【たけし軍団】3ー4x10月【大暴れ】
あの場面はタカではなく田口浩正でも良かったかもしれない。 最後の爆発は昭島辺りだっけ。
近所が一一〇番して大騒ぎになり三面記事やワイドショーで騒ぎに。
盗撮映像まで流れた記憶。 その報道を聞いた時点では
さぞかししょうもない映画なんだろうなと思ってた。
爆発シーン自体は映像的にも物語上のインパクトでも大したことなかったが。
ここで関係ない話をする。
リーサルウェポン4の冒頭は笑えたが爆発に至る流れが惜しかった。
タンクローリーに腹這いで滑り込む犯人を爆発に至るまでワンカットで撮れてりゃ最高だったのに。 玉置が裏返った歌声でセリフ吐けば良かったかもしれない。
ヘルメットいらなインだって。 俺の車、もう終わったんか?
えっ?
えっ?じゃねぇだろ まだ何もやってねぇじゃねぇか 良い意味で2軍のオールスター戦みたいな雰囲気の映画。
気負いはあるんだろうがそれを感じさせず、狙いがドンピシャなのかズレてしまったはずがうまくいったのかよくわからない風通しの良さがある。
拙さや不安定さを感じさせるがそれが独特の緊張感や速度を体感させるという意味ではたけし的。 沖縄にいきなりジャンプするシーンはだんかんが海でケツを洗う所から始まる。
このふざけた、狂ったどうしようもない導入が素晴らし過ぎる。
帰りの空港シーンもまた素晴らしい。
しかし、我々が驚嘆したシーンのことごとくを武は「あれは失敗」と言うのが分からん・・ もうとっくになくなった(というかあっという間に潰れた)成増8番館というがら空きの映画館で、帰りの空港のシーンで大爆笑したなあ。
ちなみにこの作品、一切劇伴が使われていないのも素晴らしい! ラストの夢オチだけど、あの終わり方で良かったのだろうか? ヤクザに対抗するのにパイナップル使うダンカンの泣きそうな表情が笑えた。
たけし映画にしてはこれ見よがしな感じ(してやったり感)が希薄で好感が持てる。
戸惑いながら撮ってた頃に比べ、手法に自覚的になってからはあまり面白くない。
後期作品を果敢な試行錯誤と認識する者もいるだろうが
「試行錯誤してるおいらは芸術家」という、本気なだけにタチの悪いパフォーマンスを見せられてるだけなんだ。 「ダンカンはなんとも言えないいい味出してる」
と言われがちなところがあるが持ち味が生きたのはせいぜい「蜘蛛の瞳」ぐらいだろう。
ユーレイやタカと違い、生来の映画俳優ではない。
役者としてのダンカンに普段の鬼畜な内弁慶ぶりや狂気を望むのは無理な注文なのだろうか?
>>18
「これ見よがし感」が何を指すのかは分からんのだが、事故前と事故後で
くっきりと作風が変わったとどうしても思ってしまう。下賎な勘ぐりかもしれん。
しかしあの何もかもが破滅的な「みんなやってるか」の、下らなさをそのまま下らないでしょ?
と差し出す生々しさと迫力を事故後はすべて失ってしまったように思える。
北野作品はHANA-BIから離れたんだが、その後恐る恐るブラザーを見た時はショックだった。
あの硬直さは一体…これが武がやりたかった事なのかと。
あの天才性と引き換えた物がコレなのか、と。 「これってくだらないよね?だってくだらないことしてるんだから」
と自己申告さえすれば良いと考えているような「みんな〜」は破滅的というより
緩慢な自殺行為を装った保身の身ぶりに見えて仕方ない。
くだらないことは本気でやらなきゃいけないのに、ニヒルな傍観者でありたい気持ちが勝っている。
物事を中途半端に投げ出してる自分ってものをだらしなくさらけ出した感じ。 くだらないことは本気でやらなきゃいけない
ウタ丸師匠が熱く語ってそうなフレーズですな。
確かに武は事前に自己申告を用意してるような印象はあるし、実際そうなんだろう。
しかしそれは底辺層の芸人がそこから這い上がる為の必須技術だったのではないですかね。
そういったサバイバル技術を馬鹿にするかの言説を自分は信用しないですね。
最後の一行にしてもまるで意味不明&主観極まるグダグダじゃないですか? 「ガムシャラに頑張ってる健気な自分」「コント一途。ネタで勝負」をアピールする人たちをイメージされても困る。
「何事にも冷めてしまって本気になれないんだよねおいら」という態度を見せてさえいればごまかしが通用することに不満なだけ。
本気で取り組んでも駄目なんだろうけど、他人にケチつけてまでカッコつけんなよと言いたいわけだ。
ファンもナルシストだから自らは労せずして他人を斬り捨てるたけしに同調してしまうんだろう。 古めかしいスナックに「今時のなってない若者」客がたまたま入店する場面は「われに撃つ用意あり」にもあったが
店主の応対はまったく異なるものだった。
若松作品には「敢えて抵抗しないのが真の実力者。牙は本当の闘いの為に温存しとくのが我ら」
と言わんばかりの自虐的ナルシシズムを感じるし
たけし作品には願望充足的な幼稚さと、特定の時代を描くことに対する曖昧な態度を感じる。
軍団メインでは一般客からナメられると思って起用を控えるようになったのかもしれないが
ブラザーやアウトレイジも軍団メインのキャストであれば多少は救えたかも。
ただ、「ホントはコワいんだぞ俺らナメんなよ!」みたいな感じ(特に枝豆あたり勘違いしそう)になっても困るけど。
おいら海外で役と混同され本気で怖がられる と嬉しそうに何時も逝ってるよなあ。
昔、歌舞伎町で「殴られ屋」見てたら横にルチャドールらしきチビ筋肉数人も見物していた。
で 殴られ屋が「貴方も1000円で殴りませんかあ〜」とルチャ連中に声掛けたら
突然数人が体震わせて激怒しだした。舐められたと思ったのだろう。
こういう齟齬はどうしようもないネ。 どうしようもない事象なら無視するしかなかろうね。
それと書くスレを間違えてるようですが? むかしテレビ番組でアメリカ行ったときビビって車の中から出てこれなかった奴に
ファッキンジャップぐらいわかるよ
なんて吼えられたくはない。
FRIDAY事件のとき一人で12人ノックアウトしたとか、後になってから言い出すのが恥ずかしい。 たけしが仮にワルだったとしても、口先や愛嬌や狡猾さで乗りきる「勝てば官軍」タイプのはずだったのに
いつの間にか昔気質の不良で喧嘩の実力もあるみたいな事になってる。
歳をとるごとに過去のワル自慢がエスカレートしていく。
タケちゃんいい加減にしないと笑われるよと指摘してくれる親しい人間はいないのだろうか? 俺若い頃 「ちゃんと人の目を見て話しなさい」 と何度か言われたが
よく考えたら昔の武は何時も相手の顔を見ずまくし立ててて
無意識にその影響受けてたんだよな・・・ バカにしたり批判したりした当人を目の前にした場合と
高田相手にまくしたててる時のテンションがまるで違う。
チンカスでしかない山本益博にもそれを指摘されてた。
福田和也なんかのやり口がそれに近いが、たけしの挙動には虚実曖昧なリアリティがあった。正しいかどうかはともかく、小林よしのりみたくならずに済むだけの何かはあったわけだ。 エドワード・ヤンを観て嫉妬する程度のセンスがあればここから先へ展開できたかもしれないが無理な話だった。 真顔でレイプしてるたけしの表情が微笑ましい。
昔たけしが嘆いてた
「映画においらが出てくるだけでお客が笑うんだ」
という意味ではなしに笑える。被写体としてのたけしからそういう魅力が失われたのはいつ頃からなのだろう。 仏TVインタビューで
「戦メリで筋無関係に俺が出る度に笑う客が多く
映画では今後何とかしないといけないと痛感した」
つまり既にその当時から映画製作を睨んでいた、と言うこったな。 自分が加害者の場合は「あれはギャグなの!!洒落がわからないんだから。」で片づけ
自分が被害者となった場合は、かすり傷程度のことでも常識ふりかざして喚き散らす。
愛人を付け回されたってんで集団で暴力行為
自分は他人の悪口ばっか言ってる癖にさ
体質的には根っからの893
ハシシタも同類だな どちらかと言ったらいじめられっ子の資質が強い人物が打算となりゆきでいじめっ子側の代表になり、戸惑いながらも嬉々として特権を行使してるかのような風情を醸し出していた。
バトルロワイヤルの頃にはとっくにそういう雰囲気はなくなっていたが、本来なら昔のたけしにこそふさわしい役柄だ。
「知識ではなく感覚で撮ってる」なんて言葉はいかにもアホ臭いが、そういう戯言を許しても良いと思える佳作。 憂鬱な楽園のカラオケシーンはこの作品に影響されてるのかな? まあ、この映画・・というより初期三部作の影響を受けた映画人は多いだろうとは思う。
観客としてもこの作品の突出した出鱈目さには狂喜してた。
だからこそ、武がこの作品を否定するようになってしまった事が非常に、ひっじょーーに残念でならない。
大御所になれば誰でもその縛りを受ける訳だけど、残念極まりない。 稚拙さや新鮮味は感じるがデタラメな感じはしない。
公開当時に宝島に掲載された黒沢清(最もポシャってた時期)による作品評には半ば納得させられた(作品の魅力を語り尽くしたとは言えないので「半ば」と保留が付く)。
メチャクチャにもありきたりにもしたくない事に監督の性格が出てる。つまり才能とは性格の事なのだ。
といった事を書いていた。 なるほ。その時期の宝島は読んでた筈だけど記憶に一滴も残ってないな。
出鱈目というのは
例えば舞台がいきなり沖縄の海岸に転換するジャンプカット。
または那覇空港での手荷物検査のシーン。
これが大きいと思う。この時空をとっぱらったかのような編集によって
沖縄自体がなにか別の…おとぎ話のなかに出てくる不思議な場所のように見えてくる。
何が起こってもおかしくないようなね。まあそんな感じ。 ところで沖縄に飛ぶ前の舞台はどこら辺の設定なんだろか。 特定の土地を設定してないことが強みでもあった(しかし限界でもある)。
キッズリターンの時代設定も曖昧だし、風俗的な再現性をはなから求めてない。
ある時代を描こうとした場合、あれこれ課題が出来るわけだが、そこら辺はほったらかしのままになっていた。
コールタールの力道山を見ると、そういう事やらせても結局駄目なんだなぁと思ってしまう。 「監督万歳」自体観てないから何とも言いようが無いんだけど
武は別にドキュメントを撮ろうとしてる訳じゃないでしょ。
誰も武にそんな作品を期待する訳が無いし、例えドキュメンタリー映画にしてもある対象を選んだ時点で監督視点というバイアスからは逃れられない。
限界というより、そも映画てのはある一面を切り取った限定された世界を見せるものでは?
(といっても、この作品の魅力は一点に収まる事を回避しつつ蛇行する演出にあるともいえるのですが)
ちょっと無いものねだりが過ぎるんじゃね?と思うのです。 ドキュメントなんて一言も言ってない。
ただアンチ三丁目の夕陽もしくは「たけしくん、ハイ」的内容を撮っただけではどうしようもないと言ったわけだ。
理屈ではともかく実践では内容至上主義ではなかったはずのたけしが自分の土俵に引きずり込んだ事に甘んじてしまい
「どう撮るか」についてはかなり安易になってしまってる。
意にそわない事をやらせると投げ出してますよと言わんばかりの態度をとるでしょう。
それで「おいらのスタンス」をアピールできたのはヴィータケが貧相な風貌といじけた目つきだった頃であり、そんな手口がいつまでも通ると思うのが甘い。
シリアスなランバダ映画でも撮ってみろ。 「たけし軍団vsレゲエダンサー軍団・円盤大戦争」
「黒い十人のたけし・アフリカ作戦」
「殺人地帯TKS・キョンシー狩り」
「ジェノサイダーたけし・ちびっ子あつまれ海賊船」
「三国同盟たけし」
「和製チキンたけし」
「ワープ土管からミニたけし・次世代への挑戦状」
組長一家を皆殺しにした直後の空白感はすごいね。
この世で最もつまらなそうなSEXシーンと自分の指をつつき回してる渡嘉敷がいい。
いい俳優だね。何にも考えていないらしいけど。 渡嘉敷はたけしの演出意図を理解できないが
親しい渡嘉敷にあんまり無理も言えないし…
という齟齬感があった故にうまくいった。
大杉や寺島なんかは「たけし独特の静かな演出」にかぶれて様式化した無表情に染まってしまうが、渡嘉敷はバカだからそういったことに無縁でいられた。 たけしが撃ち殺される直前、渡嘉敷がヒットマン達と並んでたけしを見ている。
このカットの意味が判らない。
渡嘉ちゃんがたけしを「売った」という事なんだろうか。あ、これかな? >>57
見てるというか捕まって身動き取れないって事じゃないの?
あの場面から渡嘉敷が打たれるシーンまで異様に印象深いんだよな。無音のせいかな? あれはたけしの心象風景じゃないかな。
つまり、たけしは渡嘉敷しら信用していない。
(間違いなく渡嘉敷に裏切られたと確信して死んだだろう)
徹底的に孤独で虚無的。
たけしの最後に相応しいよ。 不穏な空気を撒き散らしていた異種格闘技戦「ビートたけしVSガッツ石松」はたけしの勝利で幕を閉じた。
しかし、あれだけコケにしていたガッツの怒りに怯えて「ガッツさんって本当は頭いいと思うよ」と全てを台無しにする発言をしたたけしはあまりにも気弱だったし
著書でたけしに対する本気の怒りを表明しながら、たけしに比べて遥かに劣る芸人はなわとコラボする道を選んだバカであるガッツの戦いはドローと判断される。 >>58
無音であることでユーレイの幻視のようにも見える。
たけしも渡嘉敷も実はいなかったんじゃないか、みたいな。現実感が無くなるような。
この辺りの畳み込み方は天才的。 この作品のあとアウトレイジ見ると泣けてくるよな。もちろん悪い意味で