選びに選んでクズにばかり出るのは、独立直後はともかく、ここ30年の高倉健も、同様だが。
 その吉永が「吉永小百合映画出演99本記念作品」をうたった本作では、大女優・大俳優でありながら、おそらく来るオファー、来るオファーは、大体、もしくは全部受けていた、最後の世代だろう、田中絹代を、演じる。
うーん、ここからして、間違っているような気もする。

◎松竹大幹部になって後の、べらんめえ的にまくし立てる吉永は、よい。ホントに、よい。良くも悪くも明朗というか明快な演技が彼女の持ち味。
この面を押し立てて、別のキャラを作っていれば、吉永自身も大女優になれたかも。そのほかの場面の吉永は、生彩を欠く凡庸な演技。あいまいな演技、あるいは暗い役が、とことん似合わない。
 ついに吉永は大物女優ではあっても、大女優には、なれなかった。そういうこと。
◎後半は、溝口健二(役名は溝内健二)との、出会い。(略)
 溝口は確かに絹代に女優として惚れて、絹代を連続起用した。
 しかし、溝口が、小百合に女優として惚れるか。小百合を女優として起用し続けるか。おそらく、否。それが、本作最大の欠点だろう。
 絹代は、女優としての見栄を捨てて、女としての見栄を捨てて、女の業を描く溝口に、身を任せた。
 しかし小百合は、きれいきれいな第一線女優としての、見栄を捨てきれず、その女優の見栄を満たしてくれる凡作映画を、凡作三流監督を選びがちになった。
結果として、絹代は代表作の山を築き上げ、小百合は凡作の山をなした。このふたりの女優は、まったくの別物である。