1970年代
小林悟メイン。
他に数人が監督するも、色々あってなかなか定着せず。
東映出身の依田智臣なども参加。石井輝男も別名で一本参加した可能性大。
上記のようにメジャー系監督が変名で撮る事も多かった?
小林作品は前例の無い主観映像とズームアップの多用で観客と業界の度肝を抜かし、
内容はともかくとして「アップの東活」の異名を得る。営業成績がそれなりに良かったようで、
同業他社では「東活を見習え」という声も。

1980年代
1983年1月に小林悟が東活を離脱。
小林悟ロスの前後から、新田栄、稲尾実(深町章)などが別名義で番線維持。
藤原康輔、渡辺明夫といった生え抜き監督も登場。
その一方で、野火山爆(野上正義)の『異常性変態』のような「作家主義」の作品も現れる。
当時の東活作品は、きっちりした演技指導と映画作りだったとのこと。

末期
ヤクザ映画に銃撃戦にカンフーものなどわりと「何でもあり」状態。
藤原、渡辺両監督は若手でありスタイリッシュな作品を作っていた。
営業成績は低迷? 離脱劇場が相次いでいた。
オーナーの死去によって「何でもあり」は加速。
「どうせ会社無くなっちゃうから」と血糊も音楽も使いまくりで「お祭り」状態。