そんなわけで第25話ふるさと地球を去る50周年
「ふるさと」と「地球」ふたつの単語が並ぶ違和感によって、えらくカッコいいサブタイトル誕生
シルバー仮面もそうだけど、70年代のTBSドラマ作品はサブタイトルのセンス抜群だな

市川森一と云う脚本家の特徴として、キャラクターの行動と心理を同一軸上で処理せず、因果関係や他者視点などのファクターで複数の(ときには互いが矛盾した)事実を構築する、アンチ自然主義的な人間観が挙げられると思う
その上で本エピソードを観ると、深く物事を考えない思考停止した人々との関わり方と嫌悪感こそ市川脚本の原動力だったんだな、なんて妙に納得w
何とも胸糞悪くなるイジメ描写もアレなんだけど、市川森一らしさがあふれる「オルガンを運び出そうとする生徒と実に頭の悪そうな教師のリアクション」処理こそ本エピの白眉たるシチュエーションだろう
これは大多数の視聴者が「はあ?この話書いたやつは頭おかしいのか?」と受け取るのを前提としており、その短絡的な分析と結論で視聴者を無意識の悪意を持つ対象の側、即ち当事者の立場へと転換する超絶テクニックだ
因みに上原正三も例のあのエピで似たようなテクニックを使っており、いまだに多くのひとびとが術中にはまって的外れなこと云っているなw

前々回でも発動した「宇宙の法則」物語と、それを背景にした故郷との永遠の別れと云う、実にSF的な美しさを持ったアイデアを表向きにアピールしておきながら、観賞後の嫌〜な気分の源である、じゃみっこがサイコパス系思考を開花させる原因となったのは(描写されていない)ふるさとでの日常であり、それに気付けない奴らをラストのマットガンの銃口の先に想定するなんて反則技もぶち込んで来る悪魔のような完成度の脚本は、善意のアリバイに見せかけた南隊員の存在すら呑み込んでいる
そう、この作品中の南隊員もまた頭の悪い教師同様、自らの少年時代の記憶に引っ張られた思考停止の思い込みでじゃみっこを見ているのだ
さながら思考の一般化とか抽象的思考とか、ある程度の知的水準を必要とする世界の認知が行えない社会の在り方、ひいては個人に対する批判とも云えるかもしれない
しかしここで南隊員がバカなキャラクターのひとりに格落ちしないのは、彼がこの半年を通じて視聴者に与えてきた明確なキャラクター性アピールの賜物だ
いやあそれにしても第二クールのラストを飾るに相応しい、実に凄い脚本である
と云うよりもこんな作品を生み出す中期帰マンのクオリティ自体が凄すぎるのだ

好編に次ぐ好編で突っ走ってきた「九月の傑作群」は今回で終了、来週からは「十月の傑作群」が始まるよ
謎の吸血鬼映画も登場するぞ
みんなで観よう!