>>31
おれも「人生劇場」は見たことある。その中で吉良常(田宮二郎)、
飛車角(高橋英樹)、宮川(渡哲也)の三人で斬り込みにいく場面が
あるんだけど、やはり田宮、高橋と並んでも断然渡の存在感が突出
してんだよね。
演技の器用さという点から見れば一番劣る渡が、しかしスクリーンから
放たれてくるオーラというか、存在感の輝度とか陰影の濃さとかでは
田宮や高橋を圧倒している。
やっぱりスターというのはこういうのを言うんだなと、おれなんかも
あの映画を見たときつくづく思ったな。

それだけに健さんと組ませたかったんだよねえ。おれはスターとしての
器ってことで言えば、健さんと渡こそが日本映画史上最高の二人、日本
映画界最高のツートップだと勝手に思ってる。渡は不運も重なって、
健さんほどに映画界の頂点に登り詰めたとまでは言えないんだろうけど、
器の大きさてことなら健さんと比較してもひけは取らないんじゃないかと
思う。
しかし不思議だよね〜。スターとして、俳優として最高の器と思わせる
二人が、共に演技者としては最も不器用な部類に属すというのは。
いや、そうでもないのかな。むしろ演技者としては「欠落者」の自覚こそが
健さんや渡に「命を賭け」ての俳優人生へと向かわせ、それが小手先の
演技力などといったものを超越した表現を二人に与えたのかもしれない。
実際渡の俳優人生はまさに命がけだったし(おれは渡の度重なる病気は
自分で自分を追い込み過ぎたがために誘発したものだと思ってる)、
健さんの俳優人生とは「俳優・高倉健」のために健さん自身の生身の
人生をある意味断念した上に成立したものだと思ってる。