>>371
「どうやって撮った」って、モロに編集やんあれw

>>370
新東宝・大映・日活は戦後の興行網の整備で出遅れてしまい、封切館が都市部でも立地の悪い劇場
ばかりになってしまったのが痛かったとは言われるね。
(まあ新東宝はその成り立ち上、大した興行網も組めなかったし)

また皮肉な事に永田雅一が主導したとされる「五社協定」が巡り巡って大映と日活の足も
引っ張ってしまった。
大映も日活も50〜60年代当時は「スターが足りない」会社だったから。
日活も宍戸錠や二谷英明までが主演するようになったのはスター不足を補う為だったし。
(ちなみに小林信彦は「赤木圭一郎の死が宍戸を主演にした」説は否定していて、
「正確には赤木の死の前に宍戸の主演昇格は決まっていた」と指摘している)

渡哲也も60年代には興行力不足を指摘されていたがそれでも他に目立つ若手が少ないので
主演を続けざるを得なかったし、高橋英樹は興行的に手堅かった日活仁侠映画に延々と出続ける羽目になった
(高橋は「だからNHKの鞍馬天狗の話が来た時はせひと飛びついた。ヤクザ映画には
飽きてたから」と、、同時期に日活で高橋主演『日本残侠伝』を撮ったマキノ雅弘は
「高橋がNHKと掛け持ちで寝る暇も無い、なんで日活は役者をNHKに売るんや」と
言っているが当の高橋は日活の現場から逃げたがっていたw)

大映・日活もテコ入れの為に他社から大物俳優を借りてくるような事が余り出来なかった。

永田や堀(日活)としてはそれでも「いやウチの俳優を他社に取られては困るんや」
とそっちの方の心配でアタマが一杯だったのだろう。
結果的に大映・日活の方も打つ手を失ってしまった。

大映も「カツライス」(勝新・雷蔵)にばかり依存した挙句に69年の雷蔵の死で
それも出来なくなった。
そして、大映・日活が共同配給でスターの相互乗り入れも!、、と喧伝された「ダイニチ」、、
だが時すでに遅し、、