クオリアは欧米の学術論文でも大量に論じられるなど、確立した概念。
「クオリアは科学ではない」「問題でない事を問題だと言ってるだけだ」というのは通らない。
前野のように「錯覚だ」で通そうとするのも意味がない。「錯覚」などという物理学用語はない。
クオリアを錯覚と言い替えたところで、ではなぜそのような錯覚が生じるのか、それは物理学の
一体どこに位置づけられるのか、という質問に置き換わるだけ。
神経細胞の挙動とクオリアに物理的対応関係が見出せない現時点では「哲学的ゾンビ」は必然。
「クオリアがなければエピソード記憶もないので…」などと言っているが、客観的に見れば
脳には神経回路の蓄積しか存在しない。クオリアが生じたから神経回路に蓄積が生じるのではない。
「クオリアがなければ人間は生きられない」と言うのであれば、神経回路の蓄積にクオリアが
関与している証拠を提出すべき。
また、エピソード記憶はクオリアがなくても成立する。「赤」や「寒い」などの事実が記録できれば
エピソード記憶は成立するのである。
自分は「哲学的ゾンビ」はありえないと思うが、それは現時点で「現象報告のパラドックス」一点でしか
反論できないんであって、前野の議論は極めて浅薄である。