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 宮城事件の時の畑中少佐の動きについて考えてみる
 東部軍の田中大将は、オックスフォード留学の経験もあり、陸軍部内では知米派で通っていた
 徹底抗戦派とはまず一線を画しており、陛下に忠実で大命が下れば当然承詔必謹
 事態収拾後、自決しているのを見ても責任感が強く、肚も座っている
 このような人物の説得は難しいことは、畑中少佐や、井田中佐等も十分承知していただろう

 となると、めんどくさい上司は迂回してさらに上級者に話を持って行くのが、226の将校連や
 辻・服部参謀などに見られる陸軍将校の常套手段である
 ここでは東部軍を迂回しその上級司令部である第一総軍に話を持っていくという方法はなかったのか。

 客観的に見れば、杉山元帥は、田中大将よりはるかに説得が容易に見える
 部内では、どっちの意見にも動くからついたあだ名が「便所の扉」、という主体性の無さ
 参謀総長、陸相、教育総監の3長官を歴任、元帥府まで列せられる類を見ない華やかな軍歴
 それは、実力というより、その都度便利に担がれる形で、陸相、参謀総長、また陸相と、
 まさに神輿は軽くてパーの典型といえる。

 8月14日午前、杉山元帥は、軍令部長永野元帥、第2総軍司令官畑元帥とともに、陛下召し出され意見上奏しているが、
 永野とともに断固徹底抗戦を唱えている。なお、畑元帥は担当防衛については確信がないと素直に答えている
 これは自身がくらった原爆のこともあっただろうが、隷下の部隊の本土決戦準備が不十分であったことが大きい
 
 当然、第一総軍も決戦準備は似たり寄ったりのはずで、杉山も自信があったわけではないと思われる
 しかし、なにせ、日中戦争の時の陸相、太平洋戦争のときは参謀総長、戦争拡大の最責任者のポジションに
 いつづけ、その都度、心配する陛下に、大丈夫大丈夫大勝利間違いなし太鼓判とやってきていて、
 いまさら、もうだめですとは言いかねたのだろう

 ともかく便所の扉元帥であるから、森師団長でさえ心を動かした井田中佐の説得術なら、あっさり転んだ可能性が高い
 では、畑中少佐は、なぜ杉山の説得に行かなかったのか。だいたいにして、杉山はこの春まで陸相であり、陸軍省の連中は
 毎日挨拶していた相手で、田中大将よりはるかに顔なじみである

 結局のところ、杉山を陸相からすっ飛ばすよう策謀したのは、畑中少佐ほかクーデターを企てた面々であり、
 さすがにその杉山のところへ説得にいくのは ばつが悪かった、というところなのではないだろうか
 
 以上は想像なのであるが詳しい向きがいたら教えてほしいところである