・それを妄想という 時間は実在するのだろうか
観測問題は?
最小単位はあるのか
不確定性原理は何を意味するのか
エネルギー保存則の破れが言われたりするけどどうなんかな
ビッグバン仮説は対象に宇宙非宇宙を想定している
光速度一定の原理は絶対座標の実在を否定しているし
エネルギー保存則は物理として何も生まれない無くならないらということだが宇宙は生まれるというのは?
わたしが生まれるとは物理状態の遷移だし死ぬこともまた
だから物理として生滅は無いが宇宙の生滅を主張するのは解らない
赤方偏移、背景放射は天文学者が違う理解をだして異論を唱えている
十の証拠から十の理論がということ
天動説が典型で酸素発見した科学者、火星に運河を発見した天文学者などなど
たしかな証拠は実はない
科学の前提の確立ということ
対象は無矛盾でないと ビッグバン仮説は科学の前提原理原則を否定しているとしか思えない
これが主流というのはいかがなものかと 自然科学は自然認識だから認識の在り方も探求しないといけない
静止は実在しないが静止で運動を規定する
これは何を意味するのか
生死は物理として存在しないが静止で規定する
この意味は考えられて良い
疲れた 寝ます >>693
歴史とともに知識は蓄積されてゆくよ
アリストテレスの時代には「ウナギは泥より生ずる」と書くのが精いっぱい
汽船の時代になって、大西洋サルガッソー海で産卵しているのがわかり
20世紀に深海探査艇で日本海溝へ産卵に向かうウナギが発見された
そして2023年、ついに完全養殖に成功!
しかし謎は残ってるんだ
川のウナギと海のウナギでは、海のほうが圧倒的に子孫(DNA)を残している!
だったら川に遡上する意味はあるのか? 技術は進歩し、謎は尽きない 実在しない静止で運動は規定されます
座標原点は実在しない
此処から此処までも実在しない
数は実在しない
存在しない数で物理量を規定する
物理量自体は認識に対象化された物理状態の量的認識
有は無で規定される
不確定性原理、0に限りなく近いが0ではないということ
近似値の必然性
認識の相対性ということ
観測問題、不確定性原理とは何か
ハイゼンベルクは現代科学は数式で矛盾を覆い隠していると批判した
ホーキング博士は観測問題を考えると抽斗の銃に手が伸びると言った
神の方程式はこれらの理解をどうするのか
数式は物理量の理解で〜とは何かということを解決するのだろうか
数式とは何かを数式は導けるのか 観測して知識は蓄積されます
どう理解したら良いのか
認識器官に結ぶ像=自然という理解は否定されます
コペルニクスは観測結果の納得出来る理解の視点を古代ギリシャに発見します
知識の蓄積はある意味真理を導きますが、視点の転換が必要になります
認識の在り方の相対化です
今必要なのも自然観の転換じゃないでしょうか
数で規定しますが数自体は実在しないとわたしは理解します 数式は武器ですが数式とはは考えられて良いのではないでしょうか
同時に自然科学とは自然認識であり認識とはも
数式も自然認識の在り方です いずれにしても光速度一定の原理とはということにわたしの理解はなるのでしょう
現代科学は観測問題、不確定性原理などを解明しなければ迷宮から脱出できないのではと
絶対座標の実在が否定されたということの意味です 理系の学徒に新たな視点を提供したいのです
現代科学は転換点にあるという認識は洋の東西の科学者に散見します
立花隆氏は量子力学は新たな理論を求めていると語ります
わたしは認識=自然という理解に疑問を持ちます
静止は否定されます
しかし静止は認識器官には像を結びます
粒子は認識器官、観測機器に像を結びます
これらの像はそのままの自然なのでしょうか
理系の学徒に認識の在り方の考察を提案します わたしの理解は学者や人間の感情を満足させないという予感があります
私の関心のある分野は惨憺たるものでした
逃げたくなるくらいなそれでした
でも受けいけなければならないんでしょう
タレブとかリドレーを読むと刺激的だが欧米の知識人は認識そのものの認識は考察していない
素人ですが認識論から理系の学徒に一試案を提案したいのです 資本論の分析から武谷三男氏は三段階理論を抽出して湯川理論に適用し支持した
当時はボーアなどは否定的だった
労働価値説とかは経済学者は否定しているが、労働概念とかいろいろ前提が違うのだと肯定する学者が論じていた
数学論もデタラメと批判する数学者がいるが、どうも概念とかいろいろ違うんじゃないかなと思える
武谷氏の業績もあるし、業績があれば批判も響くけど
マルクスの初期の抽象の分析は今の理数系の方も参考になると思える
武谷氏の産湯とともに赤ん坊を流すなという警告は生きているのでは
共産主義否定の道筋をつけた論文をものした学者は共産主義でした
歴史は皮肉で悲喜劇なんでしょうか >>703
認識はボトムアップでトップダウンではないと言ってますね
訂正します
ただカントとかヘーゲル、ゼノンは無関心りなのかなと思えます
いろいろ面白い指摘があるのですが西洋的創造学説は受け容れているようです 長生きしそうな人が思わぬことで逝きました
外出前にふと事故に遭うかもなどと思ったりします
亡くなった親しい人のことを時々思います
あの夏の数限りなくそしてまたたった一つの表情をせよ
恋歌ですかね
わたしは親しい人たちが亡くなる前に笑顔が見ることが出来たのでそれだけで救われます
日常の方に価値を置くというのは肯定できます
大学者にしても人類滅亡したらと思うと平凡な人たちも等価ではないかと
・・・犯罪者とかヒトラーとかもかな? 姉が教えてくれた短歌です
ネットから引用
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
栗木京子さんの短歌です。
観覧車に乗っている想い出を一生のものと感じる「我」と、一日程度で忘れてしまうであろう「君」との対比が、対句表現でいきいきと現れます。旧仮名遣いで書かれていることもあわさり、切なさや哀愁を感じ取ることができます。 視点を変え基準を変えたらの話ですね
認識には相対がつきまとうということでしょうか
君には絶対我には相対・・・かな 自然認識は相対化することで絶対に至るではないでしょうか 何か新しい事を書いてるつもりなんだろうけど手垢尽きすぎてる言葉を重要ワードのように使ってることに気付いてすらいない時点で評論の価値もなにも無いのよ いずれにしても革命が必要な段階
アイデアを求めて考えをめぐらしてみるのも一興かと
せっかく学問の転換期に遭遇したのですから
一生愉しめます ある物理状態がある物理状態に置くとこうなる
この理解を認識器官にも適用する
物理状態の一つとしての認識器官
諸生物の認識器官の多様性
諸認識器官自身の相対性
つまり認識も相対化される? 自己言及って否定で規定することです
自己を他でということですから
否定で規定するということが要です すでに独りよがりなリリックとしか言いようが無いこの文字の羅列を排出する事がこの人の言わば自慰行為になっているのであろう
道ばたで局部を露出す方々同様迷惑千番な話しだが止めようも無い 真偽は対象が決める
禁酒法、共産主義などなど
もっともらしくても社会はノー
ビッグバン仮説の証拠と言われるものは他の理解が可能と指摘されている
大構造問題は?
この説の変遷を概観したのが四半世紀くらい前に雑誌に載っていた
背景放射温度とやらは違う説の方がずっと予想値に近くビッグバン仮説は大きく外していると記している学者も
この説の変遷ぶりを天動説と重ねた学者も
わたしは終始は規定には必要だが実在しないと理解している
エネルギー保存則、光速度一定の原理が根拠
自然科学は物理として生滅を否定して、絶対座標の実在を否定している
確たる証拠がないのです
わたしは無限宇宙論に与します 当初の予想温度のことで今は変えたんで予想値に近くなっているというだけとのこと で、相変わらず個々の理解に対する反駁否定はないわけですか
理系の学徒かは判らないが
出来ないのならたんなる罵言に過ぎません わたしたちも物理状態にすぎません
認識とはを探究することを理数系の学徒に提案しているだけです
とりわけ自然科学は自然〈認識〉なのですから
自然科学は自己言及です
それは自己を他として規定する、つまり否定でということです
それが観測問題、不確定性原理をということです 此処からの実在は否定されている
ならば此処までも無い
宇宙の終始も粒子も否定されているということ
ゼノンの師であるパルメニデスの自然観を自然科学は裏付けている
自然は多では無いということです
否定の多で規定しているということです 四半世紀以上前と比べると基本は変わりませんが理系スレのおかげで進展したと実感します
うまく纏められれば良いんですが
あとは野となれ山となれ
わたしの生の問題ですが、わたしの理解が正しければ人間にとってはキリスト教徒における新約聖書学ということになりそうです
スレの題名思いだしました w 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
君を自然に置き換えると
・・・結論は新約聖書学みたいになりそうです 大学者は素人の考えを素人だからと言って否定しない
王様は裸と子供は叫ぶ
専門家は先入観で目をくらまされている場合がある
素人の素朴な見方が正しいことがあるのは否定出来ない
ファイアアーベントは専門家の過ちを正すことはしばしばあるではないかと述べている
それはともかく間違いだと言うのならば、具体的に指摘しないと
罵倒ばかりでは納得しないわけです 学問の結論は陰部になる場合があるのかも
少なくともわたしの関心のある学問は結論はそんな印象です 理系スレはトイレなのかな
下半身出さないと用を足せない
ああ思想の学問的追及もそんな感じだから学問そのものが・・・ 新約聖書学はブルトマンか田川建三
共産主義は三浦つとむの唯物史観と制度という論文とそれを受けての滝村隆一の学的展開
これらがお勧めです 滝村隆一の予想は中りソ連は崩壊した
欧州共同体は遅かれ早かれ崩壊すると予想していました
ソ連は七十年近くだったかな
さてどうなりますか 科学革命前夜遭遇している幸と不幸
ということかも
既成の学を信じる幸
学の新たな展開という希望がある幸
鷗外に成るかどうかはどうでもいいかも
まあ死んだら関係ないですが
考え方次第という側面もありますね
わたしはわたしの幸
貴方は貴方の幸
ってことかな 徹底的に自己言及に拘るべきかな
自己を他で
規定は否定
自然認識は自然の自己言及
運動を静止で
有を無で
愉しみませんか?
って人間は感情というか欲望が原動力で力と力のぶつかりあいってところがありますし
死から免れない限り宗教は不滅
地域利害がある限り国家は不滅
さてとどうしましょうかね
進化は万能である・・・のかな
人間である限りの枠、限界
欲望のぶつかりあい
自由とは必然性の洞察
ああ武谷三男さんの技術とは自然法則の適用だったかな
似たような感じです
南郷氏は技術と技能の連関と区別 わたしの場合、環境は最悪かつ最高だったのかもしれません
いろいろ縛られたゆえに
普通の生活が羨ましいような気もします
ただゼノンとかカントとか囚われると普通の生活は難しい
常に頭の隅にありますので
でも自己満足できれば良いんじゃないかと
自分なりに納得できる結論が得られましたので
ただ自然観は感情的に受け入れられない結論になりました
ハイネのドイツ古典哲学の本質の冒頭を思いだします
晩年に彼はキリスト教に回帰してマルクスに呼びかけます
わたしも死の床で宗教に回帰したりして
素人だからどうでも良いかな w
三浦つとむ氏もまた諦念を感じる文章を綴っていました
滝村さん、板倉さんはどうだったのかな 人間も自然が生成した物理状態です
その物理状態に生成する自然の像
諸生物の物理状態には差異がありますから像にも差異が有ります
自己言及に少しこだわってみませんか?
認識の在り方の認識も自己言及です 自然過程
自己言及
無矛盾
これ以外にあるかな
摸索中です
とりあえですが
いや学の進展に寄与できればと思います
爆死するかも知れませんが、納得できれば撤退します わたしの理解
三浦つとむ 弁証法はどういう科学か 〇自己言及 ×思想
板倉聖宣 新哲学入門 〇論理理解 ×観測問題
山川偉也 ゼノン4つの逆理 〇ゼノンの逆説 △終章の懐疑的言及 マルクス初期 新潮社版 ヘーゲル批判 抽象に対する理解 武谷三男 弁証法の諸問題
ラーナー ビッグバンはなかった
近藤さんのブルーバックス 二十年位前かと
科学の危機だったかな ラーナーのビッグバン批判があった
九十年代の学研のムックシリーズが面白かった 対象は存在を前提にして無矛盾が証明されれば良いというだけ
それだけだと理解しています
対象に論理は無い
ただ在る、それだけ 物理学と関係ない妄想をわめくキチガイが湧く理由が謎だな フォイエルバッハ 宗教の本質で認識論に於ける自己言及理解の初源
三浦つとむ 自己を他で、観念の自己が現実の自己を他として認識する
板倉聖宣 論理は静的という指摘
これらの指摘は規定は否定というスピノザの理解に繋がるのではとわたしは理解している 自然科学は自己言及です
自然認識ですから認識の在り方を考察すべきというのがわたしの主張です
このキチガイの妄想を粉砕してください
出来るのならば
優秀な精神科医である物理学の徒ならば容易い事かと w わたしは自然とは、学問とは、論理とはを通じて人間とはを理解したいだけです
この問題意識を納得してくれるのならばなんでも受け容れます
いや知的にはそれほどではないと自覚しています
だが知りたいのです
わたしの問題意識は個人的なのかも知れません
学問は何のためにというのは等人それぞれかもしれません
芸術のための芸術もありかなと
学問の為の学問もまた
ただそれは等価ではないのかと
どちらが正しいということはないのではと
自然科学の個別理論はある基準設定で展開されます
そしてその基準は相対化されるのだと
問題意識もまた相対化されるのではないでしょうか
学問のための、もあり
人間とは?という問題意識もありなのだと 訂正
この問題意識を納得してくれるのならばなんでも受け容れます
→この問題意識を納得させてくれるのならばなんでも受け容れます こんな指摘があります
気を付けたい
けっこう見かけます
明日は我が身
ここでも、いやなんでもありません
0952ウィズコロナの名無しさん
2023/11/08(水) 17:01:46.77ID:Uxk004O00
高齢になると前頭葉が劣化して理性きかなくてすぐ怒鳴る人いる
認知症みたいなもん
病気だから 小さい頃に空を見上げて宇宙の果てに壁があるなり壁の向こうはなんなのかなと空想しました
あるビッグバン仮説の科学者は自然が無限なんてぞっとすると語ったとか
同感しますが違うと思っています
自然は無矛盾であり理解できるが故に決定不能なのだというのがわたしの結論です わたしは自然の運動変化の過程で生成されまた違う物理状態に生成されるだけだと理解しています
ただその在り方は多様で唯一無二
愉しいが苦しくもあります
人間社会は少しずつ進化しているとリドレーは語る
ただやはり枠はあるのだと
その中でやるしかない
振り返ると最低で最高
最低だったから最高に
定めだと諦めていますが、だからこそ手に入れたものもあります バッハの思いでを読むと幸せだったんだろうなと思えます
主観的にはという意味です
客観的には解りません
ただその価値は相対的でありどんな基準もそうです
いや相対的を絶対とするのは偽です
でも絶対と思いこめればいいわけで
・・・自分にとって、ですから客観なんて大きなお世話かな
わたしなどから観れば羨ましくもありますが
うん決定不能か w 規定は否定だから規定自身が否定されることにより対象が無矛盾であることになる
自然の存在形態は運動であり座標原点で運動は規定されるが座標原点、つまり静止の実在は否定される
否定されて自然が無矛盾であることになる
対象が無矛盾でありそれを否定で規定するからこその決定不能
数学もまた
不確定性原理も運動を静止で規定するから
有を無で規定するから
クレタ人の逆説です
対象を対象の否定で規定する
理解可能だからこその決定不能
自己言及とは自己を自己の否定で規定するということ
自己を否定の他で
一を多で
運動を静止で
有を無で
生死とは運動を静止で規定するから
運動変化する対象を静止で規定するから
静止で規定するから生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると語る
物理は運動変化して静止することはないが静止で規定する
わたしという物理存在は静止することはなく運動変化している
大きく変化しても同一のわたし
やがて物理状態が遷移、つまりわたしは違う物理状態に、つまりわたしたちが死と認識する物理状態に遷移する
これも運動を静止で規定するから
規定は否定です
だから対象が無矛盾だからこそ決定不能にということです
規定が否定されて無矛盾が証明されます 不完全性定理、不確定性原理
定理、原理の意味を探究すべきかと
これらは対象と認識の関係の基本だということです
規定するからこそです 静止は認識器官に結ぶ運動の均衡状態です
認識の在り方は探求されなければならない
ああ、出発点に辿り着きました 三浦つとむさん、板倉聖宣さんの学績を深められたらわたしにとってこれ以上のことはありません 多重周回遅れのマルクスの屁理屈を人文系が孫引きする地獄絵図。 まあた罵倒だけの観音さん登場
具体的にどこがおかしいのか指摘しない、出来ない?
語彙を覚えて披露するだけ w まあた罵倒だけの観音さん登場
具体的にどこがおかしいのか指摘しない、出来ない?
語彙を覚えて披露するだけ w わたしの理解は単純
無が〈有〉ったら無にならない
科学は無は文字通り無は無いと証明したというのがわたしの理解
わたしたちが無と認識するのは認識器官には像を結ばない淡ということ
此処からは存在しないということは此処までもまた
粒子は認識器官に結ぶ波の渦の状態
次元は存在しないことがすでに示されている
四次元で規定するが四次元は存在しない
数は認識器官に結ぶ像の抽象
理系は認識の在り方を学ぶ必要がある
自然科学は自然認識なのだから
地動説は認識の在り方を相対化している
観測問題、不確定性原理もまた相対化ということ
光速度一定の原理は座標原点で運動を規定するが座標原点の実在を否定する
つまり運動が自然の存在形態、つまり静止は実在せず自然は無矛盾ということ
運動をその否定である静止で規定する
というか規定は否定ということ
現代科学は転換点にあると意識している科学者は多い
第二の地動説は認識は相対であることが絶対であるということで為されるというのがわたしの主張
光速度一定の原理が示していることだということ 数学もまた認識の在り方の一つ
不完全性定理は対象が無矛盾でありそれを否定で規定するから決定不能に
数学者もまた認識論を軽視しているから決定不能と決定するからこその〈定理〉だと理解していない
規定するから、規定は否定だからということ
自身が無矛盾ということは規定を否定しないと証明できない
規定するから決定不能にということ
生物非生物と物理状態の差異を否定で規定するから分類困難な対象が、ということ
規定とはという理解が必要なのだと 自然科学者はいつになったら自然科学は自然認識であるのだから認識の在り方を考察する必要があるのだと気づくのだろう
地動説は見たものがそのままの自然ではないという理解の端緒
科学という自然認識は認識の相対化の歴史という側面があるということです ビタミンは日本で発見される機会が、またその兆しがあったが指導的立場にあった学者たちが西洋には無いからと否定的に扱ったとか
従来の見方を固定的に理解したためとか
日本は外圧でしか変わらないという指摘があるが学問もまた
昔ある評論家は外国から波が押し寄せて築きあげた砂の城を押し流されるのが日本の文化だと指摘した
わたしは日本が波を起こすことを願う 学問は科学でさえ基礎が確立していない
現在の学の在り方を固定して理解すると危ういというのがわたしの主張 学問は科学でさえ基礎が確立していない
現在の学の在り方を固定して理解すると危ういというのがわたしの主張 学問は科学でさえ基礎が確立していない
現在の学の在り方を固定して理解すると危ういというのがわたしの主張 学問は科学でさえ基礎が確立していない
現在の学の在り方を固定して理解すると危ういというのがわたしの主張 学問は科学でさえ基礎が確立していない
現在の学の在り方を固定して理解すると危ういというのがわたしの主張 神の方程式とやらはどうなんかな
わたしは懐疑的な科学者に同感する 観測問題、不確定性原理の納得できる理解は未だに成しえていないし オマエの納得は関係ない、基地外が納得する物理学が無いのと同じ 今度は有と無を起点にして展開を試みることにするかな 量子力学の問題は量子力学を習得済みの者のみが語る資格がある
サッカーの問題に似非サッカーがクレームつけても無意味 古代ギリシャはほとんどの学問の原型があるということらしい
正直学者が基礎を抑えているとは思えない
不確定性原理、不完全性定理
観測問題などなど
その理解はとても承服できない
わたしは有と無の関係から合理的に理解出来ると考えている
自然科学は自然認識だから認識の在り方は考察されなければならない
理数系はその基礎を抑えていない
だからいろいろ過つのだと
不確定だと確定しているから原理
不完全だということが完全だから定理
理数系は認識の在り方を考えていないから未だに彷徨っている
対象が無矛盾であることは既に示されている 対象には論理も理論も存在しない
有を無で規定する、否定で規定する
そして規定は否定されて無矛盾と成る 近年時間の実在に疑問を投げかける科学者たちが出現しています
今世紀前後なら一笑に付されました
重力の実在にも疑問を突き付ける科学者も
半世紀前から現代科学の在り方に疑問を呈する大科学者たちがいました
三十年以上前に科学革命が必要だと主張する科学者がいました
以来洋の東西を問わずです
新たな考え方、新たな理論が求められていると
鷗外は彼が生きた科学のあり方を固定して捉え結果陸軍の脚気の死者は戦死者より多いという大惨事をもたらしました
不確定性原理で物質の実在に疑問が出てきたとか観測問題で・・・などという理解にはとても納得できません
わたし自身はやはり新たな自然観と認識の在り方の理解が必要な段階なのではと考えています
地動説は静止は運動の一形態であり、観たものがそのままの自然ではないということを示します
わたしたちの眼前の自然は果たして観たままの自然なのでしょうか
日本の理系の学徒に尋ねたい 基本は自然認識ということ
認識はそのま自然を反映しない
自然認識は自己言及、自己を他として
無矛盾ということが前提
ゼノン、カント、ヘーゲル、スピノザ
観測問題、不確定性原理、不完全性定理
エネルギー保存則、光速度一定の原理
これらは一つの視点から理解しうる
高校生時代から夢見た解決が実現したので満足している
あとはどう展開するかだけ
一生愉しめそう
ある論争から新たな視点を獲得できたりする
前世紀末、三浦つとむ、板倉聖宣、山川偉也諸氏の著作から学んだが、まだまだだった
・・・一区切りはしないといけないが、また違う視点が提供されるスレもあるかも知れない
カントの二律背反とかスピノザとか意外と豊穣なんで驚いている 哲学板でやっていただけないですか?
物理板ですので板違いです 鉄屑が状況を理解して適切な行動を取れるとは思えない >>1 パルメニデスさん!これ見て!
37 名前:ご冗談でしょう?名無しさん 2023/11/19(日) 14:13:05.62 ID:1I2F2Aov
色も、形も、音も、みな非連続的な感覚器で捉えているのに、
人はそれを連続的なものとして感じる。
脳内でスムージングしているからだ。恣意的だ。
38 名前:ご冗談でしょう?名無しさん 2023/11/19(日) 14:33:06.88 ID:???
>>37
>脳内でスムージングしている
健常者の脳は普通にそれが出来るがキチガイ、脳障害者にはそれが出来ない。
VHSビデオ動画をそのままデジタル化した動画を見ると最初は像ボケて酷いが
しばらく見続けると”脳内スムージング”機能が働いで普通に見れるようになる
健常者なら誰でも確かめられる事実だからからやってみれ。
39 名前:ご冗談でしょう?名無しさん 2023/11/20(月) 11:40:55.54 ID:???
脳に行く前に目の方でやってるぞ
40 名前:poem 2023/11/20(月) 16:51:09.21 ID:tx5Y1gcD
>>39 え?まじ?
てことは網膜で見えて、腕の皮膚で景色見れないのは
腕の皮膚にはスムージング機能が無いから?
↑
宇宙の真理はどうやら、否定で規定してないっぽいよ?これ見て思わない?
もし宇宙の真理が否定で規定してるなら
腕の皮膚で景色見れる隠れた機能なんて実在し得ないじゃん?
腕の皮膚で景色見れるなら否定で規定を越えてる
肯定で規定の宇宙の仕組みがなかったら実在し得ないじゃん! てことは網膜で見えて、腕の皮膚で景色見れないのは
腕の皮膚にはスムージング機能が無いから?
これの意味がわからないんだけど
なんで腕の皮膚がでてきた? でもなんか皮膚にスムージング機能意識して皮膚から見ようとするとうっすらかすかに知覚できるような… >>788 怪我の功名な凄い情報うっかり掘り出しちゃった系かもだよ… パルメニデスさんも
新たな人間の超能力可能性発掘しちゃった
人間の認識が→宇宙を作ってるって順番はまちがいだよぉ…あれ?これ思ってないし言ってない?
人間の認識がなくても→宇宙の機能に沿えば能力作れるんだよぉ…だから肯定で規定仕組みもあるじゃん無いまだ思う? 人間は自然の一部です
自然科学は自然認識です
つまり自然科学は自己言及です
自己言及は自己を他で規定するということです
自己ー他という否定関係で規定するのが自然科学の本質です
否定で規定するということはクレタ人の逆説、不完全性定理でわかるように決定不能となります
この場合は対象が無矛盾であるから決定不能となるわけです
運動を静止で規定します
物理状態の遷移を生死、終始という否定関係で規定します
一を多、無で規定します
これは認識器官の在り方に結ぶ像の抽象です
一である自然は濃淡として在りますが淡は像を結びません
無、真空として像を結ぶと言い換えられます
粒子は波の渦の状態です
粒子は認識器官に結ぶ波の一形態です
運動は静止、有は無で規定されますか
運動という有は静止という無で規定されます
有を0で、つまり0に限りなく近いが0ではないという規定になります
自然をそのまま理解出来ませんから近似値は必然ですし、生死は峻別できません
座標原点は実在しません
つまり運動を静止で、有を無、つまり規定は否定です
自己言及、自己を他で規定するからです たとえば観測事実は天動説で理解された時代がある
それが地動説で読み替えられる
学問はそういう側面がある
言語学でも似た展開があったと記憶している
新たな視点が同じ事実を違う理解に読み替えられる
たしかに不確定なのだろう
しかし視点を変えれば不確定ということが確定しているから原理と冠されるのではないのだろうか
不完全性定理も然り
実在しないという理解もまた天動説ではなかろうか
運動は静止で規定されるから0に限りなく近いが0ではないとする
それは有を無で規定するから
この原理は対象と規定が=ではないことを語る
カントの二律背反は終始で規定するが終始は対象に実在しないということ
形で規定するが形は実在しない
此処から此処までが実在しないのだから
認識器官に結ぶ像には存在するが対象には実在しない
不確定性原理も不完全性定理も認識の在り方の自己言及の性格を持つ
対象が無矛盾だからこそ決定不能になる
認識=実在ではないことを科学は地動説を端緒に示してきた
エネルギー保存則、光速度一定の原理、観測問題、不確定性原理・・・
生死、静止、粒子は認識には存在するが自然には存在しない
そして認識は自然をそのまま反映しない
測定値は近似値でしかないし、有は無で規定するからこそ不確定性原理となる
科学の歴史は認識の相対化の歴史でもある 近代科学とは自然と科学的方法で可能なことを天才が全力尽くして研究し、
得た数量関係の成果を何百年間も普遍知識として蓄積応用し続ける学問体系。
出来る事を何もせず、出来ない事ばかり妄想しようとする屑鉄キチガイの類
とは全く違うのだよ。 自然観察、観測、実験に根拠を置く限り、自然科学が妄想に飛んでしまうことはない。
しかし、それでは限界があることも確か。 規定は否定
静止で運動 ←本質
生死、終始 ←展開 本質論なんだよなあ
失念していた
新たな展開が可能になりそうです 本質論なんだよなあ
失念していた
新たな展開が可能になりそうです 本質論なんだよなあ
失念していた
新たな展開が可能になりそうです まずはその辺もあるけど
ライムだけでは何人かいるんだけど
それな