>>394
「流れる」は互角くらいかと。

1956年当時、観客吸引力があったのは、高峰秀子と岡田茉莉子だが、田中絹代、山田五十鈴、杉村春子がならぶ顔ぶれは
豪華きわまる。その迫力は、中盤、栗島すみ子の登場にいたって、日本女優史の観を呈する。
「流れる」は、スター勢揃い映画の側面もあるのだ。
だが、映画の印象は、あくまでも地味である。
これだけの女優をそろえて、座敷にならべ、「細雪」もどきを見せようなどという気持はさらさらなく、彼女たちは大川
のゴミのようにぶつかり合い、すれ違ってゆく。〈小林信彦〉

成瀬と市川では映画に対する志がまるで違っている。

1983年当時、岸恵子や佐久間良子、吉永小百合にどれほどの観客吸引力があったかどうか、古手川裕子にしても若いだけで
“映画女優”と呼べるような存在には、もはや既になり得ない時代だった。