>>291
いま手許に出典が無いが、笠原和夫は初めは「仁義なき戦いの監督は工藤栄一
がいいだろう」と考えてたんじゃなかったっけ? 実際、『任侠映画伝』によると
監督が深作欣二になったのは俊藤浩滋の決断で周囲はその気では無かったようだが。
結局は「その後」で工藤が撮る事になったので、工藤の「自分ならこう撮る(ああは
撮らない)」という自負もあったのかもしれない。

>>290
実際、賞は取れなかったけどね。日本のプロデューサーたちはいまだに「サムライ」
というだけで海外で受けると思ってるんだから、どうしようもない。