[李香蘭]−昭和の女優−[原節子]
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>>28
27は26への応答で、全く別人の投稿です。断言できますよ(笑)
また、23も21への応答でしょう。だれも戦後の映画を全部見た人なんていないでしょうから、
こういう見方に対する反例となるような戦後の日本映画があるのでしたら、そういうのを紹介して頂けると
話が展開すると思いますが、如何でしょうか。 全部見てもいないのに
戦後、彼女の出た日本映画は、結局、「暁の脱走」をこえては視るべきものがないのは一理ある
なんてどうして言えるんだよ
自分の発現に責任を持てよボケ どこに何書く場合もとにかく自己自己自己自己なんだね。 >>32
DVDしか視てないが、あらすじが字幕で出てくるのには苦笑した。
ノーカット版は制作者以外に見た人がどれだけいるんだろうか。
アーカイブで完全版を保存してないとしたら犯罪的だね。もったいない話だ。
戦後まもなくの頃に、よくぞこんな映画を撮ったものだとも思ったが、考え直してみると
敗戦を経験したからこそ、ドストエフスキーの小説を日本映画に翻案できたのかもしれない。 >>35
>敗戦を経験したからこそ
侵略戦争が挫折に終わったから、という事か、つまりは
フロイドのエディプスコンプレックスの話かな? チョモランマ級の馬鹿だな。
エディプスコンプレックスが何の関係があるんだ。 >>38
馬鹿ではなくて白痴といってくれ。
「白」はイノセント。「痴」は病の中に智慧がある。ウマシカとは嘘の三八、王八のことだ。
本当に、ここは烏合の衆だ。
いい年したジジイ同士が馬鹿なことを言っている。
ああ、恥ずかしい・・・・。 ジジイはお前だけ
ジジイのくせに「烏合の衆」の使い方も分からないのか、馬鹿め >>43
よう、そこの烏合、なにか節子について騙って、じゃなくて
語ってみろよ >>44
何だと、この臭鶏蛋!俺はまだ20代だぞ。20代でジジイかよ!
オメエこそが臭いジジイ、いや臭鶏蛋だろう! エディプスコンプェックスとはこれのことだな。
http://www.coara.or.jp/~dost/5-a-6.htm
「白痴」は「羅生門」の次の作品だが、俺は、この映画のおかげで原作の世界が身近になったという経験をした。
つまり、ムイシュキンに森雅之、ナスターシャに原節子、映画の造型を通して、あらためて小説を読み直した
経験がある。随分と前の話だが、それほどこの二人のイメージが強烈だったのだ。 >>47
独り言するのにネタ検索してるのか!
しかも検索して出たサイトの文を全然読んでないな。 宮沢りえ主演で「どぶ」リメイクしろというスレ立てて一人で書き込んでるが、あれも検索して出たネタそのままスレタイにしたんだろ。 黒澤自身、「白痴」にはずいぶんと思い入れがあったと思う。俺も、その後の時代の
通俗的な時代劇なんかよりも「白痴」のほうが好きだね。
ところで、ポーランドの映画監督ワイダが演出して坂東玉三郎が主演した「ナスターシャ」の
舞台か映画を見た奴はいるかなあ。ナスターシャ=ムイシュキン というのは
面白い解釈だと思ったが・・・・ スレッド立てるや否や荒れ始め、いまだに収拾つかず。pu ここはスレ立て人が自分で荒らしている不思議なスレです。pupu >>51
森雅之はどこかで、ムイシュキンは自分の柄ではなかったというようなことを言っていた。
それでも、他に演じることの出来る役者が居なかったらしい。玉三郎よりも、原節子に
二役を演じさせたかったね。どちらも、どこか人間離れした美しさがなければならないからね。
ナスターシャの遺体のそばで、ラゴージン(だったか、三船がやった役)とムイシュキンが夜を明かすシーン、
ムイシュキンに変貌した原節子にやって欲しかったな。
俺は原作に耽溺していたもんで、作品冒頭の森雅之を見て
イメージのギャップに耐えきれず、見るのをやめてしまった。
黒澤映画で唯一見ていない映画
森雅之の他作品をみてハマってしまったもんで、そろそろ見なくては
と思ってはいるが あの映画の森雅之は、見ていて、「なんて巧いんだ」と呆れてしまう。
それが弱点かもしれないね、原節子のほうは、突き抜けているから。 森雅之といえば「我が生涯の輝ける日」のヒロポン中毒(だったか?)のアンチャン役が
決まっていたなあ。あれは良かった。相手役はもともと原節子を予定していたんだろう。
何かの事情で、李香蘭もとい山口淑子に変更されたとか。ところで原節子のキスシーンてのは、
ありえたのかな。(笑) 原節子が演っていたら、巻頭の、父親が暗殺される場面の、
「お嬢様演技」が、もう少し、ピシッと決まっていたかもね。
俺はむしろ、李香蘭のナスターシャが、見てみたかったな。
北海道ではなく、北満を舞台にした、戦前の超大作として。
いや、ちょっと厳しいかな。 アグラーヤのほうがいいかも。 >>60
たしかに、黒沢の「白痴」にはどこか満州、ハルピンあたりの感触があるね。
「雪のカーニバル」なんて、あんなもの日本にあるわけ無いよなあ。
李香蘭は「白痴」よりも「復活」が似つかわしいね。彼女は、終戦直後、舞台で森雅之と一緒に
カチューシャ役をやっている! しっかし、いかんせん新劇じゃ彼女の持ち味はでなかったろう。
ミュージカルにすれば、松井須磨子以上のカチューシャとして李香蘭の当たり役になったろうに。
この点は香港の映画人の方がよく分かっていたと思う。
李香蘭の「一夜風流」の挿入曲は、名曲中の名曲として、今に至るまで
東アジア全域で愛されているよ。
女王様信仰の書き込みばかり。
我が青春〜の学生さん達みたい。
歳は取ってもマザコンは治らないね。 女王様て、どういう意味だ(笑) そんな趣味はないんだけれどね。
そういえば「エリザベス」て映画があったなあ。あれは面白かった。
ああいう「女王役」なら、原節子がぴたりかもしれない。 「雪のカーニバル」なんて日本にあるわきゃないと思っていたが、当時の撮影記録を視ると
実際にさういふものがあったらしい。ただ撮影の時には本物のカーニバルが終わった後だったので、あらためて雪かきを
して撮影したとのこと。ちなみに、映画に出てくる張りぼてを置いたら氷が割れて大変だったらしい。
撮影時には野次馬が5万人も集まって大変だったとあった。 第一回の雪祭りじゃなかったかな。
しかし、やっぱり、北海道というよりは、ハルピンだよなぁ。
だいたい、黒澤という人は、『暴走機関車』の企画にしても、
シナリオの『敵中横断三百里』とか、『消えた中隊』にしても、
意外なほど、満洲にこだわっているところがあるんだよねぇ。
その発展形として、『デルス・ウザーラ』を位置づけるならば、
『白痴』は、北海道で「妥協」したんじゃないか、とも思えるね。 >>65 原來是這様!
もともと北海道自体、日本の植民地だった。大体、「道産子」の喋っている言葉は東北弁じゃあないものなあ。
戦前の日本人の意識から観ると、北海道→樺太→満洲→蒙古 というのは一つながりだったという可能性もあるね。
今、気づいたんだが、義経が蝦夷経由で蒙古に行ってジンギスカンになったという荒唐無稽の話
を前に聴いたことがあるが、かういふ伝説も、さういふ深層意識の所産かもしらん。 >>59
原さんはキスシーンなんかあったら断固拒絶でしょう。並の潔癖ぶりじゃないし。 >>67
山口淑子本人も、当初は、キスシーンには拒絶反応を示していたらしいね。
そんなことを書いた引揚時の記事をどこかで読んだ記憶がある。
ただ、彼女には、映画に出演して稼がなければ、中国から引き揚げてきた父母兄弟姉妹
を養えないと言うせっぱ詰まった事情があった。
自分だっていっぺんは死んだ身だしね、なりふり構わず新しいことに挑戦して、
女優として再出発しなければならなかったんだろう。 今にしておもうと、戦前戦中の時代には、外国映画でもキスシーンはカットしていたとか。
だから、映画でキスシーンを日本の俳優同士がやるということ自体が、
「戦後」を象徴する「事件」だったわけだ。
>>68
原節子の話なんだから別にいいだろが。黙ってろや 隠し砦の三悪人スレで、無理してスレ伸ばししなくていいからと説教されてるね。
昔は粘着病患者だったけど今は無理してスレ伸ばし病患者だな。 >>72
誰の話をしているのかわからん。すくなくも俺は「隠し砦の三悪人」スレなんて
存在すら知らないなあ。 山口淑子のキスシーンは今観てもなかなか迫力があるね。李香蘭というのはもともと女優ではなくて歌手だった。
歌はうまいしエキゾチックな美人だけれど、演技はたどたどしい。が、それもまた良いね、などと言われていたものだった。
ところが「輝ける日」でも「脱走」でも女優としての演技が求められた。歌を聴かせる映画じゃなかったし
李香蘭時代のエキゾチシズムに訴えることも出来ない。だから、いままで日本の女優がだれも満足に出来なかった
キスシーンに女優生命を賭けたような、なにかそういう感じがした。
>>66
うん、そういう意識は、確実に存在したんじゃないかと思う。
敗戦でペシャンコになって、大陸を見なくなった人も多いが。
そういう意味で、黒澤さんは、「戦前派」だったんだと思うね。
もともと活劇の好きな人だから、戦前に監督になっていたら、
広大な大陸を舞台に、「現代活劇」を撮ったんじゃないかな。
そう思うと、黒澤さんにとって、李香蘭という「満洲美人」は、
戦後になっても、大陸の夢のシンボルだったのかもしれない。
戦後の山口淑子は、エキゾチシズムで売ることもできなくて、
と74さんも書いていて、一般には、その通りだと思うんだが、
『暁の脱走』『醜聞』の黒澤さんは、李香蘭の影を追っていた。 >>75
言っとくけど、東北の女性は李香蘭みたいなチビじゃないよ。 >>76
李香蘭は潘家の養女となり、そこのミッションスクールで北京の上流階級の子女
とともに学んだ。日本語を話さない環境で暮らしていたので、そこで身につけた北京語が彼女の言葉。
中国の東北弁=満州語ではないのだね。だから、「熱砂の誓ひ」の役どころが一番
ぴったりだったのではないか。「満州娘」というのは、東宝が、マンチュリアン。ドリーム
に便乗して、新人売りだしのためにでっち上げたイメージで、李香蘭の持ち味とは違っていた。
背が低くても良いわけだ(笑)。
ま、満州というなら、ハルピンのもつ異人的なイメージが彼女に似合ってはいるけれどね。とはほど遠い。
のちに上海に行って、そこで「洋場十里」という蘇州・杭州の文明とヨーロッパの
窓に触れる。さういふ意味では、彼女は中国でも常に「越境していく」存在なのだ。 失礼。マンチュリアン。ドリーム →マンチュリアン・ドリーム
「とはほど遠い」は消し忘れです。 ハルビンは今頃から夏にかけてが一番いいね。空気が澄んで空に雲が流れ、
ポプラの花弁が飛んでいたりする。俺が泊まるような5つ星クラスの
ホテルでは、ドアボーイがロシア人の女の子だったりする。松花江近くの
キタイスカヤ街では、そういった異人の子が普通に歩いている。
私の鶯で、李香蘭が実の父親と知らずにぶつかりそうになる場面の辺りだ。
中国人の子は大体、ポニーテールでジーパンをはいている。貧しいながらも
精一杯のおしゃれなのだが、冬寒いからそうなのでもある。厳寒のさなかに、
昔から氷祭りがある。黒澤「白痴」は観た事はないが雪のカーニバルがあると
すれば、そういったものを参考にしたのかもしれない。 ハルピンというと、夢野久作の「氷の涯」を思い出す。
シベリア出兵の混乱を背景にした、スリラーの傑作。 >>65
七人の侍=関東軍
百姓=中国農民
野武せり=共産匪
志乃=李香蘭
と、いう事か? >>81
まだに牽強付会、根拠無し(笑)だが、若干訂正を要するね。
七人の侍=共産主義のことなど全く知らぬ「共産匪」−じつは馬賊
百姓=満州の原住民 (「中国人」などと言ふ意識は未だない)
野武せり=まさに関東軍
志乃=転向しない「李雪香」−これを「白蘭の歌」で転向した李香蘭に演じさせる 上戸彩のテレビドラマ、裁判の法廷の場面で川喜多が李香蘭に一緒に逃げようと
いうシーンがあったが、あれはおかしいね。ご本人の自伝では、たしか、銃殺刑が決まったと
報道された後の、虹口の収容所での夜の話じゃなかったかな。 >>85
元々、ウソ八百の自伝ですから気にしないように。 ほんたうのことが何であるか、直接に経験したわけではないから、ウソ八百であるとは
僕は言へないのだ。(もつとも直接に経験したものだつて、我々の経験するものは断片に過ぎないのだが)
要するに裁判の席で言ひだすのが唐突であったので、念のために自伝を読んで見たら
こちらはいかにもありさふな話と思つた迄。 李香蘭銃殺刑の報道が出た場合、最悪のケースを予想して逃亡の手筈を整えるくらゐの
ことは用意周到な川喜多ならば為てゐただらうと思ふ。その場合、家族に無断で李香蘭と逃避行
をともにすることとなるだらうが、それも運命と考えたかもしれぬ。つまりさういふときの心理
は理解できるのだね。之に反してテレビドラマで川喜多を演じた役者は、いかにも浅薄な男に
見えたのが残念であつた。 >>88
そうだね。××男爵とかいう俳優だろ、川喜多を演じていたのは。
「さようなら李香蘭」のときの俳優のほうが良かった。 >>88
>逃亡の手筈
上海アンダーランドのボス、張善昆手配で、
小船に乗って東シナ海脱出行なんていい値。
親分、重慶にいたそうだがアリバイづくり w かしこさんの存命中は、川喜多さんとのことは、言わなかったね。 >>90
あの当時の上海の映画人、音楽人というのはしたたかなものだね。
川喜多も李香蘭も逆境を生き延びる知恵を彼らから学んだのかもしれない。 辻久一が、拳銃を外套のポケットに忍ばせて、接収を伝えに回ったら、
誰もが「ま、米はあるし」と言ったのが印象的だった、と書いているね。 李香蘭の上海収容所での堂々と笑ったスナップ写真は有名だが、
あれを見て感服しているおバカが実に多い。ああいうものこそ
無罪放免の段取りや脱出の保障があったことを物語るものだよ。
自伝や日記こそ好きに書けるんで、なにが事実やらわかりませんな。
読み手は想像力を働かせるしかない。 アンチ信者はたぶん信者と紙一重だらう。転向した共産党員が反共の闘士になるが如きもの。
転或いは、転びキリシタンが「踏絵」を案出してキリシタンを迫害したやうなものだらう。
信者とは実にあやふいものよ。 >>97
なんで「だらう」とわざわざ書くの?
相当の年寄りか、カッコ付けているようにしか見えない。 >>101
単に個人の趣味の問題であらう。
歴史的仮名づかひの方が好きだから使つてゐるのであつて他に理由はない。 >>103=Cosmopolitan
>>101=別スレの1
のやふに思はれるのだが。 Cosmopolitanはかなりの変人、アナクロニスト。
歴史的仮名づかひの方が好きだから書いているんだって。 坊ちゃん育ちだが変人でわない。学歴は明治大学卒程度。
年齢は60を少しく超へた頃合。定年退職して間無し。
北京駐在経験有り。中国語は読み書きのみ。
映画など実はあまり観てない。小太り短躯、眼鏡なし。 ○○○爺は、当て推量に立脚せるインチキ情報を撒餌にして、網を張るのが好きであるらしい。
所謂 Cosmopoloitan とは一体、何者なのであらうか? だれか池辺良・山口淑子主演の「白夫人の妖恋」見た人がいましたら、
感想を聞かせてください。 >>110
観たことはあるよ。うじうじ悶々の李香蘭を、
八千草薫がひっぱたく場面だけを覚えている。
映画「支那の夜」の使いまわしの演出ですね。
この女優が戦後は過去の遺産だけで食っていた
ことがよく分かります。 >>111
山口淑子=李香蘭自身には罪はない。
それはむしろ彼女を起用した監督、および彼女の映画を見やうとする觀客が、戦前の
「李香蘭」といふ存在の喚起する独特な表象に囚はれてゐたことを證明するものではなからうか。
彼女が配役のうへで「ひっぱたかれる」ということは何を意味するか。
観客や監督のうちに潜むかかるサディズムといふ暴力性の由来に就いて考えたい。
それは、おそらくは、帰属関係の不明な者、即ち、一般に種的存在、国籍
乃至(蛇でありながら人間に戀をするといふやうな)種族の同一性を解体
するやうな危険性を孕むものに対する密やかな恐怖と、その裏返しの暴力性
を意味してゐると思ふが如何であらうか。 東京暗黒街・竹の家でもひっぱたかれてたよ、ロバートスタックに w
そっちの方は、無理やりの深層心理学でどうやって説明出来るのでせう?
容色も衰え、古いギャグに頼らなければやっていけなくなっていたのさ。
実は俺は暴力性は八千草薫の方に感じている。若山セツ子から谷口千吉を
略奪し、果ては若山を自殺にまで追い込んだ厭な女優だ。可愛い顔だがね。
スレ違いだな ハハハ。 「支那の夜」という曲は戦時中に日本軍の宣撫活動の一環として流されていたし
映画「支那の夜」は、米軍の情報将校達の間では日本語教育の教材として使はれていた
といふ事情があつた。従つて、山口淑子は米軍の兵士達の間でも人気があった。
「竹の家」の監督はこの映画のことはよく知っていたであらう。
ロバートスタックが「ひっぱたく」シーンは、明らかに支那の夜と同じ戦勝国の
男性と敗戦国の女性といふ組み合わせのうへで成り立つのが面白い。
つまり、敗戦国の女といふものは、勝者の國の男にとってエキゾチシズムの魅力を持つ征服されるべき異国の女であり、調
教して我有化すべき對象と化すといふ一般法則があることを示してゐる。
之に反して、敗戦国の男性といふものは去勢化されており、さういふ女に対しては怒りを感じ、
売国奴扱いをすると言へやう。李香蘭が征服者の國の男性にとって魅力的で有ればあるほど
被征服国の男性にとっては我慢のならぬ對象となるのである。
>>112
>サディズムといふ暴力性
李香蘭こそ、マゾで売って来たんじゃないの。
日本人にひっぱたかれる役割を演じて北京飯店での糾弾記者会見で、
当時20歳で何も知りませんでした、バカでした、で難を逃れて、
味を占めて今の今までしたたかに生きている気がする。私は被害者
で〜す、のポーズに惑わされてはいけない。原節子のように、筆を
折った潔い役者(表現者)では決して無い。うつつを抜かしている者
は気付かないだけで、一番莫迦なのかもしれない。 >>114
またこの莫迦は格好つけて「よく知っていたであらう」「さういふ女」などと
書いている。 仕事に於ける文書にもそう書いているのだろうか?
いや、もう定年退職をして、毎日が日曜日で、ここに張り付いているのが
日課となっているようである。 >>116
原節子もまた多くの戦争協力の宣伝映画に出演し、敗戦後は民主主義の啓蒙映画に
出た点で他の多くの映画人とさほど変わりせぬであらう。四方田によれば、原節子にしても、
このような価値観の大転換にさいして、自分が如何なる考へを持っているかを表明したことは
一度もなかつたといふ。それとは対照的に、山口淑子は、戦後の映画人の中では例外的に
戦時中の軍部への協力を自己批判し、日本軍部が危害をくわえた中国や韓国の民衆に謝罪し、
軍に事実上強制的に徴用された慰安婦達への補償問題に取り組まうとした。さういふところは
自己の価値観の変化に対してはっきりとした態度をとっていたことを評価したいといふのが
四方田の意見であった。これは原節子を特に非難してゐるのではなく、その点に関する限り彼女もまた
戦後の他の多くの映画人どもと同じだったといふことだらう。
ところで、「熱砂の誓ひ」を近々フィルムセンターでやるらしいが、あのなかで
李香蘭の演ずるヒロインが、長谷川の演ずる技術者にかわって、見事な中国語で、
民衆の前で一大政治演説をぶつシーンがある。国民党の側からすれば「支那の夜」
の例のシーンが問題であつたらうが、共産党政権からすれば、反共匪賊を民衆に訴えた
こちらのシーンのほうが脅威であつたであらう。政治家になった山口淑子が戦後、
はじめて北京を訪れたとき、中国共産党の関係者から深夜詰問されたのも、有る意味では
当然であったのである。小生は李香蘭を戦争の被害者であるなどと言ったことはない。これは
浅利慶太のインチキ・ミュージカルが生み出した幻想にほかならぬのである。 >>117
>毎日が日曜日で、ここに張り付いているのが日課となっているようである。
とは、書き手の事。これこそ横浜加齢臭爺さんですからね、念の為。
県立二俣川工業高校卒。日産自動車神奈川工場勤務のあと年金生活。
77歳。企業年金分をPCに充てているが下手。あちこちで苦情が。 >>120
○○○爺=cosmopolitanらしい。 CATVの黒澤明特集のひとつとして6月は三船敏郎、山口淑子共演の「戦国無頼」も
何回か放送される。この作品は監督が稲垣浩で、黒澤は脚本に加わってゐただけだが、戦7年目に
公開されたこの映画は、生き延びた敗軍の兵士を描いてゐ点で、戦後を感じさせる映画の
一つでもある。
「戦国無頼」の山口淑子は、山賊(海賊だったか?)かなにかの娘役で登場するが、
なかなか魅力的であつた。伝法な物言いをする男勝りの勝ち気な美女というのが、どうも
戦後の彼女の役どころであつたらしい。のちに「竹の家」で彼女を起用したアメリカの
映画監督は、アメリカ兵士の戦争花嫁の役で、物静かな日本女性を演じたシャーリー・山口 と、この戦国無頼の「おりょう(だったか?)」役の彼女が、同じ女優であるとは思わなかったらしい。
おりょう役の女優にエキゾチシズムを感じた彼は、ただちにシャーリー・山口を「竹の家」の
ヒロインにすることを決めたと言ふ。
監督を務めた稲垣は稲垣で、かつての李香蘭が日本の時代劇などに出すのはもったいない
気がして、このあとで、中国を舞台とする「上海の女」を撮影して、李香蘭のリサイタルとも
いうべき音楽映画を撮ることとなる。
かういふさまざまな事情を知ってこの映画を見るのも一興であらう。
かういふさまざまな事情を知ってこの映画を見るのも一興であらう。
と書くなら、漢字も旧字体で書け!統一しろ!このいい振りこき! >>124
小生は、WEB掲示板は、他者の自由を尊重する場所であることを希望する。
小生は歴史的仮名づかひが好きだから使つてゐるが、之を他者に押しつける気など毛頭無い。
124君にも、僕の自由を認めるだけの寛容さを持って欲しいものだ。
ところで、僕が歴史的仮名遣ひに魅力を感じる理由には、まさに歴史的な理由があるのかもしれない。
そもそも現代仮名遣ひ、当用漢字といふものは、マッカーサーの指導のもとに
に行われた日本の戦後の教育体制の一側面なのであった。それには、「簡便さ」という
側面もあったから普及したが、そのために、戦後の世代は、日本の古典からも、
明治から昭和初めにかけての先人達の著作からも遠ざかってしまった。
これは悪しき反面である。
中国語では、文化と伝統を軽んじた共産党政権の画一化政策で簡体字が普及した。
しかし、現実には繁体字と簡体字を併用してゐる。繁体字が読めなければ、中国人は
自国の古典から遠ざかってしまうからである。
どんなに便利に見えるシステムであつても、全員に画一的に強制すべきではない。
効用だけで計れぬ所に、また多様性と他者の自由を尊重するところに文化といふものがあるのだから。 >>126
齋藤さん、cosmopolitan氏は中国語が解せませんよ。 >>127
我不是叫齋藤的白痴人。
cosmo先生能了解中文。 >>126
漢詩など、古來日本人は
|軽|兩|千|朝|
|舟|岸|里|辭|
|已|猿|江|白|
|過|聲|陵|帝|
|萬|啼|一|彩|
|重|不|日|雲|
|山|盡|還|間|
の如く書いてきたのである。小生もこの書き方に親しみを覚えるが、如何せん
ワープロもWEBも「米帝国主義」(笑)の支配下にある故に、右側から書くことが
技術的に難しい。
ついでに言へば、簡体字で漢詩を表記する現代中国流のやりかたでは、
,。? などの句読点や疑問符などを使って左より右へ横書きするスタイルが支配的であるが、小生は、
あれにも違和感を覚えるものである。とくに「?」などの記号を漢詩には使って欲しくないものである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています